広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成20年 〜2008年〜
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D-464:聖フランシスコ・サベリオ堂跡
橋口町5(旧 浦上山里村中野郷)
慶応元年(1865)大浦天主堂が完成すると浦上に潜伏していたキリシタンが次々と参詣するようになり、早速、宣教師のプチジャンも浦上に赴き教義を教え、さらに宣教師ローカニュを日本人に変装させて浦上に送り込みます。慶応3年(1867)1月には信徒らが設けた隠れ家に潜入し布教をはじめると浦上村の住民の大部分がキリスト教に復活し葬儀などすべての様式も変えます。このときの隠れ家は4か所あって、その一つが聖フランシスコ・サベリオ堂と呼ばれる草庵で、広さが約5坪、中は6畳敷きと祭壇があって、別に宣教師用の部屋4畳がありました。お堂は乙名の深堀徳三郎が管理者となって祭祀を執り行います。しかし、同年6月、浦上四番崩れと呼ばれる大弾圧が行われるのです。




D-463:如己堂(にょこどう)【永井隆記念館】
如己堂は旧長崎医科大学助教授で医学博士だった永井隆(明治41:1908-昭和26:1951)が晩年過ごした小庵のことで、如己とは「己(オノレ)の如(ゴト)く人を愛せよ」という言葉から命名されています。永井隆は若くしてカトリックの洗礼を受け、昭和20年(1945)原爆で被爆し、負傷するも被爆者の救護活動に力を注ぎ、その活動から昭和21年(1946)「原子爆弾と原子医学」を発表。被爆を学問的に研究します。その後、この如己堂に移り自ら白血病を患うも執筆活動を行います。多くの作品は人々の心を感動させ、長崎市名誉市民にも選ばれます。




D-462:帳方屋敷跡(ちょうかたやしき-あと)
上野町22-6(旧 浦上山里村中野郷)【永井隆記念館】
延宝天和年間(1673-84)浦上村中野郷に住む七郎左衛門と孫左衛門は信仰の再興のために行動をはじめ、孫左衛門が御帳方となって指揮を取り、戸別訪問など浦上村の住民を説得し潜伏組織が作られることになります。組織は長を惣頭(ソウガシラ=帳方)といい全村に一人いて代々孫左衛門が行い、日繰り(バスチャン暦)や宗教書を所有し、祝日や祈り、規則を管理していました。さらにその下には御水役といい、村内の郷に一人置かれた役職で幼児洗礼を行ったり御帳方から祝日などを聞き村人に知らせる役。そして聞役が各部落毎にいて御水役から祝日などを各戸に届けていました。現在の如己堂跡はその御帳方の屋敷があった場所です。




D-461:中華人民共和国駐長崎総領事館
橋口町10-35
昭和60年(1985)中国の総領事館が長崎市に開設されビザ発給などの業務が開始されます。長崎での開設は長崎と中国との長い交流の歴史を物語るもので、大阪、札幌に続く3か所目となる領事館でした。なお、この日、同時に福岡総領事館も開かれています。長崎総領事館は当初は南山手町にあった東急ホテル内に仮事務所が設けられ、その後、油木町の旧県総合保健センター、そして平成になり現在地となります。初代総領事は王振宇。




忠魂碑(ちゅうこんひ)
平和町7-1(旧 浦上山里村里郷)【天主公園内】
この忠魂碑は大正6年(1917)に建立されたもので、時代的に大正3年(1914)から大正7年(1918)にかけて勃発した第一次世界大戦の浦上地区出身者戦没者を慰霊したものと思われます。一方、この碑はその後の原爆によって倒壊放置されていたため、地元篤志者などの協力で再建が行われ、その際、第二次大戦の戦没者や原爆犠牲者などの霊も合祀して昭和44年(1969)に再建立します。文字は当時、陸軍中将男爵だった西島助義によります。




D-460:里・中野郷会館(さと・なかのごう-かいかん)
平和町7-1(旧 浦上山里村里郷)【天主公園内】
江戸時代、浦上山里村は馬籠郷、里郷中野郷、本原郷、寺野郷からなり、明治31年(1898)に馬籠郷と里郷が長崎市に編入。そして大正9年(1920)残りの中野郷、本原郷、寺野郷が長崎市に編入されます。このうち里郷は浜口町、坂本町、山里町、岩川町となり、中野郷は岡町、松山町、駒場町、上野町、橋口町となります。さらに昭和39年(1964)現在の町域となります。
里郷中野郷では江戸時代から所有する郷有地89,745平方キロメートルがあって、昭和48年(1973)長崎市の都市計画に基づき都市公園などに処分し、処分金で地区の小中学校の設備充実のため長崎市に寄付したり、里・中野郷会館を建設し地域福祉を充実させました。会館は昭和51年(1976)完成。




