広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成20年 〜2008年〜
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長崎医学専門学校納骨堂【聖徳寺境内】
この納骨堂は明治45年(1912)に建立された煉瓦造りのかまぼこ型のお堂で正面に「長崎醫學專門學校納骨堂」と刻されています。長崎医学専門学校は長崎大学医学部の前身で、明治22年(1889)以降、学校において解剖した死体の遺骨を合葬するために造られました。大正9年(1920)までに999人の死体を葬ったという記録があります。なお、昭和20年(1945)の原爆の影響も受けず今に至っています。

聖徳寺墓域
聖徳寺墓域には次の方々の墓碑を見ることができます。
【江戸時代】オランダ通詞楢林鎮山、公極、宗建をはじめとする楢林歴代ほか

銭座地区原爆犠牲者慰霊碑【聖徳寺境内】
三菱製鋼原爆殉職者の碑【聖徳寺境内】
昭和26年(1951)建立。犠牲者1400名
浦上町原爆犠牲者之慰霊塔【緑町墓地】
犠牲者400余名
以上、3点は昭和20年(1945)8月9日。原爆の犠牲となった方々への慰霊の碑です。
なお、「浦上町原爆犠牲者之慰霊塔」は、今は存在しない浦上町と記された貴重な石碑です。




聖徳寺中興碑【聖徳寺境内】
聖徳寺は寛永3年(1626)の創建以来、浦上山里村の浄土宗の道場として存在していましたが、幕末の開国でキリスト教へ改宗(ころぶ)住民が増えていきます。明治11年(1878)から住持となった戒譽達禅(田中達禅)和尚は信者教化のため尽力し仏殿新築などを果たします。そうした中、明治21年(1888)には聖徳寺西側の浦上新田において工場の建設が始まり聖徳寺は黒煙など公害に見舞われます。戒譽達禅和尚はただちに公害の防止に尽力し、さらなる南側の工場建設を中止させるなど再発を防ぎます。戒譽達禅和尚はこれらの活躍から大正5年(1916)本山より中興の称号を与えられることになりました。なお、碑は明治22年(1889)に建立。額面は小曽根星海(晨)、文字は岡田篁所によるものです。中興碑は昭和20年(1945)の原爆の影響も受けず今に至っています。

聖徳寺聖徳太子の言伝え
安永年間(1772-81)浦上山里村に住む丹左衛門がある夜、霊夢を見ます。それは浦上の傘ヶ淵で釣り糸を垂れるという夢で、早速、傘ヶ淵で釣りをしてみると釣竿に一体の仏像がかかります。見るとその像は聖徳太子の像で、丹左衛門は「南無阿弥陀仏」と唱え聖徳寺に納めたといいます。残念ながら昭和20年(1945)の原爆によって焼失しました。




D-408:聖徳寺下原爆柳【聖徳寺下国道歩道部】
昭和20年(1945)8月9日の午前11時2分に原爆が落下しましたが、その午後には原爆被爆者への特別医療救護隊の第1陣が大村海軍病院から入ります。しかしこの付近より先の爆心地へは炎上中のため入ることができず、この地にから応急治療などを始めたといいます。このほか翌10日朝から半月間にわたり付近にあった井樋の口交番所に長崎県現地救護本部が置かれ救護と救援活動が進められました。当時、この地には1本のがあってそういった原爆の悲惨さを見続けていたといいます。はのちに枯れてしまいますが、原爆の悲惨さを後世に伝えるために昭和59年(1984)植え代えられました。




浦上四番崩れ【聖徳寺】
江戸時代、浦上山里村などに住んでいた住人の大部分はキリシタンでしたが表面上は聖徳寺の檀家として信仰していました。慶応3年(1867)浦上山里村の茂吉が死んだ際、本来は聖徳寺の僧によって葬儀を執り行わなければならなかったにもかかわらず、それを無視し自葬する事態が起こります。聖徳寺は早速、庄屋に訴えるも総代などの話し合いによって寺との関係を断つことを決め、これが信仰発覚となり、幕府はただちに住民68名捕え拷問など厳しい弾圧となります。そして明治政府となってもその政策は引き継がれ、以降も捕えられた者はキリシタンの間で「」と呼ばれる流罪となり西日本各地に移送されるのです。この事件を浦上四番崩れといい、このような弾圧は信仰が自由となる明治6年(1873)まで続きます。




