広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成17年 〜2005年〜
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C-145:長崎医学校分院跡(ながさきいがっこう-ぶんいん-あと)
西小島1(旧長崎村小島郷)【旧大徳園】
文久元年(1861)現在の佐古小学校講堂があるところに養生所が開かれ(A−50:2003-6/30)、その後、数回改称して明治4年(1871)長崎医学校となります。明治10年(1877)西南戦争(A-47:2003-6/28)が勃発。長崎医学校に多くの傷病者が運び込まれます。しかし戦争の拡大で傷病者が増え医学校だけでは対応しきれなくなり、立山の外国語学校、福済寺、本蓮寺、晧台寺(B-67:2004-9/5)、長照寺、浄安寺(B-37:2004-7/28)、深祟寺、禅林寺、正覚寺(C-34:2005-6/16)が臨時病院に当てられます。そして、医学校の拡張が始まり明治13年(1880)旧大徳寺の庫裏のところに長崎医学校分院が造られ、梅香崎病院と呼ばれます。明治25年(1892)西彼杵郡浦上山里村(現 坂本)に移転します。




C-144:長崎県黴毒(梅毒)病院跡
(ながさきけん-ばいどく-びょういん-あと)
西小島1(旧長崎村小島郷)【旧大徳園】
幕末の横浜に駐屯していたイギリス軍の中に黴毒(梅毒)がまん延。軍医ニュートンが横浜黴毒(梅毒)病院を慶応3年(1867)に設置し、多くの成果を上げます。ニュートンはその後、長崎入りし、長崎にも黴毒の病院の必要性を説きます。そこで空き家となった旧大徳寺の庫裏に明治3年(1870)長崎県黴毒病院を設置し丸山遊女に検黴を求めますが、猛烈な反対と抗議を受けうまくいかず、さらにはニュートンに対し誹謗中傷を浴びせ、翌明治4年(1871)無念の死を遂げます。




C-143:長崎県護国神社跡(ながさきけん-ごこくじんじゃ-あと)
西小島1(旧長崎村小島郷)【大徳寺公園】
昭和14年(1939)当時の内務省は全国にある招魂社を護国神社に改称するよう通達を出し、長崎県では昭和17年(1942)に、それまであった梅香崎招魂社と明治8年(1875)に稲荷嶽(現 仁田小付近)に造られた佐古招魂社とを併せて長崎県護国神社を創建します。このとき大楠神社の鳥居は「護国神社」と掛け変えられました。当時、第二次大戦の戦意高揚のためにも本格的な社殿建設が望まれ、昭和19年(1944)浦上の志賀山に本格的社殿が建設され移転。しかし昭和20年(1945)原爆によって倒壊、焼失します。昭和26年(1951)旧大徳寺の地に仮殿が設けられ神事が行われますが、昭和38年(1963)浦上の地(城栄町)に社殿が再建され現在に至ります。




C-142:梅香崎招魂社跡/梅香崎墳墓地跡
(うめがさき-しょうこんしゃ-あと/-ふんぼち-あと)
西小島1(旧長崎村小島郷)【大徳寺公園】
招魂社とは幕末以降、国家のため戦い殉死した人をお祀りした神社のことで、この梅香崎招魂社は戊辰戦争(奥羽征伐・函館戦役)などで殉職した43名をお祀りした神社でした。正面に霊位を祀った招魂社で、そのそばに遺体や遺髪などを葬る墳墓地がありました。
江戸時代末期、長崎市内の地役人のほか浪士などを集め、長崎を警護する目的で遊撃隊が長崎奉行所の下、組織され、すぐに明治維新を受け、遊撃隊は新政府に仕えることになります。明治元年(1868)2月長崎裁判所総督:澤宣嘉によって振遠隊と改称。振遠隊は6月24日、旧幕府軍との戦いで戦火の治まらない東北地方に派遣されることになり、海路秋田に向かい旧幕府軍の庄内軍と一戦を交えます。しかし庄内軍の圧倒的な強さで振遠隊は7名の犠牲者を出すも、東北諸藩の降伏が始まったため振遠隊は盛岡城を受取り、10月19日凱旋となり12月20日に帰崎します。振遠隊の生存者に褒賞を与え、戦病死者17名は各藩の協議の結果、大楠神社の脇に招魂場(墳墓地)を設け埋葬することになり、後に霊位を大楠神社に合祀。葬儀を明治元年(1868)12月26日に行います。【17名合祀】
また、戊辰戦争時、函館港外での海戦で殉死した長崎出身者26名の遺髪を招魂場に埋葬。【26名合祀】これら殉死者の霊位を大楠神社にお祀りした際、梅香崎招魂社と改称し、墓所を梅香崎墳墓地と称することとなります。さらに梅香崎墳墓地には、明治元年1月14日の長崎奉行所引渡しの際、横死した者1名、祝砲暴発で死亡した者1名も埋葬しています。




