広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成18年 〜2006年〜
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D-30:犬ん糞横丁(いんのくそ-よこちょう)
銅座町,江戸町(旧 西濱町,江戸町,銅座町)
第二次大戦前、江戸町の県庁裏から中島川を挟み、西濱町、銅座界隈は細い路地が入り組んでいた地域で、今のような大通りができたのは第二次大戦中の建物疎開が実施されてからでした。以前はバラックなど暗い町並みで、大変不潔な感じの横丁だったため、人々は俗に犬ん糞横丁と呼んでいました。しかし、この犬ん糞横丁は地域の者は使わず、決まって相手の町内に対して呼ぶ言葉でもありました。
三角公園
長久橋のたもと、道路に三角形の公園があって地区の人々は形から三角公園と呼んでいます。同じ三角形でも樺島町の公園は三角馬場といいます。




D-29:久留米有馬藩蔵屋敷跡(くるめ-ありまはん-くらやしきあと)
銅座町4(旧 西濱町)【銅座町郵便局〜日興コーディアル証券】
九州各藩は長崎警備の目的で多くの軍勢を長崎に派遣しなければならず、そのため市内には10数箇所の藩屋敷が置かれていました。藩屋敷は長崎奉行所との連絡業務のほか、長崎に入る世界情勢などを収集するに大変重要な拠点でした。
久留米藩は久留米城を拠点とした有馬氏の領地で21万石の藩でした。




D-28:不動貯金銀行/協和銀行跡
(ふどうちょきんぎんこう/きょうわぎんこう-あと)
銅座町4-1(旧 西濱町)【日興コーディアル証券】
明治33年(1900)不動貯金銀行が東京に創立され、あわせて各地に支店が置かれます。長崎では明治末期から大正初年にかけて西濱町に長崎支店が置かれ、街のシンボルとなるドーム型の社屋が大正3年(1914)に完成します。社屋は当時では最先端の鉄筋コンクリート2階建でセセッション様式といわれるものでした。不動貯金銀行は第二次大戦後の昭和23年(1948)整理合併によって協和銀行となり、平成3年(1991)協和埼玉銀行、翌4年(1992)あさひ銀行、平成15年(2003)りそな銀行となり、平成16年(2004)長崎支店(出張所)は廃止されます。




D-27:崎陽館/富士館跡(きようかん/ふじかん-あと)
銅座町5-4(旧 西濱町)【ステラビル】
明治30年(1897)長崎初となる活動写真(映画)が八坂神社境内で公開され、明治43年(1910)ようやく常設の映画館が西濱町(電気館:現 S東美)に誕生します。当時はもちろん無声映画で弁士による解説がありました。一方で明治42年(1909)には長崎県警による台本の検閲や、大正8年(1919)には県令による活動写真興行取締規則が設けられフィルムの検閲が行われます。第二次大戦中は軍事色が強いものとなり、娯楽的なものは第二次大戦後ということになります。
長崎初となる映画館は明治43年(1910)の電気館(現 S東美)で、翌44年(1911)に喜楽館(現 アーケードS東美隣)、相次いで崎陽館が開設されます。崎陽館は後に富士館と改称し昭和53年(1978)近代的設備のステラ座となり東宝系の映画館として人気を博しています。




D-26:長崎株式取引所跡(-かぶしきとりひきじょ-あと)
銅座町7-30(旧 西濱町)【ダイソー】
江戸時代、長崎の貿易は問屋を中心とした特定の商人のみが行っていて、明治時代になりようやく自由に取引できるようになります。しかし問屋の株を持たなければ参加は難しく抗争などもあったといいます。明治初期には公共的機関の長崎商工会議所(A-85:2003/08/08)の起源でもある長崎商法会議所長崎貿易会所が始まり、明治27年(1894)には米の取扱いの取引所:長崎米穀取引所が西濱町に開設されます。明治29年(1896)取扱い品目に石油製品も加わり長崎米穀石油取引所となり、翌30年(1897)長崎米穀株式石油取引所と改称し、大正8年(1919)長崎株式取引所となります。翌9年(1920)には資本金50万円、株主30人、仲買人20人を誇っていました。
※大正時代の1円は現在の3万円程度。50万円は150億円となります。




