広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成16年 〜2004年〜
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B-148:上野彦馬生誕の地(うえのひこま-せいたんのち)
銀屋町3-14(旧古川町8-30)
上野彦馬(天保9:1838-明治37:1904)は御用時計師:幸野俊之丞(後の上野俊之丞)の四男として銀屋町に生まれます。20歳前にオランダ通詞:名村八右衛門についてオランダ語を学習、安政5年(1858)化学研究所である舎密(セイミ)試験所に入り、さらに海軍伝習所ポンペに化学を学びます。その後、フランス人ロッシュから写真術の指導を受けフランスから写真機を購入、江戸神田で萩藩主らを撮影します。文久2年(1862)帰崎し中島鋳銭所跡地に上野撮影局を開き写真文化の発展の基礎を築くのです。明治7年(1874)アメリカの金星観測隊の依頼で大平山で観測を行ない(後の星取山)、明治10年(1877)西南戦争に従軍、これは日本初の軍事報道カメラマンとなるのです。墓所は皓臺寺後山。




B-147:銀屋町(ぎんやまち)
銀屋町は、江戸時代初めこの付近に中国やオランダ貿易で扱う貿易銀を取り仕切る銀座が置かれていて銀座町と称し、その後、銀細工の職人が集まるようになり銀屋町となったという説と、当初から川沿いのこの付近に銀職人が集まって町が開かれ銀屋町となったという説をあります。両者とも作業の工程で大量の水を使うため中島川や鹿解川沿いのこの地が選ばれたと考えられますが、後者の方が有力のようです。
後者では中島川寄りに銀屋町(別名:白銀町シロガネ-マチ)が開かれ、徐々に拡大し寺町側に新銀屋町(別名:新白銀町シンシロガネ-マチ)が誕生、寛文12年(1672)大改革で銀屋町に統一されます。当時長崎では銀細工は長崎名産の一つに数えられていたといいます。昭和41年(1966)町界町名変更で古川町に吸収され消滅。平成19年(2007)に復活します。




B-146:俳人:下村ひろし宅
古川町8-11(旧磨屋町)【下村産婦人科】
下村ひろし(明治37:1904-昭和61:1986)本名:下村宏は、明治34年(1901)日本で5番目となる婦人科の学校「下村産婆学校」を設立した下村亨の長男で、下村宏もこの学校を引き継ぎます。しかし第2次大戦後廃止され、後に磨屋町(現 古川町)に下村産婦人科を開業します。下村ひろしは俳句に長け、昭和22年(1947)「棕梠(しゅろ)」の主宰となり活躍の場を広げます。
凍て星の もと一點の 灯がまてり」「寒灯下 病む母よりも 子のあわれ」「雁さむく いねざりし後を 泣きよぎる」など。




B-145:岩永梅寿軒(いわなが-ばいじゅけん)
諏訪町7-1(旧磨屋町)
岩永梅寿軒は天保元年(1830)岩永松太郎氏が創業した菓子店で、特に5代目岩永敏朗氏が考案した「寒菊」は長崎の代表的銘菓になっています。「寒菊」はもともと「甘菊」と称していましたが厳寒に製造するところから「寒菊」と改称されたといいます。「寒菊」はもち米、飴、砂糖を原料とし特殊な工程で混ぜ合わせた後、1週間寒風にさらし、焼き上げ仕上げをして完成となります。もち米が採れる時期しか作ることができない菓子といえます。




B-144:旧磨屋小学校(きゅう-とぎや-しょうがっこう-あと)
諏訪町7(旧磨屋町)【諏訪小学校】
明治5年(1872)学制発布にともない翌6年(1873)、長崎の中心部に3つの小学校が開かれます。第一番向明小学校、第二番啓蒙小学校、第三番楓川小学校の3校です。このうち第二番啓蒙小学校は翌7年(1874)舊川(フルカワ)小学校と改称され同時に4つの分校を置きます。明治8年(1875)舊川小学校を榎津町に移し榎津小学校と改称。明治19年(1886)磨屋町に移転させ鶴鳴小学校と改称、のち尋常鶴鳴小学校となります。明治26年(1893)小学校の統廃合と男女を分けを行い鶴鳴小学校を長崎尋常女児小学校と変更します。大正年間、長崎尋常女児小学校は磨屋尋常小学校となり第二次大戦後、磨屋小学校とし、平成9年(1997)の新興善、勝山、磨屋三校統廃合によって幕を閉じ解体されます。現在は諏訪小学校として再出発します。




