広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成20年 〜2008年〜
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長崎医学についてG<オランダ医の貢献>
出島にはオランダ東インド会社の商館が置かれ、オランダ通詞などが勤務するオランダ通詞部屋や外科部屋などがありました。人々はここをオランダ屋敷と呼び、ここにはヨーロッパのあらゆる先進的な学術が入り、ここから日本へ広まるのです。当時、外科医は上外科医と下外科医の2種があって、上外科医は普通の医師、下外科医はその補助で、江戸時代に約150人の医者がいました。特に元禄3年(1690)に来日したケンペルや安永4年(1775)に来日したツュンベリーそして文政6年(1823)に来日したシーボルトは有名で、彼らが伝えたヨーロッパの文化は日本の発展に大きく寄与します。出島から入るヨーロッパの文化やサイエンスは当時の日本人の心を躍らせました。




長崎医学についてF<鎖国・出島の完成>
慶長7年(1602)ようやくオランダ人とイギリス人が平戸に入り貿易をはじめた頃、ポルトガルとスペインはし烈な勢力競争を始めていていましたが、徳川幕府はオランダのみを交易国と決め他国を追放します。寛永13年(1636)幕府は有力町人25人に長崎の岬の先端に築島を築かせポルトガル人を収容し、毎年、賃料として銀約55貫目(約1億円)を徴収する権利を得ます。しかし島原の乱での反乱派へ対する援助などを理由にポルトガル人を追放を決定。寛永16年(1639)ポルトガルとの国交を断絶します。そして寛永18年(1641)平戸のオランダ商館を長崎に移させ築島に住まわせます。これがのちの出島となるのです。




長崎医学についてE<南蛮医学の終焉>
慶長6年(1601)それまで岬の先端に建っていたサン・パウロ教会が建て直され、被昇天のサンタ・マリア教会、イエズス会管区長館、日本司教座教会、セミナリオとコレジオなどが置かれ、当時、県庁のあるこの地域は日本のイエズス会の中心地となりますます栄えます。また、ミゼリコルディアのうちサン・ジョアン教会にはサン・ラザロ病院が置かれ、ここではハンセン病患者の収容施設として機能します。慶長19年(1614)キリシタン禁令が発せられ長崎の教会はほとんどを破却されますが、ミゼリコルディアだけは医療施設ということもあって破却が免れます。しかしそれも元和5年(1619)破却され南蛮医療は姿を消します。




長崎医学についてD<ポルトガルVSスペイン
1585(天正13)年ローマ教皇グレゴリウス13世は日本での布教をポルトガル系のイエズス会のみに限定し他の修道会の布教を禁止していましたが、スペイン系のフランシスコ会は文禄2年(1593)ペドロ・バウチスタ神父とフィリピン総督は来日して公然と布教を続け、京で教会を建てたり病院を開設して病人の救済にあたっていました。慶長元年(1596)イスパニア船サン・フェリッペ号がマニラからメキシコに航海中に暴風で土佐の浦戸湾に漂着。このことをきっかけにイエズス会は秀吉スペインが日本侵略を企てていると証言し、秀吉はただちに京都のフランシスコ会の神父や信者を長崎に送還します。これが26聖人殉教で、この中には京の医療関係者もいて、来崎していたイエズス会司祭ルイス・フロイスはこの事件をイエズス会総会長に報告します。




長崎医学についてC<日本初の民間社会福祉事業>
天正11年(1583)日本人キリシタンのジュスティーノ・ジュスタ夫妻がミゼリコルディアという教会に付属した慈善事業本部(慈悲屋)を開設。これは大分の慈恵病院を模したもので、施設には公会堂と慈恵病院、孤児老人施設などがあり、京出身でイエズス会の学者であり医者であったパウロ父子も来崎していました。そしてこの福祉事業活動は次第に盛んになり、ついに病院は長崎市内に7院を経営するようになり、海外にもその名を知られるようになるのです。そうした中、天正15年(1587)秀吉は突如として伴天連追放令を発しイエズス会領の長崎は接収され市内の教会は次々と破却されます。しかし宣教師の退去までは行われずキリシタン文化はますます発展します。




