黒い霧《中編》
ベットの上で、アイリ−ンは寝返りをうった。
ほとんどを地面か硬い床の上で毛布に包まって寝る生活が続き、久々のベットと柔らかい布団はかえって寝つけなかった。それも、それがオリヴィア将軍の好意であると思うと余計に寝るのが惜しい気がして、彼女は何度も寝返りをうった。
兵士の案内によりオリヴィアの前に進んだとき、居並ぶ諸将は奇妙な顔をした。
なんだ、この小娘はと露骨な好奇な目の中で、オリヴィアのその隻眼だけが優しく彼女を迎えた。
オリヴィアもアマゾネアの多くの将と同じく金髪碧眼であった。その名声が目をくもらせ、以前見た時は大きな人物だと思っていたが、間近で見ると、アイリ−ンが思っていたよりその体は大分小さかった。小柄であると言ってもよい。
歳は四十を越えていると聞いたが、まだ三十そこそこにしか見えない。白い肌には張りがあり、目元のすずやかさも、ぽってりとみずみずしい唇も、豊かな長い金髪も、全てがまるで少女のようだった。ただ、つぶれた右目を覆う黒い眼帯が、幼ささえ感じるその顔に壮絶な色気を与えていた。
だが…
その前に膝をつき頭を垂れながら、アイリ−ンは思った。この姿にだまされてはいけないと。
オリヴィアもアイリ−ンと同じく軍人貴族の出であったが、単に帷幕の中にあって戦略をめぐらすタイプではない。十五歳の若さでアルバ−ナに陣を借り、十年もの間、凶暴な蛮族との戦いに身を置いてきた戦士であった。相手を殺す時、好んで首を切った。首狩将軍の名はその時ついたものである。現存している中原の人間で、もっとも多くの命を奪った者として恐れられている彼女は、首を狩ることにこだわらなければ倍の人間を殺していただろうとさえささやかれていた。彼女がアルバ−ナから帰国したとき腹に宿して子供は、戦乱の終息に貢献した彼女へオルベルト王その人が褒美として授けたものだという噂さえあった。
初陣から二十余年、常に戦乱の中に身置きながら、その右目以外傷を負ったことはないという。
「アイリ−ンと申したな。名前は聞いておる。だいぶ暴れているようだな。面白い剣を使うそうな」
何を言うか…。
笑いながら語りかけてくるオリヴィアにアイリ−ンは頭をさげたまま震えを感じた。
ここに居並ぶ方々に比べれば私なぞ子供も同然だ…
オリヴィアの左に立つ肌の浅黒い長身の騎士は、隻腕の魔剣士と言われるサリ−シア。その片腕ゆえに千変万化な剣法をアイリーンは一度見たことがある。それ以来いくら工夫を練って、その剣を破る方法にたどり着けなかった。夢にみて何度跳ね起きたことか……そして右に立つ盲目の知将ドミニク。彼女は光を失ったものとは思えぬ采配で軍を動かし、勝てぬはずの戦を何度も勝利に導いた。わずか百の兵で砦に押し寄せる三千の兵を退けたこともあるという。その他居並ぶ諸将も名の知れたものたちばかりであった。
「シルヴィア様のお言葉たしかに承った。大儀であった。もう一度名前を聞いておこう、どこの家の者だ?」
「アイリ−ン、アイリ−ン・フォン・アシュベルト。アシュベルト家の三女でございます」
それを聞くと、オリヴィアは椅子から身を乗り出し、ホウホウとうれしそうに膝を叩きながら辺りを見回した。
「皆のもの、この者の顔を覚えよ。この者は昔唯一私に太刀をつけ、この右目を奪った勇者だぞ」
幕内がざわめき、アイリ−ンは、顔をひきつらせながらオリヴィアを見上げた。
「…あ…う…なにを…」
