広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成19年 〜2007年〜
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D-197:旧長崎市長公舎(きゅう-ながさきしちょう-こうしゃ)
馬町(町名変更なし)
大正年間(1912-1926)に建てられた現存の建物は大正時代に活躍した長崎市議会議員:山之邊寅雄が邸宅として使用していた建物でしたが、第二次大戦後、長崎市が旧長崎市博物館を日本銀行長崎支店に譲渡することになり、そのためその移転先として山之邊邸を長崎市が購入して長崎市博物館に転用します。昭和30年(1955)平野町に長崎国際文化会館が完成すると長崎市立長崎博物館は会館内に移転。旧博物館は改装して市長公舎となります。昭和63年(1988)玉園町に新市長公舎が完成すると、後に長崎市教育庁舎となり、その後、ベンチャービジネス関連の合同庁舎となります。




D-196:良林亭/自由亭跡(りょうりんてい/じゆうてい-あと)
馬町(町名変更なし)
安政6年(1859)草野丈吉は大浦の居留地に行き外国人の使用人として使えます。その後、オランダ軍艦のコックとなり西洋料理を学び、文久3年(1863)伊良林の自宅を改造し西洋料理店:良林亭を開業します。自遊亭や自由亭と改称し、しばらくして本大工町(現 魚の町)に移転。明治11年(1878)馬町に洋館を建て営業を続けます。明治12年(1879)にはグラント将軍来日時(諏訪社20:2004-5/17参照)ここでパーティーが開かれました。明治21年(1888)地方裁判所に買収され廃業し検事正官舎として使われます。洋館は昭和41年(1967)グラバー園に移築され現存します。B-19:2004/06/20,C-315:2006/09/9




D-195:馬町(うままち)
江戸時代初め、長崎の町は急速に発展し市街地の入口に当たる地域つまり長崎街道の入口付近には、常時、公用の荷物を運ぶ馬がいつも待機していて輸送基地になっていました。そしてそうやって発展した町が馬町で、その後、寛文12年(1672)通りをはさんで諏訪神社側を北馬町、中島川寄りを南馬町に分けられました。明治5年(1872)再び統合され馬町となり現在に至ります。なお、当時いた馬は荷物を載せた後、次の宿である日見宿などへ客人とともに向かい、荷物を下ろすと独りでに馬町に戻って来たといわれています。参照2003/11/19,B-17:2004/06/18




小泉信三の碑文(こいずみしんぞう-のひぶん)
福澤諭吉が使用したとされる井戸の横と光永寺山門横には、それぞれ「福澤先生使用之井/安政元年」および「福澤先生留学之址/安政元年」という碑が建っています。これはともに昭和12年(1937)長崎三田会によって建立されたもので文字は小泉信三によるものです。
小泉信三(明治21:1888-昭和41:1966)は東京出身で、父は慶応義塾大学塾長を務めた小泉信吉です。信三慶應義塾大学へ進み政治学科を専攻。卒業後は同大学の教員となり、数年間、大学命で英、仏、独に留学し、同大学教授となります。昭和8年(1933)には慶応義塾大学塾長となり、第二次大戦後は東宮御学問参与を務め、今上天皇(当時皇太子)の教育にあたり新時代の帝王学を講義したとされています。昭和34年(1959)文化勲章を受章。福沢諭吉の研究もされ著書も発表しています。




D-194:福澤諭吉使用の井戸
出来大工町47(町名変更なし)
福澤諭吉(天保5:1834-明治34:1901)は蘭学の研究のため安政元年(1854)19歳で長崎入りし、先に長崎で砲術研究のため光永寺に仮寓していた同じ中津藩の家老の子である奥平壱岐を訪ねます。それからすぐに高島秋帆の門弟で長崎奉行所付触頭の山本物次郎の屋敷のある出来大工町に移り、わずか1年という留学期間で蘭学の原書を読みこなすまで上達したといいます。それから大坂、江戸と進み、現在の慶応義塾大学の前身となる福澤塾を開き蘭学を広め、さらに幕末の日本を独立した国家として築き上げるため尽力し、開国そして明治の礎を創ります。この井戸は山本物次郎の屋敷横にあった井戸で福澤諭吉が滞在時に使用したとされています。参照2004/03/23/,D-172:2007/7/26