C-141:大楠神社(おおぐす-じんじゃ)
西小島1(旧長崎村小島郷)
明治維新を受け大徳寺が廃されると、それまで大徳寺の観音堂があった場所に明治元年(1868)12月大楠神社が新設され、長崎裁判所総督:澤宣嘉によって王政復古を果たした楠正成をお祀りします。その後、戊辰戦争の犠牲者26名の霊を大楠神社に合祀し、その後、大楠神社は梅香崎招魂社と改称します。明治16年(1883)梅香崎招魂社が手狭なため佐古招魂社へと移転となり、大楠神社社殿は移設され、現在、梅香崎神社横に置かれています。なお、大楠神社の鳥居は移設されることなく当初の場所にあって、柱には「明治元年戊辰冬十一月二十五日」「長崎府地役人中」と彫られ、正面額に「大楠神社」と痕跡を見ることができます。




C-140:梅ヶ崎天満神社/梅香崎天満宮
(うめがさき-てんまんじんじゃ/-てんまんぐう)
西小島1(旧長崎村小島郷)
江戸時代初め、現在の東山手の丘(活水学園付近)を梅ヶ崎と呼び、岬の先端に遠見(トオミ)番所が置かれ異国船の監視が行われていました。そして番所の上には寛文年間(1661-73)第23代長崎奉行牛込忠左衛門勝登(カツナリ)によって天満宮がお祀りされ、遠見番や唐人番、奉行所の役人などが参詣するようになり天満宮を梅ヶ崎天満宮と呼び、この地を天神山と称するようになります。また一説には、寛永年間(1624-44)天神像を携えた筑前出身者が来崎。その後、番所に採用され、万治年間(1658-61)に番所の上手に祠を設けたともいわれています。一方、江戸時代初期に伊勢町にあった大徳寺は、宝永元年(1704)に梅ヶ崎に移転。奉行の命で上手にあった天満宮も大徳寺がお祀りすることになります。宝永5年(1708)大徳寺は小島郷(現 大徳寺公園)に移転。享保2年(1717)天満宮も遅れて移転し、名称を梅ヶ崎の地名から梅ヶ崎天満宮となります。江戸時代は大徳寺と共に発展しますが、明治維新後、大徳寺が廃寺となると梅ヶ崎天満神社と改称。大楠神社や招魂社建設のため現在地に移転。現在は籠町自治会の管理となり同町鎮守神としてお祀りされています。なお、いつの頃か梅ヶ崎から梅香崎に文字が変化します。




長崎七不思議(ながさき-ななふしぎ)
長崎七不思議は節がついて三味線などで歌われたお座敷歌で、原曲は大津絵節といわれています。おそらく丸山芸妓が即興で作ったものではないでしょうか。歌詞に「下がり松」という松が登場するところから大浦下がり松海岸が埋立てされる幕末期に作られている考えられています。
寺もないのに大徳寺 平地(ヒラチ)にあるのを丸山と 古いお宮を若宮と 桜もないのに桜馬場 北にあるのを西山と 大波止に玉あれど大砲なし しゃんと立ったる松を下がり松 これで七不思議
大徳寺:2005-12/17:C-135  丸山:2005-7/24  若宮:B-20:2004-6/24 桜馬場:2003-12/16  西山:2003-10/24  大波止:A-21:2003-5/24 下がり松=現在の松が枝町四海楼付近にあった松のこと




