広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成19年 〜2007年〜
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蛎舟纜石(かきぶね-ともづないし)
中島川は昭和30年(1955)頃までは行商の船などが行き交い、蛎舟(屋形船)が停泊するなど川の上での生活が見られていました。しかし次第に交通機関の発達や衛生上の問題など利用する者がなくなり、さらに昭和57年(1982)の長崎水害以降、河川整備が進められ河川への出入が出来なくなります。袋橋の下、古川町寄りには高さ80センチメートルほどの蛎舟用の纜石が残っています。いつの時代のものか判りませんが、中島川に船が行き来していたという名残でもあります。




D-130:袋橋/第十一橋(ふくろ-ばし/だいじゅういちきょう)
栄町-古川町間/中島川
袋橋は江戸時代、袋町橋または第十一橋と呼ばれ、江戸時代初めに木廊橋として架橋され、その後、石橋に架け替えられました。しかしいつの時代に架橋されたかは不明で、享保6年(1721)の大水害では石橋として流失した記録が残っています。そして再架された後、寛政7年(1795)と文化7年(1810)の水害。そして昭和57年(1982)の水害で破損しますが流失せず、現在のものは昭和59年(1984)修復されたものです。袋橋は西道仙によって命名し彫刻されたものですが、橋の左岸親柱には「袋町橋」、右岸親柱には「ふくろ橋」とあって、橋名が二つある橋でもあります。




D-129:清水崑のかっぱの「ぽんたくん」の像
栄町【中島川公園内】
清水崑(大正元:1912-昭和49:1974)は本名を幸雄といい、ペンネーム:、俳号を狐音といいます。長崎市銭座町出身で長崎市商業高校を卒業後、しばらくして上京し朝日新聞で政治漫画を手がけたり似顔絵などを書くようになります。その後、火野葦平の小説「河童」の挿絵を引き受け、これがきっかけとなり、小学生朝日連載「かっぱ川太郎」、週刊朝日連載「かっぱ天国」を発表。かっぱブームを巻き起こします。昭和46年(1971)からは「くんちを遊ぶかっぱ展」「長崎の春秋を遊ぶかっぱ展」「長崎の行事を遊ぶかっぱ展」という長崎三部作展を長崎市内で開催。昭和49年(1974)の長崎くんちの東濱町竜宮船のデザインも担当します。
碑文より「上潮にのって迷子になり中島川をのぼってきた子鯨を見つけて、少年かっぱのぼんたくん 背中に飛び乗り大喜び、昭和57年7月の大水害を忘れぬためにも、『ぼんたくん』を可愛がってください。 『鯨見よ夕月縦に真半分 狐音』平成十四年十月六日建立
※原作:清水崑 監修:清水恒子 製作:安藤士、平松実




D-128:サン・アウグスチン教会跡(San Agustin)
万屋町5(旧 本古川町)
キリシタン全盛期の慶長17年(1612)キリスト教の一派であるアウグスチン会のベルナルド・アヤラ神父が同会の本部としてこの地にサン・アウグスチン教会を創立します。しかし、慶長19年(1614)禁教令によって破却されます。敷地は中島川の常盤橋から旧第一勧銀付近までの広大なものでした。B-170:2005/01/03




D-127:常盤橋/第十二橋(ときわ-ばし/だいじゅうにきょう)
賑町/栄町-古川町/万屋町間/中島川
常盤橋は江戸時代、古川町橋または第十二橋と呼ばれ、江戸時代初めに木廊橋として架橋され、延宝7年(1679)祟福寺の大壇越であった鉅鹿魏之琰(A-146:2003/10/27)の寄進によって石橋に架け替えられました。橋の東側は西古川町に接していたため古川町橋と呼ばれます。寛政7年(1795)の大水害で流失し、享和3年(1803)公費で再架橋され、明治45年(1912)付近の住民(本紺屋町、本古川町、西古川町)が寄付金(1556円)を集め鉄筋コンクリート橋に架け替えられます。その際、橋名を常盤橋に改称します。現在のものは平成13年(2001)に再架されたものです。




