広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成19年 〜2007年〜
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D-247:石門(いしもん)【聖福寺境内】
石門は庫裏(書院)玄関横にあって庫裏の庭園の入口をなしています。石門は丸いアーチ状の門でアーチ中央の表面上部に木庵禅師書の「華藏界」が刻してあります。もともとこの石門無凡山神宮寺(現 金比羅神社/西山1丁目)の山門だったものを明治元年(1868)廃仏毀釈によって取り除かれ明治19年(1886)現在地に移設されました。唯一の神宮寺遺跡です。この無凡山とは現在の金比羅山のことですが、本来は万治3年(1660)に木庵禅師がこの山に登り景色の美しさに「無凡山」と呼んだことに始まります。そしてその40年余り後に金比羅大権現が勧請され、後に金比羅山と呼ばれるようになります。市指定文化財。
〇後門跡(こうもん-あと)【聖福寺境内】
大雄宝殿と観音堂(禅堂)の間に後山へ往来する門がありました。




D-246:鐘鼓楼(しょうころう)【聖福寺境内】
鐘鼓楼は天王殿の西側にあって、以前まで階上は鐘鼓堂として、階下は阿弥陀堂となっていました。建立は元禄7年(1694)の梵鐘鋳造のときで、享保2年(1717)安政5年(1858)に再修され、昭和20年(1945)原爆の爆風にも大破は免れています。当時は階下には阿弥陀像、観音像、勢至像の三体が安置され、即非禅師の「酬恩」の扁額、楊其明の「紫氣騰輝祥映八方世界/玄天著コ恩覃十部閻浮」の注聯が掲げられていました。現在、鐘鼓楼は梵鐘のみ置かれ階下は使用されていません。また、即非禅師と楊其明の聯額(レンガク)は大雄宝殿西側のお堂に掲げられています。




D-245:天王殿【聖福寺境内】
天王殿は大雄宝殿の正面に位置し中門、弥勒門、護法門などといい、表を弥勒菩薩が安置されているところから弥勒門、裏を韋駄天を安置しているところから天王殿と称します。建立は宝永2年(1705)で鉄心が財を募り、堺の大工:薮本久兵衛ら7人の手によって建てられました。大正10年(1921)に改修。昭和20年(1945)の原爆の影響も少なく今に至っています。裏側(天王殿)前面に「護法天」と書かれた扁額と「扶正摧邪天将妙用/甞辛歴苦衲子尋常」の注聯は開基鉄心の書で、表側(弥勒門)の「萬壽山」の扁額と「壽山地傑乾坤大/聖v蜊s月長」の注聯は木庵禅師の書です。県指定文化財。




D-244:観音堂跡【聖福寺境内】
観音堂は禅堂または僧堂といい、以前まで大雄宝殿と鐘鼓楼の間に建っていました。建立は宝永元年(1704)で、観世音菩薩像、韋駄天像、毘沙門天像、関帝像、媽姐像ほか多くの像が安置されていました。堂内正面には「正大光明」の扁額、「天地慈悲罔極/古今義無反」の注聯、外側に「圓通」の扁額、「念毫動則識施諸有遮心鏡/情纔空時胸朗九重共性天」の注聯があってこれらは開基の鉄心のもので、このほか隠元禅師書の「壁立萬仭」もありました。昭和20年(1945)原爆の爆風などの影響で崩壊。現在は基礎石のみ残っています。




大雄宝殿の堂内【聖福寺】
書などの横長の額を扁額(ヘンガク)、縦長で柱など掛けられ左右対のものを注聯(チュウレン)といい総称して聯額といいます。特に禅宗寺院によく見られ黄檗宗系寺院の特長にもなっています。
大雄宝殿前面上手には隠元禅師の書「金紫氣」の扁額、木庵禅師の「紺刹風雄rn千秋臨紫氣/禪規模大壽山萬古永流芳」の注聯があって、このほか「護法蔵」「正法眼」の額は第6代住持の大雄によるものです。また、堂外には「優曇」の扁額、「五雲嶺上傳楞伽心印/萬壽山中圓毘盧法身」の注聯。外側には「海國人天」の扁額、「聖人來自西方羣黎有頼/rn拓東土萬壽無疆」の注聯があります。