D-459:常清高等実践女学校跡
(じょうせいこうとうじっせんじょがっこう-あと)
上野町10(旧 浦上山里村中野郷)【信愛学園/カトリックセンター】
「ショファイユの幼きイエズス修道会」というカトリックの一派は1859(安政6)年にフランスで誕生。日本には明治10年(1877)からジュスティヌらによって布教活動が始まります。明治13年(1880)日本におけるイエズス会修道院の本部が南山手町に置かれ、明治23年(1890)ジュスティヌらは浦上に修道院を開き、長崎初となるミッションスクールの浦上三成女児小学校が開校させます(明治41:1908廃校)。明治41年(1908)清心幼稚園と技芸女学校が誕生し、のちに常清高等実践女学校となります。昭和20年(1945)原爆により全焼し多くの死傷者を出し学校は休止。昭和23年(1948)10月再開するも翌年廃校。その後は長崎信愛学園として再出発し幼稚園が置かれています。なお、北東側の赤レンガ塀は原爆で焼失した常清高等実践女学校の校舎の廃材で作られています。




教皇ヨハネ・パウロ二世像【浦上天主堂敷地内】
昭和56年(1981)ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世はフィリピンのマニラにおいて長崎の西坂で殉教した26人の列福式を執り行い、その後、日本に初来日します。東京、広島を経て長崎入りし、2月26日、大雪の中、松山陸上競技場の特設祭壇にてミサを執り行い、約47,000人の信者が集まりました。この像は「平和の使徒」と呼ばれ多くの日本人に感動と希望を与えたローマ教皇ヨハネ・パウロ二世の来崎を記念して建立されました。




田中千禾夫文学碑(たなかちかお)【浦上天主堂敷地内】
田中千禾夫(明治38:1905-平成7:1995)は、長崎市出身の演出家で劇作家でもあります。第二次大戦前から頭角を現し読売文学賞や多くの賞を受賞し、たくさんの戯曲を残します。この文学碑は戯曲「マリアの首」の一説が刻され平成9年(1997)に建立されました。




ルドビコ茨木の像【浦上天主堂敷地内】
ルドビコ茨木は慶長元年12月19日<西暦1597年2月5日>に西坂の丘で処刑された26聖人の中の一人で、最年少の12才でした。

被爆遺構【浦上天主堂敷地内】
浦上天主堂敷地内にはたくさんの石像が置かれていますが、それはすべて旧天主堂に置かれた聖人の石像で、熱線によって焼けた像や粉々になり一部分しか残らなかった像などが残されています。また、旧天主堂の一部爆心地公園内に移設保存されています。




被爆マリア像【浦上天主堂敷地内】
被爆マリア像はもともと大正2年(1913)の創建当時から祭壇に置かれ、浦上天主堂の正式名称でもある「無原罪の聖母聖堂」のゆえん「無原罪の聖母マリア」を安置したことによります。残念なことに昭和20年(1945)の原爆によって破壊されてしまいますが、その年の10月、復員したトラピスト修道士が焼け落ちた浦上天主堂の前で祈りをささげていたところ、偶然にもマリア像の頭部を見つけ、滞在先の北海道の修道院に置くことになります。昭和50年(1975)被爆30周年で浦上天主堂に返却され、平成17年(2005)被爆60周年を記念し、小聖堂「被爆マリア小聖堂」を設け大切に安置されています。




高谷の丘【浦上天主堂敷地】
天正15年(1587)伴天連追放令によりイエズス会領の浦上は接収され天領となり、慶長10年(1605)には肥後の豪族:菊池蒲三郎正重が浦上村の庄屋に命ぜら、菊池氏は土地の高谷を姓とし高谷小左衛門と改めます。その後、浦上村は南北に分けられ北部を大村領浦上村(西浦上村)、南部を天領浦上村となり、天領浦上村のうち馬込郷、里郷、中野郷、本原郷、家野郷を高谷氏が治めることになり明治まで続きます。明治初年、高谷官十郎が死亡したとき長男も高島炭鉱で爆死し、生活に困った未亡人が明治13年(1880)1600円で手放し、そこに浦上天主堂の起源となる仮聖堂が誕生するのです。




平和の聖母像(へいわのせいぼぞう)【浦上天主堂敷地内】
解説によると、世界平和に取り組む永井隆博士に共感したイタリアのカトリック医師会は、日本とイタリアの親善と世界平和を祈念するため聖母像を建立し長崎市に寄贈します。聖母像はイタリアのカララ産の大理石を用いて作られ、昭和25年(1950)ローマ教皇ビウス12世により「平和の聖母」命名されます。




