広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成20年 〜2008年〜
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D-517:大橋町(おおはしまち)
大橋町は江戸時代、浦上山里村家野郷に属し大正12年(1923)に長崎市に編入した際、大橋町が誕生します。地名の由来は町域にある浦上街道の橋:大橋にちなむもので、昭和39年(1964)町界町名変更で大橋町のほか、三芳町、江里町、清水町、油木町、城山町、文教町になります。




D-516:家野町(いえのまち)
家野町は江戸時代、浦上山里村家野郷に属し大正12年(1923)に長崎市に編入した際、家野町が誕生します。これは14世紀の南北朝時代、小豪族家野氏に由来するとも考えられ、その家野氏が支配する地域を家野(イエノorヨノ)村と呼んでいました。その家野氏の屋敷が現 家野町付近にあったと伝えられ古い地名に城ノ越(城の古址)という名前が残っています。昭和39年(1964)町界町名変更で家野町家野町のほか千歳町、若葉町、大橋町、文教町になります。




D-515:サンタ・クララ教会跡(Santa.Clara)
大橋町1(旧 浦上山里村家野郷)
禁教令以前の慶長8年(1608)イスパニア人宣教師:アルウァレス神父が司教する浦上村唯一の教会:サンタ・クララ教会が建てられ、地元の者はサンタカラナと呼んで親しまれていました。元和6年(1620)の禁教令で破却されますが、その後も信者らは8月12日のカラナの祝日にその地に集い、遠方の者は丘の上からその跡地を眺めて、善(ヨ)か盆と称し祈りを捧げるのです。そしてその際、おのおの「家野(ヨノ)は善か善か昔から善かよサンタカラナで日を暮らす」という歌を口ずさみ信者らは思いをはせていました。おそらく家野郷の心の支えだったものと考えられます。
昭和40年(1965)3月17日。信者発見100周年を記念して浦上カトリック教会によって記念碑が建立されています。




D-514:聖クララ堂跡
大橋町23-(旧 浦上山里村家野郷)
慶応元年(1865)大浦天主堂が完成すると浦上に潜伏していたキリシタンが次々と参詣するようになり、早速、宣教師のプチジャンも浦上に赴き教義を教え、さらに宣教師ローカニュを日本人に変装させて浦上に送り込みます。慶応3年(1867)1月には信徒らが設けた隠れ家に潜入し布教をはじめると浦上村の住民の大部分がキリスト教に復活し葬儀などすべての様式も変えます。このときの隠れ家は4か所あって、その一つが浦上川沿いにあった聖クララ堂と呼ばれる草庵でした。
※大橋横にあるサンタ・クララ教会とは別の時代のものです。




D-513:ドミニコ高木仙右衛門墓所
石神町【こうらんば墓地】
高木仙右衛門(文政3:1820-明治32:1899)は浦上山里村本原郷字辻(現 辻町)の農家の家に生れ、高木家は表向きは仏教徒としながら代々キリスト教を信仰していた家柄でした。慶応元年(1865)大浦天主堂が完成すると率先して信仰を告白し、自宅に仮聖堂(聖ヨゼフ堂)を設け浦上の信徒を迎えます。慶応3年(1867)浦上四番崩れといわれる信者の捕縛で、仙右衛門は山口県津和野に流され厳しい拷問を受けます。明治6年(1873)信仰が自由となり開放され帰郷しても、自宅は岩永マキらが進めていた孤児院に開放するなど社会福祉活動に尽力しました。




D-512:浦上第一病院跡【聖フランシスコ病院】
昭和18年(1943)それまで神学校として使用されていた建物は男子フランシスコ会によって浦上第一病院結核診療所へと変わり診療を始めますが、昭和20年(1945)8月9日。原爆の爆風で大破し出火ののち内部は焼失、負傷者約70人を出します。同年11月、聖フランシスコ診療所が開かれ、昭和24年(1949)聖フランシスコ病院へと変わり、今に至ります。




