広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成20年 〜2008年〜
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A-260:大神甚次郎墓所(おおがみじんじろう-ぼしょ)【本河内郷有墓地内】
大神甚次郎(文化12:1815-明治18:1885)は伊勢町の人で仁侠義気があって、安政6年(1859)本大工町の布屋某とその親戚が紛争を起こした際、その解決に身を投じます。親戚と町使、調役の小柴喜左衛門らは結託し布屋の家財横領を企てていて、それを知った甚次郎はその企てを市内に貼り出し公表するもその行為に奉行所によって投獄させられます。しかし奉行所吏員による妨害で奉行には伝えられず事件は伏せられ、これに激怒した甚次郎は小柴喜左衛門宅を砲撃し再び投獄されます。奉行は横領より砲撃の方が重大と判断。しかし甚次郎も砲撃の原因となったのは吏員の行為であると訴えます。当時、吏員の腐敗甚だしく吏員を裁くことは幕府の失態との理由で判決が先延ばされ明治を迎えます。甚次郎は明治元年の大赦によって釈放され以降も弱者の味方として活躍します。




A-259:木家墓所【本河内郷有墓地内】
この高木家は長崎代官高木作右衛門忠興の三男、高木道之助忠大の家系にあたり、道之助忠大は、文化5年(1818)砲術其外御備向御取扱を経て文政2年(1819)鉄砲方となった人物です。また、この鉄砲方はその後も世襲され代々続きます。この墓所には高木道之助忠大と息子の高木内蔵忠升。長崎代官4代目高木作右衛門忠篤の三男:高木善左衛門忠温が葬られています。この高木家の家紋は秀吉が恩賞日に鋳造した永楽通宝を家紋とし墓石に刻されています。高木家屋敷は中島川沿いにありました(参照2003/12/22)。
※深堀騒動の高木家は高木彦右衛門系ですD-338:2008/02/28




A-258:故名力士之碑(こ-めいりきしのひ)【本河内郷有墓地内】
故名力士之碑は昭和3年(1928)本河内地区の有力者ほか本河内町、本河内青年団、御手洗青年団や大日本相撲協会など多くの人々の浄財で建立されました。碑の周りには丸山権太左衛門をはじめ、力士:雲早山森之助(天明7:1787-文政8:1825)、力士:峰松庄之助(延享2:1745-天明6:1786)、力士:玉井茂三次(享保7:1722-安永5:1776)、力士:一二三孫兵衛(?-明治元:1868)がありそれらの供養と、昭和3年(1928)が地元出身の力士:両国が出羽海部屋に入門したことなどから両国の入門と出世を願い建立されたものと思われます。なお碑正面の文字は第27代横綱:栃木山守也。




A-257:第3代横綱丸山権太左衛門墓所(まるやま-ごんたざえもん-ほしょ)【本河内郷有墓地内】
丸山権太左衛門(正徳3:1713-寛延2:1749)は宮城県登米市米山町中津山出身で、本名を芳賀銀太夫といい、言伝えでは、仙台の丸山で生まれたので四股名(シコナ)が丸山となったとか、頭に大きなこぶがあったところから丸山となったといいます。もともと体格が大きく(身長197p/体重170kg)、当時の領主伊達宗村に見込まれ家老の下僕(召使)となり、元文2年(1737)大坂に上り大関となり、寛延2年(1749)8月肥後熊本吉田司家の許しを得、横綱となり、10月に長崎丸山の興行地で上方の力士と地元の力士との取り組みが行われます。しかし当時、九州で赤痢が流行。おそらく丸山権太左衛門も感染したと見られ11月14日に36才で死去、寺町の晧台寺で盛大に葬儀が行われました。戒名「圓山良雄信士」。参照2005/09/23




〇八百屋お七と紺屋町(やおやおしちとこうやまち)【青銅塔敷地内】
元和2年(1616)江戸本郷で大火があり、八百屋の娘:お七も焼け出され近くの円乗寺に避難。その寺でお七は一人の男(吉三郎?)と出会い恋仲となります。家が再建され家に戻るも男のことが忘れられず、再び火事が起これば再会できると考え自ら家に火を放ちます。しかし再会どころか奉行所に捕らえられ、しかし奉行は幼い娘ということで哀れみ「15歳以下は罪を減じる」という定めによりお七に15才と言わせます。しかしお七は16才になったばかりで16才であることを曲げなかったため、ついに火あぶりの刑に処せられるのです。
一方、紺屋町には次のような言伝えが残っていて、その昔、諸国を回って祈願する男が紺屋町に現れ、芊原橋のほとりに庵を構え住み着くようになります。話によると、この男は八百屋お七の相手の吉三郎(キチサ)といい、お七の霊を慰めるため諸国を回っているとのこと。ちょうどその頃、長崎では水害や疫病などの災いが多く紺屋町の者がそれらに対しても祈願するよう願い出ると男は快く引き受け祈願が始まります。するとたちまち災いは治まり、紺屋町の者は感謝の意を込め蛍茶屋の上手に供養塔(現在の青銅塔)とその男の庵を建ててやり、男はそこで余生を送ったといいます。
なお、その供養塔は現在、青銅塔(からかねとう)と呼ばれ紺屋通り自治会によって管理されていますが、数年前、自治会が塔のそばに小屋を建てるため穴を掘ったところ突然穴が空き墓石が見つかりました。当時、作業に加わった者が次々と病気にかかり慌ててお祓いをしたといいます。
B-148:2004/12/12参照




