広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成15年 〜2003年〜
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A-88:長崎税務所跡(ながさき-ぜいむしょ-あと)
興善町 番地不詳(旧 新町)
長崎の税金に関する役所は新町(現興善町)に明治11年(1878)の収税委員出張所の設置が最初で、明治14年(1881)以降、租税局長崎出張所長崎税務管理局などと改称が行なわれます。そして正式な税務署としては明治29年(1896)の長崎税務監督局が初めてで、庁舎は桜町(現市役所別館)にありました。大正8年(1919)庁舎を長崎商業会議所が買収。その後、大正10年(1921)長崎税務署は本大工町(魚の町6-15)に移転します。昭和59年(1984)現在の松が枝町に移転します。




A-87:巌流坂(がんりゅう-ざか)
興善町5番地-6番地間(旧 新町-旧引地町間)
長崎県自治会館横の坂を巌流坂といいます。昔は今の半分程度の小道で階段でしたが、長州藩蔵屋敷小倉藩蔵屋敷に挟まれているところからこう呼ばれます。つまり、長州藩は現在の山口県、小倉藩は福岡県の北九州にあたるところから、この両者を挟む関門海峡の巌流島(舟島)の名が付けられたという訳です。なお、巌流島は佐々木小次郎が武蔵と決闘をして敗れた場所で、佐々木小次郎は佐々木巌流ともいい、これが転じて巌流島となりました。




A-86:山脇泰助邸跡(やまわき-たいすけ-ていあと)【長崎県自治会館】
本木昌造の新町活版所廃止後、一時的ですが山脇泰助が住んでいました。山脇泰助はシーボルトの孫にあたる楠本タカを妻にした人物で明治初期から中期まで長崎医学校の教師を務めます。山脇泰助の没後一時期、この屋敷は料亭などに使われますが、すぐに雨森一郎が入り内科を開業します。しかし屋敷は昭和20年(1945)原爆の影響で焼失します。雨森氏は南山手に移転します。




A-85:近代印刷発祥の地・新町活版所跡
(きんだいいんさつ-はっしょうのち-しんまち-かっぱんしょ-あと)
【長崎県自治会館】
明治元年(1868)旧長州藩屋敷に入った済美館が旧立山役所に移転すると、あとにオランダ通詞の本木昌造によって始められた私塾新街義塾が設けられます。ここでは普通教育の場として読書、書道、算術、洋学を教え、さらには活版印刷の研究も行ない自らの教科書などもこの地で作ります。その後、明治3年(1870)に新町活版所として本格的に業務を始め、大阪、東京、横浜と次々に活版所を開設。横浜新聞や明治5年(1872)には長崎新聞を創刊します。




A-84:詩儒:吉村迂斎遺跡(しじゅ-よしむらうさい-いせき)
【長崎県自治会館】
吉村迂斎(寛延2:1749-文化2:1805)は、名を正隆、通称を久右衛門といい、詩儒とあるのは詩人であって儒学者という意味となります。迂斎はこの地にあった長州藩の御用達の家で、填詞(てんし:中国の古典文学で音楽につけた歌詞が文学化したもの)、古詩(こし:自由な形式の中国の古典詩の一種)、新詩(しんし:漢詩が衰退した後の新詩体)に長けていて、門弟に石崎融思や、友人に松浦東渓田能村竹田などがいました。




A-83:長州毛利藩蔵屋敷跡(ちょうしゅう-もうりはん-くらやしき-あと)
興善町6-24(旧新町)【長崎県自治会館】
この地には江戸時代、長州毛利藩蔵屋敷がありました。長州藩といえば萩城を拠点とした毛利氏の領地で36万石の藩でした。外様大名。
元治元年(1864)長州藩は京に兵を向けたため幕府は2度にわたり長州に兵を送ります(長州征伐)。このことより長崎奉行は長州藩屋敷接収、慶応元年(1865)江戸町に置かれていた仮語学所をこの屋敷に移します。そして名称を済美館と改めます。なお、済美館は明治元年(1868)旧立山役所に移転します。




