広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成18年 〜2006年〜
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C-308:旧長崎地方裁判所長官舎【グラバー園】
旧長崎地方裁判所長官舎は明治16年(1883)に建てられた木造2階建て寄せ棟造りの大変大型の洋館です。もともとは上町の長崎地方裁判所所長官舎にあったもので、昭和52年(1977)国の新築計画により洋館部分のみをグラバー園内に移築しました。ちなみにその洋館の評価額は当時のお金で36,000円で、長崎市が北九州財務局から譲り受けました。




C-307:旧長崎高商表門衛所
(きゅう-ながさきこうしょう-おもてもんえいしょ)【グラバー園】
長崎高等商業学校は通称を高商といい、現在の長崎大学経済学部のところにありました。創立は明治38年(1905)で、長崎医学専門学校(通称:医専)と共に長崎の最高教育機関でした。当時、この長崎高等商業学校には中国や旧満州から多くの留学生を向え、また多くの実業家を生み出しました。その後、昭和19年(1944)長崎経済専門学校と改称、さらに昭和26年(1951)新制大学制により長崎経済専門学校は長崎大学経済学部に変わり現在に至ります。なお、この表門衛所は創立当時のもので、昭和50年(1975)頃、グラバー園内に移築保存されてました。2003-11/10参照




C-306:旧三菱第2ドックハウス【グラバー園】
旧三菱第2ドックハウスは明治29年(1896)に建てられた洋館で、もともとは飽の浦町の三菱重工業轄\内の第2ドックのそばにあった建物でした。形式は明治初期の様式を持ち、当時はドック入りした船員の休憩や宿泊施設として利用されていました。
昭和49年(1974)長崎市は第2期グラバー邸地区観光施設整備事業としてこの旧三菱第2ドックハウスを移設しました。




C-305:グラバー園
南山手町8(戸町村大浦郷/南山手町27〜29番地)
グラバー園の前身であるグラバー邸は、昭和14年(1939)トーマス・ブレーク・グラバーの長男:富三郎から半ば強制的に引き渡され、三菱造船所がクラブとして利用されます。第二次大戦後4年間は進駐軍によって接収され司令官庁舎となり、その後、長崎市が三菱造船所に譲渡を要請。昭和32年(1957)三菱長崎造船所100周年の年に、桜馬場の市有地との交換などの条件で譲渡されます。翌33年(1958)からは一般開放が行われ、その後、長崎明治村構想と位置付けられ昭和43年(1968)には隣接のリンガー邸も買収して施設整備が進められ、昭和49年(1974)グラバー園に改称。以降、長崎を代表する史跡として多くの観光客で連日賑わっています。




ロバート・ウィルソン・ウォーカー(Robert Wilson Walker)
ロバート・ウィルソン・ウォーカーは1845(弘化2)年、イギリス出身で、明治元年(1868)長崎に上陸、グラバー商会に雇われます。仕事でイギリスに渡るも会社が倒産。ホームリンガー商会に移ります。そして明治4年(1871)長崎に再上陸し、岩崎弥太郎に雇われ横浜に向かい、横浜では郵便汽船三菱会社で日本上海の海外定期航路開設に尽力し、明治18年(1885)に日本郵船会社(NYK)を設立して退きます。またこの年、ジャパン・ブルワリ・カンパニー(のちのキリンビール)を設立、重役(筆頭株主)として日本のビール業界を確立させるのです。会社は明治26年(1893)まで務め、長崎入りし、クリフ・ハウス・ホテル(南山手町10番地)を購入し経営者となります。大正3年(1914)没。墓所:坂本町外国人墓地
ロバート・ネール・ウォーカー(Robert N Walker)
ロバート・ネール・ウォーカーは、ロバート・ウィルソン・ウォーカーの弟で、兄と一緒に渡来し、長崎で兄と共に高級清涼飲料水の製造会社「バンザイ炭酸飲料社」を設立、伊木力みかんでジュースや、飯盛産の生姜でジンジャーエールの製造を行います。




