広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成15年 〜2003年〜
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A-61:五足の靴の碑(ごそくのくつ-のひ)
万才町3-27前(旧 平戸町)
五足の靴とは明治40年(1907)夏。与謝野鉄幹、木下杢太郎、吉井勇、北原白秋、平野万里らが九州西部を旅行し5人で書いた紀行文のことをいい、5人が執筆したところから五足の靴といいます。特に長崎や天草などではカクレキリシタンについて書かれます。佐世保から長崎入りした彼らは上野屋旅館(現家庭裁判所)に滞在し、翌日、船で天草に渡りました。帰京後、紀行文五足の靴を東京二六新報に発表し、我が国南蛮趣味文学の先駆を成し遂げます。




A-60:日本赤十字社看護婦養成会跡【家庭裁判所ほか】
明治27年(1894)日清戦争の際、日本赤十字社看護婦養成会が設立され、旅館上野屋内にその事務所が置かれます。これは一時的に上流社会の婦人達を教育するための集まりでしたが、戦争終結後すぐに廃止されます。




A-59:西南の役長崎本部事務所跡【家庭裁判所ほか】
明治10年(1877年)2月国内最後の内戦といわれる西南戦争が勃発します。明治新政府への士族の反発が引き金となり7カ月に及ぶ戦いが繰り広げられます。このとき、西南の役長崎本部事務所旅館上野屋内に置かれました。




A-58:旅館上野屋跡(りょかんうえのや-あと)【家庭裁判所ほか】
現在の家庭裁判所から南側の一帯に旅館上野屋がありました。解説書に次のようにあります。「宏壮なる三層楼を以って客室に充て、応接室、化粧室、浴室等の配置宜しきを得、客室の装飾及び調度に意を用いたり。庭園また満酒にして風致に富む。その創業は明治十年頃にして官辺の信頼厚く馬車の出入常に絶えず
上野屋は町年寄高島家の跡に建てられ木造3階建の旅館で長崎有数の旅館でしたが、昭和20年(1945)原爆の影響で焼失します。また、五足の靴を書いた与謝野鉄幹らが宿泊した旅館でもあります。




A-57:医学伝習所跡(いがくでんしゅうじょ-あと)【家庭裁判所ほか】
安政4年(1857)第二次海軍伝習が始められますが、このときオランダ軍医ポンぺ・ファン・メールデルフォールトも派遣教官として参加。海軍伝習の一環として長崎奉行所西役所内において西洋医学の講義が始められます。医学伝習所の開設です。伝習生は松本良順をはじめとする諸藩藩医が受講します。しかし受講者の増加ですぐに大村町の高嶋秋帆邸に移し、あわせて幕府に対しポンぺは病院建設を建白します。万延元年(1860)幕府は養生所開設を許可、文久元年(1861)小島郷の地(現 佐古小学校講堂)に養生所と医学校が開かれます。これは我が国初の医学校で現在の長崎大学医学部の前身となります。




高嶋秋帆(たかしま-しゅうはん)
高嶋秋帆(寛政10:1798-慶応2:1865)またを茂敦、通称を四郎太夫、秋帆と号し、町年寄高嶋家の第10代四郎兵衛茂紀の子として生まれ、秋帆も後に11代となります。十代の頃から父と共に出島に出入りし化学に興味を持つようになり、砲術師範となったあと21才のときには出島で西洋砲術を学びます。秋帆のところには諸藩から砲術を学びに来る者であふれるようになり、天保11年(1840)秋帆は中国のアヘン戦争のことを知り、「西洋砲術意見書」を幕府に提出。翌年、幕府より江戸郊外の徳丸ヶ原で火術御見分の命令を受け演習を行ない、幕府はこれを賞し大砲はすべて幕府が買い上げます。しかし、秋帆の出世や蘭学に反感を持つ者らによる謀反のうわさから投獄され、10余年もの時が過ぎます。嘉永6年(1853)ペリー来航を機に釈放、有名な嘉永上書で日本の開国に一役を担います。最後は江戸講武所砲術師範役でした。墓所:東京大円寺、晧台寺後山