分謫記念碑(ぶんたく-きねんひ)【浦上天主堂敷地内】
分謫とは分散させて流罪にすることで、いわゆる浦上四番崩れによって明治元年(1868)から明治6年(1873)まで各地に預けられた浦上村のキリスト教信者を記した碑で、大正14年(1925)に建立されました。
以下は流罪の場所と人数を表します。
伊賀国(上野)58名 大和国(郡山)26名 伊勢国(二本木)75名 薩摩国(鹿児島)375名 阿波国(徳島)116名 讃岐国(高松)54名 土佐国(高知)125名 伊予国(松山)87名 尾張国(名古屋)375名 加賀国(金沢)566名 越前国(大聖寺)83名 越中国(富山)42名 備前国(岡山)117名 備後国(福山)76名 肥前国(大村)127名 石見国(津和野)178名 長門国(萩)300名 因幡国(鳥取)163名 安芸国(広島)177名 出雲国(松江)87名 張摩国(姫路)41名 紀伊国(和歌山)282名




信仰之礎(しんこうのいしずえ)【浦上天主堂敷地内】
信仰之礎は日本における公教(キリスト教イエズス会)復活50周年を記念して浦上天主堂の信徒らが大正9年(1920)に建立しました。碑文には長崎と浦上は日本における聖教発祥の地として、エルサレムやベツレヘムのようにキリスト教の歴史の上では大変重要な場所であること。また、長崎の地はハンセン病患者の収容施設であったサン・ラザロ病院が置かれたことなどから大切な場所で、禁教令後250年にわたり幕府の弾圧にも耐え信仰を守り続けた人々の存在、そして明治初年、禁教令が解かれた後の人々の力強い復活に対し、そうした功績を後世に伝える内容になっています。




浦上天主堂の鐘楼ドーム
昭和20年(1945)の原爆によって浦上天主堂は全壊し、そのうち左側の鐘楼は吹き飛ばされ火災などで脇を流れる「下の川」の中へごう音とともに落下してしまいます。その後、鐘楼ドームは遺構として現地に置かれることになり、川の流れも変え保存されています。なお、右側鐘楼にあった鐘は拾い上げられ現在の浦上天主堂の鐘として使用されていて、これがいわゆる「長崎の鐘」と呼ばれるものです。




○第二次大戦後の浦上天主堂
昭和20年(1945)8月9日。浦上天主堂は原爆の直撃を受け全壊し廃墟と化します。しかし同年11月23日。浦上天主堂の脇で長崎初となる原爆犠牲者慰霊祭が信者約300人が集まって行われ、さらにクリスマスの晩、以前使われていた教会の鐘が拾い上げられミサが行われます。昭和33年(1958)長崎市議会臨時会において浦上天主堂の原爆資料としての現状保存を求めた決議が可決されますが、天主堂側は現地に再建し、被爆遺構の一部を市に譲り移設保存するということで決着します。そして昭和34年(1959)11月。信者の献金:約5000万円で再建され献堂式が行われます。昭和55年(1980)翌年のローマ法王ヨハネ・パウロ二世の訪日に合わせ改修工事が行われ、創建当時の赤レンガ造りの姿となります(総工費3.76億円)。




D-458:浦上天主堂(うらかみてんしゅどう)
本尾町1-79(旧 浦上山里村里郷字本尾)
浦上天主堂のある丘は慶長年間(1596-1615)高谷氏が屋敷を建て、後に庄屋となり代々浦上村を治めるなどキリシタンとの関係が深い場所で、そこを明治13年(1880)司祭ポアリエの斡旋で旧浦上村の庄屋:高谷官十郎邸を買収し仮会堂を建設します。明治14年(1881)宣教師フレノは自ら会堂の設計施工を行い明治28年(1895)起工式を執り行いますが、明治37年(1904)の日露戦争の影響で工事が中断、さらにフレノは過労に倒れ、宣教師エ・ラゲーが交替して陣頭指揮を取り、大正2年(1913)に完成します。様式は屋根の中心に大ドームを持ったロマネスク様式でした。




浦上地区におけるキリスト教の歴史J
明治維新前から明治12年(1879)まで、浦上村の布教は宣教師ロカイが担当していましたが病気のため香港に移り、前後して浦上村字下土井の信者:相川忠右衛門は宣教師ポアリエと話し合い隣家に小会堂を設けサン・ジュアン・パブチスタ堂と称し、ポアリエ大浦を呼び布教活動を始めます。忠右衛門は流罪から帰還後、すぐにポアリエやロカイについて教義を学び、自ら伝道師となり浦上村で教義を説いて回ります。これが浦上天主堂の前身といわれています。