D-25:精洋亭跡(せいようてい-あと)
銅座町3-8(旧 西濱町)【旧ユニード/ダイエー銅座町店】
江戸時代末期、長崎市内にも多くの西洋料理店が建つようになり、幕末には小島村の福屋、伊良林の自由亭と次々と開業し、明治17年(1884)西濱町に山浦次吉によって精洋亭がオープンします。当時、精洋亭は西洋料理店とホテルも兼ね備え、先の2軒と共に長崎三大洋食屋と呼ばれていました。さらに精洋亭は明治後期には中国辛亥革命の指導者である孫文も滞在した記録があります。精洋亭はその後、経営者が変わり、昭和36年(1961)、当時、外浦町にあった長崎観光ホテル跡地に移転。名称も長崎グランドホテルとし、長崎を代表するホテルとして多くの政財界の拠点となります。平成19年(2007)廃業。A−49:2003/06/29参照




D-24:三井銀行/東京銀行跡(みついぎんこう/とうきょうぎんこう-あと)
銅座町7-36(旧 西濱町)【三菱UFJ銀行】
明治9年(1876)三井銀行が東京に創立され、あわせて各地に支店が置かれます。長崎では薩摩藩蔵屋敷跡地に長崎出張所が置かれ、同年、三井物産会社(C-213:2006/04/13)も大浦に支店を置きます。その後、営業は昭和初期まで続き、第二次大戦後には跡地に東京銀行が入り昭和55年(1980)まで続き、現在は三菱信託銀行を経て三菱UFJ銀行が営業しています。C-202:2006/04/01参照




D-23:薩摩島津藩蔵屋敷跡
(さつま-しまづはん-くらやしき-あと)
銅座町7-36(旧 西濱町)【三菱UFJ銀行】
九州各藩は長崎警備の目的で多くの軍勢を長崎に派遣しなければならず、そのため市内には10数箇所の藩屋敷が置かれていました。藩屋敷は長崎奉行所との連絡業務のほか、長崎に入る世界情勢などを収集するに大変重要な拠点でした。
薩摩藩(島津藩/鹿児島藩)は鹿児島城を拠点とした島津氏の領地で77万石を誇る大藩で、この薩摩藩蔵屋敷には幕末期、多くの志士が足を運び、後の明治政府大蔵大臣で日本銀行の創立者となる薩摩藩士:松方正義も出入りしていたといわれています。なお、薩摩藩は上小島(白糸付近)にも秘密屋敷なる屋敷を持っていて、どちらかといえばこの西濱町の屋敷は対外的な意味合いがあります。なお、三菱UFJ銀行の駐車場にある楠は薩摩藩蔵屋敷時代のものといわれています。薩摩藩蔵屋敷は明治維新となりその役目を終え、明治6年(1873)長崎の服部誠之助が1,100円で落札します。B-254:2005/04/02参照




D-22:長崎県女子師範学校跡(-じょし-しはんがっこう-あと)
銅座町(旧 西濱町)
明治17年(1884)西濱町築地の公立崎陽師範学校附属小学校内に長崎県女子師範学校が開校。明治19(1886)年女子師範学校は男子師範学校と合併します。明治41年(1908)改めて立山に長崎県女子師範学校が開校。大正12年(1923)男子師範学校が大村に移転したため女子師範学校が桜馬場に移転します。しかし昭和9年(1934)男子と女子の師範学校の入れ替えが行なわれたため大村に移転。昭和18年(1943)西浦上に移転、長崎師範学校男子部・女子部となります。これが後の長崎大学教育学部の前身です。A−203:2004/01/21




D-21:五島福江藩蔵屋敷跡
銅座町6(旧 西濱町)【ホリデーイン長崎】
九州各藩は長崎警備の目的で多くの軍勢を長崎に派遣しなければならず、そのため市内には10数箇所の藩屋敷が置かれていました。藩屋敷は長崎奉行所との連絡業務のほか、長崎に入る世界情勢などを収集するに大変重要な拠点でした。
五島福江藩といえば石田城を拠点とした五島氏の領地で1万5千石の藩でした。
〇五島藩支藩:富江家屋敷跡【ホリデーイン長崎】
五島藩蔵屋敷と同じく富江家屋敷も隣接してありました。富江家は五島福江藩の支藩で五島市富江を拠点とした勢力でした。




