広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成15年 〜2003年〜
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A-141:八百屋町(やおやまち)
八百屋町は当時の船着場であった船津町付近から文禄3年(1594)に開かれた「山のサンタマリヤ教会(現 長崎歴史文化博物館)」へ直線に伸びる参道という考え方と、慶長6年(1601)に「山のサンタマリヤ教会」後方へメスキータ神父が桜町のキリシタン墓所を移設した際に新設された通りという考え方があって、後者はそのとき石畳に整備され、これが長崎初の石畳の通りといわれています。その後、往来が増えるにつれ立山や西山などで採れた野菜などを販売する露天が生まれ八百屋町が誕生。町名町界は変化なく今に至っています。




A-142:橘中佐下宿の跡(たちばな-ちゅうさ-げしゅくの-あと)
勝山町22-1(旧 勝山町)【長崎県税事務所】
橘中佐は本名を橘周太といい慶応元年(1865)長崎県千々石町生まれ、幼少の頃から漢文や日本外史を学び11才のとき勝山小学校に入学します。13才で長崎中学校に入学し、その後、軍人を志願して15才で上京、陸軍士官学校に入学します。卒業後は陸軍の道を進み、少尉、小隊長、東宮侍従武官、38才で少佐となり、明治37年(1904)日露戦争で軍の管理部長として中国遼東半島に向います。そこで連隊大隊長となり活躍するのですが、旅順港の攻防で部下のために自らの命を捨て戦い明治37年(1904)8月31日戦死(40才)します。橘少佐は8月31日付けで陸軍歩兵中佐を命ぜられ、以降、橘中佐は軍神としてあがめられ昭和15年(1940)雲仙市千々石町に橘神社を設け橘周太命(タチバナシュウタノミコト)としてお祀りされるのです。ここは橘中佐が勝山小学校に入学したときから数年間、下宿していた家があった場所です。




恩師頌徳碑(おんし-しょうとく-ひ)【桜町小学校校庭】
恩師頌徳碑は勝山小学校に関係した歴代の先生を称えたもので、昭和3年(1928)勝山同窓会によって建てられました。碑文によると「権太 政」「百村卓爾」「北野孝治」の3人の名前を見ることができ、このうち権太政は勝山小学校の創立当初の校長で、それまでの寺小屋式の教育を改め西洋の教育方法を取り入れるなど長崎県内外の教育を開拓した人物で、百村卓爾もまた校長を務め模範的な指導方法を知事より表彰されます。さらに、北野孝治は明治27年(1894)から大正13年(1924)まで勝山小学校の校長を30年間務めたとても教育に熱心な人物で、また、勝山小学校校歌の作者でもあります。
勝山小学校校歌:御代の光のさしそいて あおぐも高き勝山の 学びの庭のみをしへを 日々に守りていそしまん これぞ我等のつとめなる これぞ我等つめなる




A-141:教員仮師範所跡(きょういんかりしはんじょ-あと)【桜町小学校】
明治5年(1872)明治政府は学制を頒布。
明治6年(1873)第一番向明学校(のちの勝山小学校)内に教員伝習所(教員仮師範所)を設け、私塾の教員に教授法の指導を始めます。
明治7年(1874)改めて小学教則講習所を設置。
明治8年(1875)小学教則養成所と改称し、興善小学校(旧 新興善小学校)に移転。
明治9年(1876)→小学教師養成所→長崎公立師範学校と改称。
明治10年(1877)旧 勝山小学校に再移転して公立崎陽師範学校と改称。
同年、新町(現 興善町:自治会館)に新校舎を設け移転し、あわせて付属小学校も開校します。
明治11年(1878)長崎県師範学校と改称。
明治19年(1886)長崎県尋常師範学校と改称。
明治22年(1889)桜馬場(現 桜馬場中学校)に移転します。
大正12年(1923)〜昭和8年(1933)まで大村に移転。跡地に女子師範学校が移転。
昭和9年(1934)桜馬場に再移転。女子師範学校と交換。
昭和12年(1937)西浦上(昭和町)に移転。
昭和18年(1943)長崎師範学校男子部・女子部となります。
昭和24年(1949)新学制の下、長崎大学が開学。長崎師範学校は大村に移転。
昭和26年(1951)長崎師範学校の最後の卒業生を送り出す。