D-126:本紺屋町(もとこうやまち)
長崎開港後、慶長2年(1597)、内町の外に外町(A-109:2003-9/12参照)が開かれ、当時としては高台の内町から川沿いの水辺に下った場所に紺屋つまり染物屋の職人街が開かれ紺屋町が生まれます。現在の中央公園-常盤橋間です。染物には大量の水を必要としたため川沿いの地域が選ばれるのです。さらに材料の紺(こん)は藍(あい)という草から採るのですが長崎にはなく、海路で輸入するため川沿いの場所が適地となるのです。現在の中島川常盤橋辺りでは水洗いや荷揚げを、内陸側(中央公園側)では洗った布を干していました。
長崎の発展につれ染物の重要も増え慶長11年(1606)頃には、中島川の上流(現在の公会堂-芊原橋間)に新たに紺屋町が開かれ、当初の紺屋町本紺屋町とし、今紺屋町が開かれます。その後、すぐに中島川を挟んで寺町側にも紺屋町が開かれ新紺屋町となり(のち麹屋町)、今紺屋町で水洗いや染付けを行ない、新紺屋町は内陸のため洗った布を干していたともいわれています。
寛文12年(1672)大改革で今紺屋町を通りを挟んで二つに分割、今紺屋町の上手(桶屋町寄り-麹屋町寄り)を今紺屋町。下手(魚の町寄り-諏訪町寄り)を中紺屋町とします。200年近くそのままでしたが、明治初期(1870年頃)、新たな改革が行われ今紺屋町と中紺屋町を合併させ紺屋町とします。しかし昭和41年(1966)本紺屋町は賑町と栄町に、紺屋町の西側を桶屋町と魚の町に、東側は麹屋町と諏訪町に分割され消滅、今ではくんちの踊町のみ見ることができます。B-147:2004/12/11




D-125:町年寄福田邸跡(まちどしより-ふくだてい-あと)
賑町6,10(旧 本紺屋町)
長崎は天領ということで幕府から命ぜられた長崎奉行が支配します。そして奉行の下で長崎の地元の役人(地役人)の町年寄が町の行政を司ります。町年寄は当初4人制、幕末には9人制にまで増やされます。江戸時代中期、その町年寄の一人、福田家は本紺屋町に706坪の屋敷を構えていました。現在の賑橋交差点南側一帯です。福田家墓所:晧台寺後山




原爆投下目標:賑橋
第二次世界大戦、昭和20年(1945)8月9日。広島に続き長崎に原子爆弾が投下されました。原爆は長崎市北部の松山町付近で炸裂しましたが、当初の投下目標は北九州市小倉といわれています。それは当日の小倉の天候が悪く投下目標の目視確認が出来ないなどの理由で第2目標の長崎に変更となります。しかし長崎に到着した爆撃機も天候不順で投下目標(賑橋付近)の目視確認が出来ない事態となり、さらに搭載燃料の関係で時間的余裕がなくなった爆撃手は目標確認ができないまま原爆投下を判断します。そして一瞬の雲の切れ間に見えた浦上の町を見つけ投下に至るのです。本来の目標の賑橋付近は原爆が炸裂した場合、長崎市にとって一番被害が大きく戦争を続ける意思をなくさせる絶好の場所という判断がありました。




D-124:賑橋/第十三橋(にぎわい-ばし/だいじゅうさんきょう)
賑町-万屋町間/中島川
賑橋は江戸時代、榎津橋または第十三橋と呼ばれ、江戸時代初めに木廊橋として架橋され、寛文6年(1666)祟福寺の大壇越であった何高材(B-145:2004/12/09)の寄進によって石橋に架けかえられました。橋の東側が榎津町に接していたため榎津橋と呼ばれます。寛政7年(1795)の大水害で流失し、寛政11年(1799)公費で再架橋され、明治34年(1901)フラットトラス構造の橋に架け替えられます。その際、付近が魚市場などが合って賑わっている様子や、橋の東が榎津町(えのキづ-まち)、西側が材木町ということで、二つの木(キ)が合わさる「ニギ合う」ということで賑橋と改称されます。昭和3年(1928)鉄筋コンクリート橋に再架。現在のものは平成2年(1990)に再架されたものです。




D-123:中島川橋梁(なかしまがわ-きょうりょう)
賑町-万屋町間/中島川
中島川橋梁は長崎電軌軌道(長崎電鉄)の西浜町-賑町間に架かる鉄道鉄橋で長崎電軌軌道によって
架橋されました。長崎電鉄は大正4年(1915)の第一期線:築町-病院前の開通を皮切りに、大浦-千馬町間、長崎駅前-馬町間と開通し、大正12年(1923)築町-古町間が誕生します。このとき中島川は渡る鉄橋も架けられました。なお、現在のものは平成元年(1989)に架けられたものです。