D-193:新町使長屋跡(しん-ちょうしながや-あと)
出来大工町(町名変更なし)
慶長8年(1603)長崎奉行所は市民を監視する目付役5人を設置し、平日に市内を巡視しキリシタンの捜索を始めます。その後、犯罪を監視する職となり町司から町使と改称し、再度、町司となります。元和5年(1619)から9人制となり、寛永13年(1636)13人制になります。町使長屋があって、さらに新しく作られた長屋ということで新町使長屋です。現在の出来大工町電車通りから一つ山側にある通りをいいます。




高麗橋の親柱【光雲寺境内】
高麗橋は伊勢宮神社の門前に架かる橋で江戸時代、第二橋と呼ばれ、俗称では伊勢宮橋といわれていました。明治になって西道仙により高麗橋と命名されます。高麗とは橋の架かる伊勢町の旧名:新高麗町(A-162:2003-11/18参照)からとったもので、承応元年(1652)に架けられました。しかし誰が架けたかが正確にはわからず、長崎図志などには「明人平江府等建」とあり地名なのか人名なのか、おそらく当時の興福寺の檀徒の中国江蘇省蘇洲出身者ではないかと考えられます。このほか伊勢宮の宮司が寄付を集めて架橋したとか、江戸時代の旧町の28町が寄進して架橋したなど説も様々。しかし昭和57年(1982)の水害で流失は免れますが、その後の河川改修で無残にも撤去され鉄筋コンクリート橋になります。現在、橋全体を西山ダム下の公園に復元されていて、光雲寺山門に旧高麗橋の親柱を見ることができます。




火事除け地蔵(かじよけ-じぞう)【光雲寺境内】
明治16年(1883)光雲寺の南側、大井手町で火災があり光雲寺の隣りまで延焼したことがありました。その火災の鎮火後、町内の者が光雲寺の僧のおかげとお礼に行きます。聞くところに寄れば、延焼の際、黒衣の僧が冷静沈着に消火に努め、鎮火後に光雲寺の中に戻って行ったとのこと。しかし、光雲寺の僧は消防の指示で外出しなかったとあって、町内の者は不思議に思いながら帰っていたところ、地蔵堂の地蔵尊が黒ずんでいるのを見つけます。つまり、火災の時の僧とは地蔵尊だったと判かり、そこからこの地蔵尊を火事除け地蔵と呼ばれるようになります。現在この地蔵尊は光雲寺山門下に安置してあります。2003/11/15




D-192:曹洞宗月桂山光雲寺(-げっけいざん-こううんじ)
出来大工町4(町名変更なし)
光雲寺は正保3年(1646)曹洞宗の僧:松雲宗融と晧臺寺の一庭が第12代長崎奉行馬場三郎左衛門に願いを出して開かれました。開基を一庭、2代住職を宗融として始まります。一方、言い伝えでは光雲寺はもともと長崎村本河内郷字昌源(現本河内町蛍茶屋付近)のところにあって、キリシタンによる弾圧で衰退してしまい、そこで宗融が出来大工町に移し一庭に協力を仰ぎ開かれたともいわれています。現在、蛍茶屋電停横に光雲寺の墓地があるのは、こういった経緯があったからです。また、光雲寺本尊は慶安年間(1650頃)唐通事の頴川官兵衛陸一官らによって中国普陀山にお祀りしてあった釈迦如来像、普賢菩薩像、文殊菩薩像の各像を光雲寺に移したものです。現在、鉄筋コンクリート建3階に本堂があります。A-159:2003/11/13




卜意(ボクイ)について
卜意(慶長12:1607-元禄11:1698)は名前を永島仁左衛門卜意といい、祖は中国南京出身の韓完頓で、16世紀中ごろ、筑前に渡来し博多の名島(現 福岡市東区)に住します。そしてその子である韓韓元は佐賀の小城に移住し永島仁左衛門卜瑞と名乗り、さらにその子で永島仁左衛門大承は慶長10年(1605)に長崎入りし出来大工町(または高麗町)付近に屋敷を構えます。慶長12年(1607)永島仁左衛門卜意が誕生し、卜意は晩年に僧となり延宝7年(1679)財を募って桃渓橋を架橋。延宝8年(1680)地蔵尊を建立(後に卜意地蔵と呼ばれます)。延宝9年(1681)不動明王像の建立と3年にわたって施しを行っています。元禄11年(1698)没し晧台寺に葬られます(現存せず)。




