広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成17年 〜2005年〜
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C-101:なかにし礼文学碑【梅園天満宮境内】
なかにし礼(昭和13:1938- )は、旧満州(現 中国)出身で、帰国後は立教大学に進み、その後は作詞活動を始めます。彼の手がけた作品の多くはヒットを飛ばし細川たかしの「北酒場」は有名。近年は執筆活動も精力的に行い、小説『赤い月』や『長崎ぶらぶら節』は話題作となり、平成11年(1999)下半期:第122回の直木賞を受賞。この『長崎ぶらぶら節』は地元長崎を始め丸山地区の活性化に火をつけることになり、平成15年(2003)丸山地区有志の手によって文学碑の建立となりました。碑文字は、なかにし礼氏直筆によるもので、本人出席の下、除幕されました。




御昇格記念碑(ごしょうかくきねん-ひ)【梅園天満宮境内】
江戸時代まで神社には社格といって朝廷によりすべての神社に格付けがなされていて、明治からは明治4年(1871)太政官布告により規定され官幣社、国弊社、諸社などに大きく分けられ、さらに諸社は府県社、藩社、郷社、村社、無格社に分けられます。一方、無格社は明治39年(1906)の勅令で経費削減のため統廃合が進められ、国内で多くの神社が合祀されます。なお、これら社格などの制度は昭和21年(1946)まで続きます。
 梅園天満宮(神社庁登録:梅園神社)はもともと無格社でしたが、大正2年(1913)片平町にあった丸山町稲荷神社を合祀して財産を増やし、これによって村社に昇格、合祀の対象からはずされるのです。そして大正3年(1914)この昇格を記念して碑の建立となります。なお、碑の裏面には当時の丸山町の有力者の名前(屋号)を見ることができます。寄付者「杉本屋:古澤亀吉 鹿嶋屋:安田辰次郎 三波樓:達木春之助」「桃乃家:重冨由太郎 玉嶋亭:松尾喜八 春若屋:春若屋次八 金波樓:達木マサ 松丸本店:川田秀行 角油屋:前田武 小六亭:山口政之助 千歳:石田種十 御厨勝一 東検番藝舞妓連間中
世話方「浦川勇吉、加藤伊勢吉、花桝屋政治郎、南川要次郎、井上甚太郎、太田興三郎、和田善太郎




臥牛(がぎゅう)【梅園天満宮境内】
臥牛とは臥(フ)せた牛という意味で天満宮によく像を置かれています。これは祭神である菅原道真公が承和12年(845)乙丑(キノトウシ)生まれということと、大宰府で亡くなられたとき御遺骸を牛車に乗せて運んだところ、大宰府の役所である都府楼から北東(丑寅:うしとら)の方角で、そのが臥して動かなくなったということ(臥した場所は現在の太宰府天満宮の本殿)。さらに天神(天満宮)信仰は、もともと雷神(農耕の神)として発展したことや、が農耕のシンボル的存在だったことが大きく関係しています。
 梅園天満宮の臥牛(御神牛)は、氏子の楠本氏によって大正12年(1923)に青銅製の臥牛を奉納されましたが第2次大戦により供出され、昭和27年(1952)に一体(社殿左)、昭和41年(1966)に一体、新たに奉納されました。御神牛と自分の身体をお互いに撫でさすれば身体健全、病死全快するといわれ、頭部を撫でると知恵がつくといわれています。




老松社(おいまつ-しゃ)【梅園天満宮境内】
祭神:島田忠臣(シマダ-タダオミ):植林林業の神
島田忠臣は、天満宮の祭神:菅原道真公の夫人の父(義父)とも、道真公の家臣ともいわれ、いつも道真公のそばに仕え、道真公が無実の罪で大宰府へ送られた際も同行した人物です。そして道真公が無実を訴えるため天拝山(筑紫野市)に登り祈願した際も、大切な笏(シャク)を預かる役目をし、道真公から大変重要視された人物なのです。なお、道真公島田忠臣に松の種を持たせ京都北野(現 北野天満宮付近)の地に撒くように言い渡したといわれ、道真公が神となったとき(亡くなられた時)、多くの松が一夜にして芽を出したといわれています。そしてこれが植林林業の神となったゆえんです。




