続・黒い霧《再会》




 カ−スの首都ナム−ル。

 中心街から遠く離れたうらぶれた裏通りを、一人の異装のものが歩いていた。

 異装……

 そうとも言い切れぬ。

 その通り自体が多分に怪しく、歩いているもの全てが異装と言ってもよかった。不の不は正であるのと同様、その者の装いは何の違和感も無く通りに溶け込んでいた。

 人通りは多いが、道の両側に店舗の並ぶ一角としては、驚くほどの人出でもない。それだけの人がいてまるで活気というものを感じない通りであった。呼び込む人の声も無い。商談を交わす店の亭主と客は、どこも一様に顔を寄せ、ぼそぼそとささやくような声で言葉を交わしている。商品を手にとって選ぶ客を、店の主が睨むように胡散臭そうに見ている店がある。商品にたかるハエを追うでもなく、店番の老婆がほうけたように口を開け宙を見ている店もある。店の商品を持って逃げた少年にいきなり半弓を射掛け、足を貫かれて呻く少年を踏みつけ、何事も無かったように商品を拾い店に戻る亭主もいる。

 売っている商品群もどこか怪しく、魔道王国と呼ばれたカ−スの一面を顕著に現していた。

 なにやらともわからぬ干した薬草、昆虫の類。硫黄やマンガン、水晶等の鉱石。生きた動物、人間の骨、亀の甲、なにやらわからぬ粉、溶液、異臭を放つ塊、中には何かの生き物の排泄物そのものといったところまで、その幅の広さと異様さには、見るものを何かわからぬ感慨に陥れずにはいかぬ力があることは確かであった。

 どろりと、死人のような目をした店主と客たちが群れ集うその通りを、彼女は興味もなさそうに顔を伏せて真っ直ぐに歩いていた。

 身長が高かった。総じて小柄なカ−スの人々は彼女の肩までもない。マントについたフ−ドを深くかぶり、背中に長大な剣を背負った彼女の正面から来たものは、しかし彼女には何の興味も関心も寄せなかった。まるで巨大な岩に裂かれる谷川の水のごとく、自然に左右によけて通る。

 彼女の脚で駆ければほんの数瞬で通り抜けれそうなその通りを、彼女はゆっくりと歩き切り、目的の店の前へと立った。看板を見上げて間違いないことを確かめる。

 カンッ、カンッと、この通りの中でそこだけが生きてでもいるかのように、中から激しい金属の音が聞こえていた。

 扉を押して入る。

 フ−ドの隙間から、むっとするような熱気が押し寄せてきた。

 しばらく佇んでいると、不意の闖入者に気付いて、店の主らしい肥えた禿げ頭の男が焼けた鉄を叩いていた槌を止めた。その気配に気付いて、向こうで槌を振るっていた弟子らしい二人も手を止めて彼女を見た。ここは鍛冶屋の店であった。

 彼女は歩みを進めると、真っ直ぐに亭主らしい男に向かった。

 彼は焼けた鉄を炉に戻し、わずかに槌を握りなおした。ほとんど気配させさせずに、弟子の手が壁に立てかけられた剣と槍に伸びた。

 彼女は店主の前に立つと、高みから彼を見下ろした。店主も何も言わずにじっとフ−ドの中に見えぬ顔を見上げて睨んだ。

 彼女の手がマントの中で動いた。弟子が、もう隠そうともせず剣と槍を彼女に向けて構えた。

 マントの隙間から現れた大きな手には、金属のメダルのようなものが握られていた。銀色の鈍い光を放つそれを眉をひそめて手にとった亭主は、じっとそれを見つめ、裏返し、また表にしてはしげしげと眺めた。

 だいぶ経って、やっと満足したかのように彼はそれを元の手に返した。すぐに手は引っ込んだ。

 今にも食いつきそうだった顔を苦虫を噛み潰した程度に緩め、亭主は奥の壁に向かって顎をしゃくった。弟子の二人がほっとしたように剣と槍を壁に戻し、槌をとった。亭主ももうどうでもいいように、再び鉄を炉から出し、軽やかな音を立て始めた。

 彼女は礼を述べるでもなく、当然のように壁に向かって歩んでいった。

 この間一言の会話もなかった。

 彼女は壁の前に立った。何の変哲の無い木の板を打ち付けた粗末なものであった。

 大きな手でそっと押すと簡単に回転した。カンッ、カンッと槌を振るう背中から注がれる視線を自分も背中で受け止めながら、すぐに彼女の姿が壁の中に吸い込まれた。

 ぎいっと粗末な階段が悲鳴をあげた。

 土を塗っただけの粗末な階段室が、地下へ向けて続いていた。明かりは無いが、地の底からろうそくらしいオレンジ色の光が湧き出し、わずかに辺りを照らしていた。

 ほとんど腐りかけたような階段を彼女はゆっくりと一歩ずつ下った。

 ぎいっ、ぎいっと彼女の体重を支えながら、粗末な板を打ち付けただけの階段が泣き声のような音を立てた。

 わずかに下っただけですぐに目的の場所にたどりついた。

 粗末な部屋であった。赤土の壁を塗っただけの部屋に粗末なテ−ブルがひとつ。しかし、壁を覆うような本棚の中には、数多の書籍と数知れぬ瓶が並び、そこにいるものの性質をうかがわせた。