A-82:新町尋常小学校跡
(しんまち-じんじょうしょうがっこう-あと)【長崎腎病院】
尋常小学校とは初等普通教育、今の小学校のことで、明治37年(1904)この地に設けられます。昭和9年(1934)近くの興善尋常小学校とともに廃止され、興善小学校の地に新たに新興善尋常小学校が開校します。昭和16年(1941)国民学校令によって新興善国民学校と改称。昭和22年(1947)新学制により長崎市立新興善小学校となります。平成9年(1997)の新興善、勝山、磨屋三校統廃合によって幕を閉じます。現在、長崎市立図書館には新町尋常小学校の門柱が残されています。




A-81:長崎県師範学校跡(ながさきけん-しはんがっこう-あと)【長崎腎病院】
明治5年(1872)明治政府は学制を頒布。
明治6年(1873)第一番向明学校(のちの勝山小学校)内に教員伝習所(教員仮師範所)を設け、私塾の教員に教授法の指導を始めます。
明治7年(1874)改めて小学教則講習所を設置。
明治8年(1875)小学教則養成所と改称し、興善小学校(旧 新興善小学校)に移転。
明治9年(1876)→小学教師養成所→長崎公立師範学校と改称。
明治10年(1877)旧 勝山小学校に再移転して公立崎陽師範学校と改称。
同年、新町(現 興善町:自治会館)に新校舎を設け移転し、あわせて付属小学校も開校します。
明治11年(1878)長崎県師範学校と改称。
明治19年(1886)長崎県尋常師範学校と改称。長崎県女子師範学校(明治17年創立)と合併。
明治22年(1889)桜馬場(現 桜馬場中学校)に移転します。
大正12年(1923)〜昭和8年(1933)まで大村に移転。跡地に女子師範学校が移転。
昭和9年(1934)桜馬場に再移転。女子師範学校と交換。
昭和12年(1937)西浦上(昭和町)に移転。
昭和18年(1943)長崎師範学校男子部・女子部となります。
昭和24年(1949)新学制の下、長崎大学が開学。長崎師範学校は大村に移転。
昭和26年(1951)長崎師範学校の最後の卒業生を送り出します。




A-80:小倉小笠原藩蔵屋敷跡(こくら-おがさわらはん-くらやしき-あと)
興善町5-3(旧新町)【長崎腎病院】
この地には江戸時代、小倉小笠原藩蔵屋敷がありました。小倉藩といえば小倉城を拠点とした小笠原氏の領地で15万石の藩でした。譜代大名。
九州各藩は長崎警備の目的で多くの軍勢を長崎に派遣しなければならず、そのため市内には14ヶ所の藩屋敷が置かれていました。藩屋敷は長崎奉行所との連絡業務のほか長崎に入る世界情勢などを収集する大変重要な拠点で、現在の領事館的役割を持っていました。




A-79:長崎郵便役所跡/本博多町郵便局
万才町7-1(旧 本博多町)【住友生命長崎ビル】
明治4年(1871)8月、長崎に初めての郵便役所が置かれ、当初は本大工町(現 魚の町)の岡村三郎宅を仮庁舎として開設します。本庁舎が無いまま12月5日東京-長崎間に郵便路線が開通し、12月13日ようやく本博多町の屋敷を借り受け業務を始めます。明治7年(1874)本博多町の長崎郵便役所長崎郵便役所外国郵便分室(西浜町旧薩摩藩邸)を梅香崎新庁舎(新地町6-53:旧市医師会館)に移転し長崎郵便局と改称します。本博多町の長崎郵便役所は一般の取り扱いのみの本博多郵便局となり、長崎郵便局は昭和45年(1970)長崎中央郵便局と改称、現在の恵美須町に移転します。

長崎東京間郵便線路開通起点の碑




A-78:小曽根邸跡(こぞね-ていあと)【現長崎地方法務局】
江戸から明治にかけて坂上天満宮の北側には越前藩松平家御用達の豪商:小曽根家の屋敷がありました。幕末、小曽根六左衛門とその子:栄(乾堂)は大浦の南側を造成し、一部を小曽根町として開いたことは有名です。また、ここの屋敷には土佐藩の坂本龍馬勝海舟などがよく出入りし、このほか海援隊近藤長次郎亀山社中との約束の中でイギリスへ独断で渡航しようとした疑いが発覚、近藤は責を取って小曽根邸の一室(梅の間)で切腹します。なお、近藤長次郎は別名を梅花道人(梅花書屋)と称し、彼の墓石には坂本龍馬によって「梅花書屋氏之墓」と書かれています(墓所:皓臺寺後山)。小曽根邸は昭和20年(1945)原爆の影響で焼失しました。