D-191:桃渓橋(ももたに-ばし)
出来大工町-伊勢町間/西山川(堂門川)
桃渓橋は延宝7年(1679)僧:卜意(ボクイ)が在留の唐人から広く寄付を集めて架けられた橋で、架橋当時、付近にたくさんの桃の木があったところから桃渓橋と呼ばれています。架橋後、流失の記録が全くなく、昭和57年(1982)の長崎水害でも全壊を免れ今に至っています。この架橋した卜意は信仰が厚く架橋の翌年、延宝8年(1680)桃渓橋のそばにお堂を作り石地蔵を祀り、さらに元禄9年(1696)には不動明王の石像をお祀りします(A-157:2003-11/11参照)。そのため石地蔵を卜意地蔵桃渓橋卜意橋ともいいます。なお、その石地蔵は現在、光雲寺山門そばに置かれています。A−158:2003/11/12




D-190:真言宗宝林山青光寺跡/出来大工町不動堂
(-ほうりんざん-しょうこうじ-あと/できだいくまち-ふどうどう)
出来大工町15〜20(町名変更なし)
正保元年(1644)延命寺開基の僧:龍宣は弟子の慶順に出来大工町に一寺を建てさせ、真言宗の布教に励みます。そして青面金剛尊を本尊とし青光寺と命名します。元禄9年(1696)僧卜意は青光寺の前に不動堂を建て石像の不動明王をお祀り、鐘楼なども備えます。しかし天保7年(1836)の火災で損傷し木造の不動明王像になります(台座は当時のもの)。明治維新後、維持が困難となり青光寺および不動堂を廃されることになるのですが、町内の有志の尽力によって不動堂だけが残ることになります。なお、現在、唐船海上安全祈願燈の石灯篭と「青面金剛守護処記念塔」が青光寺の記念に残されています。A-157:2003/11/11




桃の木大工町(もものき-だいくまち) 現 出来大工町
以前まで出来大工町の東側、桃渓橋付近を俗に桃の木大工町と呼んでいました。付近に桃の木が多かったところから桃渓橋と命名されたように、出来大工町の一部であるこの地域はあえて桃の木大工町と呼んでいました。一方、反対に出来大工町の西側は大工町の一番下ということもあって下大工町(現 出来大工町電車通り側)と呼ばれていました。




D-189:出来大工町(できだいくまち)
長崎開港後、町建てに欠かせない大工職人が集まり開かれた町が大工町(現 魚の町の一部)で、長崎の発展とともに大工の需要も増し、また、大工仕事は広大な敷地を必要とするため、当時の長崎の外れの中島川上流に新たに町を開きます。慶長11年(1606)新しく開かれた大工町は新大工町となり、この新大工町の誕生で大工町は本大工町と改称。その後、寛文の改革(1672)によって町域の整理が行なわれ新大工町は中島川で分割、川の東側を新大工町、西側を出来大工町に改称されます。2003/12/03、D-154:2007-7/1参照




D-188:木下逸雲宅跡(きのしたいつうん-たくあと)
八幡町3(旧 八幡町/新紙屋町)【八幡町自治会事務所】
木下逸雲(寛政11:1799-慶応2:1866)は八幡町乙名:木下勝茂の三男として生まれ、本名を木下相宰、号を逸雲などといいます。家業として漢方医学を学びさらに蘭医なども習います。射術や茶道、書などにも優れ、特に絵に興味を持ち石崎融思や江稼圃などに南画を学び、京都で大和絵などの技法も習得します。このほか幕末には伊良林の亀山焼の復興も手がけたといいます。なお、木下逸雲三浦悟門(A-90:2003-8/13)、日高鉄翁(2003-12/30)を、崎陽の三画人または三筆と呼びます。墓所:禅林寺後山。B-15:2004/06/16




D-187:長崎町検番跡(ながさきまちけんばん-あと)
八幡町(旧 本紙屋町)
長崎において芸妓の出現は江戸時代中期の天明元年(1781)頃で大坂より長崎入りします。しかし遊女自体が芸妓的な役割も持っていたので、遊女から不評で後に禁止となります。一方、芸妓という概念が入ると長崎でも芸妓が自然発生し色と芸との区別化が進みます。遊女たちの歌舞音曲は自然と衰退し、明治5年(1872)の遊女解放令で新たな公娼(コウショウ)制度の始まると、料亭の台頭で芸妓を中心とした花街文化が花開き始めます。そして丸山検番(後の南検番)と長崎町検番(明治40:1907創立)とが誕生し、ここで「山芸妓」「町芸妓」が生まれます。検番は最盛期の昭和初期、丸山には東、、南廊の3軒の検番、本紙屋町に長崎町検番、稲佐検番、出雲町検番、戸町検番が作られ数百人の芸妓が在籍しました。第二次大戦を終え花街が衰退し、ついには丸山南検番長崎町検番の2軒のみとなり、昭和24年(1949)長崎町検番丸山南検番(後の長崎検番)に合併し姿を消します。なお、長崎町検番の名妓としてはお竹、お常、黒助、五助、凸助などがおり、凸助は昭和5年(1930)に長崎で初めて「ぶらぶら節」をレコードに吹き込んだ芸妓です。C-102:2005/11/09




