広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成16年 〜2004年〜
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伊東巳代治(いとう-みよじ)
伊東巳代治(安政4:1857-昭和9:1934)は長崎の町年寄の家に生れ、若い頃から長崎聖堂で漢学を学び、広運館で英語を学びます。その後、上京、若くして伊藤博文の秘書官になります。そして憲法制定準備のため伊藤博文らと渡欧し、帰国後、草案を起草しました(この時草案が一時盗難になったエピソードあり)。以後、内閣書記官長を経て、明治31年(1898)第3次伊藤内閣の農商務大臣、翌年には枢密顧問官を歴任、長く政界で活躍します。墓所は杉並区永福築地本願寺和田堀廟所。




A-309:水道トンネル
本河内1-8-11(長崎村本河内郷字斧落/中川郷)【水神神社境内】
明治24年(1891)日本初の近代水道用ダム:本河内高部水源地が完成。しかし長崎市の人口増加に伴い明治37年(1904)新たに本河内低部水源地西山高部水源地が造られます。この時、本河内低部水源地には浄水場敷地がなかったため、西山高部水源地と兼用の浄水場(西山低部水源地)を使用することになり、本河内から西山までの水道トンネルが造られます。このトンネルの入口が水神神社境内にあって、コースは水神神社-鳴滝橋-鳴滝西部公民館下-片淵3公民館下-水道橋-長大経済学部瓊林館横までの約1200メートルです。現在は送水管は引かれています。なお、水道トンネル入口の額には伊東巳代治によって「玉聲」と刻されています。当時、このトンネルは子供らの肝試しの場所になっていました。




○水神神社の黒札(くろふだ)
水神神社では兵統良神(ひょうすべらがみ)として河太郎(河童をお祀りしています。そしてこの神は水神神社や水神神社の参詣者をお守りする神といわれていて、昔から黒札と呼ばれるお札を身につけると水難や毒、猪の害から守って下さるといわれています。

○水神神社の天后(媽祖)像(てんこ/ぼさorまそ-ぞう)
天后像は中国の航海の神のことで唐船には必ずお祀りされていた像でした。その天后像が享保時代(1716〜)五島近海で漁師の網にかかります。その天后像はすぐに旧有川村にお祀りされますが、その後どういう訳かここの水神神社にお祀りされることになります。以降、唐船入港の際は唐人らの熱心な参拝を受けたようになり、文化元年(1804)には新たな天后像の寄進が行なわれます。




川立神(かわたて-しん)【水神神社境内】
水神神社には川立神と呼ばれる大きな石があって、河太郎饗応(かっぱ-ごちそう)以降、神職が祭事などで神殿にお供えしたい物を紙に書いてこの石の上に載せると、次の日、河童によってその品物がこの石の上に載せられるようになったといいます。このことよりこの石を河童石とか、形からどんく石(=長崎弁でカエルの意)と呼ぶようになります。このほか江戸時代、日照りが続くと水神神社で雨乞いが行なわれていましたが、この石のの生え具合で雨を占ったともいわれています。




河太郎饗応(かわたろう-ごちそう)【水神神社境内】
中島川は江戸時代、市民の飲料水に利用されていましたが、市街地の拡大で年々汚れが目立つようになります。そこで困ったのが中島川に棲む河童で、たびたび仕返しのためか人間に悪さを働くようになります。そこで水神神社の神職はある日、ご馳走を準備して河童を神社を招きます。献立の中には竹の子があって神職の物には本物の竹の子を、河童には古い竹を輪切りにしたものを出します。神職が竹の子を美味しそうに食べる姿を見て河童は驚き、人間にはかなわないと悟ります。以降、河童は人間に対して悪さを働かないようになるのですが、付近の者も川の大切さを知り、きれいに使うようになったといいます。明治の頃まで毎年5月に竹の子などを出す宴会(行事)を開いていたそうですが、いつしか絶えてしまいました。




○水神神社の伝説1
明治時代、片淵に住む大工の某は中島川の中にあった川立神の石(どんく石)に不用意に上がったそうで、帰宅後、高熱が出て苦しみもがいたといいます。医者の診察でも異常はなく家人お勧めで、神主のところに行くのですが、渋江師曰く霊石ではあるがそのような事実に出合ったことがないとのこと。しかし、神主は川立神の前を祓い清め、某氏も反省し謝罪したところほどなくして熱が解け回復したといいます。

