広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成19年 〜2007年〜
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D-109:岡政跡(おかまさ-あと)
浜町4(旧 東濱町)【博多大丸長崎店】
江戸時代末期、岡部徳太郎は古町に貿易商を開業し、安政元年(1854)に東濱町長店に唐物の商品を販売する貿易商を始めます。明治27年(1894)東濱町本通り角地に移転し小売呉服部を始め後に岡政呉服店と改称します。昭和6年(1931)には斜め角にあった岡部呉服店に家具部を設け拡大し、昭和9年(1934)雑貨部や食料品部などを統合して長崎初の百貨店:岡政百貨店を創業します。ここには長崎初となるエレベーターが設置されました。昭和29年(1954)当時、長崎最長のビルとなる鉄筋コンクリート建てに変わり(昭和35年増築で8階建てとなる)、岡政百貨店は長崎を代表する百貨店に発展します。昭和63年(1988)岡政百貨店は閉店し、提携のグループ大丸によって長崎大丸となり女性を中心とした百貨店となり、平成15年(2003)博多大丸に吸収され現在は博多大丸長崎店となっています。なお、浜町アーケードと観光通りが交差する四つ角は、以前までは「岡政前」、現在では「大丸前」と呼ばれ、長崎の待ち合わせの場所として有名です。




しょんべん英語
明治時代、長崎の人力車の利用は日本人のみならず多くの外国人も利用していて、車夫などは運賃や場所ぐらいは英語を話せるように準備していたといわれています。しかし英語といっても親方が耳で聞いて考案した語呂合わせのようなもので誰でも解りやすく、すぐ思い出せるように工夫されていました。このしょんべん英語は必ず自分の一物(イチモツ)を眺めて覚え、解らなくなったら小便をする行為を思い出すのです。
当時単位は「銭」です。近場は10銭ですので「テンセン」これだけは普通に覚えます。
20銭(ツゥエンティセン):小便をツネッテセン (つねってしないの意)
30銭(サーティセン)  :小便をスワッテセン (座ってしないの意)
40銭(フォーティセン) :小便をホーテセン  (はいつくばってしないの意)
50銭(フィフティセン) :小便をヘフッテセン (屁をふりながらしないの意)
60銭(シックスティセン):小便をシキッテセン (仕切ってしないの意)
70銭(セブンティセン) :小便をシャブッテセン(なめてしないの意)
80銭(エイティセン)  :小便をエットセン  (あまりしないの意)
90銭(ナインティセン) :小便をナイテセン  (泣いてしないの意)




D-108:俥立場(くるまたてば-あと)
浜町3(旧 東濱町)【大丸前浜せん角】
人力車は明治3年(1870)東京で発明され長崎では明治6年(1873)秋にお目見えします。初めは5台ほどで、駐機場を意味する車立場は、旧対馬藩屋敷(長久橋付近)にあって、鉄橋や梅香崎橋などが料金の起点になっていました。その後、浜町の自身番所跡にも車立場が置かれ、交通手段の花形として人気を博します。
人力車の場合は車という文字は俥を使います。




D-107:二枝鼈甲店跡(ふたえだべっこうてん-あと)
浜町3-27(旧 西濱町)
明治16年(1883)二枝鼈甲店の創業者:二枝貞治郎は福岡から長崎入りし浜町で最初の鼈甲店として東濱町に開業し、その後、西濱町に移転します。当時は店先に仕事場を設け実演販売を行っていました。現存するレンガ造り3階建洋風建築は大正元年(1912)に建築家:山田七五郎の監修のもとに建てられました。山田七五郎はこのほか旧長崎県庁や旧長崎市役所も手がけた人物です。平成18年(2006)廃業。




D-106:国産石鹸発祥の地:木貞商店跡
浜町3-27付近(旧 西濱町)【稲田時計店】
江戸時代、品川家初代:品川善右衛門は播州(兵庫県)網干出身で長崎に来て木綿屋として商業を始めます。その後、幕末期にかけては代々出島町人となり、品川貞五郎のとき木貞商店として酒類商に変わり、明治2年(1869)品川貞五郎は渡来した宣教師:ヘンリー・スタウト(C-231:2005-5/6)から洗濯石鹸の話を聞き、自ら研究、試作を重ね、明治5年(1872)わが国初の石鹸を完成させます。なお、翌6年には横浜:堤磯右衛門製作所でも製造が始まります。当時長崎では石鹸といわずシャボンと呼び、石鹸と呼ぶようになったのは明治15年(1882)頃になってからです。




