広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成17年 〜2005年〜
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C-118:妓楼:梅月楼跡(ぎろう-ばいげつろう-あと)
寄合町3(旧寄合町)
梅月楼は明治期から始まり昭和33年(1958)まで続いた貸座敷で、玉泉神社の北隣に位置します。経営者の中熊富蔵は大阪より来崎し、漬物屋、うどん屋、石炭商を経て貸座敷業を始め、昭和8年(1933)からは市会議員、県議会議員を務めていました。現在、西小島にある佐古小学校の西門は、梅月楼の廃業時に移設された門で、左右に分かれた「佐」「古」と入った梅鉢紋をかたどったプレートは、梅月楼の屋号にちなむものです。




C-117:山頭山頭温泉(やまがしら-と-やまがしらおんせん)
寄合町2(旧寄合町)
江戸時代、丸山というところは、今日の丸山町を指すのではなく丸山町と寄合町の総称を丸山というのであって、長崎人は単に「山」と呼んでいました。これが丸山の入口を山ノ口という所以でもあり、丸山の上手を山頭というのです。また、山頭には山頭温泉という銭湯があって、丸山が盛んな頃は、山頭温泉の利用者といえば丸山の芸妓衆や女性たちが中心で、山頭温泉は寄合町の社交の場でもありました。今でも営業が続けられています。お勧めの銭湯です。C-60:2005-7/21・C-89:2005-10/3参照




C-116:長崎席貸業組合事務所跡(ながさきせきがしぎょうくみあい-じむしょ)
寄合町2-23?付近(旧寄合町)
長崎席貸業組合とは、明治初期に遊女屋から貸座敷に改称した業種の組合のことで、寄合町に事務所があって、貸座敷は昭和26年(1951)には寄合町39軒、丸山町63軒の計102軒で、九州一の規模を誇っていました。組合は昭和21年(1946)に公娼制度が廃止となった後、厳しい運営となり、さらに昭和23年(1948)花柳予防法の実施で組合独自で花柳病の予防を行わなければならなくなりました。昭和25年(1950)組合による診療所を立ち上げ、今まで県立小島病院で行っていた治療を、この診療所で実施します。しかしそれも昭和33年(1958)3月31日、前年の売春禁止法の成立を受けて遊廓に類するものはすべて廃止となります。




大坂屋事件A
大坂屋事件はその後、話がふくらみ次のような笑い話に変わります。
寛政年間(1789-1802)のある夜、と思われる3人の男が寄合町の遊女屋に登楼。遊女を上げて宴会を始めます。そして宴が終わるとそれぞれ遊女と共に床に入るのですが、遊女は何か変な毛に驚きます。遊女は急いで部屋を出て主人に告げると、主人は遣手と若い衆を連れて部屋に向かいます。しかし暗い部屋の中には客の姿はなく逃走していたようすで、不審に思った主人が支払った代金を見るとそれは木の葉に変わっていました。主人が遊女に交わったかと尋ねると、肌に触れただけと答えたというが、その場にいた人々は大笑いしたといいます。




C-115:大坂屋事件@(おおさかや-じけん)
宝暦2年(1752)2月3日の深夜、出島オランダ商館で働いていた黒人の男(奴隷として来日)が対岸の江戸町の新蔵と共謀して丸山に向かい、黒人は旅人客に扮し寄合町の遊女屋:大坂屋に登楼します。初め、黒人は覆面をしたまま部屋に入ったため遊女は風流な人と思い、言われた通りに明かりをすぐに消して床に入ります。特に不振なこともなく事は過ぎ、その後も2月27日、3月5日、4月26日と度々登楼。しかし、新蔵が連れてくる客はいつも覆面姿で、必ず明かりを消すように告げるため遊女たちは次第に怪しく思い、4回目の4月26日には遊女も感づき新蔵に連れて来ないよう告げるのです。以降、大坂屋ではこのことを秘密にしていましたが、すぐに世間に知られてしまい大坂屋の主人は大変困り果て、新蔵も捕らえられるのを恐れ、以降、黒人からの願いを断ります。一方、黒人の遊女への想いは断ち切ることが出来ず、自ら10月9日夜に寄合町の遊女屋:油屋に登楼。しかし遊女に気付かれ追い返されます。翌10日、今度は大坂屋へ登楼。大坂屋はとりあえず部屋に通すも役所に通告し、しばらくして隠密方が到着。そして黒人は捕らえ謹慎。二度と長崎の地を踏むことはなかったという。この事件は、出島からの出入りは奉行の許可が必要な上、当時、黒人は人間並みに扱われておらず、性の開放は許されていなかったために生じた事件といわれています。




