広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成18年 〜2006年〜
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くんち花御礼のためお休みします




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くんち花御礼、さるくクロージングのためお休みします




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C-338:宝製鋼
小曽根町1-38(戸町村大浦郷)
宝製鋼株式会社の建物は明治35年(1902)に建てられたもので、現存するレンガ造りの建物では最大級の洋館です。設計はR.F.ウォーカーで施工者などは判っていません。現在でも現役で活躍し、側壁に書かれている「寶製鋼」の文字は印象的で、ちなみに建物前の交差点を宝製鋼所前交差点と呼びます。




C-337:長崎瓦斯会社跡(ながさきがすがいしゃ-あと)
小曽根町(戸町村大浦郷)
明治35年(1902)小曽根町に長崎で初となるガス会社が誕生。翌36年(1903)ガスタンクを設置し大浦地区への供給を始めます。大浦地区は外国人居留地ということもあり家庭用ガスとして需要が高く、商店などでも電灯用に使用されていました。しかし資本金が少なかったためガス管の延長が思うように進まず、このため需要が見込めなくなり明治38年(1905)会社は解散。権利は豪商の山内善三郎(A-104:2003/09/04参照)に渡り、明治44年(1911)福岡の商社の資本が入り九州瓦斯会社が誕生します。この九州瓦斯会社ですが、後に八千代町にガスタンクを建設しガス管路の延長を図り、多くの需要を得るようになります。これが現在の西部ガスへと続くのです。




C-336:浪之平遊廓跡(なみのひら-ゆうかく-あと)
浪の平町、小曽根町(戸町村大浦郷、浪之平郷)
文久年間(1861-1864)外国人居留地造成のため、大浦郷の漁民らは埋立てが行われた浪之平付近に移住させられ浪の平町を形成し、さらには浪之平付近はもともと和船の停泊地であったことから、自然発生的に遊廓が誕生します。これを俗に浪之平遊廓といいます。しかし明治24年(1891)頃には貸座敷が14軒、遊女も70名を数え、当局などは外国人居留地の近くということもあって風紀上治安上の懸念が起こり、さらには将来の工業地帯建設の計画などから遊廓の移転することになり、適地として出雲町が選ばれるのです。そして浪之平遊廓の歴史は出雲町遊廓に受け継がれます。C-268:2006/06/18参照




C-335:小曽根焼(こぞねやき)
越前松平藩御用達の豪商:小曽根家の小曽根乾堂は自ら浪之平を埋立て小曽根町を開き、埠頭などの整備を進めますが、小曽根乾堂の長男:晨太郎(号を星海)は幕末から明治初年ごろ、自邸に焼き窯を築き、趣味で焼き物を始めます。これを小曽根焼、鎮鼎(チンテイ:乾堂の号)焼といい、陶土は天草から仕入れ、陶工に波佐見焼の陶工を招き白磁染付けの焼き物を作らせます。おのずと星海の書や絵を入れた作品が大半を締めます。




C-334:三菱合資会社長崎支店跡/三菱炭坑社跡
(みつびしごうしかいしゃ-ながさきしてん-/みつびし-たんこうしゃ-あと)
小曽根町5-4,5,6(旧 小曽根町)
慶応4年(1868)鍋島藩とグラバー商会によって高島炭鉱の操業が始まり、明治7年(1874)から官営となるも経営が悪化、明治14年(1881)岩崎弥太郎が経営する三菱に譲渡されます。三菱は福井松平藩蔵屋敷跡地に三菱合資会社長崎支店(通称:三菱炭鉱社)を置き、長崎の拠点とし、明治34年(1901)には2階建て洋館の社屋を建てます。さらに桟橋なども整備し、わが国初となる鉄製汽船:夕顔丸を、明治20年(1887)から昭和37年(1962)まで長崎-高島間の足として運行させます。第二次大戦後、三菱合資会社は三菱鉱業と三菱石炭鉱業と分かれ石炭事業を続けますが昭和60年(1985)その使命は終わりを告げ、あわせて三菱炭坑社の建物も解体となります。




C-333:福井松平藩蔵屋敷跡(ふくい-まつだいらはん-くらやしき-あと)
小曽根町5-4,5,6(旧 小曽根町)
安政6年(1859)越前福井藩御用達の豪商:小曽根乾堂は自ら、浪の平の海岸を埋立て越前福井藩専用の貿易埠頭を建設し、埠頭横には越前福井松平藩の蔵屋敷が建てられ、福井から生糸などを仕入れ海外に輸出していました。当時、福井藩は福井城を拠点とした松平家の領地で32万石を誇っていました。




C-332:小曽根町(こぞね-まち)
江戸時代、小曽根町は大浦と戸町の間に位置する海岸線で戸町村大浦郷字堀の内と呼ばれていました。安政6年(1859)越前藩御用達の豪商:小曽根乾堂の手によって越前藩専用貿易埠頭として埋立てられたのが始まりで、文久2年(1862)埋立地の半分を居留地に組み込んだ際、第115代長崎奉行大久保豊後守忠恕が残りの半分を私有地として与え、造成の功績を称え町名としたのが小曽根町の始まりです。