旧大徳寺石灯篭(きゅう-だいとくじ-いしどうろう)
大徳寺公園内にある石灯篭は江戸時代から存在する物としては天満宮社殿を除けば唯一の大徳寺の遺構といえるもので建立は天保6年(1835)です。3本の竿石(足の部分)と三日月型の火袋(灯りを灯す部分)が特徴で、3本の竿石は唐船維纜石(トウセン-イランセキ)を使用しています。この唐船維纜石の維纜とは船をつなぎ止める綱を意味し、纜石(トモヅナイシ)はその綱をくくるための石を表し、ゆえに唐船維纜石とは中国船の綱を止めるための石ということになります。このような纜石を使った石灯篭は大徳寺のほか金比羅神社と清水寺の3ヶ所に存在しています。竿石には次のように刻されています。(2003-5/20:A-17・2005-2/21:B-217参照)
照鍳永代常燈」「仰願唐船海上往来安全
當山現住辟穀百城代 天保六乙未年九月吉日施主唐船方




C-139:大徳寺遺構(だいとくじ-いこう)
【大徳寺公園/梅香崎天満宮/旧大徳園】
大徳寺は明治維新を受け衰退し建物を含め境内地の物はほとんど売却または撤去されてしまいます。そしてそのほとんどの行方が不明で、大徳寺公園内などに見られる手水鉢や灯篭、狛犬などは、大徳寺内にあった梅香崎天満宮に付属したものといえます。そして唯一、大徳寺のものといえば常夜灯の1基が残るのみです。
@延享5年(1748)手水鉢【梅香崎神社前】A明和6年(1769)灯篭1対【梅香崎神社前】B文政13年(1830)手水鉢【若杉稲荷社前】C狛犬1対(唐船修理方奉納)【梅香崎神社前】




C-138:フランス仮領事館跡(フランス-かり-りょうじかん-あと)
【大徳寺公園/梅香崎天満宮/旧大徳園】
安政6年(1859)長崎のほか神奈川と箱館(函館)が開港し、それまでの中国、オランダ以外にイギリス、アメリカ、ロシア、フランスの各国との貿易が始まります。そのため各国は相次いで長崎に領事館を設置。文久3年(1863)フランスは長崎に領事館開設のためレオン・ジュリーを領事として来日させ、始めは出島のオランダ人宅に滞在しますが、長崎奉行の斡旋で大徳寺の一室をフランス仮領事館として開設。宣教師:ヒウレと共に約1ヶ月間使用します。その後、南山手15番地(現 杠葉病院付近)、東山手13番地と移転し本格的業務が始まります。




C-137:スタウト寄寓の地(スタウト-きぐうのち)
【大徳寺公園/梅香崎天満宮/旧大徳園】
明治2年(1869)アメリカのレフォームト教会(改革派)の宣教師:ヘンリー・スタウト(Henry Stant)とその夫人が長崎に渡来し、一時的ですが大徳寺の一室を借りて滞在します。このヘンリー・スタウトの来崎はフルベッキの後継的役割のためで広運館(A-33:2003-6/13)で3年間、英語教師を務めた後、明治5年(1872)梅香崎の自邸(東山手13番地:現 活水)に英語塾「スタージス・セミナリー」を活水学院と並んで創立し英語教育と聖書を教えるなど尽力します。その後、この学校は山口県下関市に移り、現在の梅光学院と続きます。




C-136:フルベッキ寄寓の地(フルベッキ-きぐうのち)
【大徳寺公園/梅香崎天満宮/旧大徳園】
安政6年(1859)アメリカ人宣教師のフルベッキ(Guido Herman Feridolin Verbeck)は、アメリカのレフォムルド教会の派遣宣教師として長崎に渡来し、すぐに大徳寺に滞在します。そして滞在中の慶応元年(1865)には佐賀の儒学者:谷口藍田を招き日本書紀の講義を受けています。フルベッキはその後、慶応2年(1865)諫早家屋敷内に開かれた致遠館の校長となり、英語、天文学、土木建築学などを教えます。A-14:2003-05/16参照




大徳寺唐人騒動
天保5年(1834)12月13日、唐人屋敷に滞在していた唐船主:孫漁村という者の葬儀が行われ、その日の八つ時(深夜2時頃)、唐船の漕ぎ手数人が暴動を起こしたため、唐船主及び副役など唐人16名が大徳寺に拘束されます。唐人らは12月15日未明に釈放、帰館しますが、この暴動は日本の処遇に対する不平から起こったもので、唐人の拘束中は日本側の検使、唐人番、通事、乙名、加役掛などが大徳寺を交代で警備し、町年寄も巡視したといいます。さらに、長崎を警護中の福岡黒田藩の藩士140-150名もこの夜は大徳寺に止宿したといいます。




