広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成17年 〜2005年〜
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B-248:愛宕地蔵堂(あたご-じぞうどう)
愛宕2-10-31(旧長崎村高野平郷)
愛宕地蔵堂がある場所は、茂木新街道と甑岩(こしきいわ)への分岐点に当たり、昭和の初め頃まで甑岩神社の一の鳥居が立っていました(基礎石の円石のみ現存)。地蔵堂に祀られている地蔵像は松浦藩のある一族が長崎に移住した際に持参したものといい、弘法大師像は毛利家の家来が天草から陶土を取り寄せて焼いたものといわれています。このほか道中安全の守護といわれる馬頭観世音菩薩像があって、これは明治維新の際、廃寺となった愛宕山願成寺の解体材料や電柱を運搬した高野平郷の馬方連が奉納しています。台座には「明治40年(1907)四月二八日電燈会社馬方中・高野平高比良力太郎」とあり、当時、愛宕山復興に尽力した高比良力太郎の名前を見ることが出来ます。




B-247:長崎焼/愛宕焼跡(ながさきやき/あたごやき-あと)
愛宕2(旧長崎村高野平郷)
江戸時代初期の寛文年間(1661-1673)長州藩の毛利家家老:中原太郎左衛門勝文は高麗焼を好み、周防国(山口県東南部)吉敷の新宮山に陶工:友平を使って窯を開き萩焼を始めます。明治期になってその中原家第13代目にあたる中原仁市が長崎に移住。もともと焼き物のことなど知らなかった中原仁市は祖先が窯業の創始と知り、その後、自ら陶工8代目である板高麗左衛門に弟子入りし高麗焼製法を学びます。明治29年(1896)には大阪でドイツの陶工:スキトモールの門を叩き、その後、長崎の愛宕に窯を設け田手原重篭の土を使って茶器などの製作を始めます。大正5年(1916)長崎県から南洋諸島陶器視察員に命ぜられマレー半島を視察。そういった各種の製法を取り入れ完成したのが長崎焼でした。大正11年(1922)華頂宮(孝明天皇の甥)来崎時、長崎焼を絶賛し「社頭焼」と命名。第2次大戦を経て昭和30年代(1955)まで続きました。また、昭和の始め、中原仁市の妻:ノシが同じ窯で土人形を製作。これが後の長崎焼人形となります。中原仁市の弟子:久保田はじめも人形を製作していましたが他界後、一時途絶えます。現在、長崎焼人形は中原ノシの孫にあたる大久保平が昭和63年頃(1988)復活させました。




B-246:吉田牧場跡(よしだぼくじょう-あと)
愛宕3-5(旧長崎村高野平郷)【愛宕保育所ほか】
昭和の始め頃、この付近に長崎一といわれた牧場があり、吉田牛乳店が経営していたことから吉田牧場と呼ばれていました。牧場にはホルスタインが数頭とも十数頭ともいたといわれ、当時、牧場沿いの道からはお乳を搾っていた光景が見られ、独特な臭いがしていたそうです。しかし昭和30年頃(1955)閉鎖され住宅地へと変わります。今でもこの付近の電柱には「吉田幹線」の文字を見ることができ、国道沿いに当時の塀(万年塀)が一部残っています。




B-245:洗凡馬頭観音(せんぼん-ばとうかんのん)
愛宕3-1-10(旧長崎村高野平郷字山中)
白糸の滝の上手、「洗凡」の文字が刻されている大きな岩とその岩の上に馬頭観音の石像があります。現在では住宅の間で目立たない存在ですが、位置的には白糸の滝の一部分と考えられます。「洗凡」の文字は江戸時代末期の南画家:徐溶(雨亭)によるもので、凡俗を洗い流す意味があります。馬頭観音はこの付近が茂木街道近くということもあって道中安全の守護と考えられます。

浅田観音跡(あさだかんのんあと)
現在の白糸公園付近に昭和40年頃まで浅田観音がありました。現在では所在が不明ですが、付近の電柱番号に「浅田観音」の文字を見ることができます。