A-56:町年寄高嶋家跡(まちあどしよりたかしまけ-あと)
万才町6-25(旧大村町11、嶋原町)【家庭裁判所ほか】
長崎は天領ということで幕府から命ぜられた長崎奉行が支配します。そして奉行の下で長崎の地元の役人(地役人)の町年寄が町の行政を司ります。町年寄は当初4人制、幕末には9人制にまで増やされます。その中の高嶋氏の屋敷がこの地にありました。屋敷は天保9年(1838)小川町の大火で焼失。主である秋帆は小島の別邸に移ります。その後、再建され、安政4年(1857)から3年間は屋敷内に医学伝習所も置かれました。明治維新後は旅館上野屋となるのですが昭和20年(1945)焼失。そして家庭裁判所に変わります。




A-55:旅館福島屋跡(りょかん-ふくしまや-あと)
万才町3-16(旧 大村町)【県庁前バス停付近】
明治10年(1877)創業の旅館福島屋は当時、長崎でも最高級の旅館で、木造2階及び3階建の建物でした。客室の配置や設備装飾など美しく、さらに客室からの眺望は長崎港内を一望するできる大変すばらしい旅館で、ここ福島屋旅館日本郵船関係(回漕業)の利用が多く、主に郵船航路の旅行客の利用が多かったといわれていました。しかし、昭和20年(1945)戦災で焼失、廃業となります。また、ここは永井荷風が宿泊した地でもあります。




A-54:吉雄耕牛宅跡(よしおこうぎゅう-たくあと)
万才町4-8(旧 平戸町)【長崎県警】
吉雄耕牛(享保9:1724-寛政12:1800)は名を永章。通称は幸左衛門、のち幸作と改め、耕牛と号しました。代々吉雄家はオランダ通詞を職とし耕牛も14才で稽古通詞となり、出世を重ね25才でオランダ大通詞にまで上ります。寛政2年(1790)オランダ通詞目付となった耕牛は、オランダ語のほか天文、地理、本草学などを究め、特に祖父寿山のときから始めている医学では、若い頃から読んでいたブレンキの外科書により外科を得意とし商館医ツュンベリーにも指導を受けます。このほか尿診断や梅毒の研究などを開拓し、ついには吉雄流外科の祖となるのです。当時、門下生は1000人に達したといわれ、前野良次、杉田玄白、平賀源内、大槻玄沢、林子平、司馬江漢など耕牛を師事し、杉田玄白らが手掛けた「解体新書」の序文は有名です。また、新しもの好きの耕牛は屋敷2階をオランダ部屋とし多くの輸入品を並べいわゆる博覧会の起源となります。




A-53:志筑忠雄宅跡(しづきただお-たくあと)
万才町5-26付近(旧 大村町)【農林中金】
志筑忠雄(宝暦10:1760-文化3:1806)は江戸後期の天文学者で本性を中野、字を柳圃といいます。志筑忠雄は宝暦10年(1760)長崎の豪家:中野家に生まれ、後にオランダ大通詞の志筑家の養子となります。17才で稽古通詞となるが上達なく翌年辞退。その後、蘭学に専念し特に近世実験科学、中でも物理、化学、天文、地理、暦学などに詳しく、このほか語学にも長けていました。享和元年(1801)鎖国論を著作(ケンペルの日本見聞録の抄訳)、このとき使われた「鎖国」の語は志筑忠雄の造語といわれています。このほか「衛星」の語も命名しました。




A-52:旧外浦町由来碑(きゅう-ほかうらまち-ゆらいのひ)
万才町5-26(旧 外浦町)【農林中金玄関】
碑文より「この地はもと外浦町と呼ばれた。元亀二年(一五七一)大村純忠の町割りにより開かれた長崎最古の町である。外浦町のほかに横瀬浦町、島原町、大村町、平戸町、分知町があった。爾来、糸割符会所、長崎奉行所などが置かれ長崎で最も枢要な地として栄えた。また幕末には海軍伝習所や医学伝習所が設けられ、我が国文明開花胎動の地ともなった。昭和三十八年(一九六三)町制変更により万才町(現在地)、江戸町となり四百年に及ぶその歴史を閉じた。




A-51:長崎県巡査教習所跡/長崎県巡査養成所跡
(ながさきけん-じゅんさ-きょうしゅうじょ/ようせいじょ-あと)
万才町5-21付近(旧 大村町)
現在の県庁前交差点東側には、昭和の初め頃、長崎県巡査教習所長崎県巡査養成所がありました。二つとも今の警察学校のことで長崎県の警察官が育てられていました。また、ここの隣りには県の資材置場と長崎県部長官舎署長官舎などが建ち並んでいましたが、第二次大戦中、建物強制疎開ですべて道路と化しました。




