広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成18年 〜2006年〜
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C-201:新地警察署/梅香崎警察署跡
新地町/梅香崎町6-5(旧 新地/梅ヶ崎町)
江戸時代末期に長崎を警護する目的で結成された遊撃隊(のち振遠隊)は、明治5年(1872)兵制が整ったため解散され邏卒(ラソツ=巡査)制度となり、羅卒屯集所を外浦町、西濱町鐡橋際、下り松町に置きます。明治7年(1874)に本署として長崎警察局を本大工町(現 魚の町の一部)に設置し、分室を八百屋町と新地町に置きます。明治8年(1875)長崎警察局は外浦町に移転。八百屋町の屯所は第一警察出張所となり、新地屯所を第二警察出張所とします。明治11年(1878)新地分署、明治12年(1879)新地警察署となり、明治17年(1884)梅ヶ崎町(現 出島トンネル付近)に移転、梅香崎警察署となります。昭和15年(1940)旧香港上海銀行長崎支店社屋に移転、昭和29年(1954)大浦警察署と改称。昭和49年(1974)松が枝町に移転し現在に至ります。A-19:2003/05/22 D-110:2007-5/5参照




C-200:梅香崎橋(うめがさき-ばし)
慶応3年(1867)第123代長崎奉行能勢大隅守頼之は出島から波の平にかけて、外国人のための遊歩道を計画。炉粕町の伊太郎に請負わせ工事を始めます。しかし明治維新によって工事は頓挫し、工事は明治政府に引き継がれることになります。そして明治2年(1869)新地-梅ヶ崎町間(現 ホテルミナトパーク長崎角から大久保病院角)に木造の梅香崎橋が完成します。これにより出島〜築町(現 十八銀行本店)〜新地〜梅が崎のルートが誕生し、今でいう臨港道路の完成です。その後、出島海岸の埋立てが進み、さらには昭和13年(1938)の湊公園の造成によって、梅香崎橋はその役割を終えます。




C-199:近代塗装伝来之碑
(きんだいとそう-でんらい-のひ)【湊公園内】
この近代塗装伝来之碑は昭和55年(1980)社団法人日本塗装工業会九州支部連合会によって建立されたものです。
碑文「わが国における本格的なペイント塗装は幕末より明治初年にかけて導入された洋風建築にはじまっているが、長崎出島のオランダ屋敷では十八世紀中頃すでに一部の建物にペイント塗装が行なわれていた。ここに我国近代塗装伝来を記念して由緒深い長崎の地にこの碑を建立する




C-198:湊公園(みなとこうえん)
新地町7
江戸時代、湊公園のある場所は唐人船の停泊場所で、幕末期に居留地造成のため新地蔵所や梅ヶ崎の周りを埋立した際でも船溜りとして残っていました。そして昭和の初めまでは郊外の船が出師橋(市民病院前付近)の下を潜(クグ)って多く参集していましたが、昭和13年(1938)の埋立工事で姿を消し公園となります。その後、第二次大戦後は不法建物(バラック)が立ち並ぶ場所となりますが昭和32年(1957)に撤去され、ようやく市民に開放されます。平成2年(1990)長崎旅博覧会を期に中華風の公園に改装され、孔子廟の門でもある欞星門(レイセイモン)が置かれ、さらには、近年、賑やかに開催されている旧正月の行事:長崎ランタンフェスティバルではメイン会場としても利用されています。




D-41:扇橋(おおぎばし)
出島町-銅座町間( -旧築町)
扇橋は昭和30年(1955)の銅座川付替工事によって分断された出島地区と十八銀行本店との間に架けられた橋で、十八銀行本店へ向かうためだけの橋です。そのため一般の通行は出来ません。橋の由来は定かではありませんが、近くにある出島が扇形をしていたところから、その名が付いたものと考えられます。平成6年(1994)再架橋。C-197:2006-3-26




C-196:オランダ橋
新地町-銅座町間(旧 新地-西浜町間)
明治37年(1904)第2期港湾改良工事が完成し、現在の茂里町付近から元船町、出島岸壁、市民病院前に至る広範囲の地域が埋立てにより誕生し、そのため銅座川は思案橋方向から新地と銅座の間を流れ、築町電停付近で直角に折れ、市民病院の前で長崎港に流れ出していました。昭和30年(1955)の銅座川付替工事では銅座川が出島付近で中島川につながるようになると、それまで銅座川だったところ(築町電停〜市民病院前間)は道路となり電車が走るようになり、オランダ橋が誕生します。