B-244:愛染寺稲荷神社(あいぜんじ-いなりじんじゃ)
上小島3-1-10(旧長崎村高野平郷字山中)
文禄元年(1592)豊臣秀吉の命令で朝鮮へ出兵した薩摩藩でしたが、武器(飛道具:弓矢の意)で戦うことを快しとしなかったため、狐火(きつねび:火を放つこと)を使って朝鮮の兵を追い散らす方法を用い、その結果、見事大勝するのです。一方、狐火の狐は稲荷神の使いということもあり、以降、薩摩藩稲荷神の信仰をするようになります。長崎の薩摩藩屋敷(現 銅座町7-36:三菱信託銀行)にも稲荷神がお祀りしてありましたが、長崎警備に当たっていた薩摩藩隊長の平田豊春がこの白糸の滝近くに住んでいたこともあり、この地に薩摩藩邸の稲荷神を移設、これが愛染寺稲荷神社の始まりとなります。石灯篭には文化3年(1806)と刻され江戸中期にはすでに存在していたことが分かります。

濤の碑(なみ-のひ)
社殿横には薩摩から運ばれたといわれる珊瑚石があって「濤」と刻されています。




白糸の滝のの伝説
その昔、この付近がまだ畑地だった頃、ここには6、7匹の白狐が棲み付いていて通行人をよく化かしていたといいます。ある日、子連れの奥さんが白糸の滝のそばで洗濯していると突然、子供が悲鳴を上げ川に落ちてしまいます。急いで救い上げると子供は誰かに突き落とされたといい、しかし誰一人見当たりません。そして家に帰ってみると子供は熱を出し様子がおかしくなっていました。すぐに占い師に相談すると子供に白狐が取り付いていると言われ、白糸の滝のそばにお供え物をするよう告げられます。お告げの通り奥さんがお供えをしますが一向に快復しません。再び占い師に相談してみると、草履をはいてお供えしたので失礼にあたった言い、次は裸足で行くように告げられます。不思議なことに裸足でお供えすると子供は快復し、元気な姿になったそうです。そのほかこの辺りでは火の玉が飛び交うなど、よく怪現象が起こっていたそうです。




B-243:白糸の滝/白絲の瀧(しらいとのたき)
愛宕3-1-10裏/愛宕3-13-9裏(旧長崎村高野平郷字山中)
その昔、上が平らになっている大きな岩が二段になって川の真ん中にありました。そして水が流れるとたくさんの糸が並んでいるように見え、このことから白糸の滝と呼ばれるようになります。位置的には薩摩藩屋敷の後方に当たり白糸の滝は庭園の一角をなしていたものと考えられます。現在では住宅が密集しその姿を見ることが難しくなっていますが、今も川には当時の美しさはないものの、その形跡を見つけることができます。なお、バス停名の白糸はこの滝の名前から来ています。
白糸の滝を詠んだ俳句「いは手より 落くる瀧の糸すすき 招く袂(たもと)に糸そこほるる:中島廣足)」「高機にかけて さらしてさらさらと 風にかかる 白糸の瀧:流芳」




B-242:公徳の碑(こうとくのひ)
上小島2-5-5(旧長崎村小島郷)【長崎市消防団第9分団】
公徳の碑長崎市消防団第9分団横にある碑のことをいいます。昭和24年(1949)第9分団は同分団の庁舎建設を着手。翌昭和25年(1950)完成します。この時、小島地区11ヶ町(高平町、東小島町、上小島町、愛宕町、早坂町、田上町、矢ノ平町など)後援会員の絶大なる協力と、第9分団員の献身的な奉仕活動が実を結んだ成果でした。碑の建立は昭和26年(1951)会長は村木善門、副会長は滝川三浪。




B-241:薩摩藩秘密屋敷跡(さつまはん-ひみつやしきあと)
愛宕3-1(旧長崎村高野平郷字東川平)【九州商船用地】
九州各藩は長崎警備の目的で多くの軍勢を長崎に派遣しなければならず、そのために藩屋敷が置かれていました。また藩屋敷は長崎奉行所との連絡業務も行っていたため市内には10数箇所がありました。
薩摩藩(島津藩/鹿児島藩)は鹿児島城を拠点とした島津氏の領地で77万石を誇る大藩で、長崎では西浜町(現 銅座町7-36:三菱信託銀行)に正式な屋敷がありましたが、茂木街道近くの交通の便がいい小島郷にも屋敷を設け連絡業務を行っていたといわれています。そしてここでは密貿易の品を横流ししたともいわれ、そうした資金が倒幕の原動力にもなったといわれています。




