広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成15年 〜2003年〜
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長崎市立高等女学校跡(こうとう-じょがっこう-あと)【上長崎小学校】
女子中等学校の入学希望者の増加で大正11年(1922)下西山町の西山女児高等小学校内に長崎市立高等女学校が開校。大正13年(1924)西山女児高等小学校を廃止し、その校舎を市立女学校に当てます。昭和13年(1938)桜馬場町の長崎県師範学校跡に移転移転。昭和23年(1948)新制高等学校になり竹の久保町にあった長崎市立高等学校と統合され長崎市立高等学校に改称。のちの鳴滝高校へ続きます。




A-182:長崎市立上長崎小学校
下西山町9-1(上長崎村西山郷)
旧鳴瀧塾は幕末から明治の初年までシーボルトの娘イネが使用していましたが、明治9年(1876)第5大学区第1中学校区鳴瀧小学校として使用されます。一時、西山女児高等小学校も置かれます。明治26年(1893)西山町3丁目42番地へ移転し上長崎小学校が開校。明治19年(1886)小学校令により尋常4年(義務教育)、高等4年に分け、校名に尋常、高等の名前が入ります。明治28年(1895)片渕町2丁目に新築移転。昭和13年(1938)長崎市立高等女学校が移転したため跡地に再び移転。昭和16年(1941)上長崎国民学校と改称。昭和22年(1947)新学制により長崎市立上長崎小学校となり今に至ります。




A-181:県立長崎高等女学校跡(こうとう-じょがっこう-あと)
【東高跡地公園】
明治34年(1901)高等女学校令により長崎市に初めて4年間の学校:長崎県立長崎高等女学校の認可が下り、明治35年(1902)西山郷に開校します。昭和23年(1948)学制改革により旧制中学は新制高校に変わり長崎県立長崎女子高等学校となり、あわせて明治17年(1884)開校の長崎県立長崎中学校、大正11年(1922)開校の長崎県立瓊浦中学校と長崎県立高等女学校の3校と統合し、長崎東高、長崎西高の2校に統廃合します。

○高木與作翁彰善碑
高木與作(天保11:1840-大正14:1925)は佐賀小城藩牛津出身で明治3年(1870)長崎入りし種類販売業を創めます。当時は西九州随一の富豪といわれ不動産業なども手がけ、大正2年(1913)東濱町に長崎高木銀行を資本金100万円で設立。個人経営の銀行として評判となります。大正9年(1920)には県立長崎高等女学校開校のため西山の広大の敷地1870坪を寄付し紺綬褒章が贈られています。しかし昭和4年(1929)金融恐慌によって長崎高木銀行は倒産となります。墓所:興福寺後山。この高木與作翁彰善碑は大正10年(1921)に建立されました。




A-180:長崎県立東高等学校跡(-ひがし-こうとうがっこう-あと)
下西山町(13〜)16 (旧 長崎村西山郷/西山町)【東高跡地公園】
明治6年(1873)公立小学校(向明学校、啓蒙学校)が開校。
明治9年(1876)小学生の卒業に伴い県立準中学校が外浦町の民家に開校。しかしすぐに手狭となり中島聖堂内(現 伊勢町)に移ります。
明治11年(1878)立山の英語学校の廃止に伴い移転し長崎中学校と改称します。のちに県立長崎中学校へ。
明治17年(1884)県内の他の中学校を廃止し長崎県立中学校が設立。
明治19年(1886)中学校令により長崎県尋常中学校に改称。
明治32年(1899)中学校令により長崎県長崎中学校に改称。
明治34年(1901)長崎県立長崎中学校に改称。
明治41年(1908)福富町(現 幸町)に仮校舎を建て移転。
立山の跡地に長崎県女子師範学校入る。
大正2年(1913)中川郷(現 鳴瀧高校)に新築移転。
昭和23年(1948)学制改革により旧制中学は新制高校に変わり長崎県立長崎高等学校となる。
あわせて明治35年(1902)開校の県立長崎高等女学校、大正11年(1922)開校の県立瓊浦中学校の3校と統合し、長崎東高、長崎西高の2校に統廃合。西山町にあった長崎県立長崎高等女学校の校舎を長崎県立長崎東高等学校として始まります。
昭和51年(1976)施設の老朽化と敷地の狭さから現在の立山5丁目13-1に移転、現在に至ります。