〇延命地蔵大菩薩像【青銅塔敷地内】
青銅塔入口に一体の石仏:延命地蔵菩薩が建っています。これは青銅塔が建立された享保6年(1721)の大水害から数えて、100年目の文政5年(1822)大水害百回忌供養を記念し今紺屋町の住民が建てています。このときの供養は安禅寺(2003/10/03参照)の念仏講が世話人となって、和州(現奈良県)多武峯の僧:覚道が発願主となり、願主は備前岡山の僧:正因らの手で行われました。幕府の後ろ盾のある安禅寺が中心となって供養を行ったということは、当時の自然災害の恐ろしさ物語るものです。




A-256:青銅塔(からかねとう)
本河内1-19(旧 長崎村本河内郷字一ノ瀬)
享保6年(1721)閏7月28日。連日の雨の後に襲った地震と大雨は烽火山に土石流を起こし、市内は大洪水に見舞われ、死者46人、石橋の流失8橋など甚大な被害となります。そこで上野国粕谷村(現 栃木県鹿沼市の一部)出身の廻国:観心が発起となり、今紺屋町、中紺屋町の住民の寄進により青銅塔が建立されます。この塔の上部は青銅製になっていて鍛冶屋町の鋳物師:阿山弥兵衛国久によって鋳造され、仏を意味する梵字が特徴的です。また、台座になる地輪石には紺屋町(紺屋通り自治会=現 麴屋町/諏訪町)が行った大正11年(1922)の200回忌と、昭和47年(1972)の250回忌を記念した刻印が刻まれています。市指定有形文化財




A-255:時雨塚跡(しぐれづか-あと)
時雨塚は発句塚と呼ばれる句碑の一つで安政年間(1854〜60)までは桜馬場の雲龍寺にありましたが、その後、一ノ瀬橋付近に移り明治14年(1881)日見新道建設のため春徳寺に移りました。
時雨塚は宝暦14年(1764)は西田宇鹿の孫(弟子?):西田(百華井)紗戒によって建立されたもので、碑には松尾芭蕉(翁=正保元:1644-元禄7:1694)と、西田宇鹿(寛文9:1669-享保17:1732)、西田紗鹿(宝永8:1708-宝暦7:1757)の三人の句が刻まれています。
碑正面「宿かして 名をなのらする しくれかな 翁」
碑左面「山裏は 迷ひ子かへせ 郭公 宇鹿」
碑右面「名月や にしやひかしに 行く烏 紗鹿」

※西田宇鹿(寛文9:1669-享保17:1732)は豊州(福岡県東部/大分県)出身で、本名を郡安澄、通称を太郎助、俳人で号を百華井といいます。長崎で松尾芭蕉の門下の向井去来を師事し、号を宇鹿と称します。
※西田紗鹿(宝永8:1708-宝暦7:1757)は宇鹿の子と考えられます。
※西田紗戒(?)は紗鹿の子と考えられます。




A-254:南京房義圓墓所(なんきんぼう-ぎえん-ぼしょ)
本河内1-19-25付近(旧 長崎村本河内郷字一ノ瀬)
南京房義圓(?〜宝暦14:1764)は中国から渡来した棋士で長崎に囲碁を広めた人物です。この墓石の特徴は僧侶墓などの形態である卵形をしていて、塔と蓮華座の下の基礎石が碁盤の形状をし、以前までは碁笥(ゴケ:碁石入れ)の形をした花立てが置かれていました(博物館にある?)。
文化元年(1804)長崎奉行所勘定方として着任した狂歌人:太田南畝が作った狂歌は有名です。「この墓は南京房か珍房か ごけ引きよせてごばん下じき 蜀山人」
※「これやこの南京房か珍宝か ごけ引き寄せてごけにするとは(→碁笥と後家をかけている)」