○水神神社の伝説2
渋江氏の祖と伝えられている栗隈王には河太郎(河童)が仕えていて、その子孫にも離れず奉仕するといわれています。そのため渋江氏が長崎入りした際も仕え、旧社殿があった銭屋川に棲み社殿の下を行き来し守護怠ることがなかったといいます。渋江家では河太郎を兵統良神(ヒョウスベラガミ)として祀り、このお札は水難安全の守護として大切にされ、長崎をはじめとする沿岸地域ではこの札を黒札と称し、水に関係のある仕事の者は常に携帯していたといいます。

○水神神社の伝説3
享保末期(1730頃)河太郎は毎夜、水神神社の裏門を叩き石を投げ打つため、おかしいと察した神主は早速、河太郎の棲む中島川に行くと川は汚れ、ゴミが河太郎の棲み家をふさいでいました。当時、中島川は市民のゴミ捨て場と化し、これを見た神主はすぐにこれをやめさせ、毎年5月29日を川祭りと決め市民に川の大切さを説き井戸さらいなどの清掃を奨励するのです。この行事は水道が発達する明治期まで市民の年中行事の一つに数えられるほどでした。




A-307:水神神社(すいじん-じんじゃ)
本河内1-8-11(長崎村本河内郷字斧落)【長崎五社】
寛永年間(1624-1643)第30代敏達天皇の孫で栗隈王を祖とする橘氏の末裔で渋江刑部公師という者がその子:文太夫公姿を連れ長崎に入りし出来大工町に屋敷を構えます。承応元年(1652)邸内に水神をお祀りし水神神社の創建となります。明暦(1655頃)時代に社殿を炉粕町に移転。当時、長崎では河童の被害に悩まされる者が多く、渋江氏がその被害を食い止めたといわれています。元文4年(1739)には長崎の水源であった当時の中島川の上流の八幡町(銭屋橋付近)に移転。さらに、大正9年(1920)市街地の拡大とともに現在地に移転します。一の鳥居は諏訪神社から移設したものといわれています。




A-306:筧潭(淵)(といがふち)
本河内1一ノ瀬橋付近(長崎村中川郷/本河内郷)
中島川上流、一ノ瀬橋から水神神社にかけてを筧潭(淵)または常盤潭(ときわがふち)、音羽潭(おとわがふち)といいます。言い伝えによると遊女の常盤または音羽が身投げしたところといわれていて、俗にこの付近を傾城川(渓)ともいいます。今でもこの付近は川幅が狭く山が迫っていますが、当時は水色深碧で潭をのぞくと毛が逆立つ暗い不気味なところだったといいます。なお、遊女の音羽とは初めてくんち奉納踊りをした音羽ではないようです。
瞽跳石(めくらおどり)
一ノ瀬橋付近をその昔、盲目の者が溺れて倒れたのでこういわれていました。




A-305:橙庵甫旧の句碑
中川2-12付近(長崎村中川郷/本河内郷)
一ノ瀬橋の手前、水神神社に向う角に1本の文字が消えかけた句碑が建っていますが、これは万延元年(1860)に建てられた橙庵甫旧の句碑といいます。碑文は「鳥どもに やがて踏るる 案山子かな 甫旧」と草書体で刻まれています。以前まで付近の倒されたままでしたが現在は道路脇に粗末に建てられています。この句碑の橙庵甫旧という人物はどういう人物かは不明。




A-304:光雲寺墓地(こううんじ-ぼち)
中川2-14付近(長崎村中川郷/本河内郷字昌源)
光雲寺は正保3年(1646)曹洞宗の僧:松雲宗融と晧臺寺の一庭が長崎奉行馬場三郎左衛門に願いを出して開いたといわれています。しかし言い伝えによると、もともと長崎村本河内郷字昌源のところにあって、キリシタンによる弾圧で一時衰退してしまい、そこで宗融が出来大工町に移し、一庭に協力を仰ぎ開かれたともいわれています。現在、蛍茶屋電停横に光雲寺の墓地がありますが、ここはこういった経緯があったからといわれています。




A-303:長崎電気軌道蛍茶屋終点(ながさきでんき-ほらるぢゃや-しゅうてん)
中川2-14付近(長崎村中川郷)
昭和9年(1934)九州最大の道路:23メートル道路(幅員)が完成します。そしてこの時、蛍茶屋まで電車の軌道も延伸し蛍茶屋線が完成します。路線上には新大工町、新中川町の2つの電停も合わせて造られました。昭和50年〜60年(1975-85頃)に入り電車の東長崎延伸や高規格路線の提言などが発表されましたが実現には及ばず現在に至っています。