白太夫社(しらたゆう-しゃ)【梅園天満宮境内】
祭神:渡会春彦(ワタライ-ハルヒコ):子宝の神
天満宮の祭神:菅原道真公の父にあたる菅原是善(コレヨシ)は、なかなか子供に恵まれなかったため伊勢神宮の祠官:渡会春彦に、豊受大神宮(トヨウケ-ダイジングウ=外宮)に向かわせ安産祈願を行います。するとまもなく元気な男の子が誕生し道真と命名されるのです。その後、父:是善は渡会春彦道真公の守役(養育係)として迎え、以降、数十年間、道真に仕えるようになり大宰府へ向かう際もお供したといわれています。生涯を道真公に仕えた渡会春彦は若い頃より髪が白く、人々は白太夫と呼んだといいます。なお、白太夫社を各地の天満宮に置くのはこういったいわれからです。




梅園天満宮恵美須石【梅園天満宮境内】
長老の話によれば、社殿横にある常夜灯(江戸期のもの)の基礎石に恵美須神の顔をした石があって、恵美須石と呼ばれこの顔を拝むと心身ともにご利益があるといわれています。
梅園天満宮天満宮額【梅園天満宮境内】
以前まで鳥居に使われていたが社殿横に置かれていて、その文字をなぞることにより書が上達するといわれています。




梅園天満宮の車桜【梅園天満宮境内】
江戸時代中期、創建当初、梅園天満宮の社殿の前に1本の桜が立っていました。この桜の花びらは大変大きく、また、車輪のような形をしていたところから車桜といわれ、開花の際には多くの鑑賞者で賑わい、当時、崎陽一の名木と称されたということです。しかし、天明年間(1781-1789)残念なことに枯れ落ち姿を消したということです。




C-100:梅塚(うめづか)【梅園天満宮境内】
社殿横に正方形の玉垣(その昔、古梅があった場所)は梅塚といわれ、梅干の種を納める場所になっています。梅は天満宮(菅原道真公)の象徴で、の中に天神様がいらっしゃるという言伝えがあり、古来、梅のを捨てることは天神様を捨てることといい、天満宮に納めることを常としていました。梅園天満宮の梅塚は丸山の遊女たちや芸者衆などが盛んに信仰していたこともあり、当時から梅塚にはたくさんの梅の種が納められていました。また、梅園天満宮は身代り天満宮の別名を持ち、「身代(みがわり)」を「みだい」と読むと登楼の代金という意味になり、遊廓の女性たちは特に信仰があつかったといいます。




梅園の梅(うめぞののうめ)【梅園天満宮境内】
梅園という地名は梅が植えられて梅園となったのか、もともと梅があったから梅園とついたのかは分かっていませんが、梅園天満宮の境内には昔からたくさんの梅が植えられています。また、社殿横に正方形の石玉垣があって、その昔、この中に古梅があって、当時、この梅を「梅園の梅」と称し、梅花の時期になると多くの見物客で賑わっていました。しかし、いつしか枯れてしまい姿を消します。境内は昭和60年代から平成初年にかけて一時閉鎖された時期がありますが、現在では市内でも有数の梅の名所となっています。なお、この付近の字名は梅園(うめぞの)といいます。




C-99:梅園天満宮歯痛狛犬(-しつうこまいぬ)【梅園天満宮境内】
天保11年(1840)に奉納された狛犬(現存せず)には言伝えがあって、歯の痛みがある者がを狛犬の口の中に入れ祈願すれば痛みが消えうせるといわれ、そのご利益に市が立ったといわれています。現在、社殿横にあるものは3代目の狛犬で、口の周りが汚れているのは祈願の人々によるものです。この狛犬を歯痛狛犬といいます。




斉藤秋圃(さいとう-しゅうほ)
斉藤秋圃(明和5:1768-安政6:1859)は、号を秋圃、龝圃、周圃、土筆翁、韋行、葵衛、雙鳩、準旭菴、茗哉と称し、秋月藩の御用絵師をした人物です。生まれは京都上京区伊佐町で、若くして丸山応挙に入門します。その後、大坂や福岡などを旅し、享和3年(1803)長崎で江稼圃に学び、文化2年(1805)秋月藩主の黒田長舒に御用絵師に迎えられます。その後、太宰府天満宮に度々絵馬を奉納するようになり、文政9年(1826)には太宰府に住し町絵師となります。太宰府では多くの画人と交流し、太宰府における絵画などの発展に大いに寄与します。墓所:太宰府光明寺。