D-243:大雄宝殿(だいゆうほうでん)【聖福寺境内】
大雄宝殿は大殿または仏殿といい本堂のことでお寺の中心となるお堂をいいます。大雄宝殿は聖福寺創建の延宝6年(1678)に建てられ、元禄10年(1697)と正徳5年(1715)に改築され、以降もたびたび修復がなされています。また、昭和20年(1945)原爆の爆風の被害も立山の山陰になっていたせいか大破は免れています。大雄宝殿の屋根の中央には瓢箪(ヒョウタン)型の宝珠があって両端に鯱が置かれ、褐色の屋根瓦が特徴です。建物は和風を基調としていますが、廊下に黄檗天井や半扉に桃の浮き彫りなど所々に唐風の様式が見られます。堂内は土間になっていて天井がなく、正面に釈迦如来像、両脇の阿難(アナン)像、迦葉(カヨウ)像のの釈迦三尊が安置され、左段に大玄修理菩薩像、右段に達磨大師像、臨済義玄禅師像ほか、各僧の位牌や鉄心の両親である陳氏や西村氏ほか長崎奉行牛込忠左衛門らの位牌が安置されています。県指定文化財。




D-242:西南の役傷病者臨時病院【聖福寺境内】
明治10年(1877年)2月国内最後の内戦といわれる西南戦争が勃発します。明治新政府への士族の反発が引き金となり7カ月に及ぶ戦いが繰り広げられます。このとき長崎医学校に多くの傷病者が運び込まれますが、戦争の拡大で傷病者が増え医学校だけでは対応しきれなくなり、聖福寺内に西南の役傷病者臨時病院が置かれました。また、しばらくして長崎市内の寺院僧侶が集まって西南の役で死亡した兵士のために「西南役戦死者追悼会」を聖福寺で挙行します。B-37:2004/07/27




D-241:長崎県下黄檗宗中教院跡【聖福寺境内】
明治5年(1872)明治政府は新しい宗教政策(神道の強化)の整備のため教部省を設置。神社仏閣のあらゆる体系や制度を管理します。そして宗教者への指導機関:大教院を中央に置き、地方に中小教院を設置します。ここ聖福寺には明治9年(1876)長崎県下黄檗宗中教院が置かれ布教及び僧侶の教育活動がなされました。しかし、この政策自体、神道と仏教の対立で明治18年(1885)廃止される運びとなります。B-68:2004/09/6参照




D-240:江藤新平審問の地(えとうしんぺい-しんもんのち)【聖福寺境内】
江藤新平(1834:天保5-1874:明治7)は佐賀鍋島藩の下級武士の家に生まれ、藩校の弘道館で学びます。その後、藩に仕えるも脱藩し上京。京で桂小五郎と出会います。しかしすぐに藩に戻り、京の情勢を藩主に報告。脱藩罪は免れたものの謹慎の身となります。慶応3年(1867)倒幕の機運となり佐賀藩は新政府軍側に動き、江藤はその仲介者として薩長の中に入ります。江藤は西郷隆盛から信頼を得、明治政府誕生後は要職を歴任し司法卿に就任します。そして司法体制の整備を進めるも明治6年(1873)政変によって西郷隆盛らとともに下野し、板垣退助らと自由民権運動を起こし立憲政治を主張します。しかし帰郷することになり、一旦長崎の深堀に入ります。そうして佐賀に入り士族の反乱の鎮静を図るも逆に佐賀征韓党首領に担ぎ上げられます。そして明治7年(1874)「佐賀の乱」が勃発。しかし政府軍によって鎮圧させられ、江藤新平も捕らえられ自ら作った法律によって処刑させられます。なお、明治7年(1874)深堀入りした際、聖福寺に仮裁判所が設けられ江藤新平を審問が行われたと伝えられています。墓所:佐賀市本行寺




D-239:台湾の役出征兵仮兵舎跡・傷病者仮病院跡【聖福寺境内】
台湾の役は明治7年(1874)明治政府が始めて行った台湾への派兵で、長崎からは西郷従道(西郷隆盛の弟)率いる約4500人が台湾に向かいます。その際、長崎での滞在場所として聖福寺が当てられ仮兵舎となります。派兵後、現地の熱帯環境で病死者が多数発生。300人以上が長崎に送還されます。当時、小島郷の長崎医学校が搬送先となっていましたが、搬送者が多数となり、ここ聖福寺も一時的に仮病院として使用されました。C-158:2006/01/19参照