D-105:喜楽館/電気館跡(きらくかん/でんきかん-あと)
浜町1(旧 東濱町)
明治30年(1897)長崎初となる活動写真(映画)が八坂神社境内で公開され、明治43年(1910)ようやく常設の映画館が西濱町(電気館:現 S東美)に誕生します。当時はもちろん無声映画で弁士による解説がありました。一方で明治42年(1909)には長崎県警による台本の検閲や、大正8年(1919)には県令による活動写真興行取締規則が設けられフィルムの検閲が行われます。第二次大戦中は軍事色が強いものとなり、娯楽的なものは第二次大戦後ということになります。
長崎初となる映画館は明治43年(1910)寄席千鳥座がマス席を腰掛け式に改装して電気館(→長崎松竹映画劇場→S東美→平成初年廃業)を開いたのが始まりで、翌44年(1911)に喜楽館(現 アーケードS東美隣→昭和60年頃廃業)、相次いで崎陽館(→富士館→ステラ座)が開業します。




D-104:かます横丁/かます通り
浜町〜万屋町間
中島川に平行に浜町アーケード街-万屋町通-榎津町通-本古川町通を結ぶ細長い道があります(旧 富士銀行から入る道)。一時期、リカチャン通りとも呼ばれていましたが、この通りをかます横丁あるいは、かます通りといいます。由来は定かではありませんが、おそらく、かますとは口が大きく細長い魚のことで、この道がその魚のように細長い道というところからかます横丁と呼ばれるようになったと考えられます。魚のかますは“”と表記しますが、ある資料には“叺”とあって、後者は「わらむしろで作った袋」という意味になります。




D-103:西濱町/東濱町(にしはまのまち/ひがしはまのまち)
寛文12年(1672)に誕生した東濱町西濱町は海岸沿いの町ということで貿易に直接関係する商店が多く、延宝4年(1676)には西濱町が築き増しされ、現在の春雨通り(電車通り)の外側(ステラから三菱信託銀行の方向)へ築き出しが行われ西濱町築地が誕生し、薩摩、五島、久留米の各藩の屋敷やその御用達の問屋が建ち並ぶ地域となります。一方、享保9年(1724)には鋳銅所建設のため東濱町が築き増しされ、現在の銅座町がほぼ完成し東濱町築地が誕生します。その後、東濱町の銅座跡は明治元年(1868)東濱町から独立して銅座町となり、昭和41年(1966)町界町名変更では西濱町東濱町は付近の町との統合で浜町のほか銅座町や鍛冶屋町など現在の町域となります。参照D-20:2006/12/21:D-7:18-12-7




D-102:濱町(はまのまち)
銅座町、浜町(旧 東濱町、西濱町)
長崎開港後、市街地の拡大で内町(県庁付近〜市役所付近)が広がるのと同じく対岸の中洲にも人が住むようになり、川添町、歌舞伎町、新歌舞伎町から旧古川町(B-162:2004-12/26参照)、さらには榎津町、旧鍛冶屋町(B-183:2005/01/16)が形成され、寛文3年(1663)から延宝4年(1676)にかけては、中島川と玉帯川の河口部が築き増しされ濱町(ハマノマチ)が誕生します。ここは現在の西浜町-思案橋間の電車通りにあたり、寛文12年(1672)には町域が広いため東西に分けられ東濱町と西浜町と分割されます。




D-101:豪商:栗岡本家跡(ごうしょう-くりおか-ほんけあと)
浜町1(旧 西浜町)【安達・旧きのくにや一帯】
江戸時代、栗岡家初代:栗岡甚助は紀州(和歌山県)徳川家の御用達を務めた紀伊国屋を開いていましたが、幕末になって町年寄久松家の屋敷を購入。そこで塩や切手、収入印紙といった専売的な商売を始めます。その後、呉服商や倉庫業などを始め、3代栗岡利吉は長崎市会議員を務め、長崎を代表する商家へと発展します。第二次大戦後、この土地はすべて売却され、夫婦川へ移りますが、4代利吉は南蛮美術などに詳しく多くのコレクションを有していました。墓所:晧台寺後山