A-302:喰違道(くいちがい-みち)
中川2-14付近(長崎村中川郷)
旧長崎街道は新大工町から桜馬場を通り古橋を渡ると八幡神社参道を交差します。さらに進むと道は直角に折れる形になって、そのあと一ノ瀬橋に向います。そして直角の場所は当時は“Z”の字のようになっていて上段から下段に下る場所になっていました。この“Z”の字のようになっている道を食違道または筋違道と呼ばれていました。享和2年(1802)の地図にも「クイチガイ」と表示されています。




中川稲荷神社(なかがわ-いなりじんじゃ)【中川八幡神社】
創建は文化7年(1810)と古く、明徳・正徳・祐徳の各稲荷神がお祀りされています。また、御神体は白蛇さまとも伝えられておりましたが、昭和57年(1984)社殿改修の際、白蛇青蛇を発見。改めて御神体の存在を知ることになったといいます。




A-301:中川八幡神社(なかがわ-はちまんじんじゃ)
中川2-9-13(長崎村中川郷)【長崎五社】
正保3年(1646)来崎中であった豊後府内(現 大分市)城主:日根野織部正吉明は自藩内にある柞原(ユスバル)八幡宮(現 大分市)を長崎にもお祀りしようと適地を探しますが見つからず、そこで日根野氏と関わりがあった皓臺寺開山:一庭融頓から賛同を得、皓臺寺の旧敷地だった岩原村笠頭山(現 筑後町付近)の地を譲り受け八幡宮を開きます。寛政元年(1789)になり隣地の聖福寺が敷地拡張の申し出があったため適地を探し現在地に移転。明治以降は中川の氏神様としてお祀りされ、大祭には奉納相撲などが盛んに行なわれるようになります。祭神は応神天皇、神功皇后、武内宿禰で、境内の花崗岩の玉垣は大正14年(1925)に建立されたものです。




フェートン号事件
18世紀末、フランス大革命が起こりオランダはフランス軍の侵入によりバタビア共和国となります。これよりイギリスとバタビア(旧オランダ)は対立、イギリスは旧オランダのアジアにおける植民地を狙い始めます。文化5年(1808)8/15早朝、オランダ国旗を揚げた船が長崎港外に来航、入港検査のオランダ商館員2人が人質に取られます。これはイギリス軍がオランダ船の有無を調べ捕獲する目的だったのです。翌朝、それがイギリス軍艦フェートン号と判ります。時の長崎奉行松平図書頭イギリスの動きに激怒、しかし長崎に護衛として配置していた各藩の兵は勝手に帰郷していて手出しすることが出来ませんでした。イギリス軍は高圧的な態度で交渉をし、長崎奉行は仕方なく要求の食糧と薪を渡します。翌17日ようやくフェートン号は立ち去るのです。17日夜、これらの失態に松平図書頭は切腹します。




A-300:烽火山のかま跡(ほうかさんのかまあと)
木場町-片淵3-本河内境界(長崎村木場郷-片淵郷-高野平郷)
かま跡とは烽火台つまり狼煙(のろし)台のことで、寛永15年(1638)老中松平信綱の命令で造られ、昼間は煙、夜間は火をあげて使用していました。正保4年(1647)当時、外交がなかったポルトガルの軍艦が長崎に近寄って来た際に初めて使用されましたが、明和元年(1764)に廃止されます。その後、文化5年(1808)イギリス海軍のフェートン号が来航した際(フェートン号事件)に再開、文化12年(1815)改築されますが文政元年(1818)廃止されます。付近には用水池跡や薪小屋の遺構が残っています。県指定史跡。




烽火山詩碑(ほうかさん-しひ)【烽火山山頂】
烽火山詩碑は文化元年(1804)長崎奉行所勘定方として着任した大田直次郎(蜀山人/南畝/覃:寛延2:1749-文政6:1823)が烽火山に登頂して作った詩で、文化2年(1805)建立されました。
「滄海春雲」詩碑「西連五島東天艸 烽火山頭極目看」
※西に五島が連なり東には天草を見る、烽火山は極めて見通しが良ろし




