広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成18年 〜2006年〜
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C-359:金鍔谷塵芥捨場(きんつばだに-じんかいすてば-あと)
戸町3(戸町村下郷)
江戸時代のゴミ処理は各自が焼却したり農家が回収したりと様々でしたが、明治11年(1878)から長崎市は塵芥を片淵監獄裏で野焼きしたり銭座町聖徳寺前の海岸に埋立てるよう定めます。明治28年(1895)風頭山頂に焼却場建設計画が持ち上がるも住民の反対で却下。代わりに金鍔谷の官有地が候補に上がり明治31年(1898)から埋立が開始されます。明治34年(1901)官有地が三菱に払い下げられ(跡地は弾薬庫に利用?)、小ヶ倉の千本松原に移転。大正9年(1920)からは深堀村字野牛島に市営焼却場を作り再び移転となります。第二次大戦を経て、ゴミの増加に対し昭和25年(1950)茂里町の三菱兵器工場幸町工場の一部を買収し塵芥焼却場を完成させ使用。さらに昭和38年(1963)近代的ゴミ処理施設:木鉢ごみ焼却場が完成。長崎市のゴミを一手に引き受けます。その後、東長崎や北部南部などの施設が増設され現在に至ります。




C-358:金鍔次兵衛(きんつば-じへえ)
金鍔次兵衛(慶長8:1603?-寛永14:1637)は大村の貧しい農家の生まれで、父はレオ小右衛門、母はクララおきあ、といい共にキリシタンの洗礼を受けていました。次兵衛も洗礼を受けトマス・デ・サン・アウグチノという名前を持ち、6才のとき有馬のイエズス会セミナリオに入ります。慶長19年(1614)禁教令のためマカオに追放。マカオでは祭司の位を得(叙階)、寛永7〜9年(1630-2)頃、密かに帰国し長崎奉行所に奉行の馬方として潜伏します。当時、次兵衛は「魔法を使ってたちまち姿を消す神出鬼没の男」と呼ばれ弾圧下にも盛んに布教活動を行っていました。また、常に金の鍔の脇差を持っていたところから金鍔次兵衛と呼ばれるようになります。寛永13年(1636)密告によって捕らえられ、翌14年(1637)西坂の丘で穴吊の刑に処せられ殉教します。




C-357:金鍔谷(きんつばだに)
戸町3丁目547(戸町村下郷)
金鍔谷は「谷」という名称ですが洞穴のことをいい、金鍔の由来は江戸時代初め、キリシタンであった金鍔次兵衛が潜んでいたことに始まります。現在では金鍔大師院真照寺が置かれ信仰の場所になっていますが、洞穴は当時のままの姿で残っています。この金鍔大師院真照寺ですが昭和2年(1927)真言宗の峰教順師によって建立されたもので、現在は長崎四国八十八箇所霊場の一つに数えられています。
手袋岩(てぶくろいわ)
金鍔谷と呼ばれる洞穴がある岩を手袋岩といい、戸町方向から望むと手袋(手形)の形をしていて、頂上には地蔵尊などがお祀りされています。




恵美須神社【戸町神社境内】
戸町神社末社の恵美須神社はもともと海岸近くの戸町村下郷字舟津付近にあったもので、創建は不明ですが戸町村の漁民らが古くからお祀りしたものでした。明治42年(1909)神社周辺に人家が多く立ち並ぶようになったため戸町神社境内に移転となります。
稲荷神社【戸町神社境内】
稲荷神社の創建は不明ですが、石祠に「明治廿七年舊九月十五日坂本C五郎」とあるところから当時はすでにお祀りされたものと考えられます。




C-356:戸町神社(とまち-じんじゃ)
戸町2丁目(戸町村下郷字上ノ山)
戸町神社は寛永3年(1626)第5代長崎奉行水野河内守守信の命によって戸八浦(戸町浦)に保食大神(ウケモチノオオカミ=稲荷神)をお祀りしたことに始まり、当初は松尾神社または杉ノ浦神社と称し、ささやかながらも戸町村の鎮守神として崇敬を集めます。明治維新を受け明治元年(1968)から戸町神社と改称。以降、整備が進み明治38年(1905)に社殿が完成し、明治40年(1907)からは例大祭が盛大に行われるようになります。戸町では戸町くんちと称し10月19日が祭事になっています。




