広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成17年 〜2005年〜
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B-202:桜姫美人稲荷神社(さくらひめ-びじんいなりじんじゃ)
【八坂神社境内】
八坂神社の境内と清水寺の境内には桜姫美人稲荷神社があります。その昔、出産で苦しんでいるキツネをここに参詣に来た夫婦が見つけ、高平町にある自分の家に連れて帰り手当てを施します。すぐに手当ての甲斐あってかキツネは無事子供を出産。夫婦はキツネを元の場所に開放します。不思議なことにその夜、夫婦の夢枕に美しいお姫さまが現れキツネのお礼をしたといいます。お稲荷さまがお姫さまになりお使いのキツネのお礼をしたのでしょう。それからここのお稲荷さんを桜姫美人稲荷というようになったそうです。




倉成正外務大臣就任記念碑
(くらなりただし-がいむだいじんしゅうにんきねん-ひ)【八坂神社境内】
倉成正(大正8:1919-平成8:1996)は東京大学卒業で、12期35年間、衆議院議員を務め、第67代福田内閣では経済企画庁長官、第73代第3次中曽根内閣では外務大臣を務めました。この記念碑の意味は、昭和61年(1986)に倉成正外務大臣を就任した際、ここに梅の植樹を行った記念のものです。墓所:大音寺後山。




筆供養碑(ふでくよう-ひ)【八坂神社境内】
筆供養碑は昭和50年(1975)長崎県屋外広告美術協同組合によって建てられたもので、広告看板業者は日々筆を使って作業をすることからこの建立となりました。を使うということは学問の神で書の神でもある菅原道真公(天満宮)が八坂神社にお祀りされていることに由来します。なお、八坂神社の天満宮は、江戸時代、お隣りの清水寺境内にあった高野平天満宮や八坂神社後山にあった笠頭山天満宮、さらには今籠町天満宮が末社としてお祀り(合祀)されています。




八坂神社記碑(やさかじんじゃき-ひ)【八坂神社境内】
八坂神社紀には寛永3年(1626)に高覚院が創建したことから、旧暦6月1日に行われていた祭事のこと、明治元年(1868)に八坂神社に改称した際、九州鎮撫総督:澤宣嘉に「八坂神社」の額を受けたこと、明治12年(1879)資金を集め社殿を改修したことなど、八坂神社の歴史が刻されています。正面の「八坂神社記」文字は前の長崎県知事で当時の兵庫県知事だった内海忠勝によるもので、碑文は漢学者で初の長崎市議会議長の西道仙によるものです。建立は当時の世話町(東浜町ほか17町と高野平郷)が明治21年(1888)に行いました。




祇園さん(ぎおんさん)
祇園さん八坂神社の夏祭りで祇園祭といい、別名をほおずき市といいます。夏越しの行事の一つで現應寺時代から続くお祭です。明治41年(1908)まで旧暦6月13日から18日まで行われていましたが、現在では新暦7月23日から29日まで行われています。祇園さんのとき八坂神社の参道は、元禄時代(1700頃)から露天が立ち並ぶようになり、うちわ、お面、ビードロ、造花、小間物、香餅(こうへい)など多くの店がありました。また、門前町の八坂町や鍛冶屋町などは夕涼みがてらに散策する人で大いに賑わい、ついには明治36年(1903)長崎警察署は左側通行令を出し交通整理を行ったといいます。しかし祇園さんの賑わいも人口の減少か昭和50年(1975)辺りから低迷しますが、最近再び活気付くようになりました。同じ時期、お隣の清水寺の千日参りに関連してかホオヅキが並べられ、参詣者が買い求める姿は夏の風物詩にもなっています。




B-201:八坂神社(やさかじんじゃ)
鍛冶屋町8-53(旧長崎村高野平郷/八坂町)
八坂神社は京都の八坂神社を本社とする須佐之男命をお祀りする神社で、須佐之男命は祇園天神(ギオンテンジン)または牛頭天王(ゴズテンノウ)ともいいます。八坂神社祇園社(天王社)といい、お祭を祇園祭といいますがそれはここから来ています。
八坂神社はもともと現應寺という寺院でしたが明治維新を受け改称されました。また、昔から須佐之男命は疫病を退散させる神で、現應寺の頃より厄除け退散の神事が続けられています。春の鎮花祭は疫病が始まる時期に早く散る花を鎮め救済する意味があり、夏の祇園祭は疫病が退散するようにという夏越しの意味合いが込められています。




