広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成20年 〜2008年〜
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D-339:久松善兵衛忠辰を祖とする久松家【本蓮寺後山】
町年寄:高木家が断絶すると、元禄12年(1699)から外町常行司から町年寄に任じられた久松善兵衛忠辰が拝領し、幕末まで受け継がれます。

高木家は初期の頭人の一人で、その後、町年寄に任ぜられ元文4年(1739:8代吉宗)9代忠興のとき長崎代官3000石を賜り代々勝山町に住んだ。この墓地には寛文11年(1671:4代家綱)没の4代宗能以後に作られたものである。墓碑は五輪型式のもので代官の墓碑としては長崎では稀である。




D-338:町年寄:高木家墓所【本蓮寺後山】
長崎は天領ということで幕府から命ぜられた長崎奉行が支配します。そして奉行の下で長崎の地元の役人(地役人)の町年寄が町の行政を司ります。町年寄は当初4人制、幕末には9人制にまで増やされます。江戸時代中期、その町年寄の一人、高木彦右衛門貞親は西濱町に屋敷を構えていましたが、元禄13年(1700)深堀騒動によって殺害され高木家が断絶します。2007/04/20参照




D-337:商家:岡家墓所【本蓮寺後山】
岡家は江戸時代初期からの商家で、岡正敏(オカ-マサトシ)は元禄11年(1698)大井手橋を架橋し、岡正恒(オカ-マサツネ)は元禄12年(1699)魚市橋を架橋しました。二人は兄弟で正敏(岡市郎右衛門正敏)が兄、正恒が弟です。そして父は岡正養という素晴しい人物で「倹(ケン)にして吝(リン)ならず」と唱えていたと伝えられています。
※倹は無駄使いをしない、吝はケチ・惜しむの意。




D-336:本蓮寺墓域
本蓮寺墓域には次の方々の墓碑を見ることができます。
【江戸時代初期】第46代長崎奉行:細井因幡守安明、第62代:夏目和泉守信政、第79代:成瀬因幡守正定、唐通事:蔡家、大井手橋などを架橋した岡家、町年寄で深堀騒動で殺害された高木家、
【江戸時代中期】浦五島町乙名:茶屋家、久松土岐太郎忠真を祖とする町年寄:久松家、出来鍛冶屋町や出来大工町乙名:中尾家、大黒町乙名:徳岡家、松翁軒の山口家、町年寄高木家家臣:久米家、オランダ通詞:森山家、久松善兵衛忠辰を祖とする久松家
【江戸時代後期】102代:大屋近江守明啓、コンプラドール高瀬家、亀山社中:関雄之助
【明治時代以降】崎陽の三筆の一人:三浦悟門、歌人:安中半三郎、三菱長崎造船所第一ドック建設を手掛けた橋本清敏、長崎学研究の祖:古賀十二郎先生、ほか




復興記念碑【本蓮寺境内】
本蓮寺は江戸時代、たくさんの堂宇や末庵などを持つ寺院でしたが昭和20年(1945)8月9日の原爆の影響で大破し、その後の火災によってすべて焼失します。昭和27年(1952)復興計画がなされ第1次事業が昭和29年(1954)から開始します。本堂再建から境内整備、梵鐘建立と順次進められ昭和60年(1985)第6次工事が完了し復興計画が終了しました。
復興記念【本蓮寺境内】
本堂横にある復興記念碑は昭和39年(1964)に建立されたもので、この碑には当時の日蓮宗管長であった日静上人によって「瞻仰塔(センギョウトウ)」と揮毫されています。
刷毛供養塔(はけ-くようとう)【本蓮寺境内】
刷毛供養塔は平成2年(1990)刷毛を使う業種の集まりである長崎市表具内装組合によって建立されました。




