広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成19年 〜2007年〜
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D-60:出島水門(でじま-すいもん)【史跡出島和蘭商館跡】<西側>
水門は水を止める意味の門ではなく海上への出入口という意味で水門といい、普段は施錠され鎖で閉ざされている門で、オランダ船入港時の荷揚げや、出航時の輸出品積み出しの際のみ鎖が外されます。また、オランダ船への積み下ろしは、オランダ船が直接、水門に横付けするのではなく、船は湾の中央に停泊して艀(ハシケ=小型船)によって荷物が運ばれ、積み下ろしが行われていました。このほか水門の外には荷揚げおよび荷下ろしができるよう小さな空き地が設けられ、その空き地の先は石段で海に接します。水門は長崎港改良工事などで撤去され姿を消しましたが、平成18年(2006)復元され当時の様相がうかがえるようになっています。




D-59:旗竿(はたざお)【史跡出島和蘭商館跡】<中央南側>
現在ある旗竿は平成12年(2000)日蘭交流400年記念事業の一環として設置されたもので、オランダの祝日など特別な日にはオランダ国旗が掲揚されています。実際、本来の旗竿の位置は出島西側に位置しますが設置場所の関係で現在地になっています。
1810(文化7)年から1815(文化12)年、オランダはナポレオン戦争によってフランスに併合。この期間だけはオランダという国が存在しませんでした。そういった中、日本の出島のオランダ商館だけはこの期間もオランダの国旗が掲揚されていて、のちの歴史の解釈になりますがオランダにとって出島の存在は尊敬にも値する場所となるのです。なお、このことは当時の伝達手段が船でしかなかったため、本国の情報がすぐには伝わらないという地理的条件が関係したものでした。




D-58:出島石倉(でじま-いしぐら)
【史跡出島和蘭商館跡】<中央部>
安政5年(1858)出島オランダ商館は廃止されオランダ領事館へと変わり、安政6年(1859)幕府は長崎、神奈川、函館で露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、長崎にも多くの貿易商が入ります。長崎にも相当量の物資が輸入され倉庫などの必要性が急がれます。出島にある石蔵はその当時に建設されたもので、現在は2棟が存在し、東側の旧石倉はグラバー邸などを手がけた小山秀之進の施工によるもので、居留地時代はハルトマンスベシエ商会やクニッフレル商会などが所有していました。その後、昭和31年(1956)に長崎市によって補修され復元されました。また、西側の新石倉は慶応元年(1865)の施工で、昭和42年(1967)長崎市が買い上げ昭和51年(1976)復元されました。ともに現在は資料館などに利用されています。




D-57:長崎内外倶楽部跡(ながさき-ないがいくらぶ-あと)
【史跡出島和蘭商館跡】<中央南側>
慶応2年(1866)出島は外国人居留地となり、明治32年(1899)からは条約改正で外国人の市中雑居が認められるようになります。そういった中、長崎の政財界からの呼びかけで英国風の男性クラブ「長崎内外倶楽部」が結成され、長崎に暮らす外国人と長崎の政財界人との交流の場が設けられます。始めは精洋亭で会合が持たれ、後に浜町の港湾事務所へ移転。そしてメンバーの中心であった倉場富三郎が、実業家であるフレデリック・リンガー(参照2006/09/03)に要請して明治36年(1903)現存する洋館を建設。以降ここで様々な会合やビリヤード大会、晩餐会などが行われることになります。しかし第二次大戦が始まる頃に休止状態となり自然消滅となります。第二次大戦後、建物は所有者のリンガーに返還。後に長崎市が買収し出島復元のために整備が行われ、現在では資料館などに利用されています。




D-56:デジマノキ(出島の木)
【史跡出島和蘭商館跡】<中央南側>
デジマノキは正確にはナンヨウスギ(南洋杉)科の常緑樹で別名をコパールノキ(学名:アガチス・アルバ)といい、主に東南アジアに自生している植物です。大変生長が遅く、高さが10メートル、目通り1.5メートルになるには100年ほどかかるといわれ、デジマノキに関しては高さ10メートル、目通りが1.2メートルあるところから、江戸時代末期にオランダ人によって持ち込まれ植えられたものと考えられています。当時、オランダはジャワ島のバタビア(現 インドネシア首都ジャカルタ)に東インド会社の拠点を置いていたところから、デジマノキオランダ交易の生き証人ともいえるでしょう。県指定天然記念物
なお、デジマノキは当初、日本に存在しない植物だったため種類が分からず、ある植物学者がとっさに「デジマノキ」と述べ、それが名称になったという笑い話も存在します。