聖福寺佐賀鍋島藩【聖福寺境内】
聖福寺佐賀鍋島藩は歴史上では多くの接点があり、安永9年(1780)には佐賀鍋島藩の依頼で有事の際の陣所に指定したり、天保7年(1836)には聖福寺末庵であった四休庵(元禄元:1688創建)を佐賀藩独自の遠見台として借り受け、常時、異国船監視人を置くなど軍事的に重要視していました。そのためか安政6年(1859)と万延元年(1860)の豪雨で石垣が崩壊した際は佐賀藩からの援助により修復を行ったり、安政の開国後の文久2年(1862)佐賀旧藩主:鍋島閑叟(カンソウ)の長崎滞在の際の宿舎として利用しました。なお、この年、聖福寺は唐船入港の減少で収入が激減し、佐賀藩より米100俵を借り受けています。




D-238:鉄心施粥(てっしんの-せがき)【聖福寺境内】
元禄15年(1702)秋。長崎は米不足で翌16年(1703)に入るとそれは深刻になり米価は高騰。貧困にあえぐ者も増えてきました。これに対し鉄心は早速3月から10日間の施粥を行い、初めは3,4千人という人々が集まりますが、最後には6,7千人に達し、延べ6万人余りの人々が集まります。そして施粥の最後ごろには近隣諸国からの米が到着しだし、とりあえず人々は安堵したといいます。実際、この年の夏ごろまで米騒動があったといい、米に対する不安はしばらくは続いていたようです。B-110:2004/11/04>千呆の施粥




D-237:鉄心の大鐘(てっしんのおおがね)
元禄7年(1694)唐通事の西村作平次とその母は聖福寺に梵鐘を一口寄進します。この西村作平次の父が西村七兵衛で、鉄心の実兄にあたります。西村七兵衛はかねてから梵鐘の寄進を願っていましたが病死したため、その親子がその遺志を継ぎ梵鐘を鋳造することになりました。享保2年(1717)第2代住持:暁岩(ギョウガン)が鐘楼を修復した際、鍛冶屋町の鋳物師:阿山弥兵衛国久(C-52:2005/07/06参照)によって再鋳され、今まで以上に巨大な梵鐘が完成します。このように第2代住持の暁岩のときに再鋳されたものですが、人々は鉄心の記憶が強く「鉄心の大鐘」と呼ばれます。この梵鐘は文化5年(1808)フェートン号事件以降、異船襲来時、左右両側よりたたくことになりました。現在では大晦日の除夜の鐘のみたたかれます。




鉄心道胖(てっしん-どうはん)
鉄心道胖(1641:寛永18-1710:宝永7)は長崎生まれで、父は中国福建省漳州出身で鉅家を祖とする陳朴純、母は武家の西村家の末裔で、男2人女2人の末っ子が鉄心でした。鉄心は2才で父を失い、母の養育で育ち幼くして中国語を学びます。鉄心14才のときは中国から隠元禅師が渡来し興福寺に入ったときで、鉄心は隠元の祭儀に感銘を受け、翌年、木庵禅師が渡来し福済寺に入るとますます出家の決意を固め、母を説得し木庵禅師に師事します。その後、一時、大分地方に遊学し、万治3年(1660)木庵禅師とともに大坂摂津の普門寺、さらには京都萬福寺へと随従することになり、その後、公職を命ぜられます。寛文12年(1672)母の訃報を受け一時帰崎し悟真寺に墓所を造りますが、鉄心の学識や道徳を必要とした長崎奉行牛込忠左衛門らは説得し長崎に残ることになります。また、鉄心に篤く帰依するものが多かったことなどから延宝5年(1677)長崎奉行らの後援で一寺建立の運びとなります。翌6年(1678)萬壽山聖福寺が創建。以降、長崎奉行や唐船からの寄進などで境内整備が進み、松月院などの庵も多く建ち繁栄します。宝永2年(1705)から4年間、江戸の瑞聖寺の輪番住持となり長崎を離れますが、その後、聖福寺の住持に再任。しかし、宝永7年(1710)示寂します。墓所:聖福寺後山