 彼女はテ−ブルの前に立った。

 テ−ブルの向こうには一人の男が腰掛けていた。

 老人であった。ごま塩の無精ひげが生えた白い顔に、歳のわりに豊かな白髪。小さなやせこけた体に、白い薄汚れてはいるが清潔な服をまとい、眼鏡をかけているのに更に拡大鏡を使って、テ−ブルの上に置いたった一本のろうそくの明かりを頼りに、無心に書物をのぞきこんでいた。

「誰じゃ」

 顔も上げずに彼は言った。害意のあるものがここに来れるはずが無いと確信した声であった。だからと言って歓迎する響きがその中に含まれているというわけでもない。

 不意の来訪者はフ−ドをはずした。

「わたしだ。アレクサだ」

 ほうっと、男が感嘆に似た驚きの声をもらして、本を見おろした姿勢のまま、首を伸ばすようにして彼女を見上げた。

 目の前に、浅黒い若々しい顔があり、じっと無表情に彼を見下ろしていた。

 少し細長い顔をしていた。柳の葉のような切れ長の一重の目、鼻筋は通って長く、唇も薄く横に大きかった。長い真っ直ぐな黒髪を、首の後ろで無造作に束ねていた。

 かつてシルヴィアは彼女のことを美しく育ったと褒めた。

 美しい?

 とてもそうは思えなかった。細いしなやかな体に、頭も、耳も、目も鼻も口も、すべてが細く長かった。世の男どもがいう“美しい”とは少し違う顔であった。しかし五人の男に見せればそのうちの一人は必ず美しいと声に出して叫ぶような、そんな不思議な魅力があった。

「ほうっ、生きておったか。ほっほっ、どうじゃわしの言うたとおりとなったであろう。三年前わしに払った金、高くは無かったであろうが?」

 どさっと、アレクサはテ−ブルの上に重そうな皮袋を放った。口紐が解けて、テ−ブルの上にさらさらと黄金色の輝きがこぼれた。

「あの薬、あるだけ欲しい」

 老人は強欲そうにちらっと皮袋を見た。一瞬で値踏みは終わり、彼の顔に人のよさそうな笑みが浮かんだ。

「よしよし、ちょっと待っておれ」

 椅子から立ち上がった彼は、背後の棚に手を伸ばすと、小さな瓶を手に取った。わざと大仰に両手で持つと、とんっとアレクサの前に置いた。にやっと笑うと、アレクサを見上げる。

「これじゃ。早く仲間たちを助けてやるがよい」

 老人の名をイ−ファンと言った。

 かつてはオダインと並び称され、カ−ス王国当代最高の魔道師とまで呼ばれた。しかし、禁断の実験を行ったことにより、今は国からも、魔道師ギルドからも追われる身であった。先代の王の治世からであるからもう十年以上になる。生死を問わずの賞金がかかっていた。本来なら既に遠くの国へ落ち延びていてもおかしくない立場であるのに、隠れてではあるが、平然と首都ナム−ルの一角に居座っているところに、この男、只者ではないことがうかがわれた。

 三年前……とイ−ファンは言った。それは、アレクサが修行の旅に出ていた時期と丁度一致する。しかし、三年前といえばアレクサはまだ十四歳。ほんの幼い少女に過ぎない彼女が、どのようにしてこのようないかがわしい魔道師とつきあうようになったかは知らぬ。しかし、交わす言葉の微妙な機微を感ずるならばこの二人、一通りのつきあいとは見えなかった。

