広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成19年 〜2007年〜
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D-87:楢林鎭山宅跡(ならばやし-ちんざん-たくあと)
江戸町2-34付近(旧 江戸町)
楢林鎭山(慶安元:1648-宝永8:1711)は江戸町生まれで、名を時敏や彦四郎、新右衛門、新五兵衛などと名のり、号を栄休、鎭山、得生軒といいます。9才のときから出島のオランダ人から蘭学を学び19才でオランダ小通詞、39才で大通詞となります。通詞時代はオランダ商館長の江戸参府に7回も随行し、オランダ人とはかなり交流があってか加担しすぎて勤方より閉門を命ぜられたこともありました。普段から外科医に興味があって後に通詞役を嫡子に譲り、自らは紅毛楢林流外科を家業とします。鎭山は蘭学の翻訳だけではなく実験によってその理論を説き、さらには多くの門下生の育成に努めます。A-22:2003/05/25




D-86:江戸町(えどまち)
江戸町(旧 江戸町、玉江町)
長崎開港直後、森崎の先端つまり現在の長崎県庁のところにサン・パウロ教会が置かれ、教会は裏手(南側)の断崖にせり出すように建っていたといいます。その後、その断崖の下の海岸沿いも埋立てが行われ江戸町が生まれます。江戸町の由来は慶長8年(1603)の江戸幕府の開府後に開かれたことと、開府後の江戸の目まぐるしい発展・繁栄にあやかり江戸町と命名されました。
江戸町は出島築造後は出島の門前町となりオランダ通詞楢林鎮山宅が置かれるなど、オランダとの交流が深く、江戸時代、長崎くんち奉納踊りで江戸町はオランダ兵隊を披露したことは有名です。オランダ人は後に自らデザインした江戸町の町章“たこのまくら”を贈ります。これは江戸町(YeDoMachi)のYDMを組み合わせたものでしたが日本人には蛸が横になっているようにも見えたので俗に“たこのまくら”と呼ぶようになります。さらにオランダは第二次大戦以前、江戸町に勲章まで贈っています。参照A-23:2003/05/26




D-85:玉江橋(たまえばし)
出島町-元船町/江戸町間
明治37年(1904)長崎港湾改良工事が完成し、現在の茂里町付近から元船町、出島岸壁、市民病院前に至る広範囲の地域が埋立てにより誕生し樺島町の海岸部に玉江町(現 樺島町の一部)が誕生します。そして中島川の河口部に出島地区と大波止地区を結ぶ橋が架けられ玉江橋と命名。その昔、長崎港のことを瓊の浦(タマノウラ)または瓊江(タマエ)と呼び、瓊とは“美しい”という意から、瓊の浦または瓊江で“美しい港”という意味でした。その後、「瓊」の字が難しいため簡単な「玉」に代わります。現在の橋は昭和44年(1969)架け替えられたもので、橋の欄干には玉江橋にちなみ「丸い玉」が載せられています。参照:2003/05/29




D-84:大波止橋(おおはとばし)
元船町-出島町間
長崎県は長崎港沿岸の常盤出島地区及び元船地区などの再開発を進めるために「ナガサキ・アーバンルネッサンス2001構想」を計画。公園や美術館などの文化施設の整備が進みます。平成12年(2000)その計画の出島地区と元船地区を結ぶ橋として大波止橋が架橋。単弦ローゼ桁構造のアーチ型橋は約14億6千万円をかけ三菱重工業轄¥ト工場で製作されました。




〇「藤野繁雄」胸像
出島町1-20(旧 羽衣町)【長崎県JA会館内】
藤野繁雄(明治18:1885-?)は南高来郡神代(現 雲仙市国見町)生まれで、東京農大の前身である東京高等農学校を卒業後、地元の産業組合に入り、以降、長崎県農業組合連合会長や長崎県農業会長、長崎県農協中央会長等を歴任し、長崎県の農業に多大な貢献をします。昭和22年(1947)からは参議院議員として政界に入り農業基本法、農協再建整備法、同連合会整備促進法、金融機関再建整備法など農業者に対する法整備を進め、昭和40年(1965)には勲二等旭日重光章を受けます。昭和47年(1972)建立。
〇「眞崎今一郎」像【長崎県JA会館内】
眞崎今一郎(明治39:1906-?)は北高来郡森山村(現 諫早市森山町)生まれで、昭和9年(1934)森山村農会副会長となり、その後、森山村村長を始め農業諸団体長を歴任。第二次大戦後は経済農協連会長、農協中央会会長、県連共通会長となり、農協の統合や合併の推進を進め、農協の整備強化に努めます。昭和49年(1974)からは全農連会長となり、昭和52年(1977)には勲三等旭日綬章を受けます。昭和52年(1977)建立。