C-195:本川口橋/新大橋
(もとかわぐちばし/しんおおはし)
新地町-銅座町間(旧 新地-西浜町間)
江戸時代、新地蔵所と橋によって結ばれていた場所は本籠町側と西浜町(現 銅座町)側の2ヶ所でしたが、明治維新を受け新地蔵所が廃され外国人居留地になった後、利便性を考え築町側に橋が設けられます。それは現在のワシントンホテル角から十八銀行本店へ渡すもので、明治2年(1889)に木造の橋:新大橋が架橋されます。
 一方、明治34年(1901)の地図を見ると同じ新地から西浜町(ワシントンホテル角から商工中金角)にがあり、おそらく橋は架け替えられたものと考えられます。そしてその新しい橋は銅座川の河口部に位置することから川口橋となり、その後、長崎港が次第に埋立てられ銅座川の河口が市民病院付近に移ると川口橋が河口ではなくなってしまいます。昭和45年(1970)の銅座川改良工事で川口橋は架け替えられ、このとき名称も本来の河口と意味から本川口橋と改称されます。




C-194:長崎新地中華門(ながさきしんち-ちゅうかもん)
新地町(旧 新地)
昭和61年(1986)長崎新地中華門が長崎新地中華街商店街振興組合によって新地中華街の東西南北の各入口4ヶ所に建てられます。材料は中国福建省福州から持ち込まれたもので、職工なども招き入れ長崎で建築されました。そして門の額は昭和60年(1985)に来崎した中国国家副主席で中日友好協会名誉会長だった王震(オウシン:1908:明治41〜1993:平成5)によって揮毫されたもので「長崎新地中華街 王震 一九八五年」と書かれています。なお、新地中華街は昭和60年(1985)に中華街全域を石畳化し中華街の顕著化が進められました。




C-193:新地橋(しんちばし)
新地町-銅座町間(旧 新地-西浜町間)
新地橋は元禄15年(1702)に新地蔵所が造られた際、西浜町(現 銅座町)とを結ぶために造られた石橋で、おそらく当初は橋名はなかったものと考えられます。明治維新を受け新地蔵所が廃され外国人居留地になり、石橋はその後、鉄筋コンクリート橋へと変わります。昭和63年(1988)中国風の装飾を施し中華街の門前橋として生まれ変わります。




C-192:銅座橋(どうざばし)
新地町-銅座町間(旧 新地-銅座間)
銅座橋という橋はもともと江戸時代に架けられた船大工町と銅座を結ぶ石橋で、大正4年(1915)に鉄筋コンクリートの橋に架け替えられたとき大正橋と改称されます(現在の銅座市場西端)。その後、新地と観光通りとを結ぶ道路が計画され、昭和11年(1936)新地と銅座を結ぶ橋が完成。銅座橋と命名されます。翌12年(1937)新地と観光通りを結ぶ道路が完成し現在のバス通りが誕生します。昭和44年(1969)長崎国体にあわせ銅座川の整備が行われ銅座橋は架け替えられ、さらに平成6年(1994)改修。このとき銅座橋ということで分銅や長崎の紙鳶(ハタ)の装飾が行われます。




C-191:新地築き増し工事
籠町4,3
明治維新を受け、明治元年(1868)新地蔵所が外国人居留地となると海に囲まれる必要もなくなるため、日浦海岸と新地蔵所間(現 JALシティー側)の築き増し工事を行い陸続きとします。そして埋立地にはレンガ造りの蔵が建てられ貿易商の倉庫となり、当時、これらの蔵は俗に十軒蔵と呼んでいました。しかし昭和40年代から50年代にかけて次第に取り壊され蔵は姿を消します。