C-114:青餅(あおもち)
本来、青餅とは、よもぎ餅のことで緑色の餡餅のことをいいますが、言伝えによると、江戸時代、青餅亭の初代は密入国者(天領:長崎の外)で、密かに丸山に入り青餅を販売。大変な賑わいで財を成し、後に遊女屋を始めたといわれています。当時はその青餅亭から密入国者のことを青餅と称していましたが、その後、青餅はそのベタベタした様子から遊女を表す言葉となり、さらに時代が下ると男女の親密さを表す代名詞と変わっていきます。




C-113:貸座敷:青餅亭跡(あおもちてい-あと)
寄合町3-40〜42付近(旧寄合町)
明治初年、筑後屋は廃業。その後、丸山町にあった貸座敷:青餅亭が移って来ます。青餅亭の特徴は登楼の客に青餅と茶を出すところで、後にこれが寄合町の名物となります。しかし明治12年(1879)3月16日午前1時、青餅亭を火元に火災が発生。寄合町東側中央付近から丸山町の全域と本石灰町の大崎神社付近までの99戸を焼き尽くす大火を起こします。この火事は丸山にある江戸期の建物を焼失させたほか古い文献なども焼失させたため、このときを期に丸山の創始の歴史が失われます。




C-112:西田町(にしだまち)
江戸から明治期にかけて、寄合町は俗に西田町とも呼ばれていました。これは寄合町に多くの店を構えていた遊女屋:筑後屋があったためで、筑後屋は西田家によって営まれていました。寄合町の約一割、13軒もの家が西田を姓としていたといわれています。現在、西田を名乗る関係の者はほとんどいません。西田家墓所:正覚寺墓域(C-37::2005-6/23)




C-111:遊女屋:筑後屋跡(ちくごや-あと)
寄合町3-40〜42付近(旧寄合町)
江戸時代中期、宝暦(1751〜)以降の丸山に筑後屋は頭角を現し、花街丸山で最大級の規模を誇る遊郭となります。筑後屋初代の西田氏は屋号から筑後地方(福岡県西南部)出身で、当時、博多商人が多く出入りした長崎の町に、博多商人相手の遊郭を始めたものと考えられます。その後、次第に勢力を持ち「角の筑後屋」「中の筑後屋」「新筑後屋」「筑武筑後屋」と4軒もの店を構えるようになり、筑後屋の一統は明治初年の遊郭廃止まで続きます。また、筑後屋のうち「中の筑後屋」は中の茶屋を開いた遊郭で、花月と共に丸山を代表する茶屋(料亭の意)となります。なお、中の茶屋の裏から寄合町に抜ける小さな道は、筑後屋中の茶屋とを結ぶ回廊があった場所でした。C-37:2005-6/25参照




C-110:丸山公園(まるやまこうえん)
寄合町1-2(旧寄合町)
現在、丸山公園となっている一帯は、昭和の始め、大吉楼、新筑楼、梅月楼、三日月楼などという貸座敷が建ち並んでいましたが、昭和18年(1943)11月20日、神棚の灯明が原因で失火し11戸が全焼、死傷者8名を出す大惨事となります。俗に「丸山の火事」といわれ、その後も第二次大戦時ということもあり、しばらく空き地となっていました。昭和32年(1957)11月22日、遊戯施設を置き公園化され、昭和62年(1987)現在の施設となり火災予防のためイチョウを多く植えています。




引田屋正面玄関跡
寄合町3-50(旧寄合町)【マンション・ハイドレンジ丸山公園】
現在、マンションが建っている場所は、第二次大戦以前まで遊女屋の引田屋(花月楼)の所有地で正面玄関があった場所でした。当初、引田屋は寄合町に属し、古地図や絵などには、その様子を見ることができます。また、第二次大戦後にこの土地などが転売され、花月解体の恐れが生じたため花月保存会の立ち上げのきっかけともなります。




C-109:紙碑「引田屋・花月楼遊女の慰霊塔山口雅生 著
遊女屋の引田屋は明治期以降、花月楼と改称し営業を続けるも経営不振で昭和4年(1929)廃業。その後、16代目の山口二郎(明治13:1880-昭和11:1936)は昭和11年(1936)他界。16代目の妻:山口キミとその息子:山口雅生(明治36:1903-?)夫婦と2人の子は神戸に移住します。昭和32年(1957)16代目の妻:キミが他界したのを期に山口雅生は紙碑として「長崎丸山花月記」をまとめ、昭和43年(1968)に出版します。この「長崎丸山花月記」は今まで引田屋や花月楼で働いた遊女や女中などへの慰霊の意味があって、引田屋や花月楼の発生やその後の動き、墓所や刀傷、宝物や遊客などの話が記されています。※現在、入手困難。