D-511:浦上神学校跡(うらかみしんがっこう-あと)
小峰町9-20(浦上山里村本原郷字峰)【聖フランシスコ病院】
明治6年(1873)信仰の自由が許された後、プチジャン神父やド・ロ神父などの布教活動がおおやけに進められるようになり、プチジャン神父によって日本人を教育する養成所の羅典学校が建設され日本カトリック教会布教の源となるのです。大正14年(1925)浦上神学校が作られ翌年移転。フランス風赤レンガ鉄筋コンクリート造り3階建は地区のシンボル的存在でした。昭和6年(1931)からは聖フランシスコ神学校となり昭和18年(1943)まで続きます。C-303:2006/08/23参照




D-510:岩永マキと子供二人の立像
石神町14-48(旧 浦上山里村本原郷)【浦上養育院】
碑文「明治6年(1873)キリシタン禁制が解かれ、流配地から帰郷した岩永マキは翌7年ドロ神父の指導のもとに同志数名とともに長崎近郊に流行した伝染病患者の救護に献身したが、その時残された孤児タケを育てていたことが契機となって、孤児の家「子部屋」を創立した。これが浦上養育院の前身である。マキによって始められたこの事業は、日本における福祉活動の草分けとなった。




D-509:聖ヨゼフ堂跡
辻町17-1(旧 浦上山里村本原郷字辻)【十字修道院】
慶応元年(1865)大浦天主堂が完成すると浦上に潜伏していたキリシタンが次々と参詣するようになり、早速、宣教師のプチジャンも浦上に赴き教義を教え、さらに宣教師ローカニュを日本人に変装させて浦上に送り込みます。慶応3年(1867)1月には信徒らが設けた隠れ家に潜入し布教をはじめると浦上村の住民の大部分がキリスト教に復活し葬儀などすべての様式も変えます。このときの隠れ家は4か所あって、その一つが聖ヨゼフ堂と呼ばれる草庵でした。ここは指導者でもあった高木仙右衛門の屋敷跡で、仙右衛門と息子の源太郎が捕らえられ、これがきっかけでのちの四番崩れとなります。なお、源太郎は解放後、日本人初の司祭になります。




D-508:聖マリア堂跡
辻町7-14(旧 浦上山里村本原郷字平)
慶応元年(1865)大浦天主堂が完成すると浦上に潜伏していたキリシタンが次々と参詣するようになり、早速、宣教師のプチジャンも浦上に赴き教義を教え、さらに宣教師ローカニュを日本人に変装させて浦上に送り込みます。慶応3年(1867)1月には信徒らが設けた隠れ家に潜入し布教をはじめると浦上村の住民の大部分がキリスト教に復活し葬儀などすべての様式も変えます。このときの隠れ家は4か所あって、その一つが水方であった又一の屋敷の裏山にあった聖マリア堂と呼ばれる草庵でした。同年7月15日早朝、ミサの最中に幕府の手が回り又一の子である伝道師:友吉ら154名とともに捕らえられ、山口県津和野に流され過酷な迫害を受けるのです。なお、ミサに参列していた宣教師ローカニュは難を逃れました。




D-507:本原ルルド
三原1-4(旧 浦上山里村本原郷)
ルルドとはフランス南部の小さな町の名前で、そこにある泉をルルドの泉といい、現在では大聖堂が建てられカトリックの巡礼地の一つとなっています。1858(安政5)年ルルド近くの町:マッサビエールの洞窟で、そこに住む少女ベルナデッタが無原罪の聖母と出会います。そしてある場所を掘るようにお告げを受け掘ってみると泉が生れ、その泉を飲むと多くの人々の病が回復するという奇跡が起こったそうです。その後、カトリックの教会近くにはこのルルドの泉を模した泉が作られ、信者の祈りの場、黙想の場として親しまれています。長崎ではこのほかに聖母の騎士教会、善長谷教会などのルルドが有名です。




D-506:浄土宗三佛山渓林院法泉寺
三原1-26-36(旧 浦上山里村本原郷)
元和2年(1616)開山した大音寺開基:傳譽は、元和7年(1621)長崎奉行の許しを得て下筑後町に一寺を建立。大音寺の末寺とし弟子で護衛もしていた信譽順同を住持とします。当時は雲海山瑞巖寺といい、宝暦明和年間(1751-1772)に三佛山渓林院法泉寺と改称します。本堂、鐘楼、観音堂、地蔵堂、山門と備え、また、梵鐘は鍛冶屋町の鋳物師:阿山弥五左衛門国久によるものでしたが第2次大戦で供出。さらには昭和20年(1945)8月9日。原爆の爆風で建物は破壊され、その後の火災で焼失します。その後、再建されますが老朽化と手狭な環境から第28世住持:玉連社栄誉の33回忌を記念して昭和57年(1982)現在地に移転し今に至ります。D-301:2008/01/07