A-140:勝山小学校跡(かつやましょうがっこう-あと)【桜町小学校】
明治5年(1872)学制発布にともない翌6年(1873)長崎の中心部に3つの小学校が開かれます。第一番向明学校、第二番啓蒙学校、第三番楓川学校の3校です。このうちの第一番向明学校は翌7年(1874)勝山小学校と改称され同時に5つの分校を置きます。明治6年から昭和10年まで木造の校舎で授業を行なわれ、昭和11年(1936)鉄筋コンクリート造3階建ての校舎となります。この建物は長崎市建築課技丁で郷土史家、勝山小学校卒業生の丹羽漢吉の設計で、竣工当時はモルタル仕上げの明るいクリーム色でしたが、戦時中は勝山尋常小学校となり、建物は迷彩に塗られてたそうです。戦後は元の姿に戻されましたが平成12年(2000)解体。さらに平成9年(1997)新興善、勝山、磨屋三校は統廃合によって幕を閉じ、平成16年(2004)からは桜町小学校として再出発します。




代官井戸(だいかん-いど)【桜町小学校校庭】
桜町小学校(旧勝山小学校)は江戸時代、長崎代官の末次平蔵や高木作右衛門が代々屋敷を構えていたところで、現在、敷地南側角には、その当時使用されていた井戸が残っています。この井戸は昭和57年(1982)旧勝山小学校プール新設工事の際、偶然発見され保存されることになりました。井戸の直径は約1メートル、深さは約9.6メートル。このほかサント・ドミンゴ教会資料館内にも数ヶ所の井戸跡を見ることができます。




A-139:末次平蔵宅跡(すえつぐ-へいぞう-たくあと)【桜町小学校】
慶長19年(1614)の禁教令によってサント・ドミンゴ教会が破却された後、その跡地には第3代長崎代官:末次平蔵(政直)が屋敷を建て長崎代官屋敷とします。代官の制度は内町以外の地域(外町)から定額の地租を納めさせて統治するもので、文禄元年(1592)初代:村山等安、元和2年(1616)から第2代の末次平蔵(政直)となります。末次家は代々世襲されていくのですが、延宝4年(1676)第6代末次平蔵茂朝のとき密貿易が発覚、一族は死罪や流罪となり末次家は滅亡します。以降、町年寄の高木作右衛門が代行するようになり、元文4年(1739)長崎代官が再設され、代々高木家が世襲することになります。




A-138:サント・ドミンゴ教会跡(Santo Domingo)【桜町小学校】
長崎開港後(元亀2:1571)イエズス会は現在の県庁のところにサン・パウロ教会、慶長13年(1608)フランシスコ会は現在の市役所別館のところにサン・フランシスコ教会、そして慶長14年(1609)キリスト教のドミンゴ会はこの地にサント・ドミンゴ教会を建てます。この土地は第2代長崎代官村山等安の所有地で、等安がドミンゴ会に寄進したといわれています。慶長19年(1614)禁教令によって教会を破却されます。平成16年(2004)に開館したサント・ドミンゴ教会跡資料館には、桜町小学校建設の際に発掘された花十字紋瓦など貴重な埋蔵物や当時の遺構の一部をそのまま展示しています。




A-137:村山等安宅跡(むらやまとうあん-たくあと)
勝山町30(旧 勝山町)【桜町小学校】
村山等安(永禄9:1566-元和5:1619:洗礼名アントニオ)はもともと名古屋の人で子供の頃に来崎しました。文禄元年(1592)の文禄の役のとき、名護屋城で豊臣秀吉から長崎の惣代として信頼を得、長崎代官に命ぜられます。その頃の居所がこの地といわれていて、その後、貿易などで莫大な利益を得るようになるのです。元和4年(1618)頃、豪商の末次平蔵(父は末次興善)との間で金銭問題が起こり等安は訴えられ、その上キリシタンであることが密告されたり、関が原の戦いで大坂方に内通していたことなどから捕らえられ、元和5年(1619)江戸で斬罪に処せられます。なお、等安の後の代官は訴えた末次平蔵になります。墓所は皓臺寺。