新地蔵所への荷揚げ
中国船(唐船)は長崎港内に入ると梅ヶ崎沖(港公園〜市民病院付近)に停泊することになっていて、入港に際し長崎奉行は検使や唐人番、唐通事など数十人が唐船に向かわせ、乗組員の数や出港地などを調べます。そして踏絵をさせ、積荷の種類、数量を調査して新地蔵所に陸揚げさせ(これを丸荷役といいます)、検査が終了し初めて乗組員らは唐人屋敷に入ることが出来ます(収容されます)。その後、唐船は検使によって船内の要所を封印し、綱などは宿町(2006-2/23参照)に預けさせ、その上、唐船の舵(カジ)は広馬場前の海中に汐とめし(沈めて)、船体は梅ヶ崎の海岸に碇泊させ厳重に管理します。碇泊は梅ヶ崎の崖下に設置されていた数本の石柱(纜石:2003-5/20)につなぎ止められいましたが、現在、その石柱の残りが清水寺本堂前、旧大徳寺(梅香崎神社)、金比羅神社などの石灯篭の棹石(サオイシ)として残っています。




C-190:新地蔵所跡(しんち-くらしょ-あと)
新地町8〜13(旧 新地)【長崎新地中華街】
元禄11年(1698)4月、後興善町(ウシロコウゼン-マチ)より火災が発生、炎は22ヶ町、人家2044戸、土蔵33棟を包み、本蓮寺や中国船の積荷を納めた五島町方面の土蔵33棟を全焼し、被害は中国船20隻分、貨物代金3377貫目に及んだといわれています。そのため長崎奉行所は中国船の荷物を火災から守るために西浜町の先にを造ることを計画。元禄12年(1699)から工事が進められ、総工費:銀440貫目(うち200貫目は幕府が貸与)をかけ、元禄15年(1702)に新地蔵所が誕生します。新地の総面積は3500坪(約11550平方メートル)、東西70間(約127メートル)、南北50間(約91メートル)の長方形で、12棟の土蔵が建てられました。周囲は塀で囲まれ、東西南北に門を設置し、西浜町側を正門とします。ここは唐人屋敷の付属施設で、中国からの輸入品を一時保管するために設けられたもので、唐人はここを貨庫と呼びました。新地蔵所は明治元年(1868)外国人居留地となり、周りが次第に埋め立てられるようになります。そして明治維新で廃された唐人屋敷に住む唐人らが移り住むようになり、現在のような中華街の形成へとつながります。




C-189:日浦海岸/日浦地蔵(ひうらかいがん/ひうらじぞう)
籠町2-58(旧本籠町)
湊公園から銅座橋に向かうバス通りの裏手(籠町寄り)に1本の細い道があります。バス通りに比べ曲線的のこの道は、江戸時代の海岸線でした。位置的には本籠町(現 籠町)の裏手にあたり、日浦海岸と呼ばれていました。また、籠町公園横には日浦地蔵があり付近の人々に親しまれています。




三上油屋(みかみ-あぶらや)
梅香崎町1-10(旧梅ヶ崎町)
三上油屋の建物は明治初期に建てられた典型的な長崎の商家の建物で、近年、出島阿蘭陀商館復元工事が進められていますが、三上油屋の建物は復元に関し構造など貴重な資料として役立たされました。
荒木紙屋(あらき-かみや)
梅香崎町1-20(旧梅ヶ崎町)
三上油屋の建物は明治初期に建てられた典型的な長崎の商家の建物で、幕末から明治の初め、荒木紙屋は一時、ロシアの両替商として使用されていました。




C-188:気球初飛行の地
梅香崎町2(旧梅ヶ崎町)
文化元年(1804)に来航したロシア使節レザノフは、しばらくの間、梅ヶ崎御米蔵内に設けられた仮館に滞在し、幕府からの通商開始の知らせを待っていました。そのような中、文化2年(1805)1月、ロシア人は敷地内で風船(気球)を揚げたと江戸時代後期、松浦東渓(2006-3/7参照)によって書かれた長崎古今集覧名勝図絵「魯西亜使節風船を揚ぐるを見るの図(その二、その三)」に記されています。これは日本における気球初飛行の地といわれています。
※現在、初飛行地の碑がどういう訳か別のところに建っています。