開創日蓮遠忌、立教開宗記念碑
開創日蓮遠忌記念とは日蓮宗の宗祖:日蓮(貞応元:1222-弘安5:1282)をたたえ感謝するもので、立教開宗とは建長5年(1253)に日蓮宗が開かれたことを記念したものです。これらは50年毎など節目ごとに行われて、このほか本蓮寺ではあわせて本蓮寺の創建も記念されています。
【総門内】
立教開宗750年/本蓮寺開創380年記念碑:平成14年(2002)建立
【総門内】本蓮寺創立300年記念碑:大正11年(1922)頃建立
【総門内】宗祖日蓮生誕750年/本蓮寺創立350年記念碑:昭和45年(1970)建立
【本堂横】高祖650遠忌報恩記念碑/700遠忌記念碑:昭和8年(1933)頃/昭和58年(1983)頃建立




D-335:仏舎利/宗祖御真骨内臓大宝塔【本蓮寺境内】
慶応3年(1867)本河内の広曇院日照上人と林蘭甫、岡本清人、青木啓五郎らは宗祖である日蓮上人の600遠忌を記念して仏舎利/宗祖御真骨内臓大宝塔を建立します。これはお釈迦様のお骨(コツ)である仏舎利と、日蓮上人のお骨が納められているといわれるもので当初は別の場所にありました。そして昭和37年(1962)発起人の一人であった林蘭甫の子孫:林春江氏は、長崎最初に日蓮宗寺院である本蓮寺へこの大宝塔の寄進を望み、県内日蓮宗寺院や篤志者の協力のもと翌38年(1963)移設され、あわせて玉垣などが整備されました。
立正大師謚號記念碑(りっしょうだいし-しごう-きねんひ)
日蓮宗の宗祖である日蓮は大正11年(1922)に大正天皇より「立正大師」という大師号を贈られます。この碑はそれを記念した碑で、「謚」は“おくりな”、「號」は“よびな”の意味があります。
童女観音(どうじょかんのん)【本蓮寺境内】
童女観音は昭和39年(1964)松本源治・カホル夫妻によって建立されたもので、童女という名称から幼い女の子(おそらく娘)を供養する観音像と考えられます。
碑文「玻瑠戸越し 淳く紅染む朝あけの 雲ひとすぢに 別ほ希はむや」




D-334:南方産業建設殉職者の碑【本蓮寺境内】
第二次大戦では南方地域の産業開発のために多くの技術者が送り込まれていましたが、昭和17年(1942)優秀な技術者を載せた大洋丸が撃沈されたため南方開発は重大な影響を受けます。この碑は昭和17年(1942)に陸軍省によってその殉職者の慰霊碑とし建立され、また、昭和57年(1982)には殉職40周年を記念して当時の生存者と関係者が集まり大洋丸会を結成し大洋丸誌の編纂や追善法要を実施。平成2年(1990)には殉職碑周辺整備と50回忌法要が営まれ説明板が設置されます。




D-333:小川源四郎記念碑【本蓮寺境内】
小川源四郎(弘化4:1847-明治43:1910)は長崎市大黒町生まれで、家は元禄初年より続く魚河岸商で明治13年(1880)に家を継ぎます。当時、魚市場は中島川沿いの材木町(現 賑町)付近にありましたが、明治6年(1873)問屋同士のトラブルで万屋町側に万屋町新魚市場が独立誕生。そうした中、水産業の近代化で鮮魚の水揚げ高が激増し配給機構が整備されることになり明治36年(1903)長崎県水産組合連合会が発足し明治42年(1909)従来の対立を解消させ、長崎魚類共同販売所が誕生します。これは後の長崎魚市株式会社へと発展するもので、こうした様々な場面に小川源四郎が活躍し自らの財産も犠牲にするなど水産界の発展に尽力します。この記念碑は大正6年(1917)に水産関係者によって建立され、また、記念碑横にある寄付者名板は魚の形をしています。