 アレクサは瓶を手にとって眺めた。中にはぎっしりと濃緑色の小さな丸薬が詰まっていた。

「この薬、既に香を吸った者にも効くのか?」

「もちろんじゃ。飲ませれば魔香の呪縛は解かれ元に戻る。しかし吸ってから日が経っておるなら、少し多めに与えねばならぬ」

「これでは足らぬ」

「贅沢を言うでない」

 イ−ファンは椅子に座ると、砂金の袋を手に引き寄せ、厳重に足元の箱の中にしまいこんだ。

「望むならば作ってやらぬこともないが、これ以上は別料金じゃ」

 どさっと、先ほどと同じくらいの大きさの袋が二つ投げ落とされ、テ−ブルの足がギシギシといやな音をさせて耐えた。

 ほうほうと、イ−ファンは抱きかかえるようにして、砂金の袋を手元に引き寄せた。

「さすがマルバ族、金持ちじゃ。よしよし、すぐに作ってやろう。わしもこれで当分女を抱く金に困らぬというものじゃ」

「屑め」

 声音も変えずに、アレクサが吐き捨てるように言った。

 にやにやと好色そうな笑いを浮かべていたイ−ファンは、いかにも心外だという表情を作った。

「何をいう。戦乱や事故で夫を失い一人で子を育てることに疲れた女子たちに、しばしの法悦の時と金を与えてやるのじゃ。功徳じゃ、功徳」

 イ−ファンは夜遅くに悪所に通い、いつも、その日の客にあぶれた年増や醜女を好んで抱いた。ゆえに今述べた言葉、あながち方便と切り捨てるわけにもゆかぬ。

「もっと早くここを訪れると思っておったのに、案外と遅かったの」

「アンデルアから一度国に戻り、一族の者を散らせた」

 三年前、イ−ファンの口より魔香の存在を知った。シバの女王が築きかけた大帝国がそのために簡単に滅びたと聞いても信じられなかった。ロマリアとの戦端を開けばカ−スが必ず魔香を使う、この薬を飲めば狂わずに済む、と執拗に迫るイ−ファンに負けて、法外な値段で一握りも無い怪しげな丸薬を買った時も半信半疑であった。ピルナ−グの攻略に向かうとき、ふと皮袋の底に眠っていた丸薬の包みを思い出し、付き従っていたマルバ族の者に勧め、自らも口にしたのは、予感以上の何かがあったせいかもしれない。

 魔香に狂い酔いしれる自軍の兵たちを見たとき、修羅場を潜り抜けてきた仲間のマルバ族さえ恐慌に陥った。だが、アレクサはすぐに故郷に残してきた仲間を思った。目の前に広がる性の饗宴に重ね、一族の者全てが魔香に狂い泣き叫びながら男を求める姿を想像することは、彼女をして吐き気を催させるに足りた。

 アンデルア軍も乱れていた。おそらく彼女たちだけでその全てを虐殺することも、可能であったかもしれない。しかし、あえて危険を冒してまでそうはしなかった。彼女らはその場を去ることを選んだ。

 配下の者を三つに分けた。

 アンデルア奥深くに進入しているアマゾネア軍は三つ。自分の軍は滅びつつあった。あと二つ、オリヴィア将軍、シルヴィア王女の軍にこのことを伝え、早急に対処させなければ、アンデルアのアマゾネア軍全てが崩壊する。どの軍にもマルバ族が従軍しているはずであった。

 主を失い、異様な気配にいななきながら走り回る馬を捕まえ、それぞれに少しずつ丸薬を持たせて部下を向かわせた。自分は一隊を率いてアマゾネアの部族の集落に急いだ。この時点でナナセのオリヴィア軍は崩壊していた。もし、もう一隊が馬が脚を折った者を捨て置き、残りの者が全力で馬を走らせておれば、ムハンドのシルヴィアたちを助けられていたやもしれぬとは想像だにしていなかった。

 息を切らせて村についたとき、母サンザはそのようなことがあるかとあざ笑った。

 村はマルバ族の城だ、決して捨てぬ。退去させたくばお前がその城を落としてみよ、と大刀を抜いた。

 数合打ち合っただけで、その刀を叩き落した。年老いた母など、既に敵ではなかった。

 信じられぬという表情でしびれた右手を押さえたサンザは、すぐにニヤッと笑うと、周りを取り囲んでいた一族のものに、退ぬ、村を打ち壊せ!と叫んだ。そんな暇も惜しいというアレクサに、マルバ族は城を敵には渡さぬ、と笑いながら譲らなかった。

 丸薬を勧めても、まずは若い者に飲ませよと受け取らなかった。もう一度この心を欲情の炎に染めることが出来るなら染めてみたいわ、と冗談を言った後で、もしもの場合の身の処し方など心得ている、とまた笑った。

 年寄りと子供は隠れ里に隠した。一部の長老とサンザしか知らない、蓄えた黄金の隠し場所でもあった。若い者は仲間を求めて旅に出させた。一族の者を見つけたら、できるだけ早く、遅くとも四月後までにアルバ−ナのカルテナに集まれと指示した。多くの傭兵が集まる商業都市であった。職を求めて、よくマルバ族もそこに立ち寄った。いくつかの隠れ家も用意してあった。

 丸薬の絶対数が足らなかった。それまでに調達して必ずカルテナに行くと四月後を約したが、アマゾネアに向かうアンデルア軍やロマリア軍を避けながらの旅に普通より長く日を取ってしまった上に、最後に会ってから何度も隠れ家を移していたイ−ファンを探すためにあちこちを訪ねて回り、既に二月以上がたっていた。ナム−ルからカルテナまで半月はかかる。既に続々と集まりつつあるだろう一族の者に、少しでも早く丸薬を届けてやりたかった。

「明日…明後日には出来よう。またおいで」

「今日は女を抱くな、徹夜で作れ」

「わかっておるわい、偉そうに」

 イ−ファンは口を尖らせた。青い綺麗な瞳がすねたような色を帯び、そうすると何か子供のような表情になる。どこか垢抜けぬ上品な田舎親父のようで、かつての偉業を知る者を震え上がらせるだけの力の持ち主とは到底思えぬ。国やギルドに追われていること以外は全て自称のため、アレクサも言葉半分に聞くことにしていた。時に饒舌になるその言葉には、眉に唾をつけたくなるようなものが多分に含まれていた。