D-122:中央公園のSL【中央公園内】
昭和20年(1945)原爆投下後の国鉄長崎線には多くの命を救ったといわれる救援列車がありました。そしてその列車をけん引したのがSL「C51型機関車」で昭和48年(1973)ごろ長崎市はそのSLの展示を計画。国鉄門鉄局(現 JR)要請します。しかし東京青梅や新潟などので展示保存している3台を除いて昭和35年(1960)にすべて解体されていたため、門鉄局は同型で長崎にゆかりのあるSL「C57型100機関車」を贈ることになります。SL「C57型100機関車」は第二次大戦後に東京長崎間を走った特急「さちかざ」のけん引車で、昭和48年(1973)北九州小倉から長崎の中央公園に運ばれます。現在、中央公園という名称より“SLのある公園”の方が市民の間では分かりやすいかも知れません。




D-121:袖町(そでまち)
袖町とは俗称で実際は旧材木町-旧西築町の一部をいい、現在の中央公園南側から築町方向へ抜ける小さな路地をいいます(黒瀬蒲鉾店前の通り)。現在、桜町方向から中央公園横へと流れている川(大溝)は旧材木町通り(中央公園南側)から中島川へ注いでいますが、以前まではそのまま築町を通り江戸町に向かっていました。当時、その路地とその川(大溝)の間が三角形となっていたところから男性の着物の袖(筒袖)にちなみ袖町と呼ばれていました。




D-120:材木町(ざいもくまち) 現 賑町の一部
長崎開港後、市街地の拡大のため中島川沿いの畑地は整地され町建てが行われ、慶長2年(1597)、内町の外に外町(A-109:2003-9/12参照)が開かれ、材木町、本紺屋町、袋町、酒屋町の4町が生まれます。当時、建築材に適した木材は長崎には少なく、もっぱら筑後方面から海路によって運ばれていました。それら木材の荷揚げ場、積み出し場が現在の賑橋付近で、そういった意味から材木町と呼ばれます。しかし次第に木材の需要が減ると町の様相も変わり、寛文年間(1661-1673)から魚市場の町となります。昭和20年(1945)原爆の影響で町は焼失。町の規模が小さくなり昭和38年(1963)町界町名変更で賑町になります。材木町は現在の山口紙店前の通りでした。




D-119:水産場跡(すいさんば-あと)
賑町9(旧 材木町)
長崎の魚市場は長崎開港後の慶長年間(1596-1615)、市街地が形成されていく過程で中島川の中流部に始まります。魚屋が建ち並んでいるところから今魚町と呼ばれ、近くの橋は後に魚市橋と呼ばれます。寛文年間(1661-1673)材木町(現 中央公園付近)に移転。天保元年(1830)材木町の川岸に移ると、おそらく対岸の地域の萬屋町も魚河岸が建ち並び始め、中島川をはさんで賑わいを見せます。明治42年(1909)には材木町に長崎魚類共同販売所が設けられ今魚町や萬屋町の魚市場は解散、一本化されます。大正3年(1914)尾上町に魚市場が設けられ長崎駅の西側は水産物の集散場となり昭和62年(1987)畝刈町に新長崎漁港が誕生するまで、長崎の台所として活況を呈します。魚市場が賑橋付近にあった頃、人々は親しみを込めて水産場と呼び、多くの人で賑わっていました。また、昭和57年(1982)の長崎水害後の河川改修までは、賑橋の横に魚を陸揚げするための石段が残っていました。




D-118:事代主神社/恵比須神社(ことしろぬし/えびす-じんじゃ)
賑町9(旧 材木町)
江戸時代初め、市街地の拡大とともに中島川沿いが埋立てられ、現在の賑町付近は材木の荷揚げ場、積み出し場となっていました。その後、付近は魚問屋が建ち並ぶようになり、あわせて水産業の守護神:恵比寿神(事代主命)がお祀りされます。一方、明治期に榎津橋(賑橋)が改修された際、橋の基礎工事で橋と社殿基礎部が同じものであったため、社殿は橋の架橋に密接に関係したものとわかり、架橋が寛文6年(1666)ということから神社の創建はそれ以前ということが判っています。なお、当初の社殿は現在の電車線路上にあって明治35年(1902)の路面電車開通で賑橋北側に移転。平成に入り中島川河川改修工事のため現在地に移転します。