深堀騒動(ふかほり-そうどう)/深堀義士伝(−ぎしでん)
元禄13年(1700)12月19日夕刻、天満坂(現 法務局横)において深堀藩士2名が、当時財力と権勢を誇った町年寄:高木彦右衛門の一行とすれ違った際、誤って泥はねをして着物を汚したことに始まります。その夜、高木家の武士が深堀家屋敷(現 中村倉庫ビル)に仕返しに行き、武士の魂といわれる刀を奪い屋敷を荒らして帰ります。一方、今度は翌朝、深堀から多勢を引き連れ高木邸に屈辱を晴らしに向います。これは町年寄という立場であったが町人である高木彦右衛門に対し、武士である深堀藩士が面目を晴らす意味がありました。高木彦右衛門を始め多くの者は討たれ討ち入りが終わります。当事者の2名(深堀三右衛門、志波原武右衛門)は高木邸と大橋(現 鉄橋)の上で切腹、討ち入りに参加した他の藩士は切腹や島流しになりました。この1年後、赤穂浪士の討ち入りがありましたが、深堀藩士の討ち入りを参考にしたともいわれています。なお、この深堀義士の墓が深堀の菩提寺に「十人義士の墓碑」として残っています。A−13:2003/05/14




D-100:町年寄久松邸跡(まちどしより-ひさまつ-ていあと)
浜町/銅座町(旧 西浜町)【中央橋交差点南側〜旧 きのくにや】
長崎は天領ということで幕府から命ぜられた長崎奉行が支配します。そして奉行の下で長崎の地元の役人(地役人)の町年寄が町の行政を司ります。町年寄は当初4人制、幕末には9人制にまで増やされます。江戸時代中期、その町年寄の一人、高木彦右衛門貞親は西濱町に屋敷を構えていましたが、元禄13年(1700)深堀騒動によって殺害され高木家が断絶すると、屋敷には元禄12年(1699)から外町常行司から町年寄に任じられた久松善兵衛忠辰が拝領します。なお、久松家は本興善町に本邸を置き、ここはその久松家の別邸にあたります。町年寄などは明治維新を迎え制度が解体され屋敷は売却されます。A-101:2003/09/01参照




D-99:開成館長崎出張所/土佐商会跡
(かいせいかん-ながさきしゅっちょうしょ/とさしょうかい-あと)
浜町(旧 西浜町)【鉄橋南側〜長久橋南側付近】
慶応2年(1866)土佐藩は富国強兵策の一環として殖産機関の開成館を設立し、長崎、大坂、兵庫などに出張所を設け貿易活動を始めます。長崎出張所は開成館奉行の後藤象二郎が同年長崎入りし、西濱町の田村政之助邸を3000両で買収し開設されました。開成館長崎出張所は俗に長崎商会または土佐商会と呼ばれ、幕末の長崎で活発な交易活動を始めます。一方、慶応元年(1865)に設立された坂本龍馬率いる亀山社中は次第に難問が山積し、慶応3年(1867)には開成館長崎出張所傘下となり土佐藩から資金援助を受けるようになりますが、坂本龍馬の暗殺以降、求心力がなくなり慶応4年(明治元:1868)開成館長崎出張所とともに藩命により解散となります。なお、開成館長崎出張所の取り仕切りは慶応3年(1867)から岩崎弥太郎の手にゆだねられ、解散後、岩崎は九十九商会や三菱会社と流れを汲むものとなります。




銅像「水浴の女」【鐡橋】
作者は世界的彫刻家のエミリオ・グレコ(Emilio Greco 1913-1995)で、彼はイタリア、シチリア島生まれ。幼少の頃は貧しく石工師見習いとして彫刻に携わり苦学の末、彫刻家の道に入ります。1946年ローマにおいて個展を開き、つづいてニューヨークでも開催。1952年にはローマで国会賞を受賞し、1956年には第28回ヴェニス・ビエンナーレの彫刻大賞を受賞します。その後も世界各地で個展を開き、日本へは1961年と1971年に訪れ個展を開き、東京や大阪など各地に作品を残しています。鐡橋には平成2年(1990)の再架の際、芸術文化の促進の関係で銅像「水浴の女」1964年作品が設置されています。




鐡橋際船着場跡(てつばしぎわ-ふなつきば-あと)
中島川は昭和30年(1955)頃までは行商の船などが行き交い、蛎舟(屋形船)が停泊するなど川の上での生活が見られていました。しかし次第に交通機関の発達や衛生上の問題など利用する者がなくなり、さらに昭和57年(1982)の長崎水害以降、河川整備が進められ河川への出入が出来なくなります。以前までは、鐡橋、賑橋、常盤橋付近などには船着場がありました。