「覚えておらぬは無理もない。おぬしが3つの時じゃ。長らく会ってはおらぬがアシュベルト殿は共にアルバ−ナに陣を借りた、古き友よ。おぬしの屋敷を訪ねた時、木剣を振りかざしたおぬしが庭の木の上から襲いかかってきたのじゃ。酒をいただいておったわしは避けれんでの、このざまじゃ」
指で眼帯をつつきながら、オリヴィアは笑った。言われてみれば確かにそんなことがあったかも知れないが……何も思い出せない。
「あ、ああ…ま、誠に申し訳なく……」
背中を冷たいものが流れ今にも気絶しそうであった。
「よい、わしの油断じゃ。それによくここまでになった。この目をくれてやったこと、いささかの後悔もない」
その時の自分のあわてぶりを思い出し、アイリ−ンはベットの中でプッと吹き出した。その後ささやかな宴会が行われたが、もう彼女の体のことで軽んずるものは無かった。シルヴィアの親衛隊副隊長を任ぜられたことを告げると、年上の諸将から口々に、それこそこそばゆいくらいに褒めの言葉をもらった。
そして、オリヴィアは、ゆっくり休めるようにと、砦のはずれにある静かな小さな幕の一つをアイリ−ンの寝所に与えてくれた。
ああ早く帰りたい…。
今日の話を面白可笑しく話せば、ネイルは羨望の目で自分を見るかもしれない。
ネイルはもうシルヴィアのもとで働いている。早く帰って、シルヴィア様にお使えしたい…。
気配に気付いて、アイリ−ンは枕もとのレイピアを鞘ごとつかんだ。
砦の中が騒がしい。
遠くで聞こえた駆け回る人の足音と悲鳴が、だんだんと広がり砦全体を覆ってゆく。
夜襲か?
飛び起きたアイリ−ンは急いで鎧を身に着けながら、そんなはずはないと頭を振った。
周囲には多くの斥候を放ち、兵士どころか一般人もいないことを確認しているとオリヴィアが言っていた。だが、十や二十の兵が忍び襲って来たにしては騒ぎが大きすぎる。悲鳴の多くは我軍のものだ。
左右の腰にレイピアをさし、アイリーンは幕を跳ね上げ外に飛び出した。
目の前の地面に兵士が倒れていた。その向こうにも、その先にも…。
もうこんな所まで敵が?
足元の兵士が体をよじった。まだ息があるらしい。いや、他の兵士たちも死んではいないようだ。苦しそうな息を吐きながら、体を起こそうとしている。
「しっかりせよ、敵はどこだっ?」
あわてて抱き起こし、ほほを叩こうとしてその兵士の顔を見た瞬間、アイリ−ンはその体を地面に投げ捨てていた。
地面で大きく跳ねたその兵士の顔を見ながら、自分の口がゆっくりと開くのを、止めることができなかった。
…ナンダ……コレハ……
これは、この兵士の顔は…いやこの者だけではない、向こうに倒れている兵士も同じ顔をして身を起こそうと体をよじっている。
アイリ−ンは立ち上がると、辺りを見回した。悲鳴は城全体を覆い、周囲の山々にこだましていた。
彼女は不意に脱兎のごとく駆け出した。
「誰かーっ!だれか居らぬかっ!」
おらぬどころの騒ぎではない。
駆け過ぎて行く砦の中は、兵士達で満ち満ちている。
だがそれらは、既にアイリ−ンが思うところの“誰か”ではなくなっていた。
焚き火の側も、覗き込んだ幕の中も、同じような顔をした兵士たちが倒れていた。
「誰かーっ!誰かおらぬのかっ!だれ…だ…だ……」
ふいにめまいを感じて、足がもつれ、横様に地面に倒れた。
頭を振り、両手をついて体をおこした。急激に吹き出し額を流れた汗がポタポタと垂れ、地面に吸い込まれた。走ったせいではないとわかる、ねっとりとした汗であった。
同時に、兵士たちを襲った同じ敵が、今アイリ−ンを襲っていることに彼女は気付いた。
これかっ!と心の中で叫んだ。
あの兵士たちの顔は…このせいだったのかっ!