深堀騒動/深堀義士伝(−ぎしでん)
元禄13年(1700)12月19日夕刻、天満坂(現 法務局横)において深堀藩士2名が、当時財力と権勢を誇った町年寄高木彦右衛門の一行とすれ違った際、誤って泥はねをして着物を汚したことに始まります。その夜、高木家の武士が深堀家屋敷に仕返しに行き、武士の魂といわれる刀を奪い屋敷を荒らして帰ります。一方、今度は翌朝、深堀から多勢を引き連れ高木邸(現 きのくにや)に屈辱を晴らしに向います。これは町年寄という立場であったが町人である高木彦右衛門に対し、武士である深堀藩士が面目を晴らす意味がありました。高木彦右衛門を始め多くの者は討たれ討ち入りが終わります。当事者の2名(深堀三右衛門、志波原武右衛門)は高木邸と大橋(現 鉄橋)の上で切腹、討ち入りに参加した他の藩士は切腹や島流しになりました。この1年後、赤穂浪士の討ち入りがありましたが、深堀藩士の討ち入りを参考にしたともいわれています。なお、この深堀義士の墓が深堀の菩提寺に「十人義士の墓碑」として残っています。




坂上天満宮の伝説
今から約380年前の元和寛永年間。現在の万才町の法務局のある所に大音寺がありました。ある日、一人の旅人が菰(こも:ワラの包み)を抱えてお坊さま(傳譽上人)にお話を聞かせて欲しいと訪ねて来ました。菰をしばらく預かってもらい話を聞くことになります。お坊さまの話が終わるとその旅人は菰を置いたままどこかに出かけてしまいました。数日待っても帰って来ないため寺の僧が怪しく思い、その菰を開いて見ると天神さま(菅原道真公)の像が現れました。粗末にしてはいけないと、すぐに社を建てました。数年後、大音寺は現在の寺町に移転します。天神さまも一緒に移転します。ある夜、お坊さま(傳譽上人)の夢枕に天神さまが現れ“元の場所に戻すように”とお坊さまに伝えます。すぐに最初の場所に戻したそうですが、当時、このことからこの天神さまのことを土産天神と呼んだそうです。




A-77:坂上天満宮跡(さかのうえ-てんまんぐう-あと)【長崎地方法務局】
大音寺が現在地に移転した後、長門国(山口県)岡崎八幡宮の神主がこの地に訪れ、享保18年(1733)官許により天満宮を開いたのが起源といわれています。当時は高台ということもあリ多くの市民が眺望に訪れました。明治維新後、一時社地が私人の手に渡りますが明治31年(1898)に有志により復活、社殿を復興させます。しかし昭和20年(1945)原爆の影響で焼失。昭和30年(1955)に坂の下の賑町に移転します。現在、跡地の石垣には社殿の正面を表わす「正面」の字が残り、東小島町の八釼神社末社の菅神社の石祠は坂上天満宮の当初のものといわれています。このことから法務局横の坂を天満坂ともいいます。




A-76:浄土宗正覚山大音寺跡
(しょうかくざん-だいおんじーあと)【長崎地方法務局】
慶長19年(1614)の禁教令でミゼリコルディア本部の教会部が破却され、幕府あげて改宗の動きが高まりますがキリスト教徒の抵抗が激しく、大音寺開山となる筑後の僧:傳譽開徹(デンヨ-カイテツ)は、第3代長崎奉行の長谷川左兵衛より布教妨害のキリシタンの切捨て御免の許可を与えられます。そして改宗の功が奏し第2代将軍秀忠によりミゼリコルディア本部教会の跡を与えられ、元和2年(1616)大音寺が造られ翌年創建します。寛永15年(1638)傳譽は敷地が手狭になったため老中松平伊豆守に許しを得、現在地に移転します。またミゼリコルディアの教会にあった鐘を大音寺梵鐘に造りかえる許しを得ます。以降、法務局横の坂を大音寺坂といいます。