D-98:鐡橋/銕橋/鉄橋(くろがね/てつ-ばし)
築町-浜町間(旧 東築町-西濱町間)【鉄橋】
慶応3年(1867)5月の大雨は中島川流域の数十軒の家屋と数橋の橋を流失させ、このとき木橋の大橋も流失します。大橋は市中心の重要な橋ということもあって再架橋が急がれますが、開国による架橋技術の流入もあって話し合いにより永久橋(鉄橋)の採用となります。そして長崎製作所に発注され、長崎製鉄所頭取であった本木昌造が製造にあたり、設計をドイツ人ボーゲル技師、工事監督に井上聞多を据え、全長27.2メートル、幅5.5メートルの鉄橋が慶応4年(1868)8月に完成します。総工費は1万6500両と当時としては巨額(現代では約11億6000万円)で、渡り初めには澤宣嘉長崎府知府事(府知事)や井上聞多参謀らが行いました。日本初の鉄橋鐡橋(クロガネ-バシ)と命名。しかし市民はテツ橋と呼び長崎の新名所となります。なお、鐡橋といえど親柱は石材で作られ今なお現地に保存してあります。昭和6年(1931)に鉄筋コンクリート橋となり(親柱現存)、現在のものは平成2年(1990)に再架されたものです。




D-97:大橋跡(おおはし-あと)
築町-浜町間(旧 東築町-西濱町間)【鉄橋】
長崎開港後、市街地の拡大で内町(県庁付近〜市役所付近)が拡がるのと同じく対岸の地区にも人が住むようになり、旧 古川町(B-162:2004-12/26参照)から榎津町、旧 鍛冶屋町(B-183:2005/01/16)が形成されます。しかし大川(現 中島川)があるため発展が進まず、寛永9年(1632)に第6代長崎奉行竹中采女正重興によって木廊橋(木製の屋根付きの橋)が架けられ、これにより浜町、鍛冶屋町といった地区の開発が始まります。大橋は中島川で初の公的な橋で、以後、眼鏡橋や袋橋などの架橋が続きます。なお、大橋は木製のため正保4年(1647)正保大水害や寛政7-8年(1795-6)寛政大水害、文化7年(1810)文化大水害などたびたび流失するも市街地の中心部ということもあって再架は早く、慶応3年(1867)の水害で流失し鉄橋に架け替えられるまで大橋という名称がありました。




D-96:中央橋(ちゅうおうばし)
昭和19-20年(1944-5)建物強制疎開が実施され江戸町や築町は地区の半分以上が道路となり、このとき県庁坂や中島川沿いの道路が誕生します。しかし第二次大戦後はその道路に不法建物(バラック)が建ち並び、昭和26年(1951)長崎市は強制撤去を開始。合わせて都市整備の一環として大波止から県庁、浜町、思案橋へとつながる幹線道路整備が進められ、このとき中央橋が昭和27年(1952)架橋されます。橋の工費1,650万円で橋名は市民に広く公募し中央橋となります。昭和42年(1967)交通量の増加で中央橋交差点にX型の歩道橋が完成。工費2,560万円、この形状の歩道橋は北九州に次いで2番目でした。なお、平成19年(2007)から中央橋架け替え工事が行われていて歩道橋は40年の歳月を経て姿を消します。参照D-6:2006/12/06




D-95:肥塚商店(こいづかしょうてん)
肥塚商店は明治から第二次大戦後まで長崎を中心にして営業していた酒造会社で、本店を五島町、支店を築町、醸造所を滑石に置き、最盛期には神戸や東京まで支店を置いて販売していました。社長の肥塚慶之助は諏訪神社の総代も務め、さらには長崎紡績三菱造船所などにも一族が役員として入り、肥塚家は長崎を代表する富豪でもありました。第二次大戦中、築町支店などは道路強制疎開で撤去を余儀なくされ、第二次大戦後は、滑石にあった醸造所は付近の開発で廃業となりました。