C-304:南山手地区町並み保存センター
南山手町4-33(戸町村大浦郷/南山手町8番地)
南山手地区町並み保存センターとして開放されている洋館はもともと南山手町12番地(現 南山手町2-10,11,12,18,21,22)に建てられたもので、昭和63年(1988)解体されるのを期に長崎市に寄贈され現在地の南山手町4-33(南山手町8番地)に移転復元したものです。
この建物は明治時代中期に建てられた洋館で、イギリス人のウィルソン・ウォーカーによって建てられました。その後、昭和3年(1928)医師の雨森一郎(A-70:2003-7/22)の所有となり、昭和63年(1988)長崎市は伝統的建造物に指定し移築して保存することになりました。




「新長崎観光百選の地」碑
新長崎観光百選は昭和54年(1979)長崎新聞社が創刊90周年を記念し、長崎県と長崎県観光連盟の共催で行われたもので、長崎県民の葉書投票(33万158通)によって選ばれました。
1位が九十九島(佐世保市)、2位がグラバー園、3位が住吉神社(旧 西彼町)、4位が西望公園(旧 南有馬町)、5位が龍頭泉(東彼杵町)、6位が原城跡(旧 南有馬町)、7位が国見山(旧 世知原町)、8位が弦掛観音(旧 世知原町)、9位が弓張展望台(佐世保市)、10位が米山展望(旧 奈良尾町)
※大浦天主堂が何位かは不明




キリスト信者発見百周年記念碑【大浦天主堂】
昭和40年(1965)キリスト信者発見100周年を記念して記念碑の建立がおこなわれ、この年はあわせて大浦天主堂創建100周年記念式典も開催されました。また記念荘厳ミサや聖体行列、ローマ教皇特使のマレラ枢機卿も迎えての荘厳ミサも行われました。なお、碑文は信徒発見の経緯が刻され、あわせて聖母像が埋め込まれています。




C-303:旧羅典神学校(きゅう-らてんしんがっこう)【大浦天主堂】
南山手町5(戸町村大浦郷/南山手町甲13番地)
明治6年(1873)信仰の自由が許された後、プチジャン神父ド・ロ神父などの布教活動がおおやけに進められるようになり、プチジャン神父によって日本人を教育する養成所の羅典学校が建設されます。建物は、我が国初期の木骨コンニャク煉瓦造建築で、設計はド・ロ神父が行いました。大正15年(1926)に浦上神学校が出来るまで、この校舎を神学校兼宿舎として使用され、この建物が日本カトリック教会布教の源となるのです。その後、司祭館や集会場などに使用され、現在に至ります。国指定文化財。




ベルナルド・タデ・プチジャン
プチジャン神父は本名をベルナルド・タデ・プチジャン(Bernard Thaddee Petitjean)といい、1829(文政12)年、フランスに生まれ、後にパリ外国人宣教会司祭となり、文久2年(1862)横浜に上陸します。翌3年(1863)8月長崎入りし、ヒウレが手がけていた大浦天主堂建設を主導し、元治元年(1864)に完成させます。その後、長崎奉行の要請で慶応元年(1865)に語学所(済美館A-33:2003-6/13)のフランス語教授となり、大浦天主堂の献堂式後、有名な信徒発見に出会い、翌慶応2年(1866)日本の教皇代に任命されます。しかし浦上四番崩れで悲惨な事態を目のあたりにし、すぐにローマへ向かいこのことを伝え、ド・ロ神父とともに慶応3年(1867)来日して信徒解放に尽力します。明治6年(1873)キリシタン禁制が解かれると、日本における教会の整備と信者の育成に努め、明治17年(1884)大浦天主堂に葬られます。




C-302:プチジャン神父墓所【大浦天主堂】
天主堂内の正面聖壇は信徒礼拝所より一段高く、その奥に大祭壇が設けてあります。この祭壇で元治2年(1865)3月17日にプチジャン神父が祈りを捧げていたときに、日本人信徒が現れ、後の信徒発見となるのです。大祭壇は壇上ゴジック型といい、中心にキリストの書画がかかっています。そして祭壇に向かって右に、二十六聖人殉教を描いた油絵が掛かっていて、その真下に石版があります。石版には大浦天主堂の創始者:司教ベルナルド・プチジャンの墓銘があって、この直下がプチジャンの墓所となっています。




