広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成20年 〜2008年〜
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長崎西国三十三番霊場【穴弘法奥の院霊泉寺】
長崎西国三十三観音霊場とは、関西を中心とした西国三十三観音霊場に由来したもので、長崎市内にある観音堂33ヶ所をお巡りするものです。昭和41年(1966)に創建され、お巡りは春と秋の2回行われ3月と9月の17-18日の二日間でお巡りします。ここの観音菩薩は「十一面観世音菩薩」で長崎西国三十三観音霊場の第三十三番霊場に当たります。
C-272:2006/06/25参照




平和観音【穴弘法奥の院霊泉寺】
平和観音は昭和61年(1986)第3代住持(現住):花田寛榮によって600人以上の寄付のもと建立されたものです。昭和20年(1945)8月9日。穴弘法には多くの被災者が水を求め集まったといい、そのうち花田氏の親類の野中幸太郎ほか13名の火葬が8月13日に執り行われ埋葬されます。このとき花田氏の親族の多くが原爆の犠牲者となる一方で、花田氏の姉は奥の院の岩穴の中、花田氏とその母は本堂の下敷きになったものの助かります。花田氏はその悲惨さやその後の苦労や犠牲者の「声なき声」を忘れないためにこの平和観音を建立します。




穴弘法縁起之碑【穴弘法奥の院霊泉寺】
穴弘法縁起之碑は、穴弘法寺がある場所が鎌倉時代末期(南北朝時代)、浦上村の地頭(小豪族):浦上沙彌浄賢が城(砦:トリデ)を築いていた場所であったことや、江戸時代の寛永15年(1638)松平伊豆守信綱がこの地を通過中に付近の風景が近江比叡山のふもとに酷似していたところから、比叡山坂本に置かれている山王権現を勧請したこと。また、寺町延命寺の龍宣を開基として圓福寺を開山し、のちに白巖寺などの奥の院を建立したことなどが刻まれ、さらに明治以降、山崎教随が信仰を復活し、さらには花田辰五郎の尽力で穴弘法が霊場の再興を成し遂げるなどの記述が書かれています。建立は昭和29年(1954)で、延命寺第22代住持:堤祐演と宮崎清成の文。文字は小曽根星堂によります。




D-456:狭田城跡(せばたじょう-あと)
穴弘法奥の院霊泉寺の南側の小高い頂は、鎌倉時代末期(南北朝時代)、浦上村の地頭(小豪族):浦上沙彌浄賢が城(砦:トリデ)を築いていた場所といわれています。城は狭田城といい、当時は城山、白髪山などと呼ばれ、のちに穴弘法ができてからは穴弘法山と呼ばれます。なお、頂には昭和13年(1938)に文明堂によって刹竿が建立されています。
刹竿「寄贈文明堂カステーラ本舗/文明堂 中川安五郎/文明堂 中川善市




長崎四国八十八ヵ所霊場
長崎四国八十八ヶ所霊場とは、四国八十八ヶ所霊場に行くことが困難な人のために長崎市内に開かれた霊場のことで、始まりは大正時代(1912〜)といわれています。一旦、第2次大戦で途絶えてしまいますが、その後、昭和28年(1953)延命寺第22代住持:堤祐演によって復活します。また、長崎四国八十八ヶ所霊場には、ほぼ四国と同じご本尊と弘法大師がお祀りされ同じご利益があるといわれています。
穴弘法寺は第四番霊場、霊泉寺は第二十一番霊場でともに札所に指定されていて、霊泉寺裏には第五十二番霊場岡部大師堂が置かれています。岡部大師堂は昭和28年(1953)岡部長次郎によってお祀りされてものですが、以前までは波の平町の自邸にあって平成13年(2001)この地に移ります。




穴弘法の原爆被害
穴弘法奥の院霊泉寺には巨大な自然石の陰陽石がありますが、そのうち陽石の方は頂部だけがダルマ落としのような感じでずれ落ちそうになっていて見る人の目を引いています。これは昭和20年(1945)8月9日の原爆の爆風の影響といわれており、このほかにも石仏や鳥居などその凄まじさをうかがい知ることができます。原爆投下後、この穴弘法には金比羅山を越えて避難する人々や水を求めてこの地を目指す人々がいて、一時、避難所として使用されていましたが残念ながらその多くが力尽きこの地で命を失います。穴弘法奥の院霊泉寺では毎年8月9日にそういった犠牲者のために原爆慰霊祭が執り行われています。