「だが、なぜこのようなものがあるのだ。あの香は王家の秘薬ではないのか?」

 アレクサの問いに、イ−ファンはニヤッと得意げな笑顔になった。彼女に何故?と発させたことがうれしかったのだ。したり顔でため口をきくアレクサが、自分に教えを請うている。

「なあに、魔道師というやつは案外と臆病での。なにか新しい術や薬を発明した時は、それを世に出す前に必ずそれに対抗する手段を作っておくものなのじゃ。その力が自分に向かった時のためにな。王家の秘薬とて例外ではない。魔香自体は厳重にその秘密が守られているが、丸薬の処方は案外と簡単に手に入ったわい。むろん、オダインも知っておるはずじゃ。魔香だって、わしも少しはもっておるぞ。その製法も、あと三十年もあれば、必ず解き明かしてみせる」

 この老人、あとそれだけ生きるつもりでいるのであろうか?

「オダインとは何者だ?」

「おお、言うておらんかったかな?」

「知らぬ」

「オダインはな、まあ今度のことの全ての元凶よ」

 アレクサの目がわずかに光ったように見えた。

「奴は、この国最強の、つまりは世界最高の魔道師よ。アマゾネアのアンデルア侵攻を受け、魔香を使った助勢をロマリアに持ちかけるよう、いち早く王に進言したのも奴じゃ。その結果、アマゾネアの国はほとんど戦うことも無く滅びた」

「アマゾネアは滅びん」

 アレクサの言葉ではあったが、現在のアマゾネア王国は既にロマリア領アマゾネアである。他の国々では早くもアマゾネア領と呼び、アマゾネア王国の呼び名を使うものは小数になりつつあった。

「おお、そういえばオダインで思い出した。先日、と言ってももう一月近く前になるが、この先の丘の上、オダインの屋敷に夜間密かに、馬車で大きな荷物が運ばれた。五つじゃ。中身は何だと思う?」

「知らぬ」

 イ−ファンの目が細まり、口元に怪しげな笑いが浮かんだ。

「側には、何故か護衛のマルバ族がついておったそうな。どうじゃ続きを聞きたくはないか?」

「…………」

 単に間を持たせてアレクサをからかい楽しんでいるのでないこと明らかであった。その目が強欲そうにじっとアレクサを見つめ、せわしげに手を開いたり閉じたりした。

 アレクサはフ−ドをかぶりなおし、背を向けて階段に向かった。

「明後日また来る。それまでに作っておけ」

 これにはイ−ファンの方が少し慌てて椅子から立ち上がった。

「あ、待て待て……わかったわい……ちと惜しいが、情報料は負けてやる」

 アレクサは立ち止まった。立ち止まっただけであった。振り返ることも、フ−ドをとることもしない。

 その態度に、イ−ファンは物足りなさを感じ、少し不服そうな顔をした。

「どうした、早く言え」

 何の押韻も無い声が、さらにイ−ファンの顔をしかめさせた。

 だが次の言葉を聞いたとたん、アレクサは部屋に入って初めて驚いたような声を出して振り返った。

「死んだのではなかったのか?」

「だがちゃんと生きておる。間違いない、イザベラ女王とその王女たちじゃ」

 先に荷物と言った限りは、箱か何かに入れられていたはずである。このようなところに隠れ住みながらこの男、どのような情報網を持っているのであろう。確かに上階の鍛冶屋とて、只者ではなかった。

 じっと、うつむいたアレクサは立ちすくんだ。

 ストンと椅子に体を落とし、イ−ファンもアレクサを見ながら何も言わなかった。

 ややあって、アレクサが顔を上げた。

「そのオダインとは、いったいどんな男だ」

「歳はわしより少し上で、人のよさそうな顔をしてはおるが野心家よ。言っておくが先のアマゾネア戦役、序章の始まりにすぎぬ。この大干ばつを待っておったのは、おぬしたちの女王だけではなかったということよ」

 あれだけの犠牲を払いながら、イ−ファンはまだ始まっていなかったとすらいう。

「何を企んでおるのだ、その男」

「知りたくば、国に戻ってみよ。すべてはそこから始まる、いや、既に始まっておる。言っておくが、今更わしが必死で二千や三千の丸薬を作ってやったところで、既に手遅れじゃろうて」

 イ−ファンはテ−ブルの上に投げ出した手を組んだ。そして厳しい顔をしてじっとアレクサを見上げた。

「奴はな、別にロマリアを助けたかったわけではない。アマゾネアのおかげでロマリアが弱体化することは奴にとっても好都合だったのじゃ。だが、それ以上に奴は魔香が欲しかった。奴にもまだ魔香は作れぬ。人非人の薬よ。温厚な我らが王は作ることを渋ったが、保護国ロマリアを救うためと言われては仕方がないと納得した。戦役で使った後も、残った分と称してわずかばかりを王に返し、オダインはかなりの量を手元に隠し持っておった。それを今アマゾネアで使っておる」

「…………」

「王立魔道士団など今では張子の虎に過ぎぬ。恐るべきは魔道師ギルド、オダインはそこの影の長よ。魔道師ギルドの多くの魔道師がアマゾネアに行っておる。おそらくは魔香で狂わせた女子どもに精を注いで奴隷と化すためじゃろう。どれほどの女が狂わされたかは、わしにもわからんが、おそらく千や二千では効かぬはずじゃ」

