広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成17年 〜2005年〜
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C-20:大乗妙典六十六部供養塔
(だいじょうみょうてん-ろくじゅうろくぶ-くようとう)
上小島3-4-36(旧長崎村小島郷字高僧都)
茂木街道沿いの小島界隈には複数の六十六部塔があって大小様々な形をしています。六十六部とはお経の一つである法華経(ホケキョウ)を66部、写経し、昔の日本国内にあるすべての国(66ヶ国)にある寺院を巡り、写経した経文を奉納する僧のことで六部とか回国廻国などと呼ばれていました。また、六十六部塔は奉納した証として建立されてものと考えられます。歴史は鎌倉時代から続いていますが、長崎のものはほとんどが江戸時期のものです。茂木街道(小島街道)のものは以下の通り。
正徳3年(1713)油屋町:金子正次郎建立【平松地蔵より60m下】
享保4年(1719)建立【平松地蔵内】
文化9年(1812)本下町:善教建立【平松地蔵より300m下】
文化10年(1813)島原の了山、越後の宇左衛門ほか建立【東古川町塔より100m下】




C-19:僧都岡(そうずおか)
上小島1〜5,中小島1〜2,高丘2付近(旧長崎村小島郷字高僧都、中僧都)
江戸時代、いわゆる小島と呼ばれる地域、特に長崎女子高校(旧鶴鳴高)から南高校にかけての地域を僧都岡と呼び、北を中僧都、南を高僧都と呼んでいました。また、僧都岡全体を俗に木駄の原(小田の原)とも呼び、全体が高く開けた畑地でした。僧都の語源は、藁(ワラ)人形つまり案山子(カカシ)は以前、芻人(スウジン)と呼んでいて、それが曽富都(ソフズ)となり僧都となったといわれています。
 続古今和歌集の中に、平安時代の備中岡山の僧:玄賓僧都(ゲンピン-ソウズ)は、案山子(カカシ)について「山田守(モ)る 僧都の身こそ哀しけれ 秋はてぬれば 問人(トウヒト)もなし」と詠います。これは玄賓が自らを案山子にたとえ、そして案山子を僧都と名付け、玄賓が田でスズメを追っていた様子といわれています。つまり、この僧都岡はスズメを追い払う場所と江戸時代後期の長崎図絵は表現しています。このほか準提観音にも僧都が関係しています。




C-18:二宮岱雲の歌碑(にのみやたいうん-かひ)
上小島4-4-11(旧長崎村小島郷字高僧都)【平松地蔵内】
二宮岱雲は江戸時代末期の天保〜嘉永年間(1830-1853)に活躍した長崎の俳人で、茂木街道のほか長崎街道(本河内)には句碑が残っています。この歌碑は、当時、殿の茶屋といわれていた場所(句碑横の住宅内)に建っていましたが、道路改修の際、現在地に移設されました。嘉永元年(1848)建立。碑文「露ちるや 袂(タモト)はらえば ただの水 おもひよるとも ちるさくらかな

殿の茶屋(とののちゃや)
茂木街道のこの地はピントコ坂と地獄坂の中間に位置し、江戸時代は休息の場所だったと考えられます。名前から殿様の駕籠立て場の意味と思われます。




C-17:平松地蔵尊(ひらまつ-じぞうそん)
上小島4-4-11(旧長崎村小島郷字平松)
平松とはこの地域の字名で、ここのお地蔵さまは茂木街道往来の交通安全祈願のため、街道の目印として置かれたもので当初は付近に点在していて、道路改修などで1ヶ所に集まったものと考えられます。また、判読不明の墓所もお祀りしてあります。

力士:初瀬川(ハセガワ)伊三太の墓所
平松地蔵尊の隣に力士:初瀬川伊三太の墓所があります。江戸時代中期に活躍した力士で、文化5年(1808)没、43歳。

先妣月向禪尼の墓所
この墓は僧侶墓所の特徴である卵形をしており、先妣(センピ)とは死んだ母という意味で、尼僧:月向の墓所です。正徳6年(1716)没。慈眼建立。




C-16:筆地蔵(ふで-じぞう)
上小島4-14-7(旧長崎村小島郷字高僧都)
筆地蔵は長崎県立南高校の正門の下にあるお地蔵さまで、ここは江戸時代の茂木街道沿いに当たります。当初は往来の交通安全祈願のため、街道の目印として置かれたものと考えられますが、いつしか筆地蔵と呼ばれるようになりました。正月二日に書初めをした後、ここに書を奉納すると書が上達するといわれています。