B-200:寶珠山延寿院現應寺跡
(ほうじゅざん-えんじゅいん-げんのうじ-あと)
鍛冶屋町8-53(旧 長崎村高野平郷)
江戸時代初め、佐賀出身の山伏:高覚院が今籠町東南部(大光寺下付近)の樹齢数百年の老木のそばに小さな祠を建て須佐之男命(天王社)をお祀りしていました。当時はキリシタンの勢力が強く参詣の者を脅迫することもあったといわれています。その後、禁教令によってキリシタンの勢力がなくなると高覚院は長崎奉行水野河内守の許しを得、寛永3年(1626)祠からお堂に立て替えます。寛永15年(1638)今の八坂神社の場所に移転。明和3年(1766)に火災で焼失するも再建し、安永8年(1779)諏訪町の住人から鳥居の寄進を受け、さらには毎年、唐船の船主より寄附を受けるようになります。しかし、明治維新によって現應寺八坂神社に改称。お寺から神社に変えられました。この時、九州鎮撫総督:澤宣嘉から「八坂神社」の手書きの文字を頂き、鳥居の額として納められます。




B-199:大福山宝輪寺聖寿院跡
(だいふくざん-ほうりんじ-せいじゅいん-あと)
油屋町6-12(旧 長崎村高野平郷字石原/八坂町)【西田医院】
朝鮮百済国の琳聖太子28世の子孫である修験者:増慶は江戸時代初め長崎に入りし、新紙屋町に寛永18年(1641)一寺を建て宝輪寺の創建とします。延宝4年(1676)に高野平郷に移転。当時、長崎奉行所には3個の陣貝があって1個はこの宝輪寺に備えて置くことになり、奉行が市内巡見の際は差し出さなければなりませんでした。文化5年(1808)フェートン号事件以降、異国船渡来の非常事態の時は宝輪寺も参加するとし、もう一つ陣貝を預かることになります。現在も宝物として陣貝が残されているといわれています。なお、昭和47年(1972)上戸町1-13-29に移転。現在に至ります。ここの本尊は大黒天で腹内に黄金の大黒天像が鎮蔵しているところから「腹篭りの摩訶伽羅金天」と呼ばれています。




B-198:水口天満宮跡(みのぐち-てんまんぐう-あと)
鍛冶屋町7-49(旧 今石灰町・八坂町)【八坂マンション】
創建は江戸時代初期で、祭神は菅原道真公。昭和30年代(1960頃)まであったといわれ、所有者がキリスト教徒の手に渡ると社殿は取り払われてしまいます。御神体などは行方不明。

@いつの頃からかこの付近に天神像がお祀りしてあって付近の住民に大変信仰を集めていました。しかし元和年中(1615-1623)に清水寺を開いた沙門慶順が清水寺の境内に移し清水天神とします(これは明治維新後、八坂神社に移されます)。天神像がなくなった100年あまり後、付近は貧しく住民の多くはこの地を去って行きました。そこに釈周伝という人物が訪れ、付近の貧しさを嘆き、さらに以前ここに天神像があったことを知ります。享保11年(1726)釈周伝は不思議な夢を見ます。ある屋敷を訪ねると天神像があって拝んだところ、そこの婦人が周伝のところに連れて行くようにお願いして来たとのいうもの。翌日、その屋敷を訪ねて見ると夢と同じように天神像を授かることになり、再び元の場所にお祀りし水口天満宮が再建となるのです。
A創建は寛永3〜6年(1626〜9)頃、本石灰町の明石兵左衛門がこの地に天満宮をお祀りしたことに始まり、当時、この付近が高野平郷に属し水田が続いていました。そして天満宮のそばから水が湧き出ていたところから水口天満宮と呼ばれるようになります。