D-236:黄檗宗萬壽山聖福寺(-まんじゅざん-しょうふくじ)
玉園町3-77,73(旧 上筑後町/岩原郷字下笠頭)
聖福寺は長崎出身の僧:鉄心道胖(テッシン-ドウハン)によって延宝6年(1678)に創建されました。当時、長崎には出身地に応じ興福寺、福済寺、祟福寺の三ヵ寺がありましたが、鉄心を篤く帰依する唐人が多く、時の第23代長崎奉行牛込忠左衛門勝登(カツナリ)と岡野孫九郎の後援で幕府の許可を受け一寺建立となったものです。以降、長崎奉行や唐船からの寄進などで境内整備が進み、松月院などの庵も多く建ち繁栄します。しかし、明治維新を受け寺院制度改革で衰退し末庵なども廃されることになります。以降は信徒などの援助で修復整備が行われますが、現在はかなり老朽化が進んでいます。県指定文化財。




D-235:林源吉宅跡(はやしげんきち-たくあと)
玉園町(旧 上筑後町)
林源吉(明治16:1883-昭和38:1963)は、長崎の郷土史家長崎史談会の創立に尽力した人物です。鍛冶屋町の家具商:丸一屋に生まれ、父の没後に店の跡を次ぐも大正13年(1924)に廃業。その後、長崎市の嘱託職員として長崎市陳列所(2003/09/28参照)に勤務します。陳列所は商工奨励館、長崎資料博物館と改称し、源吉はそこで主事嘱託学芸員となり長崎学の発展や美術振興に寄与します。晩年は上筑後町に住し、昭和27年(1952)には元禄15年(1702)に亡くなった林家初代の250年忌を営んでいます。墓所:深祟寺後山




D-234:旧三菱精機所長宅跡
玉園町2-15(旧 上筑後町)【現 三菱電機所有地】
明治30年(1897)長崎県波佐見山(現 波佐見町)で金鉱が発見され採掘が始まります。採掘業者は鹿児島県出身の神答院氏で、仕事柄、三菱精機とも関係があってか毎晩のように所長宅を訪れ芸妓をあげて宴会が催されていたといいます。また、東京の料亭で行われた金山開鉱の披露宴は料理代が一人300円(今のお金で30万円ぐらい)と豪華なものだったといいます。しかしそういった繁栄は長く続かず大正3年(1914)わずか20年足らずで事業中止となりすべて夢物語となりました。




唐船維纜石(とうせん-いらんせき)【旧 迎陽亭】
唐船維纜石の維纜とは船をつなぎ止める綱を意味し、纜石(トモヅナイシ)はその綱をくくるための石を表し、ゆえに唐船維纜石とは中国船の綱を止めるための石ということになります。
旧迎陽亭裏門にある維纜石は江戸時代、大黒町の海岸で唐人船をつなぎとめるためにあったもので、その当時、大黒町の若い衆が迎陽亭の主人が骨董趣味ということを知り、一夜の宴会費と引き換えに持ち込んだものといわれています。そして後に西道仙によって「唐船維纜石」と刻されます。なお、このような大型の纜石は現在、旧大徳寺や金比羅神社、清水寺の3ヶ所に石灯篭の支柱として存在しています。




D-233:料亭迎陽亭跡(りょうてい-こうようてい-あと)
玉園町1-11,16,27(旧 上筑後町)
文化元年(1804)江戸の料理人:杉山藤五郎が来崎し出来大工町の川岸に料亭東語楼を開業。その後、上筑後町に移転し迎陽亭と改称します。迎陽亭は位置的に長崎奉行所や長崎に在住する藩役人などがよく利用し、明治以降も明治政府の役人や文化人なども足繁く通ったといいます。建物は三代目:杉山吉太郎のときに聖福寺の塔頭や唐通事:頴川家の屋敷を購入し拡大。本来は東上町(現 上町)側が正面入口で玉園町側に庭園と茶室があって、現在の裏門は茶会のときなどに開かれていました。なお、茶室の床柱は明治期以降に使用された木橋時代の長久橋の柱が使われていて、茶室横の灯篭は第83代長崎奉行遠山左右衛門尉景晋(カゲミチ)の銘を見ることができます。※見学不可。D-89:2007/04/04参照




D-232:永昌寺墓域
永昌寺墓域には次の方々の墓碑を見ることができます。
【江戸時代】長崎奉行所附吏員墓地、オランダ通詞:西家、町乙名:横田家墓地、など。
長崎四国八十八ヶ所霊場
ここは昭和28年(1953)延命寺(寺町)第22世住職:堤祐演が再興した長崎四国八十八ヶ所霊場の中の八十二番霊場に当り、弘法大師をお祀りされています。この長崎四国八十八ヶ所霊場とは、四国八十八ヶ所霊場に行くことが困難な人のために開かれたもので、長崎四国八十八ヶ所霊場を巡ると四国と同じご利益があるといわれています。