C-187:ロシア人初上陸の地
梅香崎町2(旧梅ヶ崎町)
寛政4年(1792)ロシアのラックスマンは蝦夷地(北海道)根室に来航。そして翌年、松前に進み開港を要求します。しかし長崎に向かうよう信牌を発行し開港をあきらめさせます。
文化元年(1804)9月ロシア皇帝の特使レザノフが長崎港に来航。彼らは日本人漂流者の引渡しと通商を目的として来航します(乗組員81名+日本人漂流者4名)。長崎奉行所は直ちに幕府に遣いを出し、あわせて近隣諸国に警備を要請。大村藩、黒田藩、鍋島藩の兵が警備に当たります。時間の引き延ばしを受けるロシア側は、保養や船の修繕のため一時上陸を要求。奉行は木鉢郷の土地300坪を選定し竹矢来で囲み、日中に限り上陸を認め、さらには梅ヶ崎の御米蔵内に仮館を設け一時滞在を認めます。そうして約1年3ヶ月後の文化2年(1805)3月。目付方の遠山金四郎と長崎奉行:成瀬因幡守、肥田豊後守の3人とレザノフは立山役所で引見し、通商の拒絶と出航を促します。そして滞在にかかる経費は幕府が持ち、さらには食料品などを供給し出航させ、ようやくこの事件は解決を迎えます。




C-186:南瀬崎御米蔵跡(みなみせざき-おこめぐら-あと)
梅香崎町2(旧梅ヶ崎町)
江戸時代初め、長崎では米作が行われなかったため、そのほとんどが海路(回漕)によって天草から持ち込まれ、その管理を行うため延宝元年(1673)天草代官は小島郷に米蔵と詰所を建設します。享保5年(1720)天草から長崎に移管され享保9年(1724)南瀬崎御米蔵となり、米の回漕も九州各地からとなります。当時、南瀬崎と北瀬崎の米蔵には年間、豊後米1万石、天草米6〜8000石、肥前米800石の米が持ち込まれていたといい、使い道として寛保元年(1741)からは5000石を備蓄米、5000石を支出用、8000石を役人給与、残りは備蓄とし、備蓄米は毎年新米に代えていました。




C-185:南瀬崎北瀬崎(みなみせざき-きたせざき)
梅香崎町2(旧梅ヶ崎町)
江戸時代初めの長崎港は、南は梅ヶ崎(市民病院裏)から始まり、北は西坂(NHK長崎放送局付近)までの岬で囲まれた範囲でした。そして瀬崎とは岬の近くの海岸という意味を持つため、梅ヶ崎近くの海岸を南瀬崎、西坂の海岸を北瀬崎と呼んでいました。ちなみに南瀬崎は市民病院裏から広馬場付近までを指し、北瀬崎はNHK長崎放送局から県営バスターミナル付近を指します。




C-184:ユダヤ教会堂跡(ゆだや-きょうかおどう-あと)
梅香崎町2-20(旧梅ヶ崎町)
元治元年(1884)ルーマニア出身でオーストリアに籍を持つジークムント・D・レスナーは両親と共に25才のとき来崎。梅ヶ崎(現 籠町5-20付近)に食料雑貨商を構えます。レスナーの父:リオはユダヤ教指導者で長崎におけるユダヤ人の有力者でした。そのためレスナーは明治25年(1892)に坂本国際墓地にユダヤ人墓地を、明治28年(1895)に梅ヶ崎町にユダヤ教会堂建設し、在留ユダヤ人の婚礼、葬式など一切の行事が行われることになります。しかし大正9年(1920)レスナーは急死し(墓所:坂本外国人墓地)、さらには第一次大戦で敵国だったオーストリアに籍を持っていたこともあり残された財産は接収され、教会堂なども処分されます。
※当時のことを知る恩師:高田泰雄先生によると、この教会では毎週日曜は必ず礼拝の日があって、2尺以上(約70p)もある大ローソクを祭壇や堂内にともし、賛美歌を歌い祈りを捧げ、「どうして神キリストは我々に国を持たせないのか」と泣くのが決まりであったということです。




C-183:天本愛命堂みのり園(あまもとあいめいどう・みのりえん)
十人町1(長崎村十善寺郷字十人町)
明治39年(1906)銅座町在住の天本愛儀は、恵まれない子供たちのために自らの手で長崎保育授産所を設立し、子供たちへの保護と教育を施します。さらに教育を受けた子供達に対し就職先として自らの経営する天本愛命堂(明治18:1885創業)に従事させるなど子供たちへの社会参加に尽力します。一方、そうした施設の経営などはすべて自らの事業によってまかなわれ、寄付などは一切受けませんでした。明治44年(1911)長崎育児院と改称。現在は、みのり園など福祉事業が中心となっています。