D-407:浄土宗天王山法輪院聖徳寺
(-/てんのうざん-ほうりんいん-しょうとくじ)
銭座町4-59(旧 浦上山里村馬込郷字尾の上)
言い伝えでは聖徳寺はその昔、稲佐山のふもとにあって、荒廃していたものを稲佐にある悟真寺開基:聖譽の弟子:專譽(センヨ)が慶長年間(1596-1615)に堂宇を建て浄土宗の布教に努めます。寛永3年(1626)信仰者が増えたのを機に許可を得て現在地に移転。そして聖徳太子作と伝えられている阿弥陀如来像を安置し聖徳寺と命名されたといわれています。その後、末寺が建ち梵鐘など境内が整備され、文化5年(1818)フェートン号事件の際は唐津藩主水野公の陣屋にあてられました。また、尾の上という海に突き出た岬に建てられた聖徳寺は景勝地の一つに数えられていましたが明治時代に行われた浦上新田の埋立てによって景色は変わり、さらに昭和20年(1945)8月9日の原爆により本堂ほかすべてが焼失してしまいます。現在の本堂は昭和45年(1945)に再建されたもので、本尊は彫刻家の北村西望によるものです。




○銭座小学校のカッパの壁画【銭座小学校】
銭座小学校校舎には卒業生である清水崑(シミズ-コン)の漫画が描かれています。題は「なかよし
清水崑(大正元:1912-昭和49:1974)は、旧銭座町(現 天神町)出身で長崎市立商業学校卒業後、呉服屋の店員を経て上京。作家:吉川英治の似顔絵から始まり雑誌や新聞などで挿絵や漫画の仕事をこなします。昭和26年(1951)「かっぱ川太郎」「河童」などのかっぱシリーズを発表し、世に河童ブームを起このです。晩年、長崎市内で開催された清水崑三部作展は長崎の季節や行事をカッパによって紹介したもので好評を博し、今なお、彼のユーモラスな漫画は多くの人々に愛され続けています。現在、史跡「中の茶屋」には彼の作品を展示する展示館が置かれています。




D-406:長崎市立銭座小学校(-ぜんざしょうがっこう)
銭座町1-16(浦上山里村馬込郷)
明治に入り市内各地に小学校が作られますが就学児童数の増加に伴い新しい小学校が建設されます。明治35年(1902)銭座、仁田、新町、伊良林の各尋常小学校が誕生し、さらに銭座尋常小学校には明治39年(1906)市立銭座夜学校も設けられます、夜学校はのちに銭座実業補習学校へ変わるも昭和5年(1930)廃止。第二次大戦時の昭和16年(1941)には銭座国民学校に改称。昭和20年(1945)8月9日。原爆の爆風で木造校舎は全壊し、その後の火災で焼失します。昭和22年(1947)新学制により長崎市立銭座小学校となり、その後、校舎が再建され今に至ります。




D-405:馬込銭座跡(まごめぜんざ-あと)
銭座町1-16(浦上山里村馬込郷)【銭座小学校】
寛文元年(1661)輸出用の和銭を鋳る銭座が長崎村馬場郷(現 伊勢町)に置かれ、元豊通宝(1文銭)と呼ばれる銭が鋳られます。貞享2年(1685)輸出量低下で廃止。寛保元年(1741)今度は日用の遺方銭として築地銅座(銅座鉄銭)で鉄銭が鋳銭されます(銅座銭と呼ばれる)。そして銅座鉄銭と同形のものが寛保3年(1743)馬込郷の聖徳寺前の海岸で鋳銭されるようになり、ここを馬込銭座と呼びます。しかし延享2年(1745)銅座銭座馬込銭座は廃止され、次に明和4年(1767)から稲佐銭座が始まります。




