広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成18年 〜2006年〜
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C-326:聖心女学校跡(せいしんじょがっこうーあと)
南山手町12-17(戸町村大浦郷/南山手町16番地)【マリア園】
「ショファイユの幼きイエズス修道会」というカトリックの一派は1859(安政6)年にフランスで誕生。日本には明治10年(1877)から布教活動が始まります。明治13年(1880)には日本におけるイエズス会修道院の本部がこの地に置かれ、あわせて聖心女学校が設立されます。ここでは修道女養成修練所として孤児教育と語学教授が行われ、当時はフランス学校と呼ばれていました。明治33年(1900)清心女学校と改称し、昭和25年(1950)本部と学校は兵庫県宝塚に移転します。現在では、同じ幼きイエズス修道会の清心修道会と養護施設であるマリア園として使用されています。
なお、建物は明治31年(1989)に建てられた煉瓦造り化粧積3階建で、設計は海星学園の旧校舎を設計したフランス人修道士:セネンツによるものです。




C-325:杠葉病院(ゆずりは-びょういん)
南山手町10-1(戸町村大浦郷/南山手町15番地)
大正時代、長崎医学専門学校(医専)の精神科教授であった斉藤茂吉の下で働いていた医師の杠葉輝は、大正15年(1926)長崎県で初となる民間の精神病院を南山手に開院。建物はそれまで貿易商:レスナーが使用していた洋館を使用します。現在でも建物はそのままに杠葉病院は長崎でも有数の精神科病院として開業されています。
なお、当時、俗語で頭が悪い人を「杠葉行き」、耳の遠い人を「金比羅山」、命が短い人を「竹の久保行き」いっていました。




C-324:貿易商:ジークムント・D・レスナー宅跡【杠葉病院】
元治元年(1884)ルーマニア出身でオーストリアに籍を持つジークムント・D・レスナー(Sigmund D Lessner)は両親と共に25才のとき来崎。梅ヶ崎に食料雑貨商を構えます。レスナーの父:リオはユダヤ教指導者で長崎におけるユダヤ人の有力者でした。そのためレスナーは明治25年(1892)に坂本国際墓地にユダヤ人墓地を、明治28年(1895)に梅ヶ崎町にユダヤ教会堂建設し、在留ユダヤ人の婚礼、葬式など一切の行事が行われることになります。しかし大正9年(1920)レスナーは急死し(墓所:坂本外国人墓地)、さらには第一次大戦で敵国だったオーストリアに籍を持っていたこともあり残された財産は接収され、教会堂なども処分されます。この南山手の地はそのレスナーの自宅があった場所といわれ、レスナーの最期は大正9年(1920)この自宅から梅香崎の商店へ向かっている際に急死します。C-184:2006/03/12参照




C-323:フランス領事館跡
南山手町10-1(戸町村大浦郷/南山手町15番地)【杠葉病院】
安政6年(1859)長崎のほか神奈川と箱館(函館)が開港し、それまでの中国、オランダ以外にイギリス、アメリカ、ロシア、フランスの各国との貿易が始まります。そのため各国は相次いで長崎に領事館を設置。文久3年(1863)フランスは長崎に領事館開設のためレオン・ジュリーを領事として来日させ、長崎奉行の斡旋で大徳寺の一室をフランス仮領事館として開設します。その後、南山手15番地に移転。しばらくこの地に置かれた後、当時、英国領事館用地であった東山手13番地に移転し、本格的な業務を始めます。
C-138:2005-12/22、C-232:2006-05/07参照




C-322:ロシア正教会跡(ロシアせいきょうかい-あと)
南山手町11-5?
(戸町村大浦郷/南山手町乙5番地)【長崎海洋気象台南側敷地】
慶応4年(1868)ロシアは南山手17番地で領事館業務を開始。その後はたびたびウラジオストクのロシア艦隊が越冬のため長崎港を利用するようになります。そのため彼らの宗教施設であるロシア正教の教会建立が求められ、明治16年(1883)南山手の領事館敷地内にロシア正教会が建てられます。当時、長崎人はここをロシア寺とか森の教会などと呼んでいて、教会の建物は木造で屋根の上の金の玉が目印となっていました。なお、その後の動向は不明で、建物は昭和17年(1942)の要塞司令部の移転によって撤去されました。