万橋の逸話
その昔、丸山町の乙名:与三兵衛が酒に酔い、あやまって金屋喜右衛門の下僕(召使)の市平に暴力を振るいます。しかし与三兵衛は逆に市平に仕返しを受け命を失うことになります。そしてこのことで市平は捕らえられますが、主人の金屋喜右衛門に影響がないよう一人で責めを負い打ち首となります。一方、金屋喜右衛門はこの罪を償うため公のためにとこの万橋を架けたといわれています。




D-117:万橋/萬橋/第十四橋(よろず-ばし/だいじゅうよんきょう)
築町-万屋町間/中島川
万橋は江戸時代、第十四橋と呼ばれ、当時、萬屋町に架かっていたので萬屋町橋とも呼ばれ、明治15年(1882)になって正式に西道仙により万橋/萬橋と命名されます。万橋は延宝6年(1678)京都の金屋喜右衛門によって架橋された石橋で、中島川の一番下流の石橋でした。寛政8年(1797)寛政第2次大水害で流失。享和元年(1801)公費で再建されます。大正4年(1915)鉄筋コンクリート橋になり、昭和46年(1971)、平成14年(2002)再架され、現在のものはグッドデザイン賞を受賞した橋です。




D-116:荒物問屋:雪屋跡(あらものどんや-ゆきやあと)
浜町2-11(旧 西濱町)【佐賀銀行長崎支店】
荒物問屋とは今でいう雑貨商のことで、雪屋は江戸時代中期の元禄年間(1688-1704)を創業とし、初代森喜左衛門から明治期以降の11代まで長崎を代表する荒物商として店を構えます。特に8代目:森栄之は和歌や南画を長けていて文化面に貢献し、さらに雪屋は代々、西濱町のくんちの傘鉾の一手持ちを行っていて、当時、傘鉾持ちの衣装などは雪屋にちなみ雪の結晶模様が散りばめられていました。雪屋:森家墓所:正覚寺後山。C-38:2005/06/24参照。




浜市(濱市) (はまいち)
江戸時代は商店街という組織はなく個々に商店が建ち並ぶ姿が一般的で、長崎では江戸町や築町、東濱町などに多くの商店が建ち並んでいて、明治維新以降は外国人相手の商店が建ち並ぶ本籠町(現 籠町)や船大工町などに賑わいが移り始めます。明治中期、全国に商店街組織結成の動きが始まり出すと長崎でも結成が急がれ、明治35年(1902)全国で2番目となる商店街が東濱町に結成されます。しかし当初の名称は記録になく、濱市と呼ばれるようになったのは大正2年(1913)の濱市商店連合会の結成からといわれ、このときから西濱町から東濱町までの本通り全体の商店街となります。昭和26年(1951)には創立50周年、平成14年(2002)には創立100周年祭が行われています。




D-115:長店通り(ながみせどおり)
鹿解川の下流。現在の浜町アーケード文明堂浜町支店付近から万屋町、榎津町、本古川町に抜ける細い通りを長店通り長店横丁といいます。いつ頃からこう呼ばれているかは不明ですが明治時代以降の地図には表記されています。細く長い横丁にたくさんの商店が建ち並ぶ姿から長店通り長店横丁となったと考えられます。この通りの万屋町付近には「万井」と彫られた当時使用された井戸が残っています。




鹿解川(ししときがわ)
寺町通りの下、麹屋町付近を水源とし古川町から思案橋付近に流れる小さな流れを鹿解川といい、「鹿」とは鹿(しか)ではなく猪(いのしし)のことで、名称からこの川の流域で毛皮の加工が行なわれていたことを表しています。江戸時代の初期、陳建という中国人の毛皮商がここに住むようになり、さらに毛皮は武士にとって必需品でいつしかここに職人町が形成されていきます。職人町は毛皮屋町と呼ばれ、延宝5年(1677)〜天和3年(1683)頃、東新橋にちなみ新橋町と改称します。明治18年(1885)コレラ流行をきっかけに下水の改修工事が進められ水路には板石が敷かれ船底型の水路が生まれます(俗に「えごばた」という)。