B-240:百花園跡(ひゃっかえん-あと)
愛宕2-3,4(旧長崎村小島郷)
百花園は江戸末期から昭和初期まであった茶屋のことで、庭園に多くの草花(鉢植え中心)があったところから百花園と呼ばれていました。その後、豪商の永見寛二氏の別荘となっていましたが昭和30年頃(1955)分譲されてしましまいました。江戸末期には坂本龍馬や伊藤博文などが訪れたといわれ、特に明治18年(1885)に来崎したフランス出身の小説家:ピエール・ロチは有名で、自らの結婚生活を描いた小説「マダム・クリザンテーム(お菊さん):明治20:1887発表」の中では、百花園で妻であるお菊さんを見初める様子が描き出されています。




B-239:小島川/銅座川(こしまがわ/どうざがわ)
彦山や田上合戦場付近を水源とした流れは小島や愛宕付近を通り出島付近で中島川に合流。そして長崎港に注ぎます。彦山のふもと白木付近からは八つ尾川、清水川、御幣谷川(ごへいたん-がわ)、渡瀬の川と名前を持ち、田上からの流れは白糸川といいます。白糸付近で二つの流れが合流。小島小学校付近では栴檀川(せんだん-がわ)、小島川、瓢箪川(ひょうたん-がわ)となり、高平町付近になると鳴川(なるかわ)、玉帯川となります。現在では暗渠となっていますが、思案橋付近から銅座川となり銅座市場の下を流れ、最後に十八銀行本店横の出島付近で中島川に合流です。もとは新地より直角に南進し市民病院付近から長崎港に注いでいましたが、昭和30年(1955)都市整備の一環で中島川の支流となりました。




B-238:田中英二先生頌徳碑/田中田士英句碑
愛宕1-4-16(旧長崎村高野平郷)【小島小学校内】
田中田士英(明治8:1875-昭和18:1943)は本名を英二といい、36年間、小島小学校の教師を勤めます。また、俳句にも長け多くの作品を世に送り、俳誌や句集などの発行にも熱心でした。

田中英二先生頌徳碑(たなかえいじ-せんせいしょうとくひ)
田中英二頌徳碑は大正14年(1925)勤続30周年を記念し小島小学校同窓会によって建立されました。碑文「絃誦三十年 春風満教壇 郷閭皆可敬 勒石桃源邊」 文字は小松好太郎、有馬憲文による。

田中田士英句碑(たなかでんじえい-くひ)
小島小学校教諭であった田中英二(号:田士英)を称え小島同窓会によって昭和30年(1955)に建立されました。碑文「散る花を 手にうけて思ふ事多し 田士英




B-237:松本泰明翁之碑(まつもとたいめいおう-のひ)
愛宕1-4-16(旧長崎村高野平郷)【小島小学校内】
寛永18年(1641)八坂町(油屋町6-18付近)に和光院が創建します。後に衰退し享保8年(1723)快行院眼種が真言宗快行院を再興します。その後、明治維新の廃仏毀釈で廃寺となり第8代住持の松本泰明(文化14:1817-明治32:1899)は寺小屋とし教育機関となります。これが後の小島小学校開校に続くのですが、この碑は松本泰明の功績を称え小島小学校創立40周年に際し、大正14年(1925)教え子を始めとする先生などが建立します。




B-236:長崎市立小島小学校(-こしましょうがっこう)
愛宕1-4-16(旧長崎村高野平郷)
八坂町(油屋町6-18)にあった真言宗快行院(享保8:1723創建)の住持:松本泰明は、明治維新を受け廃寺とし寺小屋を開き子供の教育指導を行います。これが小島小学校の前身となります。明治19年(1886)小島尋常小学校が小島郷鳴川に創立。後に校舎が手狭だったこともあり明治41年(1908)現在地(高野平郷)に移転。昭和22年(1947)教育改革により小島小学校と改称。現在に至ります。