○ロシア領事館立ち退き訴訟問題
この問題はコンスイ坂の南側の地域:南山手19番地(現 南山手町12-1〜5ほか)と呼ばれた場所の土地問題で、現在のロシア政府が帝政ロシア時代の領事館敷地ということを主張し、住民に立ち退きを命じる訴訟を起こしています。ロシア側は明治8年(1875)から大正6年(1917)まで使用していたと主張。しかしロシア帝国が消滅したにもかかわらず土地所有者が「露国領事館」とあること。そもそも南山手5番地が領事館所有地であったのに19番地を主張していることなど不明な点が多いといわれています。一方で、ロシア領事館が昭和17年(1942)に勅令で所有権を取得したともいわれ、時効なども含め現在、外務省は調査中としています。※平成12年の長崎新聞より
建て看板の一部「昭和62年10月19日ロシアの土地として登記/平成3年12月27日ソビエトの土地として登記」




C-321:コンスイ坂/コンセル坂
長崎海洋気象台の南側にある杠葉(ユズリハ)病院に上る急な坂をコンスイ坂またはコンセル坂といいます。明治から大正にかけて海洋気象台のところにあったロシア領事館が由来となったもので、ロシア語で領事館のことを「コンスル」といい、英語で「コンセル」と呼ぶところから、日本語に訛ってコンスイ坂またはコンセル坂と呼ぶようになったと考えられています。




C-320:ロシア領事館跡
南山手町11-5
(戸町村大浦郷/南山手町乙5番地)【長崎海洋気象台南側敷地】
安政6年(1859)5月。幕府は長崎、神奈川、函館で露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、長崎にも多くの貿易商が入ります。慶応4年(1868)ロシアは南山手17番地(現 南山手町12-42,43)に領事館を置き、業務を開始し、その後、ロシアと長崎の関係は明治24年(1891)ロシア皇太子ニコライ二世の来崎ロシア艦隊の越冬基地としての利用など、親密さを増すのですが、明治37年(1904)日露戦争の開戦により領事館は業務をフランス領事に委託し閉鎖となります。明治39年(1906)国交回復を待って駐在領事館、明治42年(1909)総領事館となり、大正年間(1912〜)アメリカ領事館の移転を受け南山手町乙5番地に移転します。大正6年(1917)帝政ロシアと共に領事館は消滅します。




C-319:アメリカ領事館跡
南山手町11-5
(戸町村大浦郷/南山手町乙5番地)【長崎海洋気象台南側敷地】
安政6年(1859)5月。幕府は長崎、神奈川、函館で露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、長崎にも多くの貿易商が入ります。慶応元年(1865)アメリカは南山手乙五番地に領事館を置き、ジョン・フォウルスを初代領事館とします。大正年間(1912-26)には東山手十二番館に移転し、ここではデンマーク領事も兼務します。その後、昭和に入り閉鎖となります。
C-233:2006/05/08




桜の標準木【長崎海洋気象台】
桜の標準木とは、桜の種類であるソメイヨシノ(染井吉野)の開花予測を行う際に基準となる木のことをいい、長崎市のソメイヨシノの開花に使われる標準木長崎海洋気象台の中にあります。長崎海洋気象台の敷地内のため普段は立ち入ることはできませんが、入口から3番目のソメイヨシノの木が標準木です。ちなみに長崎市街で多くの桜が開花したとしても標準木が開花しない限り、長崎市の開花宣言は行われません。満開のときも同じです。




C-318:長崎海洋気象台(ながさきかいようきしょうだい)
南山手町11-5(戸町村大浦郷/南山手町5,6番地)
明治4年(1871)オランダ人ゲーツ(ケールフ)が小島郷稲荷嶽で長崎で始めての気象観測を行い、それから7年後の明治11年(1878)本格的施設の観測所となる長崎測候所が十善寺郷中ノ平(現 海星学園付近)に開設され、3名の職員が置かれます。当時から日本の気象は西から変化するということが知られていて、長崎の気象は各地の天気予報を左右する重要な位置付けだったのです。そのため東京気象台の開設(明治8:1875-6/1)から遅れることわずか3年で長崎測候所の開設となります。まさに長崎測候所は日本の気象学の草分けに近い貴重な存在だったのです。明治31年(1898)海星学園建設の影響で、観測に支障を来たす恐れがあるところから大浦元町(ドンの山)に移転(昭和24年廃止)。昭和22年(1947)から現在の南山手町に移り、長崎海洋気象台として観測を行います。
C-162:2006/01/27、C-242:2006/05/20参照