A-75:ミゼリ・コルディア本部(教会)跡(Misericordia)
万才町8(旧本博多町)【長崎地方法務局】
ミゼリコルディア本部とは民間社会福祉施設を意味し、ミゼリコルディアとはラテン語で慈悲という意味で、ミゼリコルディア本部とは、教会に付属した慈善事業本部(慈悲屋)を意味します。ここは日本初の福祉施設で天正11年(1583)日本人キリシタンのジュスティーノ・ジュスタ夫妻が開設しました。ここには付属施設として公会堂と慈恵病院孤児老人施設などがあり、福祉事業活動は次第に盛んになるにつれ、病院は長崎市内に7院を経営するようになり、海外にもその名を知られるようになります。慶長19年(1614)禁教令で教会部は破却、施設だけは残りましたが元和6年(1620)すべて破却されます。なお、ミゼリコルディアの教会にあった鐘は、その後、建てられた大音寺の梵鐘に造りかえました。




A-74:長崎奉行所跡(ながさきぶぎょうしょ-あと)
万才町2番地(旧本博多町)
長崎奉行とは海外との貿易と外交、それに長崎の行政や司法、軍事までを取り仕切る職にありました。文禄元年(1592)長崎奉行所を本博多町(現 万才町NTT付近)に置き、旧唐津領主の寺沢志摩守廣高を奉行に任命し統治を行います。寛永10年(1633)奉行所から失火、外浦町の糸割符会所(現長崎県庁)に奉行所を造築し、糸割符会所を本博多町に移し、これを機に屋敷を東西(東屋敷・西屋敷)に分け機能を分離。寛文3年(1663)の大火で再び焼失、今度は場所の分離を幕府に申請し、延宝元年(1673)立山役所を設け東屋敷を移転し、旧屋敷を西役所と称します。この西役所は幕末まで東役所(立山役所)とともに幕府の機関として統治や貿易の管理を行います。




A-73:本博多町(もとはかた-まち)/新町(しん-まち)/今町(いま-まち)
本博多町は現在のNTT-住友生命ビル-法務局付近で、文禄元年(1592)博多商人が来崎して開いた町の一つで一の堀の外にある商人の町でした。当初は博多町と呼び、後に今博多町が開かれたため本博多町に改称されます。同年、本博多町の外側にさらに新しい町が開かれ、博多町の西側、現在のKTN〜坂本屋前の通りを今町とします。のち、博多町の北側、現在の法務局前から商工会館までの通りを新町と名付けられます。三町は昭和38年(1963)に町界町名変更で万才町、興善町、金屋町にそれぞれ分けられました。




A-72:銀座跡(ぎんざあと)
万才町3-4前(旧大村町)
慶長5年(1600)徳川家康は関が原の戦いの後、全国統一に向け京都、大坂、江戸に銀座を設け銀の鋳造と管理を始めます。そして元和2年(1616)江戸幕府は無制限な銀の海外流失を防ぐために長崎の芊原付近に銀座(銀座屋敷)を置き、さらに京都:伏見銀座から銀見役らを呼び、良質な銀(灰吹き銀)や将軍の極印のない無判錠銀の監視させるのです。ここでは貿易商人に輸出する銀の量を申告させ現物と照合し、確認後、将軍の極印を押して、あわせて船長や貿易商人に起請文を書かせていました。芊原付近にあった銀座はその後、大村町(現 万才町)に移転し、寛文12年(1672)の市法売買法になるまで続きます。