本下町公設中央市場跡(現 メルカつきまち裏通り)
今下町通公設市場跡(現 中央公園)
築町公設卸市場跡(現 メルカつきまち)
江戸時代、生鮮食料品などの販売は行商人が各家々に売り歩いたり神社などの門前で市を開いたりするのが一般的で、明治時代になり今下町や五島町、本紺屋町(現 中央公園付近)などの3ヶ所に魚菜市場が開かれ、さらに明治37年(1904)梅香崎町、広馬場町、本下町に魚菜市場を開かれます。大正8年(1919)第1次大戦後の物価高騰で市民に影響が出てきたため、長崎市は初の公設市場を館内町と今下町(今下町通公設市場)に建て指定商人に販売をさせます。一方、大正10年(1921)には築町に公設卸市場(築町公設卸市場)を新設。さらに大正13年(1924)には本下町に公設中央市場(本下町公設中央市場)が完成します。昭和20年(1945)原爆投下後の火災で市場はすべて焼失しますが建物は残り、付近はバラックや闇市が建ち並ぶようになります。昭和34年(1959)築町公設卸市場が旧魚市場跡に移転。昭和39年(1964)今下町通公設市場が廃止され、本下町公設中央市場のみとなり、のちに築町公設市場となります。平成11年(1999)再開発が進められ市場と行政施設などが備わった多目的ビルのメルカつきまちとなります。




〇俗称:地獄川地獄橋
江戸時代、今博多町付近を源流として公会堂裏〜長崎女子商業裏〜中央公園裏、築町を通って江戸町で中島川に注ぐ川(大溝)がありました。今では流れはそのままで一部が中央公園から中島川に流れています。この川は鹿解川と同じように長崎ではエゴ端と呼ばれ全面石張りの川(大溝)で名前はありません。しかし江戸時代、桜町に牢屋敷(A-81:2003/08/06)があったころ、罪人が処刑された際、流れた血がこの川に流れ出し赤く染めたといわれ、いつしかこの川を俗に地獄川を呼んだといいますが定かではありません。また、長崎奉行所西役所から罪人を市中をを引き回す際、通ったといわれたのがこの川(大溝)を渡した江戸町の橋で、ここも俗に地獄橋と呼ばれていました。




D-94:東築町/西築町(ひがしつきまち/にしつきまち)
築町、江戸町、銅座町(旧 西築町、東築町)
長崎開港後、大川(現 中島川)沿いが埋立てられ築町が誕生しますが、寛文12年(1672)寛文の大改革により均等に町建てが行われます。当時、現在のメルカつきまち前の通りは築町から一直線に十八銀行本店付近まであった通りで、通りの東側を東築町、西側を西築町と名付けられます。江戸時代などは長崎奉行所の近くで海沿いの町ということもあって貿易に関係のある商家、問屋が多かった地域で、寛政10年(1798)には築町通りの正面(現 十八銀行本店)には俵物役所が置かれたり対馬藩屋敷が置かれたりと重要な町でもありました。明治4年(1871)町名の再編で東築町西築町は再び築町となり、そして築町にとっては致命的な出来事でもある中島川変流工事は築町を分断し、十八銀行付近に飛び地を残すことになります(大正4年の電車開業時は、まだ築町という地名でした)。昭和38年(1963)町界町名変更により旧 築町は、築町、江戸町、そして中島川からは銅座町と三町に別れ今に至ります。




D-93:旧 築町(きゅう つきまち)
築町、江戸町、銅座町(旧 西築町、東築町)
長崎開港後、森崎の先端つまり現在の長崎県庁のところにサン・パウロ教会が置かれ、あわせて六町(A43:2003/06/24参照)が開かれます。その後、北側に市街地は拡がりますが、六町の崖下の大川(現 中島川)沿いにも町が生まれます。埋立てによって築き出だされた町は築町と呼ばれ文禄元年(1592)にはすでに存在していました。この築町は現在の築町ではなく江戸時代初めから寛文12年(1672)まで使われた名称です。




D-92:犬ん糞横丁(いんのくそ-よこちょう)
銅座町,江戸町(旧 西濱町,江戸町,銅座町)
第二次大戦前、江戸町の県庁裏から中島川を挟み、西濱町、銅座界隈は細い路地が入り組んでいた地域で、今のような大通りができたのは第二次大戦中の建物疎開が実施されてからでした。以前はバラックなど暗い町並みで、大変不潔な感じの横丁だったため、人々は俗に犬ん糞横丁と呼んでいました。しかし、この犬ん糞横丁は地域の者は使わず、決まって相手の町内に対して呼ぶ言葉でもありました。D-30:2006-12/31