浦上地区におけるキリスト教の歴史I
流罪の状況を見た宣教師のプチジャンやヒウレ、ローカニュらは信者の帰宅を願いつつ、政府に対し寛大な配慮を願っていましたが、同じ頃、福沢諭吉、中村正直、西周、森有礼らが宗教の自由を唱え、岩倉具視などは欧米外遊で西洋の情勢を知り、明治6年(1873)明治政府はキリシタン高札を下ろす太政官布告を出し、各地に分謫した浦上の信者を帰還させ天主堂の出入りを許します。これが我が国における信仰の自由、基本的人権の尊重のはじまりとなります。




浦上地区におけるキリスト教の歴史H
明治元年(1868)長崎裁判所総督として長崎入りした澤宣嘉は神道を奨励する意味でも神社を建立することを決定し、明治2年(1869)中野郷字塔の尾(現 山里小学校)に皇太神宮を建て浦上の村民に強制的に参拝を命じます。しかしこれに応じるものはなく、さらには流罪によって村民のほとんどがいなくなってしまったため県知事:野村盛秀ら要人が集まり撲滅方法の議論がなされます。結論としては信者を隔離するのみではなく信者を分謫(ブンタク=分けて流罪する事)一掃することに決め、庄屋:高谷官十郎に命じキリスト教徒を招集させるのですが、信者は流罪覚悟で旅姿で集まり汽船に乗船。3000名を超える者が各藩に振り分けられ相当な方法を講ぜられるのです。この結果、多く者が改宗し明治5年(1872)には1000名ほどが改宗します。なお、信者においてこの流罪を“旅”と称します。




浦上地区におけるキリスト教の歴史G
慶応元年(1865)大浦天主堂が完成すると浦上に潜伏していたキリシタンが次々と参詣するようになり、早速、宣教師のプチジャンも浦上に赴き教義を教えるなどキリスト教の復興に尽力します。一方で幕府も幕末の混乱や外国からの抗議により絵踏みを廃止しキリスト教に対し軟化を見せていて、プチジャンは浦上に宣教師ローカニュを送り込みます。これにより住民の大部分がキリスト教に復活し葬儀などすべての様式も変えますます拡大するようになります。慶応3年(1867)これを見かねた奉行所は信者全員を捕縛することにし勾留します。この間、幕府は倒れ明治政府による体制になっても依然としてキリスト教は禁ぜられ、政府の要人:澤宣嘉、井上聞多、大隈重信などは改宗するよう説得に入るも大多数はこれを拒み続け、ついに全員を流罪とし各藩に振り分け改宗を試みることになります。これが後に浦上四番崩れと呼ばれるものです。




浦上地区におけるキリスト教の歴史F
江戸時代末期、安政の開国によってキリスト教が広まるのを恐れた長崎奉行所はキリシタンの探索を開始し、安政3年(1856)異宗の利吉と二人の転び者が密告し村民15人が捕らえられます。今回の発覚は今までの取り調べとは比べられないほど厳しいもので拷問などで多数の改宗者(転び)が出ます。また、牢死した者もいました。そして御帳方の吉蔵が投獄されキリシタン組織や教義などが詳しく聞き出され(吉蔵は後に牢死)、潜伏組織は壊滅状態になります。この一連の事件に対し奉行所は外国との関係からキリシタンとはせず異宗事件として処理します。これが後に浦上三番崩れと呼ばれるものです。




浦上地区におけるキリスト教の歴史E
天保10年(1839)当時の長崎ではキリシタン情報に懸賞金をかけていたため転び者から金目当ての密告が行われます。これにより浦上のキリシタンの最高指導者である御帳方の利五郎をはじめとする伊五郎、多八、徳右衛門など組織の重要人物が捕らえら取り調べが行われるのですが、身に覚えがないと言い通し、さらには奉行所の益田土之助の取り計らいなどで無罪放免となります。これが後に浦上二番崩れと呼ばれるものです。




浦上地区におけるキリスト教の歴史D
寛政2年(1790)浦上山里村庄屋の高谷永左衛門は圓福寺(現 穴弘法)に八十八体の石仏を設けるため村民に寄付を募ったところ里郷の忠右衛門ら19人が経済的理由で寄付を断ったため永左衛門は異宗の疑いをかけ長崎奉行所に訴えます。しかし証拠がなくこのときは全員が無罪となりますが、永左衛門は再び調べを進め、ついに報告書を奉行所に提出。10人が捕らえます。奉行所は早速、浦上村の調査を行いますが寛政7年(1795)異宗徒はなしという結論を出し幕府に報告。これが後に浦上一番崩れと呼ばれるものです。