迎賓碑(げいひん-ひ)【旧引田屋内】
迎賓碑は第二次大戦後、新しい体制となった花月の当時の社長:本田寅之助が建立したもので、花月に来賓した世界各地の皇族などを記したものです。
ベルギー国 ボートワン国王殿下 ファビオラ王妃殿下 昭和39年(1964)
オランダ国 王嗣ベァトリックス内親王殿下 昭和38年(1963)
オランダ国 殿下 クラウス殿下 昭和45年(1970)
スペイン国 ドン・ファン・カルロス殿下 ドニヤソフィヤ妃殿下 昭和47年(1972)
碑は昭和39年(1964)建立、来賓名は順次記されたものです。




「山陽先生故縁之処」の碑
(さんようせんせい-こえんのところ)【旧引田屋内】
山陽先生とは頼山陽(安永9:1780-天保3:1832)のことで、江戸時代後期の儒学者で歴史家、書や絵などに大変長けていた人物でした。出身は大坂で、父は朱子学(儒学)者:頼春水、名前は久太郎で後に襄(ノボル)、字は子成、号を山陽三十六峯外史とします。寛政9年(1797)若くして江戸に遊学。儒学者:尾藤二洲を師事し、その後、脱藩したため蟄居を命ぜられた時もありました。文化8年(1811)京都に移り私塾を開き、田能村竹田など多くの文人墨客などと交流を持ちます。生涯にわたり多くの著書を出し、特に歴史書「日本外史」は広く愛読され、幕末の尊王攘夷運動に影響。一冊の本が一国の歴史を大きく左右した一例といえます。墓所:京都 長楽寺
引田屋には文政元年(1818)に登楼。引田屋当主:山口俳之の尽力で書画清譚会などが行われます。また、頼山陽遊女:袖笑(ソデエミ)を好意にしたといわれています。碑は昭和18年(1943)建立




C-108:「ぶらぶら節」の碑(ぶらぶらぶしのひ)【旧引田屋庭園内】
表碑文「遊びに行くなら 花月か中の茶屋 梅園裏門たたいて 丸山ぶうらぶら ぶらりぶらりと 言うたもんだいちゅ 安藤鶴夫書
裏碑文「ぶらぶら節は長崎県の代表的郷土民謡である 幕末嘉永安政のころから丸山花街を中心に流行して追々市井に広まったとつたえられる 人情、風俗、行事などをおりこみ長崎情緒豊かである 民謡は民衆のことばである ぶらぶら節永く人々にうたいつがれ心の糧となり 郷土愛を培うことに寄与するものであることを信じてやまない 撰文 永島正一
昭和44年(1969)建立。
※「ぶらぶら節」は民謡の名前で、「長崎ぶらぶら節」は小説の名前です。




C-109:丸山公園(まるやまこうえん)
寄合町1-2(旧寄合町)
丸山公園となっている一帯は、昭和の始め、大吉楼、新筑楼、梅月楼、三日月楼などという貸座敷が建ち並んでいました。昭和18年(1943)11月20日、神棚の灯明が原因で失火し11戸が全焼、死傷者8名を出す大惨事となります。俗に「丸山の火事」といわれ、その後も第二次大戦時ということもあり、しばらく空き地となっていました。昭和32年(1957)11月22日、所有者の中熊富蔵(梅月楼)の許可のもと長崎市が遊戯施設を置き公園化。昭和62年(1987)公園が市に寄贈されあわせて公園改修がなされ和風調の公園へと変わります。南側入口の丸山公園の碑は当時の所有者:中熊芳枝によるものです。なお、開園の際、改めて8名の犠牲者の慰霊祭が執り行われました。




C-108:紙碑「引田屋・花月楼遊女の慰霊塔山口雅生 著
遊女屋の引田屋は明治期以降、花月楼と改称し営業を続けるも経営不振で昭和4年(1929)廃業。その後、16代目の山口二郎(明治13:1880-昭和11:1936)は昭和11年(1936)他界。16代目の妻:山口キミとその息子:山口雅生(明治36:1903-?)夫婦と2人の子は神戸に移住します。昭和32年(1957)16代目の妻:キミが他界したのを期に山口雅生は紙碑として「長崎丸山花月記」をまとめ、昭和43年(1968)に出版します。この「長崎丸山花月記」は今まで引田屋や花月楼で働いた遊女や女中などへの慰霊の意味があって、引田屋や花月楼の発生やその後の動き、墓所や刀傷、宝物や遊客などの話が記されています。