供養塔(題目塔/一字一石塔)【本蓮寺境内】
【総門外】
題目塔(天下太平国家安全)本蓮寺18世日道:文化9年(1812)建立
【総門内】一字一石塔(南無妙法蓮華経)本蓮寺第12世日應:宝暦11年(1761)建立
【総門内】経王一字一石塔(南無妙法蓮華経)本蓮寺第13世日逗:天明2年(1782)建立
【総門内】一字一石塔(南無法蓮華経):明和7年(1770)建立
【本堂横】一字一石塔(南無妙法蓮華経):宝永4年(1707)建立
【本堂横】一字一石塔(南無妙法蓮華経):享保19年(1734)建立
一字一石塔は一人一人の信者が一つの石に一文字ずつ文字を書き、その塔の下に埋め願いを掛けるというもので、塔の「南無妙法蓮華経」は日蓮宗のお題目です。
殉職者之碑【本蓮寺境内】
碑には「門鉄クラブ長崎支部 昭和40年」とあり、おそらく国鉄門司車掌区における殉職者の慰霊塔と考えられます。




D-332:本蓮寺の末庵大乗院跡(だいじょういん-あと)
筑後町2-1(旧 西上町)【長崎県教育文化会館】
本蓮寺には江戸時代、たくさんの末寺末庵がありましたが、そのうち境内地にあった大乗院は創建が延宝6年(1678)で本蓮寺第5代住持:日逗によって建てられました。
当時、大乗院には緋寒桜があって、文化元年(1804)に長崎奉行所勘定方として着任した大田直次郎(蜀山人/南畝/覃:寛延2:1749-文政6:1823)が3ヶ月ほど滞在した際、自ら綴った日記「瓊浦雑綴」3月18日の項に「三月四日大乗院庭にある一本の緋桜吹そめて風雨にもあひしが、今日あたりいまだ散らず」と記しています。
このほか幕末にたびたび帰崎した幕臣勝海舟は、長崎奉行所西役所内に設けられた海軍伝習所やイギリス・オランダなどとの外交交渉のため大乗院を拠点とすることもあったといいます。




D-331:大村/肥後/唐津藩陣屋跡【本蓮寺内】
元禄10年(1697)大村藩大村純長は第7代住持:日道に対し有事の際、本蓮寺を大村藩の陣屋とすることを決め、享保2年(1717)には1万坪、享保15年(1730)には約5千坪と手当として大村藩戸町村の土地の寄進や、その後、毎年米20俵の寄進を受けます。また、文化5年(1808)のフェートン号事件以降は、文化5年(1808)肥後細川藩の陣屋として、文政元年(1818)唐津小笠原藩の陣屋として利用されます。ちなみに大村藩屋敷は西中町、肥後藩屋敷は大黒町、唐津藩屋敷は東中町と各藩屋敷は本蓮寺に近い位置にありました。




D-330:日蓮宗聖林山本蓮寺(-せいりんざん-ほんれんじ)
筑後町2-10(旧 西上町/長崎村岩原郷)
本蓮寺開山の本瑞院日惠は熊本出身で熊本の本妙寺開山の日眞の弟子となり、慶長10年(1605)26才のとき大村丹後守喜前の命で大村本経寺第2代住持となります。大村では多くの信徒教化に務め、元和2年(1616)本経寺を弟子に譲りいよいよキリシタン勢力激しい長崎に入ります。激しい妨害を受けながらも教化を進め、その功績に時の第4代長崎奉行長谷川権六郎守直よりサン・ジョアン・バウチスタ教会の跡地を譲り受け一寺を元和6年(1620)に建立し本蓮寺とします。また、日惠が幼少の頃、加藤清正の聖母:聖林院に育てられたということもあって、開山当初、聖林院の木像を安置し山号を聖林山と号したといわれています。慶安元年(1648)本蓮寺御朱印地に指定。以降、幕府の保護を受け租税などの免除を受け境内整備や各地に末庵を広げます。しかし明治維新を受け幕府の保護がなくなると末庵などが整理されますが、その後も寄進などを受け勢力を伸ばします。昭和20年(1945)8月9日。原爆の影響で焼失。その後、堂宇が再建され今に至ります。