D-114:浜口橋(はまぐちばし)
鍛冶屋町11-21〜浜町10-6(旧 今鍛冶屋町〜東濱町境)
江戸時代初期、濱町が誕生した寛文3年(1663)から延宝4年(1676)ごろ。文字通り現在の西浜町-思案橋間の電車通りは海岸線を形成していました。そしてその地域には4つの流れ注いでいて、一つは大川(現 中島川)、もう一つは玉帯川(小島川)、残り2つは小さな流れで、観光通りの下を流れる通称えごばた、そして最後が寺町沿いに流れる鹿解川で、特に鹿解川の河口を浜口といい、浜口に架かっていた橋を浜口橋といいます。また、この橋のたもとに唐子地蔵があるところから別名:唐子橋といいます。現在のアーケード「カメラのタケダ」前の折れ点が橋の位置です。




D-113:唐子地蔵(からこじぞう)
鍛冶屋町11-19(旧 今鍛冶屋町)
唐子地蔵は享保7年(1722)建立の石仏で道中の安全や目印のために置かれたものですが、この存在はこの前の通りが当時すでに長崎中心部と茂木街道とを結ぶメインストリートだったことを物語っています。また、慶応4年1月10日(1868)の大火ではこの地蔵尊のところで火災が止まったところから、地蔵尊のご加護によるものと伝えられています。7月24日大祭。
余談ですが、通行の参詣者の多さに“浜町一、売り上げの多い場所”と記されたことがあります。




D-112:長崎高木銀行跡(ながさきたかぎぎんこう-あと)
浜町9-5(旧 東濱町)【エムエスビル】
高木與作(天保11:1840-大正14:1925)は佐賀小城藩牛津出身で明治3年(1870)長崎入りし種類販売業を創めます。当時は西九州随一の富豪といわれ不動産業なども手がけ、大正2年(1913)東濱町に長崎高木銀行を資本金100万円で設立。個人経営の銀行として評判となります。大正9年(1920)には県立長崎高等女学校開校のため西山の広大の敷地1870坪を寄付し紺綬褒章が贈られています。しかし昭和4年(1929)金融恐慌によって長崎高木銀行は倒産となります。高木家墓所:興福寺後山。2004/05/30参照




D-111:舶来織物商:田中屋
浜町8-29,30(旧 東濱町)【タナカヤ】
明治の初め、浜町界隈には田中屋という屋号が3軒ほどあって、舶来織物商田中屋、小間物商田中屋、舶来品仲買商田中屋とあって、そのうち舶来織物商の田中屋は明治10年(1877)田中家本家より分家した田中直三郎が創業した店舗でした。この田中直三郎は当時の長者番付の常連で、明治37年(1904)の日露戦争時には市を挙げた戦勝祈願に尽力し、開戦から戦勝まで毎日休むことなく合戦場に登り、戦勝の知らせが入る毎に合戦場(のちの祝捷山)に宴を張り多くの役人や市民など数千人を呼び戦捷(戦勝)を祝っていました(C-5:2005/05/09参照)。また、田中直治郎の子息の田中直治は明治36年(1903)東洋日之出新聞の鈴木天眼とともに瓊浦游泳会を立ち上げ、長崎港外の皇后島(通称:ねずみ島)で小中学生の水泳教育発展に尽力します。瓊浦游泳会は昭和に入り長崎游泳協会に改称。皇后島での水泳教育は昭和47年(1972)まで続き、翌48年(1973)長崎市民総合プールへと受け継がれます。




石丸文行堂(いしまるぶんこうどう)
浜町8-32(旧 東濱町)
明治16年(1883)石丸国吉は勝山町に筆墨製造販売店として石丸文具店を創業。明治21年(1888)東濱町に進出します。明治35年(1902)には石丸文行堂と改称。当時としては珍しく西洋紙や西洋帳簿などを扱う店で浜町唯一の文具商でした。昭和8年(1933)石丸文行堂は個人商店では長崎では2番目。浜町では初となる鉄筋コンクリート3階建の建物となり、木造2階建の建ち並ぶ町並みにひときわ目立つ存在となります。現在の建物は昭和58年(1983)竣工。