A-50:長崎開港と町建て(ながさきかいこうと-まちだて)
万才町一帯(旧平戸、横瀬浦、外浦、大村、嶋原、分知町)
元亀2年(1571)4月9日(旧暦3月15日)に長崎の町建てが始まります。長い岬(森崎または長崎)の先端に大村純忠の家臣:朝長対馬によって町建てが始められ、六つの町が開かれます。六つのうち五つの町は出身地ごとの町名が付けられ、平戸、横瀬浦(西海市)、大村、外浦(外海大瀬戸方面)、嶋原町が出来るのです。そして役所を意味する(説)分知町を加え六か町の誕生です。この六か町は天正8年(1580)大村純忠によりイエズス会に寄進されますが、天正16年(1588)豊臣秀吉によって幕府直轄地となります。




A-49:道路元標(どうろ-げんぴょう)【長崎県庁正門脇】
道路元標とは道路の路線の起点、終点などを表示するための標識で、主に国道や県道の終始点にあたる場所に置かれています。ここには長崎県(市)の起点として設置されていて、この長崎県庁前は@国道34号線(起点:佐賀県鳥栖市)、A国道202号線(起点:福岡市)、B国道324号線(終点:熊本県天草市本渡)の各起終点になっています。




佐々野富章翁像(ささのとみあきおうぞう)【長崎県庁前庭】
佐々野富章は慶応元年(1865)南松浦群福江村出身。明治23年(1890)より昭和6年(1931)まで29年6ヶ月間、県議会議員を務め、その間、議長にあること18年間、議会の統制を努め模範県会として長崎の名を全国に広めた人物でした。昭和32年(1957)に再建された像である。

長崎県職員原爆慰霊碑【長崎県庁前庭】
原爆の犠牲となった長崎県職員のために、昭和56年(1981)8月9日建立されました。




A-48:獅子吼の像(ししくのぞう)【長崎県庁前庭】
この像は長崎県の名誉県民第1号の北村西望によって、百歳慶賀に際し県に寄贈されたもの、獅子吼とは獅子が吼(ほ)えることを意味し、熱弁をふるって正論を説くという意味があります。
北村西望(明治17:1884-昭和62:1987)は長崎県南有馬町出身で、東京美術学校卒業後、彫刻家の道に進み、大正時代、文部省美術展覧会(文展)の常連出品者となり、その後は帝国美術展覧会(帝展)の審査委員、東京美術大学教授、さらには帝国美術院会員を歴任します。昭和30年(1955)には平和祈念像を製作。昭和33年(1958)文化勲章を受賞しました。




A-47:長崎県庁(ながさき-けんちょう)
旧長崎県会議事院(きゅう-ながさきけんかい-ぎじいん)
明治6年(1873)旧立山役所を使用していた長崎県庁は広運学校のある旧西役所と土地建物を交換し移転。翌7年には新庁舎(2階建洋館)が完成します。しかし1カ月もしないうちに台風によって全壊。明治9年(1876)再度新築完成します(洋風2階建)。明治43年(1910)ルネサンス様式の煉瓦造長崎県会議事院(のちの長崎県議会)、翌44年、長崎県庁舎の新庁舎が完成。これは横浜市開港記念会館(現 国重要文化財)を手掛けた山田七五郎の設計、そして現在の東宮御所,日銀本店,東京駅を手掛けた辰野金吾(たつの-きんご)を顧問に迎え建てられました。建物は昭和20年(1945)原爆で焼失。現在のものは昭和28年(1953)に建てられたものです。




A-46:済美館(さいびかん)/広運館(こううんかん)跡【長崎県庁】
安政4年(1857)幕府は長崎奉行所西役所内にオランダ通詞、唐通事のほか一般の者も集め英、仏、露語の学習を始めるよう命を出し、ここに語学伝習所を発足させます。翌5年、岩原屋敷に移し英語伝習所と改称。文久2年(1862)片淵の乃武館内に移し英語稽古所と改称。翌年、立山に移し、すぐに江戸町に移転、洋学所と改称します。慶応元年(1865)新町の旧長州藩蔵屋敷に移し済美館とし歴史、物理、経済なども教えるようになります。明治元年(1868)旧立山役所に移し広運館、すぐに長崎府の入れかえで旧西役所に移転。明治4年(1871)文部省管轄となり、翌5年、第六大学区(のち第五大学区)一番中学となり、翌6年、立山に移り外国語中心の広運学校となります。翌7年、長崎英語学校と改称。明治10年(1877)文部省が経費削減のため廃止し、その代わり公立師範学校への補助を充実させます。
この広運館には督学(監督)に丸山作楽(島原藩士国学者)やフルベッキ(オランダ人宣教師)が就いたり、井上馨(明治政府の外務,内務,大蔵等の諸大臣を歴任)が館長兼国学や漢学の講師にもなりました。その他卒業生に西園寺公望(第12代総理大臣)や伊東巳代治(伊藤内閣農商務相)などがいました。