地獄坂(じごく-ざか)
南校北門そばより小島旧街道に下る坂を地獄坂といいます。その名の通り大変坂が急で往来が大変なところからその名がつきました。




C-15:長崎県立南高等学校
上小島4-13-1(旧長崎村小島郷字高僧都)
昭和23年(1948)長崎県立長崎東高等学校と長崎西高等学校は公立の学校として開校しましたが、高校生の急増対策として昭和35年(1960)より新学校の建設が始まります。そして昭和36年(1961)全日制公立高校として長崎南高等学校が上小島町に誕生します。第1期工事2700万円。以降、年次計画で校舎を増築します。




C-14:小島街道(こしま-かいどう)
小島街道茂木街道の別名で、江戸時代、長崎から市外へ出るコースのうち茂木口(田上-茂木-天草-熊本・鹿児島へ)といわれていました。この街道は玉帯橋(正覚寺下電停付近)を基点に小島から田上、茂木と進むコースで、長崎県立南高校正門前から長崎病院(旧国立療養所)前、田上交差点を通ります。明治18年(1885)東小島から桜木町へのコース(いわゆる旧街道)と、油屋町から愛宕、桜木町のコースなどのコース、転石から茂木小学校前(片町)のコースの県道が開通。南高校前の通りは使われなくなります。現在は街道沿いに建つ多くの石碑お地蔵さまだけが、当時を物語っています。




C-13:臨済宗大悲山徳三寺(-だいひざん-とくさんじ)
田上2-10-3(旧茂木村田上名字合戦場)
元禄年間(1688-1703)に始まった観音寺はその後、衰退し明治を迎えます。明治27年(1894)伊良林に住む実業家:杉山徳三郎は自らの菩提寺として観音寺跡地を購入、明治32年(1899)一寺を建立します。そして自分の名前を取り徳三寺と命名、長崎では珍しい檀家のない杉山家だけの寺院となります。一説には、杉山徳三郎は明治から長崎市で始まっていた火葬を嫌っていて、それを避けるため、当時はまだ長崎市になっていなかった茂木村の田上名に移転し土葬を出来るように準備したともいわれています。なお、徳三寺の後山に杉山家の墓所があります。




向井去来句碑(きょらい-くひ)
向井去来(慶安4:1651-宝永元:1704)は幼少は慶千代で通称を喜平次(平次郎)といい、字を元淵、号を去来とし、向井元升の次男として後興善町(現 興善町)で生まれます。8歳のとき父と共に京都に移住、一時、福岡で武芸と儒学を学び、20歳代になり再び京都に移り、父:元升の後を継いで医師をしていた長男:元成を支えます。しかし俳諧の道に進むようになり35歳頃、松尾芭蕉の門下となり、やがて蕉門十哲の一人となります。元禄2年(1689)一時帰郷、長崎に蕉風俳諧を伝え、そして再度、元禄11年(1698)に帰郷し千歳亭に滞在、“名月や”の句を詠みます。この碑は平成2年(1990)徳三寺の杉山二郎(杉山徳太郎の子息)らによって建立されます。
碑文「長崎より田上山に旅ね移しける比 夘七 素行に訪ねて/名月や たがみにせまる 旅こころ 去来