D-110:長崎警察署跡(ながさき-けいさつしょ-あと)
浜町7-11(旧 東濱町)【浜屋百貨店】
江戸時代末期に長崎を警護する目的で結成された遊撃隊(のち振遠隊)は、明治5年(1872)兵制が整ったため解散され邏卒(ラソツ=巡査)制度となり、羅卒屯集所を外浦町、西濱町鐡橋際、下り松町に置きます。明治7年(1874)に本署として長崎警察局を本大工町(現 魚の町の一部)に設け、明治8年(1875)長崎警察局は外浦町に移転。翌9年(1876)長崎警察局長崎警察署となり、東濱町の土地を購入。明治11年(1878)東濱町に長崎警察本署を置き移転します。大正12年(1923)外浦町に新庁舎を建て(現存:現県庁第三別館)移転し、昭和23年(1948)長崎市警察署に改称。昭和29年(1954)現在の体制である長崎警察署となり、昭和43年(1968)現在地の桶屋町に移ります。A−19:2003/05/22参照




D-113:竹谷健寿堂(たけやけんじゅどう)
浜町7-7(旧 東濱町)
竹谷健寿堂の創業は明治5年(1872)で東濱町裏丁(現 浜屋裏)から始まり明治10年(1877)竹谷屋寿吉郎によって現在地に移ります。同年、竹谷藤吉が神力膏と神力湯の免許を得て薬種商:竹谷健寿堂を始め、店頭に赤い布の布袋さまを置き「竹谷どんばら膏薬」を看板商品として売り出します。当時は布袋さまを大八車に載せ膏薬を宣伝販売していたといいます。現在の布袋さまは2代目。




D-112:観光通り(かんこうどおり)
江戸時代、現在の観光通り電停付近は入江になっていて、その後の埋立により万屋町付近から銅座町にかけて水路が走るようになります。明治18年(1885)コレラ流行をきっかけに下水の改修工事が進められ水路には板石が敷かれ船底型の水路が生まれます(俗に「えごばた」という)。明治24年(1891)頃に水路沿いに柳や山桐が植えられると柳通りと呼ばれ、大正15年(1926)に水路が暗渠化、さらに昭和12年(1937)市街地縦貫道路計画によって銅座橋から本古川町(中通り入口)までが道路拡張によって大通りが出来ると、柳通りは多くの商店などが建ち並ぶようになり商店街になっていきます。第二次大戦の復興も進み始めた昭和24年(1949)長崎が国際文化都市を宣言したころ、柳通り観光通りと改称。命名は一説には当時の市長:大橋博によるといわれています。現在、観光通りは、銅座町側を銅座観光通り、浜町側をベルナード観光通りと呼びます。




D-111:長崎刺繍発祥の地(ながさきししゅう-はっしょうのち)
浜町5(旧 東濱町)
長崎刺繍といえば、長崎くんちの衣装や傘鉾の垂れなどで使用される装飾が有名ですが、その発祥は東濱町の裏通りにあった縫屋に端を発します。ここは縫紋(ヌイモン)や縫箔(ヌイハク)を専門に扱っていた店でしたが、明治の始めに一人の中国人から貨幣のデザインにあった鷲章(シュウショウ)を縫箔するよう求められます。以降、店主の縫屋(春口)伊重はこの縫箔をアレンジして金糸銀糸で国旗や写真、絵画、花鳥など幅広く刺繍を始め、製品化に成功するのです。
なお、他説によれば貞享年間(16841688)に中国から工法が伝来したともいわれています。




D-110:十八銀行発祥の地
浜町4-20(旧 東濱町)【諸熊病院】
明治3年(1870)長崎物産会所の貸付金銭業務を委託された協力社が設立(のち六海商社)。一方、明治5年(1872)明治政府は混乱した金融政策を整え近代化を進めるため国立銀行条例を公布し、それによって各都市に国立銀行が生まれます。同年、協力社の松田源五郎、永見伝三郎は意見の対立で新たな金融機関:永見松田商社を設立します。すぐに増資を行い立誠会社となり、明治10年(1877)立誠会社を発展させた第十八国立銀行が東濱町に誕生します。当時は資本金16万円、一株100円でした。明治22年(1889)俵物役所跡に新社屋を設け東築町(現在地)に移転し、明治30年(1897)株式会社十八銀行となります。その後、県内の小銀行などを合併や吸収して確立して行き、現在に至ります。D-34:2007/01/04参照




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