A-45:長崎府跡(ながさきふ-あと)【長崎県庁】
明治元年(1868)2月1日に発足した長崎裁判所には2月16日に九州鎮撫長崎総督府を置かれ九州各藩を監督します。5月4日に長崎裁判所は長崎府と改称し、澤宣嘉初代知事(知府事)となります。このとき長崎総督府は廃止されます。8月、長崎府庁は旧立山役所に移転。明治2年(1869)6月、長崎府は長崎県に改称し、わずか1年と数日ですが長崎府が存在していたことになります。
ちなみに大徳寺公園内にある旧大楠神社の鳥居は長崎府の役人が寄進した鳥居があり「長崎府」の文字を見ることができます。




A-44:長崎裁判所跡(ながさきさいばんしょ-あと)【長崎県庁】
明治新政府は明治元年1月28日、長崎に内乱を治める役職として九州鎮撫総督と外国事務総督を置き、総督に尊攘派(反幕派)の澤宣嘉(サワノブヨシ)を命じます。2月1日には行政機関として長崎裁判所を設置し、澤宣嘉長崎裁判所総督も命じます。澤宣嘉は2月15日に長崎入りし16日に発足。これにより長崎会議所は廃止されます。




A-43:長崎会議所跡(ながさきかいぎしょ-あと)【長崎県庁】
明治元年(1868)1月3日第125代長崎奉行河津伊豆守祐邦は「鳥羽伏見の戦い」で幕府軍の悲報を知り、同年1月14日にロシア船アトリン号に乗り、翌日、長崎を脱出し江戸に引き揚げます。1月16日、※在崎諸藩の世話役と長崎の地役人たちが集まり話し会いが行なわれ、各藩の合議制による統治機構として長崎奉行所西役所を長崎会議所を置きます。
※薩摩、長州、土佐、芸州、大村、宇和島、対馬、加賀、柳川、越前、筑後、肥前、平戸、五島、島原、小倉の18藩




A-42:海軍伝習所跡(かいぐん-でんしゅうじょ-あと)【長崎県庁】
海軍伝習所とは海軍学校のことで、文政2年(1855)長崎奉行所西役所内にオランダから海軍を学ぶために設けられます。この海軍伝習所はオランダ国王から木製外輪蒸気船スンビング号(250トン)が幕府に献上されたことを期に始まったもので、第一次伝習でペルス・ライケン艦長以下22人が伝習所教官として送り込まれ、スンビング号を観光丸と改名し練習が始まります。次に第二次伝習ではヤーパン号を購入し咸臨丸と改名、カッテン・ダイケ艦長以下37人の伝習が始まります。幕府から勝海舟をはじめ36人、各藩から129人の伝習生が送り込まれ習得に励みますが、経済的理由で文政6年(1856)に廃止され江戸に移されます。




A-41:長崎奉行所西役所跡(ながさきぶぎょうしょ-にしやくしょ-あと)
江戸町2-13(旧 外浦町)【長崎県庁】
文禄元年(1592)長崎奉行所を本博多町(現 万才町NTT付近)に置き、旧唐津領主の寺沢志摩守廣高を奉行に任命し統治を行います。寛永10年(1633)屋敷を東西(東屋敷・西屋敷)に分け機能を分離。しかし寛文3年(1663)の大火で焼失したため、機能分離を幕府に申請。延宝元年(1673)立山役所を設け東屋敷を移転し、旧屋敷を西役所と称します。この西役所は幕末まで東役所(立山役所)とともに幕府の機関として統治や貿易の管理を行います。坪数は1,679坪(約5,540平方メートル)。




