広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成16年 〜2004年〜
<歴史散歩移動ツール>
前の月へ移動最新の月へ移動次の月へ移動
前の年へ移動 次の年へ移動



B-111:大音寺墓域
大音寺墓域には次の方々の墓碑を見ることができます。
【江戸時代初期】唐船請人で後に内通事となった薛家、唐通事の陳家、唐通事目付の蔡家、新町乙名:八尾家、本籠町乙名:田口家、唐絵目利:広渡湖月第51代長崎奉行:松波備前守正房第60代長崎奉行:大岡美濃守忠移、オランダ通詞:今村家、船津町などの乙名を勤めた帯屋家、御朱印船貿易商:荒木宗太郎
【江戸時代後期】第51代長崎奉行:松波備前守正房第60代長崎奉行:大岡美濃守忠移第67代長崎奉行:戸田出雲守氏孟第81代長崎奉行:松平図書頭康平第101代長崎奉行:稲葉出羽守明啓、長崎奉行所施薬医:西原成祐、外科医:頴川家、遠見番の丹羽家は後の丹羽漢吉を輩出、薬種目利の中尾家、長崎宿老の濱武家、長崎宿老の森家、高島秋帆門弟:大木藤十郎、江戸時代の豪商島田家、
【明治時代以降】歌舞伎座を創設した福地櫻痴、墓誌が田能村竹田書による島田家、旧旅館宝亭(油屋町)の松尾家、旧料亭宝亭(高島秋帆邸跡)の松尾家、海軍機関大佐の小川直一、寄合町遊廓:青餅亭の小田家、料亭一力の山本家、儒学者で政治家の西道仙など。




B-110:第81代長崎奉行:松平図書頭康平墓所
(まつだいら-ずしょのかみ-こうへい)【大音寺境内】
18世紀末、フランス大革命が起こりオランダはフランス軍の侵入によりバタビア共和国となります。これよりイギリスとバタビア(旧オランダ)は対立、イギリスは旧オランダのアジアにおける植民地を狙い始めます。文化5年(1808)8/15早朝、オランダ国旗を揚げた船が長崎港外に来航、入港検査のオランダ商館員2人が人質に取られます。これはイギリス軍がオランダ船の有無を調べ捕獲する目的だったのです。翌朝、それがイギリス軍艦フェートン号と判ります。時の長崎奉行松平図書頭イギリスの動きに激怒、しかし長崎に護衛として配置していた各藩の兵は勝手に帰郷していて手出しすることが出来ませんでした。イギリス軍は高圧的な態度で交渉をし、長崎奉行は仕方なく要求の食糧と薪を渡します。翌17日ようやくフェートン号は立ち去るのです。17日夜、これらの失態に松平図書頭は西役所内で切腹します。このことを知った当時の市民は松平図書頭の霊を慰めるため諏訪神社内に社を建てるよう申し出て図書明神(康平社)の建立となるのです。市指定文化財。




B-109:大音寺のクロガネモチ【大音寺本堂前】
大音寺のクロガネモチ(黒鉄黐)は長崎市内で最大のクロガネモチで高さが約20メートル、幹周りが2.6メートルもあって、始めからこの地に自生していたものといわれています。さらに大音寺のクロガネモチは雌株で秋になると真っ赤な実をつけるのが特徴です。クロガネモチの分布は広く本州以西から中国・台湾まで広がる常緑樹です。市指定天然記念物。




B-108:大音寺のイチョウ【大音寺本堂裏】
大音寺のイチョウ(銀杏)は長崎市内で最大のイチョウで高さが約20メートル、幹周りが3.9メートル、樹齢が約300年といわれています。大音寺のイチョウの特徴は雄株で銀杏(ギンナン)はできませんが、気根といわれ乳房状の突起を多く見ることができます。イチョウは中国の原産といわれ、かなり古い時代に日本に伝来したといわれています。市指定天然記念物。