自然のことであるはずはなかった。これは敵の攻撃なのだ。それも今までに無い敵だ。
アイリ−ンはレイピアを抜いた。
敵の正体が…まだよくわからない。
どんな攻撃を仕掛けているかはわかる。
だが、次はどう来る?敵兵の気配は無い。
その攻撃の先にあるものが……わからない。
…シルヴィア様……ネイル…
負けぬ…とアイリ−ンはつぶやいた。
勝てずとも…負けはせぬ……。
汗をしたたらせ、荒い息を吐きながら、アイリ−ンはレイピアを杖に立ち上がった。そのまま足を引きずるようにして歩き始める。
その後ろから、小柄なシルエットがゆっくりと近づいてきた。
ネイルは目を開くと大刀を掴んだ。
火の弾ける音に、足音が雑じっていた。
「起こしたか、すまぬ」
「シルヴィア様……」
焚き火の光にシルヴィアの白い鎧姿があった。鎧の血はぬぐってあったが、赤い炎に照らされたその姿は、全身に血を浴びたように、暗い空を背景に浮かびあがっていた。
昼間のシルヴィアの言葉どおりに、ネイルは目だけで礼をした。なにかくすばゆいような気がした。這いつくばるほうが気が楽であった。
「中で寝ればよいのに、皆とうまくいかぬのか」
「そうではありませぬ」
さすがにシルヴィアの親衛隊であった。
ネイルがマルバ族であることを露ほども気にしている様子はなかった。彼女たち自身が、身分が低く実力本位でシルヴィアに選ばれた者たちであった。そういう意味では、先の親衛隊長であった士官たちより、ネイルに近いと言える。彼女たちは剣の柄を叩いて、ネイルの言葉はシルヴィア様の言葉として聞くと誓った。
「慣れておりませぬゆえ。外が、火の側が落ち着きます」
「ならばよい。座ってよいか」
言いながら、シルヴィアは倒した丸太、ネイルの横に腰掛けた。
何も言わずに空を見上げる。
ネイルもつられて空を振り仰いだ。
月の無いよく晴れた空に、満天の星がまたたいていた。
ネイルは目だけでシルヴィアの顔を盗み見た。シルヴィアはうっとりしたような顔で星を眺めていた。その顔は、兵を率いている時には決して見せない十八歳という歳相応の少女の顔であった。
「可笑しいか…?」
ネイルの視線の気付いて横目で見返したシルヴィアは、笑うと焚き火に目を落とした。パチンと音をたてて、薪がくずれた。
「…我が姉ならば似合いもしようが……アマゾネアの鬼姫と呼ばれるこの私が星空の心奪われても、気味が悪いだけか」
「その鬼姫様のためならばこそ、この命散っても惜しくはございませぬ」
はははっとシルヴィアは声をたてて笑った。
「いかにも、おまえらしい慰めじゃ。普通の者なら我が言葉、あわてて否定しように」
ネイルはむっつりとだまりこくった。軽く膝を抱き、その上にあごを乗せて炎を見つめた。
その様子を見たシルヴィアは声を立てずに笑うと、ネイルの姿勢を真似、じっと炎を見つめる。
しばらくの間、パチン、パチンという炎のはじける音だけが、二人を包んだ。
「私が十二の時じゃ…」
不意にシルヴィアが口を開いた。
「私は初陣で…スロバ−ナの国境で軍に参加していた…」
ネイルも覚えていた。
もう普通の初陣の歳を過ぎている上の三人を抜いて、末の王女が初陣一番乗りだったことに、ネイルは激しい憤りを感じたことではっきり覚えていた。同時に、緊張した面持ちで前線まで見回る、その女王の四女に対する好意は、その時決定的となった。
「今回の戦役には及ぶもないが、領土問題に端を発したその戦は、近年ない大戦であった」
シルヴィアはネイルの顔をのぞきこんだ。