C-317:十六番館(じゅうろくばんかん)
南山手町4-15(戸町村大浦郷/南山手町7番地)
十六番館は万延元年(1860)に東山手16番地(現 活水学院)にアメリカ領事館の職員用宿舎として建てられたもので、建物の棟木はアメリカ産の杉:レッドパインが使用されています。明治12年(1879)には一時、活水女学校として使用。その後、昭和32年(1957)南山手町に解体移転し観光資料館として営業され、平成17年(2005)廃業。現在は空き家となっています。




台風による停電のためお休みします




台風による停電のためお休みします




グラバー園のハートストーン【グラバー園】
グラバー園のハートストーンとは、ハート型をした敷石のことで現在ではグラバー園の名物となっています。当初、グラバー邸前付近のものが走りのようで、おそらく工事の際、職人が遊び心で造ったものではないでしょうか?さわったり踏んだりと様々ですが、カップルに人気の石となっています。残念ながら、2枚目3枚目となると故意的な部分が伝わってくるのは私だけではないと思います。
このほか中島川の護岸工事で作られたものや、中通りの敷石などにもハートのシンボルがあります。




○日本初のアスファルト舗装【グラバー園】
グラバー園内に日本で最初にアスファルトで舗装された道があります。現在はかなり痛みが激しく通行することはできませんが、明治時代、上手にあったテニスコートへ向かうための通路といわれています。おそらくグラバーの家族やリンガーの家族が専用に使っていたものと考えられています。




高島流和砲(たかしまりゅう-わほう)【グラバー園】
高島秋帆(寛政10:1798-慶応2:1865)は、町年寄高島家の第10代四郎兵衛茂紀の子として生まれ、秋帆も後に11代となります。秋帆は十代の頃から父と共に出島に出入りし化学に興味を持つようになり、その後、砲術師範となり21才の時には出島で西洋砲術を学びます。天保年間、秋帆は中国のアヘン戦争のことを知り日本も西洋式の砲術の採用し国防の重要さを説きます。そして天保12年(1841)幕府より江戸郊外の徳丸ヶ原で火術御見分の命令を受け演習を行ないます。これが高島平の由来ともなります。
この高島流和砲は、秋帆の指導の下、長崎の鉄砲鍛冶:野川清造によって作られました。参照2003/07/03 




長崎伝統芸能館(くんち資料館)(グラバー園)
長崎伝統芸能館は諏訪神社の秋の大祭:長崎くんちの出し物を紹介する資料館として昭和56年(1981)旧長崎県共済組合宿舎であった南山手荘の跡地に建てられたもので、常時、出し物の一部が展示され、映画が放映されています。




倉場富三郎(くらば-とみさぶろう)
倉場富三郎(明治3:1870-昭和20:1945)はトーマス・ブレイク・グラバーと大分県竹田出身の淡路屋ツルとの間に生まれたハーフで、英名をトミー・アルバート・グラバー(Tommy Albert Glover といいます。長崎で生まれた富三郎は加伯利英和学校(C-236:2006/05/12)に進み、学習院からイギリスに留学します。父グラバーの死後は、長崎に戻りグラバー邸に住むようになり、ホーム・リンガー商会の重役や、自ら長崎漁業汽船株式会社を設立し、トロール漁業を推し進め、さらには遠洋捕鯨にも手を伸ばします。また、一方で長崎の経済界や文化事業にも尽力し外国と日本との橋渡しに努めます。しかし第二次大戦は富三郎を敵国民とし追い詰め、さらに原爆投下は富三郎を窮地に追い込む結果となり昭和20年8月24日、自ら命を絶つのです。その後、当時のお金で10万円の大金を原爆の復興に使うようにと遺言が見つかり、多くの長崎人が涙を流しました。




トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover)
安政6年(1859)5月。幕府は長崎、神奈川、函館が露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、多くの外国人が来日。8月上海からイギリス(スコットランド出身)人のトーマス・ブレーク・グラバーが来日します。グラバーはすぐに貿易商社のグラバー商会を立ち上げ営業を始め、水産加工物や工業製品そして製茶など幅広い商品を扱い、莫大な利益を得ます。一方で倒幕の志士の手助けをし、特に土佐藩の岩崎弥太郎との出会いは三菱の基礎につながるのです。慶応2年(1866)小菅修船場(ソロバンドック)、明治元年(1868)高島炭鉱の設立は日本の近代化を導くものになるも、貿易の中心が神戸や横浜に移ると長崎の業績が悪化。グラバー商会は倒産。ついにグラバーは第一線を退くことになり東京で余生を送ります。墓所:坂本外国人墓地。