空閑源嗣の碑(くが-げんじ)【大音寺山門横】
空閑源嗣(大正4:1915-平成13:2001)は大音寺が開いていた武道場:養成館の剣道師範で養成館が開かれた昭和43年(1968)頃から多くの子供たちの指導に尽力した人物です。最終位は8段でした。この碑は山門前の墓所の横に建てられています。
碑文「一、血を流す 血を流すように何事も一生懸命にやって世の中の為に役立つ人間になる
一、汗を流す 両親の恩恵に 汗を流して報ゆる
一、涙を流す 友のために涙を流す様なやさしい人間になる 剣道範士 空閑源嗣




池田可宵句碑(いけだかしょうくひ)【大音寺山門横】
池田可宵(明治34:1901〜平成8:1996)は山口県防府出身の川柳作家で、第2次大戦後長崎へ移住。長崎では川柳の発展に尽力し長崎川柳協会などを設立します。また、朱竹画家としても有名。
碑文「いまに耐え むかしをおもい 明日に生き




子安弘法大師(こやす-こうぼうだいし)【大音寺中門前】
愛媛県小松町にある四国八十八ヶ所霊場第61番札所の香園寺に安置されている弘法大師像は昔から子安弘法大師と呼ばれています。その昔、この地で修行していた弘法大師が難産で苦しむ女性と出会い、哀れに思った弘法大師は中国唐より持ち帰った金の大日如来像を寺の本尊の大日如来の胎内に納め祈願すると安産で元気な男の子が生まれたといいます。
一方、昭和の始め長崎に湯浅秀子という方がおられ、幼き頃から病弱で15才ぐらいの命と宣告されたそうです。しかしそれから熱心に子安弘法大師を信仰したところ病は治り立派に成長したといいます。この子安弘法大師は昭和36年(1961)湯浅秀子氏によって建立されたものです。




犯科帳被処刑者之霊碑【大音寺中門前】
ここでの犯科帳とは長崎奉行所で取り扱った密貿易、汚職、心中などの事件判決記録をまとめた記録のことで、この犯科帳被処刑者之霊碑はその犯科帳に記載の被害者や加害者を慰霊するため昭和36年(1961)当時の長崎県立教育研究所所長の森永種夫によってに建てられたものです。犯科帳は森永種夫が長崎県立図書館に在職していたころ資料として保存されていた寛文6年(1666)から慶応3年(1867)までの145冊の犯科帳を7年がかりでまとめられました。




豊澤仙糸翁之碑【大音寺中門前】
豊澤家は浄瑠璃(三味線などを弾き物語を語るもの)などを伝える家柄で、豊澤仙糸は明治から大正にかけて活躍した人物でした。この碑はその豊澤仙糸をたたえたもので文字は漢学者で初の長崎市議会議長となった西道仙によって書かれました。




原子爆弾決死・当山境内墓地無縁遺骨供養塔【大音寺中門前】
この原子爆弾決死・当山境内墓地無縁遺骨供養塔は原爆による犠牲者のためと、境内の墓地で無縁仏となった墓所を供養するため大音寺の檀家と第25世住持:報譽信巌によって昭和21年(1946)建立されました。

倶会一処の碑(くえいっしょ)【大音寺中門前】
倶会一処とは人々が亡くなると阿弥陀さまの力によって浄土に進み一同に会する意味があり、無縁仏などの供養塔を意味します。この碑は平成15年(2003)第28世住持:源譽大義によって建立されました。




善光寺如来安置石【大音寺中門前】
善光寺とは長野市内にある寺院のことで善光寺如来はそこの本尊をいいます。その善光寺如来は三つの仏様からなり中央に阿弥陀如来、両脇に観世音菩薩と勢至菩薩が立ち阿弥陀三尊ともいいます。大正時代の第20世住持:康譽辨旭のときにこの大音寺にも善光寺如来が安置され、記念にこの碑が建立されたものと考えられます。