A-300:烽火山(ほうかさん)
木場町-片淵3-本河内境界(長崎村木場郷-片淵郷-高野平郷)
烽火山はもともと斧山(おのやま)と呼ばれ、島原の乱後の寛永15年(1638)老中松平信綱が長崎巡視の際、長崎奉行に命じて烽火番所を置いた場所になります。これは異国船入港を知らせるために造らせたもので、このことより烽火山と呼ばれるようになります。伝達は野母崎の権現山→烽火山→琴ノ尾岳→多良岳→近隣諸藩へ伝えられました。




七面山の石垣【七面山妙光寺】
七面山境内にある記念碑によると文政9年(1826)小岩井正甫ほかの者が石垣を築造したとあり、施主に二宮敬作などシーボルトの門下の名前が見られ、さらに世話人に美馬順三の名も見ることができます。これは長崎市史(地誌編)にも詳しく書かれ、美馬順三遊女其扇(そのぎ)に便宜をはかりシーボルトの妻にあてた人物とも記述され、シーボルトを始めとする門下の者はたびたびこの七面山に訪れたと考えられます。




A-299:日蓮宗七面山妙光寺(しちめんざん-みょうこうじ)
鳴滝3-420(長崎村中川郷字七面谷)
現在、七面山妙光寺は山手のお堂は神社形態、本殿は寺院形態というように典型的な神仏習合(混淆:こんこう)の形式となっています。もともとは七面大明神をお祀りする社寺でしたので長崎の人は単に七面山と呼んでいます。
その昔、本大工町で酒屋を営んでいた草野宗受という者が隠居を送るため烽火山の麓に移り住み農業を始めますが、付近には猪狸が多く畑地を荒らし農民達を苦しめていました。ある日、宗受の夢に僧が現れ三枚目の畑を掘ると大岩が現れるので七面大明神を祀るようにとお告げあり、翌日、言う通りに畑を掘り岩の上に七面大明神をお祀りすると五穀豊穣になったと伝えられ、これが元禄9年(1696)七面権現社の創建といわれています。その後、明治40年(1907)日蓮宗本山:身延山久遠寺の許可で千葉県香取郡島から妙光寺が移転、これが妙光寺の開基となります。




A-298:七面山詩碑(しちめんざん-しひ)
鳴滝2-14-19(長崎村中川郷)
七面山詩碑は文化元年(1804)長崎奉行所勘定方として着任した大田直次郎(蜀山人/南畝/覃:寛延2:1749-文政6:1823)が七面山に参詣した際作った詩で、文政9年(1826)宇野霞峯によって建てられました。詩碑は豊臣秀吉の命で朝鮮出兵した加藤清正公の功績称えた内容で七言絶句で表わされています。「披榛踰嶺踏烟雲 七面山高海色分 一自征韓傳奏ノ 至今猶奉鬼将軍 太田覃




A-297:トンネル地蔵(-じぞう)
鳴滝2-10-33(長崎村中川郷)【鳴滝西部公民館下】
明治37年(1904)完成の本河内低部水源地から西山水源地に延びる水道トンネルは一旦、鳴滝で地上に現れますが、このトンネル建設に際し鳴滝では不思議な出来事が起こりました。当時、付近には民家はなく畑地のみで道路脇にお地蔵さまが祀られているだけで、トンネルの工事中、お地蔵さまは工事で発生した土砂の山に埋ってしまい参詣が出来なくなります。そこで中川町の老婆が家の近くのお堂に運びだしお世話をするのですが、しばらくしてトンネルの工事現場では幽霊騒ぎが起こり、工事はストップします。その騒ぎを聞きつけた老婦も工事の者らと幽霊を見張ることになり、すぐに白装束の幽霊を発見します。その夜、老婆の夢枕に白装束のお地蔵さまが現れ「元の所に帰して欲しい」とのお告げがあって、老婦はすぐにお地蔵さんを元の場所に戻します。すると幽霊騒ぎはなくなり、さらに工事は無事に完成することが出来たのですが、あの幽霊騒ぎはお地蔵さまのお姿という訳で、それからこのお地蔵さまトンネル地蔵と呼ぶようになります。




A-295:シーボルト記念館
鳴滝2-7-40(長崎村中川郷)
シーボルト記念館は長崎市が平成元年(1989)鳴瀧塾跡地の上手に建てたもので、シーボルトの関係資料(約1500点)を集めた資料館となっています。シーボルト記念館の外観はシーボルトの故郷:オランダ・ライデン市にあるシーボルトの旧宅をイメージしたもので赤レンガ造の洋館風となっています。