D-55:出島神学校跡(でじましんがっこう-あと)
【史跡出島和蘭商館跡】<東側>
江戸時代末期、開国してまもなくアメリカ・プロテスタント監督教会(聖公会)は、直ちに日本に向けて宣教師を送り込み、明治6年(1873)禁教令の撤廃を受け、明治8年(1875)居留地となった出島に日本監督教会が開設し、神学校に設けられます。この教会は日本人専用のキリスト教(プロテスタント)の教会で出島教会と呼ばれ日本聖公会による教会でした。発足時の信徒数は7名で、明治20年(1887)には339名に上り、明治23年(1890)大村町(現 万才町国道付近)に移転。明治28年(1895)に長崎聖三一教会と改称し、その後、現在の大浦町に移転します。なお、現存の建物は明治11年(1878)に建てられたわが国最古のキリスト教(プロテスタント)神学校だったところで、大正6年(1917)からは朝永病院の所有となり、平成7年(1995)長崎市が買収し出島復元のために整備が行われ、現在では資料館などに利用されています。C-219:2006/04/21参照




オランダ石門【史跡出島和蘭商館跡】<東側>
オランダ石門はアーチ型のゲートでオランダ大使館より提供されたものです。
陶製の門柱【史跡出島和蘭商館跡】<東側>
門柱は昭和29年(1954)長崎市立博物館からこの出島に移設されたものですが、もともとは出島居留地にあった店舗のもので、「マーストリヒト」製と刻されているところから、オランダのペトウルス・レグウー窯のものと考えられています。




D-54:フレンドシップメモリー【史跡出島和蘭商館跡】<東側>
フレンドシップメモリーは、昭和45年(1970)大阪で開催された日本万国博覧会にポルトガル政府が出品したモニュメントで、万博終了後にポルトガル政府から長崎県に寄贈され、昭和48年(1973)長崎市に譲り渡され、後に出島に展示することになりました。製作者は彫刻家のマルティンス・コレイア(Martins Correia)で、真鍮鋳物製のモニュメントは日本とポルトガル交流に尽力した人物が施してあります。その人物は、フランシスコ・ザビエル(Francisco Xavier:1506-1552)、ジョルジュ・アルヴァレス(Jorge Alvares)、ジョアン・ロドリゲス(Joan Rodrigues:1561-1634)、ルイス・デ・フロイス(Luis de Froes:1532-1597)、ヴェンセスラウ・デ・モラエス(Wenceslau de Moraes:1854-1929)、ルイス・デ・アルメイダ(Luis de Almeida:1525-1583)です。




D-53:ミニ出島【史跡出島和蘭商館跡】<東側>
「ミニ出島」は当時の出島の姿を解りやすく再現した模型で昭和51年(1976)に作られました。もとになったのは文政年間(1820頃)に描かれた川原慶賀の「長崎出島之図」で、実際の大きさの15分の1の姿です。




D-52:シーボルト里帰り植物【史跡出島和蘭商館跡】<東側>
シーボルトは日本滞在中、日本の植物の研究のために多くの植物をオランダへ送っていて、そのうち約260種は今もライデン大学付属植物園に生育しています。そして平成12年(2000)日蘭交流400年記念事業の一環として、カエデ科イロハモミジ、ブドウ科ナツヅタ、マメ科フジ、アケビ科アケビ、ニレ科ケヤキの5種類が出島に移植、里帰りとなりました。なお、シーボルトが送った植物のうち、数種類が帰化植物となりオランダで大繁殖して被害が出ているところもあるそうです。




鉄製大砲(てっせいたいほう)【史跡出島和蘭商館跡】<東側>
出島に屋外展示されている大砲は、昭和39年(1964)浦上川河口しゅんせつ工事で偶然見つかった大砲で、VOC(オランダ東インド会社)の文字が刻まれていることや、オランダ船が浦上川で座礁した記録があることから、オランダ船搭載のものと考えられています。なお、このときは2門の大砲が発見され、昭和29年(1954)にも同じような大砲が発見されています。




