広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成18年 〜2006年〜
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C-165:天台宗十禪寺跡(じゅうぜんじ-あと)
館内町付近(旧長崎村十善寺郷字館内)
十禪寺は文字通り十善寺郷の起源となるもので、所在は唐人屋敷付近(現 館内町)にあったと考えられています。鎌倉時代の貞応年間(1222頃)神奈川県鎌倉の長崎?というところから長崎小太郎重綱という御家人が長崎に入り長崎を治めますが、その長崎氏がいつの頃か(おそらく1550年〜)、この地に祈祷所として十禪寺を創建したといわれています。十禪寺は天台宗(一説には曹洞宗)の修行僧が十禪師(地蔵菩薩の意)と八王子(千手観音の意)を携えお祀りしたといわれ、そこから十禪寺という寺号になったといわれています。慶長年間(1596-1615)長崎はキリシタンの全盛期で、その時代に十禪寺キリシタンによって焼却され教会がに作り変えられています。しかし、慶長19年(1614)禁教令によって教会は破却され姿を消します。




C-164:住ノ江神社(すみのえじんじゃ)
十人町13(旧長崎村十善寺郷字住ノ江)
住ノ江神社の創建は定かではありませんが、文政5年(1822)の唐人屋敷の在留唐人:朱柳橋の調査によれば、唐人屋敷が建設される以前にこの付近にあった御薬園(A-151:2003-11/3参照)の中には、現在の観音堂付近に一つの稲荷社があって宮永甚左衛門という者が神主として仕えていました。稲荷社には東西に瓢箪(ヒョウタン)川という清流が流れ、硯(スズリ)池という池も備えていたといいます。それが元禄元年(1688)唐人屋敷建設のため現在地に移転となり、以降、十善寺郷の鎮守神として今に至ります。なお、稲荷嶽神社も当初は十善寺郷にあり、住ノ江神社と同じ祭神の稲荷神をお祀りしているところから、両者の関係は同一または分祀したものではないでしょうか。




○中新町大師堂
中新町(長崎市十善寺郷)
明治20年(1887)僧である岡本法如は眼病にかかりほとんど失明の状態でしたが、熱心に弘法大師を信仰しお仕えしたため、しばらくして目が見えるようになったといいます。そしてその後も熱心に信仰を続け、合わせて観世音菩薩もお祀りするようになります。明治30年(1897)法如は中新町に移転し本堂などを整備、島原にあった嘉納寺の出張所として維持されます。
※これは大正12年(1923)長崎市史に書かれているものですが、現在ではその所在などは不明。




C-163:浄土真宗慈航山広済寺(-じこうざん-こうさいじ)
中新町3(旧長崎村十善寺郷)
広済寺はもともと、正覚寺の開基:道智(C-32:2005-06/15)の隠居所として開かれた寺院で、寛永3年(1626)に十善寺郷に開かれます(当時の正覚寺は現在の鍛冶屋町付近)。延宝4年(1676)正覚寺が現在の東小島の地に移転すると、広済寺も同所に移転。元禄11年(1698)正覚寺が仏光寺派となると、広済寺正覚寺境内に再び末寺として開かれます。明治16年(1883)広済寺正覚寺を独立し、十善寺郷にあった地蔵堂に移転します。その後、敷地を拡張し大正5年(1916)には山門を新築、鐘楼も備えますが、大正7年(1918)火災によって本堂など焼失します。しかし檀家の浄財によって翌8年(1919)には再興します。




C-162:長崎測候所跡(ながさきそっこうじょ-あと)
中新町付近(長崎市十善寺郷字中ノ平)
明治4年(1871)オランダ人ゲーツ(ケールフ)が小島郷稲荷嶽で長崎で始めての気象観測を行います。それから7年後の明治11年(1878)7月1日。本格的施設の観測所となる長崎測候所が十善寺郷中ノ平(現 海星学園付近?)に開設され、3名の職員が置かれていました。当時から日本の気象は西から変化するということが知られていて、長崎の気象は各地の天気予報を左右する重要な位置付けだったのです。そのため東京気象台の開設(明治8:1875-6/1)から遅れることわずか3年で長崎測候所の開設となります。まさに長崎測候所日本の気象学の草分けに近い貴重な存在だったのです。明治31年(1898)大浦元町に移転(昭和24年廃止)。昭和22年(1947)から南山手町に長崎海洋気象台が開設され、現在に至ります。