B-143:町年寄薬師寺宅跡(まちどしより-やくしじけ-たくあと)
諏訪町7(旧磨屋町)【諏訪小学校】
長崎は天領ということで幕府から命ぜられた長崎奉行が支配し、そして奉行の下で長崎の地元の役人(地役人)の町年寄が町の行政を司ります。町年寄は当初4人制(高木、高島、後藤、町田)で、後に町田家が没落。高木彦右衛門永貞が町年寄となります。元禄10年(1697)高木彦右衛門貞親が唐蘭商売元締等に昇格すると薬師寺又三郎種政が任命されます。この地は明治維新まで薬師寺家の屋敷があったところで、現在、諏訪小学校校庭にあるアカギの大木はその薬師寺家の庭園にあった木といわれています。墓所:晧台寺後山。




B-142:磨屋町(とぎやまち)現 諏訪町、古川町
江戸時代初め、この付近に刃物や鏡、刀などを磨ぐ職人が集まり磨ぎ師などの職人街:磨屋町が生まれます。作業の工程で大量の水を使うため中島川や鹿解川沿いのこの地が選ばれたのでしょう。昭和41年(1966)町界町名変更で諏訪町と古川町に分断され消滅します。
磨屋町の通りは眼鏡橋が架橋された江戸時代初期、大川(現 中島川)を渡る最短コースとなり内町(県庁〜市役所付近)から市街地南部〜小島茂木方面に向う際のメインストリートでした。そのため浦上街道からも長崎街道からも磨屋町通りは大変利用しやすい通りで、このことから眼鏡橋架橋の理由が推測できるのではないでしょうか。




B-141:鹿解川諏方町(すわまち/すわのまち)現 諏訪町
諏訪神社にお祀りされている三神(諏訪、住吉、森崎)のうち諏訪神は江戸時代初め、長崎市街地のはずれにあたる現在の長照寺の右側付近にお祀りされていました。当時、長崎はキリシタン全盛期でキリシタンからの妨害を避けてこの場所が選ばれと考えられています。また、付近を流れる川では神社祭事の際、鹿を解いて奉納したことがあって、このことから鹿解川となったともいわれています。寛永2年(1625)諏訪神社は現在の松森神社の地に再興するのですが、この諏訪神社がお祀りしていたところという意味で、毛皮屋町の一部だったこの付近が諏方町と呼ばれるようになります。江戸時代は諏方町と表記していましたが明治以降、諏訪町に変わります。さらに昭和41年(1966)町界変更で付近の町を吸収して現在の諏訪町になっています。




B-140:鹿解川毛皮屋町新橋町
(ししときがわとけがわやまち-しんばしまち)
寺町通りの下、麹屋町付近を起点に古川町から銅座付近に流れる小さな流れを鹿解川といいます。「鹿」とは鹿(シカ)ではなく猪(イノシシ)のことで、名称からこの川の流域で毛皮の加工が行なわれていたことを表しています。
江戸時代の初期、陳建という中国人の毛皮商がここに住むようになり、当時、毛皮は武士にとって必需品で、いつしかここに職人町が形成されていきます。毛皮加工には多くの水を必要とし臭気を放つことから市街地から離れていたこの地が選ばれました。後にここを毛皮屋町と呼ぶようになります。
寛文13年(1673)市内に2つの石橋が架けられ、当時一番新しい橋ということで新橋と呼ばれ、区別するため一方の新橋(現 恵美須町)に対し東側の中島川に架かる橋を特に東新橋と呼ぶようになります。そしてこの橋が架けられて以降、延宝5年(1677)〜天和3年(1683)頃、毛皮屋町東新橋にちなみ新橋町に変わり、いつしか市街地の拡大のため毛皮屋は姿を消し一般の商家が建ち並んでいました。昭和41年(1966)新橋町は諏訪町に吸収され消滅します。現在、くんちで新橋町の傘鉾のだし飾りを見ると鹿(シカ)が使われていて、それは新橋町の起源に由来します。