「いったいその男、何がしたいのじゃ?アマゾネアの乗っ取りか?」

「そんな小さなことではないわ。おそらくは……中原の制覇」

「……!」

 言ったイ−ファン自身が、緊張したかのようにごくっと唾を飲み込んだ。

 アレクサはフ−ドの中からじっとイ−ファンを見つめながら、ゆっくりとテ−ブルに歩み寄った。

「世界の王になる、か。いい年をして枯れぬじじいだ」

「そうではない、奴は子供のころ無いはずの命を先々代の王に救われた。王家に絶対の忠誠を誓っておる。世界の王になる気などさらさらない。先代も現在の王もオダインに師の礼を取っておる。師は師父ともいう。オダインにとって現カ−ス王はかわいい孫のようなものじゃ。その王を中原の覇者にしたいのじゃよ。だが、王にはそのような野心はない。温厚で血を見ることがきらいな方じゃ。今回のことは王の知らぬこと、オダインは一人汚れ役を着ておるのよ。立派なものだ。世の貴族どもを見てみよ。我が君を盛り立てようともせず、扶持を受けながらのうのうと遊び暮らしておる。オダインこそがまさに忠臣と呼ぶにふさわしいわい」

「奴を褒めるのか」

「やり方ではない、心構えのことよ。奴が今やっていることはまさに鬼畜の業に他ならぬ」

 しばらく額に手を当てて考え込んだ後、アレクサは急に机の上に丸薬の瓶を置くと、イ−ファンが読んでいた本の一ペ−ジを破りとった。何をするんじゃい!と怒鳴るイ−ファンを無視し、瓶のふたを開け、ざらざらとこぼして半握りほどをその中に包み込んだ。

「しばらくこの薬預かっていてくれ。これから作る分もあわせてまた取りに来る」

「ほう……」

 今の狼藉も忘れたかのように、イ−ファンが目と口を開いた。

「女王を助けに行く気か」

「負け戦の責任を取らせるまでよ」

「どちらでもよい。まあせいぜい気をつけるがよいわ。一つ忠告するならば、知った顔を見ても、もう仲間と思うなということよ。この国にいるかぎり、おそらくは奴の奴隷じゃよ」

「魔香の力は見た。しかし精を注がれて心を支配されるなど、まだ信じられぬ。人の心とはそのように弱いものではない」

「ならばそれを信じたまま殺されるがよいわ。言っておくが忠誠心といった生易しいものではないぞ。狂おしいまでの精神の呪縛よ。外見も人格もそのままに、その一点において、既に別の生き物と思うてもよいわえ」

「ここに来る道中、一人斬った」

 ほうっと、イ−ファンが感嘆の声をあげた。

「斬ったか。連れてきて丸薬を飲ませればよかったものを、相変わらず容赦がないのう」

「剣を抜かずば死ななかった」

「殺さなかった、の間違いであろう。よしよし、そこまでの覚悟が出来ておるなら大丈夫じゃ。しかし、オダインの屋敷に入ったら注意せい。どのような仕掛けがあるやもしれぬ。魔道師の家というのは常人には想像もつかぬ仕掛けがある。その中では、全てのものがこの世の物理の法則どおりとは限らんからな。ましてや相手はオダインじゃ。しばらくは様子を伺い、十分に準備をすることじゃ」

「この部屋にも仕掛けがあるのか?」

「もちろん、お前さんには想像もつかんようなすごいのがな」

 ニヤニヤ笑うイ−ファンに、アレクサはフ−ドの中からわずかに部屋の中を見回した。何の変哲もない粗末な狭い地下室であった。どうじゃ?と問いたげに、イーファンの相好がさらに緩んだ。

「あと一つ言うておくがな、魔香の呪縛から解放してやることが必ずしも救いになるとは限らんことを覚えておけ」

「何故だ」

「元に戻っても、魔香の力により男の下僕と化しておった間の記憶は残る。貞節なものが狂ったように男と交わった記憶を残したまま正気に戻ればどうなるかの。あるいは、もし命ぜれられて親兄弟を殺しておれば………正気に戻ることはまさに地獄よ」

 うつむいたアレクサはじっと考え込んだ。

 だが、すぐに顔をあげた。

 口を開て出てきたのは、まったく違う言葉であった。

「頼みがある。もし十日たっても私が戻らなんだら、カルテナにいる私の仲間に丸薬を届けてほしい」

「約束はできんなあ」

 ニヤニヤとイ−ファンは無精ひげを撫でた。アレクサはフ−ドの中で一つ頷いた。

「それでもよい」




 市街を見下ろす小さな丘の上に、オダインの屋敷が立っていた。

 王宮を除けばナム−ルでもずば抜けて豪奢な建物であったが、ロマリアの大貴族の屋敷と比べれば、驚くような建物でもない。三代の王に仕え、王の師でもある世界一の大魔道師の家にしては、それはあまりにも質素といってよかった。