天満宮記念碑【銭座天満宮参道】
明治26年(1893)の暴風雨は境内の樹木および社殿に甚大な被害を与えたため、その後、11年にわたり復旧工事がなされ、氏子など138人の喜捨によって明治37年(1904)に完了しこの記念碑が建立されました。碑には次の4句が贈られています。
至誠通~ 古者其辭 敬意徹石 名不朽知 / 原城堂雲仙




D-404:銭座天満宮(ぜんざ-てんまんぐう)/馬籠天満宮(まごめ/-)
天神町12(浦上山里村馬込郷)
創建は不詳ですが寛永年間(1624-44)にキリシタン弾圧のために創建されたといわれています。弘化3年(1846)真言宗寺院:大徳寺の僧:松月庵融三が地区の藤田勇太郎らの援助により本殿および拝殿を改築した記録があって、当初は松月庵と称す大師堂が建っていました。明治維新を受け大師堂は境内の外に移され、明治2年(1869)長崎府知事:澤宜嘉の命により松月庵天満宮と改称されます。以降、数度の改築が行われますが昭和20年(1945)の原爆によって焼失し、のちに復興されました。なお昭和39年(1964)の町界町名変更の際、天満宮にちなみ天神町となります。




D-402:銭座町(ぜんざまち)
大正2年(1913)浦上山里村馬込郷の一部が長崎市に編入し銭座町となり、昭和39年(1964)町界変更によって現在の町域となります。町名は寛保3年(1743)から3年間設置された鋳銭所の馬籠銭座に由来します。

D-403:天神町(てんじんまち)
大正2年(1913)浦上山里村馬込郷の一部が長崎市に編入し、銭座町、御船蔵町となり、昭和39年(1964)町界変更によって天神町が誕生します。町名は町域にある馬籠天満宮に由来します。




D-401:浦上町(うらかみまち)
江戸時代、銭座地区は馬籠村といい、元禄-天保年間(1688-1844)に浦上村に含まれ馬籠郷となり、明治22年(1889)〜大正9年(1920)浦上山里村馬込郷、大正9年(1920)〜大正12年(1923)長崎市馬込郷、以降、浜平町となります。そして一部が大正2年(1913)から御船町、御船蔵町、銭座町、浦上町、目覚町、茂里町となり、昭和39年(1964)浦上町は緑町、銭座町、目覚町に分割され姿を消します。




D-400:馬込/馬籠(まごめ)
その昔、有馬軍がこの地域に駐屯したところから馬籠と呼ばれた、または、長崎の入り口で馬泊まりがあったところから馬籠と呼ばれたといわれています。江戸時代は馬籠村といい、元禄-天保年間(1688-1844)に浦上村に含まれ浦上村馬込郷、明治22年(1889)〜大正9年(1920)浦上山里村馬込郷、大正9年(1920)〜大正12年(1923)長崎市馬込郷、以降、浜平町となります。なお、一部が大正2年(1913)から御船町、御船蔵町、銭座町、浦上町、目覚町、茂里町となります。




D-397:浦上山里村(うらかみやまざとむら)
浦上山里村は馬籠郷、里郷、中野郷、本原郷、寺野郷からなり、明治31年(1898)先に馬籠郷と里郷が、大正9年(1920)残りの郷が長崎市に編入され、その後、郷が廃止され各町名が付けられます。

D-398:浦上淵村(うらかみふちむら)
浦上淵村は竹ノ窪郷、稲佐郷、平戸小屋郷、水ノ浦郷、飽ノ浦郷、岩瀬道郷、立神郷、西泊郷からなり、明治31年(1898)長崎市に編入され、その後、郷が廃止され各町名が付けられます。

D-399:西浦上村(にしうらかみむら)
江戸時代、浦上の北部(西浦上村)は大村藩に属し、明治に入り西彼杵郡西浦上村となります。西浦上村は滑石郷、岩屋郷、東北郷、西北郷、西郷、家野郷、三国川内郷、川平郷、木場郷からなり、昭和13年(1938)長崎市に編入され、その後、郷が廃止され各町名が付けられます。