C-316:旧グラバー邸【グラバー園】
旧グラバー邸はグラバー園の中心的建物で、文久3年(1863)に大浦天主堂や旧オルト邸を手がけた天草の大工:小山秀之進によって建てられました。ここは日本最古の木造洋館建築といわれていますが、数度の増築の後があり現在の形態は明治中期のものといわれています。グラバーはここを拠点に活躍し、特に幕末などは討幕派の志士が多く出入りしたといわれています。なお、グラバーの晩年は東京が中心で、建物の使用は長男の倉場富三郎が受け継ぎますが、第二次大戦が始まると富三郎にスパイの容疑がかけられ半ば強制的に長崎市に引き渡されます。戦時中は三菱造船所がクラブとして利用され、第二次大戦後4年間は進駐軍によって接収され司令官庁舎となります。その後、長崎市が三菱造船所に譲渡を要請。昭和32年(1957)三菱長崎造船所100周年の年に、桜馬場の市有地との交換などの条件で譲渡されます。国指定文化財。




C-315:旧自由亭【グラバー園】
安政6年(1859)草野丈吉は大浦の居留地に行き外国人の使用人として使えます。その後、オランダ軍艦のコックとなり西洋料理を学び、文久3年(1863)伊良林の自宅を改造し西洋料理店:良林亭を開業します。自遊亭や自由亭と改称し、しばらくして本大工町(現 魚の町)移転。明治11年(1878)馬町に洋館を建て営業を続けます。明治12年(1879)にはグランド将軍来日時(諏訪社20:2004-5/17参照)ここでパーティーが開かれました。明治21年(1888)地方裁判所に買収され廃業、検事正官舎として使われます。洋館は昭和41年(1967)グラバー園に移築され現在に至ります。B-19:2004/06/20参照
なお、旧自由亭横に「西洋料理発祥の地」の碑がありますが、正確には小島の福屋(C-90:2005/10/04)の方が安政6年(1859)と4年ほど早く、“発祥の地”とは自由亭という意味ではなく、長崎市自身という意味で考えた方が自然ではないでしょうか?




C-314:プッチーニ像【グラバー園】
蝶々夫人」は明治31年(1898)に書かれた小説で、当時の鎮西学院第5代院長であるコレル氏夫人の弟であるアメリカ人作家:ジョン・ルーサー・ロングによって書かれたもので、始めはアメリカ人演出家:ベラスコによって舞台化され、それを見ていたイタリア人作曲家:プッチーニがオペラに作り変え大ヒットとなります(2006-05/14参照)。
そしてそのプッチーニは、名をジャコモ・プッチーニ(Giacomo Puccini)といい、イタリア出身の作曲家で、1858(安政5)年-1924(大正13)年に活躍した人物です。彼の作り出す音楽は当時では斬新的で、イタリアオペラの頂点と評された反面、反プッチーニ運動が巻き起こるほどのものでした。




C-313:三浦環像(みうらたまき-ぞう)【グラバー園】
三浦環(明治17:1884-昭和21:1946)は、東京出身の女性歌手:プリマドンナで、東京音楽学校で滝廉太郎などから音楽を学びます。その後、明治36年(1903)日本初のオペラとなった「オルフェウス」の主役に抜擢され一躍有名となり、大正7年(1918)イギリスロンドンで「蝶々夫人」に出演。これが欧米の日本ブームとあいまって世界各地で2000回にも上る公演を行います。後に三浦環は世界三大蝶々夫人歌手と呼ばれるようになります。墓所:山梨県山中湖村平野:寿徳寺
この立像は昭和38年(1963)三浦環の十七回忌の日に建立され、彫刻家:梁川剛一の手によって振袖、島田髪の舞台姿となっています。




C-312:旧スチイル記念学校【グラバー園】
明治19年(1886)それまで英国領事館の敷地だった東山手9番地に、ダッチ・リフォームド教会の伝道局長だったアメリカ人宣教師:スチイル博士の寄付によって新教系の学校:スチイル記念学校が設立します。翌20年(1887)校舎が完成。この寄付金は18才で命を落とした我が子を記念するためのもので、明治24年(1891)には東山(トウザン)学院と改称、しかし経営不振により昭和7年(1932)廃校となります。その後は海星学園の寄宿舎に使用され、昭和49年(1974)グラバー園内に移設され、現在に至ります。
C-246:2006-05/25参照。