長崎水辺の森公園
出島町、常盤町
長崎県は長崎港沿岸の常盤出島地区及び元船地区などの再開発を進めるために「ナガサキ・アーバンルネッサンス2001構想」を計画。公園や美術館などの文化施設の整備を進めます。平成16年(2004)に完成した長崎水辺の森公園は園内に運河を張りめぐらした公園で、市民の憩いの場として、様々なイベント会場として賑わいを見せています。園内には水の庭園、大地の広場といった芝生の広場と、水辺のプロムナードといった遊歩道があって、長崎港には埠頭を設けています。さらにエリアの大半を占める交流拠点用地は現在、開発が検討されています。なお、長崎水辺の森公園は平成16年(2004)環境デザイン部門でグッドデザイン賞を受賞してます。




長崎出島ワーフ(ながさきでじまワーフ)
出島町1
長崎出島ワーフは臨海型複合商業施設で日蘭交流400周年記念事業に合わせて平成12年(2000)にオープンしました。長崎の新しい海辺の施設として注目されています。また、目の前にヨットハーバーを設け「海の駅:長崎出島ハーバー」としても利用できます。この長崎出島ワーフですが岸壁は日華連絡船が係留されていた出島岸壁を利用したものですが、意外にその歴史は語られていません。
長崎県立美術館(ながさきけんりつ-びじゅつかん)
出島町2-1
長崎県立美術館は平成17年(2005)に開館。スリットを基調にしたデザインは「株式会社日本設計」の隈研吾によるもので、長崎県が総事業費約85億円をかけて完成させました。「呼吸する美術館」をコンセプトに長崎県の文化事業に貢献しています。




D-83:長崎港駅跡(ながさきこうえき-あと)
出島町1(旧 羽衣町)
大正12年(1923)から日華連絡船が出島岸壁に係留されるようになりますが、出島岸壁と国鉄長崎駅の利便性が悪く昭和5年(1930)長崎駅から出島岸壁までの約1キロメートルに臨港鉄道(引込み線)をひき、あわせて駅を設け長崎港駅が開業します。これで国鉄から日華連絡線へ利便性が向上し東京-長崎-上海という路線は所要時間54時間25分。年間10万人以上の人を運びます。しかし昭和17年(1942)の日華連絡船の沈没で駅は廃されますが、昭和24年(1949)松ヶ枝橋まで臨港線を692メートル延長し元船-常盤倉庫群の輸送路に当てられます。しかし次第に鉄道はトラックなどに押され昭和57年(1982)長崎港駅とともに臨港鉄道は廃止(撤去)され遊歩道など変わります。なお、長崎港駅の位置は現在の長崎税関の裏手にあたり、臨港鉄道の史跡として旧国鉄松浦線などで活躍した機関車の動輪が大波止橋横に置かれています。




D-82:出島岸壁(でじまがんぺき)
出島町(旧 羽衣町)【出島ワーフ】
明治29年(1896)長崎港湾改良・浚渫(シュンセツ)期成同盟会(長崎港湾改良同志会)は、長崎市に対し大型化する船舶に対応できる港の整備を求めあわせて寄付金の募集を始めます。これは日清戦争後の景気で内外の船が長崎港を利用し機能が低下したことにより、長崎市は早速、市会にかけ第2期港湾改良工事を始め明治37年(1904)出島岸壁が誕生します。その後、大正9年(1920)出島沿岸修築工事が始められ大正12年(1923)初めて日華連絡船出島岸壁に係留されます。その後、出島岸壁は海外の玄関口として賑わい、第二次大戦後も大型観光船の係留場所としても使用され、現在では出島ワーフとなり長崎の新名所として親しまれています。