D-396:浦上(うらかみ)
長崎開港当時、長崎の入江は長く奥まで入り込んでいるところから深江浦といい、その浦の上手を浦上と呼んでいました。これは14世紀の南北朝時代、小豪族浦上氏に由来するとも考えられ、その浦上氏が支配する地域を浦上村と呼んでいました。16世紀に入り勢力図がたびたび書き換えられ、慶長10年(1605)長崎村(外町ほか)の大村領と浦上村の公領部分(浦上東村・南村)が交換され、のちに浦上東村は浦上山里村に、浦上南村は浦上淵村となり、この名称は明治まで続きます。




D-395:生目八幡宮(いきめ-はちまんぐう)
天神町6(旧 浦上山里村馬込郷)
生目八幡宮は大正13年(1924)4月に建立した神社で、長崎では珍しく眼病の神として親しまれています。生目八幡宮の本社は宮崎市大字生目亀井山にある生目神社で、祭神は誉田別尊(ホンダワケノミコト=応神天皇)と藤原景清公を祀り、神域にはホウ酸(一般にの消毒液)を含有する湧水があるといわれています。また“目が生まれる”という語呂から商売繁盛の御利益もあるといわれています。
 なお、生目八幡宮の願掛けは紙に年齢にひとつ加えた数の“”という文字を書き奉納する習わしがあり、社殿にはいつも多くの願掛けした紙が貼られています。




D-394:御船蔵町(おふなぐら-まち)
御船蔵町は江戸時代の御船蔵から由来するもので、当時は浦上山里村馬込郷字船蔵、字船蔵谷、字船蔵上、字坊主山、字町道、字町道上などの名称があって、明治31年(1898)長崎市に編入、大正2年(1913)に御船蔵町となり、昭和39年(1964)町界変更によって現在の町域となります。




聖徳太子像【西坂小学校】
聖徳太子像は昭和44年(1969)西坂小学校創立50周年を記念して実行委員会が建立したもので、碑文は当時の長崎市長:諸谷義武によるものです。碑文「和をもって 貴しとなす」

創立六十周年記念碑【西坂小学校】
昭和54年(1979)西坂小学校は創立60周年を迎え、記念に彫刻家の北村西望の書「清心元大成」の碑を建立します。
解説「清心元大成・何事をするにも まず心を清くしてかからねば 大成しない」




教育勅語煥發三十年記念【西坂小学校】
教育勅語(キョウイクチョクゴ)は明治23年(1890)明治天皇によって示された日本の教育理念で、それは敗戦後の昭和23年(1948)まで続きました。この記念碑は大正9年(1920)西坂小学校保護者会によって発布30周年を記念し建立されたもので、題字は西坂尋常小学校長の藤田孫太郎によります。

二宮尊徳先生幼時之像【西坂小学校】
昭和14年(1939)御船町(現 御船蔵町-西坂町電車通り)に住む向井圓平は青銅製の二宮尊徳像を西坂小学校に寄贈。しかし第二次大戦によって青銅は供出されることになり姿を消します。しかし向井氏は昭和17年(1942)再び石像の二宮像を建立し二宮尊徳の公徳を称えます。碑文は当時の学校長:馬場虎記によります。




放送局の怪談ばなし
殉教の地である西坂の丘に隣接するように建っているのがNHK長崎放送局ですが、放送局は昭和8年(1933)に開局し、原爆の影響で一時不通となりましたが今日まで長崎の公共放送局として親しまれています。戦後、復興後の新局舎にいくつかの怪談ばなしが残っています。
当時、宿直室は庭に面しておりその窓枠が十字架のような組み合わせになっていて、当直の者がその十字架を頭に床に就くと真夜中に寝床が持ち上がり、中から黒衣をまとった修道女が現われジッと見つめたとか、突然、床から黒衣をまとった怪奇な僧が現われ竹やりで襲いかかられたとかという話があって、しばらく襲われた男性は気を失い床にふせていたとのこと。しかし窓枠に足を向けて寝るとそういった現象は全く起きなかったそうです。