 玄関の前にアレクサは立っていた。

 イ−ファンの秘密の地下室を出てから一刻も経ってはいない。十分に準備せよ、と言ったイ−ファンの言葉など聞いていなかったかのように、真っ直ぐにここにやってきた彼女は、その豪奢な扉を無造作に両手で押した。

 あっさりと開いた。

 音を立てずにそっと体を滑り込ませる。

 入ってすぐは大きなホ−ルになっていた。入って正面にある二階へ続く階段が、正面の壁から左右に開いている、中原で典型的な屋敷のつくりであった。二階に大きく窓がとられており、そこは明るかった。

 階段は赤い絨毯がしかれて二階へ………

 踊り場に人がいた。

「いらっしゃませ、アレクサ様」

 巨大な刀を肩に担ぎ、階段の手すりに軽くもたれるようにして、その人物はわずかに頭を下げた。長身、短い黒い髪、浅黒い肌。美しく整ったその顔に、アレクサが見たことも無いような上品な微笑を浮かべているのは………

「ネイル…」

 フ−ドの中で、つぶやくような声が言った。

「サンザ様がおいでになると聞いておりましたのに、あなたが来られるとは正直意外でしたわ」

 にっこりと微笑みながらネイルは目を細め、担いだ抜き身の大刀で軽く肩を叩いた。服はぴったりと動きやすそうではあったが、男性の好みそうな肌の露出したあざやかな色をした薄物であった。

「ついさっきまで、サリ−シアが待っておりましたのよ」

「ネイルよ」

 フ−ドをはずしながらアレクサが無表情に見上げた。その目がわずかに細まった。

「しばらく見ぬ間にずいぶん上品な口をきくようになったではないか。それになんだその服は」

 きゅっと唇の両端を吊り上げて、さらに大きな笑顔になってネイルが答えた。

「御主人様の薫陶の賜物ですわ。アレクサ様こそ、もっと口の聞き方にお気をつけにならないとお里が知れますわよ」

「お前の言う御主人様とは誰のことかな、ネイル。よもやとは思うが、オダインとか申す腐れ外道の魔道師のことではないだろうな?」

 一瞬、二人の視線が中央で複雑に絡み合った。微笑を消しじっと見下ろすネイルと、その視線を跳ね返すようなアレクサと。

 にっとネイルが再び微笑んだ。見上げるアレクサに握手でも求めるかのように手を伸ばす。

「後半の言いようは承服いたしかねますが、そのとおりでございます。さあ、アレクサ様も、ともにお仕えいたしましょう」

「断る」

「残念ながら断ることはできませんの」

 どんっと、誰も触れぬのにアレクサの後で扉が閉まった。部屋の温度が急に下がったかのように、寒々とした空気が流れた。

「お仕えするか、私に切り倒されるか。どちらかをお選び下さい」

「言っておくが私に魔香は通じぬ」

「魔香が効かずとも、時間さえかければまた別の方法もある、と御主人様がおっしゃっておいででした。あなたかサンザ様、どちらかが生きておればよいのです。容赦はいたしませんわよ」

 ネイルの言葉に、ぴくっとアレクサのこめかみにわずかに血管が浮いた。よく見なければわからないようなわずかな変化であった。

「エルミナを斬ったのはあなたでしたの?」

「知らぬなあ」

 微笑を浮かべたままのネイルを見上げ、アレクサは階段の下まで歩みを進めた。その目が先ほどより細くなり、まるで開けているのかどうかすらわからぬほどになっていた。まったくの無表情であった。

「嘘、あなたでしょ?」

「知らぬ」

「本当のことをおっしゃい」

「知らぬ」

 ネイルが笑いを収めた。その面にいらだたしげな表情がやどり、歯を食いしばるようにして顔をゆがめてアレクサを睨んだ。

「相変わらずかわい気の無い子……」

 高齢であった剣師アンミバに代わって、ネイルがアレクサに剣を教えた。ネイルとてまだ子供であったが、既にかなう大人はいなかった。アレクサは物覚えの悪い弟子であった。木剣を跳ね飛ばし、しびれた手を押さえるアレクサの髪の毛を掴んで、ネイルは足をかけ引きずり倒した。背中を打ち付けて呻くアレクサを、悔しくば強くなってみよっ!と叫びながら柳の若枝で打ち据えた。ひいひいとうめき声を上げながらもアレクサは泣かなかった。体中に蚯蚓腫れを作りながらも、細い目をいっぱいに見開いて、憎憎しげにネイルを睨んだ。そんなアレクサを、何だその目はっ悔しければ強くなれっ!とネイルは更に激しく打ち据えた。

「強情なところは相変わらずですわね。ただ、今回は鞭打つ程度ではすましませんわよ。本気で殺します」

 風を切る音をたてて、ネイルは片手で大刀を振り下ろした。切っ先を階下のアレクサに真っ直ぐに向ける。

 細い目の中のアレクサの表情は読めぬ。だが、ゆっくりとうつむきながら、その体がかすかに震えていた。

「本気か、ネイル?」

「もちろん本気ですわ、アレクサ様。御主人様にお仕えするか、私に殺されるか、今この場でお決め下さい」

 にっこりと、余裕の笑みを浮かべながらネイルは答えた。不意に片頬にえくぼが浮いた。ネイルからはっきり見えるほど、強く握り締めたアレクサの握りこぶしが震えていた。恐怖か…怒りか……