A-136:三の堀跡(さんのほり-あと)
桜町小学校南側境界(旧桜町-旧引地町)
長崎の防備のために文禄元年(1592)の一の堀、慶長元年(1696)のニの堀に続いて、慶長6年(1601)三の堀が造られます。この三の堀は当時の長崎を囲むように造られ、これが後の内町と外町の境界と定められます。三の堀もニの堀同様大堀のみの構造でした。寛文12年(1672)大堀の廃止と共に埋立てられ町並みが整備され、一部、岩永宗故の屋敷となります。




A-135:勝山町(かつやま-まち) 
勝山町は開港後に開かれた六町と長崎甚左衛門の居城の桜馬場地区とを結ぶ地域で、由来は諸説あって、長崎甚左衛門の家臣:勝山左近(カツヤマ-サコン)の屋敷があったとか、天正6年(1578)にのちに合戦場と呼ばれる場所で長崎氏と深堀氏が戦いを行い、長崎氏が勝ったところから、この小高い丘を勝山に改称したともいわれています。町自体は江戸時代始め頃に開かれ外町に属し、以降、勝山町は町界町名変更などなく今に至っています。




A-134:豊後町電停跡/小川町電停跡
(ぶんごまち/おがわまち-でんてい-あと)桜町1(旧小川町)
長崎の電車は大正4年(1915)の築町-病院下(長崎大学病院)間の開通を皮切りに順次路線が延長されます。この桜町を通る路線は大正8年(1919)から翌年にかけて開通、当時は長崎駅の方から現在の桜町公園横を上り、古町の方へ下っていました。現在の桜町電停は当初「豊後町」と命名され、すぐに「小川町(おがわまち)」に改称されます。小川町は正式には「こがわ-まち」なのですが、どういう訳かこう呼ばれました。昭和29年(1954)都市計画道路の桜町立体交差が完成、電車は坂を登らず公会堂の方へ国道34号線をくぐって抜けるようになります。現在では電車の坂を登る光景もなくなり、線路は道路や市場(現勝山市場)に変わり、市場横に当時の石垣を残すのみとなりました。




A-133:斎藤茂吉歌碑(さいとうもきち-かひ)
桜町10(旧内中町)【桜町公園】
この歌碑は斎藤茂吉の3回忌にあたる昭和31年(1956)10月に長崎アララギ会建立しました。この場所と茂吉とは全く関係はありませんが、茂吉にちなんだ場所に適当なところがなかったため門下達がこの地を選んだといわれています。
碑文「あさ明けて 船より鳴れる太笛の こだまは長し並みよろふ山 茂吉
※漢字の参照○こだま:木霊=やまびこの意 
○よろふ:具ふ=そなえる。そろう。具え足す意。
○よろい:鎧、甲冑(こうちゅう)にて身を固める。鎧を着る。




内町外町(うちまち-そとまち)
内町とは天正8年(1580)イエズス会領として寄進された地域を天正16年(1588)に豊臣秀吉が取り上げ直轄領とした地域で、長崎奉行が管理し地租が免除されていました。外町とは、内町以外の地域で長崎代官の管理地で地租がありました。この内町外町の制度は元禄12年(1699)まで行なわれていて、その後は長崎奉行の管理となります。




A-132:内中町(うちなか-まち) 現 桜町
内中町の通りは現在の八百屋町から桜町公園と長崎市議会の建物の真ん中を貫いていた通りで、戦前までは住宅地が建ち並ぶ静かな町といわれていました。この内中町は桜町(市役所前の通り)と小川町(桜町公園バス停前)の中間に位置し、内町に属しているところから内中町となりました。昭和20年(1945)4月。第二次建物疎開によって内中町はすべて撤去され、戦後復旧の計画で道路と公園そして長崎市の建物に変えられてしまいました。




長崎県農民会館跡/農地改革記念碑【瓊の浦公園】
第2次大戦後、日本は農業の民主化が成されます。昭和23年(1948)長崎県農地委員会はこの地に長崎県農民会館を建て農民文化の向上に努めます。そして昭和44年(1969)この施設は使命を果したということで解体され記念碑が建てられました。