B-197:福地櫻痴生誕の地(ふくちおうち-せいたんのち)
油屋町2-26付近(旧 新石灰町)
福地櫻痴(天保12:1841-明治39:1906)は本名を源一郎といい号を櫻痴または夢の舎主人といいます。新石灰町に生まれで父は儒医:福地苟庵(コウアン)でした。文久元年(1861)櫻痴は幕府の使節に通訳として随行。さらには慶応元年(1865)外国奉行らと通訳として渡仏を果たします。その後も岩倉具視大使らと欧米を周り外交交渉で活躍。帰国後は東京日日新聞を主宰し反自由民権派としてペンを握り、新聞に「社説欄」を設けた初めての人物でした。また櫻痴は千葉勝太郎と歌舞伎座の創設も手掛け明治の演劇の改良を果たします。そして脚本家としても活躍し「春日局」や「侠客春雨傘」なども手がけます。晩年は東京府選出の衆議院議員に当選します。墓所:大音寺後山。




B-196:八坂町祇園石灰町(やさかまち-ぎおんしっくいまち)
江戸時代初期、石灰町(本石灰町)に多くの石灰が荷揚げされていましたが、油の需要増で当初の町域ではまかないきれなくなり油屋町の山手側に新たに町を開きます。これが今石灰町です。その後、寛文12年(1672)町内を縦に割って分割し今石灰町と新石灰町とします。風頭山側が今石灰町、油屋町側が新石灰町で、両町を区別する意味から山側を俗に祇園石灰町とも呼んでいました。これは山側にある現應寺の祭神が俗に祇園と呼ばれていたところからこう呼ばれていました。明治維新で現應寺は八坂神社に改称。明治4年(1871)八坂神社にちなみ両町を合併させ八坂町とするのです。八坂町は昭和41年(1966)町界町名変更で鍛冶屋町、油屋町などに吸収され、現在ではくんちの踊り町のときにのみ見ることが出来ます。




B-195:本石灰町/今石灰町/新石灰町(もとしっくいまち/いま-/しん-)
江戸時代初め、中島川を中心に町が開かれていた頃、現在の思案橋付近は小島川(玉帯川)の河口で川口と呼ばれ貿易船の船着場になっていました。船着場には油屋町の近くということで石灰(シックイ)が荷揚げされ、石灰は主に油を綿実から精製する媒介に利用されていました。この荷揚げが行われていた海岸沿いが石灰町と呼ばれるようになり、さらに人口の増加に伴い油の需要が増え、同じように石灰も多く輸入されるようになると、新たに油屋町の隣りに石灰町が開かれます。当初の石灰町本石灰町とし、新たに開かれた町を今石灰町と命名。しかし寛文12年(1672)大改革より今石灰町は分割、通りの山側を今石灰町、川側が新石灰町と区別します。約200年後の明治維新のとき、現應寺が八坂神社に変わりますが、これを期に明治4年(1871)今石灰町新石灰町は合併。八坂町とします。しかし昭和41年(1966)八坂町は油屋町と鍛冶屋町などに吸収され消滅。石灰町は本石灰町を残すのみとなりました。




B-194:思案橋のガス灯
本石灰町、丸山町、油屋町(旧本石灰町、油屋町)
昭和58年(1983)思案橋電停から正覚寺下電停までの約250メートルの間に28基(当初)のガス灯が設置されました。これは前年の長崎水害で犠牲となった方々への慰霊と世界平和を祈念したもので、長崎県と長崎市および地元商店街の手によって設置されました。そしてこのガス灯は第二次大戦後の日本では最初のガス灯といわれています。また、各灯の足元にはそれぞれガス灯にちなんだ歴史やガス灯を描いた小説の一説が敷石に刻まれていて、ガス灯を支える柱には龍(長崎でいう蛇:ジャ)が施され、これは水害犠牲者の慰霊と世界祈念の珠を龍(長崎でいう蛇:ジャ)が守っているところを表現しています。