きゃぴたん橋葡萄棚(-ぶどうだな)【史跡出島和蘭商館跡】<東側>
きゃぴたん橋葡萄棚」とは寛政10年(1798)以後の出島絵図をもとに復元された施設で、昭和40年(1965)に設置されました。きゃぴたん橋は小さな用水地に架かっていて、当時、用水地の水は付近の薬園の水まきに使用していました。また、きゃぴたん橋の上には葡萄棚も設けられ夕涼み用の涼し処もあったそうです。なお、この葡萄棚のブドウは夏になると毎年小さな実をたくさんつけています。きゃびたん橋の「きゃぴたん」とは商館長のカピタンのことです。




D-51:オランダ・ウィリアム・アレキサンダー皇太子記念植樹
【史跡出島和蘭商館跡】<中央北側>
平成2年(1990)オランダ王国のウィリアム・アレキサンダー皇太子が「長崎旅博覧会」等の行事参加のため来日。滞在中、出島オランダ屋敷跡をご訪問され、記念にハナミズキを植樹されました。




D-50:出島先学顕彰薬園碑所在標
(でじま-せんがくけんしょう-やくえんひ-しょざいひょう)
【史跡出島和蘭商館跡】<中央北側>
この碑はシーボルトが建てた「ケンペル・ツュンベリー記念碑」に対して、シーボルト顕彰会が建立したもので、シーボルト来日250年を記念して昭和48年(1973)行われました。さらに、ケンペルツュンベリーそしてシーボルトは、日本の植物に関して特に関心を持ち、その成果を広く海外に広めるのですが、その研究の場がこの出島内の薬草園だったこともこの碑は表しています。




D-49:「バトミントン伝来の地」の碑
【史跡出島和蘭商館跡】<中央北側>
碑文より、古文書「紅毛雑話」には江戸時代の出島の様子が詳しく紹介されていて、その中の「長崎阿蘭陀屋敷絵図」にはバトミントンの用具によく似た「ラケット(羽子板)」に「フーランタ(羽根)」の図や、それらを使って屋外で遊んでいる様子が収められています。これはバトミントンが発祥となったイギリスのバトミントン村での競技開始年の1873(明治6)年を100年以上さかのぼる天明年間(1780年代)のことでした。
この碑は長崎県バトミントン協会の創立30周年を記念して昭和54年(1979)に建立されたものです。




エンゲルベルト・ケンペル
<Engelbert Kaempfer:ケンプファー(1651:慶安4-1716:享保元)>
ケンペルは植物学や医学が専門のドイツ人で元禄3年(1690)にオランダ医として来日し(元禄5年まで)、2年間の滞在中、江戸参府も果たすなど精力的に活躍。日本の政治や宗教、風俗などを始めてヨーロッパに紹介した人物といわれています。
カール・ペーター・ツュンベリー
<Carl Peter Thunberg(1743:寛保3-1828:文政11)>
ツュンベリーはスウェーデン人で、近代植物学の祖であったリンネを師事し、医学や薬学にも長け、安永4年(1775)の来日後(安永5年まで)、多くのオランダ通詞に医学や薬学などを指導し、江戸参府随行中には多くの蘭学者を育てます。さらには「日本旅行記」を書き、日本の政治経済や出島の生活など幅広くヨーロッパに紹介した人物です。
ドクトル・フォン・シーボルト
<Dr.von SieBold(1796:寛政8-1866:慶応2)>
シーボルトはドイツ人で文政6年(1823)来日。出島オランダ商館の官医となり、文政7年(1824)には鳴瀧塾を開設、多くのオランダ通詞に医学や薬学などを指導します。しかし文政11年(1828)帰国する際、国外持出禁止の品が見つかり(シーボルト事件)、翌年国外追放となります。安政6年(1859)来日が認められ、開国に向けてペリーなどに進言を行います。