A-179:黄檗宗祇樹林跡(ぎじゅりん-あと)
西山本町9付近(旧長崎村西山郷字椿原)
江戸時代、崇福寺には23の末庵を持ち、特に広福庵、緑蘿庵、大悲庵、祇樹林、広コ院は独立した寺院の位を持っていました。その中の祇樹林は、貞享2年(1685)唐僧の惠雲(のち雪摩)が興福寺に創建したのが始まりで、一時崇福寺に移りますが、享保2年(1742)西山の地に開かれます。この祇樹林には唐船から盛んに寄進が行なわれていましたが、次第に維持が困難となり、明治10年(1875)崇福寺内の広福庵に合併。跡地は売却されます。現在、祇樹林歴代の墓所のみ現存。




A-178:梅屋敷(うめやしき)
西山2丁目20付近(旧長崎村西山郷)
左近稲荷神社の北側、ちょうど谷間になっているところに以前まで梅屋敷と呼ばれる屋敷がありました。梅屋敷は明治以降にある商家が別荘として大きな屋敷を建て、その庭にたくさんの梅を植えたところからこう呼ばれているといわれています。戦後、この屋敷の川向こうに九州電力の所有の屋敷(西山本町22-38)があって、そこに長崎学の祖:古賀十二郎が晩年を過ごされていました。しかしその屋敷は平成12年(2000)に解体されました。




A-177:左近稲荷神社(さこん-いなり-じんじゃ)
西山2丁目15(旧長崎村西山郷字小川)
左近稲荷神社はいつの頃からお祀りされているかはっきりしませんが、江戸時代初期、まだ、西山地区がキリシタン全盛期だった頃、すでに西山郷の氏神様としてお祀りしてあったといわれています。なお、参道の鳥居には「寛延三年」(1750)の文字を見ることが出来ます。また、左近稲荷神社の社殿の後には鉄砲岩といわれる大きな岩があって、言い伝えでは安政年間(1855頃)皓臺寺の僧大機が、観世音菩薩の石像を造らせ、この岩を台座に使ったといわれています。




A-176:金井俊行邸跡(かない-としゆき-ていあと)
西山本町9(旧長崎村西山郷)【金井パーキング】
金井俊行(嘉永3:1850-明治30:1897)の父は、地元 西山郷出身の長崎代官手代(補佐)金井八郎で、金井俊行は幼少から漢籍を学びます。15才(慶応元年)で長崎代官所書役に任命され、明治政府に変わり長崎府軍用方属役や長崎および佐賀県の書記官を歴任します。明治19年(1886)には長崎区長となり政治家となります。区長になってからは教育改革(教育の平等)や道路、下水道などを整備を進め、さらに近代的水道を進める上で重要な本河内水源地の創設に力を注ぎます。明治23年(1890)最後は南高来郡郡長で終わりました。墓所は椿原墓地。




A-175:北島秀朝墓所(きたじま-ひでとも-ぼしょ)【椿原墓地】
北島秀朝(天保13:1842-明治10年:1877)は現在の栃木県馬頭町に生まれ、幼少の頃から医学、儒学から剣術、砲術などの軍事教育を受け、さらに尊皇攘夷の思想を身につけます。嘉永6年(1853)御所警護のために京都に上るのですが、ここで長州や薩摩などの武士たちと交流をもつようになり、そこで攘夷の思想から倒幕へと考え方を変えるのです。慶応2年(1865)ついに脱藩を決意。京都では岩倉具視に出会い倒幕軍の指揮官として活躍します。さらに廃藩置県が行われた後、和歌山県令(知事)、佐賀県令を経て明治9年(1876)長崎県令に任命されるのです。長崎では師範学校の設立、長崎病院内の医学場を開設、さらに明治政府が掲げた富国強兵、殖産興業を進める上で重要な長崎港改良工事を行ない大陸への足掛かりを築きます。




A-174:鉅鹿家魏之琰兄弟の墓 
(おうがけ-ぎしえん-きょうだい-のはか)【椿原墓地】
魏之琰は中国福建省出身で、明朝の遺臣として最後まで清朝に抵抗していましたが、明朝滅亡後、東京(トンキン)に移住、安南貿易に従事します。江戸時代中期の安南-長崎間の貿易で巨額の富を得、崇福寺の大檀越(巨額支援する信者の意)として活躍します。寛文12年(1672)長崎に移住、後に鉅鹿の姓を取るのですが、これは魏之?が中国河北省鉅鹿の出身ということで鉅鹿の姓になります。延宝7年(1679)には古川町橋(常盤橋)を架橋し、元禄2年(1689)魏之琰が亡くなったため、すでに安南で亡くなっていた兄の魏毓禎(ギ-イクテイ)と共に、魏之琰の子の魏高(鉅鹿清兵衛)が造ったのがここの墓所で馬蹄形の純中国風の墳墓となっています。現在、県指定史跡。
注)東京は現在の北ベトナム(安南)の地名。