D-20:西濱町築地(にしはまのまち-つきじ)
銅座町(旧 西濱町)
長崎開港後、市街地の拡大で内町(県庁付近〜市役所付近)が広がるのと同じく対岸の中洲にも人が住むようになり、川添町、歌舞伎町、新歌舞伎町から旧古川町(B-162:2004-12/26参照)、さらには榎津町、旧鍛冶屋町(B-183:2005/01/16)が形成され、寛文3年(1663)から延宝4年(1676)にかけては、中島川と玉帯川の河口部が築き増しされ濱町(ハマノマチ)が誕生します。ここは現在の西浜町-思案橋間の電車通りにあたり、寛文12年(1672)には町域が広いため東西に分けられ東濱町と西浜町と分割されます。西濱町-東濱町は海岸沿いの町ということで多くの船が出入し賑い、延宝4年(1676)には西濱町が築き増しされ、現在の春雨通り(電車通り)の外側(ステラから三菱信託銀行の方向)へ築き出されます。そしてこの地域を築き増しされた土地ということで築地といい、西濱町築地と呼んでいました。D-7:18-12-7参照




D-19:新道橋(しんみち-はし)
銅座町(旧 東濱町-旧 西濱町境界)
新道橋の架橋年代は不明ですが、おそらく享保10年(1725)築地銅座が完成した際、西濱町築地と築地銅座を結ぶ橋として架けられたものと考えられます。現在の橋は石橋で大正5年(1916)に架けられています。この新道橋は「ペットのいりえ」横にありますが橋の存在に気付く人は少なく、当時はこの橋を境に旧東濱町(銅座跡)と旧西濱町が分かれ、現在でも銅座町と西濱町自治会の境界となっています。なお、新道橋の架かる川(溝:長崎弁でエゴ端)は万屋町付近を上流とした川で、観光通り-新道橋を抜け銅座橋付近で銅座川に流れ込んでいて、新道橋のもう一つ下流には弥生橋という橋が渡されています。




D-18:楠本稲の診療所開業の地
銅座町10(旧 東浜町/銅座跡)【旧えびすパチンコ】
文政6年(1823)出島オランダ商館の医師としてドイツからシーボルトが来日。その年に楠本滝(遊女:其扇:ソノギ)と出会い結婚。文政10年(1827)(イネ)が産まれます。翌11年(1828)シーボルト事件によって国外追放されると、シーボルトの門弟である二宮敬作らによって西洋医学の教育を受け、特に産科を学びます。その後、小島養生所(C-149:2006/01/07)のポンペやボードウィン、マンスフェルトらを師事し、さらには幕末に再渡来したシーボルトからも授業を受けるのです。明治3年(1870)稲が43才のとき東京築地で診療所を開設。は日本初の女医となり明治6年(1873)には宮内庁に命ぜられ宮中御典医となります。明治10年(1877)に帰崎し、改めて長崎で診療所を開業します。明治20年ごろ再び上京し、最期は明治36年(1903)8月食中毒によってこの世を去ります。墓所:晧台寺後山




D-17:銅座大師堂(どうざだいしどう)
銅座町13-11(旧 東浜町/銅座跡)【銅座町自治会事務所】
現在、銅座大師堂は銅座町自治会事務所内にあって、毎年、自治会によって祭典が行われています。銅座大師堂の創建は不明で、銅座が築造された享保9年(1724)以降に建てられたと考えられています。もともとは木造のお堂があったのですが現在は雑居ビルの1階に置かれています。




D-16:シバヤンジ
銅座町(旧 東浜町/銅座跡)
江戸時代中期、東濱町の海岸部が埋立てられ築地銅座(のち銅座銭座)が置かれ、賑わいを見せますが延享2年(1745)に廃されます。その後は海岸部ということもあり倉庫などが建ち並ぶようになります。比較的空き地の多かったためか寛政年間(1789-00)以降には芝居小屋が建ち並び賑わいを見せていました。人々は芝居地と呼び、いつしか訛ってシバヤンジというようになります。位置は銅座釜屋の奥手をいい、現在の長崎銀行銅座支店付近をいいます。なお、八幡町の芝居小屋もシバヤンジと呼んでいました。参照2004/06/13




D-15:銅座釜屋釜屋長屋(どうざかまや/-ながや)
銅座町(旧 東浜町/銅座跡)
江戸時代中期、東濱町の海岸部が埋立てられ築地銅座(のち銅座銭座)が置かれ、賑わいを見せますが延享2年(1745)に廃されます。しかしその後も付近を銅座跡と呼び、特に鋳銅の釜があった場所を銅座釜屋と呼んでいました。そして銅座跡に人家が建ち並んだ後も銅座釜屋または釜屋長屋などと呼び、第二次大戦後も俗称として使っていました。現在は飲食店が建ち並ぶ歓楽街となっていますが銅座から新地へ向かう曲線の道付近をいいます。