迎賓碑(げいひん-ひ)【料亭花月】
迎賓碑は第二次大戦後、新しい体制となった花月の当時の社長:本田寅之助が建立したもので、花月に来賓した世界各地の皇族などを記したものです。
ベルギー国 ボートワン国王殿下 ファビオラ王妃殿下 昭和39年(1964)
オランダ国 王嗣ベァトリックス内親王殿下 昭和38年(1963)
オランダ国 殿下 クラウス殿下 昭和45年(1970)
スペイン国 ドン・ファン・カルロス殿下 ドニヤソフィヤ妃殿下 昭和47年(1972)
碑は昭和39年(1964)建立、来賓名は順次記されたものです。




「山陽先生故縁之処」の碑
(さんようせんせい-こえんのところ)【料亭花月】
頼山陽(安永9:1780-天保3:1832)は、江戸時代後期の儒学者で歴史家、書や絵などに大変長けていた人物でした。出身は大坂で、父は朱子学(儒学)者:頼春水、名前は久太郎で後に襄(ノボル)、字は子成、号を山陽三十六峯外史とします。寛政9年(1797)若くして江戸に遊学。儒学者:尾藤二洲を師事し、その後、脱藩したため蟄居を命ぜられた時もありました。文化8年(1811)京都に移り私塾を開き、田能村竹田など多くの文人墨客などと交流を持ちます。生涯にわたり多くの著書を出し、特に歴史書「日本外史」は広く愛読され、幕末の尊王攘夷運動に影響。一冊の本が一国の歴史を大きく左右した一例といえます。墓所:京都 長楽寺
引田屋には文政元年(1818)に登楼。引田屋当主:山口俳之の尽力で書画清譚会などが行われます。また、頼山陽遊女:袖笑(ソデエミ)を好意にしたといわれています。碑は昭和18年(1943)建立




○「ぶらぶら節」の碑(ぶらぶらぶしのひ)【料亭花月】
表碑文「遊びに行くなら 花月か中の茶屋 梅園裏門たたいて 丸山ぶうらぶら ぶらりぶらりと 言うたもんだいちゅ 安藤鶴夫書
裏碑文「ぶらぶら節は長崎県の代表的郷土民謡である 幕末嘉永安政のころから丸山花街を中心に流行して追々市井に広まったとつたえられる 人情、風俗、行事などをおりこみ長崎情緒豊かである 民謡は民衆のことばである ぶらぶら節永く人々にうたいつがれ心の糧となり 郷土愛を培うことに寄与するものであることを信じてやまない 撰文 永島正一
昭和44年(1969)建立。




○「端唄はるさめ誕生之地」の碑
(はうた-はるさめ-たんじょうのち)【料亭花月】
端唄「春雨」は、江戸時代末期に引田屋の2階から春の雨が降り注ぐ庭園を眺めながら作られたといわれていますが、作詞は長崎港警備のため派遣された小城藩士で国学者であった柴田花守(シバタハナモリ:文化61809-明治23:1890)で、節は丸山の芸妓によるものです。そして、昭和17年(1942)端唄「春雨」の誕生を伝えるため庭園内にこの碑が建立されます。この碑の裏面は作家:平山芦江(ヒラヤマ-ロコウ:明治14:1881-昭和28:1953)によるものです。
碑裏面「はうた春雨まるやま生れ 而(シカ)も花月の花の下

端唄「春雨」
春雨にしっぽり濡れるゝ鶯(ウグイス)の  羽風に匂ふ梅ヶ香や 花にたわむれしほらしや 小鳥でさえも一筋に 寝ぐら定めぬ木は一つ わたしゃ鶯ぬしは梅 やがて身まゝ気まゝになるならば サア 鶯宿梅(オウシュクバイ)じゃないかいな サアサ 何でもよいわいな