C-12:千歳亭址の碑(せんざいていあと-のひ)【徳三寺境内】
向井去来の叔母で、去来の弟である利文の養母でもある久米勝(クメ-カツ:正保2:1645-享保4:1719)は、夫:久米利延を若くして亡くし剃髪して尼となり田上で過ごします。名前も田上尼(タガミノアマ)と呼ばれ庵を構えます。その後、勝の孫も若くして亡くなり(元禄11:1698)、孫の永遠の憩いを祈って庵を千歳亭と命名します。元禄11年(1698)向井去来は帰郷し千歳亭で次の句を詠みます。「名月や たがみにせまる 旅心」田上は我が身との掛詞(カケコトバ)です。
そして田上尼の求めで「千歳亭記」を書きます。
内畑や 千年(チトセ)のあきの たねなすび
またここには去来の従弟(イトコ)卯七や素行(ソコウ)も訪れています。
名月の 麓を呼ぶや 茂木肴 卯七
休み日と うふて山家も 月見哉 素行
田上尼は75才で没し本蓮寺後山に葬られたが墓は現存しない。
碑は昭和28年(1953)向井去来顕彰会によって建立。




C-11:臨済宗石動山観音寺跡(りんざいしゅう-せきどうざん-かんのんじ-あと)【徳三寺境内】
田上2-10-3(旧茂木村田上名字合戦場)
元禄年間(1688-1703)天草代官:服部六左衛門が、長崎に近いところに一寺を建立したいと隠元の流れを汲む黄檗宗の僧:天洲に相談すると茂木村がすすめられます。一方、真言宗の僧:教存は田上村に一寺を建て祈祷所を開いていましたが荒廃していて、天洲は教存の祈祷所を譲り受け石動山観音寺として再興します。しかし江戸時代末期になると観音寺も衰退し荒廃します。

楊柳泉(ようりゅうせん)
楊柳泉観音寺の裏手にあった伝えられています。また、島原藩主:高力氏は長崎の大浦に別荘を持っていて、楊柳泉がお茶に大変合うことから高力氏はわざわざこの水を使っていたといわれています。




報國碑(ほうこくひ)【田上稲荷神社入口】
報国碑は明治37年(1904)の日露戦争に出征した田上地区の人々を称えるもので、明治38年(1905)に建立されました。碑文と文字は漢学者で初の長崎市議会議長の西道仙、碑の額面の文字は第14代長崎県知事:荒川義太郎(前香川県知事)によるものです。
 日露戦争で旅順(中国東北部:現 大連)を守って乃木大将率いる日本軍に抵抗したステッセル将軍が、戦争後、一時長崎に滞在しますが、その際、県知事荒川義太郎は乃木大将より「将軍の待遇は丁重に」という言葉を受け、稲佐のお栄さん宅に滞在させ暖かいもてなしを受けさせます。そしてステッセル将軍が長崎を発つ際は、荒川義太郎や市長らの見送りを受け上海に向かいました(明治38年1月18日)。




C-10:田上稲荷神社(たがみ-いなりじんじゃ)
田上1-6(旧茂木村田上名字地蔵平)
田上稲荷神社は寛永3年(1626)当時の島原藩主:初代:松倉重政(しげまさ)によって創建されました。松倉重政は元和2年(1616)に島原藩に入り、寛永元年(1624)島原城を築城。代が替わって2代目:松倉勝家のとき島原の乱(寛永14:1637)が起こります。田上稲荷神社の創建当時は現在地より西側の西平(田上4丁目付近)にありましたが、元禄4年(1691)に現在地に移転します。田上稲荷神社は田上名の氏神様として鎮座されています。

稲荷神社道の碑(いなりじんじゃみち-のひ)
稲荷神社道の碑田上稲荷神社の入り口に建てられている石碑で、碑が建っている場所は江戸時代の街道筋にあたります。蛍茶屋-矢ノ平-田上、正覚寺下-小島-田上、天草〜茂木-田上の各交差点でした。碑の横には道中安全のお地蔵さまが祀られています。
碑文「いなり志んじゃみち




C-9:日蓮宗妙晃院(-みょうこういん)
田上1-8-16(旧茂木村田上名中ノ間)
妙晃院は昭和32年(1957)に創建された寺院で、境内にある巨大な一字一石塔は有名です。

一字一石塔(いちじいっせきとう)
一字一石塔は一人一人の信者が一つの石に一文字ずつ文字を書き、その塔の下に埋め願いを掛けるというもので、塔の「南無妙法蓮華経」は日蓮宗のお題目です。この塔は妙晃院が創建した際、愛宕町の檀家の家から移設されたものですが、塔自体は明治25年(1892)に建立されたものです。