D-186:本紙屋町(もとかみやまち)/八幡町(やはたまち) 現 八幡町/麹屋町
江戸時代初期の正保年間(1645頃)当時の市街地のはずれにあたる中島川中流域(芊原橋-大井手橋間左岸)には、紙漉(カミスキ)業者つまり紙屋が集まり紙屋町(別名:紙漉町)が開かれます。さらに紙の需要が高まるにつれ上流に新たに紙屋町が開かれ、初めに開かれた町を本紙屋町(モトカミヤ-マチ)、次に開かれた町を新紙屋町と呼ぶようになります。延宝8年(1680)新紙屋町は町内の八幡神社にちなみ八幡町(「ハチマンチョウ」後に「ヤハタマチ」)と改称します。昭和41年(1966)本紙屋町八幡町と麹屋町に分けられ消失。今では編笠橋脇に本紙屋町の氏神様である稲荷神社だけが残っています。B-16:2004/06/17参照




ぶらぶら節
ぶらぶら節は長崎の代表的郷土民謡で、江戸時代末期の嘉永安政年間(1848-1860)花街丸山を中心に流行したお座敷唄です。唄は20番以上もあって歌詞の中に「大井手橋」と入る歌があります。
大井手橋の上で 子供の旗喧嘩 世話町が五、六町ばかりで二、三日ぶうらぶら ぶらりぶらりと いふたもんだい チュウ
※旗喧嘩は“おかペーロン”のこと。世話町とはくんちの年番町のこと。C-108:2005/11/16参照




D-185:大井手町(おおいでまち)
大井手町は今博多町や旧 寄合町の外側の町で、寛永年間(1624-44)に開かれ、町がちょうど中島川の合流点(西山川と銭屋川)にあたり、その昔、この付近に大きな井手があって様々な水利に使われていたものと考えられています。その井手とはつまり堰を意味し、大きな井手から大井手町と名付けられました。現在まで町名町界の変更はありません。




岡正敏岡正恒
岡正敏(オカ-マサトシ)は元禄11年(1698)大井手橋を架橋し、岡正恒(オカ-マサツネ)は元禄12年(1699)魚市橋を架橋しました。二人は兄弟で正敏(岡市郎右衛門正敏)が兄、正恒が弟です。そして父は岡正養という素晴しい人物で「倹(ケン)にして吝(リン)ならず」と唱えていたと伝えられています。
※倹は無駄使いをしない、吝はケチ・惜しむの意。




D-184:大井手橋/第三橋(おおいでばし/だいさんきょう)
大井手町-八幡町間/中島川
大井手橋は江戸時代、第三橋と呼ばれ、明治15年(1882)になって正式に西道仙により大井手橋と命名されます。井手とは堰(セキ)を意味し、その昔、この付近に大きな堰があって様々な水利に使われていたものと考えられています。元禄11年(1698)岡正敏(オカ-マサトシ)によって架けられ、林道栄によって銘が作られました(現存せず)。享保6年(1721)享保の大水害、寛政7年(1795)寛政の大水害で流失しますが。文化元年(1804)官命によって再架されます。このほか大井手橋は二つの川の合流部ということもあって洪水などの被害を受けやすく明治44年(1911)にも改修工事が行われています。昭和57年(1982)長崎水害で流失し昭和61年(1986)都市計画道路の関係で鉄筋コンクリート橋で復旧されました。総工費8500万円。




D-183:宮ノ下公園(みやのしたこうえん)
今博多町(町名変更なし)
昭和39年(1964)長崎市は長崎国際文化都市建設計画の一環として宮ノ下地区の区画整理事業を開始します。これによって中島川西岸の道路(中島川西川端線)や公園(宮ノ下公園)などが整備され、光永寺部分を除いて昭和49年(1974)に完成します(光永寺部分の完成は平成初年)。なお、宮ノ下とは諏訪神社の下という意味で、主に出来大工町、大井手町、今博多町、古町、桶屋町、魚の町、栄町などを指します。




