広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成19年 〜2007年〜
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D-153:東新橋/第八橋(ひがししんばし/だいはちきょう)
魚の町-諏訪町間/中島川
東新橋は江戸時代、第八橋と呼ばれ、当時は本大工町に架かっていたところから本大工町橋とも呼ばれ、明治15年(1882)になって正式に西道仙により東新橋と命名されます。寛文13年(1673)に架橋。寄付者は判っていませんが、寛文6年(1666)何高材による榎津町橋(現 万橋)の架橋、延宝7年(1679)魏之琰による古川町橋(現 常盤橋)の架橋など、この時代に中国人の架橋が続いているところから、東新橋も中国人によるものだと考えられています。享保6年(1721)享保の大水害と寛政7年(1795)寛政大水害で流失しましたが公費によって石橋に再架。昭和57年(1982)長崎水害で流失し昭和61年(1986)昭和の石橋として階段付きの太鼓橋に変わります。総工費3億700万円。
寛文13年(1673)に架けられた東新橋ですが、一説には同年に岩原川にも橋が架けられていて、新しい橋ということでともに新橋となり、西側を西新橋、東側を東新橋と呼んだともいわれています。西新橋は現在のNBC前付近でした。




殉職救護員の碑(じゅんしょくきゅうごいん-のひ)
魚の町3-28【長崎赤十字会館】
第二次世界大戦中、日本赤十字社長崎県支部の救護員は、戦火激しいフィリピンや中国南部に送り込まれ、戦地や病院船などで重症患者の看護に当たります。しかし衛生状態が悪いため救護員も伝染病や過労、栄養失調などになるケースがあって、県内救護員371名のうち21名が命を失います。この殉職救護員の碑は平成11年(1999)日本赤十字社長崎県支部と日赤看護婦同方会県支部によって建立されました。




かめ女(かめじょ)
今魚町の傘鉾にはもう一つ言い伝えがあって、初期のものは江戸時代中期に町内に住していた“かめ女”という人物によって作られたといわれています。この“かめ女”は徳乗という者の子で享保年間(1716〜)から天明年間(〜1789)に活躍し、鋳物師として香炉製作に非常に長けていたといいます。また“かめ女”は職人肌な性格で普段は貧乏な生活ですが、注文を受けて手付金を貰うとすぐに近所の仲間を呼び酒を振舞うなど大変な豪傑な人間でした。ある年、長崎奉行から香炉の注文を受けるのですが、半年経っても製作を始めないため厳しく催促すると、数日後に出来上がり、香炉を床の上に置くのですが気に入らず突然の大斧で叩き割り、結局注文を果たせなかったという逸話が残っています。




魚の町の傘鉾
長崎くんちで使用される魚の町の傘鉾は以前の今魚町のもので、江戸時代末期の嘉永6年(1853)に作られました。今魚町にちなみ飾りは投網、魚籠や、鯛、海老、あぜなどの魚類、そして周囲に施された波しぶきなど海に関係するもので、すべてがビードロ細工(ぎやまん細工)で作られています。製作は今魚町にあった土屋硝子細工所といわれていて、現在、長崎にある最大級のビードロ細工といわれています。市有形文化財。




D-152:江崎鼈甲店(えざきべっこうてん)
魚の町7-13(旧 今魚町)
江崎家は寛文年間から今魚町に屋敷を構え、宝永6年(1709)初代:江崎清蔵が鼈甲業を始めます。初代から4代目まで清蔵を名のり、嘉永6年(1853)5代目栄造のときのロシア艦隊のプチャーチンが来崎。江崎家にロシアから鼈甲の注文を受けます。そしてその出来ばえに明治7年(1874)ロシア皇室は軍艦の模型を鼈甲で制作するよう注文し、後にロシア皇室の御用達にまで命ぜられるようになります。大正から昭和にかけて6代目栄造は宮内庁御用達となり、6代目栄造は無形文化財に指定されます。
江崎鼈甲店の建物は明治31年(1898)のもので、ロシアとの関係から看板の文字はロシア語でも綴られています。国登録文化財。