C-355:戸町(とまち)
戸町という地名は、半島(長崎半島)の入口の意味から付けられた説。船の停泊地という意味の門泊(トハチ)から戸八となり戸町となった説とあり、当時、戸町の湾を戸町浦(戸八浦)とも呼んでいました。また、戦国時代など戸町氏の所領でもあり、戸町氏の城跡は現在の上戸町:宝輪寺付近といわれています。江戸期からは戸町村となり大浦郷、浪ノ平郷、上郷、下郷、蓑尾郷と分かれ大村藩の領地に属します。このほか西泊と対の関係で東泊ともいい、東泊の渓(トウハクノケイ=谷の意)という意味から唐八景の由来となったともいわれています。安政4年(1857)から幕府領(天領)となり、明治22年(1889)から西彼杵郡戸町村、大正2年(1913)から長崎市に属し、現在では海岸地区に造船所などの工業地域が、内陸部には住宅地が立ち並び南長崎の中心的地域でもあります。




C-354:鶴海(戸町)遊廓跡
戸町1丁目(戸町村字小菅平)
安政4年(1857)幕府は外国人居留地の準備のため戸町村を公領とし、内外の船の停泊地だった大浦海岸の日本船舶について安政6年(1859)、戸町および西泊の番所近くの港内に変更させます。その後、戸町には自然発生的に遊廓が誕生し、ここを鶴海遊廓と称するようになり、大正14年(1925)には貸座敷21件、遊女262人を数え、鶴海検番には21人の芸妓が在籍していました。その後、第二次大戦後も賑わいを残すも昭和33年(1958)売春禁止法の施行によって廃止され、現在でも一部に当時のたたずまいを見つけることができます。




国分町の碑
国分町7(戸町村字下郷小菅平)【国分氏宅内】
国分町の碑国分町の誕生の由来が記された碑で、国分町を拓いた国分顕蔵の功績が刻されています。碑題字は当時の長崎県知事:佐藤勝也、碑文を当時の長崎市長:田川努によって書かれ、昭和38年(1963)に建立されました。
国分慶英之碑【国分氏宅内】
国分慶英(明治30:1897-昭和61:1986)は国分町を拓いた国分顕蔵の子で、農商務省や大阪府などに入った後、大正10年(1921)長崎市農会設立に尽力し長崎の農業振興に貢献します。昭和15年(1940)惜しまれて退任し、昭和21年(1946)まで旧満州国で農業振興のために渡航。帰国後は日本農友会、県市農業委員などを歴任し後進の指導にあたります。碑は昭和38年(1963)農友会20周年を記念して建立されたもので、碑題字は当時の長崎県知事:佐藤勝也、碑文を当時の長崎市長:田川努によります。




C-353:国分町(こくぶ-まち)
国分町(戸町村下郷字小菅平/字南平)
明治維新を向かえ戸町番所は廃止となり明治になって国有地となるやグラバーが所有することになります、しかしグラバーの業績不振により三菱の岩崎家の所有となると土地は林野化してしまいます。旧対馬藩士:国分顕蔵(嘉永2:1849-大正12:1923)は明治18年(1885)戸町村戸長から明治38年(1905)村長に就任し戸町村の行政を司り(明治31年長崎市編入)、その後、国分氏は明治25年(1892)岩崎久弥氏より旧番所の土地を譲り受け、明治30年(1897)長崎港湾第一期改良工事(2003/05/04参照)の埋め立て用土砂をこの地から提供します。採掘場はその後、果樹園となるもすぐに宅地化され、やがて80戸ほどの町となり大正2年(1913)国分氏の功績から国分町が誕生するのです。