糸割符貿易(制度・商法)
この制度はポルトガル船が運んで来る中国産の白糸(生糸)についてにとられた制度で、江戸幕府になった慶長9年(1604)に始まりました。これはまず幕府が有力町人から糸割符年寄を任命し、その下に糸割符仲間を組織させます。そして糸割符年寄は入港するポルトガル船の白糸について標準価格を決定し、糸割符仲間に一括購入させます。最初に幕府が原価で購入、次に長崎、京都、堺の糸割符仲間に配分され、これを糸割符仲間が織物業者などに高値で売り渡す仕組みになっていました。後にオランダや中国にもとられた制度で約100年間続きます。家康はこの輸入生糸が当時の支配層の衣類やぜいたく品で、さらに鎧や兜にとって必需品だったため幕府が管理統制することになったのです。




A-40:糸割符会所跡(いとわっぷ-かいしょ-あと)【長崎県庁】
糸割符会所とは糸割符貿易を取り仕切る貿易事務所のことで慶長9年(1604)に現在の県庁入口付近に設置されます。寛文3年(1663)の大火で焼失、その後、本博多町(現万才町NTT付近)にあった長崎奉行所と入れかえる形で糸割符会所を本博多町に移転させます。この糸割符貿易とは当時の主用輸入品である生糸(白糸)に対して行なわれた制度で、開港から行なわれた相対貿易(自由取引)に代わって行なわれた幕府介在型の貿易制度でした。




A-39:被昇天のサンタ・マリア教会跡(Sta.Maria)
天正20年(1592)長崎の多くの教会は壊され材木を肥前名護屋に運び出されます。翌文禄2年(1893)教会再建が許されイエズス会は慶長6年(1601)に被昇天のサンタマリア教会を現在の県庁のところに建てます。さらに慶長8年(1603)にはコレジオの塔が建ち三つの鐘時計塔が造られるのです。このほかここには印刷所も置かれ南蛮文化の普及を果たしますが、慶長19年(1614)幕府の命令で破却されます。
※被昇天とは自らの力ではなく、誰か(神)の力によって「天に昇らせられた」という意味があります。




A-38:イエズス会本部跡(Jesuit)
イエズス会本部、通称ゼウスのコンパーニャが、サン・パウロ教会の隣りに造られます。3階建ての大聖堂で、当時の長崎人は「3階の大屋」とか「森崎の大屋」と呼んでいました。しかしこのイエズス会本部は、ポルトガルの国旗がひるがえるポルトガル商館の役割を持っていたのです。このイエズス会本部は現在の県庁駐車場付近でした。




イエズス会管区長館跡(Jesuit)
日本司教座教会跡(にほん-しきょうざ-きょうかい-あと)
セミナリオ(Seminario)/コレジオ(Collegio)跡 
慶長6年(1601)サン・パウロ教会イエズス会管区長館日本司教座教会セミナリオコレジオなどが置かれます。当時、この地域が日本のイエズス会の中心地となるのです。
管区司教座は教会の行政単位である教区を指し、特に司教座とは司教の権威を象徴する椅子を意味し所有することは高い位の教会ということになります。また、セミナリオとはカトリックの初等教育の学校をいい、コレジオとはカトリックの高等教育の学校をいいます。




A-37:サン・パウロ教会跡(St.Paulo)【長崎県庁】
長崎県庁のところに長崎開港以前、森崎権現がお祀りされていましたが、元亀2年(1571)の長崎開港に伴い森崎権現を破却、イエズス会サン・パウロ教会を建てます。これは現在の県庁の建物のところにあって大門が県庁坂側にありました。しかし慶長19年(1614)のキリスト教禁教令により破壊されます。
※イエズス会とはカトリック教会の内部組織のこと。




A-36:森崎権現(もりさきごんげん)
江戸町2-13(旧 外浦町)【長崎県庁】
諏訪神社の祭神の一つ、森崎神社の創建も諏訪神社同様はっきりしておらず、その昔から森崎(現 長崎県庁付近)にお祀りされたものと伝えられています。当初は杵崎大明神(キネサキ-ダイミョウジン)と称し、これは森崎が天孫降臨伝説の残る金比羅山(瓊杵山)に続く岬として瓊瓊杵尊の霊地ということで杵崎と呼ばれていました。また、一説には熊野権現を勧請したもの、もしくは恵美須神の祠があったともいわれ、開港以前の長崎の町が漁村であったところから恵美須神説の方が有力といわれています。いずれにしても開港直後にキリシタンによって破却されてしまい一切の資料が残っていません。




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