D-151:今魚町(いまうおまち) 現 魚の町の一部
長崎の魚市場は長崎開港後の慶長年間(1596-1615)、市街地が形成されていく過程で中島川の中流部に始まります。魚屋が建ち並んでいるところから今魚町と呼ばれ、近くの橋は後に魚市橋と呼ばれます。寛文年間(1661-1673)今魚町は内陸に近いということで材木町(現 中央公園付近)に移転。今魚町は一般の商家の建ち並ぶ町に変わります。名称が今魚町というところから本魚町も存在していた可能性もありますが不明です。昭和38年(1963)栄町の一部と踊町:魚の町の傘鉾は今魚町の飾りといわれています。D-119:2007/05/18参照




D-150:魚市橋/第九橋(うおいちばし/だいきゅうきょう)
魚の町-諏訪町間/中島川
魚市橋は江戸時代、第九橋と呼ばれ、元禄12年(1699)岡正恒(オカ-マサツネ)によって架けられ、高玄岱によって銘が作られました(現存せず)。当時、今魚町通りにあったことから今魚町橋とも呼ばれ、明治15年(1882)になって正式に西道仙により魚市橋と命名されます。これは以前この付近に魚市場があったことに由来します。享保6年(1721)享保の大水害と寛政7年(1795)寛政大水害、文化7年(1810)の文化大水害で流失するも再架され、江戸時代最後の架橋は天保13年(1842)といわれ、このとき石橋になったか木橋になったかが解らず、明治36年(1903)鉄橋になります。天保の架橋か明治の架橋のとき川の中心に台座を設け架橋する方式となり、台座は旧石橋のものの転用と考えられていました。大正14年(1925)コンクリート橋となり、平成18年(2006)河川改修のため台座は撤去され一連の橋となります。




D-149:水害復興と友好の記念碑
魚の町(旧 酒屋町)【中島川公園右岸】
この記念碑は昭和57年(1982)の長崎水害の復興を記念して長崎市が平成元年(1989)に建てたモニュメントで、製作は中国、彫刻は原爆公園の「乙女の像」を製作した彫刻家:秀禎祥によるものです。
碑文「(前略)この碑は中島川に石橋を架けるなど古くからゆかりの深い中国に依頼して製作した水害復興記念碑です。像は不思議な能力を持った伝説上の中国の少年と元気な日本の少女が力を合わせて風を呼び雨を呼ぶ巨大な龍を従わせている姿で治水と日中友好を象徴しています(後略)」




D-148:下村ひろし句碑(しもむらひろし-くひ)
魚の町(旧 酒屋町)【中島川公園右岸】
下村ひろし(明治37:1904-昭和61:1986)本名:下村宏は、明治34年(1901)日本で5番目となる婦人科の学校;下村産婆学校を設立した下村亨の長男で、下村宏もこの学校を引き継ぎます。しかし第2次大戦後廃止され、後に磨屋町(現 古川町)に下村産婦人科を設立します。下村ひろしは俳句に長け、昭和22年(1947)「棕梠(しゅろ)」の主宰となり活躍の場を広げます。B-155:2004/12/19、2004/03/20参照
碑文「風花や 錦絵めきて 眼鏡橋  ひろし




D-147:眼鏡橋町(めがねばし-まち)
昭和20年(1945)原爆による影響で県庁から自然発火した火災は築町から魚の町付近まで焼失させました。住民は復興を進めるため自治会組織を合併させ眼鏡橋町が誕生。合併した町は酒屋町、袋町、本紺屋町、材木町の一部からなります。しかしこの眼鏡橋町は暫定的なもので正式名称ではなく、昭和38年(1963)現在の栄町、賑町などの町名に改称されます。なお、昭和31年(1956)の長崎くんちでは眼鏡橋町として奉納踊りを実施しています。




D-146:長崎電軌軌道酒屋町電停跡
栄町/魚の町(旧 酒屋町)
長崎電鉄は大正4年(1915)の第一期線:築町-病院前の開通を皮切りに、大浦-千馬町間、長崎駅前-馬町間と開通し、大正12年(1923)築町-古町間が誕生します。この路線の開通で路線内の古町、酒屋町賑橋、西濱町の各電停が置かれますが、現在のように大通りの真ん中を走るものではなく、用地買収の関係で民家すれすれのところを進むようなものでした。昭和29年(1954)酒屋町電停旧賑橋電停が廃止され、中間に当たる現在の位置に賑橋電停が作られます。A-212:2004-02/04参照