のびよ小島の子の碑
この碑は小島小学校創立100周年を記念して、昭和58年(1953)小島地区連合自治会と小島小学校同窓会、小島小学校父母と教師の会によって建立されました。




B-235:夫婦地蔵(めおとじぞう)
愛宕1-2-10(旧長崎村高野平郷)
夫婦地蔵は以前まで小島小学校の上手の東川平橋のそばにあって、その昔、この付近に多くのカワウソがいたため、そのカワウソ除けのために祀られたと刻されていました。しかしその後、石像が二つに割れてしまいどういう訳か夫婦地蔵と称されるようになります。

目当ての地蔵(めあてのじぞう)
愛宕1-6-26(旧長崎村高野平郷)
目当ての地蔵は小島小学校と深い関係があって、小島小学校の創建(明治19:1886)、その後、校舎が手狭だったということもあり小島川の上流に明治41年(1908)移転します。しかし、この新校舎は畑地が続き、特に目立った目印がなかったため小学生が通学する際、よく道を迷ったり間違えたりすることが多かったといわれています。そこで付近の住民などが分かれ道などに目印として(目当てとして)置いたのがお地蔵さまでした。以前は道々に置かれていましたが現在では寄せ集められお祀りしてあります。




出島専用水樋狭田水樋
倉田次郎右衛門はその後、官許を得、出島専用の水樋を建設。宝永4年(1707)に完成させます。高野平郷(現小島小学校横)から出島のオランダ商館へ送水します。
このほか寛政8年(1796)には立山奉行所専用の水樋:狭田水樋が作られ、西山郷狭田の桜水と呼ばれる井戸から土管を通し立山役所まで水を引きました。




B-234:無名泉/オランダ井戸(むめいせん/おらんだいど)
愛宕2-1付近(小島川流域)
千畳敷の上手、小島小学校の下になりますが川の中に1つの古い井戸があります。この井戸は無名泉といい別名をオランダ井戸といいます。その昔、この付近はお茶(上喜選)の産地で、井戸水は清冷甘味でお茶に最も適した水として長崎の数奇者(すきしゃ:茶人)が遠くから水を汲みに来たり、高島秋帆の元に砲術を習いに来た諸藩の若侍などがお茶の代わりに飲んでいた井戸水といわれています。さらにここから水樋を設け出島のオランダ屋敷に送水し、出島内の常用水としても利用されていました。




B-233:千畳敷/榎渓/塩浴渓(せんじょうじき/えのきだに/しおあみだに)
愛宕1-3/上小島2-1付近(小島川流域)
小島川の小島小学校付近から千畳橋付近までを千畳敷または榎渓塩浴渓といいます。小島川は岩が連続している河川で渓谷といってもいいほど大小さまざまな形をした岩を見ることができます。またこの付近、川の全面が平らな岩で形成されているため莚(ムシロ)を引くことにより、夏は避暑地として江戸時代から昭和の初めにかけて賑わっていたといいます。この筵を千畳引くことができる場所という意味で千畳敷と呼ばれ、千畳橋もそこから名付けられます。さらに川に榎があったところから榎渓といい、その昔、この付近まで潮が上がっていたところから(潮灌地蔵も同じ意味)塩浴渓とも呼ばれていました。




B-232:八丁車(はっちょうぐるま)
高平町6-6/東小島町11付近(小島川沿い)
小島川の千畳橋から高平橋までの約200メートルの間を、かつて八丁車と呼んでいました。これは昭和の初めまで川の左岸(国道側)に水路を設け、段々に8基の水車を置いてあったので八丁車と呼ばれるのです。江戸時代などは熊本天草から海路で茂木に米を運び、茂木街道によってこの地に持ち込まれ、この水車で脱穀などが行われたといいます。現在では水車はありませんが水路の跡を見ることができます。