C-161:どんの山(どんのやま)
元町11〜13(旧戸町大浦郷)【どんの山公園】
江戸時代初め、市民に時報を伝える場所として寛文5年(1665)島原町(現 万才町)に報時所が設置され、鐘を叩(タタ)いて時報を知らせていました。その後、延宝元年(1673)今籠町に移転、明和3年(1766)豊後町(現 桜町)に移り、明治36年(1903)まで続きます。その後は小田の原に設置されていた長崎測候所において毎日、正午に空砲(午砲:ゴホウ)を撃つようになり(A-89:2003-08/12参照)、その大砲の音から小田の原どんの山と呼ばれるようになります。当初の大砲は日清戦争で使用されていたもので、大正11年(1922)から昭和16年(1941)に使用されたものは現在、どんの山公園に残されています。標高約130メートル。




C-160:小田の原/木駄の原(こだのはら)
高丘1〜2付近(長崎村大浦郷字小田原)
江戸時代、いわゆる小島と呼ばれる地域、特に長崎女子高校(旧鶴鳴高)から南高校にかけての地域を僧都岡と呼び、北を中僧都、南を高僧都と呼んでいました。また、僧都岡全体を俗に木駄の原(小田の原)とも呼び、全体が高く開けた畑地でした(C-15:2005-5/26)。そして、長崎のはやし歌では「めしは館内十善寺 とこピントコ小田ん原 祇園清水 高野平 肥やし担桶(タンゴ)のおきどころ そこまでいふて くだはんな」と歌われ、これは、この付近一帯は人家もない寂しいところという意味があります。また、小田の原は現在のドンの山付近までを指し、江戸時代、小田の原(ドンの山付近)は一般罪人の処刑場でもありました。




C-159:長崎市立仁田小学校(-にたしょうがっこう)
西小島2-6-15(旧長崎村小島郷字稲荷嶽/似田頭)
明治35年(1902)長崎村小島郷字稲荷嶽と字似田頭のところに仁田尋常小学校が開設。仁田という名称は字名である似田頭から取ったものです。第二次大戦時の昭和16年(1941)には仁田国民学校に改称。昭和22年(1947)新学制により長崎市立仁田小学校となり、現在に至ります。




振遠隊戦士蹟髪碑
(しんえんたいせんし-せきはつひ)【佐古招魂社内】
この振遠隊戦士蹟髪碑は、明治元年(1868)に結成された振遠隊の経緯や奥羽征伐、函館での海戦などことなどや、振遠隊の犠牲者の遺髪を梅香崎招魂社に埋葬したことなどが詳しく刻されていて、文を佐賀有田の儒学者:谷口中秋、文字を中国江蘇省の子琴銭懌によって書かれています。なお、当初は明治12年(1879)に梅香崎招魂社に建立され、その後、佐古招魂社に移設されたものと考えられます。




移葬碑(いそうひ)【佐古招魂社内】
この移葬碑は、梅香崎招魂社及び墳墓地の遺骨をこの佐古招魂社へ移葬した経緯などを記した碑で、明治16年(1883)陸軍歩兵中佐:葛岡信綱ほか7名が建立し、文字を幕末の豪商で書家の小曽根乾堂が記します。
植樹碑(しょくじゅひ)【佐古招魂社内】
明治15年(1882)陸軍省と海軍省の出張員である海軍少佐:田中綱常、海軍大尉:福島行治ほか3名は招魂社の周りに松85株を植樹。植樹碑はその記念のものです。




征臺軍人墓碑(せいたいぐんじんぼひ)【佐古招魂社内】
この征臺軍人墓碑は、明治7年(1874)明治政府が行った台湾への派兵(台湾の役)の経緯や、現地での状況、そして戦後を記した内容が刻され、佐古招魂社の説明文とも言える碑です。碑文を吉備(岡山)の川田剛、文字を貴族議員で明治の三筆といわれる巌谷一六が手がけ、明治8年(1875)に建立されました。
臺湾役戦没碑(たいわんのえき-せんぼつひ)【佐古招魂社内】
この臺湾役戦没碑は、明治7年(1874)明治政府が行った台湾への派兵(台湾の役)の経緯や、現地での状況、そして戦後を記した内容が刻され、佐古招魂社の説明文とも言える碑です。碑文と文字は長崎在住の国学者:池原日南(天保元:1830-明治17:1884・諱は香穉)によるものです(B-178:2005-1/11参照)。