D-182:天台宗廣徳山大行院跡/今博多町天満宮跡
(-こうとくざん-だいぎょういん-あと/いまはかたまちてんまんぐうあと)
今博多町28(町名変更なし)
元和年間(1615−1623)肥前松浦郡の川上久右衛門光房が今博多町に移り住み、寛永3年(1626)祖先より伝わる菅原道真自筆の掛け軸を祭神とし一社を建立します(松森神社の創建)。明暦2年(1656)この社は西山に移転し松森神社となり、跡地には万治元年(1658)大行院常学という僧が庵を建て仏教の説教場を開きます。正徳3年(1713)大行院と号し、さらには享保8年(1723)八幡町にあった般若院の僧:映澄が大行院を引き受け天満宮を建立し廣徳山大行院と号します。その後、祈祷所や寺坊、本門などを建立が進み、明治維新を経て神社となり今博多町天満宮となります。昭和44年(1969)川沿いの道路建設のため今博多町天満宮は社殿などすべてが松森神社境内に移転となり、そのほとんどが現存しています。




D-181:今博多町(いまはかたまち)
元亀2年(1571)の長崎開港後、六町(A-43:2003-6/26)が開かれ、その後すぐに博多商人が来崎し「一の堀(2003-7/8)」の外に町を開き博多町が生まれます。文禄年間(1592-96)さらに博多商人が来崎し当時の市街地のはずれに再び別の博多町を開き(A-61:2003-7/14)、二つの博多町は前者を本博多町、後者を今博多町と称し、今博多町には宿屋(ヤドヤ)が建つようになります。そしてその宿屋には博多柳町の夷屋?などから連れて来た遊女が置かれ、南蛮人を相手にした遊宴の場(遊女屋)が始まります。寛永19年(1642)官命により市内各地に点在していた遊女屋は小島村の丸山付近に移されることになり、今博多町と寄合町(現 古町)にあった遊女屋は現在の寄合町に、それ以外の地区の遊女屋は現在の丸山町に移され、いわゆる丸山が誕生します。その後の今博多町の様相はよく分かりませんが中島川寄りには数件の遊廓は存在していたようで、江戸時代末期まで対岸の紙屋町と共に夜の賑わいがあったといいます。D-175:2007-8/2参照




D-180:網笠橋/第四橋(あみがさばし/だいよんきょう)
今博多町-麹屋町間/中島川
網笠橋は江戸時代、第四橋と呼ばれ、明治15年(1882)になって正式に西道仙により網笠橋と命名されます。もともとこの橋は江戸時代初めに木橋として架橋されていて、今博多町に遊廓があった頃、武士などがこの橋を編み笠で顔を隠して登楼していたところや、今博多町を“あめがた町”と呼んだところから“あめがた橋”そして編笠橋となったといわれています。元禄12年(1699)有力者:岸村氏夫妻の私費によって石橋に架けられたもので、眼鏡橋から始まる中島川の石橋群の中で最後に架けられた石橋です(以降は再架となります)。享保6年(1721)享保の大水害、寛政7年(1795)寛政の大水害で流失しますが。享和2年(1802)官命によって再架されます。昭和57年(1982)長崎水害で流失し昭和61年(1986)昭和の石橋として階段付きの太鼓橋に変わります。総工費1億9000万円。




D-179:旧長崎電軌桜町支線(小川町まわり)
長崎電鉄は大正4年(1915)の第一期線:築町-病院前の開通を皮切りに、翌5年(1916)大浦-千馬町間。大正8年(1919)長崎駅前-桜町間が開通が開通。そして大正9年(1920)桜町-馬町間が開通します。この桜町支線ですが、コースは現在のNBC付近から桜町公園のまわりをまわる形で桜町小学校の南側に向かい、最高点に桜町の電停があって古町の方へ進んでいました。電車としてはたいへんな急勾配を上るコースで難所ともいえる路線でした。昭和29年(1954)桜町付近の交通対策の一環として立体交差が建設されると線路の駅側は道路に、古町側は勝山市場や住宅となり今に至ります。D-146:2007/06/20