「その時私はお前を見た。沈みゆく大きな夕日を背負い、たった一人で敵陣の中で、その大刀を振りかざし戦い、蹴散らしていた。……美しいと思った。肌に泡が生じるほど美しかった。伝説のシバの女王とはこのような戦いぶりではなかったかと、うっとりと見つめていた」
「シバの女王様は、シルヴィア様と同じ金髪碧眼でございます。私は似ても似つきませぬ」
「だが私は思ったのだ」
シルヴィアがすねた様な声を出した。
「ああ美しい、私もあのように美しくなりたいと…」
「私はシルヴィア様を美しいと思っておりました」
ネイルは姿勢をかえずに、口だけを動かして炎を見つめている。黒い瞳に赤い炎が踊っていた。
「戦場に金髪をなびかせ、白い馬にまたがって戦場を駆るシルヴィア様の中に、私はシバの女王様の姿を見ました。ああこの方のために、戦場で死ねたら……それだけを思って今回の戦を闘ってまいりました。今もその気持ちに変わりはありませぬ」
「ならば、自重せよ」
最初からそれを言うために来たのかもしれない。
不意に調子の変わった声にネイルは首だけ動かしてシルヴィアを見た。
「私はな、姉上を尊敬している。あの人を魅了する容姿、すべてを慈しむ慈愛に満ちた心、そして母上すら助言を求める治世の知恵。私にはないものばかりだ。姉上こそが次の女王にふさわしい。昼間の、あのように声高に姉上を批判すれば、いらざる諍いの元じゃ」
「兵士たちに聞けば十人が十人ともオクタヴィア様よりシルヴィア様の方が女王にふさわしいと申すことでしょう」
「兵士だけでは国は治まらぬ。ネイル聞いてくれ。先にも言うたとおり私はオクタヴィアの姉上を尊敬しておる。だが私には姉上を補佐する、治世を助ける知恵はない。だからこそこの身を剣とし、生涯を姉上に捧げようと決めたのじゃ」
不思議なものだった。シルヴィアがオクタヴィアを褒めれば褒めるほど、ネイルの中にもオクタヴィアに対する尊敬の念が沸きあがってきた。自分でも単純なものだと思った。アイリ−ンに馬鹿にされるのも、これでは無理はない。
「…つまらぬことで、せっかく手に入れたお前を失いたくない。私のそばにおれば姉上たちと接する機会も増えよう。くれぐれも自重し、軽率な言動は控えてくれ…」
シルヴィアの白い手がネイルの大きなそれに重なった。 ぎゅっとつかんで揺する。
「…お前を失いたくないのだ。頼む…たのむ…このとおりじゃ」
「わかりました…」
大きくため息をついたネイルは目を閉じた。そうしないと涙があふれそうだった。
やはり…この方のためになら死ねる…。
ネイルは刀を槍のように小脇にかかえ、砂塵を巻き上げて馬を駆るシルヴィアの後を追った。
親衛隊の、その隊長ともなればそれ相応の鎧が与えられるはずだが、ネイルはまだ兵卒の使う粗末な鎧を身にまとっていた。これが一番使いやすいと主張する彼女に、だれも不満の声をもらすものは無かった。
この刀を持ち、自分を乗せて走れる馬がいたことに、ネイルは驚いていた。馬には何度も乗っている。多少背が高いといっても、太っているわけではない。自分だけが乗るなら普通の馬で十分事足りた。しかし、人一人以上の重さがあるこの刀を持って、それも他の馬と同様に走れる馬があるとは、正直考えていなかった。シルヴィアが以前から準備しておいてくれたものらしい。
平原の向こうにナナセの砦が見えてきた。アマゾネアの旗が大きく翻っている。
シルヴィアの供はネイル以下親衛隊の十数騎だけであった。徒歩の者も含めた本隊は、はるか十数里後をこちらに向かっているはずであった。
「シルヴィア様―っ!」