D-505:マリアの山(一本木山)
三原2-24(旧 浦上山里村本原郷)【本原教会内】
慶応元年(1865)大浦天主堂が完成すると浦上に潜伏していたキリシタンが次々と参詣するようになり、早速、宣教師のプチジャンも浦上に赴き教義を教えるなどキリスト教の復興に尽力します。そしてプチジャンは浦上に宣教師ローカニュを送り込み、住民の大部分をキリスト教に復活させることに成功。しかし慶応3年(1867)これを見かねた奉行所は信者全員を捕縛することにし、いわゆる浦上四番崩れがおこります。この全村民流罪という厳しい弾圧がおこなわれていた時、宣教師ローカニュが潜伏した場所が一本木山またはマリアの山と呼ばれる場所でした。




D-504:一本木(いっぽんぎ)
三原1,2(旧 浦上山里村本原郷字一本木)
バス停名にもなっている一本木は地域の字名ですが、寛永年間(1624-44)筑後国柳川藩の立花家の若君(ワカギミ)がキリシタンの信仰を守るため移り住んだところといわれています。若君は身分を変え百姓になって潜伏していて、一本の楠から自らの家を建て住んでいました。その一本の木から一本木という地名が生まれたといわれています。




D-503:十面城跡(じゅうめんじょう-あと)
大手,三川町,川平町(浦上山里村本原郷字大手町)
十字架山の北東、ちょうど丸善団地奥にそびえる山は、その昔、十面城があった場所です。鎌倉時代末期(南北朝時代)、浦上村の地頭(小豪族)らが城(砦:トリデ)を築いていた場所といわれています。城は別名を鳥山城といい、本丸跡には曲輪(クルワ=城壁)の一部や井戸などが残っていいます。




D-502:十字架山(じゅうじかやま)
辻町25(旧 浦上山里村本原郷)
十字架山は250年も続いた禁教令の中で、浦上の信者がキリシタン弾圧や迫害を受けながらも信仰を守り伝えたことへの神への感謝と、心ならずも絵踏みを行った信者や信者を苦しめた為政者の罪を許していただくため十字架を建て聖地とした場所で、イエス・キリストが十字架にかけられたエルサレムのカルワイオの丘に似ていたことなどなどからここを聖地としたものです。建立は明治14年(1881)浦上天主堂建設にあたった主任司祭プトー神父の尽力で高木仙右衛門らが中心となって進められ、十字架台座石(4尺角:約1.2メートル)などはふもとの石切り場から運ぶなど多くの信者によって建設されます。初めは木製の十字架でしたが大正12年(1923)石造となるも原爆によって被害を受けたため改修されます。昭和25年(1950)ローマ法王ピオ12世によって公式巡礼地に指定されています。




劉氏別荘跡(りゅう-し-べっそうあと)
江戸時代後期に書かれた「長崎名勝図会」によると、浦上山里村の庄屋宅(現 浦上天主堂)の背後十町(約1.1キロメートル)のところに唐通事の劉氏の別荘があったと記されています。劉氏とはのちに彭城姓を名乗り、長崎では林家、頴川家などと並ぶ唐通事の名家でした。ここは大通事になった2代目:彭城仁左衛門宣義(寛永10:1633-元禄8:1695)の別荘で晩年を過ごした場所といわれ、享保年間(1716-1736)には第43代長崎奉行日下部丹波守博貞も立ち寄り書画や和歌を好くしていました。日下部丹波守の歌「事たらぬ身とはおもへと草の戸に月もありけり花もありけり
所在不明。A-228:2004/02/23参照




田中甚三郎宅の奇物
江戸時代後期に書かれた「長崎名勝図会」によると、浦上山里村の佐城(サジロ)というところに田中甚三郎の屋敷があってそこには二つの奇物があったと書かれています。一つは中国から渡来したといわれている石鉢で龍門の滝の中で何百年も洗われ、水桶二つ分ぐらいの穴は人工的に開けられたような形をし、紫色をし鉄のように固く、たたくと硬い響きがしていたそうです。さらに濁り水を入れると清水に変わる不思議なと伝えられていました。一方、もう一つの奇物は猿木といい、猿の形をした古木がありました。所在不明。