D-48:ケンペルツュンベリー記念碑
【史跡出島和蘭商館跡】<中央北側>
この記念碑は出島オランダ医であったシーボルトが、先任者であった同じオランダ医であったケンペルとツュンベリーの功績を称え文政9年(1826)に建立した碑で、後にこの三人を出島三学者と呼ぶようになります。県指定史跡。
碑文「E.KAEMPFER、C.P.THUNBERG.
Ecce! virent Veatrae hic plantae florentque quotannis Cultorum memores,serta feruntque pia. Dr. von Siebold.」
和訳「ケンペル、ツュンベリーよ見られよ。
私達の植物が、ここに来る年毎に 緑そい咲きいでて、そが植えたる 主をしのびては、愛でたき花のかつらを なしつつあるを」(呉秀三 訳)




出島番士(でじま-ばんし)
寛永13年(1636)出島完成当時の表門には守衛(番士)が2名配置されていましたが、その後、増員され5名体制となります。寛文12年(1635)船番役が新設され海上の警備も行われるようになり、正面入口と海上で厳重な取締りが行われます。そして5名の番士と数名の探番(サグリバン)が交代常勤し、番士が出入りを改め、探番が身体検査(ボディーチェック)を行うやり方で、不審な者は容赦なく検挙していました。また、一般の出入りは禁止されていましたが、長崎奉行を始めとする役人の出入りは自由で、商人や職人などは許可制となっていました。
入場に際しては、まず@居住地や宿泊地の乙名に申請を出すA各町の乙名は出島乙名に要件と人数を申請B出島乙名が町年寄に許可をもらい焼印の入った出嶋門鑑を受領、そして申請者に下付。という仕組みになっていました。そして番士出嶋門鑑を提示して入場となるのですが、草刈や料理人などは出島乙名やオランダ通詞などが人選した者がつき、さらに長崎警備に関係のある藩主や家臣などは長崎奉行の許可を得れば見物が許されていました。




D-47:出島表門/正門(でじま-おもてもん/せいもん)
【史跡出島和蘭商館跡】<中央北側>
出島は明治20年(1887)からの中島川変流工事によって島の北側半分が削り取られているため本来の北側の線(扇の内側)は中島川の中央付近を走ります。そのため出島表門も現在ある表門より15メートルほど中島川寄りで、川の中心付近に建てられていました。
出島表門は出島が完成した当初から置かれていた建物ですが、時代によって規模や構造が異なり、現在の建物は江戸時代後期の絵図などを参考にして平成元年(1989)長崎市制100周年記念事業の出島整備計画の一環として復元されました。




出島オランダ商館の布教活動の監視
殊更(コトサラ) 宗教上の事に関しては 我等に何の恐るべき目的のある筈(ハズ)なく、我等が行跡挙動よりしても我が耶蘇信仰の光明が閃き渡るが如きことなきこと明らかなりしなり。かく種々の理由ありて憂慮すること毫(スコシ)もなきに関らず、我等は此 獄屋に斎しき地に於て、極めて精密に又厳重に監視せられ、幾多の番人、仲間、組合あり、その人々いづれも誓を立てて、我等を看守りながら、互にかかる誓を立てて 我等を看守り居ることを知らず、各人相互に他人を疑ひつつも、内には内に、外には外に、鎖錮(サコ)されたる上を又取巻き、監視したる上を又も監視してあり。我等は全く正直にして高尚な人格者とは認められず、悪人なり反逆者なり、間牃(カンチョウ)の者、又は罪に囚(トラ)はれたる人とし視、極軽く云ひても日本人の用慎(ヨウジン)したる言葉にて言はづ人質として取扱はれ又預かられ居るなり。云々
【元禄年間(1700頃)ケンプエル江戸参府紀行より(呉秀三 訳)】
※長崎市史(地誌編名勝旧跡部)第三章旧跡「出島」より引用




出島オランダ商館の滞在時の処遇
此の如き少数の兵器弾薬を次の船の着港するまで取上げられて日本に預かられたる 武装せぬ残留者にては更に日本の安全平和を撹乱する様のことはなし得べからず。またかくも少数の人々が而(シカ)も密貿易などをする処のあることもあらじ。まして日本人はすべての品物、我自用品及び商品に付 精細の目録を徴収するのみならず 殊(コト)に売れさらなるものは彼自身の錠と印を以て封鎖して預かり蔵ひ、彼自身の薄冊に極めて精細に登録し、我等が自用の衣類として中に持ちたる羅紗其他の布類すら、之を乙名に与えて盟約を立てたる裁縫師が我等各人に一具の衣類を調成するに要する丈 精細に裁ち切るまで之を保管せしむるなり。
【元禄年間(1700頃)ケンプエル江戸参府紀行より(呉秀三 訳)】
※長崎市史(地誌編名勝旧跡部)第三章旧跡「出島」より引用