C-331:南山手居留地境石(みなみやまて-きょりゅうち-ざかいひ)
小曽根町1(戸町村大浦郷/小曽根町)【小曽根邸内】
南山手居留地境石があるところは江戸時代、大村領(藩)だった戸町村で、安政4年(1857)ここから北側の戸町村大浦郷が公領となった後に造成され、万延元年(1860)から外国人居留地となります。そしてこの境石ですが万延元年(1860)に居留地の指定が行われた際、設置されたものと考えられます。C-235:2006-5/11・C-220:2006-4/22参照




C-330:立山稲荷神社(たてやま-いなり-)
小曽根町1(戸町村大浦郷/小曽根町)【小曽根邸内】
旧小曽根邸より上手に小曽根家所有地があって、そこの敷地内には立山稲荷神社が置かれています。この立山稲荷神社には次のような逸話が残っています。
立山稲荷神社は江戸時代、長崎奉行所立山役所内にお祀りしてあった稲荷社で、明治維新を受け奉行所が廃された後は小曽根家(A-60:2003-7/13参照)に受け継がれ自邸(小曽根町小曽根郵便局付近)にお祀りされることになります。その後、昭和15年(1940)小曽根邸は軍の長崎要塞司令部に買収され、稲荷社を残し家の者は諫早に移ることになるのですが、引越しの後、要塞司令官の夢枕に稲荷神が「私も諫早に移してほしい」と現れて来たといいます。司令官はすぐに稲荷神を丁重に諫早の小曽根氏のところに移したといわれ、現在、その分霊が小曽根町の小曽根氏の敷地内にお祀りされています。 2004/06/28、2004/06/29 参照




C-329:小曽根邸跡(こぞねてい-あと)
小曽根町1(戸町村大浦郷/小曽根町)【小曽根町郵便局ほか】
越前松平藩御用達の豪商:小曽根家は本博多町(現 万才町)に屋敷を構えていましたが、幕末以降、小曽根町に移ります。明治10年(1877)英国人技士の指導を受け日本人にコンクリート家屋を建てさせ、これは日本初のコンクリート建造物となります。しかし昭和15年(1940)陸軍要塞司令部に接収され小曽根家は諫早上小路の夫人の実家である早田家に疎開します。第二次大戦後、要塞司令部は廃止され、昭和22年(1947)長崎職業安定所となり、昭和43年(1968)長崎公共職業安定所と改称。現在では小曽根町郵便局と駐車場となって当時の面影は残っていません。




小曽根乾堂(こぞね-けんどう)
小曽根乾堂(文政11:1828-明治18:1885)は出島を築造した出島町人の子孫で、乾堂が第13代目にあたり、幼名を六郎、通称を栄、号を乾堂といい、書や絵に長け、特に隷書や篆刻は特に有名で、明治政府となった明治4年(1871)勅命により御璽(天皇の印)、国璽(国の印)を手がけ、日清修好条規の書記も務めます。
小曽根家は本博多町に屋敷を構え越前藩の御用達の商人として利益を上げ、幕末などは土佐藩の志士らや海援隊を手助けし、さらには居留地開発を見こし浪之平海岸の埋立造成を行い、安政6年(1859)小曽根町を開き、貿易用の埠頭を築造します。このほか小曽根小学校の設立や太平寺の建立。琴平神社の移転など浪之平地区の発展に寄与します。墓所:東琴平1(太平寺墓域)。A−60:2003-7/13参照




くんち後片付け中
※明日、くんち最終行事の「直会」があります。
この神事が終わってから再開させてください




くんち後片付け中




くんち後片付け中




くんちでお休み




くんちでお休み




くんちのためお休み




くんち準備のためお休み




くんち準備のためお休み




人数揃いのためお休み




庭見せのためお休み




C-328:私立小曽根小学校跡(こぞねしょうがっこう-あと)
南山手町15-26(戸町村大浦郷/南山手町25番地)
土佐藩御用達の商家:小曽根家は出島を築造した出島町人の子孫で、第13代目の乾堂は土佐藩士らに援助を行うなど精力的に活動を行い、また、江戸時代末期に大浦の南側を造成し小曽根町を拓いたことは有名です。このほか大浦地区の教育にも尽力し、明治11年(1878)小曽根町の家屋を寄贈し小曽根小学校を設立。これは後の浪平(ナミノヒラ)小学校の起源となり、明治15年(1882)中等小曽根小学校。明治19年(1886)尋常小曽根小学校。そして明治20年(1887)現在地に移転し、尋常鎮鼎(チンテイ)小学校となります。




C-327:どんどん坂
南山手町12番地-15番地(戸町村大浦郷/南山手町)
どんどん坂はマリア園の横にある100メートルほど続く石畳の坂道で、南山手を代表する情緒ある坂道の一つです。この坂道の側溝には明治期に造られた特徴ある施工方法がとられ、急な勾配を緩和するため三角溝四角溝が設けられています。名前の由来は、大雨のときなど水がどんどん流れる様子から、あるいは坂道を下るとき勢いがついてどんどん下りる様子からどんどん坂と呼ばれたといわれています。なお、坂の界隈には今でも明治期以降に造られた洋館群を見ることができ、ほとんどが個人所有で保存されています。




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