D-501:白鬚明神跡(しらひげみょうじん-あと)
松山町(旧 浦上山里村中野郷)
江戸時代後期に書かれた「長崎名勝図会」によると、山里村の松山というところに白鬚明神をお祀りする祠(ホコラ)があったと書かれており、宝永7年(1710)に高玄岱によって創建され、猿田彦大神などをお祀りしていたといいます。創建は高玄岱が幕命によって江戸に召されたのを記念したものといい、長崎聖堂の学頭で唐通事の盧草拙(ロソウセツ)が碑を建立したとも伝えられています。所在不明。




D-500:圓福寺跡(えんぷくじ-あと)
松山町(旧 浦上山里村中野郷字岡)【平和公園】
圓福寺山王日吉神社の前身である真言宗白巖山観音院圓福寺のことで、江戸時代初め「白山の岡(現 平和公園)」にあったといわれ、そこから現在の坂本に移転したという説があります。その昔「白山の岡」からは浦上川の橋口を望むことができ、そばを塔の尾と称していました。そしてそこに無凡山神宮寺(現 金刀比羅神社)の支院:圓福寺があったところから、新たに創建することになった山王権現を圓福寺と称したといいます。




D-499:長崎市民総合プール
明治36年(1903)東洋日之出新聞の鈴木天眼と東濱町に住む田中直治は瓊浦游泳会を立ち上げ、長崎港外の皇后島(通称:ねずみ島)で小中学生の水泳教育を実施します。瓊浦游泳会は昭和に入り長崎游泳協会に改称。皇后島での水泳教育は昭和47年(1972)まで続き、のちの長崎市民総合プールへと受け継がれます。そしてその市民総合プールですが昭和48年(1973)に完成し当時としては全国屈指の設備を誇るプールと呼ばれ屋内プールと屋外プールを持ち、幼児から大人まで楽しめる一大施設でした。平成8年(1996)老朽化などのため建て替えられ現在の施設となります。D-111:2007/05/07参照




D-498:長崎国際体育館跡(ながさきこくさいたいいくかん-あと)
昭和36年(1961)駒場町(現 松山町)に長崎国際体育館が完成します。ここは長崎市ではなく三菱重工業(株)長崎造船所が建設して長崎国際文化センター建設委員会に寄贈する形で建てられたもので、これにより屋内競技の充実が図られます。平成に入り老朽化や施設の手狭などの理由で取り壊され、平成6年(1994)新たに長崎県立総合体育館(通称:アリーナかぶとがに)が油木町に建てられました。アリーナかぶとがにとはその施設の形からそう名付けられました。




D-497:長崎国際文化会館(ながさきこくさいぶんかかいかん)
昭和27年(1952)平和公園整備の一環として長崎国際文化会館が起工され、ここに国際文化の向上と平和を祈願する目的の原爆関係資料の収集や保存展示がなされ、あわせて集会やイベント会場として市民に提供するホールが作られ昭和30年(1955)完成します。当初はここにホールと会議室、原爆資料室が置かれ、さらには旧市長公舎(現 馬町)展示していた長崎市立博物館も移設され一大文化センターが誕生しました。平成8年(1996)施設の老朽化と被爆50周年を記念し、長崎原爆資料館と平和会館と新たに建設され今に至っています。参照D-197:2007/08/31




D-496:平和祈念像(へいわきねんぞう)
昭和26年(1951)平和公園整備の一環として世界の恒久平和を願う施設建設のため平和祈念像建設計画が進められ、平和祈念像建設協賛会が立ちあげられます。これは台座部分を除く本体工事を寄付で賄うために設立されたもので、当初は1500万円で契約を結びますが物価高騰や設計変更などで最終的には3000万円がすべて寄付によって調達されました。また、計画時に設置場所で委員の意見が分かれ爆心地や風頭山など議論となりましたが、昭和28年(1953)11月11日、現在地で地鎮祭が執り行われ、昭和30年(1955)8月8日。除幕式が行われます。作者は芸術院会員の北村西望。右手は原爆を示し、左手は平和を願い、顔は原爆犠牲者の冥福を祈るもので、高さ9.7メートル、重さ30トン。青銅製。なお、同年9月。建設不足金が生じ500万円を調達するため景品付きで一口1000円で基金を公募し、景品には北村西望作のミニチュア祈念像が充てられたという記録もあります。