D-329:本蓮寺の南蛮井戸【本蓮寺境内】
本蓮寺庭園内には南蛮井戸または下道井と呼ばれる井戸があって、原爆の影響で焼失するまで井戸のそばに庫裏が建っていました。井戸は庫裏の四畳半の部屋に面していて、言伝えでは、部屋の中で井戸の方角に足を向けて寝ると、翌朝には必ずあられもなき方向つまり違う方向を向くということで枕返しの部屋と伝えられています。井戸は唯一残る、ポルトガル時代の遺構:サン・ラザロ病院のものと考えられています。




D-328:サン・ラザロ病院跡(San Lazarus)
/サン・ジョアン・バウチスタ教会跡(San Joanna Bautista)【本蓮寺境内】
天正19年(1591)ポルトガル船長のロケ・デメロペレイラの寄附によって、サン・ラザロ病院サン・ジョアン・バウチスタ教会が建設されます。サン・ラザロ病院はハンセン病患者の収容施設で、サン・ジョアン・バウチスタ教会は吉利支丹寺:三寿庵といわれていました。当時、門前の通りであった西上町(現 筑後町)はサン・ジョアンの町と称されていました。慶長19年(1614)の禁教令でサン・ジョアン・バウチスタ教会が、元和5年(1619)にはサン・ラザロ病院が破却され、その跡地に本蓮寺が建ったと伝えられています。なお、桶屋町の光永寺にも同伝説が残っています。




D-327:勝海舟の側室:お久の墓
勝海舟(文政6:1823-明治32:1899)は江戸の幕臣で、若くして蘭学を学び、安政2年(1855)長崎奉行所西役所内に設けられた海軍伝習所へ伝習生として入り兵学を学びます。翌3年(1856)咸臨丸で渡米を果たし、元治元年(1864)にも来崎し、下関事件の調停役として英蘭の艦隊と交渉をもちます。その後、軍艦奉行となり、戊辰戦争後は官軍の西郷隆盛と会談をし世に言う江戸城無血開城を成功させます。明治政府でも要職につき、最後は枢密顧問官まで進みます。墓所:東京洗足。A−29:2003/06/09参照
一方、お久(本名:小谷野クマ)と海舟の出会いは海軍伝習所生として来崎したときで、海舟が長崎奉行の紹介で滞在したところが小谷野家の離れで、身の回りの世話をしたのがお久という訳です。海舟の2回目の帰京後、お久との間に梅太郎という子供が産まれ親戚で米穀商の梶家に入籍します。しかしお久はまもなく他界し、梅太郎も成長を待って上京し海舟と対面したにもかかわらず、のちに病死したといわれています。
戒名:容誉智顔麗光大姉(俗名:小谷野クマ)
慶応二年寅年正月二十八日没 年二十五歳




D-326:聖無動寺墓域
聖無動寺墓域には次の方々の墓碑を見ることができます。
【江戸時代】聖無動寺歴代住持墓所
【明治時代以降】勝海舟の側室:お久の墓




D-325:聖無動寺の不動明王像
もともと聖無動寺には本尊として不動明王が安置されていましたが、明治36年(1903)にも新たに1体の不動明王像の寄進を受けます。これは下筑後町(現 筑後町)または勝山町の信徒である桑野イト氏によるもので、仏像には佐賀県小城郡西川の江頭傳左衛門時実、悴(カセ)友吉時忠、悴富太郎と銘があります。この像の特徴は高さが1丈3尺(約4メートル)ありました。昭和20年(1945)8月9日。原爆の影響で焼失。その後、参道正面に第二次大戦後、石仏の不動明王像が建立されました。