B-231:徳利町/フラソコ町(とっくりまち/-)
油屋町5〜6(旧長崎村高野平郷)
油屋町通りの突き当たりから高平町に抜ける細い路地を以前まで徳利町またはフラソコ町と呼んでいました。本当の地名ではなく俗称ですが昭和30年代ぐらいまでは使われていたようです。当時は電灯会社(現 電鉄駐車場)の高い塀があったため薄暗い通りで、さらに奥に進むにつれ少しづつカーブになり、一見、だんだん狭くなるように感じる道でした。そのカーブを描く様子が徳利またはフラスコのように曲線を描いているところから徳利町フラソコ町(フラスコが訛ったもの)と呼ばれました。




B-230:弁慶石(べんけいいし)
油屋町5-17(旧長崎村高野平郷字鳴川)
弁慶石は、その昔、力の強い人が茶臼山(金比羅山の手前の山で現在の東高の後方)に登って石を投げたのがここに落ちたのが由来といわれていて、それは鎌倉時代初期、源義経の家来として仕えていた弁慶がたいへん力が強かったことから、その名を取って弁慶石と名付けられました。もともとこの小島川沿いは大きな岩が多く、この弁慶石も町が拓かれる前からあったものと考えられます。現在、石の横には弁慶石大明神がお祀りされています。
一説によれば、立山にあった神宮寺の住持:真観がキリシタンに追われ高野平に庵(玉圓坊)を設けたといい、この岩がその庵の跡でかつ墓所といわれています。




鴉天狗の碑(からすてんぐのひ)【愛宕山頂】
碑文には「奈良、神戸、山形、茨城、呉、伊賀忍者五名 國わ大和大峯 山出家 昭和五十二年」と刻されています。
天狗とは妖怪の一種ともいわれますが、修験者(山伏)と同一化され江戸時代以降、庶民信仰として発達します。その修験者の総本山は奈良県(大和国)にある金峯山寺(きんぶせんじ)で今でも信仰が盛んな山となっています。また、天狗にもいろいろな種類があって大天狗や小天狗そして鴉天狗と種類が豊富で容姿もそれぞれ違っていて、さらには天狗は忍者の先祖という説も残っています。この愛宕山大光院願成寺でも江戸時代はたくさんの修験者(山伏)で賑わったといわれていて、そのゆかりの山ということもあってか昭和52年(1977)各地の忍者ふんする5名が登頂、鴉天狗の碑を奉納したものと考えられます。




B-229:伊吹元五郎氏之像
(いぶきもとごろうし-のぞう)【愛宕山頂】
陸軍歩兵大佐の伊吹元五郎は大正11年(1922)帰郷し、その後は在郷軍人連合分会長や衆議院議員として活躍。そして地元の高比良力太郎と共に愛宕神社境内地の土地所有問題の解決に20年以上も携わり、昭和21年(1946)無事解決させました(詳細は西島助義翁之陶像の項参照)。この陶像は伊吹元五郎の功績を後世に伝えるために愛宕神社信者によって昭和21年(1946)建立。製作は中原仁市。また陶像には次の詩が句されています。碑文「名も高き 神のみ以つ(御稜威)の愛宕山 元の社に かえる嬉しさ




B-228:西島助義翁之陶像(にしじますけよしおう-のとうぞう)【愛宕山頂】
江戸時代、愛宕山として栄えていましたが、明治維新後は愛宕神社となり官有化となります。そして大正時代には官有林の払い下げが行われ、当時の陸軍中将男爵の西島助義によって山林は買収されるのです。一方、それまで愛宕神社を信仰していた地元の者は、昔から親しまれていた経緯から地元への払い下げを要請。地域の有力者の高比良力太郎は陸軍歩兵大佐:伊吹元五郎の協力を得て西島助義に要請します。その後、西島助義は死去しますが、息子の助継が助義の意思を受け払い下げに応じ、昭和21年(1946)西島助継は山林を愛宕神社に奉納します。この功績に対し西島助義の陶像を信者によって昭和21年(1946)建立となります。製作は中原甚一。