D-178:古町地蔵堂(ふるまちじぞうどう)
古町62(町名変更なし)
古町地蔵堂の創建は安政2年(1854)で、以降、町のシンボルとして親しまれています。以前までは24坪(約80平方メートル)の敷地を持っていましたが、大正9年(1920)長崎電気軌道:桜町-馬町間の開通によって敷地の大半が切り取られ、現在は奥の院のみ現存しています。
勝山町地蔵堂
勝山町【勝山市場入口】
勝山町地蔵堂の創建は不明。また、ここには弘法大師もお祀りされていて4月21日の大祭では町の有志が奉仕されています。




D-177:普化宗松寿軒跡(ふけしゅう-しょうじゅけん-あと)
古町25(町名変更なし)
普化とは中国唐の禅僧で(〜860年)のちに普化禅宗の開きますが、日本には建長7年(1257)僧:心地覚心によってもたらされます。普化宗の僧は虚無僧(コムソウ)で尺八を吹き薦(コモ)をかぶって行をするのが一般的で、江戸時代など幕府の隠密機関的役割も果たしていました。
寛永17年(1640)武蔵国(現 東京都西部)青梅の鈴法寺の虚無僧:端翁門的が長崎入りし、時の第12代長崎奉行:馬場三郎左衛門利重に許しを得、八百屋町に鈴法寺の末庵を建立します。当時はまだ名前がなく、延宝7年(1667)古町橋そばに移転後、享保5年(1720)正式に長nR玖崎寺と称することができるようになります。その後、洪水や火災の難に遭い、維持が困難となるも晧台寺や鈴法寺などの援助を受け、協議の結果、寛延3年(1750)天長山太平寺となり、さらには宝暦7年(1757)新橋町に移転します。一方、古町の地は禅僧の盧山が譲り受けるそのまま虚無僧の止宿所となり松寿軒と改称。巡行する虚無僧の監督機能を持っていました。明治4年(1871)明治維新によって普化宗は廃宗され松寿軒は幕を閉じます。C-339:2006/11/01、B−58:2004/08/23




D-176:古町(ふるまち)
慶長11,12年(1606-7)ごろ奉行所は市内に散在していた遊女屋を今博多町の近くに寄せ集め寄合町を誕生させますが、寛永19年(1642)再び市内各地に点在していた他の遊女屋も含め、小島村の丸山付近に移させます。このうち今博多町と寄合町にあった遊女屋は現在の寄合町に、それ以外の地区の遊女屋は現在の丸山町に移され、いわゆる丸山が誕生します。一方、それまで寄合町だった地域は、古くなったということで古町と呼ばれるようになります。その後の古町の様相はよく分かりませんが中島川寄りには数件の遊廓は存在していたようで、江戸時代末期まで対岸の紙屋町と共に夜の賑わいがあったといいます。




D-175:旧 寄合町(きゅう-よりあいまち) 現 古町
元亀2年(1571)の長崎開港後、六町(A-43:2003-6/26)が開かれ、その後すぐに博多商人が来崎し「一の堀(2003-7/8)」の外に町を開き博多町が生まれます。文禄年間(1592-96)さらに博多商人が来崎し当時の市街地のはずれに再び別の博多町を開き(A-61:2003-7/14)、二つの博多町は前者を本博多町、後者を今博多町と称し、今博多町には宿屋(ヤドヤ)が建つようになります。そしてその宿屋には博多柳町の夷屋?などから連れて来た遊女が置かれ、南蛮人を相手にした遊宴の場(遊女屋)が始まります。一方、市街地の周辺にも遊女屋が建ち始めますが、慶長11,12年(1606-7)ごろ奉行所は統制を図る上で遊女屋今博多町の近くに寄せ集め、寄合町が誕生します。




D-174:古町橋/第五橋(ふるまちばし/だいごきょう)
古町-麹屋町間/中島川
古町橋は江戸時代、第五橋と呼ばれ、古町に架かっているところから通称として古町橋と呼び、明治15年(1882)になって正式に西道仙により古町橋と命名されます。元禄10年(1697)河村嘉兵衛の母で妙了(ミョウリョウ)が私費にて架橋したものですが、一説には施主が河村嘉兵衛で建立が妙了ともかかれています(しかし施主と建立の関係が不明)。享保6年(1721)享保の大水害で流失後、元文4年(1739)僧の周傳によって再架されますが、寛政8年(1796)寛政第2次大水害で再び流失。享和3年(1803)官命によって再架されます。昭和57年(1982)長崎水害で流失し昭和61年(1986)昭和の石橋として階段付きの太鼓橋に変わります。総工費2億500万円。




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