D-231:永昌寺遠見番所(えいしょうじ-とおみばんしょ-あと)【永昌寺】
遠見番は外国船来航をいち早く発見のために設けられた番所で、寛永15年(1638)に松平信綱によって野母の権現山に置かれたのが最初となります。その後、万治2年(1659)梅香崎、小瀬戸、下筑後町(現 筑後町)の観善寺境内にも置かれ、権現山の番所で外国船を発見すると番所の水主によって長崎奉行所に報告することになっていましたが、後に時間短縮のため各番所間で鏡などを使った合図が決められ、小瀬戸→梅香崎→観善寺→長崎奉行所という流れで報告されていました。なお、観善寺番所は元禄元年(1688)永昌寺に移転し永昌寺番所となります。C-179:2006/03/04参照




長崎奉行所附吏員墓地
(ながさきぶぎょうしょづけ−りいんぼしょ)【永昌寺後山】
永昌寺には万治元年(1658)頃、長崎奉行所関係者の墓所が置かれ、奉行所役員や長崎奉行の家臣で長崎で客死した者のうち特別な事情がない限り、ここに葬られることになります。埋葬者は万治元年(1658)から幕末の慶応3年(1867)10月1日まで176人に上ります。なお、文化2年(1805)に墓所の一部が崩壊し本堂を破損させた際、長崎奉行は永昌寺に銀5枚を寄附した記録があります。




D-230:曹洞宗瑞光山永昌寺(-ずいこうざん-えいしょうじ)
玉園町4-60(旧 上筑後町/岩原郷)
正保3年(1646)晧台寺の重興開山である一庭融頓と2代住持となる州山泉u(センエキ)は一寺を建立することになり、壇越:平戸道喜の妻より寄進された場所に長崎奉行の許可を持って永昌寺の創建となります。その後、梵鐘や鐘楼、観音堂の整備が進み、文化7年(1810)今まで観善寺におかれていた遠見番所が移転し、有事の際のオランダ商館員の避難所に指定されるなど永昌寺は奉行所の近くということもあって重要視されます。明治維新以降、オランダ商館からの寄進や奉行所からの後押しもなくなり衰退し宝物はほとんど売却されてしまいます。なお、現在の本堂は明治44年(1911)に大修繕されたものです。




D-229:西園寺公望仮寓の地(さいおんじ-きんもち-かぐうのち)
玉園町2-20(旧 上筑後町)
西園寺公望(嘉永4:1849-昭和15:1940)は京都出身の政治家で本名を美丸(ヨシマル)、陶庵と号します。父は京都の公家:右大臣:徳大寺公純(キンズミ)で幼年期は明治天皇と遊び、その後、西園寺家の養子となります。明治2年(1869)には京都に家塾:立命館を設立(しかしすぐに閉鎖命令)し、明治4年(1871)フランスに留学。帰国後は明治法律学校を設立し講師も勤めます。思想家:中江兆民らと東洋自由新聞を創刊しますが、政界入りし明治15年(1882)憲法制定準備のため伊藤博文らと渡欧。さらにはヨーロッパの駐在公使なども務め、帰国後、枢密顧問官を経て、明治25年(1892)第2次伊藤内閣では文部大臣となります。明治39年(1906)以降、第12代、第14代内閣総理大臣に就任し、その後は元老(天皇の相談役)となり明治天皇より厚い信頼を得るようになり、当時、西園寺公望の意向は絶大なものになります。墓所:東京:多摩霊園
青年期、幕末に長崎へ留学し広運館で洋学を学び、この地に滞在していました。




D-228:長崎奉行所武具蔵跡(ながさきぶぎょうしょ-ぶぐくら-あと)
玉園町2-24〜32(旧 東上町)
元禄2年(1689)より後、ここには長崎奉行所の糸荷蔵があって、ここに合わせて長崎奉行所が有事の際、使用する武具つまり弓、弓矢、鉄砲、旗などが収められていました。享保6年(1721)東上町の長崎会所の蔵に一時移されますが、天明年間(1785頃)改めて長崎奉行所武具蔵が造られます。A-96:2003/08/28参照




