広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成20年 〜2008年〜
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D-490:石神町(いしがみまち)
昭和39年(1964)町界町名変更によってそれまで本原町1丁目と2丁目だったところの一部が石神町となり今に至ります。町名の由来は、もともと地区を浦上山里村本原郷字石神といい、江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会には、浦上の本原石神というところに赤色の美しい燧石(ヒウチイシ)が産出されていたと書かれ、特異な石の石切り場があったものと考えられています。そしてその特異な石が鎮懐石で石神になったと思われます。町域のどこかに石切り場が存在するはずです。




D-489:辻町(つじまち)
昭和39年(1964)町界町名変更によってそれまで本原町2丁目だったところの一部が辻町となり今に至ります。町名の由来は、もともと地区を浦上山里村本原郷字といい、西山から大橋、山里から長与という辻(交差点)だったということ。さらには町域にある十字架山にちなみ「辻」の文字に十字架の十字があるところから辻町となりました。




D-488:大手町(おおてまち)
昭和39年(1964)町界町名変更によって昭和町(旧 家野郷)と本原町の各一部が合わさり大手町が誕生します。町名の由来は、もともと地区を浦上山里村本原郷字大手町といい、町域にあった十面城跡(丸善団地後方)に由来します。さらに平成に入り大手町は1丁目から3丁目に分けられました。




D-487:三原町(みはらまち)
江戸時代から呼ばれていた浦上山里村本原郷が大正12年(1923)に長崎市に編入し本原町が誕生。1丁目から3丁目に分けられます。その後、市街地の発達に伴い昭和39年(1964)町界町名変更によって三原町が生まれますが、旧本丁目だったところがと称されることになりました。さらに平成に入り三原町は1丁目から3丁目に分けられました。




D-486:小峰町(こみねまち)
昭和39年(1964)町界町名変更によって本原町と高尾町、上野町の各一部が合わさり小峰町が誕生します。町名の由来は、もともと地区を浦上山里村本原郷字といい、長崎から長与に抜ける小道があった場所で、ちょうど聖フランシスコ病院付近が小高い峰(丘)ということもありという地名が生まれたものと考えられています。




D-485:平和町(へいわまち)
昭和39年(1964)町界町名変更によって山里町と本尾町の各一部が合わされ平和町が誕生します。山里の中心である平野宿の「平」と、町域が平和公園に近いところから平和町と命名されました。第二次大戦以降、官公庁や金融機関などの社宅街として発展し、現在では高級住宅街として有名で、毎年公表される路線価(住宅地域)では常に上位を占める地域でもあります。




D-484:本原町(もとはらまち)
本原町は江戸時代、浦上山里村本原郷に属し大正12年(1923)に長崎市に編入した際、本原町が誕生します。地名の由来は江戸時代にはすでに本原(モトバル)と呼ばれていて、「はる」には平坦な台地という意味を持ち、本原がその中心だったことが伺えます。当初は本原村、本原郷となり本原町となります。昭和39年(1965)の町界町名変更によって一部が上野町、小峰町、三原町、大手町、辻町、石神町、扇町となって、上野町の町の一部を編入して今に至ります。




D-483:高尾町(たかおまち)
高尾町は江戸時代、浦上山里村中野郷に属し大正12年(1923)に長崎市に編入した際、高尾町が誕生します。地名の由来は本尾町の上手地域だったこと、尾という地名は地形的に見てその背後の山(金比羅山)から山里中学校にかけて尾っぽのようにのびた地形から高尾町となったのではないでしょうか。昭和39年(1965)の町界町名変更によって一部が小峰町となり、上野町の町の一部を編入して今に至ります。




D-482:駒場町(こまばまち)
駒場町は現在の大橋から陸上競技場がある一帯で昭和15年(1940)から昭和39年(1964)まで使用されていました。当初は松山町の浦上川の河川敷きだったところで、初めは草競馬場があり、そこから駒場町と命名されました。その後、造成され住宅地化され、第2次世界大戦時には軍需工場が置かれるなどします。昭和20年(1945)原爆によって町は壊滅し、同年10月にはアメリカ軍が原爆落下中心地に近い場所ということで原子飛行場が造られます。昭和24年(1949)その跡地には長崎市が市営競輪場を開き(昭和41年まで使用)、また、昭和27年(1952)からは市営の庭球場や陸上競技場、弓道場、体育館などが順次作られ、長崎市のスポーツレクレーションの町として発達します。