長崎医学についてB<イエズス会領長崎の完成>
ポルトガル人は平戸港を追われ暫定的に福田港を使用していましたが、福田港は海が浅く風や波の影響も大きいことや松浦氏の襲撃もあって、永禄12年(1569)トルレス神父は大村純忠に長崎浦をキリシタンのために借用することを依頼します。そして純忠は求めに応じ元亀元年(1570)福田の司祭:メルシオール・デ・フィゲイレドはポルトガル商船に長崎浦の海底や地理を調査させます。翌2年(1571)大村純忠は各地で迫害を受けたキリシタンを居住させることも許し、家老:朝永対馬守に命じ六町建設となるのです。そしてキリシタン貿易商人は各地の難民を伴い長崎に集結。岬の町は発展し、天正7年(1579)大村純忠は来日中のイエズス会巡察師:ウァリニヤノに長崎寄進を申し出、天正12年(1584)には有馬晴信は領地だった浦上村をイエズス会に寄進し、これにより長崎はイエズス会領になります。あわせてフィゲイレドは岬の先端(現 県庁)にサン・パウロ教会が完成します。




長崎医学についてA<長崎での布教・医療活動>
永禄6年(1563)長崎の城主:長崎甚左衛門尉純景は領主:大村純忠および家臣とともに横瀬浦においてキリスト教に入信しトルレス神父より洗礼を受けます。しかし横瀬浦が大村家の反対勢力によって焼き打ちされるとポルトガル船は翌年は平戸、永禄8年(1565)には大村領福田に入港することになり、長崎開港までの6年間。貿易港として栄えます。記録によるとルイス・デ・アルメイダは福田おいて大村純忠の長女の治療をしたこともありました。永禄10年(1567)トルレス神父アルメイダは甚左衛門の保護のもと長崎で布教活動を始め、甚左衛門の館の近くに居住し医療とキリスト教を広めます。翌年、アルメイダは後任のヴィレラ神父と交代し、永禄12年(1569)現在の春徳寺の地にトードス・オス・サントス教会を完成させます。




長崎医学について@<ルイス・デ・アルメイダの布教と医療>
天文21年(1552)ユダヤ系ポルトガル人のルイス・デ・アルメイダは貿易のために平戸に来日し香料貿易を始め、その後、山口に向かいフランシスコ・ザビエルの後任者:トレイス神父と出会います。弘治元年(1555)アルメイダは再渡来し山口入りしますが戦火のため府内(大分)に逃れ、そこでイエズス会に入り布教に従事します。彼はポルトガルで医学を修得したこともあってその技術を布教に利用し、府内では乳児院を建て間引きの習慣を伝え、さらには弘治3年(1557)には慈恵病院を完成させます。また、翌年には大友宗麟の援助で日本初の洋式医学校を創立し、日本人医師の養成も行っています。