D-81:日華連絡船(にっかれんらくせん)
明治18年(1885)郵便汽船三菱と共同運輸が合併し日本郵船会社が誕生。梅ヶ崎町に長崎支店が置かれます。日本郵船は長崎より北米線(〜シアトル)、豪州線(〜豪州)、上海横浜線(横浜〜長崎〜上海)、大正12年(1923)からは日華連絡船(〜上海)の航路を有していました。当時、長崎上海間は長崎丸と上海丸が運行し1週2回で、所要時間は26時間でした。当初、日華連絡船は利用が少なく赤字続きでしたが、昭和に入ると長崎上海間の交流が盛んになり、昭和15年(1940)頃には年間10万人以上の人を運びます。しかし昭和17年(1942)伊王島沖で機雷に接触して長崎丸沈没。翌18年(1943)中国揚子江沖で上海丸が事故によって沈没し日華連絡船は廃止され姿を消します。この日華連絡船が出島岸壁より出港していました。




殉職碑(じゅんしょくひ)【長崎税関内】
昭和17年(1942)東亜海運所有の客船:神戸丸は、揚子江口沖の東シナ海において衝突事故を起こします。犠牲者は95名にも上り、この中には業務のため乗船していた長崎外務局(長崎税関)の職員4名も含まれていました。この殉職碑はその職員を慰霊するもので、昭和19年(1944)有志によって建立されました。




D-80:長崎税関(ながさきぜいかん)
出島町1-36(旧 羽衣町)
安政6年(1859)5月。幕府は長崎、神奈川、函館において露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、6月には外交や貿易に関する事務取扱いの役所として長崎会所の一機関の湊会所を東築町の俵物役所内(現 十八銀行本店)に設置します。湊会所はその後、大浦番所跡(現 東山手町)に移転。翌万延元年(1860)大浦海岸の造成のため一旦、俵物役所に戻ります。文久3年(1863)運上所と改称し、慶応2年(1866)埋立てが完了した梅ヶ崎町(現 市民病院)に庁舎を設けます。当時、梅ヶ崎、下り松、出島の3ヶ所に出先機関として荷改所と船番所6ヶ所を備えていました。そして明治元年(1868)新政府となり運上所外国管事役所、翌明治2年(1869)外務局と改称し、昭和3年(1929)現在地の出島に新庁舎を完成させ移転します。このころ長崎の業務は日華航路の重要な役割を持っていました。昭和18年(1943)九州海運局に併合され長崎支局、つづいて昭和21年(1946)門司税関長崎支署となり、法律改正で昭和28年(1953)長崎税関が開庁します。現在の建物は昭和44年(1969)のもの。参照C-208:2006/04/08




D-79:三菱会館跡(みつびしかいかん-あと)
出島町1-25(旧 羽衣町)【トレディアホテル出島】
明治23年(1890)舞鶴座が新大工町に竣工し、大正4年(1915)長崎劇場と改称。大正6年(1917)からは三菱長崎造船所所有となり中島会館と変わり三菱の娯楽施設となるのですが、第2時大戦中に解体されます。一方、新たに昭和13年(1938)出島町に三菱会館が建てられ三菱の娯楽施設として開業。昭和18年(1943)には戦時下ということもあって諏訪神社のくんち奉納踊りがここで開催されます(東検番芸妓衆による本踊り)。昭和20年(1945)から昭和22年(1947)までGHQによって接収されますが、以降は再び三菱の娯楽および保養施設として利用され、あわせて市民にも開放され、コンサート場としても賑わいます。昭和44年(1969)現在のトレディアホテル出島となり現在に至ります。参照A-171:2003/12/01




D-78:長崎新聞社跡(ながさきしんぶんしゃ-あと)
出島町7(旧 出島町)【出島和蘭商館跡】
本木昌造が活版伝習所を開き(A-98:2003-8/30参照)、明治6年(1873)長崎新聞が創刊され、休刊や経営の引継ぎなどが行なわれながら明治43年(1910)まで続きます。一方、現在の長崎新聞は明治22年(1889)の長崎新報が起源となり、明治44年(1911)長崎日日新聞と改称し、第2次世界大戦の言論統制では他の3社と共に長崎日報として発足させられますが、昭和21年(1946)すぐに4社に分離します。長崎日日新聞は船津町(現 恵美須町)に社屋を設け、昭和34年(1959)長崎民友新聞と合併し出島町に移転。長崎新聞と改名します。さらに昭和43年(1968)長崎時事新聞と合併。昭和55年(1980)出島復元事業のため茂里町に移転し現在に至ります。参照2003/09/10