D-91:長崎水害の水位を示す時計塔
江戸町5(長久橋-中央橋間)
この時計塔は災害避難誘導灯(停電時に点灯)を備えた時計塔で、電源は太陽電池によって賄われています。昭和57年(1982)7月23日に起こった長崎大水害ではこの付近は停電で真っ暗闇となったため点灯式の時計塔の設置となりました。設置は全国のロータリークラブから寄せられた義援金の一部を持って設置し、このほか矢上町の東長崎支所前、城栄町の城栄公園の3ヶ所にも設置されています。時計塔の柱には当時の水位が記され、水害の恐ろしさを示しています。




D-90:中島川変流工事(なかしまがわへんりゅうこうじ)
中島川変流工事は明治政府内務省直轄の工事で第1期長崎港湾改良工事の一環として行われました。江戸末期から明治初期にかけて長崎港は梅ヶ崎、新地蔵所、俵物会所(旧 東築町)などの前面が埋立てられ道路が設けられるのですが、当時、中島川の河口だったその地区は土砂の堆積が進み大型船などの着岸に支障をきたす恐れがあって、海外の船などから再三港湾の整備が求められます。そこで中島川の流れを大波止方向へ大きく変更。カーブさせることにより土砂の堆積を最小限に抑えようと考えられました。工事は明治16年(1883)に計画。明治18年(1885)着工。明治23年(1890)完成となります。費用は貿易五厘金(2004/04/05参照)から2万114円つぎ込まれました。




D-89:長久橋(ちょうきゅうばし)
江戸町-銅座町間(旧 東築町-西濱町間)
江戸時代初め、埋立が進む長崎の町で中島川は大川と呼ばれ、その川の一番下流に寛文12年(1672)木橋の長久橋が架けられます。橋は博多商人の博多屋清右衛門らの喜捨で架けられたもので、下流ということもあって橋の長さは一番長かったものと思われます。天和2年(1682)には大雨で流出し、その後も文化元年(1804)の記録にあるように再三再四、流失再架が繰り返されます。最後まで石橋になることはなく明治18年(1885)中島川変流工事で姿を消します。当初、橋の位置は中島川の流れが直線でしたので現在より西濱町(銅座町)寄りで、中島川移動したのを機に橋も現在の位置に木橋が再架されます。昭和5年(1930)交通量の増加などで鉄筋コンクリート橋に架け替えられ、さらに昭和42年(1967)現在の姿となります。なお、明治期以降に使用された木橋時代の長久橋の柱が筑後町:旧料亭迎陽亭の茶室の柱として現存します。




川添ガラス(かわぞえがらす)
江戸時代末期、川添商店の初代:川添甚兵衛は出島に置かれていた出島交易所の役人で、文久元年(1861)雑貨商に転身、その後、二代目甚平の代となると明治8年(1875)外国船:シラリヤ号から二箱のギヤマンを買い受け、これが日本初の硝子輸入となります。以降、硝子の需要が増大。川添商店は川添硝子店に変わります。日清戦争など硝子の需要はさらに増し、絵硝子などの加工品も研究しイギリスなど海外への輸出も始めます。昭和初期の混乱期に会社の解散となるも第二次大戦後に復興を果たし、現在では長崎を代表する硝子商として今に至っています。墓所:晧台寺後山




新川口橋(しんかわぐちばし)
現在、出島橋として架かっている鉄橋ですが、本来は明治23年(1890)中島川変流工事の際、中島川の河口近く(現 玉江橋付近)に新川口橋として架けられたもので、明治32年(1899)現在地に移設して出島橋と改称しています。この橋の架橋はアメリカから材料を輸入し日本の技術者が組み立てたもので、材料がすべてフィートやインチの単位ということもあって当時の技術者はたいへん苦労したようです。さらに橋は薄い鉄材をピンで留めるという構造で、唐草模様など現代でも通用する装飾まで施されています。




D-88:出島橋/出嶋橋(でじま/でしま-ばし)
出島町-江戸町間
出島橋という橋は二つ存在し、一つは出島が完成した寛永13年(1636)から明治20年(1887)まで表門の前に架けられた石橋と、もう一つは明治32年(1899)に架けられた現存する鉄橋のことをいいます。前者はアーチ型の石橋で中島川変流工事によって解体され、親柱のみが出島資料館内に保管されていますが、後者は現存する鉄橋では日本最古のもので、昭和20年(1945)に老朽化と原爆による影響で大破したものの、昭和25年(1950)の国際文化都市建設法によって約470万円をかけ佐世保重工で改修され今に至っています。




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