D-14:旧 銅座橋/大正橋(きゅう-どうざばし/たいしょうばし)
旧 銅座橋は享保10年(1725)築地銅座が完成した際、築地銅座と船大工町を結ぶ橋として架けられたもので、当初は土橋で嘉永4年(1851)石橋に変わります。大正4年(1915)鉄筋コンクリート橋となり、大正時代にちなみ大正橋と改称されます。現在、大正橋は銅座市場の西側出口に位置しますが橋の存在に気付く人は少なく、また、この橋の下流から小島川(銅座川)が顔を出しています。なお、現在の銅座橋は新地町と銅座町を結ぶ橋をいいます。C-192:2006/03/23参照




D-13:銅座稲荷神社(どうざ-いなりじんじゃ)
銅座町14-6(旧 東浜町/銅座跡)【銅座名店ビル5階】
現在、銅座稲荷神社は銅座町所有の銅座名店ビルの屋上にあって、祭事の際は屋上にて祭典が行われています。銅座稲荷神社の創建は不明で、銅座が築造された享保9年(1724)以降に中国人の寄進によって建てられたと考えられています。
言伝えによると@明治の初め、町内で大火が起こり住人が助けを求めていると、突然、銅座稲荷神社の社殿の上に稲荷神が現れ御幣(ゴヘイ)をお振りになったというもの。火の勢いがたちまち止まり類焼を免れたといいます。
A日露戦争のとき(明治37年:1904)、銅座町からは男性23名が出征となり銅座稲荷神社へ戦勝祈願を行います。無事に出発し数日たったある日、町内の家々に稲荷神が現れ“わしは出征した町内の人達の守護をしに、これから戦地に出向くから留守の間を頼むぞ”とお告げがあったとのこと。終戦後、お告げ通りに銅座町の23名は無事に帰還したといわれています。




D-12:永見徳太郎邸跡(ながみとくたろう-ていあと)
銅座町14-4(旧 東浜町/銅座跡)【ユーコーラッキー】
永見家は出島を築造した出島町人の一人で、永見徳太郎(明治24:1891-昭和26:1951)はその流れを汲む豪商の一人でした。徳太郎という名前は代々受け継がれた名前で、明治末期から昭和にかけて活躍した徳太郎が特に有名です。倉庫業を営むかたわら長崎市議会議員やブラジル名誉領事なども務めるなど幅広く活躍し、小説など文芸にも長け夏汀(カテイ・カチョウ?)と号を持っていました。昭和12年(1937)上京後、「長崎版画集」「南蛮屏風」「南蛮長崎草」などの小説を発表するなど、南蛮趣味や海外交渉関係を得意としていました。第二次大戦後、静岡県熱海に住していましたが昭和26年(1951)謎の失踪をとげそのまま行方不明となります。




D-11:淳心園跡(じゅんしんえん-あと)
銅座町13-17(旧 東浜町/銅座跡)【銅座跡パーキング】
淳心園とは児童養護施設のことで、大正4年(1915)に佐々木祐俊が恵まれない子供達のために開いた施設です。設立当初は炉粕町53(踊馬場下付近)にあって、同年、銅座町に移転。銅座町では施設設備が整えられ、さらに大浦保育部や中新町に大善保育部を設けるなど淳心園は児童福祉に幅広く貢献します。さらに大正4年(1915)8月、長崎県初の児童託児所:大浦託児所を開設します。




D-10:銅座跡/銅座町(どうざ/どうざまち)
銅座町(旧 東浜町/西濱町/銅座跡/築町)
江戸時代中期、東濱町の海岸部が埋立てられ築地銅座(のち銅座銭座)が置かれ、賑わいを見せますが延享2年(1745)に廃されます。その後は海岸部ということもあり倉庫などが建ち並ぶようになり、東濱町の町域ですが銅座跡と呼ばれるようになります。明治元年(1868)7月、東浜町から独立して町名が当てられ海岸部を西銅座町、内陸部を東銅座町とし、すぐに10月には両町を銅座町と改めます。このときの銅座町は銅座橋から浜屋デパート裏付近までをいい、昭和41年(1966)町界町名変更で現在の町域となります。




D-9:銅座銭座跡(どうざぜんざ-あと)
銅座町(旧 東濱町/銅座跡)
寛文元年(1661)輸出用の和銭を鋳る銭座が長崎村馬場郷(現 伊勢町)に置かれ、元豊通宝(1文銭)と呼ばれる銭が鋳られます。そして輸出増加のため寛保元年(1741)には休止していた築地銅座に再び火が入れられることになり、銅銭に代わって鉄銭が鋳銭することになり、市民はこのお金を銅座銭と呼んでいました。実際は寛永通宝が鋳銭され、唐人屋敷などで利用する遣方銭として製造されます。しかし4年後の延享2年(1745)に廃止されます。