八百屋お七紺屋町
元和2年(1616)江戸本郷で大火があり、八百屋の娘:お七も焼け出され近くの円乗寺に避難。その寺で一人の男(吉三郎?)と出会い恋仲となります。家が再建され家に戻るも男のことが忘れられず、再び火事が起これば再会できると考え自ら家に火を放ちます。しかし再会どころか奉行所に捕らえられるも、奉行の計らいで幼い娘ということで哀れみ「15歳以下は罪を減じる」という定めによりお七に15歳と言わせます。しかしお七は16歳になったばかりで16歳であることを曲げなかったため、ついに火あぶりの刑に処せられるのです。
一方、紺屋町には次のような言伝えが残っていて、その昔、諸国を回って祈願する男(回国)が紺屋町に現れ、?原橋のほとりに庵を構え住み着くようになります。話によると、この男は八百屋お七の相手の吉三郎(キチサ)といい、お七の霊を慰めるため諸国を回っているとのこと。ちょうどその頃、長崎では水害や疫病などの災いが多く紺屋町の者がそれらに対しても祈願するよう願い出ると男は快く引き受け祈願が始まります。するとたちまち災いは治まり、紺屋町の者は感謝の意を込め蛍茶屋の上手に供養塔(現在の青銅塔)とその男の庵を建ててやり、男はそこで余生を送ったといいます。
なお、その供養塔は現在、青銅塔(カラカネトウ)と呼ばれ紺屋通り自治会によって管理されていますが、数年前、自治会が塔のそばに小屋を建てるため穴を掘ったところ突然穴が空き墓石が見つかりました。当時、作業に加わった者が次々と病気にかかり慌ててお祓いをしたといいます。




B-139:紺屋町(こうやまち)
長崎開港間もない慶長2年(1597)頃、内町の外に外町が開かれ、当時としては高台の内町から川沿いの水辺に下った場所に紺屋つまり染物屋の職人街が開かれ紺屋町生まれます。現在の中央公園-常盤橋間にあたり、染物には大量の水を必要としたため川沿いの地域が選ばれるのです。さらに材料の紺(コン)は藍(アイ)という草から採るのですが長崎にはなく、海路で輸入するため川沿いの場所が適地となります。現在の中島川常盤橋辺りでは水洗いや荷揚げを、内陸側(中央公園側)では洗った布を干していたと考えられます。
長崎の発展につれ染物の重要も増え慶長11年(1606)頃には、中島川の上流(現在の公会堂-芊原橋間)に新たに紺屋町が開かれ当初の紺屋町本紺屋町とし、今紺屋町が開かれます。その後、すぐに中島川を挟んで寺町側にも紺屋町が開かれ新紺屋町となり、今紺屋町で水洗いや染付けを行ない、新紺屋町は内陸のため洗った布を干していたと考えられています。
寛文12年(1672)大改革で今紺屋町を通りを挟んで二つに分割、今紺屋町の上手(桶屋町寄り-麹屋町寄り)を今紺屋町。下手(魚の町寄り-諏訪町寄り)を中紺屋町とします。明治初期(1870年頃)、新たな改革が行われ今紺屋町中紺屋町を合併させ紺屋町とし、昭和41年(1966)本紺屋町は賑町と栄町に、紺屋町の西側を桶屋町と魚の町に、東側は麹屋町と諏訪町に分割され消滅。今では自治会名にのみ使われています。




B-138:麹屋町(こうじやまち)
麹屋町は当時の中島川の上流部にあたる新紺屋町に味噌や醤油、酒などに使うを作る職人が集まり、正保年間(1644-1648)麹屋町と改称されました。はきれいな水を必要とし、また、は臭気を放つことから、当時としては市街地から一番離れたこの地が選ばれました。昭和41年(1966)町界変更によって本紙屋町、紺屋町などが組み込まれ現在の麹屋町となります。