C-352:戸町番所跡(とまちばんしょ-あと)
国分町(旧戸町村下郷字小菅平)
寛永12年(1639)江戸幕府は海外への渡航および帰国を禁止し、合わせて長崎港への異国船の警備を強化。寛永15年(1638)には野母遠見番所が置かれ、翌16年(1639)御用船を細川藩などに配置させます。寛永18年(1641)になると海防施設として番所を設置することになり、筑前黒田藩:黒田右衛門佐忠之の江戸参府を中止させ長崎警備に当て、港口に当たる西泊に番所を設けます。翌19年(1642)には肥前鍋島藩も加わって戸町に番所を置き、常時500人づつを駐屯させ警備に当たらせました。この二つの番所を俗に沖の両番所または千人番所海手番所といい、幕末の元治元年(1864)までわが国の異国船防備の第一線を飾ります。なお、現在、番所境界石を表す石標柱が4本残っています。県指定史跡。




C-351:戸町隧道(とまちずいどう)
小菅町-戸町2丁目間
戸町隧道、通称:戸町トンネルは昭和8年(1933)に総工費18万6,000円をかけて建設された長さ327メートルのトンネルです。このトンネルの開通以前は国分町の海岸線をまわらなければならず、開通により戸町地区の住民は大変便利なものになります。また、第二次大戦中は軍需工場に当てられたともいわれ、現在も現役で活躍中のトンネルは、国道499号線(旧 県道長崎野母港線)の長崎と野母半島を結ぶ重要な路線の一部をなしています。なお、トンネルの出入口部の装飾は、大正15年(1926)に完成した日見トンネルに大変酷似したものになっています。




〇「明治天皇行幸所小菅修船場跡」の碑【ソロバンドック内】
明治天皇は明治5年(1872)西国ご巡幸を実施され、6月14日、ご召艦:龍驤(リュウジョウ)で長崎港に入港されます。長崎の滞在は17日までで、滞在中、立山の長崎県庁、飽ノ浦造船所、そして小菅修船場などをご見学になり、次の寄港地:熊本に向かいます。
この「明治天皇行幸所小菅修船場跡」の碑ですが、昭和15年(1940)建立されているところから、紀元2600年を記念した戦時色の強いものと考えられます。参照A−54:2003/07/06




〇小菅修船場曳揚機上屋(-ひきあげき-うわや)【ソロバンドック内】
小菅修船場が使用されていた当時、レール上には船の曳き揚げワイヤーがあって、陸上にある機械と船とをつないでいました。この機械やボイラーなどを収納していたのが煉瓦造り平屋建ての曳揚機上屋で、機械はわが国最古の蒸気機関といわれるグラバーが取り寄せたイギリス製です。また、建物自体、安政5年(1858)頃にオランダ人技師から製造を伝授され日本人によって造られた赤煉瓦を使用し、明治元年(1868)完成は薄手煉瓦造の建物としては大変価値のあるものといえます。なお、当時の赤煉瓦は形状からこんにゃく煉瓦と呼ばれ、一説には赤煉瓦は岩瀬道付近で製造されたということです。




C-350:小菅修船場跡/ソロバンドック(こすげ-しゅうせんじょう-あと)
小菅町5(旧戸町村下郷字小菅)
薩摩藩士の五代友厚(才助)と重臣:小松帯刀らは、小菅浦に船の修船場つまり造船所建設を計画。小松帯刀とトーマス・グラバーなどの出資で慶応3年(1867)4月建設を始めます。翌明治元年(1868)12月に完成し、形式は自然の地形を利用したもので、ドックの全体に傾斜をつけ、船を引き上げるレールに船台を載せて利用する仕組みになっていて、船台とレールの様子がソロバンに似ているところから人々はソロバンドックと呼ぶようになります。また、船の曳き上げの機械やボイラー、レールなど一式をグラバーの世話によってイギリスから輸入し、これが我が国初の近代造船施設となるのです。
翌2年(1869)明治政府は、軍艦御買上御用掛となった五代帯刀と長崎製鉄所頭取となった本木昌造の意見により、所有者のグラバーから洋銀12万ドルで小菅修船場を買収し官営長崎製鉄所の所有とし、その後、再び三菱造船所の所有となり昭和28年(1953)まで漁船や保安庁警備艇などを作っていましたが造船工作部の改革で閉鎖となり、現在は三菱の管理下で保存されています。国指定史跡。