C-301:旧 二十六聖人記念会堂【大浦天主堂】
旧 二十六聖人記念会堂とは、いわゆる大浦天主堂(日本二十六聖殉教者天主堂)のことで、建物は元治元年12月1日(西暦1864:12/29)に完成しました。そして本来は、慶長元年12月19日(1597年2/5)に処刑された二十六聖人を祈念して2月5日に献堂式を行う予定でしたが、教区長であるジウルの参列を待って元治2年1月24日(1865年2/19)に献堂式が行われました。
建物はレンガ壁、瓦葺、切妻造のゴジック型と呼ばれる形式で、天井はカワホリ天井というアーチ型になっており、周囲のステンドグラスはフランス製です。また、マリア像の礎石には「日本之聖母 慶應三年三月十七日 信徒發見記念」と刻されています。
建築は天草の大工:小山秀が請け負ったもので、これは文久2年(1862)建造の横浜天主堂に次ぐ古さでしたが、関東大震災による焼失で現在では大浦天主堂が最古となりました。国宝。




C浦上四番崩れ
慶応2年(1866)宣教師プチジャンは日本における教皇代に任命され、ますます浦上その他の地域からの天主堂参詣が増し、殉教も受け入れるほどの熱心な信者が集まります。そこで慶応3年(1867)宣教師ローカニュは変装して浦上の信者宅で布教活動を始めることとなり、信仰も次第に表立ってくるようになります。しかし、そのような行動は奉行所を動かせるこことなり、ついには信者(キリシタン)の摘発、そして処刑と、これが浦上四番崩れというものです。これらの事件に各国の領事団は抗議するも、幕府に変わった明治政府は3000人もの信者を流罪(キリシタンの間では旅という)とし、プチジャンなどは涙を飲むこととなります。一方、大浦天主堂内には神学校が設けられることになり布教者の育成が行われ、明治6年(1873)の信仰の自由以降、布教活動に従事することになります。




B信徒発見
西暦1865年2月19日(元治2年1/24)の大浦天主堂献堂式は盛大だったにもかかわらず日本人信者参列が実現できず宣教師プチジャンなどは大変残念に思い、天主堂周辺を探しまわったといいます。ところが西暦1865年3月17日(元治2年2/20)に男女14人の日本人が天主堂にを訪ねて来たので堂内に迎え入れると、堂内のサンタ・マリア像に祈りを捧げる素振りをします。プチジャンは不思議に思い、訳を聞いてみると声を潜め「私共は皆貴師と同じ心でございまする」と答えたといいます。プチジャンは感激し、その後、浦上から外海、五島や平戸の各地にも信者が発見され帰依するもの多数に上ります。




A大浦天主堂の献堂
文久3年(1863)フランス人宣教師ヒウレ(Furet)が来崎し、同じフランス領事のレオン・ジュリーとともに出島のオランダ人宅に滞在します。ヒウレとジュリーの本来の目的は日本におけるキリスト教信者発見で、後に移った大徳寺では天主堂建設の事前調査を行っていました。建設地は南山手の現在地と決め、その願いを時の第115代長崎奉行大久保豊後守忠恕(-タダヒロ)に申し出ると快く受け入れてもらい天主堂建設が始まります。しかし工事は困難を期し、宣教師プチジャン(Bernard Thaddee Petitjean)の応援も受け、さらには長崎奉行などの協力も得ながら元治元年(1864)の完成となるのです。西暦1865年2月19日(元治2年1/24:本来は26聖人が処刑された2月5日の予定だった)盛大に献堂式が行われ、ロシア、イギリス、オランダの各艦艇から艦長ほかキリスト教信者とともに参列し、宣教師ヒウレの願いであった二十六聖人記念会堂と命名されます。C-138:2005/12/22参照