穴大師縁起(奇瑞)文 (あなだいし-えんぎ/きずい-ぶん)
言い伝えでは弘法大師はその昔、唐からの帰路、浦上村に立ち寄られたといわれていますが、穴弘法にはその弘法大師の言い伝えが残っています。
明治初年、旅の僧が浦上村に立ち寄った際、岩穴にお祀りされていた地蔵尊を見つけお参りしていたところ、突然、岩穴の中に入り込んでしまいます。これを知った村人たちは大騒ぎとなり、青年数人を集め穴の中をくまなく捜します。しかし僧の姿は見つからず代わりに弘法大師像が置かれていたといいます。人々は「霊験あらたかな弘法大師が故のこと。この像は弘法大師作である」と信じ、そのまま穴の中に安置し、いつしか穴大師と称され参詣の者が絶えなかったということです。




穴弘法の由来について
明治39年(1906)長崎市大井手町に住む山崎教随が岩穴に参拝しようとした際、湧き出でる水の多さに座ることができず中腰で拝んでいたとき、突然、岩穴の奥から木魚の音がしたといいます。山崎師は弘法大師の霊を感じ、翌日は鉦鈷(鐘の一種)の音、翌々日は振鈴(持ち手がある鈴)の音を耳にします。山崎師は湧水の貯水鉢が壊れていたため改修したところ「これは霊水である。大病して命に縁のある者がこれを飲めば三日以内に助かり、命に縁のない者は死ぬ」とお告げを受け、以降、ここを大切にお祀りし人々はここを穴弘法と称するようになります。その後、この地は人手に渡りますが、山崎師はゆかりのある真照(花田辰五郎)と出会い、花田辰五郎が自邸を処分するなどして買戻し霊場再興となるのです。




D-455:真言宗穴弘法奥の院霊泉寺<真言宗大覚寺派>
江平1-32-1(旧 浦上山里村)
穴弘法(寺)のあるこの一帯にはもともと慶安元年(1648)創建の圓福寺(現 山王日吉神社)の奥の院のあった場所で支院の常福寺、白巖寺がありました。そして寛政2年(1790)浦上山里村庄屋の高谷永左衛門が弘法大師像を設けるため村民に寄付を募り、それに応じない者がキリシタンとみなされ浦上一番崩れの遠因となりました。その後、荒廃し仏像などは圓福寺(現 山王日吉神社)や聖徳寺に移され、廃仏棄釈後は廃寺となります。明治42年(1909)花田辰五郎によって再興され霊泉寺となります。霊泉寺後山には巨大な陰陽石があって、陰石の岩窟には弘法大師がお祀りされています。




D-454:真言宗長崎高野山穴弘法寺<高野山派真言宗>
坂本3-6-1(旧 浦上山里村)
穴弘法(寺)のあるこの一帯にはもともと慶安元年(1648)創建の圓福寺(現 山王日吉神社)の奥の院のあった場所で支院の常福寺、白巖寺がありました。そして寛政2年(1790)浦上山里村庄屋の高谷永左衛門が弘法大師八十八ヵ所霊場を設け、廃仏棄釈後は廃寺となりますが、明治42年(1909)に霊泉寺として再興されます。この穴弘法寺は霊泉寺からわかれ改めて山崎教随によって開かれた寺院です。穴弘法寺後山には巨大な陰陽石があって、陰石の岩窟には弘法大師がお祀りされています。このほか後山に四国八十八ヶ所霊場より持参してきた砂(お砂)を八十八体の御本尊の石像と一緒に安置していて、同じご利益をいただくことができます。