出島オランダ商館への処遇と入港時の対応
近頃 又一個の首斬る刑場を創設して、そこにて密貿易者を刑に処するといひ、長崎奉行が此頃余等に揚言せるには将来は日本人のみならず、和蘭人もかかる罪あらばここにて処刑せらるべしとなり。我和蘭人は此の如く狭隘(キョウアイ=狭い)なる場所に於て、此の如き多数の設備をなして、此国に於て閉籠(トジコ)められて居り、目下 此の如き猜疑(サイギ=疑う)の人民に由(ヨ)りて厚遇を受け自由を拡張せんとするの希望なきを以て、姑(シバ)らく現時の状態を以て満足せざるを得ざるなり。
我船舶が毎年一度 此所に入港するや日本人来りて悉(コトゴト)く船中を探検し、搭載の物品目録を徴収し 人々を一人一人極めて綿密に検査し 又登録したる後は気を換(カ)へ勵(ハゲ)ますために、相尋(アイタズネ)きて島に出るを許さる。
碇泊中 二三ヶ月の間は此に留置するものとす。その退帆の後には、和蘭の商館長を始めとして数人はここに留まるを得。其数は七人か、又は随意にこれより多きことあり、従前貿易の自由にして広盛なりし頃には二十人以下になりたることなし。
【元禄年間(1700頃)ケンプエル江戸参府紀行より(呉秀三 訳)】
※長崎市史(地誌編名勝旧跡部)第三章旧跡「出島」より引用




出島オランダ商館の施設ついて
大路の後なる残の場所には家屋と二つの耐火の倉庫とあり。いづれも我商社の費用と一部分は我等の私の費用とをもて築きたるものにして、家屋は貿易の便利の為めに用ひ、倉庫は雨漏、火事、窃盗等に不安心なるものを蔵蓄するに用ふるなり。前に記せる倉庫即ち我住家の下層は雨露、火災の患あるのみならず、兼て盗難の危険あればなり。
なほ其他に之あるは、大なる炊事所一棟 奉行の代理役及び貿易事務官の家一棟 通詞用の家屋一棟なり。此一棟は必要の時 即ち物品取引の時のみに用ふ。なほまた炊事用の蔬采(ショサイ=あおもの)の園圃一つ 遊楽の庭園一つ 小き私用の庭園数箇 浴室一箇等あり。乙名即ち出島の町長も其住宅別宅炊事及び一小園として土地の一部を用ふ。我船舶の碇泊中、開設する小売店もあり。古朽廃損の雑物、縄條、荷物に供する一切の道具、荷解きしたる物品等の置場なり。
【元禄年間(1700頃)ケンプエル江戸参府紀行より(呉秀三 訳)】
※長崎市史(地誌編名勝旧跡部)第三章旧跡「出島」より引用




出島オランダ商館の防犯防火について
出島の境内には三ツの番所あり。島の両端と中央とに分かれてあり。中央の番所は入口の傍(ソバ)にありて、ここに防火の要具を備へ付けたる消防所あり、井池を鑿(ホガ)ちて用水を蓄ふ。水門と水管とありて平時には固く鎖鑰(サヤク=施錠)を施しあれども火災等急の場合には打毀(ウチコワ)して其用に供すべし。その他 飲料水及び庖厨其他の常用に供する水は竹の樋を設けて長崎市街を通過する河流より島内の水溜に導く。これにつきても毎年特別に水料を支払ふなり。
【元禄年間(1700頃)ケンプエル江戸参府紀行より(呉秀三 訳)】
※長崎市史(地誌編名勝旧跡部)第三章旧跡「出島」より引用
※出島で使用する水は小島川上流部(小島小学校下付近)より取り入れていました。