C-349:浄土真宗勝廓寺(-しょうかくじ)
小菅町4-13(旧戸町村下郷字小菅)
勝廓寺は昭和12年(1937)創建の寺院で、第二次大戦中は長崎三菱造船所の工事事務所にもなっていました。そして昭和20年(1945)の原爆投下時、この場所で被爆した方も多数いたということです。




C-348:小菅町(こすげ-まち)
小菅町(旧戸町村下郷字小菅)
江戸時代、小菅町付近は大村藩戸町村下郷に属し戸町村下郷字小菅といい、明治31年(1898)から長崎市に編入します。大正2年(1913)から郷名が廃され長崎市小菅町となり、さらに昭和49年(1974)の町界町名変更で整理され、現在の小菅町となります。




C-347:長崎外港バイパス/戸町バイパス
古河町〜小ヶ倉町間(4.7キロメートル)
長崎外港バイパス(通称:戸町バイパス)は昭和51年(1976)長崎県が約46億円を投じ開通させた道路で、戸町トンネル付近の交通渋滞解消と長崎市南部地区の発展、および外港部の工業地帯の発展を目指したものでした。完成後、小菅町-上戸町間を長崎市が管理。上戸町-小ヶ倉町間(県道小ヶ倉蛍茶屋線)を長崎県が管理する形を取っていて、将来的には小ヶ倉-上戸町-田上-矢ノ平-蛍茶屋と、市街地をまわる環状道路的役割の道路です。




C-346:恵比須神社(えびす−じんじゃ)
古河町4-17(旧戸町村大浦郷/浪ノ平郷)
古河町の恵比寿神社の創建は不明ですが、社殿前が以前の海岸線で、おそらくこの付近が船溜りがあったものと考えら、漁師などの信仰の対象になったものではないでしょうか。ご神体は恵比寿神の石像で長崎市近郊に多くみられる形体となっています。
ちなみに、神話の中の話ですが、実は恵比須さまとお諏訪さまは、大黒さまの腹違いの兄弟になります。参照2004/04/03




C-345:古河町(ふるこ-まち)
古河町(旧戸町村浪ノ平郷字古河)
江戸時代、古河町付近は大村藩戸町村下郷に属し戸町村下郷字古河、古河平、古河辻などといい、明治31年(1898)から長崎市に編入します。大正2年(1913)から郷名が廃され長崎市古河町となり、さらに昭和49年(1974)の町界町名変更で整理され、現在の古河町となります。
古河町古川町(ふるこまち-と-ふるかわまち)
長崎開港後、市街地の拡大で内町(県庁付近〜市役所付近)が広がるのと同じく対岸の中洲にも人が住むようになり川添町、歌舞伎町、新歌舞伎町と広がっていきます。当時は区画のないまま拡大したため統制されることになり、戸町村字古河(ふるこ:現古河町)の住人が大半を占めるこの界隈は、古河から文字を変え古川町と改められることになります。この古川町は現在の古川町ではなく江戸時代初めから寛文12年(1672)まで使われた名称です。B-163:2004/12/27
〇解牛場(屠牛場)跡
文久2年(1862)グラバーらの発起により戸町村字古河の海岸に解牛場(屠牛場)を完成させます。




C-344:東琴平(ひがしことひら)、西琴平町(にしことひら-まち)
東琴平、西琴平町(旧戸町村大浦郷/浪ノ平郷)
江戸時代から大正2年(1913)までこの付近を浪ノ平郷といい、その後、郷名が廃され町名が付けられます。地域の中心に金刀比羅(琴平)神社があるところから、神社の東側を東琴平町、西側を西琴平町とします。さらに昭和49年(1974)の町界町名変更で整理され、現在の西琴平町東琴平1,2丁目となります。