D-481:松山町(まつやままち)
松山町は江戸時代、浦上山里村中野郷に属し大正12年(1923)に長崎市に編入した際、松山町が誕生します。地名の由来はその当時、現在の平和公園の下、国道206号線沿いが海岸で一帯に松林があったところから命名されました。松山町は昭和39年(1965)の町界町名変更によってのちに作られた駒場町と岡町、橋口町の一部が加えられ今に至ります。




D-480:岡町(おかまち)
岡町は江戸時代、浦上山里村中野郷に属し大正12年(1923)に長崎市に編入した際、岡町が誕生します。岡という地名は字名で、浦上山里村の中心地:里郷(現 浦上天主堂付近)の上手の台地という意味からきているものと考えられます。岡町は昭和39年(1965)の町界町名変更によって現在の岡町と橋口町、松山町に分割され今に至ります。




D-479:橋口町(はしぐちまち)
橋口町は江戸時代、浦上山里村中野郷に属し大正12年(1923)に長崎市に編入した際、橋口町が誕生します。橋口という地名は町内に浦上街道が走り、大橋の手前入り口にあたるところから橋口となり、字名でもあります。橋口町は昭和39年(1965)の町界町名変更によって現在の橋口町、岡町、松山町に分割され今に至ります。




D-478:上野町(うえのまち)
上野町は江戸時代、浦上山里村中野郷に属し大正12年(1923)に長崎市に編入した際、上野町が誕生します。上野という地名は浦上山里村の中心地:里郷(現 浦上天主堂付近)の上手の台地という意味からきているものと考えられます。上野町は昭和39年(1965)の町界町名変更によって現在の上野町、小峰町、高尾町、本原町、橋口町に分割され今に至ります。




D-477:浜平町(はまびらまち)
浜平町は江戸時代、浦上山里村馬籠郷に属し大正12年(1923)に長崎市に編入した際、浜平町が誕生します。浜平という地名の「浜」とは入り江など海岸部を表し、「平」は斜面や崖を意味し、「浜平」で海岸近くの斜面地となります。浜平町は昭和39年(1965)町界町名変更によって一部が御船蔵町に変更になっています。




D-476:江平町(えびらまち)
江平町は江戸時代、浦上山里村里郷に属し大正12年(1923)に長崎市に編入した際、江平町が誕生します。江平という地名の「江」とは入り江など海岸部を表し、「平」は斜面や崖を意味し、「江平」で海岸近くの斜面地となります。江平町は昭和40年(1965)町界町名変更によって一部が坂本町に変更になっています。




D-475:本尾町(もとおまち)
本尾町は江戸時代、浦上山里村里郷に属し大正12年(1923)に長崎市に編入した際、本尾町が誕生します。本尾町は現在の浦上天主堂が建つ丘とその背後の地域を指し、本尾という地名は地形的に見てその背後の山(現 本尾公園)から浦上天主堂にかけて尾っぽのようにのびた地形から本尾町となったのではないでしょうか。また、浦上天主堂のある丘を高谷の丘といい、これは二つの流れ(谷間)の中間の高い部分ということで高谷の丘となったと考えることができ、さらにその背後の山(現 本尾公園)は城の平と呼ばれ、中世の砦(トリデ)の跡と考えられています。なお、昭和40年(1965)町界町名変更によって一部が坂本町に変更になっています。




D-474:山里町(やまざとまち)
長崎開港当時、長崎の入江は長く奥まで入り込んでいるところから深江浦といい、その浦の上手を浦上と呼んでいました。これは14世紀の南北朝時代、小豪族浦上氏に由来するとも考えられ、その浦上氏が支配する地域を浦上村と呼んでいました。その浦上氏の屋敷が浦上天主堂付近にあったと伝えられ、浦上村の中心をといい、のちに里村そして里郷となり、長年、浦上山里村の中心でした。大正9年(1920)長崎市に編入し、大正12年(1923)里郷の中心部が山里町となります。昭和39年(1964)町界町名変更によって分断され平野町と平和町になります。




○浦上山里村の郷名と旧町名
江戸時代、浦上山里村は馬籠郷里郷中野郷本原郷家野郷、寺野郷からなっていました。
明治31年(1898)馬込郷里郷の一部が長崎市に編入し茂里町となり、
大正2年(1913)馬込郷の一部が編入し目覚町、浦上町、銭座町1〜2丁目、御船蔵町、御船町となり、里郷の一部が坂本町、岩川町となります。
大正12年(1923)には里郷が長崎市となり浜口町、山里町、本尾町、江平町が誕生し、中野郷が編入し上野町、橋口町、岡町、松山町、高尾町、本原郷が編入し本原町1〜3丁目、馬込郷の一部が浜平町、家野郷が家野町、大橋町、寺野郷が城山町1〜2丁目と命名され長崎市となります。