岡本安太郎顕彰碑【大音寺中門下】
岡本安太郎(嘉永元:1848-大正9:1920)長崎県千々石町出身で26才のとき長崎の荷受問屋:松浦某家に入ります。その後、荷役業の発展に尽力し大正4年(1915)県知事より褒賞、さらには長崎取引所から銀杯などの栄誉を受けます。このほか長崎の相撲興行にも功績があって宮司:吉田追風からも褒賞を受けます。この碑は同業の高木松太郎によって建立され、文字は春徳寺第20代住持:雲巌によるものです。




鹿野直二郎墓表(かのなおじろう-ぼひょう)【大音寺中門下】
鹿野直二郎(嘉永6:1853-明治11:1878)は新潟県佐渡出身で上京し三井物産に入社します。明治9年(1876)23才のとき長崎支社へ転勤、大変勤勉で信頼も厚く、その後、佐賀県小城の多久鉱炭に勤めます。しかし25才の若さで亡くなります。詳細は不明。




山脇森永氏記念碑【大音寺中門下】
山脇氏は江戸末期から明治後期にかけて活躍した人物で、福井藩士:立樹家の次男として生まれ、明治2年(1869)藩命で東京大学に遊学、明治3年(1870)長崎医学校進み、明治5年(1872)卒業後は文部省、続いて内務省に入ります。明治9年(1876)長崎県立長崎病院医学校の助教授に就き、明治15年(1882)には副院長となります。さらに明治16年(1883)佐賀県公立柄崎病院長、さらには西南戦争のとき軍医として活躍します。この記念碑は明治21年(1888)建立されました。




支那事変・大東亜戦争戦病者英霊之塔【大音寺本堂前】
支那事変は日中戦争ともいい太平洋戦争(第二次世界大戦)の発端となった事件で昭和12年(1937)盧溝橋事件により日本と中国の間で始まった戦争をいいます。大東亜戦争とは当時日本側が呼んでいた太平洋戦争のことをいいます。
この支那事変・大東亜戦争戦病者英霊之塔は昭和16年(1941)大音寺第25世住持:報譽によって建てられたものです。




頼朝石灯篭(よりとも-いしどうろう)【大音寺境内】
頼朝石灯籠は笠石などが六角形で竿石が四角の変形した灯篭で、さらに竿石には衣冠姿の人物が彫られているといいます。言い伝えでは鎌倉幕府を作った源頼朝(久安3:1147-建久10:1199)が寵愛していた灯篭で、始めは1対の灯篭でした。そして1基が神奈川県鎌倉にある鶴岡八幡宮に、そしてもう1基が元和3年(1683)大音寺開基の傳譽が将軍:家光に謁見した際、頂戴したものといわれています。しかし他説には、大音寺の檀家が江戸でこの灯篭をもらい傳譽に贈ったものともいわれ、さらにその素晴らしさに長崎奉行所役人の水品氏がこの灯篭を模造し再び江戸に贈ったともいわれています。




濱武畹亭碑(はまたけえんてい-ひ)【大音寺本堂前】
濱武家は長崎の宿老の家で碑文から糸割符付宿老頭取という文字を見つけることができます。一般に宿老とは「経験豊かな人物」を意味しここでは町内の年寄役などの意味があると考えられます。なお、濱武家の墓所は大音寺の後山にあります。

御大典記念樹碑(ごたいてん-きねんじゅひ)【大音寺本堂前】
この御大典記念樹は大正天皇の即位を記念して大正4年(1915)に植えられ、合わせて記念碑が建てられました。
※なお、樹木の種類が不明なため現存かどうかが分かりません。




観音圓通碑記(かんのんえんずうひ-き)【大音寺境内】
観音圓通碑記の観音は観世音菩薩を意味し、圓通は観音の徳をたたえることで、この碑記は以前まで観音堂の前に建てられていました。碑は明治9年(1878)第18代住持:民譽のとき但馬国(兵庫県)の法順大徳(橋本藤吉)によって建立されたものです。
碑文「観音圓通善應諸方之所普門・・・・(以下省略)」