A-131:三菱病院船津町分院跡【瓊の浦公園】
瓊の浦公園の一角に三菱病院船津町分院がありました。三菱病院は飽の浦町の本院と茂里町、そしてこの船津町に病院を持っていました。しかし、昭和20年8月9日原爆投下後の火災によって茂里町と船津町の分院は焼失します。




A-130:長崎日日新聞社跡(ながさき-にちにちしんぶんしゃ-あと)
【瓊の浦公園】
本木昌造が活版伝習所を開き、明治6年(1873)長崎新聞が創刊されます。その後、休刊や経営の引継ぎなどが行なわれながら明治43年(1910)まで続きます。一方、現在の長崎新聞は明治22年(1889)の長崎新報が起源となり、長崎新報は明治44年(1911)長崎日日新聞と改称し、第2次大戦の言論統制では他の3社と共に長崎日報として発足させられます。昭和21年(1946)すぐに4社に分離。長崎日日新聞はこの地に社屋を設けます。昭和34年(1959)長崎民友新聞と合併し出島町に移転、長崎新聞と改名し現在に至ります。




A-129:瓊の浦公園(たまのうら-こうえん)
恵美須町5,4(旧船津町)
瓊の浦とは長崎港の別名で瓊江(たまえ)または玉江ともいいます。また、「瓊浦」とかいて「けいほ」と読ませる場合もあります。もともと「瓊」には美しい玉という意味があり、それだけ長崎の港は美しかったのでしょう。ここには以前、長崎新聞の前身:長崎日日新聞社三菱病院長崎農民会館などがありました。昭和36年(1961)から42年までくんちの踊り場にも使われていました。




A-128:船津町(ふなつ-まち) 現 恵美須町、金屋町
船津町は現在の金屋町と恵美須町の境界の通り(瓊の浦公園横)に位置し、長崎開港から江戸時代中期までは、この通りが海岸線でした。この海岸沿いに貿易船から多くの荷物が荷揚げされたり、大坂方面へ向う船へ荷物が積み込まれたりと、大変賑やかな町でした。このほか船の修理場もあったといわれています。船津とは津とは「港」の意味があり、そこから船津町と呼ぶれるようになります。




A-127:出来町(でき-まちorでけ-まち)
KTN玄関の少し下から瓊の浦公園まで、最後は階段になっている小さな路地があります。江戸時代は出来町と呼ばれていました。今町に続いて新しく出来上がった町で出来町というのですが、この出来町は俗称で本蓮寺の過去帳に出てくるだけの小さな町です。現在は使われていません。




A-126:梅鉢横町(うめばち-よこちょう)
梅鉢横町とは以前まで使われていた俗称で今町の一部をいいます。この梅鉢とは天満宮(菅原道真公)の紋で、梅の花の5つの花びらをデフォルメして作られています。そこから長崎では珍しい5つの道が交差しているところを梅鉢にちなんで呼んでいたのです。梅鉢横町は現在のKTN玄関下の交差点、現在は坂道ですが昭和10年代(1940頃)までは筋違いの道で階段になっていました。




A-125:後藤象二郎宅跡(ごとう-しょうじろう-たくあと)
金屋町1-7(旧今町)【KTNテレビ長崎】
後藤象二郎は(天保9:1838-明治30:1897)は土佐(高知)出身の武士で若い頃から開国進取論や蘭学、航海術を学びます。慶応2年(1865)藩の殖産機関の開成館や土佐商会(開成館長崎出張所)を任され土佐の産業を活発にし、長崎では土佐藩を脱藩した坂本龍馬と出会い意気投合し土佐藩へ協力を求めます。さらに坂本龍馬の意見を受け入れ、土佐藩主:山内容堂を説得し大政奉還を建白させます。新政府発足後は、政府の参与や大阪府知事、参議を歴任し、実業界にも乗り出し、高島炭坑を経営を始めますが失敗。高島炭鉱は岩崎弥太郎に譲渡します。その後の政治家としての活躍は黒田清隆内閣(明治21:1889)から松方正義内閣まで逓信大臣、伊藤博文内閣のとき農商務大臣を務めます(明治27:1894まで)。




