広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成16年 〜2004年〜
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○藤原鉄乗師歌碑(ふじわらてつじょうし-かひ)【光源寺境内】
この歌碑は光源寺本堂落慶2周年を記念して藤原鉄乗師が詠んだ歌を刻したもので、平成5年(1993)光源寺住持:楠達也氏によって建立されたものです。
碑文「われらみな 天地の子なり 大地より 香りゆかしき 水仙はさく そっつ」

○藤原正遠師歌碑(ふじわらしょうえんし-かひ)【光源寺境内】
この歌碑は藤原正遠師の卒寿(90才)を記念して自ら詠んだ歌を刻したもので、平成5年(1993)光源寺住持:楠達也氏ほか有志によって建立されたものです。
碑文「来し方も 又ゆく方も われは知らねど み運びのまゝ」

○斗甫の歌碑(とほのかひ)【光源寺境内】
碑文「野生の馬の 岬の馬路百合の花 成り合のままに流れる 水ごとの 我が行く道と なり合のまま 寿美子/亡妻寿美子のために俊治建立/昭和54年(1979)8月吉日」




○御大典記念碑(ごたいてん-きねんひ)【光源寺境内】
この御大典記念碑は大正天皇の即位を記念して大正4年(1915)に伊良林青年会によって建てられました。

○光源寺開山三百六十年記念事業記念碑【光源寺境内】
光源寺は寛永8年(1631)の布教活動を創建とし、平成3年(1991)に360年記念事業を展開し、信徒会館の建設、スロープの建設、そして本堂の改修工事が行われました。総事業費2億4千万円。




B-45:赤子塚民話の碑【光源寺境内】
解説碑「南無阿弥陀仏/『十億に十億の母あれどわが母にまさる母あらめやも』暁鳥敏」
「長崎では『飴屋の幽霊』とも『産女の幽霊』とも言われる赤子塚の民話は全国各地に伝えられています。すべて子を思う母の心の美しさ、情の世界を大切にとの思いであります。ここ光源寺にも江戸時代に作られた名工藤原清永の作と伝わる日本でただ一つの幽霊像が現存し、お盆の十六日にご開帳されます。また長崎独自の民話が生まれています。母なる心を失った今日このお話を大切に子や孫に継承されることを念じてこの碑を建立いたします。合掌。/平成十四年(2002年)八月十六日 光源寺第十六世 釋達也」




B-44:産女の幽霊(うぐめのゆうれい)【光源寺の伝説】
ある夜、麹屋町の飴屋に1人の女性が一文分の飴を買いに訪ねて来ます。店主が飴を渡すとすぐに消え去りそれが毎日続きます。しかし7日目にはお金が無いため恵んで欲しいと言うので店主は仕方なく飴を恵みます。不思議に思った店主はその女性の後をつけて見ると、なんと光源寺内の墓の中に入って行きました。店主はこのことを寺の住職に話すと住職はその墓にお経を上げ鍬を入れることにします。するとそこには産まれたばかりの赤ん坊がいて、すぐに救い上げ父親の元に届けられました。
 赤ん坊のことを父親に問いただすと、以前、京都で1人の女性と恋仲にあったが別れ、長崎で親が決めた女性との結婚したとの事。一方、京都の女性は男を追って長崎まで来ますが結婚のことを知りショックで倒れ亡くなってしまい、男は死の知らせを聞き光源寺に葬ったといいます。しかしこの時、女性のお腹には赤ん坊がいて墓の中で産んでいたのです。そして棺の中に入れていた一文銭6文(これは三途の川の渡し料の意)を使って飴を買い育てていたのです。
 数日後、飴屋の主人のところにあの幽霊が子供のお礼に訪ねて来て、恩返しをしたいといいます。店主は水に困っていると言うと「明朝、私の櫛のある所を掘りなさい」と告げ立ち去ります。翌朝、櫛が落ちているところを掘ってみると水が湧き出し以降、水に困ることが無かったといいます。現在、麹屋町5番地泉屋ビル横に井戸(跡)がありますが、そこが水が湧き出した所といわれて別名:幽霊井戸と呼ばれています。