A-173:椿原墓地(つばきはら-ぼち)
西山2丁目17(旧長崎村西山郷字椿原)
椿原墓地は主に旧西山郷の人々の墓地として使われていますが、特に有名な墓所に、松森神社伊奈家の墓所、諏訪神社青木家の墓所、さらに、明治時代、長崎港の改良工事に尽力した長崎県令(知事)の北島秀朝の墓所や、本河内水源地創設などに尽力した長崎区長の金井俊行の墓所などの墓所があります。




A-172:大星稲荷神社(おおぼし-いなり-じんじゃ)【西山神社境内】
妙見宮は別名:星の神様といわれ、北斗七星の一分身と伝えられています。星の神様のお使いといえば白蛇で、その昔、西山神社の井戸に白蛇が度々現われ宮司さんを驚かせたり、また、星の神様ということで境内の松の木の先端が、突然、白い光を発するなど不思議な現象がよく起きていたそうです。




A-171:椎の木の水(しいのきのみず)【西山神社境内】
西山神社の手水鉢の水は、昔から椎の木の水といわれ長崎の名水の一つに数えられて、以前までは酒造りなどにも使われていました。また、江戸時代の文化7年(1810)この椎の木の水は立山にある長崎奉行所に引かれます。これは長崎の水道の始まりともいえるものです。さらに、昭和57年(1982)長崎水害の際、この一帯が断水したとき多くの市民がこの椎の木の水に集まり、この恵みに感謝しました。




A-170:ザボン発祥の地【西山神社境内】
寛文7年(1667)ジャワから唐船で持ち込まれたザボンの種を、唐船船長の周九娘妙見宮の盧草拙に渡します。盧草拙は早速、妙見宮境内に播いたところ成長し、その原木の種が長崎近郊から島原、鹿児島地方に伝わり、各地で産出するようになります。なお、現在の原木は4代目となります。




A-169:西山神社の寒桜(-かんざくら)【西山神社境内】
西山神社寒桜は明治30年(1897)に植樹されたもので、現在、市指定天然記念物に指定されています。寒桜は染井吉野(ソメイヨシノ)より開花が早く2月上旬が花期ですが、西山神社寒桜は1月上旬に開花する大変珍しい種類で、元日桜という別名を持っています。寒桜は野生がなく、寒桜と山桜(ヤマザクラ)の自然交配と考えられています。




A-168:西山神社(にしやま-じんじゃ)
西山本町8-34(旧長崎村西山郷字上山)
西山神社は江戸時代、両部神道として妙見さまを祀る神仏混合の寺院で妙見宮と呼ばれていました。江戸時代中期、伊勢町に孔子をお祀りしていた長崎聖堂の学頭:唐通事の盧草拙(ロ-ソウセツ)は、西山の自宅に北辰妙見尊星像をお祀りしていました。その後、盧草拙は享保2年(1717)長崎奉行の許可を得て自宅近くの敷地を選び、享保4年(1719)酒屋町乙名:村田四郎次の妙見神とを合わせて社殿を開きます。これが妙見宮です。しかし、明治維新を経て西山神社と改称、現在では西山地区の氏神様として親しまれています。




○塞三柱神社【松森社末社】(さいみはしらじんじゃ)
塞三柱神社は下西山町の塞三柱神社奉賛会によって勧請された神社で、祭神は八衢彦(ヤチマタヒコ)大神、八衢媛(ヤチマタヒメ)大神、衢立久那斗(チタテクナド)大神です。これらの神は外部から入ってくる災い、疫病などを町の境界や辻などで退けるという役割を持ち、このほか道案内の神といわれています。

○五方殿【松森社末社】
五方とは天と東西南北をあわせたすべての方向を意味し、あらゆるものという意味で集められた神が合祀された神社です。

○大学稲荷神社/小学稲荷神社【松森社末社】
大学稲荷神社/小学稲荷神社は福岡県久留米にある高良大社の末社で、明和8年(1771)に京都伏見より勧請された稲荷神社です。松森神社にある同神社は付近で個人崇拝されていたものを昭和40年(1965)ごろ移されたもので、祭神は倉稲魂神(ウガノミタマノカミ)です。




○米津稲荷神社【松森社末社】
米津稲荷神社は社殿の東側に位置し勧請は不明。炉粕町鎮守神でもあります。祭神は倉稲魂神。

○新大工町天満宮
新大工町天満宮は明治2年(1869)に新大工町によって勧請され、当初は心字池南側に置かれていました(明治29:1896改修)。昭和44年(1969)今博多町天満宮が松森社境内地に移設した際、合祀されました。