D-77:永久座跡(えいきゅうざ-あと)
出島町11-1(旧 要町)【NIB】
明治20年代から30年代にかけて仮設芝居小屋などが次々と劇場に変わり、明治23年(1890)舞鶴座、明治30年(1897)八幡座が開場します。そして明治42年(1909)には飽ノ浦町に亀岡座が開場。大正2年(1913)亀岡座は要町に移転し、名称も永久座に改称します。このとき、こけら落としには中村雁十郎一座が訪れ開場に花を添えます。昭和20年(1945)廃座。なお、現在でも付近の電柱番号などに「永久座」の文字を見つけることができます。




D-76:羽衣町(はごろもまち)
羽衣町は長崎港港湾改良工事によって埋立てられ明治37年(1904)に開かれた町で、将来の発展を願い祝意によって命名されました。羽衣町は中島川河口から出島岸壁にかけての地区で、正確な範囲は不明ですが、現在の玉江橋から長崎税関にかけての地域で当時は倉庫が並んでいました。昭和39年(1964)の町界町名変更で羽衣町は無くなり出島町へと変わります。




D-75:入江町(いりえまち)
明治37年(1904)長崎港湾改良工事が完成し、現在の茂里町付近から元船町、出島岸壁、市民病院前に至る広範囲の地域が埋立てにより誕生し、そのため銅座川は思案橋方向から新地と銅座の間を流れ、築町電停付近で直角に折れ、市民病院前で長崎港に流れ出します。この銅座川沿いの町、現在の築町電停-市民病院前電停間の出島側の地区が入江町といい、銅座川の流れが入江になっていたため入江町と命名されます。さらに昭和30年(1955)の銅座川付替工事で銅座川が出島付近で中島川につながるようになると、それまで銅座川だったところは道路となり電車が走るようになります。そして昭和36年(1961)から「入江町電停」が設けられ、昭和39年(1964)の町界町名変更で入江町が消失しても平成2年(1990)まで使用されていました。




D-74:末広町(すえひろまち)
末広町は長崎港港湾改良工事によって埋立てられ明治37年(1904)に開かれた町で、末広がりに繁栄するよう祝意によって命名されました。末広町は出島電停から市民病院交差点までの地区で、現在では都市計画道路で大半は道路になっています。昭和39年(1964)の町界町名変更で末広町は無くなり出島町へと変わります。なお、現在でも電柱番号などに「末広町」の文字を見つけることができます。




D-73:要町(かなめまち)
要町は長崎港港湾改良工事によって埋立てられ明治37年(1904)に開かれた町で、一部資料には完成を祝った祝意によって命名されているとあります。要町は現在のNIB長崎国際テレビ付近をいい、ちょうど旧出島の中心部分ということもあり逆さになりますが出島の形:扇の要の部分ということもあって要町となったものと考えられます。昭和39年(1964)の町界町名変更で要町は無くなり出島町へと変わります。




D-72:千馬町(せんばちょう)
明治30年(1897)から明治37年(1904)まで長崎港港湾改良工事が行われ、第1期工事で港内の砂防工事や中島川の変流工事、第2期工事で現在の銭座町電停付近から長崎駅-大波止-市民病院付近と稲佐の海岸地帯が埋立てられます。
明治37年(1904)千馬町はこのときの開かれた町で、ちょうどこの年は日露戦争が始まった年でもあり、新しく埋立てられたこの地区は第六師団が朝鮮半島の仁川に出征するために集まった場所で、あわせて出征軍馬が数百数千集まり出島埠頭から船に乗り込みます。この千馬町はこの様子から名付けられた町で、現在の市民病院交差点から出島橋へ抜ける通りをいい、大正5年(1916)から昭和30年(1955)までは路面電車も走っていて、石橋方面は千馬町電停を通って大浦海岸通へ向かっていました。なお、昭和39年(1964)の町界町名変更で千馬町はなくなり出島町へと変わります。