軍人軍屬合葬之碑(ぐんじんぐんぞく-がっそうのひ)【佐古招魂社内】
この軍人軍屬合葬之碑は通称:勅撰碑(チョクセンヒ)というもので、旧稲荷嶽神社があった岩窟の頂点に建立されている佐古招魂社にそびえ立つ花崗岩の大きな石碑です。勅撰とは天皇または皇族の言葉を編纂したもので、編修を貴族院勅撰議員の重野安繹(ヤスツグ)、文字は貴族議員で明治の三筆といわれる巌谷一六によるものです。内容は佐古招魂社の経緯を記した漢文で、建立年月日は記されていませんが碑文から明治15年(1882)頃の建立と考えられます。




C-158:佐古招魂社/佐古墳墓地
(さこしょうこんしゃ/さこふんぼち)
西小島2-6(旧長崎村小島郷字稲荷嶽/似田頭)
明治7年(1874)明治政府が始めて行った台湾への派兵で、長崎からは西郷従道(西郷隆盛の弟)率いる約4500人が台湾に向かいます。しかし現地の熱帯環境で病死者が多数発生。300人以上が長崎に送還されます。当時、旧大徳寺庫裏(旧大徳園)のところには長崎医学校の一室が置かれていましたが、搬送者が多数となり蕃地事務支局管轄の病院とし収容することになります。しかし死者が多数となり病院の横に招魂場(梅香崎墳墓地)を設け552名の霊を埋葬します。そして明治8年(1875)梅香崎招魂社において政府主催による招魂祭が挙行されます。
明治10年(1877)西南戦争が勃発。長崎医学校には多くの傷病者が運び込まれ、犠牲者は梅香崎墳墓地に葬ります。しかし死者の増加で墳墓地が手狭となり、稲荷嶽に新たな墳墓地を建設し671名が葬られます。これが佐古墳墓地といわれるものです。
明治12年(1879)旧大徳寺庫裏(旧大徳園)にあった長崎医学校の拡張工事計画によって、計画地に当たる梅香崎墳墓地の一部が政府によって佐古墳墓地に移葬され、台湾の役および西南戦争の戦死者も葬られることになります(※2006-1/1参照)。
明治14年(1881)台湾の役および西南戦争の戦死者が佐古梅香崎の両墳墓地に葬られていることから合葬することになり、佐古墳墓地が再整備することになります。工事は太政官通達によって進められ、稲荷嶽山頂の稲荷嶽神社を北側に移設し岩窟を切り拓き、墳墓地と軍人軍属合葬碑を建て明治16年(1883)8月に完成となります。同年10月。勅祭(天皇命の祭典)が行われることになり、このとき整備した道が勅使坂です。
大正7年(1918)東京の靖国神社に合祀中の長崎県在籍者で、県内の招魂社に祀られていない1242柱を佐古招魂社に合祀。さらには昭和17年(1942)梅香崎招魂社佐古招魂社に合祀(御霊を長崎県護国神社として祀る)。昭和37年(1962)梅香崎墳墓地佐古墳墓地に移葬。現在に至ります。C-143:2005-12/28参照




C-157:稲田町(いなだまち)/中新町(なかしんまち)
江戸時代、この付近一帯は長崎村小島郷に属し稲荷岳のふもとに広がる畑地でした。当時、この付近の字名には稲荷岳、田ノ浦、中之平、日田尾、切通、似田頭などがあり、大正2年(1913)町名変更によって「稲荷岳+田ノ浦」から稲田町。中之平から新しく開いた町ということで中新町とつけられます。




C-156:長崎初の気象観測の地【稲荷嶽神社】
西小島2-2(旧長崎村小島郷字稲荷嶽)
明治4年(1871)オランダ人ゲーツ(ケールフ)は小島郷稲荷嶽に観測所を設け気象観測を始めます。これが長崎における初の気象観測で、その後、明治11年(1878)改めて十善寺郷中ノ平(ドンの山中腹)に測候所が置かれ、これが長崎海洋気象台の前身である長崎測候所となります。




稲荷岳神社孝行者【稲荷岳神社】
稲荷岳神社は代々、別木家がお世話していましたが、別木家はもともとは瀬の脇(現 飽の浦町)にある恵美須神社の神主:柳木内膳の門弟で、江戸時代中期の享保18年(1733)頃に柳木氏に伴われて長崎入りします。別記家は周防(大分)出身で、明治初期まで稲荷岳神社に奉仕します。
天明4年(1784)冬、当時、稲荷岳神社に奉仕していた別記宇三郎は、大変貧しかったけれでも年老いた母の面倒を一心に尽くしていたため、付近の者はこの宇三郎のことを孝行者と呼んでいました。このことはすぐに、当時の第67代長崎奉行戸田出雲守の耳に入り宇三郎は長崎奉行所に召し出されることになります。そして奉行は日頃の行いに感激し銭5貫文の褒美を与えたということです。