B-193:玉帯橋(たまおびばし)
油屋町-旧本石灰町間/小島川(玉帯川)
玉帯橋は茂木街道の起点となる橋で現在の正覚寺下交差点に架かっていました。慶安4年(1651)第12代長崎奉行馬場三郎左衛門利重によって架橋され、茂木街道の入口の橋として利用されます。玉帯橋は当初、油街橋(アブラマチ-バシ)や油屋町橋、南石橋などと呼ばれていましたが、明治になって漢学者で初の長崎市議会議長となった西道仙によって命名されました。これは下を流れる小島川がこの付近で玉帯川と呼ばれることによります。一般に橋の修繕は担当の町が行うと決まっていましたが、この橋においては会所銀が使われていて重要な要所だったことが伺えます。玉帯橋は眼鏡橋、大手橋に次いで3番目に古い橋で、流失の記録がありませんでしたが、昭和10年(1935)頃、新道工事の際、破却され姿を消します。




B-192:町設:油屋樋水跡(ちょうせつ-あぶらやひすい-あと)
油屋町、高平町(旧 油屋町、高野平郷)
油屋町には江戸時代、町独自で設けた水樋(水道)があって昭和30年(1955)頃まで実際に使われていました。これは水利用のほか油を扱う町の特性から防火用水としての設置したと考えられます。水源は油屋町の上流にあたる高平町の井戸で、そこから管と8ヶ所の吸い上げポンプを置き(江戸時代は水車ではないでしょうか)、油屋町まで流していました。現在、井戸は高平町にありますが油屋町自治会で管理され、毎年、水の大切さを伝えるため水神祭が行われています。水源位置:油屋町自治会館:高平町2-14。




B-191:豪商:橋本邸跡(ごうしょう-はしもと-ていあと)【橋本商会ビル】
旅館宝家の跡を受け継いだのが、当時の豪商:橋本家で、初代:橋本雄造(弘化4:1847-大正5:1916)は大分県下毛郡から18才で長崎入りし商家の下働きから始めます。やがて独立し橋本商会を立ち上げ長崎三菱造船所などの材料販売で財を成し長崎実業界のトップに躍り出るのです。そして衆議院議員や貴族院議員を務め、さらにその子である橋本辰二郎(明治元:1868-昭和26:1951)も実業界で活躍。大正から昭和にかけて3回も貴族院多額納税者議員に選ばれたり、長崎商工会議所会頭などを務めました。油屋町の橋本邸は長い塀と広い庭が有名で第2次大戦後は清風荘という旅館でしたが、昭和40年(1965)頃、夫婦川町に移築されます。橋本家墓所:大光寺後山。




B-190:旅館宝家跡(りょかん-たからや-あと)【橋本商会ビル】
幕末、大浦慶は負債を抱え破産。屋敷は松尾浅吉が初代となって旅館宝家を始めます。この松尾浅吉の長女:シナは幼少のころ大浦慶に可愛がられていたといいます。また、明治3年(1870)東小島の高島秋帆邸跡に料亭宝亭(ホウテイ)も始め、油屋町の家はその後、豪商:橋本辰二郎に譲渡。東小島は廃業して大正5年(1916)料亭辰巳に貸出します。明治44年(1911)松尾浅吉らは神戸市下山手通5丁目に移住。長崎料理:宝屋(タカラヤ)を始めます。昭和12年(1937)空襲により焼失します。松尾家墓所:大音寺後山。




B-189:大浦慶宅跡(おおうらけい-たくあと)
油屋町2-46(旧 油屋町)【橋本商会ビル】
大浦慶(文政11:1828-明治17:1884)は油惣代:大浦大平次の子として油屋町に生まれます。幕末の大浦家は貿易不振で家業が低迷。は若くして再興を決意しお茶の輸出商を始めます。嘉永6年(1853)嬉野茶を出島のオランダ商人:テキストルと提携してイギリスやアメリカ、アラビアの三国に見本を送り日本初の製茶貿易を始めます。安政3年(1856)イギリス人のオルトが大量の注文を行い九州一円のお茶を輸出。当時、貿易不振だった長崎に新しい道を開き市内各地に製茶所を設けるに至ります。さらには稼いだ財を国事に紛争する維新の志士:大隈重信や松方正義、陸奥宗光らに援助。また、グラバーとも親交もあり坂本龍馬の海援隊にも資金を提供します。明治4年(1871)オルト商会などの契約に失敗し巨額の負債を受け困難に直面するも、自らの力で克服。全額返済に成功します。明治17年(1884)大浦慶の功績は日本の発展に寄与したものと明治政府の農商務大臣:西郷従道(西郷隆盛の弟)より褒賞され功労賞金として20円を授与されました。墓所:清水寺後山