大徳寺唐館内読経(だいとくじ-どうかんない-どきょう)
文政8年(1825)大徳寺第8代住持:慶満を始めとする僧侶19名は、唐人屋敷(唐館)に在留する唐人の王氏ほか12名の唐船主らの願い出によって、唐人屋敷内にある観音堂で航海安全祈願の読経(法要)を行います。翌文政9年(1826)には唐船が無事入港したことを祝うため、同じく唐人屋敷内の観音堂祈念法要を行います。さらに文政12年(1829)にも同様の読経が行われ、文政9年(1826)に大徳寺境内の復興が行われる際は、唐人屋敷の商人:王氏ほか12名の船主は1隻につき白砂糖1000斤(約600s)、20隻で2万斤(約1.2t)を改修費として寄進していて、これら唐人屋敷の唐人が大徳寺を大切にするのは、御朱印地格つまり幕府の後ろ盾があったことも一つといえます。以降、唐人らは毎年、銀27貫481匁の寄進を行っています。




C-135:真言宗青龍山慈眼院大徳寺跡
(せいりゅうざん-じがんいん-だいとくじ-あと)
西小島1(旧長崎村小島郷)【大徳寺公園/梅香崎天満宮/旧大徳園】
元禄年間(1688-)伊勢町にあった大徳寺大教院を元禄16年(1703)僧:月珍が譲り受け、江戸にあった護持院の大僧正:隆光に許可をもらい大徳寺が創建します。宝永元年(1704)伊勢町の地と梅ヶ崎(現 十人町)の官地及び荒木某氏の別荘地とを交換し移転。宝永4年(1707)には御朱印地格となり、以降、幕府の手厚い保護を受けることになります。宝永5年(1708)梅ヶ崎の地が手狭で水の便が悪かったため他の数ヶ所の所有地と、小島郷の町年寄:薬師寺家の別荘地とを交換し再移転、いわゆる現在の大徳寺公園に移転します。寛保2年(1742)観音堂を建立。聖徳太子の作といわれ第5代将軍綱吉の生母:桂昌院が崇敬していた十一面観音像を譲り受け安置。このことは徳川幕府との関係の深さを表すものです。文政3年(1820)には本堂、総門、塀などの整備が進み、このころが大徳寺の隆盛期といえます。しかし以降、境内の維持管理には多大な費用がかかり幕府からの借金も増え、文政8年(1825)5貫250目-天保11年(1840)15貫目-嘉永4年(1851)40貫250目まで膨れ上がり、ついには幕府に32貫目20年払いの減額を要請するまでに至ります。しかし長崎の貿易不振による寄進の減と、檀家を持たない寺院ということもあり借金返済がうまくいかず、そのまま明治維新を向かえます。幕府の後ろ盾のなくなった大徳寺は維持管理までも困難となり、ついには宝物などの売却、建造物も解体し建材とし、本堂を延命寺、鐘楼堂を三宝寺、ほか付近の寺院に売却を進め、ついに廃寺という結末を迎えるのです。




C-134:大徳寺の大クス(だいとくじの-おおくす)
西小島1(旧長崎村小島郷)【楠稲荷神社境内】
大徳寺の大クスは樹齢が約800年と推定され、目通り幹周り(人の目の高さの周囲)12.55メートル、根周り23.35メートルで長崎市で一番大きな楠といわれています。一時、根の周りにあった空洞に浮浪者が居座ったり、シロアリなどの被害で楠の葉がまったく芽生えなくなったこともありました。さらに、昭和50年(1975)頃には子供の火遊びによって火災が起こり丸一日中、くすぶり続けていたこともあり、逆にそれが腐食部分の外科的手術になって、今では落ち葉公害といわれるほど栄えています。県指定天然記念物。
なお、長崎県内で最大は南高有明町の「有明の大クス(松崎の大クス)」で幹周り13.0メートル/樹高は27メートル(県指定天然記念物)、日本一は鹿児島県蒲生町の蒲生八幡神社の楠で、樹齢1500年/樹高30m/目通り24.2m/根廻り 33.57mです。