C-300:大浦天主堂(日本二十六聖殉教者天主堂)
南山手町5-3(戸町村大浦郷/南山手町1番地)
@禁教後の日本布教
江戸時代初め、鎖国令によって表面上、キリスト教の信者は皆無となりましたが、ローマ教皇は何としても日本への布教を進めたいという思いがあって、常に東アジアの情勢はローマへ伝えられていました。そしてローマ教皇は天保3年(1832)に朝鮮、弘化元年(1844)琉球(現 沖縄)に相次いで宣教師を送り、滞在中の日本人に布教をしたり、自ら日本語を学ぶなどして日本をうかがっていたといいます。そして弘化3年(1846)ついに日本を教皇代理区に指定し、初代司教にフォルカドを選任します。フォルカドはその後、フランス軍艦によって日本視察を行い、同年、長崎港外の高鉾島まで入港しますが、入港の許可なく香港へ帰艦します。安政5年(1858)安政の五カ国条約(米英仏露蘭)締結は宣教師上陸を認め、安政6年(1859)江戸に第2代司教ジラルが上陸、横浜に横浜天主堂を開き(文久2:1862)、順じ、宣教師を上陸させ布教活動の準備が進めらます。




C-299:祈念坂(きねんざか)
大浦諏訪神社と大浦天主堂との間に鍋冠山に登る石畳の坂道があって、地元ではこの坂道を祈念坂と呼んでいます。神道である諏訪神社とキリスト教の大浦天主堂、そして仏教の妙行寺と、長崎ならでは風景といえる場所で、映画のロケなどが度々行われる場所となっています。




皇太子殿下御誕生記念碑【大浦諏訪神社境内】
皇太子殿下御誕生記念碑は、昭和8年(1933)12月23日に誕生された今上天皇(継宮明仁親王殿下:現在の天皇陛下)がお生まれになったことを記念して建てられたもので、あわせて大浦諏訪神社の手水鉢、銅板屋根が設置されました。手水鉢は川原(旧 三和町)海岸の石で、記念碑は川原の青年団から贈られ、基礎石は大浦の澤山邸内のものが使用されています。碑建立は昭和10年(1935)で、碑表面は当時の長崎県知事:田中廣太郎、碑文は当時の長崎県議会議長:岩永八之丞によるものです。
御造営捐志芳名碑【大浦諏訪神社境内】
皇太子殿下御誕生記念碑の寄進者名が刻されています。




造営竣功碑(ぞうえいしゅんこうひ)【大浦諏訪神社境内】
造営竣功碑は紀元2600年(昭和15:1940)を記念して行われた大浦諏訪神社の改修および整備が、岡本注連吉(シメキチ)氏の多額の援助によって計画以上に進み、さらには大浦地区の氏子の協力によって完成したことを記念して建立されたものです。この碑の特徴として、当時は第二次大戦中ということもあり戦時色が強い碑文で、建立年月日には「昭和十五年興亜聖戦三歳豊秋」とあります。
諏訪神社再建記念碑【大浦諏訪神社境内】
諏訪神社再建記念碑は大正3年(1914)の大浦諏訪神社再建工事を記念して建立されたもので、寄付者の氏名が刻されています。




隈部登馬男翁像【大浦諏訪神社境内】
碑文より、隈部登馬男(明治25:1892-昭和48:1973)は南高布津村(現 南島原市布津町)出身で、昭和初期に日の出町において自治社会福祉事業遺族会に尽力し、さらに長崎市議、長崎県議にも在職していました。また、大浦諏訪神社の復興に力を注ぎ、総代としても長年尽力された人物でした。この胸像はそれらの功績を称え昭和48年(1973)建立されたものです。
御旅所記念碑【大浦諏訪神社境内】
碑文から詳細が判明しませんが、おそらく大浦ぐんちの際、石橋付近に設けられる御旅所設営に関しての記念碑で昭和2年(1927)に建立されました。
碑からは大浦の旧町名を見ることができます。