○光源寺の「一切経さん」
江戸時代後期、第9代住持:諦順は豪傑な人物で好んで町に出かけ侠客とも交友があったといい、もめ事があれば仲裁に入るなど人々は諦順を中役所と呼んだといいます。しかし仏事には全く関心がなく妻の諌めにも耳を傾けなかったのですが、文化13年(1816)のある日、思うところあって仏道に目覚め、経典である一切経の購入のため四方を歩き回り托鉢をするのです。多くの喜捨を得、無事に経典を奉納することができました。人々は諦順を一切経さんと呼ぶようになったといいます。




B-43:浄土真宗本願寺派巍々山光源寺(ぎぎざん-こうげんじ)
伊良林1-4-4(長崎村伊良林郷字大窪)
江戸時代初め、筑後(福岡県)柳川藩瀬高下庄にある光源寺(現地に現存)住職:松吟(立花藩十時氏の一族)は真宗の布教のためキリシタン全盛期の寛永初年(1625頃)長崎入りし、寛永8年(1631)所在は不明ですが小さな庵を立て布教活動を始めます。時の第12代長崎奉行馬場三郎左衛門は松吟の活動に大いに喜び、銀屋町(銀屋町自治会館前)に敷地を与えます。そこで松吟は柳川の光源寺を弟子に譲り、寛永14年(1637)改めて長崎に筑後と同名の光源寺を開きます。しかし延宝4年(1676)付近の火災により類焼。このことより伊良林(現地)に移転します。本堂は延宝4年(1676)に創建され天保3年(1832)、明治44年(1911)に改修され、昭和20年(1945)原爆により大破しますがその後改修され、平成初年に大改修されています。




B-42:木下逸雲宅跡(きのした-いつうん-たくあと)
八幡町3(八幡町/新紙屋町)
木下逸雲(寛政11:1799-慶応2:1866)は八幡町乙名:木下勝茂の三男として生まれ、本名を木下相宰、号を逸雲などといいます。家業として漢方医学を学びさらに蘭医なども習います。射術や茶道、書などにも優れ、特に絵に興味を持ち石崎融思江稼圃などに南画を学び、京都で大和絵などの技法も習得します。このほか幕末には伊良林の亀山焼の復興も手がけたといいます。なお、木下逸雲、三浦悟門、日高鉄翁を、崎陽の三画人または三筆と呼びます。墓所:禅林寺後山。




B-41:高麗橋/第二橋(こうらい-ばし/だいにきょう)
伊勢町-八幡町間/中島川(銭屋川)
高麗橋は江戸時代、第二橋と呼ばれ、俗称では伊勢宮橋といわれていました。明治になって西道仙により高麗橋と命名されます。高麗とは橋の架かる伊勢町の旧名:新高麗町からとったもので、承応元年(1652)に架けられました。しかし誰が架けたかが正確にはわからず、長崎図志などには「明人平江府等建」とあり地名なのか人名なのか、おそらく当時の興福寺の檀徒の中国江蘇省蘇洲出身者ではないかと考えられています。このほか伊勢宮の宮司が寄付を集めて架橋したとか、江戸時代の旧町の28町が寄進して架橋したなど説も様々。しかし昭和57年(1982)の水害で流失は免れますが、その後の河川改修で無残にも撤去され鉄筋コンクリート橋になります。現在、橋全体を西山ダム下の公園に復元されていて、光雲寺山門に旧高麗橋の親柱を見ることができます。