D-145:町年寄福田邸跡(まちどしより-ふくだてい-あと)
魚の町2(旧 酒屋町)
長崎は天領ということで幕府から命ぜられた長崎奉行が支配します。そして奉行の下で長崎の地元の役人(地役人)の町年寄が町の行政を司ります。町年寄は当初4人制、幕末には9人制にまで増やされます。江戸時代中期、その町年寄の一人、福田家は酒屋町に671余坪の屋敷を構えていました。現在の栄町交差点北側一帯です。福田家墓所:晧台寺後山。D-125:2007-5/25




D-144:長崎女子商業高等学校
栄町2-10(旧 酒屋町)
長崎女子商業高等学校は大正12年(1923)海軍主計大佐だった田口成能と、県会議員や衆議院議員を務めた中村不二男によって創立されたもので、当時の女学校が理想主義に走っていたことに対し職業的や経済的、家庭的に自立できる女性を養成する目的で開校されました。当初は寺町興福寺の末庵の跡に置かれ、昭和11年(1936)新町尋常小学校跡(A-66:2003/07/18)に移転。しかし昭和20年(1945)原爆による火災で焼失したため、桜馬場の長崎市立高等女学校や西小島の佐古小学校の校舎を借りて授業が行われ、昭和22年(1947)現在地に移ります。市民からは女子商業と呼ばれ常に簿記や珠算など実務的な資格は全国レベルの成績です。




D-143:長崎銀行(ながさきぎんこう)
栄町3-14(旧 酒屋町)【長崎銀行本店】
長崎銀行の起源は質屋と並ぶ庶民相手の金融機関というべく営業無尽で、大正元年(1912)の長崎貯金株式会社から始まります。長崎貯金(株)は当時の長崎の財界有力者が出資して作られた貯金会社で、頼母子講(タノモシコウ=無尽:組合員が定期に一定額を出し合って、くじや抽選などで金品を受け取ること)的なものでした。当初は東濱町で大正4年(1915)長崎無尽貯金会社、翌5年(1916)長崎無尽と改称します。大正13年(1914)酒屋町に社屋を完成させ移転。このときの社屋は絵葉書になるほど市民を魅了しました(現 長崎銀行本店社屋)。昭和14年(1939)には全国無尽会社契約高番付第3位となり、次々に周辺の無尽会社を吸収合併させます。昭和26年(1951)相互銀行法により長崎相互銀行となりますが、組合労使紛争が起こりストライキが発生。一時期、業績低迷時代がありましたが、現在は昭和63年(1988)の普通銀行転換で長崎銀行となり、奨学金や長崎銀行文庫などを設置するなど地域密着型の銀行として親しまれています。




〇イエズス会の司祭:ディオゴ・デ・メスキータ神父
メスキータ神父(1554-1614)はポルトガル人のイエズス会司祭で天正5年(1577)に来日し、天正10年(1582)〜18年(1590)に行われた天正少年使節にも同行しています。メスキータ神父の功績は当時のイエズス会年報によれば、天正18年(1590)以降、天草にあったコレジオの学院長や、慶長6年(1601)山のサンタマリア教会(現 長崎歴史文化博物館)やその近くに設置されたサン・ミゲル墓地などを建設するなど尽力し、長崎で最初の石畳といわれた現在の八百屋町に当たる山のサンタマリア教会の参道整備などを進めています。そして慶長8年(1603)のサンティアゴ病院の設立に続きます。慶長19年(1614)禁教令後も長崎に潜伏するも病死します。




後藤宗印(ごとう-そういん)
後藤宗印(?-寛永4:1627)は、名を惣太郎、庄左衛門貞之といい、武雄の後藤貴明の一族で、お家の事情で長崎に移住し、剃髪して宗印を号します。長崎開港後の長崎では頭人(のちの町年寄)となり、文禄元年(1592)には頭人総代格として名護屋城で秀吉に謁し、長崎支配の功績から猩猩緋(ヒョウジョウヒ=赤色)の陣羽織を与えられています。さらにブルネイやシャムなどへ御朱印船を送り貿易も行い、さらには入信しトーマスという洗礼名を得、慶長5年(1600)からキリスト教の教義書などの印刷なども熱心に行います。その後、キリシタンゆえに捕らえられ江戸の獄中で病死します(80余才)。墓所:晧台寺後山(市指定史跡)