梅園天満宮霊験図(梅園身代り絵巻)
梅園天満宮には梅園天満宮霊験図という絵巻物があって、嘉永2年(1849)頃の作品で、一般に梅園身代り絵巻といわれています。内容は梅園天満宮の由緒を3幅の絵で表したもので、絹本(原画)と紙本(模写)の計6幅となっています。絹本は肥前唐津藩の絵師:鷹之66歳の作品で、紙本は筑前太宰府の絵師:秋圃81歳の作品です。このうち秋圃とは丸山応挙を師事した秋月藩御用絵師:斉藤秋圃(明和5:1768-安政6:1859)によるものです。




○熊本芹江(くまもと-せっこう)
熊本芹江は本名を昇平、号を芹江、金香といいます。

○山春竹外(やまはる-ちくがい)




阿南竹陀(あなん-ちくだ)
阿南竹陀(元治元:1864-昭和3:1928)は大分豊後の竹田市出身で、本姓は波多野、本名を友彦のちに衡、号を臨泉、二雄、酔竹山人、龍洞、竹陀などと称します。若い頃に来崎し南画家の守山湘颿に指導を受け、のちに淵野桂仙にも指導を受けます。その後、長崎市役所の史官となり、その頃、木下逸雲についての研究を行います。後年、関東の方へ移ります。




江上瓊山(えがみ-けいざん)
江上瓊山(文久2:1862-大正13:1924)は江戸末期、長崎の東上町(現 上町)にあった唐津屋敷で生まれていて、本名を景逸、字を希古、号を瓊山または墨隠石瓢山人と称します。書を岡田篁所、南画を守山湘颿に学び、さらには長崎の三筆と称される鉄翁にも指導を受けます。特に瓊山は四君子(蘭/竹/梅/菊)を得意とするところでした。また、明治24年(1891)ロシア皇太子ニコラス親王が来崎した際には親王の前で書画を披露します。明治後期、文部省美術展覧会の審査委員に推薦を受けるも自らその器ではないと辞退しています。瓊山の子:江上瓊岳も南画をよくし、門下に楠瓊州がいます。墓所:京都




小曽根星海(こぞね-せいかい)
小曽根星海は土佐藩御用達の商家:小曽根家の流れを汲む家柄で、第14代となり祖先は出島を築造した出島町人の一人でした。また、江戸時代末期に大浦の南側を造成し、一部を小曽根町として開いたのは星海の祖父にあたる小曽根六左衛門と父の乾堂で、特に乾堂は明治天皇の御璽国璽を拝刻した人物です。星海もまた、隷書(レイショ)を得意とし篆刻(テンコク)も良くします。なお、長崎税関の入口の文字は星海によるものです。墓所:東琴平1(太平寺墓域)




西道仙(にし-どうせん)
西道仙(天保7:1836-大正2:1913)は熊本県天草御領出身で、本姓は相良、幼名を仁寿のちに喜大、字を道仙、一宇(号)を国瑞、琴石、賜琴石斎といいます。代々医業を営む家柄で幼い頃から儒学を学び、帆足万里に儒医を学びます。28歳のとき長崎の酒屋町に来て医業を開業し、長崎では勤皇の志士と交わります。明治維新後、九州鎮撫総督の澤宣嘉が長崎府の中枢に迎えるも拒否し、その代わりに鳴滝の琴石を授かったことは有名です。明治5年(1872)自ら私学「瓊林学館」を創立し後継の育成に尽力。明治11年(1878)からは政治家として活躍します。長崎区戸長、長崎町会議員、長崎区連合会議長、長崎区会議長を務め、中島川の橋名の命名や水道敷設に尽力します。晩年は長崎の史跡保存に時間を費やし市内各所に多くの記念碑などを建立します。墓所は大音寺後山。




守山湘颿(もりやま-しょうはん)
守山湘颿(文政元:1818-明治34:1901)は長崎の書家で南画家で、本名を伊東といい、通称を愛之助、諱を吉成、字を士順、号を湘颿(明治維新後)といいました。幼い頃に春徳寺の住持:鉄翁に南画を学び、すぐにその才能を発揮します。後に出島町人だった守山家の養子となり、幕末には越後など各地を巡遊し多くの書家と交流を持ちます。明治期には中村陸舟、伊東深江と共に「崎陽後の三筆」と称されます。墓所:晧台寺後山