B-40:本紙屋町(もとかみやまち)/八幡町(やはたまち)現 八幡町、麹屋町
江戸時代初期の正保年間(1645頃)当時の市街地のはずれにあたる中島川中流域(芊原橋-大井手橋間左岸)には、紙漉(カミスキ)業者つまり紙屋が集まり紙屋町(別名:紙漉町)が開かれます。さらに紙の需要が高まるにつれ上流に新たに紙屋町が開かれ、初めに開かれた町を本紙屋町、次に開かれた町を新紙屋町と呼ぶようになります。その後、延宝8年(1680)新紙屋町は町内の八幡神社にちなみ八幡町(ハチマンチョウ→ヤハタマチ)と改称します。なお、昭和41年(1966)本紙屋町は八幡町と麹屋町に分けられ消失。今では編笠橋脇に本紙屋町の氏神様の稲荷神社だけが残っています。




B-39:臨済宗寶地山徳苑寺(-ほうちざん-とくおんじ)
八幡町7-18〜24(八幡町/新紙屋町)
正保元年(1644)修験者:周教は今博多町に熊野権現を勧請して徳苑院を創建。延宝6年(1678)には禅林寺の僧:真常が寺を譲り受け、八幡町にあった自身の所有地に湧水を利用して放生池を作り、池には小島を設け熊野権現を勧請します。そしてここを寶地山徳苑寺とし再興を果します。このとき檀越に林仁兵衛(のち獨振)を向かえ堂宇及び本尊などが置かれました。江戸時代中期ごろから財政難に陥り明治維新を受け廃寺となります。本堂は春徳寺の庫裏に転用されました(現存せず)。




B-38:八幡座跡(シバヤンジ)(やはたざ-あと)
八幡町8(八幡町/新紙屋町)【あけのほし幼稚園】
江戸時代中期、諏訪神社の能楽師:早水治部一門の練習所がこの付近にありました。しばらくして練習所は荒廃しますが、そこに上方の興行師が来崎、早水氏に了承を得、さらに当時の長崎奉行:本多佐渡守正收(-まさとき)の許可を得て演劇場が文政11年(1828)建てられます。これが長崎最初の常設芝居小屋(八幡座)誕生となります。その後も地元の人が改築しながら続けられ、いつしかこの地を芝居地というようになり、それがなまってシバヤンジと言うようになります。昭和18年(1943)長崎歌舞伎座と改称。しかしまもなく火災により焼失します。




B-37:陶器製鳥居(とうきせい-とりい)
八幡神社には明治21年(1888)に奉納された佐賀県の有田焼の鳥居があります。銘には製造:岩屋久吉、角物細工人:金ケ江長作、丸物細工人:峰熊一とあり、この種の鳥居は日本に3基しかないといわれています。市指定文化財

記念碑
境内にある記念碑は八幡神社の由来が記され明治32年(1899)社殿改修と境内拡張事業の完成を記念して大正5年(1916)建立されたもので、碑文を公選初代市長:北原雅長によります。




B-36:八幡神社/宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)
八幡町8(八幡町/新紙屋町)
明治維新を受け大覚寺は八幡神社と変わり、さらに明治11年(1878)福岡県の宮地嶽神社の御分霊を勧請し社殿を設けお祀りします。明治23年(1890)から八幡神社宮地嶽神社を同じ社殿に合祀することになり社殿を新築。あわせて境内地を整備します。明治期以降は祭神が戦の神でもある応神天皇ということもあって陸軍など戦勝祈願が度々行われるようになります。




B-35:黄檗宗白鳩山南岳院大覚寺跡
(-はっきゅうざん-なんがくいん-だいかくじ-あと)
八幡町8(八幡町/新紙屋町)
天台宗の修験者:大覚院存性坊が寛永20年(1643)京都白川の聖護院末院として天台宗大覚院を創建。正保3年(1646)には京都:男山八幡宮よりを八幡宮を勧請します。延宝8年(1680)新紙屋町は八幡神社にちなみ八幡町(「ハチマンチョウ」後に「ヤハタマチ」)と改称。貞享3年(1686)僧:良宝院存慶によって堂宇が再興され、元禄6年(1693)白鳩山大覚寺南岳院と改称します。宝永元年(1704)黄檗宗の僧:大頂が一切を譲り受け黄檗宗に変わり、以降、唐人屋敷内の土神堂の祭事を司り、唐船主らから寄進を受けるようになります。明治維新を受け大覚寺八幡神社と変わり住職は神職になります。