「もう一度聞く、本気で、わしを殺す気か?」

「念には及びません。本気ですわ」

「まことに?」

「くどい」

「そうか」

 ばっとアレクサが顔を上げた。にいっと歯を剥いて笑いながら、顎を突き出すようにして目をいっぱいに見開いたアレクサは、焦点のあっていない狂気のような視線でネイルを見上げた。口の端に涎の浮いた狂ったような笑みだった。

「この日を待っていた……本気のお前と戦い、倒す日を!」

 泡のような涎を飛ばして叫びながら、アレクサが背中の大刀を抜いた。紐を引き千切ってマントを投げ捨て、ネイルと同じように片手で真っ直ぐと、その切っ先を階上のネイルに向ける。

「夢にまで見たぞこの日をっ!どんな達人も及ばなかった、どんな強敵を倒しても満足がいかなかった。わしの前にはいつもお前が立ちふさがっていた。お前はわしの壁だネイル。お前を倒さねば、本気になったお前と戦い倒さねば、我が剣の道は一歩も先へは進めぬ。ここで死んで、わしの糧となれ。殺してやる、殺してやるぞネイルっ!」

 わっぱっ!とネイルが目を見開き唇を震わせて刀をないだ。刀が当たった階段の木の手すりが積み木のように崩れて、アレクサに降り注いだ。ニヤニヤと涎の垂れそうな口に歯を剥き出し、目をいっぱいに見開いてネイルを見上げながら、アレクサは避けもせずに平然と顔で受け止めた。すぐに額に血がにじんだが、気付いている様子さえ無かった。

 ぎりっと歯を食いしばり、ネイルがそろりと刀を両手で握りなおした。

 笑いを収め、左下段に構えを移しながらアレクサも両手で刀の柄を掴んだ。

 じっと、にらみ合いが続いた。

 明らかにネイルが不利であった。高低差があれば、刀の間合いが変わる。こちらの刀が届かぬ距離から、相手はこちらの足を斬ることが出来る。ましてや同じマルバ族の大刀である。

 じりっとアレクサが一歩上がった。すっとネイルが後にさがる。また一歩、上がる、さがる。また一歩……。

 ネイルは踊り場からさらに上に通じる階段に足をかけた。真っ直ぐにアレクサを向いていた刀の先が、じりじりと上がり始めた。

 また一歩アレクサが上がった。刀は左下段につけたままだ。

 しぇいっと呼吸を吐き突然ネイルが刀を薙いだ。間合いの届かぬ、明らかな見せ太刀であった。はっとアレクサが飛び出そうとした瞬間、放り出すように振った刀の重みに体重を乗せ、ネイルが手すりを飛び越えて下に飛び降りた。見せ太刀ではなく最初からそれが狙いだったのだ。

 アレクサは身を翻すとあわてて階段を下った。下を取られては立場が逆転する。

 一階の床に足を付いた瞬間、ほっとする間も無く、横なぎの斬戟が襲ってきた。ネイルが片手で刀を振っていた。両手で振るより片手の方が刀が伸びる。これだけの重さで遠心力がつけば、更に伸びる。そこまで伸びると、見切りなどほとんど意味をなさない。

 がんっと床に刀を突き立てるようにして受けた。石のタイルを突き破り床にめり込んだ大刀が、同じ刀の横なぎの衝撃を受け止めた。

 刀を回転軸にして、アレクサは背中から突っ込むようにネイルの方にとんだ。体をひねりながらその顔に足を飛ばす。まともに受ければ頭蓋が砕けるような重いけりであった。体をそらしながらネイルが後ろにとんだ。同時にアレクサも反対に飛び、体重をかけて刀を抜くと大上段に構えた。ネイルも刀を寝かせ、目の前の高さで横に構える。

 ここまで数瞬であった。

 アレクサがにっと笑った。片頬に笑みを浮かべながら、ネイルが威嚇するかのようにはあっと歯をむき出した。

 じりっとアレクサが右に回る。同じ速さでネイルも回る。

 じりじりと…立っていた場所が入れ替わる。

 一歩踏み出たネイルの刀が横なぎにアレクサの胴を襲った、すうっと後に下がったアレクサの目の前で、左に流れると思っていた切っ先が止まった。そのまま激しい突きが来た。ぐるっと刀を半回転して左にはじく。跳ね上げられた刀が休む間も無く大上段から襲い掛かる。すっと右にかわすと、今度は地面を叩くと思ったネイルの刀が再びアレクサの真横で止まり横なぎに左胴に襲い掛かった。