聖無動寺のオランダ船祈祷
元禄12年(1699)オランダ船入津がたいへん遅延したときがあって市民などは暴風に遭遇したのではないか心配し、時の長崎奉行大嶋伊勢守は聖無動寺第4代住持:増貞に対しオランダ船の航海安全祈祷を命じます。祈祷は17日間で、不思議にも最終日の結願の日、オランダ船が高鉾島沖に現われ無事入津します。奉行は増貞のおかげと感謝し、この年より永代祈願料として毎年、銀317匁をオランダ人より納入を受けることとなります。以降、聖無動寺オランダ船海上安全と出島の安静およびオランダ人役員の除災などの祈祷が毎年行われ、年3回、出島乙名とオランダ通詞に守札を贈るようになります。このほか文化2年(1805)にはオランダ船海上安全祈願のため石灯篭1基が建立したり(現存)、文化5年(1808)フェートン号事件の際は異船撃退の祈祷も行っています。




D-324:真言宗寶磐山聖無動寺利生院
(-ほうばんざん-しょうむどうじ-りせいいん)
筑後町2-70(旧 下筑後町字下笠頭/岩原郷字下笠頭)
寛永19年(1642)頃、利生院專音という僧が長崎入りし、正保元年(1644)長崎奉行の許可を得、利生院を建立します。当時、オランダ船宗門改やオランダ方役筋制詞証文などの作成や調査がここで行われ、さらにはオランダ船海上安全やオランダ商館の安泰などの祈祷が始まると、オランダ人から毎年、砂糖の寄進を受けるようになります(砂糖は長崎会所に一旦入ったのち正貨にて納められます)。一方、万治元年(1658)第2代住持:宥昌が京都に上り真言宗寺院仁和寺から寺号を得、現在の聖無動寺となりました。明和5年(1768)からは長崎奉行より出島オランダ商館の避難所指定を受け、オランダ商館と密接な関係となりますが幕末になるにつれ衰退しはじめ、一時期、海軍伝習所生の宿営地に当てられますがついに明治維新を迎えます。聖無動寺は檀家がなかったこともあってその後は信徒獲得に努めることになります。明治期以降、仮本堂、聖天堂、庫裏などを有していましたが昭和20年(1945)8月9日。原爆の影響で焼失。その後、堂宇が再建され今に至ります。




D-323:天保の飢饉の碑




D-322:豪商:肥塚酒造の肥塚家墓所【福済寺後山】
肥塚商店(酒造)は明治から第二次大戦後まで長崎を中心にして営業していた酒造会社で、本店を五島町、支店を築町、醸造所を滑石に置き、最盛期には神戸や東京まで支店を置いて販売していました。社長の肥塚慶之助は諏訪神社の総代も務め、さらには長崎紡績や三菱造船所などにも一族が役員として入り、肥塚家は長崎を代表する富豪でもありました。第二次大戦中、築町支店などは道路強制疎開で撤去を余儀なくされ、第二次大戦後は、滑石にあった醸造所は付近の開発で廃業となりました。D-95:2007/04/12参照




D-321:唐通事:頴川家(陳家)墓地【福済寺後山】
福済寺にある頴川家墓地には開祖である陳沖一をはじめとし2代目、4代目、5代目の頴川藤左衛門夫妻の墓碑があって、頴川家は代々唐通事をし、また、福済寺の大壇越でもありました。さらに頴川藤左衛門は自らの先祖が中国漳州の出身ということもあって、同地方の薀謙禅師(のちの中興開山)を中国から招致し、福済寺を一大道場として発展させたことは頴川藤左衛門の尽力によるものでもあります。市指定史跡