A-124:金屋町(かなや-まち) 現金屋町
金屋町の由来は諸説あって、長崎の六町から船着場に向う通り(今町)の隣りに位置し、金屋町は商人が多く住む町と考えられます。日用品(主に金物)を取扱う商店が多く、特に金屋と呼ばれるところから鍛冶屋があったとも考えられます。また、さかなや町の“さ”の字が取れて金屋町という考え方もありますが、当時、魚が水揚げされていたところは大川(現中島川)の中流域にあった魚屋町(ウオヤマチ)でした。




山内善三郎(やまのうちぜんざぶろう)
山内善三郎(弘化2:1845-大正4:1915)は浦五島町の橋本定七の五男として生まれ、のちに山内家を継ぎます。15才で事業を始め、幾多の苦難を乗り越え明治20年(1887)機械油の必要性を知り東京に鉱油製造工場を建設し製造を開始します。その後、日清戦争が勃発、軍用機械油を一手に引き受けることになり巨利を得るのです。明治35年(1902)小曽根町に長崎瓦斯会社を設立。居留地を中心とした地域の電灯や燃料の供給を始め、長崎の工業発展に寄与します。没後、遺族によって5万円(今のお金で約4500万円)を市の教育基金として寄付。大正12年(1923)には山内慶華財団を設立し慶華会館、幼稚園を経営し学生の教育資金援助などに貢献します。墓所は深崇寺後山




A-123:慶華会館跡(けいかかいかん-あと)
金屋町3(旧今町)【長崎南社会保険事務所】
大正時代、今町に鉱油やガス事業で財を成した山内善三郎の屋敷があって、没後に遺族は長崎市に多額の遺産を寄付(のちの山内奨学資金)。さらに山内慶華財団を興し慶華会館と呼ばれる円形のドーム付き赤レンガ2階建の建物を建て、慶華幼稚園と山ノ内女塾を置きます。この女塾は女学校を卒業した女性に教養を学ばせるために設けられた施設で主に茶道を教えていましたが、誰もが通っていた訳ではなく比較的裕福な家庭の子が多かったようです。このほか万才町の裁判所付近には藤野女塾、浜町の田中屋2階にも女塾がありました。




A-122:斎藤茂吉住居の跡
金屋町6-12付近?(旧金屋町)
斎藤茂吉旅館みどり屋から大正6年(1917)12月に旧金屋町21番地(現KTN前付近)の屋敷に移り大正7年(1918)4月まで住んでいました。現在では所在の番地は道路になっています。その後、東中町54番地(現 上町6‐27)に移ります。




A-121:旅館みどり屋跡/斎藤茂吉最初の宿泊地
金屋町2-9(旧今町)【小林産婦人科】
現在のKTN前の通りは明治期から旅館街となり、その中のみどり屋には陸軍大将の乃木希典や海軍大将の東郷平八郎らが滞在していたといい、大正6年(1917)年末には長崎医学専門学校の教授として赴任した斎藤茂吉が宿泊した旅館でもあります。当時ここからは長崎港が一望でき斎藤茂吉の「あさ明けて 船より鳴れる太笛の こだまは長し並み鎧ふ山」の歌はここで作られます。昭和13年(1938)から小林産婦人科となります。




A-120:人参座跡(にんじんざ-あと)
金屋町(旧 今町)
貞享元禄年間(1684-1704)人参は薬草として朝鮮半島より日本に入り栽培が行われるようになり、国産人参の生産も盛んになりますが、享保19年(1734)町人らの申し出により広東人参の販売が許可されます。幕府は人参の販売を取り締まるため人参座を設け、吟味役3名、諸払役5名を任命し管理させます。宝暦元年(1751)ごろに廃止。跡地には唐通事会所が置かれます。




A-119:サン・ペドロ教会跡(さんぺどろきょうかい-あと)(San Pedro)
金屋町(旧 今町)
キリシタン全盛期の慶長12年(1607)サン・ペドロ教会を創立します。しかし、完成間もない慶長19年(1614)禁教令によって破却されます。




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