D-446:長崎大学医学部医学部付属病院
坂本1-12-4(旧 浦上山里村平野郷/坂本町)
安政4年(1857)長崎奉行所西役所内に医学伝習所が開設。
軍医ポンペが教授を務めます。
その後、大村町の旧町年寄高島家本邸に移転。
安政5年(1858)ポンペは松本良順や長崎奉行に養生所建設を要請。
万延元年(1860)代官高木作右衛門の協力で養生所が建設されます。
文久元年(1861)小島郷稲荷嶽に小島養生所医学校が開設。
慶応元年(1865)長崎奉行服部長門守は小島養生所を精得館と改称。
明治元年(1868)九州鎮撫総督:澤宣嘉は精得館を長崎府医学校と改称
明治2年(1869)長崎県病院医学校と改称。
明治4年(1871)長崎県病院医学校は長崎医学校と改称。
明治5年(1872)第六大学区医学校と改称。
明治6年(1873)第五大学区医学校と改称。
明治7年(1874)長崎医学校と改称。
台湾の役の影響で病院部を公兵員病院とし医学校を廃止。
施設は蕃地事務支局病院となる。
明治8年(1875)台湾の役終結後に長崎病院となります。
明治9年(1876)再び医学場を新設し学校を再開。
明治11年(1878)長崎医学校に改称。吉田健康が校長となる。
明治12年(1879)長崎県立長崎医学校となる。
明治15年(1882)甲種長崎医学校と改称。
明治21年(1888)長崎医学校が廃止。第五高等中学校医学部に移管。
明治25年(1892)西彼杵郡浦上山里村に新校舎が完成し移転。
明治34年(1901)医学部が独立し長崎医学専門学校となる。
明治35年(1902)県立長崎病院が開院(小島から移転)。
大正11年(1922)長崎病院が国に移管し長崎医学専門学校付属病院
大正12年(1923)長崎医学専門学校が廃止され長崎医科大学となる。
昭和20年(1945)原爆長崎医科大学では897名の犠牲者が出る。
昭和24年(1949)新制大学となり長崎医科大学、長崎経済専門学校、
長崎師範学校、長崎高等学校などが包括され長崎大学となる。
昭和25年(1950)校舎が復興され医学部付属病院や本部などが
新興善小学校から坂本町に復帰する。
昭和35年(1960)長崎医科大学が廃止。
平成16年(2004)国立大学法人長崎大学となる。
C-149:2006-1/7,C-151:2006-7/9、C-152:2006-7/10参照。




原爆殉難者慰霊碑【稚桜神社境内】
この碑は昭和20年(1945)8月9日に原爆の犠牲となった旧 山里町、旧 浜口町民への慰霊のための碑で昭和48年(1973)に建立されました。昭和43年(1968)ごろ長崎市は原爆被災復元調査を始めていましたが、当時すでに旧 山里町、旧 浜口町では生存者によって作業を進めていました。特にこの地区では有力者:高谷重治の記憶から投下前の住人を拾い出し、手紙を出して白地図を埋めていっていました。そして返信にはたくさんの香華料もあって、香華料に高谷氏が経費を加えこの碑の建立となりました。




神功皇后について
奈良時代に書かれた日本書紀、万葉集によれば、3〜4世紀、神功皇后が朝鮮出兵(三韓征伐)された際、夢のお告げによって肥前国彼杵郡平敷で二つの霊石を得られ、鎧の上帯にはさんだところ戦の勝利と皇子(後の第15代応神天皇)を授かります。この石を鎮懐石といい、現在、福岡県二丈町にある鎮懐石八幡宮のご神体となっています。そしてここでいう彼杵郡の平敷は平宿のことではないかといい伝えられており、江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会には、浦上の本原石神というところに赤色の美しい燧石(ヒウチイシ)が産出されていたところからこの石が鎮懐石ではないかと考えられていました。このほか長崎には多くの神功皇后伝説が残っています。




鎮懐石碑【稚桜神社境内】
稚桜神社の境内には鎮懐石にまつわる石碑が数多く建っています。これらの碑には神功皇后が朝鮮出兵された際、筑前国守だった山上憶良が詠んだ万葉集の歌が刻まれ、その伝説を紹介されています。
@文久元年(1861)建立:三澤確,東條爲一,東條爲文,池原香穉らの書
A安政5年(1858)建立:国学者の中島廣足の文
B安政5年(1858)建立:長川煕の文、頴川陳助の書




D-445:稚桜神社(わかざくらじんじゃ)
坂本1-12-4(旧 浦上山里村平野郷/坂本町)
稚桜神社は弘化元年(1844)浦上山里村の庄屋:高谷重吉が創建した神社で、第14代仲哀(チュウアイ)天皇、仲哀天皇の皇后:神功皇后、第15代応神天皇をお祀りしています。古来、この地域には神功皇后の伝説が多く残り、付近に鎮懐石と呼ばれる神功皇后ゆかりの石などがありました。