C-182:梅香崎町/常盤町(うめがさきまち/ときわまち)
江戸時代、ドンの山から海星学園に続く高台は活水学園の所で海に突き出した岬で常盤崎と呼ばれ、この岬が大村藩領と天領を分ける境界をなしていました。延宝8年(1680)荒木伝兵衛という者が奉行所の許しを得、海岸を埋立て別荘と土蔵を設けると、領土が拡がったということもあり当時の奉行、第23代長崎奉行牛込忠左衛門勝登は喜び、ちょうど遠見番所に天満宮をお祀りしていたことから、天満宮の梅の紋から梅ヶ崎と命名します(一説には埋立地ということで付けられたともいわれています)。万延元年(1860)外国人居留地造成のため海岸線が埋め立てられ、文久3年(1863)常盤町梅ヶ崎町が生まれます。昭和48年(1973)町界変更によって一部区域が整理され、梅ヶ崎町梅香崎町に改称されます。




C-181:十人町/楳香崎天満宮(じゅうにんまち/うめがさき-てんまんぐう)
十人町1(長崎村十善寺郷字十人町)
@万治2年(1659)梅香崎の地に遠見番が置かれると、番所の鎮守神として寛文年間(1661-73)第23代長崎奉行牛込忠左衛門勝登(カツナリ)によって天満宮がお祀りされ、天満宮(天神)ということで遠見番がある一帯を天神山と称するようになります。
A寛永年間(1624-44)天神像を携えた筑前出身者が来崎し、その後、遠見番所に採用され、万治年間(1658-61)に番所の上手に天満宮を設け、これが十人町天満宮の創建となります。
 こうして@またはAの理由で遠見番所に天満宮が置かれる訳ですが、江戸時代初期、伊勢町にあった大徳寺は、宝永元年(1704)に梅ヶ崎に移転。奉行の命で遠見番所上手にあった天満宮も大徳寺がお祀りすることになります。宝永5年(1708)大徳寺が小島郷(現 大徳寺公園)に移転すると、天満宮も享保2年(1717)に遅れて移転し大徳寺と共に発展します。しかし明治維新後は大徳寺が廃され、天満宮は単体として残り現在に至ります。
 一方、遠見番所にあった天満宮は享保2年(1717)に小島郷に移転しますが、移転後も分霊が残され、以降、十人町の鎮守神としてお祀りされ、梅香崎から楳香崎天満宮として今に至ります。C-140:2005-12/26参照




小林一茶寄寓の地(こばやしいっさ-きぐうのち)
十人町(長崎村十善寺郷字十人町)
小林一茶(宝暦13:1763-文政10:1827)は信濃国(長野県)出身の江戸時代中期の俳人で、長崎へは30才の時から始めた西日本歴訪の際に訪れています。寛政5年(1793)に来崎したときは十善寺郷に滞在したと伝えられ、おそらく唐人番の屋敷が当てられ、池辺家もその中の一つと考えられています。長崎で詠まれたものは次の句です。「君が代や 唐人も来て 冬ごもり




○唐人番:松浦東渓墓所(-まつうらとうけい-ぼしょ)
稲田町(長崎村十善寺郷)【小田の原墓地】
松浦東渓(宝暦2:1752-文政3:1820)は名を陶、字を君平、通称を惠八(文平)、諱を正之、号を東渓といい、団喜八郎の子として生まれ、小野安右衛門の養子となり、その後、唐人番だった松浦笹右衛門の後を継ぎます。若くして詩文を行い、正覚寺の第7代住持:寂淵につき儒学を学び、吉村迂斎(A-68:2003-07/20)と共に古詩(こし:自由な形式の中国の古典詩の一種)などの研究をすすめ、特に詩韻に長けていました。天明6年(1786)唐人番本役となり寛政元年(1789)まで勤めた後、長崎古今集覧や外国集覧、唐和蘭商法などを著します。