B-137:何高材墓所(が-こうざい-ぼしょ)【祟福寺後山】
何高材(慶長3:1598-寛文11:1671)は中国福建省pエ県出身の貿易商で寛永5年(1628)頃、長崎に渡来。祟福寺の有力:寄進者(大壇越)となり正保3年(1646)大雄宝殿の建設を一手で行い、多くの何高材の活躍に隠元禅師も賞賛した程でした。このほか寛文6年(1666)榎津町廊橋(現 賑橋)を石橋に架け替えたり、清水寺本堂の建立も何高材が行います。墓所は当初、長崎市竹の久保にありましたが昭和に入り祟福寺後山に移されました。墓碑には大変素晴らしい梅花の透かし彫りがあります。




B-136:唐僧玉岡墓所(とうそう-ぎょっこう-ぼしょ)【祟福寺後山】
玉岡(寛永18:1641-元禄6:1693)は祟福寺第6代住持を務めた唐僧で中国福建省pエ県出身、延宝2年(1674)に渡来しました。そして翌年から19年間、崇福寺の住職を務めます。その間、祟福寺三塔の千呆寿搭建立や、祟福寺末庵の竹林院の創建などに携わります。この墓所は全体が馬蹄形の形をした石造りで細部に多くの彫刻を施した元禄時代の贅沢な造りとなっています。市指定史跡。




B-135:范道生墓所(はんどうせい-ぼしょ)【祟福寺後山】
范道生(寛永12:1635-寛文11:1671)は唐の名工といわれた仏師で若い頃から名声高く26歳という若さで日本に迎えられました。長崎では福済寺に滞在、その後、隠元禅師の招きで京都宇治の萬福寺に向い多くの仏像を作ります。現在、萬福寺にある約40もの仏像のうち27体は范道生のものとされ、すべてが文化財に指定されています。范道生萬福寺の仏像を仕上げた後、寛文4年(1664)に生まれ故郷の広南(現ベトナム)に向います。そして、6年後再び長崎に渡来するも長崎奉行所の許しが降りず唐船の中で急逝。皮肉にもその後、上陸が許されこの地に葬られるのです。市指定史跡。




B-134:即老和尚闍維処(そくろうおしょう-じゃいしょ)【祟福寺後山】
闍維とは僧侶を火葬することで、ここは即非禅師を火葬した場所となります。隠元の高弟である即非禅師は、当時、日本人も中国人も土葬が一般的でしたが、中国の高僧は火葬することが通例で、また、即非禅師はこの地で西向きに火葬するようにと遺言をしたためてあったところから、弟子たちによって火葬されました。寛文11年(1671)5月21日正午、長崎市民数万人が参列して火葬が執り行われ、参列できなかった市民は祟福寺の方向を拝んだといわれています。市指定史跡。




B-133:祟福寺三塔(-さんとう)【祟福寺後山】
祟福寺の三塔は崇福寺の歴代住持の内、隠元、即非、千呆の高僧の塔で、真ん中の塔は寛文9年(1669)即非禅師によって作られた隠元禅師の髪寿塔、つまり生前に作られた寿塔は髪の毛を納めた塔を意味します。向って右はその隠元禅師の高弟:即非(ソクヒ)禅師の舎利塔で、遺言では火葬し墓を造らないようにと弟子の千呆に言い残すも、寛文11年(1671)埋葬されました。そして左は即非禅師の高弟:千呆禅師の寿塔で、弟子の唐僧:玉岡と和僧:江外によって生前の元禄6年(1693)作られました。市指定史跡。




祟福寺唐人墓地【祟福寺後山】
祟福寺の後山には多くの唐人墓地があって数百人もの唐人が眠っています。江戸時代、長崎入りした唐人が亡くなった場合、唐船主の遺骸は中国へと帰されていましたが、それ以外の船員などは長崎で葬られました。それがここで眠る人々で、それは家族がいない無縁墓地となっています。盂蘭盆勝会で華僑の人々が施餓鬼を行うのは、こういった先人達の霊を弔う意味もあります。




B-132:祟福寺墓域
祟福寺墓域には次の方々の墓碑を見ることができます。
【江戸時代初期】唐通事の名門:彭城家の祖の劉一水、唐通事の彭城家、大壇越:何高材、京都萬福寺十八羅漢彫刻の范道生、唐通事:西村家、船番役:成田家、
【江戸時代中期】南画家:熊斐、小川町乙名:立石家、祟福寺歴代住持墓所、
【明治期以降】旧岡政デパートの岡部家、歌人:足立正枝など。