○グビロヶ丘【長崎大学医学部構内】
グビロヶ丘は原爆慰霊碑の建つ丘で、昭和20年(1945)原爆投下直後には多くの負傷者が運ばれたといいます。その慰霊碑周辺にはグビジンソウが多く植えられ、そこからグビロヶ丘と呼ばれるようになります。
グビジンソウは、ヒナゲシ(雛芥子)の別名で漢字では虞美人草と書きます。花言葉は慰安・休息・感謝などで、原爆犠牲者への慰霊の意味が込められているのでしょう。




D-453:射的場・防空壕跡慰霊碑【グビロヶ丘北側】
この慰霊碑が立つ場所には長崎医科大学時代、射的場があった場所で、そしてその背後の山(グビロが丘)に防空壕が掘られていました。おそらくここでも昭和20年(1945)8月9日の原爆によって多くの犠牲者が出たものと思われます。この碑は長薬同窓会、長崎医学同窓会、長崎大学同窓会によって平成11年(1999)8月9日に建立され、碑には永井隆博士の言葉が刻されています。
碑文「平和を 隆




D-450:アショッフ記念碑【長崎大学医学部グビロヶ丘】
大正13年(1924)ドイツの病原理学者アショッフが来日。長崎大学で講演したあと、記念にドイツ語で「科学的精神」と揮毫し、この記念碑が建てられました。なお、アショッフは動物の体内時計の研究を行い、ヒトも他の動物と同じように体内時計を持っていることを発表。ヒトの体内時計は約25時間周期であることを見つけました。

※日 科学的精神 →英Scientific soul →独Wissenschaftliche Seele




○「友こゝに眠る」の碑【長崎大学医学部グビロヶ丘】
昭和20年(1945)8月9日。原子爆弾の投下によって長崎医科大学でも多数の犠牲者を出しますが遺体はしばらく手つかずの状態で、同年10月から11月頃にかけ、戦地から復員した長崎医科大学付属医科専門部卒業の浜里欣一郎らは早速、犠牲者となった学友の遺体処理を行います。そして犠牲者への慰霊碑を建立することになり、これが長崎大学初の慰霊碑となりました。なお、碑には関係者によって石畳の砂岩に釘で“友こゝに眠る”と刻まれています。




D-452:原爆被災者慰霊碑【長崎大学医学部グビロヶ丘】
この記念碑は以前までここより東へ20メートルのところに建っていて、その場所は第二次大戦前まで睦会館(小島養生所より移設)があった場所でした。残念ながら昭和20年(1945)の原爆によって焼失し姿を消しますが、跡地に昭和22年(1947)当時の学長であった古屋野氏はグビロヶ丘にあった旧大講堂の石柱に「慰霊碑」の文字を残し長崎医科大学の犠牲者850余名の冥福を祈ります。そして13回忌にあたる昭和32年(1957)遺族会ほか長崎医科大学職員学生らの浄財で大修復を行い再構築が行われ、歌人医師:有富星葉(重国)や永井隆の短歌が刻まれました。
右面碑文「おもふことみな遥かなり この丘の 裾のべに志て ミサの鐘鳴る 星葉」
裏面碑文「傷つける友を さがして 火の中へ とび入りしまゝ 帰ら ざりけり 永井隆




長崎医科大学慰霊碑【長崎大学医学部構内】
昭和20年(1945)8月9日。この日、長崎医科大学医学部の4年生1クラスのうち39名が被爆し命を失います。この碑は生存した昭和21年(1946)卒業生によって平成7年(1995)に建立されました。この句は小島隆保によるものです。
碑文「吾が青春業火にまみれ原爆忌 隆保」

水原秋桜子碑【長崎大学医学部構内】
水原秋桜子(ミズハラ-シュウオウシ:明治25:1892-昭和56:1981)は本名を水原豊といい東京出身の医師で、若い頃から俳句を好くし東京大学医学部に在学中の20代で高浜虚子に入門します。昭和9年(1954)自らが主宰となる「馬酔木(アシビ)」を立ち上げ独特な世界を作り上げ、様々な作品を残します。その一方で医師としても活躍し昭和天皇や皇后の侍医となり厚い信頼を得ています。
碑文「醫学こゝに 興りて く 棕梠の花 秋桜子」