B-34:天台宗大学院(-だいがくいん)
八幡町7-15(八幡町/新紙屋町)
元禄3年(1690)大学院存永という僧が、それまで快教院という寛文11年(1671)に修験者:快教院行徳存性が創建した寺院を譲り受け、不動明王を本尊とする大学院を創建します。元文5年(1740)には後西院天皇直筆と伝えられている天満宮の神号を勧請します。この御神号はのちに太宰府にてご神霊としお祀りし、のちに龍造寺隆信が崇敬していた天神像と移し替えます。のちに境内狭小のため境内を拡大するも、明治維新を受け廃寺となります。




B-33:阿弥陀堂(あみだどう)
八幡町9(八幡町/新紙屋町)
阿弥陀堂に安置されている阿弥陀如来と観音菩薩、勢至菩薩の3体は元禄4年(1691)大阪の和泉出身の貿易商人:園山善爾(そのやま-ぜんじ)によって建立されたもので、建立の前年には堂前の阿弥陀橋を架橋しています。当時、園山善爾は唐貿易で莫大な利益を得たため地域貢献のためと阿弥陀橋を架橋しました。現在、光永寺境内に彼の功績を称えた園山善爾石像や石碑が立っています。この阿弥陀如来像が、極楽橋や阿弥陀橋となったゆえんといわれています(罪人が必ず通る橋で阿弥陀橋と解釈する説もあります)。阿弥陀如来像は一旦、明治維新を受け深祟寺に移されますが、再び阿弥陀橋そばに置かれ今に至ります。




B-32:阿弥陀橋/第一橋(あみだ-ばし/だいいっきょう)
伊勢町-八幡町間/中島川(銭屋川)
阿弥陀橋は江戸時代、第一橋と呼ばれ、俗称では極楽橋といわれていました。明治になって西道仙により阿弥陀橋と命名されます。この阿弥陀橋ですが、元禄3年(1690)大阪の和泉出身の貿易商人:園山善爾(そのやま-ぜんじ)の私費で架けられました。中島川に架橋した最初の日本人です。当時、園山善爾は唐貿易で莫大な利益を得たため地域貢献のためと阿弥陀橋を架橋しました。現在、阿弥陀橋下流の光永寺境内に彼の功績を称えた園山善爾石像や石碑が立っています。このほか、阿弥陀橋のそばには昔から阿弥陀堂があり阿弥陀像が安置されています。これが極楽橋や阿弥陀橋となったゆえんといわれています(罪人が必ず通る橋で阿弥陀橋と解釈する説もあります)。阿弥陀如来像は一旦、明治維新を受け深祟寺に移されますが、再び阿弥陀橋そばに置かれ今に至ります。さらに昭和57年(1982)の水害で流失は免れますが、河川改修で無残にも撤去され鉄筋コンクリート橋になります。




B-31:水神神社跡(すいじんじんじゃ-あと)
八幡町9(八幡町/新紙屋町)
水神神社は、寛永年間(1624-1643)渋江公師という者が長崎入りし出来大工町に屋敷を構え、承応元年(1652)邸内に水神をお祀りしたことに始まります。その後、明暦(1655頃)時代に社殿を炉粕町(動物広場下付近)に移転。当時、長崎では河童の被害に悩まされる者が多く、渋江氏がその被害を食い止めたといわれています。さらに来崎していた唐人からも航海の神として熱心な参拝を受けます。元文4年(1739)には当時の長崎の水源であったこの付近に移転し社殿を構えますが、大正9年(1920)市街地の拡大でさらに上流の本河内1丁目に移転します。