棹銅(さおどう)
江戸時代初期、日本からの輸出は金や銀が中心でしたが莫大な流出で(2006/02/25参照)、幕府は元禄10年(1697)銅による支払いに変更する銅代物替(ドウシロモノカエ)を実施します。銅は銅銭から直接、銅の現物を輸出するようになり、これが棹銅と呼ばれる銅の延べ棒です。棹銅は長さ約80センチメートル、直径が1.5センチメートルで、重さが約1.2キログラムで、大変純度が高かったといいます。銅は出羽秋田、陸奥南部、伊予別子より産出され、大坂へ送り、大坂の堂島で精錬し長崎に送られるという仕組みになっていて、一時期ですが長崎の築地銅座でも精錬されます。




D-8:築地銅座跡(つきじ-どうざ-あと)
銅座町(旧 東濱町/銅座跡)
江戸時代初め、日本の輸出品は銀が中心で、銅も輸出されるも生産不振のため中止されていました。しかし銀の流出が増えたため再び銅の生産を進め、正保3年(1646)銅の輸出禁止が解かれます。当時、中国では銅の産出がなく、そのため日本からの銅は大変貴重なもので、特に東南アジアでの商品買い付けには銅銭が用いられていました。それまで銅は大坂で製錬、鋳銅され長崎廻銅として送られていましたが、輸送費や相場などの関係で長崎での鋳銅と考えられ、海に面した東濱町が選ばれることとなります。享保9年(1724)石田嘉平次が発起人となって東濱町の海岸が埋立られ、翌10年(1725)鋳銅所(銅吹所)が完成。東濱町の築地に造られたということで築地銅座と呼ばれていました。しかし、経費の関係で元文3年(1738)築地銅座は廃止され、銅は大坂で再び鋳銅されることになります。築地銅座は、わずか13年の操業でした。




D-7:東濱町築地(ひがしはまのまち-つきじ)
銅座町(旧 東濱町/銅座跡) 
長崎開港後、市街地の拡大で内町(県庁付近〜市役所付近)が広がるのと同じく対岸の中洲にも人が住むようになり、川添町、歌舞伎町、新歌舞伎町から旧古川町(B-162:2004-12/26参照)、さらには榎津町、旧鍛冶屋町(B-183:2005/01/16)が形成され、寛文3年(1663)から延宝4年(1676)にかけては、中島川と玉帯川の河口部が築き増しされ濱町(ハマノマチ)が誕生します。ここは現在の西浜町-思案橋間の電車通りにあたり、寛文12年(1672)には町域が広いため東西に分けられ東濱町と西浜町と分割されます。享保9年(1724)には鋳銅所建設のためさらに築き増し工事が進められ、このとき現在の銅座町域はほぼ完成します。しかし、住人は少なく東濱町の町域だったため東濱町築地と呼ばれていました。




D-6:春雨通り(はるさめどおり)
浜町-銅座町境界(旧 西濱町/東濱町/銅座跡)
昭和26年(1951)長崎市は西浜町-思案橋間の路面電車線路上に不法に露天(バラック)を建て居住していた住民に対し強制撤去を開始。住民は玉帯川(銅座川)を暗渠化した区域に移住となります。この暗渠化工事の際、思案橋も撤去され姿を消し、現在の電車通りが完成します。そして長崎市はこの通りを花街丸山にちなみ端唄「春雨」から春雨通りと命名するのですが、付近住民には不評で「思案橋通り」へ変更するよう申し出があったほどでした。
この端唄「春雨」ですが、江戸時代末期、小城藩士の柴田花守によって作られたもので、昭和18年(1943)この唄の記念碑が花月庭園内に建てられます。C-107:2005/11/15参照




D-5:長崎電軌西浜町-正覚寺下間
長崎の路面電車(長崎電軌軌道株式会社)は大正4年(1915)に第一期線:病院下(現 長崎大学付属病院下付近)〜築町間が開業。第二期線として大正9年(1920)までに大浦線や桜町、馬町までが開通。そして大正10年(1921)第3期線として西浜町〜思案橋間が開通します。思案橋までの開通は花街丸山への導線にもなり、途中には銅座町電停(昭和5年から柳通:ヤナギドオリ)が設けられました。この路線は第二次大戦の影響などで昭和19年(1944)に一旦廃止され、さらに終戦後、線路上に一夜にしてヤミ市場が建ったため再開ができず、昭和28年(1953)にようやく復旧し、開通と同時に柳通観光通に改称されます。なお、正覚寺下までの延伸は昭和43年(1968)のことでした。