○動物慰霊碑【長崎大学医学部構内】
長崎大学医学部付属動物実験施設には動物慰霊碑があります。これは実験などに使用した動物に対する供養塔で昭和59年(1984)に建立されました。




國友鼎胸像(くにともかなえ-きょうぞう)【長崎大学医学部構内】
國友鼎(明治10:1877-昭和31:1956)は大分県川登村(現 臼杵市)出身で、明治33年(1900)長崎大学の前身:第五高等学校医学部を卒業後、京都帝国大学医学部に入学。そして明治37年(1904)長崎医学専門学校の教授となります。大正3年(1914)学位を取得後、2年間のアメリカ留学します。大正12年(1923)長崎医科大学と昇格後も教授として活躍し、欧米各国を視察。発生生物学の研究では第一人者といえる活躍で、昭和12年(1937)の退官の際、長崎大学初の名誉教授の称号が与えられました。この像は昭和13年(1938)に建立されるも原爆の被害を受け昭和60年(1985)に再建。彫刻家:分部順治 作




ゲストハウス跡【長崎大学医学部構内】
この建物は長崎医科大学の宿泊施設として昭和6年(1931)に建てられ、戦時中は配電室、のちに留学生や研究者の宿泊施設となります。昭和20年(1945)の原爆で木造の大学校舎が次々と焼失した中、唯一残った建物で、爆心地から1キロメートル以内にある数少ない遺構です。




ポンペ・ファン・メールデルフォールト(J.L.C.Pompe van Meerdervoort)
オランダ医師ポンペ(1829:文政2-1906:明治39)は、オランダのユトレヒト大学で医学を修得。卒業後はオランダ海軍の軍医となりオランダ領東インド(現 インドネシア)に赴任。安政4年(1857)江戸幕府の要請で長崎入りし、長崎奉行所西役所内に設けられた医学伝習所で第二次海軍伝習(A-29:2003-6/9参照)の医官として講義を行います。これが日本初の公立医学教育となり長崎大学医学部の起源でもあります。さらに万延元年(1860)ポンペは幕府に患者を治療する場としての養生所開設を要請。文久元年(1861)小島郷の地に小島養生所が開設されると、あわせて臨床医学講義を指導します。文久2年(1862)には日本を離れますが、滞在した5年間に130余名の後進を輩出するなどポンペの業績は近代西洋医学教育の祖ともいえる存在でした。帰国後は国際赤十字会議員として活躍し日本の赤十字運動のなど日本の国際的地位確立するため尽力します。




D-451:ポンペ顕彰碑(ポンペけんしょうひ)【長崎大学医学部構内】
現在の長崎大学医学部の前身である長崎医科大学の学長:林郁彦は、昭和5年(1930)西洋医学教育の発祥を記念するために自費を投じて、「ポンペ像」と「松本良順像」などと「養生所由緒書」の銅版のプレート5枚を養生所があった佐古小学校に建立するのですが、第二次大戦後に銅版の1枚が盗難に遭い失われてしまいます。そのため残りを旧大徳寺にあった長崎県黴毒(梅毒)病院(C-144:2005-12/30)の院長:福田千代太が保管することになります。
昭和32年(1957)長崎大学医学部の創立100周年を記念するため、西洋医学教育発祥百年記念会が立ち上げられ、改めて養生所址の碑の再整備を行うことになります。各プレートは福田千代太から譲り受け、佐古小学校に「養生所址」、長崎大学医学部構内に「ポンペ像」をそれぞれ設置し、残りの「松本良順像」と「養生所由緒書」は医学部図書館に保管することになります。C-154:2006-1/12参照




D-450:角尾晋先生胸像(つのおすすむ-せんせいきょうぞう)
【長崎大学医学部構内】
角尾晋(1892:明治25-1945:昭和20)は、東京市下谷区(現 台東区)出身で東京帝国大学医科大学医学科卒業後、ドイツやイギリス、アメリカに留学。帰国後の大正12年(1923)長崎医科大学の助教授となります。大正14年(1925)大学内に第一内科学教室を開設。昭和2年(1927)医学博士となり、昭和11年(1936)長崎医科大学付属病院院長および長崎医科大学学長に就任します。昭和20年(1945)外来診療中に被爆し同月に永眠します。先生は長崎が西洋医学の発祥ということもあって常に長崎医学の発展を願い、また、学者としては日本の肝臓の臨床的研究の第一人者でもありました。胸像は角尾晋学長胸像建立委員会や卒業生らによって昭和54年(1979)に建立されました。