D-71:出島町(でじま-まち)
江戸時代、出島は出島オランダ商館のことをいい、出島町と称しても市中の77ヶ町には含まれていませんでした。慶応2年(1866)からは居留地に組み込まれ市中の一町として扱われるようになり、そのときの範囲は江戸時代の出島の範囲のみで、昭和39年(1964)の町界町名変更で現在の範囲となります。今では水辺の森公園の大半も出島町に入ります。




D-70:出島居留地跡(でじまきょうりゅうち-あと)
出島町6,7,9(旧 出島)
安政5年(1858)オランダ商館は廃止されオランダ領事館となり、安政6年(1859)の開国によって鎖国体制は崩壊。慶応2年(1866)からは出島も南山手・東山手地区同様、外国人居留地に編入されます。以降、昭和初期まで出島居留地は外国人街として発展し、明治32年(1899)条約改正で治外法権が撤廃。居留地制度も廃止となり、居住権は永代借地権となり昭和17年(1942)まで続きます。その後は一般の土地と同じように取引され私有化していき、現在ではすべてが公有地化され復元事業が進められています。




D-69:乙名部屋(おとな-べや)【史跡出島和蘭商館跡】<西側>
乙名とは各町々に置かれた町役人のことで一般には各町の有力者が選ばれます。そして出島に関しては出島町人(出島築造に関係した有力町人25人)から長崎奉行が選任し、出島の貿易事務や管理などを行っていました。また、出島乙名はこのほかにもオランダ商館員の監視役も務めていたところからオランダ商館の事務所でもあるカピタン部屋に一番近いところに設置されています。なお、乙名部屋は貿易期間中のみ開設され、乙名の宿舎および金庫番役人の仕事場、出島内の見張番の詰所などに利用されていました。この乙名部屋は江戸時代後期の資料を基に平成18年(2006)出島復元中期計画によって復元されました。




D-68:料理部屋(りょうり-べや)【史跡出島和蘭商館跡】<西側>
料理部屋はオランダ商館員の食事を作っていた部屋で、商館員は1日に2回、昼と夕方にカピタン部屋の2階に集まり、全員揃って食事をとっていました。なお、料理は東南アジアから連れて来られた人や日本人の使用人などが調理をし、材料などは長崎郊外から仕入れをしますが、肉や入手困難な野菜などは出島内で自給していました。この料理部屋は江戸時代後期の資料を基に平成18年(2006)出島復元中期計画によって復元されました。




D-67:カピタン部屋(かぴたん-べや))【史跡出島和蘭商館跡】<西側>
ポルトガルとの南蛮貿易時代、日本人は商館長をポルトガル語でカピタン(甲比丹)、次席商館長をヘトルと呼んでいたため、オランダと交易を始めても同じようにカピタン、ヘトルと呼んでいました。この建物は商館長であるカピタンの住居兼オランダ商館の事務所で、出島に訪れた幕府の役人や大名ほか長崎奉行や出島乙名、オランダ通詞などへの接待所としての役割も持ってました。1階は食糧や物品の倉庫で、2階が住居や応接室、そして涼所(スズシドコロ)といって板敷きの部屋は長崎港が一望できる出島で一番贅沢な場所でもありました。このほか屋根付きの外階段があったりとカピタン部屋は出島で一番大きな建物でした。このカピタン部屋は江戸時代後期の資料を基に平成18年(2006)出島復元中期計画によって復元されました。




D-66:ヘトル部屋(ヘトル-べや)【史跡出島和蘭商館跡】<西側>
ポルトガルとの南蛮貿易時代、日本人は商館長をポルトガル語でカピタン(甲比丹)、次席商館長をヘトルと呼んでいたため、オランダと交易を始めても同じようにカピタン、ヘトルと呼んでいました。この建物は2階を次席商館長:ヘトルの住居にあてられ、あわせてヘトルに仕える日本人の一室もありました。1階は東南アジアから連れて来られた使用人の部屋とオランダ商館の食糧倉庫になっていて、さらに、屋根の上にはこの建物の特徴でもある物見台が設置され川原慶賀の絵にもあるように、オランダ人はここから港内を眺めていたといわれています。なお、手すりや物見台に使われている塗料はペイント塗装が施され、これらは近代塗装の魁ともいえるものです。参照C-199:2006/03/28
このヘトル部屋は江戸時代後期の資料を基に平成12年(2000)出島復元中期計画によって復元されました。