C-343:小曽根乾堂翁像【金刀比羅神社境内】
小曽根乾堂(文政11:1828-明治18:1885)は出島を築造した出島町人の子孫で、乾堂が第13代目にあたり、幼名を六郎、通称を栄、号を乾堂といい、書や絵に長け、特に隷書や篆刻は特に有名で、明治政府となった明治4年(1871)勅命により御璽(天皇の印)、国璽(国の印)を手がけ、日清修好条規の書記も務めます。
小曽根家は本博多町に屋敷を構え越前藩の御用達の商人として利益を上げ、乾堂は幕末などは土佐藩の志士らや海援隊を手助けし、さらには居留地開発を見こし浪之平海岸の埋立造成を行い、安政6年(1859)小曽根町を開き、貿易用の埠頭を築造します。このほか小曽根小学校の設立や太平寺の建立。琴平神社(厳島神社)の移転など浪之平地区の発展に寄与します。墓所:東琴平1(太平寺墓域)。
この立像は小曽根乾堂の50年祭(没後50年)、長男:星海の30年祭(没後30年)を記念して、浪ノ平小学校の保護者会および同窓会と厳島神社の氏子の手によって昭和9年(1934)に建立されました。A−60:2003-7/13,2006-10-16参照
乾堂翁銅像再建寄附者芳名の碑【金刀比羅神社境内】




厳島・琴平神社合碑再建碑【金刀比羅神社境内】
厳島・琴平神社合碑再建碑は、明治43年(1910)に伊都岐島/市杵島神社と琴平神社の合祀を記念して建立されたもので、碑には寄進者名が刻されています。碑表面の文字は当時の陸軍中将男爵の西島助義(B-238:2005-03/16)によります。
桜樹記念の碑(さくらぎ-きねん-ひ)
桜樹記念の碑は碑文から、明治45年(1912)伊都岐島/市杵島神社と琴平神社の合祀後の整備の一環で植樹されたものと考えられ、桜の苗805本以上の植樹が行われました。
第一期改修工事記念碑
第一期改修工事記念碑は昭和47年(1972)に行われた境内改修工事を記念したもので、碑裏面には当時の長崎市長:諸谷義武の名を見つけることができます。
○婦人会・保育園落成記念碑
婦人会・保育園落成記念碑は大正15年(1926)に開かれた婦人会・保育園を記念したものですが、何の会かは不明。




樟樹栽植記念碑
(くすのきさいしょく-きねんひ)【金刀比羅神社境内】
樟樹栽植記念碑は、明治38年(1905)に行われた樟樹(くすのき=楠)の植樹を記念したもので、碑文から500本の植樹とあります。当時は日露戦争が終結した年で、この植樹は勝利を記念してものでした。
碑文裏「明治三十八年十二月栽種樟樹五百本□□國運火隆盛記念日露戦之戦役焉 高戸源吉




豊金稲荷神社【金刀比羅神社境内】
豊金稲荷神社は金刀比羅神社の末社で社殿北側にお祀りされています。創建は不明で、稲荷社は商売繁盛のご利益があります。
福徳恵美須神社【金刀比羅神社境内】
豊金稲荷神社は金刀比羅神社の末社で社殿南側にお祀りされています。創建は不明で、恵美須神の石像で、恵美須社は航海安全などのご利益があります。




金刀比羅神社金比羅(金毘羅)神社琴平神社について
金毘羅(コンピラ)とは、もともとガンジス川に棲んでいたと伝わる蛇の形をしたクンビーラという魚神で、中国に伝わり鰐魚や蛟竜(コウリュウ=竜になる前の魚の意)と解釈され、その後、日本に伝わります。クンビーラが金毘羅となり金比羅(コンピラ)や琴平(コトヒラ)、金刀比羅(コトヒラ)となり、日本では航海安全の神となり漁師からの信仰を集めます。そして神道での大物主神とあいまって同じものとされ、神社でも寺院でもお祀りされるのです。しかし明治維新の神仏分離の際、ほとんどが神社となり金比羅(コンピラ)神社や金刀比羅(コトヒラ)神社、琴平神社となります。