D-320:福済寺唐僧墓地(ふくさいじ-とうそうぼち)【福済寺後山】
福済寺の唐僧墓地とは歴代住持の墓所で、特に福済寺開基:覚悔、中興開山:薀謙、第2代:慈岳の3人を祀った墓所は岩盤に掘られた「はめ込み式」の墓碑で市指定史跡に指定されています。
正面右は寛永5年(1628)に中国福建省から渡来し福済寺を開いた唐僧:覚悔と、来日に同行した弟子の了然と覚意の両僧を祀り、正面は重興開山といわれる薀謙で、薀謙は山号を分紫山とし、また、大雄宝殿や青蓮堂(観音堂)、庫裏、中門や大観門などを整備を進めた人物です。正面左が第2代住持で元和元年(1681)の大飢饉で施粥で尽力した慈岳の墓です。市指定史跡。




D-319:福済寺墓域
福済寺墓域には次の方々の墓碑を見ることができます。
【江戸時代初期】福済寺歴代住持:開基覚悔、中興:薀謙、第2代:慈岳、第3代東瀾ほか、陳沖一と頴川藤左衛門を祖とする唐通事:頴川家ほか
【江戸時代中期】町乙名:藤田家、町乙名:吉野家ほか
【明治時代以降】豪商:肥塚酒造の肥塚家ほか
唐人350余名合葬塔
昭和42年(1967)福済寺復興事業の一環として唐人墓所が整理され合葬塔と「合葬の碑」が建立されました。また、合葬塔入口には第29代住持:三浦実道によって句が彫られています。




D-318:フーコーの振り子【福済寺境内】
フーコーの振り子とは地上にいて地球の自転を観測する装置のことで、1851(嘉永4)年、フランスの物理学者レオン・フーコー(Jean Bernard Leon Foucault:1819-1868)によって初めて実演が行われました。この後、ナポレオン3世はパリのパンテオン寺院内での実験を要請し広く市民に公開され、これが世にいう「パンテオンの実験」といわれるものです。
福済寺のフーコーの振り子は昭和54年(1979)観音像建立と共に設置され、観音像内に設置されています。振り子の長さは25.1メートルと完成当時は日本最大のものでした。




D-317:福済寺門標(ふくさいじ-もんぴょう)【福済寺境内】
門標碑文から、福済寺の門標は昭和16年(1941)ガラス商の田中長一商店(現タナチョー)の田中正行氏によって建立され、福済寺第29世住持:三浦実道による書で「國寶もZ禪寺」と刻されていました。しかし昭和20年(1945)の原爆による火災に遭い、以降は“焼石の門標”として立っていました。このことに田中正行氏は再建建立を求めていましたが志半ばで没し、昭和47年(1972)あとを継いだ田中功氏によって再建されることになります。その際、旧門標よりも字を写し、また「國寶」の2文字を削除し建立となりました。




D-317:開山上薀下謙琬老和尚二百五十年大遠諱謹榮并重修記念碑【福済寺境内】
この記念碑は福済寺を開山した薀謙戒琬和尚の250回忌の記念と境内建物の修復を記念して大正12年(1923)に建てられました。
薀謙戒琬(ウンケンカイエン)(慶長15:1615-延宝元:1673)は中国福建省泉州府安平県出身で俗性は林といい、福建省の紫雲山開元寺の僧で当時から木庵禅師とも親交があって、そのため慶安2年(1649)大壇越であった頴川藤左衛門が招致して福済寺に迎え入れます。福済寺では24年間、籍を置き、在職中は黄檗禅の発展に寄与し、また、木庵禅師の招致も尽力するなど荒廃した境内を一大道場として発展させた功績は素晴しく、のちに重興開山という地位を与えられています。




D-316:忠魂碑および名板(ちゅうこんひ-および-めいばん)【福済寺境内】
忠魂碑には第二次世界大戦(太平洋戦争)でフィリピン(ルソン島)に派遣された第152飛行場大隊の戦没者名が刻まれています。建立は戦没者の50回忌の年である平成6年(1994)に生存者で作る第152飛行場戦友会マルゴット会によって建てられました。
印章塚(いんしょう-づか)
印章塚は昭和59年(1984)長崎印章業組合の手によって、印鑑の供養塔として建立されました。




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