B-188:油屋町(あぶらやまち)
長崎開港後、古川町、榎津町、鍛冶屋町と町が開かれ、合わせて生活必需品であるの問屋街が市街地から一番離れている風頭山のふもとに開かれます。最初は油座から始まり元和2年(1616)に油屋町として誕生します。当時の油屋町は長崎のの販売権を一手に持ち、長崎の発展を支えていたのです。当時は思案橋付近まで海で油屋町電車通りが岸壁にあたり、ここに海路運ばれてくるが荷揚げされていました。昭和41年(1966)付近の八坂町、鍛冶屋町などを吸収して現在の油屋町になります。




B-187:長崎水害記念塔
浜町10-16【親和銀行前】
昭和57年(1982)7月23日夕方、長崎市は梅雨末期の記録的な豪雨に見舞われます。いわゆる7.23長崎大水害といわれるものです。午後7時から8時までの1時間に112ミリ。8時から9時まで102ミリの雨が降り、中島川を始めとする河川は氾濫し市街地は床下床上浸水となります。そしてこの思案橋付近では最高1.57メートルの高さまで冠水し暗渠などは陥没、甚大な被害をこうむりました。
この碑はライオンズ長崎中央クラブによって建立されたもので、碑の上には本石灰町のくんちの出し物である御朱印船が飾られ、長崎から力強く航海して行く様子に水害復興を応援する意味が込められています。




B-186:金屋稲荷神社(かなや-いなりじんじゃ)
阿山家は鍛冶屋であり金属を扱う商売で金屋ともいいます。阿山家屋敷内には商売繁盛の神として稲荷神をお祀りしていて、阿山家が今鍛冶屋町の地を去った後も今鍛冶屋町住人の手で奉仕され、のちに八坂神社の境内に移されます。現在は桜姫稲荷神社に合祀され、鳥居に金屋稲荷の文字を見ることができます。




B-185:阿山(金屋)家宅跡(あやま/かなや-け-たくあと)
浜町、鍛冶屋町(旧 今鍛冶屋町)
阿山家は代々鋳物師で有名な家で鍛冶職人街であった鍛冶屋町に屋敷を構えていました。初代の阿山助右衛門国久は寛永17年(1640)から慶安4年(1651)の間に祟福寺のほか興福寺や晧台寺、本蓮寺、諏訪神社などの梵鐘の鋳造や(現存は祟福寺のみ)、「大波止の大砲の玉」といわれる石火矢玉を造ったといわれていて、阿山弥兵衛国逵(クニキorクニツジorクニミチ)においては祟福寺の大釜や深堀:円福寺の梵鐘、阿山弥兵衛国久においては本河内青銅塔、阿山弥五左衛門国久は茂木:円成寺の梵鐘を造っています。このほかにも作品があったのですが第二次大戦で供出されてしまいました。墓所は当初大音寺後山にありましたが現在不明。




B-184:御用時計師:御幡儀右衛門(ごようとけいし-おばた-ぎえもん)
油屋町1-1付近(旧 出来鍛冶屋町)
昭和40年頃まで思案橋の目印にもなっていた平石時計店がありました。平石時計店の初代は江戸時代、幕府の御用時計師という役職で御幡儀右衛門という人物でした。当時、時計はオランダ渡りの大変貴重な物で奉行所などにしか置くことが出来ず、天保2年(1831)御幡儀右衛門は長崎奉行に時計調整役の時計師に任命され、専門に時計のネジ巻きや調整をする仕事に就きます。そして年に一度は、将軍家や諸大名の時計の修理のため江戸に上ったという記録も残っていて、第二次大戦後しばらく、平石時計店には大名時計や砂時計、尺時計、それに将軍に献上したのと同じ斗圭(トケイ)があったといわれています。現在は道路拡張により建物は消滅しました。