D-449:シーボルト記念碑【長崎大学医学部構内】
江戸時代、出島オランダ商館医として赴任したシーボルトは日本の医学発展のために尽力し、東西の文化交流の橋渡しをした人物でもあります。この記念碑は西洋医学発祥の地で学ぶ長崎大学医学部の生徒へのメッセージと、原爆で犠牲となった学徒への慰霊のために建立されました。

碑文「東西文化交流の恩人シーボルト先生の尊影をこの学園に掲げ朝夕若い学徒に深い感銘と心に火を燃やすことのできるのは医学博し井章雄氏と東京芸大教官西大由氏の心からの厚志によるものである。この岡に眠る両氏の兄弟と多くの学徒の御霊よ永遠に安らかになれと祈る。1962年秋 長大学長 北村精一

碑文「Ecce! virent vestrae hic plantae florentque quotannis.
Cultorum memores,serta feruntque pia.

(訳)見られよ!君達の植物が此にくる年毎に緑そい、さきにいでて そが植えたる主を思ひては愛でたき花の鬘(カツラ)をなしつつあるを−呉秀三博士による−

この記念碑は東京芸術大学の助教授西大由が長崎医科大学付属医学専門学校在学中、原爆で没した弟の思い出のために製作寄贈したもので昭和34年(1959)に建立されました。




D-448:原爆で傾斜した大学門【長崎大学医学部構内】
明治25年(1892)小島の地から第五高等中学校医学部が西彼杵郡浦上山里村に移転。明治34年(1901)医学部が独立して長崎医学専門学校となり、大正12年(1923)から長崎医科大学となります。この門はその長崎医科大学の正門で、昭和20年(1945)8月9日。原爆の直撃を受け向かって左側の柱は斜めに倒れ、そのままの状態で保存されています。
碑文「原爆の爆風の物凄さを今尚ここに見る




○小室興光生銅像?【長崎大学医学部構内】
昭和8年(1933)正職20周年記念 門下生一同建立

古屋野宏平銅像【長崎大学医学部構内】
古屋野宏平(明治19:1886-昭和51:1976)は岡山県出身。京都帝国大学医学部卒業後、大正11年(1922)より長崎医学専門学校教授として着任。大正13年(1924)には教授となり学生の指導に当たります。昭和20年(1945)原爆に被爆しながらも大学の再興に尽力し、昭和27年(1952)から新制長崎大学の第2代学長となり(〜昭和33年)再建を果たします。退官後も様々な文化活動に励み昭和43年(1968)長崎市名誉市民の称号が贈られます。彫刻家:北村西望 作

○淡成塔【長崎大学医学部構内】
昭和15年(1940)長崎医科大学小児科教室一同




長崎医科大学付属病院跡の碑【長崎大学医学部構内】
現在の長崎大学医学部歯学部付属病院のところは、昭和20年(1945)当時、長崎医科大学付属病院がありました。8月9日の原爆投下の際、爆心地から約700メートルという至近距離だったため爆風と熱線により外形のみ残しすべてが焼き尽くされ、角尾学長ほか職員、学生892名、そして患者約200名が死亡します。
この碑銘上部のプレートは医学の「」の文字をデザインしたもので、当時、内科病棟ベランダ手すりにあったものです。




水壺を捧げるこども像【長崎大学医学部構内】
この像は昭和38年(1963)長崎大学の輔仁会のよって建立されたもので、学内にあるシーボルト記念碑とおなじ東京芸術大学の助教授西大由によって制作されています。西大由は長崎医科大学付属医学専門学校在学中に原爆で弟を亡くしたことから、この像はその弟を追悼する意味も含まれています。