○旧天台宗廣徳山大行院/今博多町天満宮【松森社末社】
(-こうとくざん-だいぎょういん-あと/いまはかたまちてんまんぐう)
元和年間(1615−1623)肥前松浦郡の川上久右衛門光房が今博多町に移り住み、寛永3年(1626)祖先より伝わる菅原道真自筆の掛け軸を祭神とし一社を建立します(松森神社の創建)。明暦2年(1656)この社は西山に移転し松森神社となり、跡地には万治元年(1658)大行院常学という僧が庵を建て仏教の説教場を開きます。正徳3年(1713)大行院と号し、さらには享保8年(1723)八幡町にあった般若院の僧:映澄が大行院を引き受け天満宮を建立し廣徳山大行院と号します。その後、祈祷所や寺坊、本門などを建立が進み、明治維新を経て神社となり今博多町天満宮となります。昭和44年(1969)川沿いの道路建設のため今博多町天満宮は松森神社境内に移設され、山門、基礎台座、社殿が現存しています。




○菅原信清命社/延命寺第2代住持:尊覚尊像【松森社末社】
慶安4年(1651)初代宮司の宗也が没し2代目に後藤式部信清が神主になりますが、信清は出雲国春日大明神神主:後藤大和守の孫で以前より宗也に養われていました。それは宗也の出身が藤原家の流れをくんでいたため菅原道真公を陥れたとされる藤原時平の子孫ということで恐縮し、黒川奉行に斡旋を願い出ていました。そこで京都守護職の野山丹後守らから、道真公の子孫である高辻豊永の子の後藤式部信清を神主とします。なお、このとき延命寺第2代住持:尊覚は密教の権威者で高辻家と親しく清信はこの尊覚に伴われて長崎入りします
。以降、延命寺は松森社を助け明治維新まで檀家寺としての関係となります。境内にはそれぞれ並列してお祀りされています。




○玉崎稲荷神社(鳥山稲荷)【松森社末社】
玉崎稲荷神社は社殿の北側に位置し、文化13年(1816)中村盛右衛門父子によって勧請したもので、祭神は倉稲魂神。

○正一位岩秋大明神
同神は玉崎社の東隣で勧請は不明。祠には「八百屋庄六」と刻されています。祭神は倉稲魂神。

○炉粕町稲荷社
同神は岩秋社の東隣で勧請は大正4年(1915)。祠には「爐糟町鎮守」と刻されています。祭神は倉稲魂神。




○猿田彦命神社【松森社末社】
猿田彦命神社は社殿の西方に位置し、正徳3年(1713)本大工町によって勧請した同町の鎮守神で(文政8:1825年改修)、祠には「猿田彦命神社」と刻されています。

○老松神社
老松神社は寛延3年(1750)に尾里傳左衛門によって勧請され(寛政6:1794改修)、のちに猿田彦命神社に合祀されました。祭神は島田忠臣命と野見宿禰命。

○白太夫神社
白太夫神社の勧請は不明で安政4年(1857)に改修。のちに猿田彦命神社に合祀されました。祭神は度会春彦命。




○梅の句碑
梅の句碑は昭和53年(1978)松森神社にお祀りされてある菅原道真公没後1075年を記念して松森神社文芸川柳奉賛会によって建立されました。碑には池田可宵などの川柳21首が記されています。
碑文「人生の旅路の中や今日のいま」ほか

○琥珀石(こはく-いし)
松森神社境内に琥珀石と刻された巨石があります。しかし、この琥珀石の由来は大正時代にまとめられた長崎市史にも不明とあり、なぜこの場所にこのような巨石があるのか、これから検討する価値があるでしょう。ちなみに琥珀とはべっ甲飴のような石のことです。※べっ甲より赤みがかっています。




○笹山蕉川翁之碑(ささやま-しょうせん-おうのひ)
碑文によると、笹山蕉川(文政11:1828-明治28:1895)の先祖は近江(滋賀県)小谷藩城主浅井長政の家系で、笹山家は寛永5年(1628)長崎に入り大村町の乙名や出島乙名などを勤め、また、武具司などを代々世襲します。そして笹山蕉川は明治5年(1872)学制の発布を受け笹山学舎という学校を創め教育の普及に努めます。笹山蕉川亡き後、明治43年(1910)には5千人以上の卒業生を抱え、この記念碑は大正元年(1912)卒業生によって建立されました。正面碑文を第3次伊藤内閣農商務大臣:伊東巳代治、文は漢学者で初の長崎市議会議長:西道仙によるものです。