D-444:鏡井(かがみがわ)と神功井(じんぐうがわ)
江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると、神功皇后が朝鮮出兵された際、筑紫(福岡)の海に船出するも荒波に遭い時津に上陸。浦上を通って長崎の港に出られたといいます。その際、ある井戸で自らの姿をのぞかれ、別のある井戸でのどを潤したそうです。前者を鏡井といい後者を神功井といいます。二つの井戸は坂本付近にあると考えられますが所在は不明。なお、長崎では井戸のことを“井がわ”といい“かわ”と呼んでも河川の意味はありません。




D-443:皇后腰掛石(こうごうこしかけいし)
江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると、浜口と平野宿の間に神功皇后が朝鮮出兵された際、腰かけたといわれる石(大岩)があって皇后腰掛石といわれていました。言い伝えでは、神功皇后はこの石に腰掛け補佐役の武内宿禰(タケノウチノスクネ)に指示をしたといいます。江戸時代、この付近に田畑を作ってはならず、もし作ったならばすべてが水になってしまうといわれ村人は恐れていたといいます。このを由来として平野の地名は以前まで平石と呼ばれていました。所在不明。




D-442:平敷(ひらしき)
平敷は平野付近にあった古い地名で奈良時代に見られるものです。これは奈良時代に書かれた万葉集の中にある神功皇后朝鮮出兵の記述にあるもので、それによると神功皇后は出兵に際し、肥前国彼杵郡平敷にある霊石を鎧に差し込んだところ皇子を宿られたという言い伝えがあって、それが平村にあった鎮壊石といわれています。江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会には、平野宿(平宿)は平敷が転じたものと書かれています。




D-441:平野(ひらの)
平野は江戸時代初期に使われていた地名で現在の平野町、平和町のある台地をいいます。はじめ平野村といい浦上街道上ということもあって宿場がおかれ平野宿と称していました。元禄-天保年間(1688-1844)に浦上村に含まれ浦上村平野郷から浦上山里村里郷字平野宿となり明治31年(1898)一部が長崎市に編入。大正9年(1920)里郷など浦上山里村は長崎市に編入し、大正12年(1923)旧 浜口町、旧 山里町、旧坂本町となり昭和39年(1964)平野町となります。




D-440:宿坂/宿ん坂(しゅくざか/しゅくんさか)
平野町13番地-23番地堺
山王神社前から大学病院(長崎大学医学部付属病院)下の交差点を通り、平和会館に向かう階段をのぼり山里小学校方向に進む道がありますが、このコースは江戸時代の浦上街道で、階段をのぼりつめた台地には平野村の平野宿がありました。長崎に入る前の小さな宿場町でした。その宿場へ向かう階段ということで宿坂/宿ん坂といいます。




D-439:長崎電軌軌道病院下電停跡
(ながさきでんききどう-びょういんしたでんてい-あと)
浜口町10,13(旧 坂本町)
明治44年(1911)長崎電気軌道株式会社によって路面電車敷設の申請が行われますが、時代は不況の真っ只中で資金確保が難しく、申請路線の縮小や工費削減を行い賛同を得、大正4年(1915)5月、ようやく工事が始まります。路線の第一期線が同年11月16日に完成し、病院下-築町間が結ばれます。当初は1区1銭で、開業当初の電停は、築町-千馬町-末広町-大波止-浦五島町-長崎駅前-八千代町-稲佐橋通-井樋の口-浦上駅前-坂本町-病院下で、現在の路線とは道路の形状や町の形が違うため同じ場所はなく、唯一、現在の築町-出島間のNIB横の直線部分が大正時代のままということです。D-36:2007/01/09