C-155:稲荷岳神社(いなりだけ-じんじゃ)
西小島2-2(旧長崎村小島郷字稲荷嶽)
いつの頃か、十善寺郷字松山の地(現 館内町付近)に稲荷神がお祀りされていましたが、元禄元年(1688)唐人屋敷建設のため稲荷社を背後にある狐岳(キツネダケ)山頂に移転となります。当時、狐岳から連なる大徳寺付近までの一帯(現在の仁田小から佐古小付近)は、狐岳の名前の通り稲荷神の遣いである狐が数多く棲んでいたといわれています。移転後、稲荷神は山頂にある岩穴に祀られ、狐岳から稲荷岳と呼ばれるようになります。明治12年(1879)佐古招魂社の建設のため現在地に移転。稲荷神がお祀りされていた岩穴は姿を消します。現在では西小島地区の鎮守として親しまれています。




旧梅月楼門扉(きゅう-ばいげつろう-もんぴ)【佐古小学校】
梅月楼は明治期から始まり昭和33年(1958)まで続いた貸座敷で、寄合町の玉泉神社の北隣にありました。経営者の中熊富蔵は大阪より来崎し、漬物屋、うどん屋、石炭商を経て貸座敷業を始め、昭和8年(1933)からは市会議員、県議会議員を務めていました。
佐古小学校の西門は、梅月楼の廃業時に移設されたもので、左右に分かれた「」「」と入った梅鉢紋をかたどったプレートは、梅月楼の屋号()にちなむものです。C-118:2005-11/29参照




講和記念碑(こうわきねんひ)【佐古小学校】
ここでいう講和とは、第二次世界大戦の戦争状態を終結するために調印した条約のことで、昭和26年(1951)に日本と連合国との間で調印した「日本国との平和条約」を意味し、日本国が主権を取り戻した条約でもあります。また、アメリカのサンフランシスコで行われたため、地名をとってサンフランシスコ講和条約ともいいます。
この佐古小学校にある講和記念碑は昭和26年(1951)に、当時、佐古地区(丸山町)に在住していた長崎市議会議員の折式田竹男によって建立されました。




C-154:養生所址の碑(ようじょうしょ-あとのひ)【佐古小学校】
現在の長崎大学医学部の前身である長崎医科大学の学長:林郁彦は、昭和5年(1930)西洋医学教育の発祥を記念するために自費を投じて、「ポンペ像」と「松本良順像」などと「養生所由緒書」の銅版のプレート5枚を養生所があった佐古小学校に建立するのですが、第二次大戦後に銅版の1枚が盗難に遭い失われてしまいます。そのため残りを旧大徳寺にあった長崎県黴毒(梅毒)病院(C-144:2005-12/30)の院長:福田千代太が保管することになります。
昭和32年(1957)長崎大学医学部の創立100周年を記念するため、西洋医学教育発祥百年記念会が立ち上げられ、改めて養生所址の碑の再整備を行うことになります。各プレートは福田千代太から譲り受け、佐古小学校に「養生所址」、長崎大学医学部構内に「ポンペ像」をそれぞれ設置し、残りの「松本良順像」と「養生所由緒書」は医学部図書館に保管することになります。
なお、佐古小学校にある養生所址の碑には次のように刻されています。
碑文「養生所址 郁彦
蘭医ポンペ先生は日本最初の様式病院をこの地に設立した
一九五七年秋 西洋医学教育発祥百年記念會




C-153:長崎市立佐古小学校(-さこしょうがっこう)
西小島1-7,8(旧長崎村小島郷字佐古)【佐古小学校】
明治25年(1892)長崎病院と医学場が浦上に移転すると校舎はしばらく空き家となります。そして、明治38年(1905)旧校舎を利用して佐古尋常小学校が開校します。大正時代には1400人を超える児童数を誇っていました。第二次大戦時の昭和16年(1941)には佐古国民学校に改称。昭和18年(1943)には佐古女子青年学校を併設(翌年、統廃合によって廃止)。昭和22年(1947)新学制により長崎市立佐古小学校となり、現在に至ります。現在では約120名の児童数となっています。なお、佐古小学校の校歌には「医学部ゆかりの地」という文言が入れられていますが、これは史実に基づいたものです。
※筆者の母校でもあります。2006年は100周年。