C-8:田上/田上峠(たがみ/たがみとうげ)
田上1〜4丁目(旧茂木村田上名字中ノ間)
田上は茂木街道(長崎-茂木間4里:約8キロメートル)の中間に位置し、江戸時代から交通の要所で標高約200メートルの田上峠には昭和の初めまで10軒ほどの茶店が立ち並び、蕎麦(ソバ)や(タケノコ)を名物としていました。また、茶店の梶原茶屋では青餅(わらび餅)も出していました。明治に入り三菱造船所のドックに入ったフランス軍艦などの乗組員(水兵)は、軍楽隊を先頭に田上まで行軍し、フランスでは珍しい林の見物に出かけていたといわれています。さらにアメリカ人からは林の道がカリフォルニア州の雰囲気に似ていたところからバンブーロード(bambooとはの意)と呼んでいたそうです。
もともと田上は島原藩の飛び地の田上名(-ミョウ)で、田上にある田上寺は島原藩主高力氏の寄進によって開かれました。明治22年(1889)茂木村に属すようになり(大正8:1919から茂木町田上名)、昭和37年(1962)長崎市に編入されます。




田上寺の念佛廻向塔(-ねんぶつえこう-とう)
念仏とは浄土宗や浄土真宗で「南無阿弥陀仏」と唱えることにより誰もが阿弥陀さまのご加護で(力で)救われるという信仰で、廻向とは巡礼、回国などと同じ意味で、ご加護を得るために霊場や聖地を回り歩くことをいいます。つまり、念仏廻向とは「南無阿弥陀仏」と唱えながら各地を廻ることで、このはそれを記念したものになります。
田上寺境内にある松平長七郎の墓碑の周りには多くの廻向塔があって「千日念佛廻向塔」のほか五千日、一萬日(宝永2:1705)、一萬千日(嘉永5:1852)、二萬千日、二萬二千日、二萬七千日(宝暦5:1755)の各塔があります。これらのは江戸時代中後期、田上寺の歴代住持が本尊である阿弥陀如来に念仏を唱え、節目毎に祈願をしたものと考えられ、1000日〜27,000日とは約3〜74年間を意味します。また、2種類のがあって一つは延宝年間(1680頃)に発願したのものと、一つは文政年間(1820頃)に発願したものあります。




法然上人七百五十回忌碑(ほうねんしょうにん-750かいきひ)【田上寺境内】
法然房源空(長承:1133-建暦:1212)は岡山県美作(ミマサカ)の出身で、父は地方の豪族でしたが法然9才のとき父が殺害され遺言により出家します。13歳で比叡山に入り天台宗を学び、18歳のとき黒谷に隠棲(山にこもる意)します。承安5年(1175)43歳のとき念仏の道を開き他力本願の考えを導き出し、誰でも念仏南無阿弥陀仏」を唱えることで救われるという民衆宗教を提唱し、浄土宗の開宗となります。しかし旧仏教からの非難が激しくなり弾圧が始まり75才で四国に流罪となります。流罪はすぐに許され大坂に戻り最期は京で79才でした。なお、門人の五流といわれる幸西、弁長、隆寛、証空、長西のうち、弁長の流れが浄土宗となり、法然の弟子:親鸞の流れが浄土真宗となります。京都の知恩院が本山。この法然上人七百五十回忌碑は昭和36年(1961)田上寺第18代住持の徳誉によって建立されました。上人とは高僧を表す意。




松平長七郎くんち
昭和30年代まで、長崎くんち丸山町(他町の一部でも)が庭先廻りを終えて帰町するとき、思案橋を渡った辺りから「ちょーさん」「ちょいさー」「ちょーさいやー」などと言って丸山に入っていました。これは丸山で遊んでいた長七郎に知らせる意味があり、恐らく踊りを終えた踊り子に御花(祝儀の意)を渡していたのだと伝えられています。
 松平長七郎(慶長19:1614-寛文元:1661)は晩年、田上で過ごしたといわれていますが、くんちは始まったのは寛永11年(1634)、丸山が開かれたのは寛永19年(1642)ということを考えると、長七郎が田上に滞在した頃に、丸山に登楼したのは間違いないでしょう。