牧野富太郎(まきの-とみたろう)
植物学の父といわれる植物学者の牧野富太郎(文久2:1862-昭和32:1957)は高知県佐川の出身で、幼少の頃から植物に関心が深く、また私塾に通いながら独学で植物研究を始めます。22歳で上京、東京大学で植物学を学び、それからは日本の植物学を学問的に育てます。活動は日本各地にまでおよび、新種などの命名は2500種を超え、長崎においてもシーボルトノキキイレツチトリモチなどの命名は有名。現在、出身地の高知には牧野氏を称えて高知県立牧野植物園があります。




A-296:シーボルトノキ【シーボルト宅跡】
シーボルトノキはシーボルト宅跡にある樹木のことで、クロウメモドキ科の落葉高木をいいます。もともとこの付近に自生し明治後期頃には、鳴滝川沿いに数本自生していたといわれています。それを大正元年(1912)植物学者:牧野富太郎博士によって宅跡内にあった新種の木をシーボルトノキとして発表。学名、和名となりました。




シーボルト先生之宅址の碑【シーボルト宅跡】
シーボルト先生之宅址の碑はシーボルト宅跡に明治30年(1897)当時の長崎県知事の大森鐘一の提案で建立されました。碑文は南画家の江上瓊山によって書かれたもので、裏面には西道仙(漢学者で初の長崎市議会議長)の撰文による「施福多氏宅址記」が記されています。これはまさに当時の豪華な顔ぶれによる顕彰碑となっています。




A-294:鳴瀧小学校跡(なるたき-しょうがっこう-あと)【シーボルト宅跡】
旧鳴瀧塾は幕末から明治の初年までシーボルトの娘イネが上京まで使用していましたが、明治9年(1876)第5大学区第1中学校区鳴瀧小学校として使用されます。 しかし、建物の老朽化で明治27年(1894)解体され鳴瀧小学校は下西山町へ移転となります。鳴瀧小学校は現在の長崎市立上長崎小学校の前身です。




A-293:シーボルト宅跡/鳴瀧塾跡(Philipp Franz Von Siebold)
鳴滝2-7(長崎村中川郷)
シーボルト(1796:寛政8-1866:慶応2)は、ババリア王国(現ドイツ南部)出身の医師で、後にオランダ海軍軍医となり日本へ派遣されます。当時、オランダは日本貿易が不振だったためシーボルトへは貿易不振の解消と日本文化の調査が命じられます。文政6年(1823)来崎、出島オランダ商館の官医となり外科部屋に入りますが、オランダ通詞との交流が盛んになり出島以外での教育や診療が許され文政7年(1824)鳴瀧塾をを開設、多くの門人を輩出します。教育期間が終わり文政11年(1828)帰国する際、国外持出禁止の品が見つかり(シーボルト事件)、翌年、国外追放となりました。帰国後の鳴瀧塾シーボルトの娘イネがしばらく住んでいましたが、明治27年(1894)老朽化のため解体。現在は当時使用の井戸などが現存。国指定史跡。




飛鶴大明神(ひかく-だいみょうじん)
鳴滝1-16上手(長崎村中川郷字松山)

鳶高大明神(とびたか-だいみょうじん)
鳴滝1-24-8(長崎村中川郷字松山)
飛鶴大明神および鳶高大明神は、不動明王や稲荷神などを祭神としている寺院で、不動明王(仏教・密教)と稲荷神(神道)などの組合せは山岳信仰的な考えといえます。おそらく明治期以降に開かれた寺院と考えられ、鳴滝にこういった寺院が多いということは、この地区の信仰者の多さが伺えます。




A-292:琴石(こといし)
鳴滝1-13-9本庄宅前(長崎村中川郷字松山)
琴石とは3メートル程の大きさの石で横に長くスジが入り琴の形をしているのでこの名がついたといわれていています。また、明治時代の漢学者:西道仙が大変重宝した石で、後に西道仙は自らの号を賜琴石斎(しきんせきさい)と表わすようになります。
西道仙は明治維新の際、西洋医学を取り入れた医療体制を整備(薬剤・医師開業の検査法創設)や国民が苗字を公称する義務(平民苗字必称令)を政府に進言。これにより九州鎮撫総監:澤宣嘉から賞金を与えられるのですが辞退し、以前から大切にしていた琴石を賞金の代わりに受け取ったといいます。現在は昭和43年(1968)西道仙の孫にあたる西仁寿によって唐津石の記念碑が琴石のそばに建っています。




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