C-152:長崎医学校跡/長崎病院跡
(ながさきいがっこう-あと/ながさきびょういん-あと)
明治4年(1871)長崎県病院医学校は長崎医学校と改称。明治5年(1872)には第六大学区医学校、明治6年(1873)には第五大学区医学校、明治7年(1874)には長崎医学校と行政の区割りや管轄の変更のたびに名称を変更されます。明治7年(1874)には台湾の役の影響で、病院部を公兵員病院とし学校部を廃止し(学生は東京医学校へ転学)、その後、施設は蕃地事務支局病院となり(蕃地とは台湾の地名)、明治8年(1875)台湾の役終結後に長崎病院となります。明治9年(1876)再び医学場を新設し学校を再開。その後も度々改変され、明治25年(1892)西彼杵郡浦上山里村(現 坂本)に移転となり、以降、歴史は現在の長崎大学医学部へとつながります。なお、長崎病院で明治18年(1885)に行われた囚人の死体解剖実験は日本における解剖学研究を大きく前進させるものになりました。




C-151:長崎府医学校跡/長崎県病院医学校跡
(ながさきふいがっこう-あと/-けんびょういんいがっこう-あと)
明治元年(1868)九州鎮撫総総督となった澤宣嘉は、長崎裁判所判事の井上聞多の助言によって精得館の改革に乗り出します。学頭だった長与専斎とマンスフェルト(ボードウィンの後任)による大学教育制度案を基に改革が行われ、精得館は長崎府医学校と改称されます。さらに長崎府が県となったため名称も明治2年(1869)長崎県病院医学校と改称されます。




C-150:分析究理所跡(ぶんせき-きゅうりしょ-あと)【佐古小学校グランド】
元治元年(1864)ボードウィン(ポンペの後任)の要請で養生所の下(現 佐古小グランド)に、分析究理所という物理化学の教育場を設立。教授にハラタマを当て、自然科学教育と病院の調剤を教えます。このハラタマは後に江戸に向かい、江戸の開成所の教授となり、明治元年(1868)大阪舎密局の教頭となります。ハラタマの活躍はその後の日本の化学発展に大きく貢献します。




C-149:小島養生所跡/精得館跡
(こしまようじょうしょ-あと/せいとくかん-あと)
西小島1-7,8(旧長崎村小島郷字佐古)【佐古小学校】
安政4年(1857)海軍伝習所が行った第二次海軍伝習の際、長崎奉行所西役所内(現 県庁)に医学伝習所が開設され(A−50:2003-6/30)、このとき軍医ポンペが教授を務めます。その後、場所が手狭のため大村町の旧町年寄高島家本邸に移るも、安政5年(1858)に起こったコレラ大流行の診療の不便さや西洋医学を広く市民に広める目的で、ポンペは松本良順や第112代長崎奉行岡部駿河守長常に要請し、代官高木作右衛門の協力によって万延元年(1860)養生所(病院)建設となります。翌文久元年(1861)には小島郷稲荷嶽(現 佐古小学校講堂)に純ヨーロッパ風の建物の小島養生所が開設され、その下に(現 佐古小グランド)医学校が作られました。当初、純ヨーロッパ風の建物に市民は近寄る者少なく、外国船船員の通院の様子を見て市民も次第に診療や、定期の種痘を行うようになったといいます。慶応元年(1865)第116代長崎奉行服部長門守常純は小島養生所精得館と改称し明治維新を迎えます。なお、養生所医学校には日本とオランダの国旗が並んで翻っていました。




C-148:永井荷風故縁の地【大徳寺公園】
永井荷風(明治12:1879-昭和34:1959)は東京出身の小説家でフランス文学者でもあり、明治35年(1902)の処女作「野心」を皮切りに多くの作品を発表。昭和27年(1952)には文化勲章を受章しています。明治44年(1911)荷風32才のとき長崎を訪問。明治末期の長崎の様子を取材し、大正3年(1914)に発表した「日和下駄」の中に長崎のことを綴っています。その中で荷風は、大徳寺から見た港の風景から長崎を「円型劇場(アンフィ・テアトル)」のようだと記し、国際港ならでは人々のドラマが繰り広げられていると表現します。しかし、現在、建物の乱立で荷風が見た港を眺めることが出来ません。