C-133:楠稲荷神社(くすのき-いなり-じんじゃ)
西小島1(旧長崎村小島郷)
霊樟窟琢正院は明治維新を受け楠稲荷神社に改められ、船大工町の鎮守神として祀られるようになります。祭神の稲荷神は商売繁盛の神ということもあり、地域柄、商店主などの玉垣や鳥居の奉納が見られます。昭和50年(1975)頃、隣地の火災で類焼するも改修され現在に至ります。
楠神社改築碑【楠稲荷神社境内】
明治33年(1900)社殿の老朽化のため社殿の全部を改築します。この碑はその記念のもので明治36年(1903)に建立。「楠神社記」として西道仙の筆によって創建から改築までの歴史が銅版に刻されていました。しかし、第二次大戦などによる供出で姿を消し、現在では礎石のみ現存。




C-132:真言宗霊樟窟琢正院跡(れいしょうくつ-たくせいいん-あと)
西小島1(旧長崎村小島郷)【楠稲荷神社】
琢正院の創建は寛文4年(1664)に真言宗の修験者(山伏):寿福院祥湛(-ショウタン)が八幡町に一院を建てたことに始まり、その後、元禄初年(1688頃)に小島郷に移転。その後は大楠のそばにあった稲荷神を祭神とします。元禄7年(1694)には船大工町乙名:橋本治右衛門の世話で琢正院船大工町の管理となり境内の整備が始まり、以降、船大工町の鎮守神となります。そして明治維新からは廃仏毀釈によって楠稲荷神社となります。なお、現存する手水鉢を見ると「享保17年(1732)唐人屋舗薪屋中」と刻されているところから琢正院は唐人屋敷とも密接に関係していたと推測できます。




C-131:勅使坂(ちょくし-ざか)
船大工町3,籠町9−寄合町2,西小島1境界付近
明治16年(1883)10月14日から16日まで佐古招魂社(現 仁田小学校横)で勅祭(天皇命の祭典)が行われることになったため、当時の長崎県令(知事)石田英吉は、明治政府や陸海軍の関係者と計画を行い、寄合町(現 丸山公園)から佐古招魂社までの道路整備を進め、急きょ、寄合町の乙名宅があった場所を広げ、丸山からの進入路である坂道が造られます。これにより馬車や人力車が通行できるようになり、当日は、勅使として侍従:北条氏が下向され、前日より宿泊された萬歳町上野屋旅館より鉄橋、浜町、思案橋を通り、この坂を上られました。以降、この坂を勅使坂と呼びます。




C-130:蛇踊/龍踊(じゃ-おどり)
蛇踊とは中国の伝説の生き物である蛇(ジャ)をまねたもので、もともとは雨乞いの行事でした。江戸時代初期、唐人が市内に自由に居住していた頃、その唐人が上元(1月15日)の行事として行っていた催し物の一つが蛇踊といわれています。元禄元年(1988)唐人屋敷建設により唐人が収容されてしまうと蛇踊唐館内でしか行われなくなります。しかし、唐館と隣り合わせとなる本籠町の住人が蛇踊に興味を示したため、唐人は蛇踊の技法だけではなく様々な道具の寄贈し、次第に本籠町蛇踊が伝授されていきます。そして諏訪神社のくんちで披露されるようになり、さらには文政3年(1820)には名古屋と江戸で、明治5年(1872)には東京の江川八幡宮にて「長崎名物唐人蛇踊」として興行されるのです。また、第二次大戦後は東京や京都などにGHQの招きでも興行を行っていました。現在、蛇踊をくんち奉納する町は本籠町(現 籠町)のほか諏訪町や筑後町、五島町、さらには滑石くんちなどでも披露される人気の踊りです。なお、正式には「蛇」ですが昭和32年(1957)からヘビと間違われたため「」に改称します。県無形文化財。




C-129:平山芦江宅跡(ひらやま-ろこう-たくあと)
籠町2-46,47(旧本籠町)
平山芦江(明治14:1881-昭和28:1953)は、本名を田中壮太郎といい神戸の出身で子供の頃、籠町にあった平山浅吉氏の平山酒屋へ養子に迎えられます。長崎商業に進み、20才頃上京し都新聞の記者となります。その後、作家に転身。処女作「今様源氏抄」を皮切りに「唐人船」「西南戦争」「花柳情話」など多くの著書を発表します。特に地域柄、花柳物の小説や小唄、都都逸に長けていて、端唄春雨に「端唄春雨丸山生まれ しかも花月の花の下」という文句を残しています。C-107:2005-11/15参照