山口拝之(やまぐち-はいし)
山口俳之(寛政6:1794-天保5:1834)は引田屋第11代の当主で、幼名を寅太郎、後に山口太左衛門増寿となります。彼は俳句を好くし俳之という号を持っていて、蕉門十哲の一人である向井去来の流れを汲んでいました。また、俳之は当時の長崎を代表する俳人でもあり、去来の流れを汲む者だけしか許されない去来愛用の文台も所有していたといいます。文政元年(1818)漢学者の頼山陽が来崎した際、中の茶屋または花月で書画清譚会が開かれていますが、この時、俳之も木下逸雲らと参加しています。墓所:正覚寺後山:引田屋墓所。




○向井去来「稲妻の碑」【料亭花月】
向井去来(慶安4:1651-宝永元:1704)は後興善町生まれで、8歳のとき父と共に京都に移住、父の後を継ぎ医業を開業していた長男:元成を支えます。35歳頃、俳諧の道に進み松尾芭蕉の門下となり、やがて蕉門十哲(ショウモンジッテツ:松尾芭蕉の10人の優れた門下)の一人となります。元禄2年(1689)に一旦帰郷。これは長崎に蕉風俳諧を伝えることになります。
昭和28年(1953)は向井去来の250年忌にあたり、この年、長崎の俳人約50人によって顕彰会が結成。この「稲妻の碑」の建立のほか、文集編纂や晧台寺で記念法要、「芒塚の碑」の改修などが行われました。この「稲妻の碑」は遊女の句ということで、この丸山に建立されています。
碑文「稲妻や どの傾城と 仮枕(い那つまや 登の希い世いと か里満くら)」




○花月楼の「鶴の枕」(かげつろうの-つるのまくら)【料亭花月】
江戸時代初め、鶴の枕は中国明より持ち込まれたもので、いつしか引田屋に伝わったものといわれ、言伝えでは、唐の玄宗皇帝(712-756)の枕とか楊貴妃(719-756)の枕といわれたり、玄宗皇帝楊貴妃が互いに使ったともいわれています。当初は引田屋の家宝として扱われ、その様子は、蜀紅の綿を編んだ枕に、上下両面に雌の鶴が松の枝に巣を作り3羽の雛を育てていて、その上には雄の鶴が東の方角へ飛んでいく様子を中国の刺繍で表現しています。また、この枕を触ると、怪しく笛の音がし雌雄の鶴の鳴き声にとも、親鶴と雛の楽しい呼び声にも聞こえるといわれています。つまり、装飾全体で見ると男女の和合、恋愛至上を表したものと解釈できます。当時、多くの客人がこの枕目当てに引田屋に足を運び、多くの文人が詩や和歌、俳句などを作り披露するのです。特に蜀山人(大田南畝)の「鶴枕の記」は有名。現在、その所在は不明。




C-107:花月楼跡(かげつろう-あと)【料亭花月】
引田屋庭園内にあった茶屋の「花月」は俗称で、正式には花月楼と呼んでいました。また、中国人の間では養花山館と呼んでいたといいます。位置は現在の庭園上部にあたり、当初は亀屋銀太夫の所有地でした。そして宝暦元年(1751)当時の山口太左衛門が購入。敷地を塀で囲み直して建物を建造し宴席を設けます。そして、当時の花月のシンボルである円額「花月」は米芾(ベイハイ)によるものです。しかし残念ながら花月楼は明治12年(1879)貸座敷の熨斗屋と青餅亭の間で発生した火事で類焼し再興されませんでした。




C-106:妓楼:引田屋遺構(ぎろう-ひけたや-いこう)
丸山町2-1,寄合町3(旧丸山町・一部:旧長崎村小島郷)【料亭花月】
江戸時代、引田屋は花街丸山で最大の遊女屋で寄合町、丸山町、中小島の三町にまたがる1521坪(約5000平方メートル)の規模を誇っていました。初代:山口太左衛門は寛永年間(1624-1644)讃岐国引田村(現香川県東かがわ市)から長崎入りし宿屋を開き、これが引田屋の創業ともいわれています。そして文政元年(1818)頃、引田屋庭園内に亭(料亭の意)を作り花月と命名、その後、花月は大変な賑わいを見せますが、明治12年(1879)寄合町からの火災で花月は焼失し引田屋のみとなります。明治後期、引田屋花月楼と改称し営業を続けるも経営不振で昭和4年(1929)貸座敷業を廃業。山口家は15代まで続きました。第二次大戦直後、所有者が転々と変わり敷地の一部(寄合町側入口部)が転売され当時の形態が変わり始めます。所有者が本田寅之助になった頃から再興し始め、昭和33年(1958)創業300周年祭が盛大に行われます(これは創業年が万治元:1658ということを意味します)。昭和35年(1960)県指定史跡に指定。その後、有志が花月史跡保存会を立ち上げ、後に株式会社を組織して現在の料亭花月となります。