D-447:旧長崎医科大学付属病院【長崎大学歯学部付属病院】
旧長崎医科大学付属病院は第二次大戦中、鉄筋コンクリート造3階建の建物は迷彩色に塗られ屋上には赤十字もマークが書かれていました。しかし昭和20年(1945)8月1日に米軍機で空襲を受け(3名死亡)、そして8月9日、原爆の熱線と爆風で影響で旧長崎医科大学付属病院は全焼し、職員と学生892名、患者約200名の命が奪われました。病院は爆心地から約700メートルのところにありましたが、病院玄関にあったクスノキは焼失したにもかかわらず、その後、発芽し今に至っています。




長崎医学についてK<ポンペの医学教育>
シーボルトは日本に失敗に終わりますが初めて種痘(牛痘法)を伝え、天保弘化時代(1840年代)オランダ医のモーニッケによって成功を見ます。さらにモーニッケは聴診器を伝え科学主義的な医学を導き、後任のブルックは幕末の第一次海軍伝習所の教師を務めます。さらにその後任がポンペで、彼が日本の衛生行政、医学教育の分野を飛躍的に発展させ、その門弟が日本の近代医学を築いていくのです。このポンペ医学教育は現代と全く同じ教育方法を取り、近代的大学教育法を採用していました。なお、ポンペは帰国後、日本の国際的立場が有利に進むよう万国赤十字会に日本を推薦。日本の赤十字運動はいち早く世界に認められることになります。ポンペの後任がボードウィン。その後任がマンスフェルトで、そして明治維新となります。




長崎医学についてJ<シーボルトの来日>
18世紀後半、ヨーロッパはイギリスから始まった産業革命によってイギリスやフランスの東洋進出に拍車がかかり、19世紀初めにおこったナポレオン戦争の影響はオランダを分割(のちに復活)や、長崎においてはフェートン号事件と次第に世界の動きに波風が立ち出します。文政6年(1823)ドイツ人シーボルトがオランダ医として渡来。シーボルト鳴滝塾を開いて今までなされていなかった「教育」を始め、医学のほか動植物学、鉱物学、社会学と幅広い分野が講じられます。また、このことが幕末に大きな結果を与えることとなるのです。さらにシーボルトは帰国後、オランダやロシア国王を通じ日本に開国を勧告したりペリーに助言を行うなど、医師としてではなく政治的役割をも担っていたことはあまり知られていません。




長崎医学についてI<蘭学の発展>
享保5年(1720)徳川吉宗は洋書を解禁。オランダ通詞が口による通詞から学問研究のディレクター通詞としての役割を持つようになると洋書の翻訳などオランダ通詞の役割はますます重要なものになります。そして日本の医学はそれまで漢方を中心とした考えでしたが、古医方の考え方、ヨーロッパの科学的精神と相まって実証的な傾向に傾き、さらにはヨーロッパの解剖書を参照した山脇東洋は日本初となる解剖を行うなど蘭学はますます発展をみるのです。さらに指導者的医学研究家の吉雄耕牛の出現はヨーロッパの新しい分野への幕開けでもあり、当時一流のヨーロッパ医学もすぐに長崎に紹介され、耕牛からは杉田玄白など多くの門弟が輩出されました。




長崎医学についてH<ヨーロッパの窓・出島>
出島オランダ商館の役割といえば貿易による売買で利潤を上げることに重きを置かれていましたが、一方でオランダ商館内の商館医たちは16世紀以降ヨーロッパで進められていた植民地で学ぶ先端医学もしくは新しい分類学的生物学の研究を目的にしていました。そのためオランダ医たちの主たる目的は純粋に日本研究で、様々な学者が日本という国をヨーロッパに伝え、そして多くの出版物の出版がなされました。
そうした中、日本側の医学はキリシタンのフィレイラ(沢野忠庵)の影響を受けた向井元升などの南蛮医学の流れがあった一方で、多くはオランダ通詞を介して広まったオランダ医学の発展は目ざましいもので、長崎はその医学修業の場であり、あらゆる医学研究家が長崎入りを希望。長崎から入ってくる洋書は多くの研究者をふるい立たせ、出島はヨーロッパの窓となるのです。




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