C-7:松平長七郎墓所(まつだいら-ちょうしちろう-ぼしょ)
田上2-12-13(旧茂木村田上名字合戦場)【田上寺境内】
江戸時代初期、徳川幕府第3代将軍:家光の弟:忠長は、次期将軍の野望を抱いていましたが望みは断たれ乱行の末に切腹させられます。そしてその忠長の息子が松平長七郎(家光の甥)で、長七郎も強盗の一味に加わるなど乱れた生活を送っていました。しかし将軍家光の甥ということもあって幕府や紀州家などから援助を受け西日本を転々と流浪したといいます。さらには島原の乱(寛永14:1637)にも2回にわたって参加し、島原の乱後、島原藩の藩主が高力氏から松平忠房に代わると、同じ松平家ということもあり長七郎も島原に残っていたと考えられ、さらに田上は島原藩の飛び地ということもあり、このとき長七郎田上に足を運んだものと考えられています。そしてこの田上が最期の場所となったのです(和歌山死亡説も有)。延宝4年(1676)没。なお、長七郎の墓所には長崎代官が毎年、命日にあたる12月25日に墓参することが通例となっていました。戒名「捐館清香院殿善空連哉大居士




C-6:浄土宗松原山田上寺(-しょうげんざん-でんじょうじ)
田上2-12-13(旧茂木村田上名字合戦場)
南北朝時代の文和3(1354)建堂法師という僧がこの地に草庵を建て光岳院皆行庵を創めます。その後の衰退し、江戸時代初期、島原藩主高力氏の所領になった頃の寛永年間(1624-1643)茂木村の玉台寺住持:九譽残岌(クヨザンキュウ)を使って再興し田上寺を開山します。当時、田上は島原藩の飛地ということもあり毎年、玄米4石が寄進され(寛文3:1663頃)維持していきますが、明治維新後、衰退し、明治4年(1871)廃寺になる予定でしたが明治24年(1891)田上の住民の協議で茂木の玉台寺から僧を向かえ、明治29年(1896)独立し、以降、田上地区の菩提寺として現在に至ります。




祝捷山の碑【祝捷山運動公園内】
明治38年(1905)日露戦争の勝利を受け合戦場祝捷山と命名したの受け巨岩に刻されたもので、文字は西道仙によるものです。昭和33年(1958)田中直一によって移設。

祝捷山門柱(しゅくしょうざん-もんちゅう)【祝捷山運動公園内】
祝捷山には東西に入口があって、その入口に明治38年(1905)日露戦争の勝利を受け門柱が設置されました。門柱は4本あって、現在は1本が現地、2本が鳴滝の琴石横、1本が行方不明となっています。
記録によれば4本の門柱にはそれぞれ「日耀千旗影」「山呼萬歳聲」「武威揚海外」「義氣貫天中」と刻されています。




日露戦捷記念碑(にちろせんしょう-きねんひ)【祝捷山運動公園内】
東浜町(現 浜町)で洋生地屋「田中屋」を営む田中直三郎は日露戦争が始まり軍隊の出征が始まった明治37年(1904)2月から毎日休むことなく合戦場に登り、戦勝の知らせが入る毎に合戦場に宴を張り、多くの役人や市民など数千人を呼び戦捷(戦勝)を祝いました。そして「祝捷山」の文字を合戦場にある巨岩に彫りこみ凱旋を記念します。正面「日露戦捷記念碑」の文字を日露戦争時、元帥海軍大将であった東郷平八郎、碑文を漢学者で初の長崎市議会議長の西道仙によって書かれ大正3年(1914)に建立されました。




C-5:合戦場祝捷山(かっせんば/しゅくしょうざん)
上小島5-10(旧茂木村田上名字合戦場)【祝捷山運動公園】
合戦場は長崎甚左衛門の所領時代(〜16世紀初め)、深堀氏の軍勢と長崎氏の軍勢が戦をした場所とか、深堀氏の密使を捕らえた場所などといわれ、さらに江戸時代では眺望がよく利くことから茂木街道の番所の設置や、享保7年(1722)大砲や烽火(ノロシ)の実験場にも使われました。明治維新後は一時、競馬場としても使われ、明治37年(1904)日露戦争時には浜町の田中直三郎が戦勝祈願を行い、勝利の知らせを受け祝捷山(捷:戦いに勝つ意)と名付けます。昭和の初めごろは長崎市内の小中学校などの遠足の場所となり、昭和26年(1951)海星学園が購入し専用グラウンドとして使用します。平成16年(2004)長崎市により祝捷山運動公園として整備されます。