改築記念碑【大浦諏訪神社境内】
明治44年(1911)大浦諏訪神社は老朽化に伴い社殿の改築が行われることになり、大浦地区の戸長:国分氏の斡旋などにより大修繕が行われます。このとき正殿、舞殿などや、石垣に石段の整備が行われ現在の形式となり大正5年(1916)に完成します。そしてこのときの記念碑が一の鳥居横の改築記念碑で、桜4本とともに上田町青年会(会長:崎田房太郎)などによって建立されました。
諏訪神社記碑【大浦諏訪神社境内】
諏訪神社記は大浦諏訪神社の創建の歴史を記したもので、碑には寛永7年(1630)創建(説)を記し、元禄6年(1693)の大村藩主:大村純長による改築と、明治21年(1888)改修のことが記され、さらに長崎の諏訪神社と大浦の諏訪神社の南北の関係などが西道仙の文で刻されています。明治32年(1899)建立。




大浦ぐんち(大浦供日)
大浦諏訪神社では秋の例大祭を大浦ぐんち(供日)と称し、毎年10月の長崎くんち以後の土日(15日前後)に祭事を行っています。長崎の諏訪神社のくんち同様、踊町や神輿守町があって毎年交代で各踊町が奉納踊りを披露し、前日に大浦石橋の交差点付近に御旅所が設けられ神輿渡御を行い、翌日、再び神社に帰るもので、期間中、屋台などが出て大浦地区は大変の賑わいを見せます。




大浦諏訪神社霊鳥伝説
江戸時代初め、長崎はキリシタンの全盛期で神社仏閣はことごとく破却されていましたが、そんなある日、大浦郷にあった一本の老松の枝に、一羽の不思議な霊鳥が羽を休めていました。それを見た大浦郷の鉄砲の名士が霊鳥を仕留めようとしたところ、何発撃ってもその霊鳥は平然としていて、そのうちその霊鳥は白衣の老翁となり近寄りこう告げるのです。
「我は長崎鎮守諏訪明神である。今の長崎はキリシタンによって神社仏閣は破却され、神仏は破滅しようとしている。しばらく私は長崎を離れ、薩摩に移ろうとしているのであるが、お前が私に鉄砲で無礼を働くなど許し難い」と告げるや、鉄砲の名士は気絶しその場に倒れてしまうのでした。それを見た村人はその神の力に驚き、すぐに神社を建てたといわれ、これが後の大浦諏訪神社といわれています。




C-298:大浦諏訪神社(おおうら-すわじんじゃ)
相生町10-1(戸町村大浦郷字小屋敷)
江戸時代、大浦地区は戸町村大浦郷といい大村藩の領土で、元禄6年(1693)領主であった大村純長は地域の武運長久と村中安全を祈願するために諏訪神社を創建します。以来、大浦地区の鎮守神として親しまれるようになり、秋には大浦供日(オオウラ-クンチ)と称し神輿の渡御などが行われています。なお、もともとは単に諏訪神社と呼ばれていましたが、長崎の諏訪神社と区別するため、今では大浦諏訪神社と呼ばれています。
また、創建にはいくつかの説があり長崎市旧記には寛永7年(1630)、戸町旧記には寛永12年(1635)とあって、社記に元禄6年(1693)と記されているため長崎市史などは社記に従い元禄6年(1693)を採用しています。




祈りの三角ゾーン
相生町9-8(戸町村大浦郷字堀之内)【妙行寺山門前】
妙行寺山門前は、ちょうど西に妙行寺、南に大浦天主堂、東に大浦諏訪神社と三つの宗教の施設を眺めることができ、地元の人は俗に祈りの三角地帯ゾーンといい、ここでお願い事をすると必ず叶うといわれています。




○妙行寺住持:圓也の伝説
妙行寺第6代住持:圓也(享保3:1718-宝暦元:1751在職)は、柳川立花藩家臣:山口兵庫の三男として筑後(福岡県)柳川に生まれ、7才のとき出家し12才で京都の黄檗山萬福寺に入り、唐僧の大鵬を師事したといわれ、その後、長崎の祟福寺に入り、神浦の光照寺を経て享保3年(1718)妙行寺の住持になるのです。しかし次のような言伝えが残っています。
萬福寺の唐僧:大鵬は臨終の際、浄土真宗の教えを圓也に伝え、さらには正覚寺の住持:蓮地庵(C-33:2005-06/17)に仕えるようにと伝えたとの事。しかし圓也が妙行寺の住持となったときは大鵬はまだ日本に渡来していなかったそうで、これを圓也の伝説といいます。