斥候に行った隊士が馬を飛ばして戻ってきた。馬を止めたシルヴィアの前で下馬し礼をする。
「奇妙です、名乗りを上げても門が開きません」
いななく馬を静めながら、シルヴィアは眉根をよせた。
「中には明らかな人の気配はあります。声はしますが、聞き取れませぬ。それに、何か異様な匂いがいたしました」
「死臭か?」
聞いてからネイルは我ながら愚かな質問だと思った。死臭なら死臭と言う筈だ。シルヴィアの親衛隊士ともあろうものが、死臭も知らぬはずはない。
「いえ、死臭ではありません。その…何とも言い表せない、汗の匂いのような…」
「どうしましょう、本隊の到着を待ちますか?」
「いや…」
馬を並べて聞いたネイルの問いに、シルヴィアはかぶりを振った。
「事情がわからぬままでは本隊を危険にさらすことになるやもしれぬ。攻撃を受けたわけではないのだな?」
「はい…殺気も感じませんでした」
「ならば行こう。オリヴィアのことじゃ、何やら特別な事情があるのであろう。私が赴けば門も開けるやも知れぬ。」
「わかりました」
ネイルは大刀を振りかざした。
「私が先頭に立つ。皆のものは少し後をついてまいれ。シルヴィア様を囲むように馬を走らせよ!」
そう叫んでからネイルは並足で馬を駆けさせた。ネイルの後ろ、十馬身ほどあけて、シルヴィアを囲む騎馬が続く。その左右と後ろを、距離を開けた隊士が一人ずつ馬を併走させている。指示をしなくとも、当然の訓練された動きであった。
何事も無く門の前までたどり着いた。ネイルは片手を上げて後続を止めた。少し離れて止まった群れからシルヴィアが前に出ようとしたが、親衛隊士が前に馬を進ませ進路を遮った。シルヴィアも強いては通ろうとせず、ネイルを、事の成り行きを見守っている。
「シルヴィア王女の御到着であるっっ!開門せよっっ!」
ネイルの大声に驚いて、彼女の乗る馬自身が後脚で立っていなないた。たくみな手綱さばきで馬を落ち着かせたネイルは再度叫んだ。
「どうしたっ!開門せよっ!」
反応は無かった。
シルヴィアがゆっくりと馬を進め横に並んだ。
「オリヴィアっ!私だ、シルヴィアじゃっ!門を開けよっ!」
叫んでからしばらく待ったが、やはり返事はなかった。
「シルヴィア様これは…?」
「なるほど、何かわからぬが叫び声のようなものが聞こえる。それに…匂うな。これは何の匂いじゃ」
シルヴィアが鼻を鳴らした。ネイルも鼻をひくつかせた。
あの隊士が言ったとおりわずかに何かが匂った。汗の匂いと言っていたが、なるほど言われてみればそう感じぬこともない。それに、わずかに甘酸っぱい香りが雑じっている。
「エイダっ!」
馬から飛び降りながらネイルは一人の隊士を呼んだ。小柄な黒髪の隊士は馬をおり、あわてて駆け寄ってきた。
「あの塀の上まで登れそうか?」
エイダは塀を見上げた。垂直に立ち上がるそれの天辺ははるか高みにあった。飛び上がっても、とても届きそうに無かった。
「あそこまで飛べとは言わぬ。私が持ち上げる。よじ登り、超えれそうか?」
「片手でも縁にかかれば、何とかなると思いますが」
「よし」
手のひらを上に向け、地面に手を置いたネイルはエイダに乗れと命じた。やりにくそうにとまどうエイダをネイルは叱りつけた。
「かまわん。シルヴィア様の命令だと思ってやれ」
その一言で決心がついたのであろう。手のひらに乗ったエイダの足をつかんで、ネイルはらくらくと持ち上げると頭の上にかかげ、皆にうなり声をあげさせた。
「もう少し…届きませぬ。なんとかなりませぬか」
「これでどうだ」