再来泉龍窟【祟福寺内】
開山堂と祠堂の北側に再来泉という泉(岩穴)があり、その昔、祟福寺の十二景にも数えられ冷泉が常に湧き出ていたといわれていました。さらにそのそばには龍窟という小さな岩穴があって中に水神宮が祀られれています。この泉は寛文9年(1669)祟福寺の中興:即非禅師が掘らした泉で当時は大変美しい泉と称されたといいます。




福建同郷会記念樹の碑【祟福寺内】
昭和55年(1980)日本各地にある福建同郷会は同会の二十回大会を記念して祟福寺境内に植樹を予定。碑が植樹の前に建立されました。しかし中国から運搬する樹木が検疫で認められず実現できませんでした。現在は碑のみが建っています。福建同郷会は中国福建省出身者で作る集まりで、特に祟福寺が福州(福建省の中心)出身者によって建立した歴史を持つところから福建省とは関わりが深く、祟福寺での植樹となったと考えられます。

御大典記念樹碑【祟福寺内】
この御大典記念樹は大正天皇の即位を記念して大正4年(1915)を植樹。合わせて記念碑が建てられました。
なお、その記念樹は樹齢から判断してホルトの木と考えられます。




明治期以降の祟福寺修復記念碑【祟福寺内】
明治期以降、祟福寺には修復の完了を意味する記念碑が建てられています。
@「重修祟福禅寺」中国元号(清):光緒3年:日本元号:明治10年(1877)建立
A「重修祟福寺碑銘」中国元号(清):光緒24年:明治31年(1898)建立
B「重修祟福寺碑銘」中国元号:中華民国36年:昭和22年(1947)建立
この時は原爆による激しい被害の修復となります。
C「長崎祟福寺修理工事竣工」公元(西暦)1986年:昭和61年建立
この時は昭和57年(1982)長崎水害による被害の修復です。




薛春花先生之胸像(せつ-しゅうか-)【祟福寺内】
薛春花は明治から昭和にかけて中国および長崎で活躍した華僑で、同じ華僑に財政的に支援したり出入国を手助けするなど多くの人々から尊敬を受けた人物でした。また、当時、崇福寺総代も務め新地で中華料理店「新生園」を経営していました。この胸像はその功績をたたえ建立されました。正面の碑文「薛春花先生之胸像」は第56,57代内閣総理大臣:岸信介によるものです。墓所:悟真寺後山。

無存の句碑【祟福寺内】
碑文「ながさきの 祟福禅寺の うらぼん会 在日華僑 ここに集まる 無存

東声の歌碑【祟福寺内】
橋田東声(明治元:1886-昭和5:1930)本名:丑吾は高知県中村市出身で東京大学在学時、小説を「アララギ」に発表、大正8年(1919)には「覇王樹」を創刊、その後も多くの作品を残します。
碑文「唐寺の 雨にぬれゆく あわれさも まことにここは 肥前長崎 東声




敏斎鄭先生遺徳碑(びんさいてい-せんせい-いとくひ)【祟福寺内】
敏斎鄭(文化8:1811-万延元:1860)とは鄭幹輔(てい-かんぽ)のことで、唐大通事として幕府に仕えた人物で、周竹渓や昌平校に漢籍や漢語を学びました。嘉永末期(1850頃)遣使として北蝦夷(樺太)に向ったりもします。安政年間、開港した横浜でアメリカ人から英語を学びます。その後、多くの門人を輩出し明治期の外交官や洋学などに貢献した人物です。この碑は門下生によって明治13年(1880)建立されました。墓所:祟福寺後山。




頴川重寛先生之碑(えがわじゅうかん-せんせいのひ)【祟福寺内】
頴川重寛(天保2:1831-明治25:1892)本名:保三郎は唐通事:鄭幹輔より中国語を学び安政4年(1857)中国:擢江で通訳として活躍、明治に入り内外の様々な役職につき明治3年(1870)外務省隋遣大使となりその後も政府高官として働きます。後に文部省の外国語教師や高等商業学校の教授となり多くの教え子を育て、この記念碑は先生の60人あまりの生徒によって明治37年(1904)建立されました。