C-128:本籠町/籠町(もと-/かごまち) 現 籠町,船大工町と西小島の一部
江戸時代初期、中国への貿易品の梱包には竹篭(籠)が使われていて長崎港の南側に竹篭の職人街が形成され籠町または船籠町と呼ばれるようになります。その後、さらに竹篭の需要が増し、風頭のふもとに新しい籠町が作られ新籠町と呼ばれ(のち今籠町に改称)、これによって最初の籠町は本籠町となります。しかし一般には本籠町十善寺籠町、今籠町を大音寺籠町と付近の地名や寺院名をつけ分かりやすく区別して呼んでいました。明治から大正にかけて、本籠町は浜町と対抗するほど賑やかな商店街で、これは通りの先に外国人居留地が控えており横文字の看板が軒をつないでいました。昭和41年(1966)町界町名変更のため、本籠町籠町となり、今籠町は消滅します。B-106:2004-11/1参照。




C-127:船大工町(ふなだいく-まち)
現 船大工町、本石灰町と籠町の一部?
寛永末期から正保にかけて(1640年代)新船大工町船大工町に改称。市内に大工と付く町(本大工町、新大工町、出来大工町)がありますが、船大工町は船を専門とする職人街でした。ここは長崎の造船の発祥ともいえます。昭和41年(1966)町界町名変更で町域が変更され、市内でも大変町域の狭い町になります。




C-126:旧 船大工町/本船大工町/新船大工町
(きゅう-/もと/しん-ふなだいく-まち)
現 船大工町、本石灰町と籠町の一部?
江戸時代初め、中島川を中心に町が開かれていた頃、現在の思案橋付近は小島川(玉帯川)の河口で川口と呼ばれ貿易船の船着場になっていました。船着場では石灰(シックイ)が荷揚げされ、その場所は石灰町(C-47:2005-7/3)となり、荷降ろし後の船は修繕ため船大工に渡されます。その船大工の職人街が船大工町で、おそらく現在の浜崎(本石灰町)寄りに開かれ町と考えられます(所在不明)。一方、職人街が海岸沿いに拡がり新たに町が作られ新船大工町が生まれ、このため始めに開かれえた町を本船大工町とします。しかし、寛永末期から正保にかけて(1640年代)新船大工町船大工町に改称。本船大工町は所在が不明ですが、おそらく本石灰町と新たな船大工町に分けられたのではないでしょうか。




C-125:忍び坂船大工町大師堂
(しのびざか-と-ふなだいくまちだいしどう)
船大工町3-13付近(旧船大工町)
船大工町(光永酒店横)から寄合町の裏手に抜ける細い道は江戸期からのもので、船大工町から琢正院(現 楠稲荷神社)、稲荷嶽(現 仁田小付近)に向かう参道として利用された道でしたが、明治5年(1872)遊女屋が廃止された後は、もっぱら遊廓の裏口として利用されます。正面入口である二重門より人目を忍んで通行することが出来るため、いつしか忍び坂と呼ばれます。また、その坂の中段にあるお堂は船大工町大師堂といい、創建は不明ですが、花街の近くということもあり水商売の人々の信仰を集めています。




C-124:日蓮宗肇劫山本行寺(-ちょうこうざん-ほんぎょうじ)
西小島2-1(旧長崎村小島郷)
明治期以降、十善寺郷十人町(現 十人町)付近には南高来郡山田村(現 雲仙市吾妻町)の人々が多く移住し、また、その人々は山田村の日蓮宗徳性寺の壇信徒が中心でした。そのため菩提寺への参詣が遠方のため困難で、付近に日蓮宗の教会所建設が待たれていました。明治44年(1911)本行寺の開基となる馬場泰真は、十人町2-10付近に開運教会という教会所を設立。しかし手狭のため翌明治45年(1912)西小島の現在地に移転します。このとき妙法教会と改称し、さらに大正9年(1920)本堂を建て、後に本経寺と改め、さらに本行寺とします。昭和20年(1945)原爆の爆風で大破。昭和35年(1960)再興し現在に至ります。