B-107:傳譽上人碑(てんよしょうにんのひ)【大音寺境内】
筑後(福岡)安武城主:安武八郎の子:小太郎は若くして福岡瀬高の来迎寺に入り傳譽(テンヨ)と称します。14才から20才過ぎまで常陸(関東)で修行した後、慶長19年(1614)野母崎の蔵徳寺に入ります。当時、長崎では禁教令の発布で仏教の再興が進み27才になった傳譽も尽力します。しかし長崎で仏教徒に宿を貸す者はなくようやく古町の伊勢屋傳之丞の屋敷を見つけ拠点とします。傳之丞は協力的で第3代長崎奉行長谷川左兵衛藤広傳譽を紹介、ここにお堂を構えることを許可。これが大音寺の基礎となる中道院の誕生です。
しかしキリシタンの妨害も少なくなく元和元年(1615)長谷川長崎奉行は傳譽に警護と斬捨て御免の許可を与え、さらに元和2年(1616)長谷川長崎奉行は第2代将軍秀忠に傳譽のことを伝えると禁教令で破却された本博多町(現 万才町)のミゼリコルディア本部の跡地を与えられ元和3年(1617)大音寺が創建となるのです。その後傳譽は将軍:家光に謁見。京都で知恩院末寺として正覚山大音寺の号を授かります。
この記念碑は享保5年(1720)第6代住持:談譽によって計画されるも実現せず60年後の安永9年(1780)第10代:鷲譽のとき多くの寄進を受け完成。花崗岩製で亀を模した基礎に石碑が載っています。




B-106:浄土宗正覚山中道院大音寺(しょうかくざん-だいおんじ)
鍛冶屋町5-87(長崎村高野平郷/今籠町)
慶長19年(1614)禁教令によって本博多町(現 万才町)にあったミゼリコルディア本部の教会部が破却されますが、当時、長崎はキリスト教徒ばかりで幕府あげて改宗の動きが高まりますがキリスト教徒の抵抗が激しく、筑後の僧:傳譽開徹(デンヨ-カイテツ)は第3代長崎奉行長谷川左兵衛藤広より布教妨害のキリシタンの切捨て御免の許可を与えられます。改宗の功が奏し第2代将軍秀忠によりミゼリコルディア本部教会の跡を与えられ、元和3年(1617)大音寺が完成します。その後、寛永15年(1638)傳譽は敷地が手狭になったため老中松平伊豆守に許しを得、そして現在地(鍛冶屋町)もらい、またミゼリコルディアの教会にあった鐘を大音寺梵鐘に造りかえる許しを得ます。延宝2年(1674)本堂の改修がなされあわせて徳川家の位牌を置く霊牌堂が完成します。しかし位牌堂は明治維新を受け、幕府との関わりを示すものと大音寺の廃寺の観がありましたが住持などの入れ替えを行うなどして存続が決まります。大音寺は江戸期、明治期など度重なる大火や大風の被害を受けるも再興がなされ、昭和34年(1959)には放火によって本堂が全焼します。現在の本堂は鉄筋コンクリート造。