D-65:拝礼筆者蘭人部屋(はいれいひっしゃ-らんじんべや)
【史跡出島和蘭商館跡】<西側>
この建物は2階建で、2階は拝礼筆者蘭人部屋、1階は倉庫となっています。出島オランダ商館の駐在員には帳簿書記(ブーグハウデル)という事務職がいて、その書記の主席事務員の住まいがこの拝礼筆者蘭人部屋でした。1階部の倉庫は記録にはありませんが、近年の発掘調査などで水槽状のものや排水溝、そして水銀などが発見されたところから何かの工房か医薬関係の作業場ではないかと考えられています。この拝礼筆者蘭人部屋は江戸時代後期の資料を基に平成18年(2006)出島復元中期計画によって復元されました。




D-64:三番蔵/アニェリール蔵(さんばんぐら/アニェリールグラ)
【史跡出島和蘭商館跡】<西側>
三番蔵は一番蔵、二番蔵と同じく重量のある砂糖や、個人売買用の積荷(脇荷)が納められていました。蔵の構造は一番蔵同様、耐火のために土蔵造りになっていましたが、これら土蔵は海岸ということで傷みが激しく羽目板などで覆っている箇所もありました。また、オランダ人は倉庫に花の名前をつけていて、この三番蔵アニェリール蔵と呼んでいたそうです。このアニェリールとはピンク色のカーネーションをいいます。なお、江戸時代末期の絵図にはこのような蔵が出島内に十七番蔵までありました。この三番蔵は江戸時代後期の資料を基に平成18年(2006)出島復元中期計画によって復元されました。




D-63:二番蔵/チューリップ蔵(にばんぐら/チューリップグラ)
【史跡出島和蘭商館跡】<西側>
二番蔵は一番蔵と同じく重量のある砂糖や、染料の材料である蘇木(ソボク)などが納められていたため蘇木蔵とも呼ばれていました。この蘇木ですが植物の蘇芳(スオウ)の枝のことで、当時は貴重な輸入品でした。なお、蔵の構造は一番蔵同様、耐火のために土蔵造りになっていました。また、オランダ人は倉庫に花の名前をつけていて、この二番蔵チューリップ蔵と呼んでいたそうです。なお、江戸時代末期の絵図にはこのような蔵が出島内に十七番蔵までありました。この二番蔵は江戸時代後期の資料を基に平成12年(2000)出島復元中期計画によって復元されました。




D-62:一番蔵/バラ蔵(いちばんぐら/バラグラ)
【史跡出島和蘭商館跡】<西側>
一番蔵は水門に一番近い蔵ということもあって重量のある砂糖などが保管された蔵で砂糖蔵とも呼ばれ、構造は耐火のために土蔵造りになっていました。当時、オランダ人は倉庫に花の名前をつけていて、この一番蔵バラ蔵と呼んでいたそうです。なお、江戸時代末期の絵図にはこのような蔵が出島内に十七番蔵までありました。この一番蔵は江戸時代後期の資料を基に平成12年(2000)出島復元中期計画によって復元されました。




D-61:一番船頭部屋(いちばんせん-せんどうべや)
【史跡出島和蘭商館跡】<西側>
一番船とはオランダ船のことで、船頭は船長を指し、一番船船頭部屋とはオランダ船が入港した際の船長の宿舎ということになります。当時、1階は倉庫として使用され2階が船長の宿舎で、2階東側はオランダ商館事務員住居にあてられていました。なお、1階倉庫には記録によると不良品の砂糖や検査に使った天秤秤(テンビンバカリ)や錘(オモリ)、木炭などが収納されていたとのことです。この一番船頭部屋は江戸時代後期の資料を基に平成12年(2000)出島復元中期計画によって復元されました。




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