C-297:英国領事館跡(えいこくりょうじかん-あと)
相生町9-8(戸町村大浦郷字堀之内)【妙行寺】
安政6年(1859)5月。幕府は長崎、神奈川、函館で露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、長崎にも多くの貿易商が入ります。そして同じ月の5月、妙行寺内に英国領事館が設置され、英国軍艦サンプストン号で来崎したホッジスンが初代領事として就任します。その後、領事館は一時的でしたが、東山手9番地に移転(現 海星グランド)、文久3年(1863)居留地造成が整った下り松に移り、さらに明治41年(1908)常盤町(現 大浦町:野口弥太郎記念館)へ移転し、昭和16年(1941)まで続きます。C-214:2006-04/14参照




C-296:浄土真宗法嶺山妙行寺(-ほうれいざん-みょうぎょうじ)
相生町9-8(戸町村大浦郷字堀之内)
江戸時代初期、島原藩深江村(現 南島原市深江町)にある妙行寺の住持:西順は退隠して桶屋町の光永寺に入り、長崎にて一寺建立を願っていました。そしてその願いを聞いた第4代大村藩主:大村純長は、父である3代藩主:大村純信が黙子如定に与えていた別荘地が如定没後に大村家の所有になっていたことから、その場所を西順に与え、万治元年(1658)深江村と同じ名称で妙行寺を建立することになります。以降、幕末まで大村藩の保護(寺禄の給付)受け、文化5年(1808)フェートン号事件(2004-1/16)以降、緊急時には大村藩の本陣として使用される重要な場所となります。現在では、大浦天主堂や大浦諏訪神社とともに祈りの丘として旧居留地のシンボル的存在です。




C-295:黙子如定別荘跡(もくすにょじょう-べっそうち-あと)
相生町9-8(戸町村大浦郷字堀之内)【妙行寺】
黙子如定は中国江西省建昌出身の僧で、寛永9年(1632)に渡来、寛永12年(1633)からは興福寺第2代住職を務めます。在職中は唐船船主や乗組員などから寄進を受け大雄宝殿や媽姐堂などの整備を進め、寛永11年(1634)には眼鏡橋架橋に尽力します。また一方で、幕府や大村藩などからも手厚い保護を受け、当時の第3代大村藩領主:大村純信は自領であった大村郷に屋敷を設け、如定に別荘地として与えたほどでした。なお、明暦3年(1657)如定没後は、再び大村家の所有となります。
2004-08/19参照




コルベ神父ゆかりの地
南山手町2-33(戸町村大浦郷/南山手町10番地)
碑文より「昭和五年四月二十四日長崎市南山手町甲拾番地へコルベ神父はポーランドよりゼノ修道士外等を伴うて大浦天主堂下南山手町十番館に来たり此處は仮宿として聖母の騎士(ニエボカラスフ)伝道布教の為機関誌を発刊した。翌年市内本河内町に土地を購入し現在の聖母の騎士修道院を開設した。その後六年を経て祖国ポーランドへ帰国した。第二次世界大戦となりドイツ軍に捕らえられ一九四一年八月若いポーランド兵士の身代わりとなり令四十七才で亡くなった。昭和57年十月十日列聖式により聖人となる。教皇ヨハネ・パウロ二世 司式




C-294:クリフハウスホテル跡
南山手町2-33(戸町村大浦郷/南山手町10番地)
明治初年、大浦の居留地に続々と西洋式旅館(ホテル)が建てられる中、南山手町10番地にクリフハウスホテルが誕生します。このホテルには明治26年(1868)日本初の海外定期航路(長崎-上海間)開設や日本におけるビール製造に尽力したイギリス人:ウイルソン・ウォーカーや、昭和5年(1930)ポーランドの宣教師:コルベ神父も利用し、来崎時の拠点としていました。なお、ホテルは昭和10年(1935)前後、閉鎖されます。
※この解説は、GLASSROADのプレートを参照しました。




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