C-4:唐船石(とうせんせき)
田上2-19(旧茂木村田上名字唐船石)
唐船石は高さ2メートルほど、長さが3メートルほどの文字通り唐船の形をした岩で、江戸時代の頃は横に3本の松が生えていて付近の目印になっていました。言伝えでは、永禄元年(1558)中国・明の船が初めて長崎に入港。この船は大変大きな船でたくさんの貨物を積んでいたといいます。このことは遠く京の都の将軍:足利義輝公の耳にまで届き、早速、家臣の小島備前守を長崎に送り、小島郷の尾崎(現 本石灰町大崎神社)に屋敷を構えさせました。しかし長崎入りした小島備前守は大変威張り散らしたため、長崎の領主:長崎甚左衛門は腹を立て夜襲をかけ殺害。この地に葬ったといわれています。岩は塚となり松は墓標を意味していたといいます。なお一説には、「小島」の由来はこの小島備前守から来ているといわれています。現在、唐船石には小さな祠が設けられ如意輪観音がお祀りされています。




大平山(星取山)金星観測隊:ジョージ・デビットソン隊
明治7年(1874)12月9日大平山(星取山)で金星観測を行ったアメリカのジョージ・デビットソン隊は、(仏)J.ジャンサン隊のように結果を出すことが出来ませんでしたが、金星観測と同時に経緯度の観測も行っていました。デビットソン隊は大平山の観測点を使ってデビットソン点という基準を作り、さらに観測技師のチットマンを東京に送りチットマン点を設け、金星観測と同じ通信を使いロンドンとワシントンと長崎(デビットソン点)の経度差を時間差計測により測定し、そして東京(チットマン点)の経度を導き出しました。そしてこのチットマン点が日本の経緯度の基点となるのです。後にこのチットマン点は日本経緯度原点と呼ばれ、現在、東京の旧東京天文台(現 国土地理院の所有地:東京都港区麻布台2-2-1)に今も残されています。なお、この功績を称えるため平成9年(1997)長崎測量設計業協会が金比羅山に記念碑を建立しています。




星取山大平山(ほしとり-やま/おおひら-やま)
出雲3,上戸町4,星取1,2(旧戸町村大浦郷)
明治7年(1874)12月9日金星が太陽面を通過するという当時の天文界では大変重要な現象が起こります。これを観測することで太陽と地球の距離を正確に導き出すことができ、さらには太陽系解明の手がかりとなるのです。そして観測に適した場所が日本であり横浜、東京、神戸、長崎の4ヶ所で観測が行われます。長崎では金比羅山でフランスのJ.ジャンサン隊が観測。そして大平山アメリカのジョージ・デビットソン隊が観測を行います。この時、長崎県令(知事)宮川房之は観測のために85人の人夫を雇い大平山に道を開き、観測小屋を建て観測機器の運搬を行いました。また、日本初のカメラマン:上野彦馬も観測の助手として参加。しかし、結果は金比羅山で行ったフランス隊のみが成功。アメリカ隊は天候不順で結果が出せませんでした。しかし大平山はこの観測を記念して星を観測した場所ということで星を撮る意味から星取山と呼ばれるようになります。なお、この観測の130年後の平成16年(2004)6月8日も同じ現象が起こりましたが、現代においてはあまり重要なニュースにはなりませんでした。次回は平成24年(2012)6月6日。次々回は2117年12月11日。