C-123:自転車場サンジョ町(じてんしゃば-さんじょまち)
昭和の始め頃まで寄合町の上手(山頭)は畑地や空き地が多く、長崎に初めて自転車が持ち込まれた明治期以降、この付近(中小島公民館付近)は自転車の練習場となっていました。そのためこの付近を俗に自転車場と呼んでいました。また、自転車場の西側、西小島の一部を俗にサンジョ町といい、意味は不明ですが、「散所」と書けば雑芸の意味を持つため、花街の近くということもありいろいろな職人(大工や鍛冶屋など)の家が並んでいたのではないでしょうか。共にこの地名は今は使われていません。




C-122:あかずの門(あかずのもん)
寄合町-西小島・中小島境界(旧寄合町-旧長崎村小島郷)
江戸時代、丸山は花街の統制や火災の防止などのため周囲を石垣や塀で囲まれ、正面の二重門と「山崎屋の坂」、そして「あかずの門」の3ヶ所のみ出入口が設けられていました。「あかずの門」は寄合町通り南側突き当たり、玉泉神社の横付近にあって、構造は正面の門と小戸に分かれていて、いつも小戸しか通行できなかったため、俗に「あかずの門」と呼ばれるのです。しかし一般の客人などは二重門を使って登楼し、「あかずの門」や「山崎屋の坂」などは門番が置かれ、いつも閉ざされていて、理由は分かりませんが牛馬や死体などの通り抜けを禁じていました。この門も明治5年(1872)遊女屋が廃止された後、門は取り除かれます。2005-10/20:C-83参照




C-121:寄合町地蔵堂(よりあいまち-じぞうどう)
寄合町3-31(旧寄合町)【玉泉神社境内】
寄合町地蔵堂には2体の地蔵尊(石像)があって、1体は江戸時代、玉泉院にお祀りされていた地蔵尊で、言伝えによると唐大通事の二木金右衛門によって奉納されたものといわれています。明治維新後、廃仏毀釈によって清水寺に一旦移され、寄合町の要請で明治12,3年(1879-80)頃に町に戻った経緯があります。また、もう一体の地蔵尊は、昭和29年(1954)中小島町の火災現場に向かっていた消防車があやまって神社の石塀に激突し、火災見物人3人死亡させる事故となり、その供養のため建立されたものです。毎年7月24日は祭事が行われます。




C-120:玉泉神社(ぎょくせん-じんじゃ)
寄合町3-31(旧寄合町)
明治維新を受け、玉泉院は稲荷神を祭神とした稲荷神社となり、一般には寄合町稲荷神社あるいは玉泉神社と呼ばれるようになります。そして寄合町の鎮守神としてお祀りされるようになり、地域が花街の中ということもあって、夕刻の参詣者が多く、特に祭事は芸妓衆などの奉納踊りで賑わっていたといいます。しかしそれも昭和33年(1958)の売春禁止法施行以降は一変し、近年、秋の大祭では子供神輿で賑わっています。




C-119:天台宗玉泉院跡(-ぎょくせんいん-あと)
寄合町3-31(旧寄合町)【玉泉稲荷神社】
寛永年間(1624-1644)筑後国(福岡県)から宝蔵院という僧(後に大学院照寛と改名)が長崎の親類宅のある本紙屋町(現 八幡町川沿い)にやって来ます。当時、長崎では疫病が蔓延し多くの餓死者が出ていたため宝蔵院は祈祷を始めます。その効果があってか多くの者が救われ、宝蔵院に多くの帰依者が集まるようになったため、宝蔵院は時の第12代長崎奉行馬場三郎左衛門と京都の天台宗の許可を得、寛永20年(1943)大学院を創建します。しかし宝蔵院(照寛)が寛文11年(1671)に死去した後は住職の不在も多く、南岳院大覚寺(B-13:2004-6/18)や、興福寺末庵:興善庵などの所有となり衰退。享保7年(1722)からは再び大学院の血統の福善院玉照の所有となり八幡町に移転し、さらに宝暦8年(1758)第5代:玉泉院栄健になって寄合町にある小さな稲荷社(創建不詳)に移転します。これより以降は玉泉院と称し稲荷神をお祀りしていましたが、明治維新を受け玉泉神社と神社に変わります。




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