B-183:無盡藏の碑(むじんぞうの-ひ)
万屋町5-39(旧 万屋町)
昭和14年(1939)春ごろから長崎では日照りが続き1日数時間という給水制限が始まり、市民は水のない生活に困難を極めます。一方、万屋町の料理店吉宗の井戸は前年に改修したこともあって井戸水が豊富に湧き出し、吉宗店主の厚意によって井戸を市民に開放することになります。このため万屋町を始めとする袋町(現 栄町の一部)、古川町、材木町(現 賑町の一部)、榎津町、浜町、築町、銅座町、出島町までの数百戸の市民はその恩恵をもらい水飢饉を乗り切ることが出来るのです。そして昭和15年(1940)有志によって諫早の四本松から石材を運び込み、当時の陸軍中将:堀内信水により「無盡藏」と命名してもらい碑の建立となります。なお「無盡藏」の文字は陸軍中将:堀内信水で、裏面碑文には「汲めはとて 盡きることなき 寶井の ほまれを代々に語れ いしふみ」と記されています。




B-182:萬屋町旅館街跡(よろずやまち-りょかんがいあと)
現 万屋町、浜町 (旧 萬屋町)
萬屋町は明治期以降、昭和30年代頃まで長崎を代表する旅館街となっていました。現在の浜町商店街の賑やかさとは対照的に落ち着いた雰囲気の通りで商人相手の旅館街でした。主な旅館は東屋、いしきや、元禄、萬屋、中村屋、常盤、木村、小城屋、惠風荘、西川屋、沖津荘、田中屋などがありました。




B-181:鯨の潮吹き(くじらのしおふき)
今では万屋町の代名詞ともなった長崎くんち奉納踊りの鯨の潮吹きですが、始まりは江戸中期の安永5年(1776)愛宕山(愛宕大権現)の祭事の際、万屋町の旅館:呼子屋に滞在していた組主人:中原甚吉が、奉納の米引きを見て発案。愛宕山の祭事に奉納したのが始まりといわれています。そしてこれが大変な人気だったため2年後の諏訪神社のくんちに奉納となったといわれ、それが現在に続いています。また、ある年、鯨の生地となる「黒しゅす」が入手困難になった時があって、町内の女性たちの帯をほどいて間に合わせたという話も残っており、狂歌に「お祭をするとて町の女房たち 帯までほどいてするかな」と唄われています。




B-180:萬屋町/万屋町(よろずやまち)
長崎開港後、古川町、榎津町と町が開かれ、さらにその南側に鍛冶屋町が開かれます。しかしすぐに市街地の拡大による需要増や火を使う仕事は危険なため鍛冶屋は郊外へと移転となり(今鍛冶屋町の誕生)、最初の鍛冶屋町には日用雑貨店などが増え大変賑やかな町になります。そこで延宝6年(1678)町の店構えから萬屋町に改称します。さらに川沿いという立地で漁船などが係留するようになり中島川沿いに魚市場が生まれます。現在、万屋町のくんちの奉納踊りで鯨や鰹節など海に関係がある飾りや踊りがあるのはこのことからです。昭和41年(1966)榎津町、本古川町などを吸収し現在の万屋町になっています。




B-179:本鍛冶屋町/今鍛冶屋町/出来鍛冶屋町
(もと-かじやまち/いま-/でき-)
長崎開港後、市街地の拡大で内町(県庁付近〜市役所付近)が広がるのと同じく対岸の中洲にも人が住むようになり古川町、榎津町が形成、さらにその南側に鍛冶屋町が開かれます。しかしすぐに市街地の拡大による需要増や火を使う仕事は危険なため郊外へと移転となります。最初の鍛冶屋町の東側に新しい鍛冶屋町が作られ今鍛冶屋町と命名、これにより当初の鍛冶屋町本鍛冶屋町と改称されます。その後、市街地となった本鍛冶屋町は火を使う商売はなくなり日用雑貨店などが増え大変賑やかな町になります。延宝6年(1678)本鍛冶屋町は町の店構えから萬屋町に改称します。一方、今鍛冶屋町は人口の増加で需要が伸び発展。寛文12年(1672)寛文の大改革により町域を分割されます。当初の今鍛冶屋町は通りの西側のみとなり、通りの東側は出来鍛冶屋町に改称されます。今鍛冶屋町出来鍛冶屋町とも明治初期まで続きますが再び合併して鍛冶屋町となります。さらに昭和41年(1966)付近の今籠町など付近の町を吸収して現在の鍛冶屋町となります。




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