聖徳寺聖徳太子の言伝え
安永年間(1772-81)浦上山里村に住む丹左衛門がある夜、霊夢を見ます。それは浦上の傘ヶ淵(傘潭)で釣り糸を垂れるという夢で、早速、傘ヶ淵(傘潭)で釣りをしてみると釣竿に一体の仏像がかかります。見るとその像は聖徳太子の像で、丹左衛門は「南無阿弥陀仏」と唱え聖徳寺に納めたといいます。残念ながら昭和20年(1945)の原爆によって焼失しました。




D-473:傘潭(からかさぶち)
江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると、当時、大橋(本大橋)付近には多きな淵があって、淵には雨傘に似た巨石があったといいます。巨石は土台の基礎石に傘石が載っている形状で、大雨のときはその石を打つ水音が響いていたといいます。人々はそれを傘潭と呼んでいましたが、のちに大雨によって流失してしまいます。現在の浦上川は昭和57年(1982)以降に河川改修工事が行われたため当時を物語るものは何も残っていません。




D-472:大橋(おおはし)
大橋とは浦上川を渡る浦上街道の橋のことをいい、のちに付近の地名になるのですが、昔はこの付近まで海が来ていて湾の一番狭まった浦上川の河口に橋が架り、それが大橋になったものと考えられます。その後、次第に土砂などの流失で浅瀬ができ浦上川が形成され、江戸時代までは山里小学校から岩屋橋につながる道が浦上街道として使用され、そこの橋を大橋と呼んでいました。明治20年(1887)ごろ浦上川の埋立が進むと海岸沿いの道(現 国道206号)が造られ新たに大橋が作られると、当初の橋は本大橋(モトオオハシ)と改称されます。さらに大橋の下流に橋が架けられるようになると大橋の下ということで下大橋(シモオオハシ)が誕生し、大橋は3か所存在することになります。




D-471:川上神社(こうかみじんじゃ)
橋口町23(旧 浦上山里村中野郷字川上)
川上神社は旧浦上街道沿いに建つ神社で道中の交通安全の神として祀られたものと思われますが、実際、祠には地蔵尊が安置されています。地蔵尊は元禄3年(1690)豊後町の松田弥兵衛が建立し、浦上村の庄屋:高谷牧之助が代々お祀りしていました。川上神社の川上は付近の字名からきています。




D-470:ベアトス様の墓
橋口町22(旧 浦上山里村中野郷)
江戸時代初め、禁教令が出されてまもないころ、浦上にジワンノ(父)、ジワンナ(母)、ミギル(息子)という3人のキリシタンの親子が住んでいました。幕府の取り締まりも恐れず非常に熱心に信仰を守り続けていましたが、ついに3人は捕えられ火刑に処せられることになります。しかしキリシタンの村だった浦上では火刑が執行できないよう村民はすべての火を消し、また、薪もすべて水中に没し姿を消してしまいます。そのため役人は対岸地区の淵村(現 稲佐地区)から火をもらいようやく火刑を執行するのですが、以来、浦上地区の村民は淵村の者を快く思わず結婚などすべての交流がなくなったといいます。なお、3人の遺骸はベアトス様と呼ばれ、浦上の信者らによって丁寧に葬られ、毎年殉教の日には墓参して霊を鎮めたといいます。




シュモーアパートの碑
橋口町20-26(旧 浦上山里村中野郷)
シュモーとはフロイド・W・シュモー(FLOYD W SCHMOE:1895-2001)のことをいい、昭和24年(1949)彼の呼びかけによって集められた基金で造られたのがシュモーアパートといいます。
シュモーはアメリカの森林学者で第二次世界大戦後の昭和23年(1948)原爆によって廃墟と化した広島、長崎のことを知り募金活動を通じて住宅建設の資金を集めます。翌24年(1949)集めた募金とボランティア活動を行う学生らを引き連れ広島入りし、広島に19棟、長崎に5棟の住宅を建て被害者援助を行います。長崎の住宅は老朽化のため建て替えられることになり昭和53年(1978)現在のシュモーアパートが誕生します。なお、広島では昭和58年(1983)「ヒロシマの恩人」として名誉博士号が贈られます。




防空壕跡【山里小学校】
第二次世界大戦中、空襲などを回避するため市街地には多くの防空壕が掘られていました。この山里小学校付近にも18か所の防空壕が掘られ山里地区の避難場所になっていました。