C-342:金刀比羅神社(ことひら-じんじゃ)
東琴平1-19(戸町村大浦郷/浪ノ平郷/東琴平町)
金刀比羅神社はもともと諏訪神社宮司:青木家屋敷内(現 長崎公園月見茶屋付近)にお祀りされていたもので、明治7年(1874)第11代宮司:青木永元の後、屋敷が廃されたのを期に明治8年(1875)青木家の許可を得て、古河の辻(フルコノツジ)の断崖の上(現 神殿の地)を切り拓きお祀りされます。明治43年(1910)ふもとにあった伊都岐島/市杵島神社と合祀することになり、境内の再整備が行われ現在の形体となります。金刀比羅神社祭神:大物主神(オオモノヌシノカミ)は伊都岐島/市杵島神社祭神:市杵島姫と同様に水の神として航海安全などのご神徳があり、今でも付近の造船関係者の信仰があります。




弁財天伊都岐島について
弁財天とはもともとインドの神話に出てくる水の神:サラスバディのことをいい、中国に伝わり弁才天となります。その後、日本へ伝わると弁財天と文字が変わり寺院でお祀りされるも、神道での水の神:伊都岐島/市杵嶋姫とあいまって同じものとされ、神社でもお祀りされるようになります。現在では弁財天をお祀りする寺院や、市杵島神としてお祀りする神社などが各地にあり、広島県の厳島神社も「伊都岐島/市杵島(イチキシマ)」からきた言葉といわれています。




C-341:伊都岐島/市杵島神社
(いつきしま/いちきしま-じんじゃ)
東琴平1-19(戸町村大浦郷/浪ノ平郷/東琴平町)
元禄4年(1691)、当時、大浦は大村藩領で、時の藩主:大村純長は村の安全と武運長久を祈念し道栄ヶ浜(現 全日空グラバーヒル付近)に弁財天を勧請します。弁財天は漁業の神ということもあり大浦の漁民に厚い信仰を受け、道栄ヶ浜/道栄ヶ崎を弁天岬と呼び、大浦の弁天様と親しまれていました。安政6年(1859)大浦一帯は外国人居留地の造成工事によって住民は浪之平に移転することになりますが、住民は今まで信仰していた大浦諏訪神社か弁財天のどちらか一方を、浪ノ平の鎮守神としてともに移転することになります。そして協議の結果、弁財天を浪ノ平地区の鎮守とすることに決め現在地の下段に移転となるのです。その後、明治維新を受け弁財天伊都岐島/市杵島神社と改称。明治43年(1910)神社上手にあった琴平神社を合祀し現在地に移転し、平成3年(1991)創建300年を期に改修が行われます。一般に伊都岐島/市杵島神社より金刀比羅(コトヒラ)神社の方が有名です。参照:C-282:2006/07/16




C-340:浪ノ平/浪の平町(なみのひら-まち)
浪の平町(戸町村大浦郷/浪ノ平郷)
江戸時代、浪ノ平は戸町村に属し、昔は波原とも呼ばれていて、大浦の入り江と戸町の入り江の中間部にあたり、浪ノ平とは鍋冠山の斜面(平=斜面の意)に面した海岸という意味から来ています。現在の範囲は幕末の万延元年(1860)大浦の居留地開発のため造成された地域で、もともと大浦地区に住んでいた農漁民の代替地とされた場所です。これは外国人との雑居を避けるためのもので、浪ノ平は以降に発展した地域です。明治元年(1868)から浪の平町となりました。




C-339:曹洞宗天長山太平寺(-てんちょうざん-たいへいじ)
浪の平町3-22(戸町村大浦郷)
寛永17年(1640)武蔵国(現 東京都西部)青梅の鈴法寺の虚無僧:端翁門的が長崎入りし、時の第12代長崎奉行:馬場三郎左衛門利重に許しを得、八百屋町に鈴法寺の末庵を建立します。当時はまだ名前がなく、延宝7年(1667)古町橋そばに移転後、享保5年(1720)正式に長nR玖崎寺と称することができるようになります。その後、洪水や火災の難に遭い、維持が困難となるも晧台寺や鈴法寺などの援助を受け、協議の結果、寛延3年(1750)天長山太平寺となり、さらには宝暦7年(1757)新橋町に移転します(古町の地はそのまま虚無僧の止宿所となり松壽軒となります)。明治維新によって再び維持困難となり、明治10年(1877)檀徒だった小曽根乾堂の協力で浪の平町に移転し、墓所などの寄進を受け現在に至ります。参照B−58:2004/08/23




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