D-438:浜口町(はまぐちまち)
長崎の港はその昔、浦上川の中流付近まで拡がり、ちょうど長崎大学医学部付属病院(通称:大学病院)の下あたりが入り江で船着場になっていました。当時から海岸部()の入りということで浜口と呼ばれ、江戸時代は浦上山里村里郷に属し、大正12年(1923)里郷が廃され一部が浜口町となります。昭和39年(1964)町界変更などによって現在の町域となります。




D-437:川口町(かわぐちまち)
川口町は比較的新しい町名で昭和39年(1964)それまであった旧 茂里町、旧 岩川町、旧 浜口町の各一部が合併し川口町となりました。町名は町域の大部分が旧 浜口町と旧 岩川町からなりその一字づつを取って川口町となった訳ですが、町の北側に下の川と浦上川の合流部があって、下の川の河口という意味でも川口町とついたという二つの理由があります。




D-436:岩川町(いわかわまち)
長崎の港はその昔、浦上川中流付近まで拡がり、引き潮の際は岩川町付近は浦上川の河口部として岩場になっていたといいます。享保年間(1716-36)聖徳寺付近から浜口付近まで埋立てが行われ浦上新田が誕生すると次第に集落もでき、浦上山里村里郷字岩川や字岩川山などと呼ばれます。大正2年(1913)浦上山里村里郷字中ノ間、字内開、字岩川、字新目覚、字岩川山などが合併し岩川町となり、昭和39年(1964)町界変更などによって現在の町域となります。




D-435:坂本町(さかもとまち)
坂本の由来は不詳ですが、白巖山圓福寺(現 山王日吉神社)の創建では、寛永15年(1638)島原の乱に参戦した松平伊豆守信綱が帰途中にこの地を通過の際、近江比叡山のふもとに酷似し、また地名も坂本と同じことから、ここに比叡山坂本に置かれている山王権現を勧請したとあります。しかしそれまで集落のあまり多くなかった場所であるところから圓福寺ができて地名がついたとも考えられます
江戸時代、坂本は浦上村里郷といい、のちに浦上山里村里郷字坂本と称し、大正2年(1913)浦上山里村里郷字清水脇、字坪坂、字安堂山、字山王脇、字坂本、字山王下、字岩川、字岩川山などが合併し坂本町となります。昭和40年(1965)町界変更などによって現在の町域が坂本町となり、さらに平成に入って1〜3丁目に分かれます。




浄土真宗大谷派法永山善教寺
岩川町14-22(旧 岩川町)
平成10年(1998)に創建された浦上地区の新しい寺院です。

郵政職員原爆殉職者慰霊碑
岩川町9-17(旧 岩川町)【日本郵政グループ長崎事務所内】
この碑は昭和20年(1945)8月9日に郵政職員として原爆の犠牲となった方々への慰霊の碑で、昭和64年(1989)1月に郵政関係者によって建立されました。また、平成7年(1995)には被爆50周年記念として記念樹が植えられています。




原爆戦災犠牲者之供養塔
岩川町11(旧 岩川町)【山王公園内】
昭和20年(1945)8月9日。原爆の犠牲となった岩川町の住民への慰霊の碑で、昭和30年(1955)岩川町自治会によって建立されました。

三菱長崎造船所浜口町三菱工業青年学校工場跡
浜口町1,6,7,12,岩川町12,13付近(旧 浜口町)【山王公園内】
昭和初期、浜口町に三菱長崎造船所浜口町三菱工業青年学校工場がありました。この工場は木造2階建で4棟からなり、浜口町にあったため通称:㋩工場と呼ばれ、第二次大戦末期には職員、工員のほか鹿児島大島女子挺身隊、長崎市高等女学校、長崎東稜中学校の各学徒報国隊の少年少女が働いていました。昭和20年(1945)8月9日。工場は原爆の影響で全焼全壊し338名の尊い命が犠牲となりました。