C-147:梅香崎神社の碑(うめがさきじんじゃのひ)
籠町8-43付近(旧本籠町)
梅香崎神社の碑は籠町通りに面し梅香崎神社の一の鳥居のそばに建っているもので、江戸時代は大徳寺の入口でもありました。碑文は長崎学の祖でもある古賀十二郎先生によって書かれたもので、大徳寺の創建から明治に至るまでの歴史を紹介しています。昭和3年(1928)建立。正面文字は古賀十二郎先生直筆です。
碑文「旧大徳寺遺跡 梅香崎神社




C-146:梅が枝焼餅(うめがえ-やきもち)
西小島1-1-7(旧長崎村小島郷)【老舗菊水 大徳寺】
明治維新後、旧大徳寺に建てられた大楠神社、梅が崎招魂社の境内地に、明治20年(1887)梅が枝焼餅屋(菊水、平山家、吉村家)3軒が創業し、招魂社の参拝者や隣地にある花街丸山の登楼客や芸者衆などで賑わい、長崎港などの眺望も良かったので長崎の名物の一つに数えられるほどでした。時代が第二次大戦に入ると衰退し、昭和20年(1945)平山家廃業。第二次大戦後の昭和46年(1971)吉村家も廃業します。現在は「老舗菊水 大徳寺」のみが営業しています。また、「老舗菊水 大徳寺」の屋号は大楠神社にお祀りしてある楠正成(菊水紋)に由来します。
梅が枝餅ではなく梅が枝焼餅です。1人前4個600円




C-145:大徳園跡(だいとくえん-あと)
西小島1(旧長崎村小島郷)
江戸時代末期から明治初年にかけて、大徳寺の庫裏のあったところには、アメリカの宣教師:ヘンリー・スタウトフルベッキ、フランス領事のレオン・ジュリーなどが仮寓していましたが、その後、長崎県黴毒(梅毒)病院となったり、梅香崎招魂社の一部として利用されていました。招魂社が整備されると長崎医学校の分院がおかれ、明治25年(1892)に医学校が浦上に移転すると空地となり荒廃してしまいます。大正3,4年(1914-5)頃、公売され油屋町の豪商:橋本辰二郎(B-193:2005-1/26)の所有となり、橋本はこの土地を公園化し橋本大徳園として市に寄贈します。昭和初期、城谷勝二の所有となり、第二次大戦時中は放置され荒廃。料亭米春の寺田實(B-176:2005-1/9)の所有になって昭和30年(1955)頃から分割売却され現在に至ります。なお、今も大徳園時代の門柱は残っており、柱に銅版の「大徳園」「はしもと」という文字を見ることができます。




梅香崎軍人遺骨処分問題A
遺骨の不当処理というのは、施工にあたった安場実道は人々に信頼され優秀な仕事をしていたと評価されていた人物でしたが、遺骨移設に際し、あまりの遺骨の多さに驚き、作業中、遺骨の一部を中国人に売却したり、わらに包んで戸町の金鍔谷の埋立て処分場に投棄したというものでした。この事件で工事はストップ。政府の命令で病院を解体して遺骨調査をすることになります。実際、病院の一部が解体され再発掘となり、投棄が行われた金鍔谷の処分場も一つ一つの土砂が篩(フルイ)にかけられ、完全に遺骨を収容して佐古招魂社に改葬となります。この事件で安場は懲役1年の罪に処せられ、そのほかの関係者も懲役や懲戒免職、当時の県令:内海忠勝は兵庫県令に移転(左遷)させられます。




梅香崎軍人遺骨処分問題@
明治13年(1880)旧大徳寺の庫裏のところに長崎医学校分院が造られますが、この建設に際し工事関係者による不当な工事が発覚。梅香崎軍人遺骨処分問題(遺骨事件)と呼ばれます。
当時、長崎医学校は台湾の役で負傷した戦病者への対応が評価され、一般市民からの入院が急増していました。そこで県は病院の拡張を計画。長崎県土木課は当時、日見峠の開削工事に尽力した同課の安場実道によって設計施行を行います。計画によると建設地は梅香崎招魂社に隣接地で、一部、墓碑を移設しなければなりませんでした。そこで県は早速、政府に移転許可をもらい墓碑と遺骨を佐古招魂社に移動させ工事を進めます。そして完成を間近にしたある日、遺骨の不当処理が明らかになるのです。




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