ネイルは二人分の体重を乗せたままつま先立ちになった。
「届きました。お放し下さい」
片手で塀にぶら下がったエイダは、しばらくもそもそと動いていたが、やがてうまく両手をかけると一気に体を持ち上げた。
首が塀から上に出た瞬間、その体が凍りついた。
「なん……これは…」
「どうしたっ!何があった?」
シルヴィアの叫び声に、エイダはゆっくりと振り返った。泣き笑いのような表情をしていた。
「何だっどうしたというのだ。ええいっ!早く乗り越えて門を開けよっ!」
ヒステリックなシルヴィアの声に、エイダは正気に戻ったかのようにあわてて塀に向き直った。
急いでよじ登ると、瞬く間にその姿が塀の向こうに消えた。
門の向こうで閂をはずす音がした。
門が、きしんだ音をたてて開いた。
ネイダはおもわずうっと鼻を押さえた。さっきからしていたにおいが、何層倍にもなって漂ってきた。
門の内に目を向けたネイルは思わず立ちすくんだ。
砦の中には自軍の兵士たちが倒れていた。
みな声をあげ、わずかに動いているところを見ると死んでいないことはわかる。
…だが、これは…これは……これはいったい……。
…これは……
………これは……
………………コレハ何ダ?
ネイルは目を見開いた。
「あっ、あああっ……」
「いいっ、あああ…ああ…」
「はああっ…はああああっ…」
「あはああっ、いひいいいっ…いひいいのおお…」
鎧をはずし、衣服も脱ぎ捨て…あるものは地面に横たわり、あるものはぐったりと壁に寄りかかって、兵士たちが自分の胸や股間を激しくまさぐっていた。
顔は赤くあぶらのような汗でてらてらと光っている。目は宙をさまよい、だらしなく開いた口から舌と涎がこぼれていた。そして夏の盛りの犬のようにはっはっと息を吐いている。
一人や二人ではない。薄く煙の上がる焚き火の側も、やぐらの上も、見渡す限りに兵士たちが転がっている。
みな全身を欲情のピンクに染めて痙攣し、まさぐる股間から止めどもない汁をしたたらせながら、切なげなあえぎ声をあげていた。
「何事じゃ!これっ!しっかりせぬかっ!」
最初に驚きから醒めたシルヴィアが手近かにいた兵士の肩をつかんでゆすった。
かろうじて衣服を身にまとい、塀にもたれて、両手で股間ににちゃにちゃと音をたてさせていたその金髪の兵士は、シルヴィアに何の反応も示さなかった。異様な光をたたえた瞳は宙を見据えたまま動かず、だらしなくたれた舌の先から涎が糸を引いてこぼれた。汗に濡れ、赤く染まった顔は少し笑っているようにも見える。股間からしたたる雫が、股の下に小さな水溜りを作っていた。
うぬっとシルヴィアが肩をつかんで地面にひきずり倒したが、顔を強打しても悲鳴すらあげなかった。尻を高く突き出した姿勢のまま、手は股間に音をたてさせ続けた。
親衛隊の隊士たちも夢から醒めたように、次々に駆け寄り声をかけ肩を揺すったが、どの兵士も同じような状態であった。はあはあと快楽に染まる顔に淫靡な笑いを張り付かせたまま、彼女たちはあえぎ声をあげ胸や股間を力なくまさぐり続けた。どの顔も目の周りにくまをつくり、疲労の色が濃い。だがそれが、その行為とあいまって、彼女たちの顔に壮絶な色気を与えていた。それを見ている親衛隊士たちも股間にうずきを覚え、もれそうになるあえぎ声をかみ殺しながら、同僚に気付かれぬよう太ももをこすりあわせて耐えた。
「ええいっ!これでは埒があかぬ。オリヴィアっ!オリヴィアは何処じゃっ!」
いきなり走り出したシルヴィアの後を追ってネイルも駆け出した。他の親衛隊士その後に続く。