浦上地区におけるキリスト教の歴史C
延宝天和年間(1673-84)浦上村中野郷に七郎左衛門と、密かにキリスト教を信仰していた孫左衛門という二人の男が住んでいました。二人は親交を持っていましたが信仰に関しては秘していて、それがある日、二人が浦上川の簗で白魚を採っていたところで孫左衛門が信仰の話を始めます。それは禁教令が出されて50年。このままでは浦上から信者が一人もいなくなってしまうため再興を働きかけたもので、七郎左衛門もこの願いを快く聞き入れ二人は信仰の復活を始めます。そして孫左衛門が御帳方となって指揮を取り子孫に教えを伝えて行く訳ですが、浦上の信者は表向きは聖徳寺の檀家であって、家ではキリストの教えを守るという生活で、生後すぐに洗礼を受け拝礼や祈祷など守り伝えていきます。これが約200年もの間続き明治を迎えるのですが、最初の孫左衛門と七郎左衛門が長崎におけるキリスト教復活の尽力者といわれています。




浦上地区におけるキリスト教の歴史B
浦上川中流、大橋のたもとにサンタ・クララ(Santa.Clara)教会跡がありますが、これは禁教令以前の慶長8年(1608)に建てられた教会で地元者はサンタカラナと呼んでいました。元和6年(1620)に破却されますが信者らは8月12日のカラナの祝日にその地に集い、遠方の者は丘の上からその跡地を眺めて、善(ヨ)か盆と称し祈りを捧げるのです。そしてその際、おのおの「家野(ヨノ)は善か善か昔から善かよサンタカラナで日を暮らす」という歌を口ずさみ信者らは思いをはせていました。おそらく家野郷の心の支えだったものと考えられます。




浦上地区におけるキリスト教の歴史A
江戸時代初め、禁教令が出されてまもないころ、浦上にジワンノ(父)、ジワンナ(母)、ミギル(息子)という3人のキリシタンの親子が住んでいました。幕府の取り締まりも恐れず非常に熱心に信仰を守り続けていましたが、ついに3人は捕えられ火刑に処せられることになります。しかしキリシタンの村だった浦上では火刑が執行できないよう村民はすべての火を消し、また、薪もすべて水中に没し姿を消してしまいます。そのため役人は対岸地区の淵村(現 稲佐地区)から火をもらいようやく火刑を執行するのですが、以来、浦上地区の村民は淵村の者を快く思わず結婚などすべての交流がなくなったといいます。なお、3人の遺骸はベアトス様と呼ばれ、浦上の信者らによって丁寧に葬られ、毎年殉教の日には墓参して霊を鎮めたといいます。




浦上地区におけるキリスト教の歴史@
浦上地方は14世紀の南北朝時代、小豪族浦上氏、中野氏、家野氏、淵氏などが治めていましたが、次第に大村氏によって統治されるように、配下の有馬氏の領地になります。16世紀、大村家18代の大村純忠は熱心なキリシタンで領民にもキリスト教を推奨していて、おそらく浦上も同じような状態にあり、天正12年(1584)には有馬晴信によって浦上村をイエズス会に寄進します。このとき村内に神仏教徒は一人もいなかったといわれています。天正15年(1587)秀吉は突如として伴天連追放令を発しイエズス会領の長崎は接収され市内の教会は次々と破却されますが、信徒の改宗者はなく、ついに慶長、元和、寛永の禁教令を迎えます。有力な信徒は極刑に処せられ、浦上の教会はことごとく破却されてしまいます。




D-457:潜伏時代のキリシタン墓碑
坂本3-5,江平1-10ほか(旧 浦上山里村)【経の峰共同墓地】
経の峰共同墓地は江戸時代から浦上地区の住民が使用している墓域のことで、たくさんの十字架を載せた墓碑を見ることができます。これは浦上地区に多くのキリスト教信者が住んでいることを表し、明治期以降、宗教が自由となった後に建立されています。
また、その中に江戸時代中期のキリシタン墓碑があって、これは当時、江戸幕府が仏式墓石に戒名を施すよう命じていたにもかかわらず、潜伏キリシタンは頑としてこれを使用せず、寛政年間に行われた3回の長崎代官の取締りや取り壊しにも破却しなかったため、今に受け継がれています。なお、浦上のキリシタンたちはこの墓碑以降はキリシタン墓碑や仏式墓碑を使用せずただの野石を置く習慣に変わっていきます。市指定史跡。2008-3/19参照




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