D-142:サンティアゴ病院/教会跡(Santiago)
栄町3-14(旧 酒屋町)【長崎銀行本店】
サンティアゴとはスペイン語で聖者ヤコブの意味があり、慶長8年(1603)イエズス会の司祭:ディオゴ・デ・メスキータ神父によってサンティアゴ病院が創立されます。慶長9年(1604)には付属教会、その横に付属の小学校まで建てられ、その後、長崎にポルトガル船の入港が増えると病気が持ち込まれるなど病人が増えたため、慶長17年(1612)サンティアゴ病院は増築されます。慶長18年(1613)ごろメスキータ神父は長崎頭人だった後藤宗印の印刷所を移設させ印刷事業も盛んにしますが、慶長19年(1614)のキリスト教禁教令により破壊されます。なお、サンティアゴ病院付属教会の鐘は現在、大分県竹田市に保管されています。




D-141:長崎大神宮(ながさきだいじんぐう)
栄町6-10(旧 酒屋町)
明治維新後、長崎に九州鎮撫総督を置き、総督に尊攘派(反幕派)の澤宣嘉(サワ-ノブヨシ)を命じますが、澤は熱心な敬神家で、当時、浦上地区で問題になっていたキリシタン対策に尽力し、宗教政策(神道の強化)の整備のため市民啓発を推し進めます。一方、明治5年(1872)明治政府は新しい宗教政策(神道の強化)の整備のため教部省を設置。神社仏閣のあらゆる体系や制度を管理し、明治6年(1873)宗教者への指導機関:大教院を中央に置き、地方に中小教院を設置し、明治7年(1874)長崎においては磨屋町にあった薬師寺邸内に中教院が設置され天照大神を始めとする4柱がお祀りされることになります。そういった中、仏教側の協力が得られず明治8年(1875)中教院は諏訪神社へ移され、仏教側は明治12年(1879)晧台寺内に各宗連合の中教院を設置します(B-68:2004/09/6参照)。明治11年(1878)伊勢神宮の内宮である皇太神宮を勧請し諏訪神社で盛大な祭典が行われますが、明治政府の宗教政策に混乱が生じ明治15年(1882)教導職の廃止以降、神道系の教団が独立。そして諏訪神社の皇太神宮は本興善町の中尾宅に移され、神宮長崎教会所となり、明治19年(1886)大村町(現 万才町)に社殿を建立して移転します。明治32年(1899)神宮奉斎会長崎本部大村町大神宮と改称し、昭和20年(1945)社殿は原爆による火災で焼失します。昭和28年(1953)酒屋町に移転。そのころから長崎大神宮となり、現在に至ります。




D-140:酒屋町(さかや-まち)
長崎開港後、市街地の拡大のため中島川沿いの畑地は整地され町建てが行われ、慶長2年(1597)、内町の外に外町(A-109:2003-9/12参照)が開かれ、材木町、本紺屋町、袋町、酒屋町の4町が生まれます。酒屋町酒の問屋や酒造所などが建ち並んでいた町で、長崎では米の生産が行われていなかったため海路、長崎に運ばれていて中島川沿いのこの付近が選ばれたものと思われます。また、昔の酒屋は金貸しも多く比較的、裕福な町といえます。昭和20年(1945)原爆の影響で町は焼失。そのため町の組織規模が小さくなり昭和38年(1963)町界町名変更で通りの北側は魚の町、南側が栄町に変わり酒屋町の歴史が終わりました。酒屋町は現在の長崎女子商業高等学校(女子商業)の通りでした。




D-139:黙子如定像(もくすにょじょう-ぞう)【眼鏡橋際】
黙子如定(1597:慶長2-1657:明暦3)の出身地は中国江西省建昌というところで、大小2千もの河川があって当時、土木技術が大変進んでいました。そして如定もここで石橋などの土木技術を見につけていたと考えられています。寛永9年(1632)如定36才の時、渡来。興福寺に入ります。興福寺では唐船船主や乗組員などから寄進を受け大雄宝殿や媽姐堂などの整備を進め、寛永11年(1634)には眼鏡橋建設に従事。翌寛永12年(1635)興福寺第2代住職となります。寛永20年(1643)興福寺の上方に隠居所として東盧庵(幻寄山房:廃庵)を建て正保2年(1645)逸然に譲ります。このほか如定は書や象眼(木片を掘り材料を埋め込んだ物)にも優れていました。墓所:興福寺後山
この像は平成6年(1994)ライオンズクラブ国際協会長崎中央クラブによって建立されました。2004/08/19参照