B-30:倉田水樋水源跡(くらたすいひ-すいげん-あと)
伊良林1(長崎村伊良林郷)
倉田水樋とは本五島町乙名で廻船問屋の倉田次郎右衛門が、当時の長崎の水利の悪さを心配して創設した水道のことで、寛文7年(1667)長崎奉行松平甚三郎隆見の許可を得て工事に着手しました。倉田次郎右衛門は宅地など私財を処分して工事費に当てますが、困難を極め工事費が不足、長崎奉行松平甚三郎は倉田次郎衛門の活躍に感激し工事費を援助します。そして工事開始から7年後の延宝元年(1673)ようやく完成しました。水樋は丸太材をくり抜き杉皮などで包みそして埋設したもので、敷設は八幡町から銅座町、大井手町から築町まで幹線を走らせ、各町に支線を通し市内の38町をまかなうものでした。以降、倉田家は給水や補修などを司る水樋係となり代々世襲されます。そして、幕末から明治初期の外国貿易の増大と共にコレラなどの伝染病が流行しやすくなったため、明治24年(1891)本河内水源地が建設され倉田水樋はその役目を終えました。
また、倉田次郎右衛門は官許を得、出島専用の水樋を建設。宝永4年(1707)に完成させ、高野平郷(現小島小学校横)から出島のオランダ商館へ送水します。このほか寛政8年(1796)には立山奉行所専用の水樋:狭田水樋が作られ、西山郷狭田の桜水と呼ばれる井戸から土管を通し立山役所まで水を引きました。




B-29:要塞地帯の道標(ようさいちたいのどうひょう)
風頭町10(長崎村伊良林郷)
要塞とは重要都市や拠点などの防御のために作られた軍事施設のことをいい要塞地帯はその周辺の区域を指します。明治32年(1899)長崎は要塞地帯法によって長崎要塞地帯区域に指定。区域内では測量や建造物に厳しい制限が行われます。区域は長崎港を中心に式見-滑石-三ツ山-日見-茂木-川原-高島-伊王島-式見といった長崎を円形に囲んだ地域で、さらにこの中心付近も3段階に分かれました。この風頭町の幣振坂にある道標は第3区線の外側線上にあって道標には「長崎要塞第三地標 第三十五号 陸軍省 明治三十二年六月十日」と刻されています。




幣振坂の碑(へいふりざかのひ)
風頭町6-2付近(長崎村伊良林郷)
幣振坂の碑幣振坂が明治44年(1911)3月28日に工事の出願がされ、翌45年(1912)6月に完成したと刻してある碑で、現在、復元された石碑などを除くと「幣振坂」と刻された唯一の石碑です。




B-28:幣振坂(へいふりざか)
寺町-鍛冶屋町、寺町2〜3間、筑後町7〜6間
江戸時代、風頭山は良質な安山岩が豊富に切り出され長崎市内の階段や鳥居などに広く利用されていました。現在、石切り場は風頭公園になっていますが石材はそこから人力にて坂を下り市街地まで下ろしていました。寛永15年(1638)諏訪神社の一の鳥居(現在の二の鳥居)建立の際、郷民2000人が石材をひいたがうまくいかず、1人が幣を振って音頭をとったところようやく動いたといいます。このことからこの坂を幣振坂と呼ぶのです。幣振坂は晧台寺横の坂と延命寺-長照寺境の坂、さらには女風頭の旧躰性寺(筑後町東本願寺長崎教会)横の坂をいいます。




B-27:沖見町(おきみ-ちょう)
風頭山頂付近からは長崎市街地や長崎港が一望でき、たまに五島列島まで見えるときもあって、以前までは俗称で沖見町と呼ばれていました。また、昭和30年代(〜1955)ぐらいまでは山頂付近ほとんど人家はなく畑地が続いていて、あまり人が立ち入るところではなかったせいか現在の渕町の火葬場が出来る前はこの風頭山頂下付近にありました(旧自動車学校付近)。




B-26:風頭大権現(かざがしらだいごんげん)
伊良林3-4(長崎村伊良林郷)【風頭公園内】
風頭大権現は昭和55年(1980)ごろ四方田京子氏によって創建された神社で、祭神は猿田彦命です。平成元年(1989)玉垣が整備され、一の鳥居の額面は北村西望によるものです。