旧二十六聖人殉教の地
御船蔵町6-53(旧 浦上山里村馬込郷字船蔵ほか)【西坂小学校】
幕末、宣教師プチジャンは二十六聖人のために大浦天主堂を建立するのですが、当時はまだ、殉教の地が判明しておらず、プチジャン自ら実地踏査を行った結果、萬寿山(望呉山=現 立山バス停付近)が殉教地と決まります。以降、そこへ多くの信徒が訪れることとなりますが、昭和初年、旧浦上神学校の浦川和三郎師の研究で西坂小学校付近と改められたことがありました。その後、第二次大戦となり、終戦後、殉教地が西坂の丘と確認された後は祭儀は西坂で行われることになります。




D-393:長崎市立西坂小学校(-にしざかしょうがっこう)
江戸時代始め、処刑所だった地を整理し、その一部に慶安元年(1648)御船頭長屋が置かれることになります。ここは明治維新後に廃され、跡地に大正8年(1919)西坂尋常高等小学校が開校します。第二次大戦時の昭和16年(1941)には西坂国民学校に改称。昭和20年(1945)8月9日。原爆の爆風で木造校舎は全壊し、その後の火災で焼失します。翌21年(1946)仮設校舎が建ち学校が再開。昭和22年(1947)新学制により長崎市立西坂小学校となり、その後、校舎が再建され今に至ります。




D-392:御船蔵町地蔵堂(おふなぐらまち-じぞうどう)
御船蔵町6-9(旧 浦上山里村馬込郷字船蔵ほか)【御船蔵町中集会場】
御船蔵町地蔵堂がある場所は江戸時代初めから長崎の処刑場にあてられ、特に島原の乱で処罰された益田四郎時貞(天草四郎)をはじめとする3000人の首はこの地に埋められたといわれ、当時は首塚と称されていました。慶安元年(1648)この場所に御船蔵が設けられることになり船頭(フナガシラ)2名、水主(カコ)10名の長屋と元禄8年(1695)には火番所が建てられることになり、元禄10年(1697)それまでの処刑場の慰霊の意味を込め地蔵尊の建立がなされます。以降、この地では疫病や火災などの災害が起こることなく、また、多くの参詣者や崇敬者から親しまれるのですが、昭和20年(1945)原爆の影響で焼失します。昭和32年(1957)御船蔵町の有志によって再建され今に至ります。




D-391:御船頭/水主長屋跡(おふながしら/かこ-ながや-あと)
御船蔵町(旧 浦上山里村馬込郷字船蔵ほか)
慶安元年(1648)に幕府専用船の格納庫である御船蔵が海岸部に置かれ、その掛(カカリ)として御船頭2名、水主(水夫)10名があてられ、非常時の備えとして「非常船手の備え」と呼ばれていました。享和2年(1802)の地図より、御船頭の長屋は現在の西坂小学校グラウンド付近、水主(水夫)長屋は現在の天理教付近など2ヶ所に置かれていました。




D-390:御船蔵跡(おふなぐら-あと)
御船蔵町2〜5(旧 浦上山里村馬込郷字船蔵ほか)
【九電御船蔵ビル付近】
慶安元年(1648)幕府の命を受け黒田藩2代藩主:黒田忠之は、非常時の備えなどのために幕府専用船の格納場所を設け、寺澤家家臣の梶原八郎兵衛、草壁与左衛門を船頭役に命じます(のち清水源左衛門・森路彌次兵衛)。船は島原の乱などの責任から領地が没収され自殺した唐津藩:寺澤家から没収した軍船や末次平蔵所有の船などがあてられ、さらに明和2年(1765)からは敷地の山側を開削し稲佐塩硝蔵の火薬も収蔵します。




岡まさはる記念長崎平和資料館
西坂町9-4(旧 上長崎村舟津郷字西坂)
牧師で長崎市議会議員を務めたこともある平和活動家の岡正治(1918-1994)は生前、第二次大戦の日本の戦争責任や朝鮮人被爆者問題を中心に活動されていた方で、この資料館は亡くなられた翌年の平成7年(1995)にその遺志を継ぐために有志が集まって建てられました。