山里青年訓練所記念碑【山里小学校】
大正15年(1926)7月。山里小学校内に山里青年訓練所が開設されます。昭和10年(1935)青年学校令により山里小学校内にあった専修学校と青年訓練所が統合され小学校に併置します。
この碑は山里青年訓練所の第2回修了生によって建立されたもので、昭和初年に建立されています。




D-470:あの子らの碑(あのこらのひ)【山里小学校】
昭和20年(1945)8月9日。山里国民学校は原子爆弾の直撃を受け焼失し職員と生徒1300超名が犠牲となりました。この碑はその戦争と原爆の悲惨さを伝え平和な世界の実現のために建立されたもので、発案は医学博士の永井隆によるものです。また、この惨状は永井隆が出版した体験記「原子雲の下に生きて」に表現され広く人々の心に伝わります。昭和24年(1949)建立。
碑正面「平和を」/裏面「あの子らの碑」




D-469:長崎市立山里小学校(-やまざとしょうがっこう)
明治7年(1874)浦上山里村に中馬込小学校と山王小学校が開かれ、明治15年(1882)2校は中野小学校と合併し山里小学校が誕生。明治20年(1887)には浦上皇大神宮があった場所に移転します。明治26年(1893)新小学校令により山里尋常高等小学校に変更し、大正10年(1921)には校内に山里女子実業補習学校が置かれ、技術専門の教育も行われます(のちに山里女子専修学校→山里青年学校に改称→終戦まで)。昭和7年(1932)のちに原爆の被害を受ける旧校舎が鉄筋コンクリート建で建設され、昭和16年(1941)には山里国民学校に改称します。そして昭和20年(1945)8月9日原子爆弾の直撃を受け焼失し、職員と生徒1300超名が犠牲となります。昭和22年(1947)新学制により長崎市立山里小学校となり今に至ります。現在の校舎は平成元年(1989)の建てられたものです。




D-468:浦上皇太神宮跡(うらかみ-こうたいじんぐう-あと)
橋口町20-26(旧 浦上山里村中野郷)【山里小学校】
明治初年、浦上地区はキリシタンへの弾圧(四番崩れ)が激しく、明治元年(1868)に長崎裁判所総督として長崎入りした澤宣嘉は神道を奨励する意味でも神社を建立することを決定します。そして賛同者であった豊後町の島谷安昌は自らの土地を神社に献納し造営がはじまり明治2年(1869)太神宮の鎮座祭が行われました。しかし次第に衰退し明治7年(1874)の大風で社殿は倒壊。仮復旧するも禁教令が解かれた浦上では再開は難しく、明治17年(1884)坂本町にある日吉神社(山王神社)と合祀することになり、日吉神社浦上皇太神宮と改称することになります。
D-431:2008-6/29参照




D-467:白山共同墓地(はくさんきょうどうぼち)
本原町39(旧 浦上山里村本原郷)
白山共同墓地は江戸時代から浦上地区の住民が使用している墓域のことで、たくさんの十字架を載せた墓碑を見ることができます。これは浦上地区に多くのキリスト教信者が住んでいることを表し、明治期以降、宗教が自由となった後に建立されています。また、昭和20年(1945)8月9日に投下された原爆爆心地に近い地域の墓所ということもあって、「昭和二十年八月九日」という没年月日が刻された墓石が多いのがここの特徴です。




D-466:長崎南山学園(ながさきなんざんがくえん)
上野町25-1(旧 浦上山里村中野郷)
東山手町にあった旧東山学院の校舎を昭和8年(1933)カトリック長崎教区宣教師社団が買収し長崎公教神学校を開校。昭和15年(1940)長崎東陵中学校と改称します。そして第二次大戦後の昭和27年(1952)神言修道会に経営が移管され、名古屋南山大学の姉妹校として出発することになり名称も長崎南山高等学校と変わります。そして同年9月、上野町に新校舎を建設して移転。のちに中学校も開かれ、今では長崎で唯一、ミッションスクールで男子校の学園となっています。




D-465:長崎県立長崎工業学校跡
上野町25-1(旧 浦上山里村中野郷)【長崎南山学園】
昭和12年(1937)丸尾町にあった旧長崎県水産講習所を仮校舎として長崎県立長崎工業学校が開校し、専門技術者の育成が始まります。昭和15年(1940)上野町に校舎を新築し移転。昭和20年(1945)8月9日原子爆弾の直撃を受け焼失し、職員と生徒234名が犠牲となります。同年10月には大村市杭出津にあった元第21海軍航空廠(ショウ)工員育成所を仮校舎とし授業を開始。昭和23年(1948)新制学制により長崎県立長崎工業高等学校と改称します。昭和25年(1950)家野町に移転。昭和46年(1971)岩屋町に移転し現在に至ります。




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