司馬遼太郎「竜馬がゆく」文学碑【風頭公園内】
司馬遼太郎(大正12:1923-平成8:1996)は大阪市生まれで第二次大戦後、新聞社に入り併せて執筆活動を始めます。昭和35年(1965)には直木賞、昭和41年(1966)「竜馬がゆく」などで菊池寛賞を受賞します。この文学碑は平成10年に「亀山社中ば活かす会」によって建立されました。
碑文「船が長崎の港内に入ったとき、竜馬の胸のおどるような思いをおさえかね、『長崎はわしの希望じゃ』と、陸奥陽之助にいった。『やがては日本回天の足場になる』ともいった




竜馬の銅像【風頭公園内】
坂本龍馬の銅像は平成元年(1989)坂本龍馬を慕う有志の集まり「竜馬の銅像ば建つうで会」によって建立。銅像は彫刻家:山崎和国によるものです。




B-25:松姫稲荷神社/笠頭稲荷神社(まつひめいなり-/かざがしらいなり-)
伊良林3-4(長崎村伊良林郷)
松姫稲荷神社のあるこの地には以前まで笠頭稲荷神社があった場所で、笠頭稲荷神社はもともと晧台寺の境内にあった稲荷神で晧台寺の鎮守神としてお祀りされたものでした。創建は享保18年(1733)で晧台寺によって祭事が行われていましたが、明治維新を受け神仏混交の禁止のため風頭山のこの地に移されました。その後は管理が一般の信者になったため大正時代に新興宗教などの手に渡り最後は荒廃してしまいます。第二次大戦後は新たに松姫稲荷神社となり現在に至ります。なおここには江戸時代に盛んに行われていた天満宮二十五社巡りで崇敬を受けた長崎では珍しい石像の天神像があります。




B-24:石切り場跡(いしかりば-あと)【風頭公園内】
江戸時代、風頭山は良質な安山岩が豊富に切り出され長崎市内の階段や鳥居などに広く利用されていました。現在、石切り場は風頭公園になっていますが石材はそこから人力にて坂を下り市街地まで下ろしていました。寛永15年(1638)諏訪神社の一の鳥居(現在の二の鳥居)建立の際、郷民2000人が石材をひいたがうまくいかず、1人が幣を振って音頭をとったところようやく動いたといいます。このことからこの坂を幣振坂と呼ぶのです。幣振坂は晧台寺横の坂と延命寺-長照寺境の坂、さらには女風頭の旧躰性寺(筑後町東本願寺長崎教会)横の坂をいいます。




B-23:風頭公園(かざがしらこうえん)
伊良林3-4(長崎村伊良林郷)
長崎に江戸時代から伝わる民謡「ぶらぶら節」の歌詞に「紙鳶(はた)揚げするなら金比羅、風頭。帰りは一杯機嫌で瓢箪ぶうらぶら ぶらりぶらりと 云うたもんだいちゅう」とあり、風頭山は江戸時代から紙鳶揚げの地として有名でした。特に3月3日桃の節句は子供たちにとっては紙鳶揚げの日で、桃の節句ですが女の子より男の子が主役で盛んに紙鳶揚げが行われていたそうです。現在は桜の季節に風頭公園で紙鳶揚げが行われています。

○林宗詮翁記念碑
碑文「明治三十五年 中興開拓主 林宗詮翁 /昭和十一年五月 妻林スガ建立」




B-22:男風頭(おとこ-かざがしら)と女風頭(おなご-かざがしら)
長崎市街地の東に連なる風頭山と北に連なる立山は江戸時代から市民に大変親しまれた山で、ともに海岸から市街地そして寺院と同じような雰囲気を持ち長崎人にとって目印の山でした。また、ともに向い合っている二つの山は俗に風頭山を男風頭、立山を女風頭(または北風頭山)と呼ぶようになります。現在はあまり使いませんが古い文献を読む際、このの区別をきちんと理解する必要があります。




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