C-105:長崎検番(ながさきけんばん)
丸山町4-1(旧丸山町)
長崎において芸妓の出現は江戸時代中期の天明元年(1781)頃で大坂より長崎入りします。しかし遊女自体は芸妓的な役割も持っていたので、遊女からは不評で後に禁止となります。一方、芸妓という概念が入ると長崎でも芸妓が自然発生し色と芸との区別化が進みます。遊女たちの歌舞音曲は自然と衰退し、明治5年(1872)の遊女解放令で新たな公娼(コウショウ)制度の始まると、料亭の台頭で芸妓を中心とした花街文化が花開き始めます。そして丸山検番(後の東検番)と長崎町検番(明治40:1907創立)とが誕生し、ここで「山芸妓」「町芸妓」が生まれ、さらに丸山には新たに丸山南検番が明治42年(1909)創立します。なお、最盛期の昭和初期には、丸山に東、南、南廊の3軒の検番のほか、本紙屋町に長崎町検番、稲佐に稲佐検番、出雲町に出雲町検番、戸町に戸町検番が作られ数百人の芸妓が在籍しました。第二次大戦を終え花街が衰退し、ついには丸山東検番と長崎町検番の2軒のみとなるも昭和24年(1949)に合併し長崎芸能会となります。この頃の芸妓数は約100名でした。昭和33年(1958)売春防止法の成立で花街に勢いがなくなるも料亭などは昭和40年台(1965〜)高度成長期、炭鉱の好景気を受け潤いますが、その後はオイルショックなど不景気の波をかぶり花街は衰退します。昭和47年(1972)株式会社長崎芸能会となり、昭和52年(1977)株式会社長崎検番と改称、のち有限会社化。現在は19名在籍(平成28年8月現在)。なお、長崎検番の建物は妓楼:松月楼の建物でした。




C-104:梅園裏門(うめぞのうらもん)
丸山町2(旧丸山町/旧長崎村小島郷)
民謡「ぶらぶら節」の中に次のような歌詞があります。
遊びに行くなら花月か中の茶屋 梅園裏門叩いて 丸山ぶらぶら ぶらりぶらりと云うたもんだいちゅう
この歌詞の中に出てくる梅園裏門とは、梅園天満宮の参道に通じる花月の裏門のことをいい、裏門を叩くとは、花月を通り丸山へ抜けて行く様を唄ったもので、当時、花月(引田屋)の入口が寄合町側だったことを考えると、この歌は丸山を横断している意味にも解釈できます。




C-103:富永町(とみながまち)
丸山町3(旧丸山町/旧長崎村小島郷)
正覚寺墓域西側の道路(小島六地蔵前)の1段下に、同じように並行して走る通りがあります。第二次大戦後しばらくは小料理屋「加登松」やタバコ屋「長門商店」などがありました。そしてさらに時代をさかのぼり昭和の始め頃までは、この付近の店主のほとんどが富永の姓を名乗っていて、俗に富永町と呼ばれていました。しかし現在は富永の姓は一軒もなく、そのことを知る人もいません。




C-102:天台宗覚長山行満院跡(-かくちょうざん-ぎょうまんいん-あと)
中小島1-3-20(旧小島村字梅園/中小島町)
室町時代後期(久寿2:1155-保元3:1158頃)、長崎で大地震が頻繁に起こるため浦上の豪族:浦上兵衛繁幸は比叡山から盲僧の覚都検校(康和3:1101-保元元:1156)を招き入れ祈祷をさせます。すると地震は収まり浦上の人々はその力に覚都に帰依するようになり、覚都は浦上の北村(住吉付近)に住することになります。そして覚都没後は「覚都」の座名を子孫が受け継ぐことになります。江戸時代初期、浦上はキリスト教が盛んになり第26代目:松尾勾当は信者になった時期もありました。延宝年間(1673-1681)、覚都は肥前地方の地神盲僧(琵琶を弾きながら経を唱えて廻る僧)を支配するようになり、拠点も小島の地に移転します。明治4年(1871)盲僧の制度が廃止となることになり、一旦は当院は衰退。明治8年(1875)地神盲僧の再興のため1代限りという条件で許可が下り再開、天台宗管轄となります。明治38年(1902)地神盲僧の本部が福岡に移ると規模が縮小し、第二次大戦後は所有者の石橋氏によって管理され、平成22年(2010)廃寺。仏体は清水寺に移設されました。




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