D-495:長崎市営大橋球場跡(ながさきしえい-おおはしきょううじょう-あと)
【現 ビッグNスタジアム】
昭和26年(1951)平和公園整備の一環として長崎市営大橋球場が完成します。市民のレクレーション施設として野球をはじめとする様々な催しが行われていましたが、平成8年(1996)公式野球ゲームが行われる球場へ作り替えられ、名称も長崎県営野球場(通称:ビッグNスタジアム)となり収容人数約25,000人をほこる野球場として親しまれています(総工費約72億円)。




D-494:長崎市営競輪場跡(ながさきしえい-けいりんじょう-あと)
【現 松山サッカーラグビー場】
昭和24年(1949)駒場町(現 松山町)の総合運動場予定地に市営競輪場が開かれ、娯楽目的のほか収益により都市開発の資金に充てられます。しかし翌25年(1950)騒擾(ソウジョウ=騒乱)事件が起こり、続いて八百長事件など立て続けに警官が出動する騒ぎが起こります。昭和34年(1959)競輪場の性格上、社会的弊害が多く、4億円超える収益を上げ教育施設、道路整備、福祉事業などの整備が進みますが、長崎市議会で廃止が決議され、昭和36年(1961)議会は昭和38年(1963)で廃止する結論を得ます。しかし財政難を理由に先のばされ、結局は昭和41年(1966)まで続けられ、翌年、諸谷義武市長や市議会などの判断で最終的な廃止が決まります。




長崎国際文化都市建設計画
昭和24年(1949)国会で特別法の長崎国際文化都市建設法が可決され、のちに住民投票で賛成を得、同年8月9日に交付。これにより長崎市街地の整備が本格的に進められることになり、昭和26年(1951)長崎国際文化都市建設計画が発表されます。計画は原爆落下中心地を中心に平和公園や国際文化会館、平和祈念像に世界平和と文化施設の充実が図られ昭和33年(1958)まで整備が続きます。




D-493:長崎刑務所浦上刑務支所跡
松山町9(旧 松山町)【平和公園】
桜町(現 水道局)にあった桜町監獄は、明治15年(1882)片淵に移転し名称を長崎監獄と改称します。明治41年(1908)諫早市に新設の監獄が作られたためここを長崎監獄片淵分署と変更、さらに長崎刑務所片淵分署に改称されます。しかし片淵付近の市街化が進み、昭和3年(1928)浦上の岡町(現 平和公園)に移転するのですが、昭和20年(1945)の原爆投下の際、直撃を受け閉鎖。日本人のほか中国人、韓国人を含む受刑者や職員など134人が犠牲となりました。その後、諫早の長崎刑務所を使用していましたが、昭和24年(1949)浦上町西郷字塚原にあった三菱精機寮跡に庁舎を建て再開します。現在、平和公園には当時の基礎石など遺構が残っています。A−81:2003/08/05




D-492:原爆落下中心地公園(げんばくらっか-ちゅうしんちこうえん)
松山町5,6(旧 松山町)
平和祈念像のある平和公園は祈りの場として知られているのに対し爆心地公園は原爆公園と呼ばれ、原爆の恐ろしさを知る公園といえるでしょう。もともとは住宅街だったところで、そこに昭和20年(1945)8月9日午前11時2分。地上約500メートル上空でプルトニュウム爆弾が炸裂し一瞬にして浦上の街が破壊され廃墟と化し、死者約73,000人、重軽傷者75,000人が犠牲となりました。ここは同年10月、文部省の調査団によって爆心地に決定され、その後、公園として整備し爆心地碑が建立されます。現在、周辺には多くの慰霊碑が置かれ原爆犠牲者を弔っています。




D-491:扇町(おおぎまち)
昭和39年(1964)町界町名変更によってそれまで本原町1丁目と2丁目だったところの一部が扇町となり今に至ります。町名の由来は、地図で見ると町の形、町域がの形をしており、に縁起を担ぎ扇町となったものです。




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