〇眼鏡橋の謎
橋の手摺り部分を支える柱を束柱(ツカバシラ)といいますが、基本的に中島川の石橋群を見ると新旧含めて上流部下流部ともに左右対称に作られていて同じ本数です。しかし眼鏡橋に関して、上流部下流部が左右対称ではなく、また本数も8本と9本で1本の差があります。昔から日本人は几帳面な性格といわれ石橋などの構造物を作る際は左右対称に造りそうなのですが、眼鏡橋はそうではありません。昭和57年(1982)の長崎水害以前からそうなっています。この謎、誰かわかりますか?




日本の石橋・長崎の石橋
中国から日本に石橋の技術が伝来するのですが、中国の石橋の考え方の一つに次のようなものがあります。中国の石橋は氾濫の度に姿を消してしまいますが、水かさが下がると再び姿を現し橋が中心となって道が生まれます。一方、日本の橋は陣地を守る最終の手段であって、敵から攻められたときに火を放ったり壊したりと防御の意味があって、頑丈な石橋は必要とされませんでした。そのため江戸時代初めに石橋の技術が伝来してもあまり日本各地に拡がることなく、城下町ではない攻め込まれる恐れが少ない長崎だけに発展したものといわれています。




眼鏡橋の存在の理由
いくつもの通りがある中、なぜ、諏訪町と酒屋町に最初に石橋が架けられたのでしょう?
諏訪町の通りを抜けると寺町通りにぶつかり、寺町通りは思案橋から大浦戸町方面(御崎道)、寺町通りから油屋町通りに抜けると茂木天草につながり(茂木街道)、寺町通りは伊良林から日見方面にも抜けられます(日見街道)。反対に酒屋町通りは桜町で長崎街道と交差し、そのまま中町上町に進むと浦上時津へつながります(浦上街道)。このように諏訪町通りと酒屋町通りは当時のメインストリートで、大雨などで流失する木橋や土橋では交通に支障をきたすところから石橋が架けられたものといわれています。




D-138:眼鏡橋/第十橋(めがね-ばし/だいじっきょう)
栄町/魚の町-古川町/諏訪町間/中島川
眼鏡橋は江戸時代、第十橋と呼ばれ、架橋当時から“めがね”橋、目鏡橋(メガネバシ)、酒屋町に架かっていたので酒屋町橋と呼ばれ、明治15年(1882)になって正式に西道仙により眼鏡橋と命名されます。寛永11年(1634)のちに祟福寺第2代住持となる黙子如定(2004/08/19参照)によって架けられ、正保4年(1647)正保大水害によって流失または半壊に遭い、翌年の慶安元年(1648)平戸好夢によって重修、つまり重ねて修理したとあります。一説には正保の水害で流失したとも考えられますが重修が定説になっています。以降、流失の記録がなく昭和57年(1982)の水害でも破損しますが流失せず、現在のものは昭和58年(1984)修復されたものです。その際、流失で見つかった創建当時の階段が復元されました。
なお、日本最古のアーチ型石橋は沖縄県那覇市の旧円覚寺放生橋ですが、こちらは琉球王国という理由で眼鏡橋が日本最古になっています。国重要文化財。




D-137:長崎市立長崎高等学校跡
栄町2-23(旧 袋町)【長崎市医師会館】
昭和40年(1965)定時制の長崎市立長崎高等学校が栄町に開校。その後、昭和57年(1982)長崎市立長崎第二商業高等学校と統合し長崎市立長崎高等学校となります。そして平成12年(2000)長崎県立女子短期大学の跡地に長崎県立鳴滝高等学校が開校し、それまでの長崎市立長崎高等学校が移管されます。A-232:2004/02/27参照