B-105:晧台寺墓域
晧台寺墓域には次の方々の墓碑を見ることができます。
【江戸時代初期】オランダ通詞:茂家、寄合町乙名:芦刈家、御朱印貿易商:船本弥平次茂久、網笠橋を寄進した岸村家、医術を家業とした草野家、唐通詞:黄家、長崎会所役人:荒木家、町年寄:福田家、オランダ通詞:加福家、唐通事:林官梅家、町年寄:高木家、唐通事:陽家、町年寄:薬師寺家、町年寄:高島家、町年寄:後藤家、高島秋帆と関係のある柘植長次郎、
【江戸時代中期】桶屋町乙名:藤家、江戸町乙名:白浜家、第72代長崎奉行:<永井筑前守直廉、洋画家:野沢久右衛門、オランダ通詞:末次家、各町の乙名を務めた:竹下家、各町の乙名を務めた:清田家、オランダ通詞:立石家、オランダ通詞:馬田家、銀屋町乙名:西家
【江戸時代末期】薩摩藩御用達:服部家、医師:吉田健康、西浜町乙名:横瀬家、外国貿易商:村山家、長崎奉行代理:妻木源三郎、高島秋帆に砲術を教えた武術家:坂本天山、質屋で明治の豪商:山田家、長崎聖堂助教:東川東州、豪商:小曽根家、長崎製鉄所幹部:青木休七郎、缶詰製造の祖:松田雅典、西古川町乙名:前園家、シーボルトと関係のあった楠本家、広島藩御用達:中尾家、亀山焼経営の大神甚五平、出島乙名:田中家、長崎会所役人:小南家、写真開祖:上野家、油屋町乙名:村尾家、唐通事:平井家、今鍛冶屋町乙名:金子家、本古川町乙名:藤瀬家
【明治期以降】豪商:栗岡家、俳人:下村家、書家:岡田篁所、一二三亭:尾崎家、出島町人の守山家/書家:守山湘颿、など。




千雄濱田君碑【晧台寺境内】
碑文によると濱田氏は高知県出身で17歳で上京。原要義塾に入りそして師範学校へ進みます。明治17年(1884)卒業後は一旦、札幌師範学校への教師となり翌年長崎第一高等小学校に赴任します。濱田氏の指導は大変優秀で小学教員講習会の講師や小学職員会長などを務めます。明治27年(1894)日清戦争が始まると出征、朝鮮半島慶尚道に渡るも進撃中に攻撃を受け命を失います。この碑は教え子など晧台寺に1300人以上が集まり建立。撰文は従六位勲六等の:村上珍休によるものです。




長崎縣警察官招魂之碑 
この長崎縣警察官招魂之碑は警察官の殉職者のために明治30年(1897)当時の長崎県の警察官によって建立されました。殉職者22名の名が刻まれています。※長崎市史に明記されていますが所在不明。




消防招魂碑(しょうぼう-しょうこんひ)【晧台寺境内】
総門を抜けた左側に消防招魂碑という石碑があります。これは消防従事者の殉職者や在職中に病死した人々のために大正11年(1922)当時の長崎市消防組組頭を始めとする多くの消防関係者によって建立されました。文字は第27代住持:玉仙によるもので、殉職者2名、病死者67名の名が刻まれています。




曾氏家系記碑(そしかけいきひ)【晧台寺境内】
総門を抜けた右隅に曾氏家系記碑という石碑があります。碑文の曾氏とは福建省出身の帰化明人:曾氏のことでこの碑は曾氏の家系を示したものです。そしてこの碑は曾氏9世の孫にあたる勝本要助尚慶が文政6年(1823)に建立しました。撰文は曾氏8世:曾庸山の孫の曾槃によるもので、この曾槃は薩摩藩島津重豪に仕えた侍医で医術、本草学の学者でもありました。




高木清右衛門宗寿碑【晧台寺境内】
大仏殿前階段下に高木清右衛門宗寿碑という石碑があります。高木清右衛門宗寿(安永3:1774-文政13:1830)は江戸時代中期に活躍した弓術家で、その先祖は佐賀竜造寺家の流れをくみ永禄年間(1560頃)長崎入りしたものといわれています。その後、高木家の養子となり以降も重要な地位にあったといいます。
高木清右衛門宗寿は幼い頃から弓術(道)に熱心で寛政年間(1790頃)対馬の小島佐七郎種滋に師事し竹林流を修得、文化15年(1818)立山に道場を開き多くの門弟を集めます。この碑はその門弟によって建てられたもので碑文は中島廣足によるものです。