砦の奥も似たような有様であった。
否、奥はさらに壮絶であった。
刀の柄を股間に差込みゆっくりと前後させている者があった。
豊満な胸を形が変わるほどに揉み崩し、頭を振りながら、既に涸れ果てた声で狂ったような叫び声をあげているものがいた。
二人の兵士が互いの股間に顔をうずめ、ぴちゃぴちゃと音をたてていた。
一人の美しい士官の胸には、股間に指をうずめた二人の兵士が吸い付きあえぎ声をあげさせていた。
覗きこんだ幕の中では、十人ほどの全裸の女たちが汗で全身をぬるぬるさせながら、積み重なるようにして抱き合い、口を吸い、互いの股間を舐めあっていた。
そしてあるものは、頭を抱え、快楽の声をあげて涙を流しながら、ひいひいと全裸で地面をのた打ち回っていた。
砦中が、兵士たちのあえぎ声とぷんっと香る女の体臭でむせ返るようであった。
「あああ…いいいっ、いひいいいっ」
「あああ、もっと、もっともっとおおおっ!」
「ひいいいっ…ああ、あああっ、あはああああっ!」
「ああ、いいっ、死ぬう、死ぬう……」
「ああ…いいっ…死にたいっ…殺してええっ、殺してエエエッ!」
まさに地獄の狂乱絵図と言ってよかった。
砦には二千の兵がいたはずであった。だがまともに衣類を身に着けているものすら一人もいない。
砦の中をシルヴィアを追って駆けながら、ネイルはその場にしゃがみこんで目を覆い、耳をふさぎたくなった。
だが同時に、股間から何か熱いものが足を伝ってしたたり落ちるのを感じていた。わかっていても、あえぎ声が頭の中で反響し、彼女たちの体臭が肺に満ち、頭がくらくらとして、股間のうずきを止めることができなかった。後ろをついてくる隊士たちが目眩をおこしたようにふらふらと歩き出してことすら感じる余裕はなかった。
「オリヴィアっ!」
ひときわ大きな、剣と矢が十字を作る紋の入った幕を見つけたシルヴィアは、駆け寄るとると同時に、抜いたレイピアで幕を切り裂いた。
わずかについた切り口により、みずからの重さで大きく縦に裂けた切れ目から中に飛び込んだシルヴィアに続いて、ネイルも切り口を押し広げながら幕の中に体を滑り込ませた。
「うっ……」
シルヴィアが今度こそ絶句して凍りついた。
ぎゅっとコブシを握り締めながら、体を震わせる。
全裸の兵士たちが、四つ這いになって尻を振り立てながら、何かに群がっていた。
薄暗い幕の中で、白い輝くような裸体が、群がり、ちゅうちゅうと音をさせ、汗に濡れた体をこすりつけ、叫び声を上げていた。
「あああっ、あああ……」
「…オリヴィアさま、オリヴィアさまああ…」
「…早く、早くっ…はやくううううっ……」
「…死んでっ…早く死んでくださいましいいっ!」
「ああっ、あああっオリヴィアさまああああっ!」
「…死んでくださいい…いいっ、いいいいいっ!…死んでええっ…」
「ネイルーっ!」
己の名を呼ぶシルヴィアの絶叫だけで、ネイルはその意図を察した。
脱兎のごとく駆けた彼女は、兵士たちを足で蹴散らした。あっけなく次々に地面に転がる兵士たちを、彼女は容赦なく掴んでは幕の隅へ投げ飛ばした。ぐったりと力なく持ち上げられた彼女たちは、たわいも無く地面に叩きつけられた。
すぐに、兵士たちが群がっていた“もの”が床の上に現われた。
シルヴィア両手で額を押さえ、まるで髪をかきあげるかのようにしながら悲鳴のような叫び声をあげた。
「オリヴィアーっっ!」
彼女もまた全裸であった。
白い全身にうっ血した吸い付いた痕があった。足の先から顔まで赤く腫れ上がり、塗り込められた涎のせいでてらてらと光っている。その股間は絶え間なく蜜のようなものを吐き出し滴らせていた。