D-227:西彼杵郡役所跡(にしそのぎ-ぐんやくしょ-あと)
【長崎警察署立山交番一帯】
西彼杵郡とは明治11年(1878)に施行された郡区町村編成法によって定められた行政区域の一つで、範囲は西彼杵半島および長崎市、長崎半島が管轄でした。施行当初、岩原御目付屋敷跡群役所が置かれ、その後、桜町(現 市役所別館)に移転します。大正12年(1923)郡制が廃止、続いて郡役所も大正15年(1926)廃止され西彼杵郡はただ単に地理的名称になり現在に至ります。なお、郡役所は売却され長崎市役所別館建設のための財源に使われます。A-77:2003/08/01参照




正徳新令(しょうとくしんれい)
正徳新令長崎新令または海舶互市新令ともいい長崎貿易のために作られた23条からなる法令で、当時、年間貿易額を制限する定高貿易法(貞享法)で取引が行われていましたが、金銀銅の流出や物価高騰、密貿易などの温床となったため新井白石によって改正が行われます。これは主に貿易額や入港数を制限し、中国船には信牌(シンパイ)といって貿易の許可書を発行し密貿易を防止します。これにより高値買い上げが避けられ幕府による値段統制も図られることになります。




D-226:岩原御目付屋敷跡(いわはら-おめつけやしき-あと)
立山1-1-16(旧 長崎村岩原郷字屋敷岩原)
【長崎警察署立山交番一帯】
正徳5年(1715)幕府は正徳新令にともない長崎に目付役を設置して長崎奉行の相談役として監視を始めます。御目付役は布衣以下(フイ=600俵以下)の位で奉行(1000石高)より下の身分でしたが発言力は強く、後に長崎奉行に昇進すも者も多かったといいます。当初は2人で半年交代の勤務でしたが欠員の年も多く、不在のときは屋敷を支配勘定役や御普請役などが使用していました。
なお、英語伝習所や官立長崎師範学校、長崎県立長崎中学校の体操場、長崎県女子師範学校はこの地の置かれていました。




立山稲荷神社の言伝え<2>
明治維新で立山から豪商:小曽根氏の邸宅内(小曽根町小曽根郵便局付近)にお祀りされることになった立山稲荷には次のような言伝えが残っています。昭和15年(1940)小曽根邸は軍の長崎要塞司令部に買収され、稲荷社を残し、家の者は諫早に移ることになるのですが、引越しの後、要塞司令官の夢枕に稲荷神が「私も諫早に移してほしい」と現れて来たといいます。司令官はこのことに驚きすぐに稲荷神を丁重に諫早の小曽根氏のところに移したそうです。現在、その分霊は小曽根町の小曽根氏の屋敷にお祀りされています。2004/06/28参照




立山稲荷神社の言伝え<1>
立山稲荷神社には次のような逸話が残っています。
その昔、時の長崎奉行は重要書類を江戸幕府に送るため飛脚に託し江戸へ向わせます。しばらくして奉行は重要書類と愛人に送るはずの恋文とを間違えて送ったことに気付き、あわてて書類を取り替えるよう後追いの飛脚を送ります。もしこのことが発覚すれば責任を取って切腹、お家断絶は避けられず、日頃から信仰していた立山稲荷に祈願するのです。すると不思議なことに先に発った飛脚が小倉を差し掛かった辺りで急に足が動かなくなり、後追いの飛脚が追い付き書類を取り替え事なきを得ます。そうしてこの追い付いた日の11月8日を祭事と決め、歴代の長崎奉行は鳥居や灯篭などを奉納するようになったといわれています。




D-225:立山稲荷神社跡
(たてやまいなり-じんじゃ-あと)【長崎歴史文化博物館】
立山稲荷神社は江戸時代、長崎奉行所立山役所内にお祀りしてあった稲荷社で、位置としては現在の県立図書館の辺りにありました。長崎奉行所立山役所は明治維新を受け廃され明治6年(1873)跡地に広運学校が置かれます。その際、役所内の稲荷社4社は希望者に分けられ銀屋町稲荷神社や小曽根邸内などに移され、残った稲荷社は奉行所内に埋められたといいます。現在、鳥居や灯篭などは若宮神社矢ノ平稲荷神社に移設されていて、特に方型鳥居(ホウケイ-トリイ)は柱が角ばった大変珍しい鳥居で、柱には「文政5年長崎奉行土方出雲守」という文字が刻され、文政5年(1822)に第89代長崎奉行土方出雲守勝政がこの方形鳥居を奉納したことが分かります。




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