D-435:山王神社の一の鳥居跡
岩川町4-18,3-10付近
もともと山王日吉神社には一の鳥居がありましたが(現 一本柱鳥居)、昭和10年(1935)岩川町に建立され新たに一の鳥居となります。昭和20年(1945)8月9日の原爆の爆風をもろに受けましたが倒壊せず原形のまま残り、これは鳥居に対し爆風を真横から受けたためダメージが少なく、反対に二の鳥居(一本柱鳥居)は斜め方向に爆風を受けたため倒壊したと考えられています。両方ともかなり爆心地に近いのですが、少しの距離の差がこういった影響の差を示しています。残念ながら一の鳥居は昭和37年(1962)トラックの衝突で倒壊し姿を消します。




D-434:一本柱鳥居(いっぽんばしら-とりい)【山王日吉神社】
もともと山王日吉神社には社殿前(年代不詳)、旧浦上街道沿い(天保8:1837)、そして坂本町から昇った石段の上(大正13:1924)の3か所に鳥居があって、現在、呼ばれている一本柱鳥居一の鳥居でした。当時、建立に際し地元有志422名が発起人となり、272名の氏子女性らの寄進によって大正13年(1924)建立されました。しかし昭和20年(1945)8月9日の原爆の風圧によって片方の柱と上部の笠石などが崩壊し、その凄まじさを今に伝えています。




D-433:浦上街道の碑【山王日吉神社】
江戸時代、長崎から市外へ出るには6ヶ所のコースがあって、@東泊口(戸町-深堀-野母へ)A茂木口(小島街道)B馬籠口(浦上街道)C西山口(西山-川平-本川内-伊木力-大村へ)D日見嶺口(長崎街道)E頴林口(伊良林-飯香浦-小浜へ)のうち、時津に至るコースを馬籠口(浦上街道)または時津街道と呼んでいました。この街道は西坂を基点に浦上から時津と進むコースで、海路、東彼杵に渡り長崎街道へ合流していました。もともとこちらのコースの方が古く、慶長元年に二十六聖人が長崎に連れてこられた際も浦上街道が利用しています。明治20年(1887)ごろ浦上川の埋立が進むと海岸沿いの道が造られ、昭和40年代、滑石など北部地区の開発により長崎-時津間の道路整備が進めらます。D-388:2008/05/04参照




長崎電鉄の碑【山王日吉神社】
この碑は神社の寄進者を刻した柱で、柱には長崎電気軌道鰍フ初代代表取締役であった益田種三郎の名を見ることができます。長崎電気軌道は明治44年(1911)に敷設の申請を行い、大正4年(1915)完成し、その後、順次路線が拡大していきますが、益田種三郎は大正3年(1914)から昭和4年(1929)まで在任し長崎電気軌道の発展に尽力した人物です。碑の「金五百圓」は現在のお金に換算すると約35万円ぐらいです。碑は原爆により倒壊し平成14年(2002)現在地に移設されています。




坂本町民原子爆弾殉難之碑【山王日吉神社】
この碑は昭和20年(1945)8月9日に原爆の犠牲となった坂本町民への慰霊のための碑で昭和27年(1952)に建立されました。被爆当時、町民は780余人といわれていましたが生存者は20名ほどだったということです。この碑は原爆倒壊した山王神社の鳥居の足で、建立に際し神社より譲り受け町民の手によって作られました。平成18年(2006)台風で折れた大クスの枝が碑を直撃し破損しましたが、住民の募金によって復元しています。




D-432:山王神社の大クス【山王日吉神社】
神社境内入り口には2本の大クスがあって、ともに大きく枝葉を伸ばしているため一つの大きな樹形となり、東西約40メートル、南北約25メートルの大樹幹をなしています。ちなみに神社向かって左側は目通り8.63メートル、高さ21メートル。右側は目通り6.58メートル、高さ17.6メートルをなしていて、樹齢は約500年ともいわれています。
この大クスですが、昭和20年(1945)8月9日の原爆で一瞬にして枝葉が焼失しましたが、次第に回復し今に至っています。数年前、シロアリの影響で朽ちるようになり樹医の下で修復が行われました。市指定天然記念物




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