A-71:一の堀跡(いちのほり-あと)
内側(大堀):万才町2番地-3番地間/6番地-7番地間。
外側(小堀):万才町2番地-興善町1番地間
文禄元年(1592)六町の外側、現在の市立図書館北側(万才町2-12)の場所に長崎奉行所が置かれ、長崎奉行の初代寺澤志摩守廣高は、当時、長崎が警戒していた深堀氏や西郷氏(諫早)に対して長崎奉行所の南側と北側にを設けます。南側の大堀、北側の小堀で、大堀は現在の万才町住友生命ビルと明治生命館の間に造られ、小堀は現在の興善町交差点-南社会保険事務所までの通りのところに造られました。しかし、江戸時代には埋立てられ、大堀は本博多町に組み込まれ、小堀には家が立ち堀町と命名されます。ちなみに、町年寄宅はこの堀の内側に建てられていました。




A-70:大村町製茶所
嘉永6年(1853)油屋町の大浦慶は出島のオランダ人テキストルと相談して嬉野茶の見本をアメリカ、イギリス、アラビヤに送ると、3年後にイギリス人貿易商オルトより10数万斤(60超トン)の注文を受けます。しかし九州一円のお茶をかき集めても1万斤のお茶しか間に合わせることができませんでした。これが初めての製茶の輸出となります。以降も順調に輸出が行われ、安政6年(1859)外国貿易製茶改所が置かれ、万延元年(1860)大村町に製茶出張所が設けられます。文久元年(1861)の長崎港の製茶輸出は260万ポンド(約5700トン)で長崎港の主要輸出品となります。




A-69:フロイス通り(Luis Frois)
近年、旧長崎グランドホテルから長崎商工会館に向かう通り(旧嶋原町〜新町の通り)をフロイス通りと名付けられました。
このフロイスとはイエズス会宣教師ルイス・フロイス(1532:天文元−1597:慶長2)のことをいいます。フロイスはポルトガルのリスボンの生まれで1563年(永禄6)31才のときに来日し、平戸で日本の習慣などを学び京都に上り足利義輝の保護のもと布教活動を行ないます。さらに織田信長の保護も受け活躍するのですが、1587年(天正15)大阪城で豊臣秀吉と会見後はキリシタン追放令などで拠点を地方へ移し1590(天正18)長崎に入ります。その後、マカオに一時離れますが、長崎での1596年(慶長元)の二十六聖人の殉教に遭遇、その記録をまとめます。1597年(慶長2)サン・パウロ教会付属のコレジオ(現長崎県庁)で昇天します。このことからフロイスゆかりの地に近いこの通りをフロイス通りと命名されました。




○長崎地方検察庁
明治8年(1875)長崎上等裁判所が新設されることになり場所の選定まで興福寺の方丈と書院が一時あてられ、明治10年(1877)旧後藤邸に移転します。明治14年(1881)治罪法の改正によって長崎控訴裁判所に改正します。昭和20年(1945)8月、裁判所構成法、戦時民事特別法によって福岡市に移転します。跡地には昭和23年(1948)木造新庁舎として長崎地方検察庁と長崎地方裁判所が開庁。昭和35年(1960)長崎地裁は合同庁舎完成と当時に移転。昭和42年(1967)現在の庁舎が完成します。




A-68:町年寄後藤家跡(まちどしより-ごとう-ていあと)
万才町9-26(旧島原町/旧萬歳町1)【長崎地方検察庁】
長崎は天領ということで幕府から命ぜられた長崎奉行が支配します。そして奉行の下で長崎の地元の役人(地役人)の町年寄が町の行政を司ります。町年寄は当初4人制、幕末には9人制にまで増やされます。その中の後藤家の屋敷がこの地にありました。




○長崎地方裁判所
明治7年(1874)萬歳町4,5番地に長崎裁判所が置かれ、明治9年(1876)同所に検事局が置かれます。一旦、府県裁判所の廃止に伴い長崎裁判所は廃止され新たに旧高木邸に長崎地方裁判所が新築され開庁します。明治14年(1881)治罪法の改正によって長崎始審裁判所、治安裁判所に改正されます。昭和20年(1945)原爆の影響で焼失。昭和23年(1948)木造新合同庁舎が開庁し、長崎地方裁判所、長崎地方検察庁が置かれます。昭和23年(1948)地裁の中に長崎家庭裁判所が開庁。昭和35年(1960)長崎地方裁判所、家庭裁判所、簡易裁判所の3裁判所が入る合同庁舎が完成。昭和44年(1969)現在の庁舎となります。平成初年、家庭裁判所、簡易裁判所は万才町6-25に移転します。