○重修記念碑
明治29年(1896)第11代宮司伊奈豊太郎は信徒総代らと、それまで確立していなかった土地登記などを整理し、また、多くの浄財で境内地の拡張が行われ境内地が整備されます。これらは明治35年(1902)に行われる菅原道真公神忌1000年大祭を前に進められたもので、このほか正殿、拝殿、大門ほか備品等の新調も進められ、総工費4,035円(今のお金で約1400万円)に上りました。明治30年(1897)建立
なお、碑には寄付者の名が刻され、肥塚與八郎、高木和平、高木與作、永見徳太郎、松田源五郎らや、富貴楼の屋号を見ることができ、さらには華僑の人々の名前や屋号があります。




○職人尽彫り物
職人尽は、正徳3年(1713)松森神社境内の建物を改修した際に奉納されました。これは本殿を囲む瑞籬(みずがき:垣根の意)の欄間30枚に彫られていて、様々な職人の生活の様子が彫刻されています。下絵の作者は不明で当初は左甚五郎の作と伝えられていましたが、近年、彫刻者は御用指物師の喜兵衛と藤右衛門とされています。天保3年(1832)正殿修復の際、唐絵目利の石崎融思が色付けしたともいわれている。現在、県指定有形文化財に指定。




○松森社の心字池・神橋
正徳3年(1713)正殿の改築に伴い社殿前に神池が開削され中央に木橋か架橋されます。この池は井筒屋庄衛門などの寄付によって行われたもので、これにより境内の整備が完了し、ほぼ現在の形態が作られます。神橋は木製のため度々修復が必要で享和2年(1802)と文化5年(1808)に架け替え工事が行われていましたが、文政元年(1818)第9代神主の伊奈武彦は本籠町の富豪:中村盛右衛門らに喜捨を求め北馬町の石工:原田喜兵衛に命じ石橋に架けかえしました。なお、石橋の狭間石には中国伝来の守護神(四神)が施されています。
※北:玄武・西:白虎・東青龍・南:朱雀




○伊奈家への変遷
2代神主から後藤の姓を使っていましたが、天和3年(1683)3代信貞が正六位下の位を受け高辻家より美濃部の姓を賜り、元禄12年(1699)4代信要が正六位下を受けた際、高辻家に伊奈家が属することを約束し、宝永6年(1709)京都で起こった火災の見舞いを問うた際、第5代信安は高辻家より伊奈姓を賜ります。以降、明治に至るまで公家との関係が密で、さらには神主は今に至るまで伊奈姓を名乗ります。




○第2代宮司後藤式部信清
慶安4年(1651)初代宮司の宗也が没し2代目に後藤式部信清が神主になります。信清は出雲国春日大明神神主:後藤大和守の孫で以前より宗也に養われていました。それは宗也の出身が藤原家の流れをくんでいたため菅原道真公を陥れたとされる藤原時平の子孫ということで恐縮し、黒川奉行に斡旋を願い出ていました。そこで京都守護職の野山丹後守らから、道真公の子孫である高辻豊永の子の後藤式部信清を神主とします。なお、このとき延命寺第2代住持:尊覚は密教の権威者で高辻家と親しく清信はこの尊覚に伴われて長崎入りします。以降、延命寺は松森社を助け明治維新まで檀家寺としての関係となります。




○ドイツ大博覧会への紹介
明治20年(1887)長崎市在住のドイツ領事ミュルレルベルグは当時の長崎市長横山寅一郎の紹介で松森天満宮を訪れます。当時、本国では大博覧会が催されていて、領事は日本を調査し本国に紹介するというもので、日光東照宮の眠り猫や京都西本願寺の彫刻物を調査した後、長崎入りしました。領事は松森天満宮の彫刻(職人尽くし)に特に感激し写真や由来などを調査します。そして帰国後、博覧会にその様子を公表し日本の文化レベルの高さを紹介しました。




○松森天満宮の誕生
延宝8年(1680)第13代長崎奉行牛込忠左衛門勝登の寄進により正殿の修復、拝殿ほか神主住宅まで整備が進み、落成式が行われます。そして牛込奉行が神木の梅松と題し次の歌を詠みます。
「千早振 神の梅松茂れ枝 我は東風吹く空にありとも」 
※千早(チハヤ)神事に用いる布=神の枕詞<神社が境内の梅や松にならい発展を願う意>
「すゝしさや 御影と頼む 松の森」
ご威光に炎暑や災いから松森を守っておくれの意
牛込奉行は、また、境内東側にあった3本の松の木を見て“三つ合はさすれば森の字なり”といい、以来、境内を松ノ森と称し元諏訪や圓山の名称をやめ松ノ森と改め、松ノ森天神と呼ぶようになります。




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