出島オランダ商館の施設と管理について
全島を通じて十字路あり。外圍(イ)の中にも一つの路ありて島を廻はりて行き切要と思ふときには閉鎖することを得べし。雨水は路頭の細く深き溝にて悉(コトゴト)く海の方に走り注ぐ。其直線なる管を用ひず、殊更(コトサラ)に曲折せぬ狭小の管を以て作りたるは、市より島へも島より市へも、何も出入の出来ぬ様にせるなり。
家屋はただ大なる十字路の両側に列なるのみなり。この家屋は長崎の数個市民の費用にて造り、全島の経営もその人々による故、我等は、彼らの後裔に甚だ不廉(フレン)なる最初の契約に基づきて毎年六千五百十匁(六十五貫目)を支払ふなり。是れ大に実價に超過したる巨額なり。
家屋は総て木造にしてその建築は甚だ疎末なり、外観は凡そ山羊の厩舎の如くにて粘土と松の木にて突合せ、二階建にして一階は荷造用の物置とし、二階は住居とす。住まふ人々は二階を自費にて花紋入の色紙もて張詰め、心入の床畳を日本流に敷き又戸復襖を備ふるなり。又夜中房室を閉鎖して、所有の物品を安全にせんとせば、更に又戸扉 鎖鑰(サヤク=施錠)の用意をも調べざるべからず。
【元禄年間(1700頃)ケンプエル江戸参府紀行より(呉秀三 訳)】
※長崎市史(地誌編名勝旧跡部)第三章旧跡「出島」より引用




出島オランダ商館の制札場について
町の橋の前に少し高く地盛りして方石を敷詰めたる場所あり。それは二枚の掲示板に将軍の命令、その布告及び奉行の命令を、常に数枚に書きて公表したり。其一つは出島の門の警備に関する規定にして又一つは出島町の役人及び出入する人に対する命令なり。出入の人々につきては出島の乙名もそれに配慮して長崎市の側面より一の掲示をここ出島の入口に傍(ソ)ひ橋の真向に別に其訓令を釘付とす。その内容は奉行の訓令と同一にして殊(コト)に我商品取引の時に係る是れただ此町役人の権勢と用意とを証せんとするなり。
【元禄年間(1700頃)ケンプエル江戸参府紀行より(呉秀三 訳)】
※長崎市史(地誌編名勝旧跡部)第三章旧跡「出島」より引用




出島オランダ商館の外周ついて
市街とは一つの橋にて連絡を取りたり。橋は四角な切石より成りて、長さは数歩のみ、それに丈夫な番門ありて市と区割りし、北側にも二つの丈夫な水門あり。これは奉行の代理たる数人の役人の監視の下に船の荷積、荷卸の時だけに開くなり。全島は西班牙(スペイン)の騎士と云う忍返を冠する高き板塀二重の柵を繞(メグ)らす。されど是皆 薄き板の防備なれば敵襲に対して碌(ロク)に抵抗することは出来ぬなり。此最外の防壁より数歩に十三本の高き杭が水中より抜き出で、それに一枚の掲示板に禁制を書きて、何人(ナンピト)も此杭より内へ舟にて漕ぎ入れ、島に近づくべからず。犯すものは厳科に行うべしとあり。
【元禄年間(1700頃)ケンプエル江戸参府紀行より(呉秀三 訳)】
※長崎市史(地誌編名勝旧跡部)第三章旧跡「出島」より引用




D-46:オランダ商館主要施設【史跡出島和蘭商館跡】
出島オランダ商館内部には60軒あまりの建物や施設があって、番所や門、蔵などの乙名所有のものと、町人蔵としてオランダ人が住宅として使用したものとに分けることができます。
▲乙名所有の建物には次のものがありました。
公班衙(コンハンヤ)蔵、脇荷蔵、御用蔵、水門、御検使場、乙名部屋通詞部屋、町人番所、阿蘭陀台所、花畠、涼所、本門番所、辻番所、火消道具置場、不寝番所、伊万里見世、小道具入、風呂屋、鳩小屋、札場、札場御検使場
▲オランダ人が使用する主な建物には次のものがありました。
甲比丹部屋ヘトル部屋、丁子蔵、筆者阿蘭陀人部屋、土蔵、阿蘭陀煮焚所、阿蘭陀涼所、薬園、牛豚飼育所、大工阿蘭陀人部屋、クロス部屋(厩牛飼人部屋)、花畑亭(玉突部屋)




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