ウィリアム・オルト(William Alt)
ウィリアム・オルトは、イギリス出身の貿易商で、安政6年(1859)に来日。翌万延元年(1560)大浦町7番地に商社:オルト商会を立ち上げ、敷地内に製茶工場を併設します。これがわが国初の製茶工場で、オルト商会はこのほか衣類や武器、弾薬まで幅広い商品を取り扱います。その後、南山手にも工場を設け発展させるも明治維新で長崎の貿易が低迷し始めたため大阪に移転。さらに1年余りで横浜に移るも体調不良で明治4年(1871)帰国します。
なお、来日前の安政3年(1856)オルトは製茶商:大浦お慶に大量の注文を行い九州一円のお茶を輸出させた話は有名で、これは低迷していた長崎貿易を回復させることになります。しかし、明治4年(1871)大浦お慶オルト商会との間での契約に失敗し、お慶はその後、巨額の負債を抱えるに至ります(後に大浦お慶は負債の全額返済に成功します)。




C-311:旧オルト邸【グラバー園】
旧オルト邸は幕末(元治元年:1864ごろ)に建てられた洋館で、明治以降オルトが長崎を離れてからは売りに出され、活水の仮校舎や、ホーム・リンガー商会などが使用し、第二次大戦中は没収され川南豊作の所有になります。昭和45年(1970)長崎市が買収。改修工事を経てグラバー園に組み込まれました。
この洋館はタスカン様式といわれる丸い柱によって天井が支えられているのが特徴で、これら円柱の石は天草石を使用しています。なお、この洋館を手がけたのは大浦天主堂やグラバー邸を施工した小山秀之進によるものです。国指定文化財。




フレデリック・リンガー(Frederick Ringer)
フレデリック・リンガー(1840:天保4年-1908:明治41年)は、イギリス・ノーフォーク出身の貿易商で、慶応3年(1867)上海から長崎のグラバー商会へ招かれ製茶事業の顧問となります。明治元年(1868)リンガーはグラバーの事業を一部引継ぎ(のれん分け)、グラバー商会番頭:ライル・ホームと共にホーム・リンガー商会を大浦町12番地に設立します。その後、実業家として腕を振るい、明治30年(1897)英字新聞のナガサキ・エキスプレスを買収、自ら社長となりナガサキ・プレスと改称させ発行します。明治37年(1904)には長崎ホテルを買収。明治40年(1907)には倉場富三郎汽船漁業株式会社を設立し、翌年からトロール漁業の操業が始めます。翌年、イギリスへ帰郷中に死去。
このようにリンガーの長崎における功績は絶大なもので、明治の長崎を支えた一人でもあります。




C-310:旧リンガー邸【グラバー園】
旧リンガー邸は明治時代初期に建てられた洋館で、木骨石造りの珍しい建物で、床石はウラジオストクから持ち込まれた御影石を使用し、支柱を支える石は天草石が使われています。タイプとしては東山手十二番館に近く、広いベランダが特徴です。リンガーはこの家に二男と共に住み、長男は別の家に住んでいたところから、旧リンガー邸を弟住宅ともいわれています。
なお、このようなタイプの洋館は幕末から明治にかけて長崎にはたくさんの洋館が作られましたが、旧リンガー邸は「西南太平洋植民地風建物」とも呼ばれ、インドネシア地方などを植民地化してきた欧米人が、強い日差しを避けるために広くベランダを作らせているのが特徴です。国指定文化財。2006-04/24参照




C-309:旧ウォーカー邸【グラバー園】
旧ウォーカー邸は明治中期に作られた木造平屋建て寄せ棟造りの洋館で、ロバート・ネール・ウォーカー(Robert N Walker)が日本人大工に作らせたものです。このウォーカーですが大変な親日家で、旧ウォーカー邸は日本様式を多く取り入れた建物となっています。
ロバート・ネール・ウォーカーは、ロバート・ウィルソン・ウォーカーの弟で、兄と一緒に渡来し、長崎で兄と共に高級清涼飲料水の製造会社「バンザイ炭酸飲料社」を設立、伊木力みかんでジュースや、飯盛産の生姜でジンジャーエールの製造を行った人物です。2006-8/27参照




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