B-227:高比良翁頌徳記念碑
(たかひらおう-しょうとくきねんひ)【愛宕山頂】
高比良力太郎(安政6:1859-大正15:1926)は高野平郷に生まれで、明治26年(1893)高野平郷の衛生部長となり明治44年(1911)には青年団を結成。大正14年(1925)には地域の会館建設に着手し自ら多大な犠牲を払い完成にこぎつけます。20数年にわたる自治会活動の功績を称え、昭和8年(1933)地域の有志によって記念碑が建立されました。碑文は陸軍歩兵大佐の伊吹元五郎、文字は書家の萬木悟堂によるものです。




愛宕神社の碑(あたごじんじゃのひ)【愛宕山頂】
愛宕神社の碑は、寛永20年(1643)に創建した愛宕山大光院願成寺の創建300年を記念して昭和15年(1940)建立されたものです。

愛宕神社再建の碑(あたごじんじゃさいけんのひ)【愛宕山頂】
愛宕山大光院願成寺は明治維新を受け愛宕神社になりますが、それまでのように唐船などの寄進が無くなり維持が困難になります。そこで地元の高野平地区の人々が立ち上がり明治29年(1896)の社殿改修などの再興を成し遂げ、昭和32年(1899)再建の碑の建立となります。なお、この再建の碑は持ち込まれたものではなく、頂上にある岩に直接刻み込まれた大変珍しい碑になっています。




題詩刻二首の碑(だいしこくにしゅ-のひ)【愛宕山頂】
題詩刻二首とは頂上にある巨岩に刻された漢文のことで、碑文は享保4年(1719)から享保9年(1724)まで祟福寺の第10代住持を務めた道本寂傳(中国福州出身)によるもので、享保9年(1724)に刻されました。碑文(表)「翠靄浮天第一峰 雲根盤薄畳青松 遊人漫爲悲陵谷 閲遍滄桑是幾重 道本」 (裏)「遊山豈必春時比 日澄臨悟可治漱 緑新陰如銹幕碧 雲堆裏坐題詩時 /享保九歳在甲辰四月 立夏擇道奉来遊題興




B-226:文筆峰の碑(ぶんぴつほうの-ひ)【愛宕山頂】
愛宕山は初め、合斗峰といい、山頂に竿石と呼ばれる直立した岩があるところから文筆峰とも呼ばれていました。実際、山頂には3メートル程度の丸い岩がゴツゴツと並ぶように立っており、その中の1つに「文筆峰」と刻されています。これは祟福寺第7代住持:大衡海権(元禄6:1693-宝永6:1706在職)によるものです。大衡海権は中国福州出身。




B-225:愛宕山/合斗峰(あたごやま/ごうとほう)
愛宕1-35,34、2-32(旧長崎村高野平郷)
愛宕山は初め、合斗峰といい、山頂に竿石と呼ばれる直立した岩があるところから文筆峰とも呼ばれていました。寛永20年(1643)願成寺に愛宕大権現をお祀りしたことと、願成寺の山号を愛宕山としたところから愛宕山と呼ばれるようになり山岳信仰の場となります。また。山の形が円錐形をしていて大変美しく、江戸時代、長崎十二景の一つに数えられ多くの絵に描かれるようになります。さらに狂歌師:大田蜀山人が次の歌を詠んでいます。
雨風は花のあたこの山さくら このは天狗と散らせたまふな 南畝大田覃




桶屋町接待地の碑
(おけやまち-せったいち-のひ)【愛宕山登山道】
古老によると、江戸時代、愛宕山(願成寺)は山岳信仰が盛んで、山の神をお祀りする願成寺は修験者(山伏)の寺として多くの参詣者があったといいます。そして山岳信仰の象徴、また山の神として敬われたのが天狗で、いつも八手(ヤツデ)の葉を持ち自由に空を飛ぶことができたといいます。ある時、桶屋町で大火があった際、この愛宕山より天狗が舞い降り八手によって火を消し止めたという言伝えがあって、そのことがきっかけで桶屋町の町印に八手が使われたといいます。以降、桶屋町の住人は愛宕山を信仰するようになり、この碑にあるよう接待の地(参詣の地)となったのです。慶応3年(1867)建立。




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