戦場では、見られただけで首が飛ぶと恐れられた一つだけの目が真っ赤に充血し、かっと見開いたまま、明らかな狂気をたたえて宙の一点を見つめていた。
口の端から泡のような涎を垂らしながら、オリヴィアぱくぱくとは美しい唇をあえがせた。
「…ひ…ひいいい……従います…したがいますうう…ああっ…だから…くださいましっ…くださいましいいい……」
甲高い声が、卑屈な響きをこめてその口からこぼれた。アマゾネア全軍の崇拝を一身に集めていた彼女は、今はスラムの最も安い売女以上に卑猥な言葉を叫びながら、彼女の狂った瞳にのみ写る何者かに哀願し続けていた。
「いやああああああっっ!オリヴィアっ、オリヴィアああああっ!」
「シルヴィア様っ」
頭をかきむしり、絶叫しながらその場に倒れそうになるシルヴィアをネイルは飛びつくようして支えた。
ぐったりとネイルに体重を預けながらシルヴィアは両手で顔を覆った。指の間から涙がこぼれた。
「いやっ…いやああっ…オリヴィ…オリヴィアああ…」
「エイーダっ!」
次々に幕の中に飛び込んで来ては立ちすくむ親衛隊士たちに、ネイルは大声で叫んだ。
「本隊を止めよっ、ムハンドへ戻すのじゃ!この様を見せてはならんっ!エルミナ殿意外に砦の様子は他言無用っ!行けっ!」
「はっ…ははっ!」
夢から醒めたように瞬きをした彼女は頭を振ると、剣の柄を押さえて幕の外へ飛び出していった。
「シーナっ、ミルナスっ!シルヴィア様をお連れせよ、一刻も早くこの砦を出るっ!」
「はっ!」
「ははっ!」
「……オリ…オリヴィア…オリヴィアああ……」
二人の隊士がシルヴィアを両脇から支えた。ぐったりと二人に体を預けながら、シルヴィアはまるで彼女自身が狂気に侵されたかのように、口の中でつぶやき続けた。その手を肩にかけ、両側から支えるようにしながら、二人は幕の穴を抜けると、シルヴィアを引きずるようにしながら、門目がけてはしり始めた。他の隊士たちも、その周りを取り囲むようにして、剣の柄に手を置いて、油断なく辺りを見回しながら走りだした。
隊士たちを先に出し、幕を出ようとしてネイルは振り返った。彼女に幕の隅に追いやられた兵士たちは、まるで不意の来入者などなかったかのように、オリヴィアただ一人を見つめ這い進んでいた。片方の手で股間をまさぐり、片方の手が地面をつかんで、ずるずると、ゆっくりとだが確実に、オリヴィアに近づいてゆく。そして、あえぎ声をあげながら再びその体にぴちゃぴちゃと音を立て始めた。ネイルはぎゅっとつぶって目をそらすと幕の外へ出た。
幕の外に出たネイルは、入る時には気付かなかった一人の兵士に目を止めた。
全裸の女性がのたうちまわる砦の中で、その兵士だけは、一部の隙も無く武装していた。
幕を出て直ぐ正面の櫓の太い脚にもたれて、その兵士は白い鎧を身に着けて脚をMの字に開いて首を垂れていた。
……アイリ−ン……
ううっと声をあげたネイルは、片手で口を覆って皆の後を追って走り出した。
…あなたは…やっぱり……あなただけは……
……何があったかはわからない……でもあなたは…
ううっと嗚咽が声になった。目から涙が溢れた。
…やっぱり凄かった……あなたは…最後まで戦ったんだ……
…でも、ごめんアイリ−ン……今はシルヴィア様が……ごめんね、置いていくよ……
前髪が垂れてどんな表情をしているのか見えない。ただ、幼い口元に笑みを浮かべたその体は、逆手に持ったレイピアでみずからの秘所を貫き、絶命していた。
後篇へ