D-136:上野彦馬生誕の地の碑
栄町(旧 袋町)【中島川公園右岸】
上野彦馬(天保9:1838-明治37:1904)は御用時計師:幸野俊之丞(後の上野俊之丞)の四男として銀屋町に生まれます。20歳前にオランダ通詞:名村八右衛門についてオランダ語を学習、安政5年(1858)化学研究所である舎密(セイミ)試験所に入り、さらに海軍伝習所(A-29:2003-6/9参照)ポンペに化学を学びます。その後、フランス人ロッシュから写真術の指導を受けフランスから写真機を購入、江戸神田で萩藩主らを撮影します。そして文久2年(1862)帰崎し中島鋳銭所跡地に上野撮影局を開き写真文化の発展の基礎を築くのです。明治7年(1874)アメリカの金星観測隊の依頼で大平山で観測を行ない(後の星取山)、明治10年(1877)西南戦争に従軍、これは日本初の軍事報道カメラマンとなるのです。墓所は皓臺寺後山。(A-170:2003-11/29、B-157:2004/12/21参照)
この碑は平成18年(2006)中通り商店街などによって建立されました。




D-134:長崎ボーリングセンター跡
栄町(旧 袋町)
昭和38年(1963)福岡佐世保に次ぐ九州で3番目となるボーリング場が開設されました。

D-135:旧 長崎公会堂跡
栄町3-23(旧 袋町)【西九州酒類販売】
昭和初期、篤志家:中村重太郎は長崎市に公会堂と呼べる施設がないことを残念に思い、昭和5年(1930)それまで袋町にあったキリスト教青年会館とその敷地を買収し、あわせて改造費35,300円を加え長崎市に寄附。長崎市はその金額に公費を足して改造し昭和6年(1931)長崎公会堂が誕生します。しかし公会堂は昭和20年(1945)の原爆による火災によって焼失。昭和24年(1949)長崎市はその土地をカトリックセンターに売買します。当時、この売買は寄進地の転売ということで前市長が告訴されました。




D-133:西古川町火除け地蔵(にしふるかわまち-ひよけじぞう)
古川町2(旧 西古川町)
明和3年(1766)西古川町から出火した火事は市内の15ヶ町を全半焼させる火事となり、後に明和の大火と呼ばれます。天明2年(1782)再び西古川町を火元とする火事が起こり、このことから町民は寄附を集め地蔵菩薩を建立します。この地蔵尊はのちに火除け地蔵と呼ばれ、以降、西古川町の人々に大切にお祀りされます。昭和57年(1982)長崎水害で地蔵尊の祠などが被害を受け一旦、町内の別のところに安置されていましたが、平成18年(2006)河川改修終了後に新しい祠が袋橋きわに建立されます。




D-132:本古川町/東古川町/西古川町(もと-ふるかわまち/ひがし-/にし-)現 古川町
長崎開港後、中島川は大川と呼ばれ現在よりはるかに川幅が広く、古川町付近は大川と鹿解川の中洲のようになっていました。しかし、市街地の拡大で内町(県庁付近〜市役所付近)が広がると同じく対岸の中洲にも人が住むようになり川添町や歌舞伎町、新歌舞伎町と開かれます。これらの町は古川町と改称し、さらに寛文12年(1672)改革により均等に町建てが行われ本古川町東古川町西古川町が誕生します。現在の鍛冶屋町銀嶺前から常盤橋までの通り(旧勧銀の通り)を本古川町、中通りに入り一つ目の通りが東古川町中島川沿いの賑橋から諏訪町までの通りを西古川町といいました。しかし、昭和41年(1966)町界町名変更によりほとんどが古川町と呼ばれるようになり、さらに昭和57年(1982)長崎水害により中島川の河川改修が行われると西古川町の川沿いの地域は消滅してしまいます。今ではくんちの出し物などにしか旧町名を見ることが出来なくなりました。なお、平成19年(2007)東古川町は町名復活しました。参照B-164:2004/12/28




D-131:袋町(ふくろまち)
長崎開港後、市街地の拡大のため中島川沿いの畑地は整地され町建てが行われ、慶長2年(1597)、内町の外に外町(A-109:2003-9/12参照)が開かれ、材木町、本紺屋町、袋町、酒屋町の4町が生まれます。袋町の由来は定かではなく、おそらく足袋や袋物などの小間物屋などが建ち並ぶ町ではないかといわれています。昭和20年(1945)原爆の影響で町は焼失。そのため町の組織規模が小さくなり昭和38年(1963)町界町名変更で付近の町と共に栄町になります。袋町は現在の長崎市医師会館前の通りでした。




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