○唐人番:池辺家墓所
稲田町(長崎村十善寺郷)【小田の原墓地】
元禄2年(1689)唐人屋敷が完成。唐人屋敷は長崎奉行所の支配下でしたが管理は町年寄が行い、実際、接触するのは乙名、唐人番、唐通事で、唐人番は主に警戒取締りや唐人外出時の護衛などに当たっていました。その唐人番を元禄11年(1698)から池辺家は代々勤め、特に幕末期の第8代池辺龍右衛門(諱:庸清/字:隆周/号:蓮谿・星州)は南画に長け、春徳寺の僧で崎陽三画人(三筆)といわれた鐡翁に師事します。




C-180:十人町(じゅうにんまち)
梅香崎遠見番所の周辺には番所役人宅も置かれていて、その番所役人10人の屋敷が立ち並んでいました。それが後に十人町という地名となり、江戸時代は長崎村十善寺郷字十人町となります。その後、明治22年(1889)長崎村が長崎市となると長崎市十善寺郷字十人町となり、大正2年(1913)郷名が廃止されると長崎市十人町となります。昭和48年(1973)町界町名変更によって現在に至ります。




C-179:梅香崎遠見番所跡(うめがさき-とおみばんしょ-あと)
十人町1〜5,6(長崎村十善寺郷字十人町)
遠見番は外国船来航をいち早く発見のために設けられた番所で、寛永15年(1638)に松平信綱によって野母の権現山に置かれたのが最初となります。その後、万治2年(1659)梅香崎、小瀬戸、玉園町の観善寺境内にも置かれ、権現山の番所で外国船を発見すると番所の水主によって長崎奉行所に報告することになっていましたが、後に時間短縮のため各番所間で鏡などを使った合図が決められ、小瀬戸→梅香崎→観善寺→長崎奉行所という流れで報告されていました。なお、観善寺番所は元禄元年(1688)永昌寺に移転し永昌寺番所となります。D-231:2007-10/11参照




C-178:ピエール・ロチ寓居の地
十人町8-1(長崎村十善寺郷字十人町)
ピエール・ロチ(1850:嘉永3年-1923:大正12年)はフランス出身の小説家で士官学校卒業後、海軍士官となり生涯を海軍として過ごし、また、海軍として海外を歴訪しながら多くの知識を得、多くの異国趣味小説を発表します。明治18年(1885)長崎に来航。十人町の民家に仮寓し、お菊という女性と結婚。明治20年(1887)自らの結婚生活を描いた「マダム・クリザンテーム(お菊さん):明治20:1887発表」を発表します。しかし日本人をけなした文章で冒頭に「この人間たちはいかに醜く卑しく怪異(グロテスク)なことだろう(野上豊一郎訳)」と書かれ、当時の長崎を抒情的に描写した意味では文献的といわれています。(参照2004/04/27、B-251:2005/03/30)




御崎道の碑(みさきみちのひ)
十人町2-3(長崎村十善寺郷字十人町)
御崎道の碑は文政6年(1823)に今魚町(現 魚の町:魚市橋西側通り)の住人によって建立されたもので、長崎から野母崎の脇岬:観音寺までの7里(約28キロメートル)に道標として作られました。石碑は全部で50本設置されたといわれていますが、現在、確認できるものは十人町入口のものや観音寺境内のものを含め8本といわれています。十人町のものは風化して文字が読めませんが、碑には「みさ起みち 今魚町 文政六年」と刻されています。




C-177:御崎道/観音寺道/東泊口
(みさきみち/かんのんじみち/ひがしどまりぐち)
江戸時代、長崎から市外へ出るには6ヶ所のコースがあって、@東泊口(戸町-深堀-野母へ)A茂木口(田上-茂木-天草-熊本・鹿児島へ)B馬籠口(浦上街道)C西山口(西山-川平-本川内-伊木力-大村へ)D日見嶺口(長崎街道)E頴林口(伊良林-飯香浦-小浜へ)のうち、野母や脇岬の観音寺に至るコースを御崎道観音寺道と呼び、特に戸町付近を東泊口(トウハクグチ)とも呼びます。この道は広馬場から十人町-大浦石橋-出雲-上戸町-竿浦-為石と進み、野母崎脇岬にある観音寺(御崎観音)に至るコースで観音信仰者のための参詣道でした。当時は1日で往復していたといいます。一方、御崎道は別の使い方があって、貞享2年(1685)、年間貿易額を定めた定高貿易法により追い返された唐船が長崎港外の野母の港に立ち寄り、野母で抜荷商人と取引(密貿易)を行い利益を上げていたといいます。




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