岡田篁所(おかだ-こうしょ)
岡田篁所(文政3:1820-明治36:1903)は長崎の儒医、つまり儒学者で医者でもありました。長崎の西築町の医師:岡田道玄の子として生まれ、本名は岡田穆(ボク)といい、字を清風、通称を良之進のち恒庵、篁所、大可山人と号し、竹を愛していて屋敷に修行吾蘆や小緑天と名付けていました。篁所は17歳のとき大坂に上り彦根藩士:宇津木静区(儒者:大塩中斎の弟子)を師事します。24歳のとき江戸に向かい江戸医学の頂:多紀元堅に学び、その後、儒者:野田笛浦に儒学を学びます。明治維新を受け52歳のとき、中国江南蘇州を旅行し清代末期の漢方医学を調査し、日中医学交流史の研究に寄与します。このほか詩文や書などにも長けていました。墓所:晧台寺後山。
岡田篁石(おかだ-こうせき)
岡田篁石(安政元:1854-明治45:1912)は岡田篁所の子で、通称は恒軒、号を篁石といい、父と同じく詩文や書などにも長けていました。墓所:晧台寺後山。




梅園天満宮天井絵【梅園天満宮拝殿】
梅園天満宮の拝殿は明治31年(1898)の社殿改修の際、格天井120区画に書画が奉納されます。書を中心としたもので、長崎市内では大変珍しいものといえます。天井絵は当時、長崎で活躍していた岡田篁所、岡田篁石、守山湘颿、西道仙、小曽根星海、熊本芹江、山春竹外、江上瓊山、阿南竹陀らによるもので、当時としては大変豪華な顔ぶれによる作品といわれています。しかし昭和20年(1945)原爆の影響で損傷し、その後に盗難などで4枚が損失しました。




赤絵伊万里焼獅子【梅園天満宮拝殿】
この獅子古伊万里焼の中でも最古の逸品といわれる獅子で、銘には伊万里屋荒木伊右衛門、有田皿山吉永貞右衛門、有田皿山古田善伍右衛門とあり、いつの頃からか梅園天満宮に置かれています。しかし一度、盗難に遭い姿を消したことがありました。明治30年(1897)頃に盗難にあった獅子は、どういう訳か台湾に渡っていて、当時、上筑後町(現 玉園町)に住む日本郵船会社長崎支店の竹野虎雄がちょうど台湾にいて、何か感じるところがあって高値で購入します。しかし獅子は破損が激しく、それでも竹野は長崎に持ち帰り、大村町(現 万才町の一部)の漆工:八田梅吉によって補修を行います。さらに台座を設け丹羽末広によって数十字の模様を描いてもらい、明治31年(1898)再び、梅園天満宮へ奉納されました。




C-99:七力稲荷神社/富松稲荷神社
(しちりき/とみまつ-いなりじんじゃ)【梅園天満宮境内】
慶長16年(1611)稲荷神を祭神として修験者:長寛院が八百屋町に明王院を創建。延宝4年(1676)に丸山町(片平町)に移転します。その後、荒廃し、元禄時代(1688-1704)再興。天明6年(1786)頃に納受院と改称します。明治維新を受け、富松稲荷神社と改称され、その後、丸山町稲荷神社と呼ばれるようになります。明治40年(1907)頃、花街に囲まれるということと、維持管理のため、同町の梅園天満宮境内に移設され(正式な移設は大正2:1913)、現在に至ります。平成15年(2003)御遷宮90周年祭、平成23年(2011)創建400年祭が行われました。




梅園身代り天神の由来【長崎図誌編】
元禄7年(1694)のある日、丸山に登楼したある客人が酒に酔って暴れ、遊女屋の主人:次右衛門と口論となります。カッとなった客人は刀を抜き次右衛門を切り捨ててしまいます。次右衛門は重傷を負い意識を失い、客人も次右衛門を殺したことに自ら自害するのです。しかし次右衛門は服が裂け血で染まっているにもかかわらず身体には一つも傷が無く、しばらくして息を吹き返します。そしてその時、日頃から信仰していた天神の木造が傷つき血が流れているのを見つけ、この天神が自分の身代りになったことに感謝するのです。次右衛門はこの年すぐに良き場所を探して社殿を建て天神を祀り、自ら神主となって生涯を捧げたといいます。