B-104:晧台寺の総門【晧台寺境内】
晧台寺の総門とは山門より前にありすべての入口にあたり「勅賜海雲山」の額があるところから「勅賜門」ともいいます。この勅賜とは寛永19年(1642)晧台寺を興した一庭が明正天皇と謁見した際、天皇より海雲山普昭晧台禅寺の号を与えられたことを意味しています(第5代逆流書)。さらに両脇に掛かる聯「法窟為國賜建立直輔王道千古・堂頭承釣旨提綱永祝聖世萬年」は書家として有名だった唐通事の林道栄のものです。もともと晧台寺の総門は旧磨屋町(眼鏡橋)の通りに面していました。それが延宝8年(1680)現在のように旧銀屋町(袋橋)の通り側に移されています。当時の門の材料はシャム船(現タイ)の帆柱材を使ったといわれていますが、再三の改修で現存していません。市指定文化財




B-103:晧台寺の大仏【晧台寺境内】
晧台寺第4代住持:独庵は学識が高く日頃から熱心に毘盧遮那仏(ビルシャナ-ブツ=サンスクリット語:華厳経の主の意)を崇拝していて華厳社というお堂のみがありました。その後、独庵の後を継いだ第5代住持:逆流はお堂があって仏がないことを残念に思い、多くの信者の寄進により高さ3.4メートルの仏像(毘盧遮那仏)を延宝5年(1677)鋳造します。大仏は佐賀の鋳造師を当地に呼び寄せ鋳造しました。しかし完成当初は屋根もなく雨ざらし日ざらしでした。そこで4年後の天和元年(1681)仮設の屋根を設置。そして享保8年(1723)第11代住持:古岳によって正式に華厳閣が建立されます。




B-102:晧台寺の梵鐘【晧台寺境内】
晧台寺の梵鐘は寛永19年(1642)唐通事:中山太郎兵衛などの援助で鋳造師:阿山助右衛門(初代)によって鋳造されます。しかしあまり音色がよくなかったので元禄時代(1700頃)第7世住持:了潭が改鋳を計画、元禄15年(1702)第8世住持:重關のとき肥前(佐賀)長瀬の鋳造師:谷口安左衛門兼靖に鋳造させます。佐賀の鋳造師の物は長崎市内では晧台寺だけです。市指定文化財。




「萬徳殿」大額の言い伝え【晧台寺境内】
晧台寺本堂正面には清国(中国)の陳驍ノよって書かれた「萬徳殿」額と「朱簾黄閣千尺晧臺苔封・山白雲萬頃瓊浦月蘸」聯があります。江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると、がこの文字を書くとき萬徳殿の3文字を書くのに2,3年の構想を練りようやく筆を取ったといわれ、完成後は自ら大変素晴らしい出来ばえと喜んだといわれています。その後、当時長崎で書家として有名であった唐通事の林道栄が“殿”の文字が筆法にそれていると指摘、自ら筆を取り訂正したそうですが、たまたま長崎に来ていたの甥がその話を聞き帰国後、そのことをに話すとは訂正されたことにショックを受け倒れてしまい、やがて病気となり亡くなったとの事。
※なお間違いと言われたところは“殿”の文字の「几」のところが「口」になっています。




B-101:晧台寺萬徳殿(まんとくでん)【晧台寺境内】
萬徳殿は晧台寺の本堂のことで長崎でも最大規模の木造建築物です。この萬徳殿ですが寛文3年(1663)紅毛材(チーク材)を使って新築されました。寛文5年(1665)中島川一覧橋を架橋した高一覧(渤海久兵衛)がお祀りしていた釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩の三尊を本尊とします。その後、享保9年(1724)長崎会所より借入れをし改修が行われたほか数度の改修が行われていて、明治42年(1909)には銅板葺きになりました。昭和20年(1945)原爆の爆風によって建物が傾いています。




<歴史散歩移動ツール>
前の月へ移動最新の月へ移動次の月へ移動
前の年へ移動 次の年へ移動

管理者専用



- Cute Diary Ver2.06 - by Ultinet.Inc SPECIAL THANKS : Daughter 16