D-389:西坂地蔵堂(にしざかじぞうどう)
西坂町9-2(旧 上長崎村舟津郷字西坂)【西坂町中自治会公民館】
江戸時代初め、大波止の海中に地蔵尊像が沈んでいるのを付近の樺島町の住民が見つけ、早速、救い上げることになりました。そして井樋の口(現 銭座町)にある聖徳寺へ安置するよう運び出しますが、西坂を通り過ぎた頃、急に地蔵尊が重くなったため、その日はその場に置いて帰ることになります。そしてその夜、地蔵尊を運んだ者の夢枕に地蔵尊が現われ、西坂に安置するようお告げをしたといいます。以降、地蔵尊は西坂の地に置かれ、今では西坂町の住民によって大切にお祀りされています。

○西坂供養塔(にしざかくようとう)【西坂町中自治会公民館】
西坂は明治時代まで長崎の処刑場がおかれており、この供養塔は処刑者を供養するために元禄7年(1694)に建立されました。D-350:2008-3/11参照




D-388:「浦上街道ここに始まる」の碑
西坂町7-5(旧 上長崎村舟津郷字西坂)【西坂公園横】
江戸時代、長崎から市外へ出るには6ヶ所のコースがあって、@東泊口(戸町-深堀-野母へ)A茂木口(小島街道)B馬籠口(浦上街道)C西山口(西山-川平-本川内-伊木力-大村へ)D日見嶺口(長崎街道)E頴林口(伊良林-飯香浦-小浜へ)のうち、時津に至るコースを馬籠口(浦上街道)または時津街道と呼んでいました。この街道は西坂を基点に浦上から時津と進むコースで、海路、東彼杵に渡り長崎街道へ合流していました。もともとこちらのコースの方が古く、慶長元年に二十六聖人が長崎に連れてこられた際も浦上街道が利用しています。明治20年(1887)ごろ浦上川の埋立が進むと海岸沿いの道が造られ、昭和40年代、滑石など北部地区の開発により長崎-時津間の道路整備が進めらます。
この碑は浦上街道のほか長崎街道、茂木街道の各入口に長崎平和ライオンズクラブによって平成4年(1994)に建立されました。(A-173:2003-12/5,C-30:2005/06/13参照)




D-387:浜平町(はまびら-まち)
浜平は海岸近くの斜面という意味があって、江戸時代は馬籠村、明治22年(1889)から浦上山里村馬込郷、大正9年(1920)から長崎市馬込郷にそれぞれ属し、大正12年(1923)郷名が廃止され浜平町となります。昭和39年(1964)町界町名変更が行われ現在の町域となります。




道路開通記念碑(どうろかいつうきねんひ)【五社公園内】
昭和49年(1974)浜平町、西坂町、御船蔵町を結ぶ循環道路が開通し、御船蔵町の住民など26名によって記念碑が建立されました。なお、題字は当時の長崎市長:諸谷義武によるものです。
原爆殉難之碑(げんばくじゅんなんのひ)【五社公園内】
昭和54年(1979)御船蔵町上自治会有志は原爆犠牲者慰霊のために原爆殉難之碑を建立しました。なお、題字は当時の長崎市長:本島等氏によるものです。




D-386:五社稲荷神社(ごしゃいなりじんじゃ)
西坂町20(上長崎村岩原郷)
勧請年月日は不詳ですが、記録には天明時代(1781-89)の水盤があったと伝えられています。当時から眺望が大変美しい場所で、明治36年(1903)の改築の際、長崎の文人らが天井絵を奉納しています。奉納者は三宅古城、西琴石(長崎市議会議長)、金子磐臣、足立半顔、立花照夫(諏訪神社宮司)、安中東來などです。しかし昭和20年(1945)原爆の影響は壊滅し昭和38年(1963)に再建されました。なお、参道は筑後町幣振り坂から始まり、途中の公園には神社にちなみ五社公園といいます。




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