A-67:明治天皇行在所(めいじてんのう-あんざいしょ)【長崎地方裁判所】
旧町年寄高木邸は明治5年(1872)の明治天皇の長崎行幸のとき、行在所(臨時の滞在所の意)として使われます。解説書に次のようにあります。「車駕(しゃが)西巡して長崎に至り、島原町なる控訴院の所にあった町年寄の家を行在所となし、市民の恐懼(きょうく)してその栄光を不朽に伝えんため町名を万歳町と改称したり」 この時、市民は旧高木邸の下に集まり明治天皇を称え万歳をしたといいます。その後、嶋原町萬歳町に改称します。昭和38年(1963)の町界町名変更で萬歳町は万才町となります。




A-66:町年寄高木家跡(まちどしより-たかぎけあと)
万才町9-26(旧島原町/旧萬歳町2,3)【長崎地方裁判所】
長崎は天領ということで幕府から命ぜられた長崎奉行が支配します。そして奉行の下で長崎の地元の役人(地役人)の町年寄が町の行政を司ります。町年寄は当初4人制、幕末には9人制にまで増やされます。その中の高木家の屋敷がこの地にありました。




A-65:料亭満月跡(りょうてい-まんげつ-あと)
万才町10-11(旧島原町/旧萬歳町)【築町パーキング】
昭和初期〜第二次大戦まで料亭満月が萬歳町で営業していました。ここは鶏や牛肉の水たきの元祖で、後に博多に移って博多の名物となるのです。建物は昭和10年代に火災により焼失します。
※後日談ですが、この火事の火が出始めたとき、料亭の板前が飛び出して来るも再び家財道具を取りに火事の中に入って行きます。しかし二度と現れることはなく「一度焼け出されたならは、二度と家の中に入るな」という経験談が残っています。




A-64:長崎グランドホテル跡
万才町5-3(旧 外浦町)
江戸時代末期、長崎市内にも多くの西洋料理店が建つようになり、幕末には小島村の福屋、伊良林の自由亭と次々と開業し、明治17年(1884)西濱町に山浦次吉によって精洋亭がオープンします。当時、精洋亭は西洋料理店とホテルも兼ね備え、先の2軒と共に長崎三大洋食屋と呼ばれていました。精洋亭はその後、経営者が変わり、昭和36年(1961)、当時、外浦町にあった長崎観光ホテル跡地に移転。名称も長崎グランドホテルとし、長崎を代表するホテルとして多くの政財界の拠点となります。平成19年(2007)廃業。




A-63:本木昌造宅跡(もとき-しょうぞう-たくあと)
万才町5-3(旧外浦町)【旧長崎グランドホテル】
本木昌造(文政7年:1824-明治8:1875)は名を永久。通称は昌造、悟窓と号した。長崎市新大工町の乙名:北島三太夫または馬田又次右衛門の子として生まれ、天保5年(1834)11才のとき、母の兄であった本木昌左衛門の養子となります。本木家は代々オランダ通詞役を務めていた家で、元来平戸の人でしたが官命により長崎に移って来ます。本木昌造オランダ通詞となり嘉永6年(1853)ペーリー来航時には他の通詞と通訳を務めます。また、西洋の技術に着眼し西洋活字の鋳造、製鉄業、造船、航海業と多くの業績を残し、中でも万延元年(1860)には飽ノ浦製鉄所(のちの三菱造船所)の御用掛(のち頭取)となり、さらに私塾の経営、明治元年(1868)には鉄橋の架橋など日本の近代化に大きく貢献します。




A-62:町年寄久松家跡(まちどしより-ひさまつけあと)
万才町5-17(旧外浦町)【福岡銀行長崎支店】
長崎は天領ということで幕府から命ぜられた長崎奉行が支配します。そして奉行の下で長崎の地元の役人(地役人)の町年寄が町の行政を司ります。町年寄は当初4人制、幕末には9人制にまで増やされます。その中の久松家の屋敷がこの地にありました。明治維新を迎えこの制度は解体されます。




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