梅園身代り天神の由来【長崎名勝図会編】
元禄年間(1688-1704)のある日、丸山町乙名:安田次右衛門は町年寄宅からの帰路、丸山の二重門を通り抜けたとたん、左脇腹を槍で突き抉(エグ)られ重傷を負い意識を失います。加害者はかねてから些細なことで恨みを持っていた梅野五郎左衛門で、以前から次右衛門の出入りを張り込み二重門の陰に隠れその時を狙っていました。五郎左衛門は次右衛門の姿を見て仕留めたと思い、自宅に戻り自決します。一方、次右衛門は周囲に人々によって助けられますが、服が裂け血で染まっているにもかかわらず身体には一つも傷が無く、しばらくして息を吹き返し周囲の者は喜ぶも不思議に思い始めます。実は次右衛門は天満宮の信仰があつく、屋敷の庭には太宰府天満宮の飛梅の枝で彫刻した渡唐天神像を安置し日々信仰していていました(渡唐天神像は元禄12:1699年次右衛門が太宰府に参詣に行った際、執行坊信盛によって開眼された像)。今回のことは天満宮のおかげと庭の祠に詣でると、扉が開き天神像が前に進み出て来て、そしてよく見ると像の左脇に傷があって血が流れていたのです。人々は驚き、天神が次右衛門に知らせに来たものだと思い、これよりこの天神を身代り天神と呼ぶようになります。以降、遠近から参詣者が訪れるようになり、長崎奉行も拝礼に来たほどでした。そこで次右衛門は再度、天神像を太宰府に運び執行坊にお祓いを受け、元禄13年(1700)現在地を奉行よりもらい受け社殿を建て、自ら名前を菅市之進(のち神門市之進)に変え神主となり一生を終えます。なお、梅園天満宮の名称は長崎奉行が命名したものです。




C-98:梅園身代り天満宮
丸山町2-20(長崎村小島郷字梅園)
梅園天満宮は丸山町の鎮守神で、元禄13年(1700)に丸山町乙名:安田次右衛門によって創建されました。ここは別名を身代り天満宮といい、当時、遊女や芸妓衆などの心の支えとなっていました。また一方で、花街に隣接していることもあって芸能事などの奉納が盛んで、安永明和年間(1764-1781)には社殿の北側などで官許の芝居小屋が置かれ、芝居や手踊り、見世物、軽業、物真似、音曲などが盛んに行われていました。第二次大戦中、ここで祈願し出征した丸山町の住人はすべて身代り天満宮のおかげで無事帰還していて、今でも身代りお守りは有名です。現在では梅の名所としても知られるようになりました。




中の茶屋稲荷社
中の茶屋の庭園奥には小さな祠があって稲荷神をお祀りしてあります。この稲荷神は中の茶屋の鎮守神で、鳥居には「保食大神(ウケモチノオオカミ)」と記され稲荷神を表しています。また、寛政2年(1790)に奉納された手水鉢には、筑後屋の抱え(所属)の遊女:冨菊の銘を見ることができ、当時の人気を物語るものといえます。ちなみに梅園天満宮の玉垣には筑後屋抱えの里蝶の銘があります。

書画清譚会(ながさき-しょが-せいたんかい)
文政元年(1818)漢学者の頼山陽が来崎、この年、長崎在住の文人墨客や各藩の文士(作家)、さらには来日唐人などが一堂に会して書画清譚会を開催。これは日本初の書の展覧会といわれ、発起人は書家の木下逸雲らで、俳句に長けていた引田屋第11代当主:山口太左衛門増寿(拝之)も参加します。そしてその会場は中の茶屋か花月があてられたといいます。




C-97:中の茶屋/千代の宿/千歳窩
(なかのちゃや/ちよのやど/せんざいわ)
中小島1-4(長崎村小島郷字梅園)
江戸時代中期、寄合町に開いた遊女屋筑後屋は、その後、次第に勢力を持ち「角の筑後屋」「中の筑後屋」「新筑後屋」「筑武筑後屋」と4軒もの店を構えるようになります。それら筑後屋のうち「中の筑後屋」は「中の茶屋」を開きます。もともと中の茶屋があった場所は、柳屋道翠の屋敷と田畑でしたが、享保17年(1732)筑後屋忠兵衛が購入。敷地を塀で囲み直して、建物を改造して宴席を設け千代の宿/千歳窩(中国読み)と命名します。当時、中の茶屋には長崎のほか他所の文人墨客、唐人などが訪れ大いに賑わい、引田屋の花月楼と共に丸山を代表する茶屋(料亭)となります。さらに長崎奉行の丸山巡検の際には休憩所にも当てられていました。明治期に入り筑後屋は廃業。中の茶屋も他の所有となります。昭和44年(1969)長崎モデルショップの所有となるも昭和46年(1971)近隣の火災で類焼し、庭園のみとなります。昭和51年(1976)建物の再建が行われ茶室として利用されます(のち閉鎖)。平成13年(2001)長崎市清水崑展示館として再開します。市指定史跡。