山門の細部【祟福寺内】
祟福寺の建物は中国の材料を中国の職人によって建てられていますが、この山門は日本人職人によって建てられています。しかしこの山門は他の建物より中国風(唐風趣味)に造られているのです。山門の寄進者は唐通事:游龍彦十郎と鄭幹輔で、通り抜けの欄間にはが天井には龍が施されている。門上部中央の額は黄檗宗の祖:隠元隆g禅師による「聖壽山」が掲げてあります。瓦の上にはと宝瓶が載せられていてこれは火災除けを意味します。




B-131:祟福寺山門(さんもん)【祟福寺内】
祟福寺の山門は大門または楼門三門、さらには龍宮門といいます。楼門は勾欄(手すりのような物)を設ける楼門様式から、三門は禅の教え「解脱、無相、無作」を意味するとか三つの扉がついているところから、龍宮門は全体の様式からこう呼ばれます。創建は寛文13年(1673)で当初は現在の形式ではありませんでした。その後、再建されますが明和3年(1766)の火災や文政9年(1826)の台風などで倒壊。現在のものは嘉永2年(1849)の建物です。国指定文化財




海天門の細部【祟福寺内】
海天門は中国福建地方の伝統的構造「手先三葉斗拱」や「藤巻(補強のため柱を縛る)」など細部に渡りきめ細かい細工を見ることができます。また、正面の扁額「祟やW寺」には「寛永廿一年甲申九月吉旦」(1644)と記載、創建当時のものと考えられ、その上の即非禅師による額「第一峰」は、この門が第一峰門と呼ばれるゆえんでもあります。そのほか扉にある牡丹や蝙蝠(コウモリ)、様々な色彩の絵は初めて訪れる人々目を驚かせています。




B-130:海天門(かいてんもん)【祟福寺内】
海天門は護法堂の北に位置し祟福寺の二番目の門になります。名称は唐門、赤門、二の門、中門、第一峰門とも呼ばれ寛永21年(1644)豪商:林仁兵衛(大堂)によって建立されました。材料はすべて中国で切り込まれ唐船で運搬の後、長崎で組み建てられました。その後、唐船進港覚書などに元禄6年(1693)中国寧波で木材(福州杉)が切り込まれ、翌7年唐船に分載して長崎に持ち込まれたと記載があるところから元禄7年(1694)改修が行われています。特に軒下の構造組物に特徴があり四手先三葉斗拱組(ヨテサキサンヨウトキョウクミ)と呼ばれる複雑な組み方に特徴を持っています。国宝。




B-129:盂蘭盆勝会(うらぼん-しょうえ)【祟福寺内】
祟福寺では旧暦7月26日〜28日(新暦9月上旬頃)に中国のお盆:盂蘭盆勝会が行われます。長崎ではシナ盆ともいいますが、このシナ盆の歴史は比較的新しく、中国福州地方の普度(ポール)という習慣が江戸時代後期に長崎に伝わり、明治30年(1897)頃に現在の形式になったといわれています。これは日本のお盆のような先祖(有縁仏)供養に留まらず無縁仏まで供養する施餓鬼(セガキ)という習慣です。最終日には金山-銀山-銭山(金貨銀貨など)-衣山(衣類)など紙で見立てた飾りを燃やしますが、これはご先祖様や餓鬼(無縁仏)にお供えする意味があり、小遣いやお土産を持って、迷うことなく再び向こうの世界に戻れるようにという意味が込められています。




B-128:祟福寺の梵鐘(-ぼんしょう)【祟福寺内】
祟福寺の梵鐘は正保4年(1647)祟福寺創建にも携わった壇越の何高財、魏之琰、林仁兵衛らの寄進で鍛冶屋町の鋳物師:安山助右衛門国久によって鋳造されました。この阿山助右衛門国久ですが寛永17年(1640)から慶安4年(1651)の間に祟福寺のほか興福寺や晧台寺、本蓮寺、諏訪神社などの梵鐘の鋳造や(現存は祟福寺のみ)、「大波止の大砲の玉」といわれる寛永15年(1638)島原の乱のために造られた石火矢玉も造ったといわれています。県指定文化財。




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