 はあっと呼気を吐いて背後に飛ぶ。風になびいた服がわずかに切り裂かれた。

 次いで襲い掛かろうとした刀を押さえるかのように、アレクサは刀を下段につけた。ふわっと流れるような動作でネイルが少し下がり、今度は右上段につけた。

 アレクサはチラッと左わき腹を見た。服だけと思っていたが、わずかに血がにじんでいた。薄く皮を切ったらしい。

 さらに後にさがり大きく間合いをはずしたネイルが、笑いながらチッチッと舌を鳴らした。刀を肩に担ぎ、先ほどと同じように軽く肩を叩いた。

「あら残念、もう少し深く切るつもりだったのに」

「……………」

 アレクサは刀を構えたまま何も言わない。その瞳がじっとネイルの足元を見つめた。

「これが最後ですわ、アレクサ様。観念して御主人様にお仕えしなさい」

「ごたくはよい」

 笑いながら言うネイルに、アレクサはじっと目を細めたままネイルの足元を見続けた。

「そう…」

 びゅっと、ネイルが大刀を振り下ろした。具合を確かめるように軽く二三度振る。

「ならば死になさい。昔みたいに、かわいい悲鳴をあげながらね」

 笑いを収めたネイルは目を見開いた。両手で長く刀の柄を持ち、すっと大上段に構える。

 アレクサは動かない。ネイルの刀を見ようともしない。ただ、ネイルの足元だけを見つめる目だけが更に細くなった。

 足が動いた。

 気合の声も無く刀が振り下ろされた。

 わああああああああああっ!とアレクサが悲鳴をあげた。口と目をいっぱいに開いた絶叫であった。

 振り上げた刀がネイルの刀をはじいた。きんっとホ−ル中に澄んだ音が響き渡った。

 再び襲った刃をはじく、襲う!はじく!襲う!はじく!

 火花を散らしながら刃が絡み合った。汗が跳ね飛び、影が躍った。わあああああああああああっとアレクサは叫び続けていた。

 がきっと、鍔元で交わった刃を二人がこらえた。顔と顔が一尺の近さでにらみ合った。まだ、アレクサは叫び続けていた。肺中の息を吐き出し続けた。……ああああああ……わっ!

 じゃっと刃がこすれあい、二人が大きく跳びすざった。

 刀を右上段に構え、はあはあとネイルが荒い息をつきながらアレクサを睨んだ。アレクサはまたも刀を下段に構え、大きく目と口を開いたままネイルを見ていた。

 しばらく二人はにらみ合った。

 ゆっくりと………アレクサのその口が閉じた。

 息は乱れていなかった。

 だだ、ひとつ大きなため息をついた。

「見えた………」

 切っ先が、じりじりと上がった。ネイルを向き、止まった。

「見えたぞ、ネイル。おぬしの負けだ」

 はあはあと、まだ整わぬ息にネイルが激しくアレクサを睨んだ。

 剣先をネイルに向けたまま、アレクサが一歩出た。ネイルが気おされでもしたかのように一歩下がった。

 また一歩出る。さがる。出る……。

「ネイル、お主は強い、強すぎる。その力と刃の速さだけで、お主は他に何もいらなかった。技も術も無くとも、その天賦の才だけで、何人もお前にかなわなかった」

 じりじりと、ネイルがさがった。

「だがわしはお前を見てきた。お前の力、速さ……いつもお前だけを見つめてきた。戦場で戦うお前を、高台から、兵にまぎれて戦場から、密かに隠れて何度見つめたことか……」

「?!」

 後が無かった。

「すべてはこのため、この日のため……。わしはお前の全てを知っておる。いくら強くとも、いくら速くとも、体に染み付いたその単調な動きでは、絶対にわしは倒せん。死ねっ、ネイル」

 わあああっとネイルが叫んだ。ぶんぶんと音をたてて刃がアレクサを襲った。

 今度は受けなかった。その体が優雅に動いて、必殺の刃をことごとくかわした。

「さらばだ、ネイル」

 狂ったような叫び声をあげて刀を振るうネイルをアレクサは悲しげに見つめた。一瞬躊躇した後大きく刀を振った。

 窓を震わせてる刃の音と鉄の匂い。

 ネイルの刀がはじけとんだ。

 ネイルの顔が絶望に大きくゆがんだ。御主人様ーーっ!と絶叫した。

 まるでスロ−モ−ションのように、はるか背後に大刀が跳ね落ちた。石の床に当たって二三度跳ね床を滑った。目をいっぱいに見開いたアレクサが刀を振り上げネイルに襲い掛かった。ネイルは反射的に手で受けようとした。目をつぶった。まるでおびえる子供のようにかがめられた体のその腹に拳が吸い込まれ、ネイルはうっと目を見開き、力を失ったようにがっくりとアレクサにもたれかかった。

 時の流れが元に戻った。

 石タイルの床をすべった刀が、かんっと壁に当たってようやく止まった。

 気を失い自分に体重をあずけるネイルを抱いたまま、アレクサは目をつぶった。しばらくネイルの頭を抱いたまま佇んだアレクサは、その顔を見ることを恐れるかのように、目をつぶったままネイルをゆっくりと床に寝かせた。

 立ち上がって天井を向いた。

 泣きたくなった。

 目をぎゅっとつぶり耐えた。

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