俊寛僧都(しゅんかん-そうず)
俊寛僧都(康治2:1143〜治承3:1179頃)は後白河上皇の近臣で、治承元年(1177)俊寛の鹿ヶ谷の山荘で大納言の藤原成親(-ナリチカ)が中心となって、俊寛僧都、西光法師、平康頼らで平家の打倒を計画。しかしこれが平清盛に知られてしまい直ちに処罰されます(鹿の谷事件:シシノタニ-ジケン)。西光法師は斬殺、首謀者の藤原成親は備前(岡山県)児島に、俊寛僧都、平康頼らは硫黄島に流されます。数年後、高倉天皇の皇后が懐妊。その恩赦で罪を許され都に戻りますが、俊寛僧都のみが許されず島に残されます。そして俊寛僧都は食を絶ち息を引き取ります。この流された場所についていろいろな説があって、鹿児島県硫黄島喜界島、そして長崎の伊王島があります。いずれの地にも俊寛僧都の墓が存在します。なお、この物語は近松門左衛門によって人形浄瑠璃となり、歌舞伎にもなりました。




C-3:準提観音(じゅんてい-かんのん)
田上4-7(旧茂木村田上名字唐八景)
準提観音は正式には准胝観世音菩薩といい観世音菩薩の中の一仏を意味します。ここの石碑には「准胝観世音菩薩・寛政九己三月廿八日(1797)・天保7甲正月廿八日建(1836)・大施主田上村中・茂木村施主 米次郎 清太郎 市五郎」と刻され、言伝えでは石碑の下が墓石になっているといわれています。
 今から800年前、この地に巡礼姿(白装束)の女性が倒れているのを地元民が見つけ、ふところに聖徳太子直筆の観音経の経典を所持していたところから高貴な人物と考えここに埋葬します。近隣の者が祈願したところ難病が治ったり、災害から身を守ることができるなど不思議なことが多く、いつしか長崎や遠方から多くの人で賑わうようになったといいます。なお、唐八景の紙鳶揚げは準抵観音の祭礼日が起源でした。
 また一説には、この女性は平家を討つ計画を企てた俊寛僧都婦人ではないかともいわれ、女性俊寛僧都が治承元年(1177)平相国(タイラノショウコク:平清盛?)の命令で硫黄島(伊王島)に島流しに遭った俊寛僧都を追って来たもので、この地で病となり倒れたものともいわれています。




原爆慰霊碑(げんばくいれいひ)【唐八景公園内】
原爆慰霊碑は昭和20年(1945)の原爆で犠牲になった方を慰めるもので唐八景戦友会によって昭和52年(1977)建立されました。
碑文「原爆の洗礼をうけ 尊い生命を祖国に捧げ 永遠の平和の礎となりし 我が戦友と 数多くの長崎市民のみたま 安らかに眠りたまえ

青馬の句碑(せいばのくひ)
星取2(旧戸町村大浦郷)【唐八景バス停横】
石井青馬(大正2:1913-昭和57:1982)はこの地区に住む俳人で、長崎番傘川柳会の代表を務めた人物です。碑文「花の名は 知らず春秋 花が好き 青馬




C-2:彌生道路の碑(やよいどうろ-のひ)
田上4-8(旧茂木村田上名字唐八景)
昭和8年(1933)東伏見宮妃殿下(東伏見宮依仁親王の妃で公爵岩倉具定の長女)が来崎、唐八景に登られました。そして唐八景からの景色に感激され、新しく開いた道路に彌生(弥生)道路と命名。その後、茂木村田上名の開(ヒラキ)地区と唐船石地区の住民が許しを得てこの碑を昭和9年(1934)に建立します。弥生とは草木が茂る意味で、弥生町の名称はここから付けられていると考えられます。




C-1:唐八景(とうはっけい)
田上3,4,星取2,茂木町(旧茂木村田上名字唐八景)
唐八景は標高約305メートルのなだらかな山で頂上からは長崎市街地を一望でき、条件が良ければ五島列島や天草諸島、佐世保針尾島などを見ることが出来る山です。唐八景の語源は長崎に来た中国人が中国浙江省杭州にある西湖(西湖十景は有名)の風景に似ているところから付いたといわれたり、当時、交通の要所であった戸町付近を東泊口と呼んでいたため、その谷(渓)間から上がった山というところから東泊渓から付いたともいわれています。また、昔は「ヅクメキ」と呼ばれていました(意味不明)。現在、頂上部は公園化され春には紙鳶揚げ(ハタアゲ)が行われます。




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