D-4:石橋忍月邸跡(いしばしにんげつ-ていあと)
銅座町14-4(旧 東濱町/銅座跡)【旧 山一證券ビル】
石橋忍月(慶応元:1865-昭和元:1926)は福岡県黒木町出身で本名を友吉といい、東京帝国大学独逸法律学科に入学し、在学中、雑誌「国民の友」で文学批評などを行い、森鴎外短編小説「舞姫」などに対しての批評は論争まで発展したことは有名。卒業後は内務省に入り、その後、新聞記者や弁護士を経て明治32年(1899)長崎地方裁判所検事として来崎します。長崎では市会議員、県議会議員などを歴任。田中田士英(B-168:2005-1/1)らと長崎新報懸賞俳句選者となり、大正10年(1921)「長崎あざみ会」を立ち上げ俳壇の指導者として尽力します。また、大正7年(1918)長崎游泳協会会歌を作り多くの人々に愛されます。なお、文芸評論家の山本健吉は彼の三男にあたります。墓所:八女市無量寿院




D-3:柳町六軒長屋(やなぎまち-ろっけんながや)
銅座町14〜浜町6(旧 東濱町/銅座跡)
第二次大戦中の建物疎開が実施される以前は、現在のような中央橋から思案橋までの大通りはなく、春雨通りは木造家屋が建ち並ぶ大変ひと気の少ない地域で、その区域を直線に路面電車が通り抜けていたといいます。
ちょうど現在の観光通電停付近から銅座市場付近まで、線路沿いに一本の細長い路地があって、特にここは柳が数本植えてあったところから俗に柳町と呼ばれていました。さらにそこから思案橋にかけては古い長屋が建ち並び、現在でいうところの思案橋ラーメン付近には6軒の長屋があって、俗にここを六軒長屋と呼んでいました。




D-2:銅座市場(どうざいちば)
銅座町15-船大工町1境界線上
第二次大戦中、西浜町(現 中央橋付近)から思案橋にかけて建物疎開が実施され、電車線路を残し幅45メートルの空地がつくられます。昭和23年(1948)幹線道路化計画が起こり歩道上に露天を並べる計画を立てるのですが、その計画を知ったヤミ商人らは先を争って電車線路に露天(バラック)を建て、一夜にしてヤミ市場を作ってしまいます。
昭和26年(1951)7月。長崎市は不法建築物強制撤去に乗り出し、その移転先として銅座川を暗渠化してマーケット街を建設し移住させるものでした。同年10月。銅座市場が完成。木造モルタル2階建ての現在の建物が完成し、歓楽街の市場として現在も営業が続けられています。C-48:2005/07/04参照




D-1:思案橋跡(しあんばし-あと)
寛永時代(1624〜)に入ると長崎の町も中島川東岸から玉帯川河口へと市街化が進み、鍛冶屋町や油屋町、本石灰町に本籠町といった街が開かれます。さらに寛永19年(1642)遊郭が集められ丸山が開かれると小島川の河口に架かる川口橋の需要が増え、意味合いが変わってくるのです。一方、元和4年(1618)江戸に吉原が開かれ、吉原の遊郭入口に橋が架けられます。遊郭に向かう男の心情を表してか思案橋と命名。さらに新吉原遊郭の周りの溝を「お歯黒どぶ」と呼ぶところから川を黒川と称していました。そしてこれが転じてか、長崎丸山の遊郭入口の川口橋もいつしか思案橋または黒川橋と呼ぶようになったといわれ、橋は丸山の門前橋となり多くの登楼の人で賑わいを見せます。一方、長崎ならではの説として、当時、本石灰町に屋敷を構えていた探検家の嶋谷市左衛門がシャム(現タイ)で購入した唐船を長崎に持ち込み、その解体材で橋を架けたのでシャム橋となり、後に訛って思案橋となったともいわれていますが定かではありません。
橋は土橋から木橋(板橋)、木橋に屋根のある木廊橋となり再び木橋へ、しかし明治初年の火災で焼失。明治8年(1875)石橋となるも大正3年(1914)鉄筋コンクリート製となります。昭和30年代(1960)路面電車の延伸工事、道路拡張で暗渠化され思案橋は姿を消します。C-50:2005/07/06参照




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