C-96:中小島地蔵堂(なかこしま-じぞうどう)
中小島1-8-36(長崎村小島郷)
この地蔵堂はもともと旧大徳寺境内にあったお堂で、大正2年(1913)この中小島地区に住む高比良政吉によって再建されたものです。堂内の仏像や仏具(お鈴、線香立など)、お堂自体の建材は廃寺となった大徳寺から譲り受けたもので、数年前に改修が行われた際、内部に朱塗りの木材などを見つけることが出来ました。さらに言伝えによると、ここの地蔵尊は火除けのご利益があるといわれ、付近では大火が起きないということです。




C-95:福屋跡(ふくや-あと)
中小島1-5(長崎村小島郷字梅園)【中小島公園ほか】
丸山に料理店が建ち始めた江戸時代末期、中村藤吉は小島郷梅園の地に料理店を構えます。安政6年(1859)には西洋料理店となり、大正14年(1925)長崎市史風俗編(上)によると、福屋は日本における西洋料理店の魁(サキガケ)という表現で紹介され、大変な評判で連日200名近い客人が訪れていました。一方、伊良林の自由亭も西洋料理の発祥といわれていますが、どちらかといえば福屋の方が早く、当時、馬町の自由亭と西浜町の精洋亭と共に長崎三大洋食屋と呼ばれていました。福屋は明治2年(1869)の日本家屋と明治8年(1875)の洋館の組み合わせで、特に大広間は鳳鳴館と呼ばれていました。しかし、福屋は明治40年(1907)頃、廃業します。その後、再開となり、大正2年(1913)中国で辛亥革命を果たした孫文が国賓として来日(来崎)した際、この鳳鳴館で長崎市主催の歓迎会が行われました。第二次大戦後は、一時、弓道場となったときもありましたが、福屋自体の建物は昭和54年(1979)老朽化のため解体。現在では庭園の一部と石垣、階段などを残すのみとなりました。




C-94:梅園湯跡(うめぞのゆ-あと)
中小島1-3-2(長崎村小島郷字梅園)
梅園湯は丸山の上手にあった大衆浴場(銭湯)のことで、昭和初年ごろに始まり昭和60年(1985)まで営業していました。当時、梅園湯の利用者といえば丸山の芸妓衆や女性たちが中心で、梅園湯は丸山の社交の場でもありました。また、梅園湯から丸山寄りのところにあった長門商店はいわゆる雑貨屋で、化粧品から生活必需品まで何でも揃った丸山の女性たちの御用達の店でもあったのです。




C-93:小島六地蔵(こしま-ろくじぞう)
東小島町2(旧小島郷字下平)
丸山本通りから小島に上る坂を進むと正覚寺の墓所の西側に出ますが、坂の上にたくさんの地蔵尊が並んでいます。小島六地蔵とも呼ばれ、江戸時代、丸山のほか付近に立ち並んでいた地蔵尊を集めたものと考えられます。また、六地蔵は町の出入り口にあって疫病などの災いを入らなくするために置かれているともいいます。

小島道(こしま-みち)
地蔵尊の前の道は小島を縦断する道で、丸山から小田の原、合戦場、唐八景に抜ける裏道で、昭和40年頃まで、唐八景で紙鳶揚げがあるときなどは夜遅くからこの道を通って、早朝より紙鳶揚げが行われていました。

しょんべん横丁
小島六地蔵のそばを遊郭が華やかなりし頃、俗にしょんべん横丁といい、これは丸山に登楼した、もしくは歩き回った客人(すねふり)がこの付近に差し掛かったとき、用を足していたからこのように呼ばれ、墓所の近くということもあり、割と薄暗い場所でした。




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