A-253:一ノ瀬大師堂(いちのせだいしどう)
本河内1-19-21(旧 長崎村本河内郷字一ノ瀬)
一ノ瀬大師堂は地元の小森綱吉によって大正9年(1920)ごろに創建され、代々小森氏が管理しているお堂です。長崎四国八十八ヵ所霊場第四六番霊場。
一ノ瀬大師堂は昭和28年(1953)延命寺(寺町)第22世住職:堤祐演が再興した長崎四国八十八ヶ所霊場の一つになっています。長崎四国八十八ヶ所霊場とは、四国八十八ヶ所霊場に行くことが困難な人のために開かれたもので、長崎四国八十八ヶ所霊場を巡ると四国と同じご利益があるといわれています。

○廻国供養塔(かいこくくようとう)
正徳元年(1711)建立。廻国の墓石です。「正徳元辛卯年(1711)六月六日病死」

○地蔵尊群
5体の地蔵尊が並んでいます。道路改修などの事情でこの地に集められたものでしょう。




A-252:八百屋町供養塔(やおやまちくようとう)
本河内1-19-25付近(旧 長崎村本河内郷字一ノ瀬)【本河内郷有墓地内】
文政4年(1821)肥前国佐賀出身の僧:敬應が施主となり、念仏講の最山ら11人が奉仕し、八百屋町住民31名が願主として供養塔が建立されました。この塔の台座には願主となった八百屋町の住民の名字や名前を見ることができ、塔正面には念仏の「南無阿弥陀仏」が刻され、その上には浮き彫りの梵字を見ることができます。




A-251:西古川町廻国供養塔(にしふるかわまちかいこくくようとう)
本河内1-19-25付近(旧 長崎村本河内郷字一ノ瀬)【本河内郷有墓地内】
寛政7年(1795)長崎に住む僧:日鉢が施主となり西古川町の糸屋友次郎(運開)が願主として供養塔が建立されました。この年の7月19日。長崎は未曽有の大雨となり彦山や烽火山は山崩れとなり川は氾濫し、死者5名、家屋の流失166棟、石橋の流失8橋など甚大な被害が出た年で、おそらくその供養塔として建立されたものと考えられます。C-19:2005/05/29参照




A-250:昌源の供養塔群【本河内郷有墓地/花見塚横】
花見塚があるところは昌源という地名で、一字一石塔や三界萬霊塔、僧侶墓石などが置かれています。番号は蛍茶屋寄りから日見方向へ
@一字一石塔(いちじいっせきとう)
一字一石塔は一人一人の信者が一つの石に一文字ずつ文字を書き、その塔の下に埋め願いを掛けるというもので、塔の「南無妙法蓮華経」は日蓮宗のお題目で、塔は宝永5年(1708)本蓮寺第9代住持:日随によって開眼されました。死者などの供養塔になります。
A三界萬霊無縁塔(さんかいばんれいむえんとう)
塔の「南無阿弥陀仏」は浄土宗系の念仏で死者などの供養塔になります。
B徳明崖大和尚
この墓は僧侶墓所の特徴である卵形をしています。「宝暦〇〇十二月三十一日示寂」
※このほか「南無阿弥陀仏」塔、大乗妙典塔など3基の墓石があります。
C子安大師堂(こやすだいしどう)
子供を抱きかかえた弘法大師(子安大師)が置かれていて文政12年(1829)に建立されました。
DF廻国供養塔
長崎街道沿いの蛍茶屋界隈には複数の六十六部塔があって大小様々な形をしています。六十六部とはお経の一つである法華経(ホケキョウ)を66部、写経し、昔の日本国内にあるすべての国(66ヶ国)にある寺院を巡り、写経した経文を奉納する僧のことで六部とか回国、廻国などと呼ばれていました。これら六十六部塔は奉納した証として建立されてものと考えられます。D宝暦2年(1752)建立F文化14年(1817)建立
E宝筐印塔(ほうきょういんとう)
建立は寛保元年(1741)死者などの供養塔になります。施主は八百屋町住民「御当地以助力是建也」
G能仁寺住持墓所
上西山町にあった能仁寺の住持墓所で寛政4年(1792)建立




A-249:花見塚(はなみづか)
本河内1-18(旧 長崎村本河内郷字昌源)【本河内郷有墓地内】
花見塚は稲佐に住んでいた俳人:兎弓(トキュウ)の追善供養塔で、明和6年(1769)の逝去に対し代々舎門人の9人(宗右、烏憤、乕雲、○亭、新梢、亀髯、花月、兎明、布○)が建立し辞世の句が刻されています。
碑文上段「花見塚辞世/君が代よ 仏乃國の花見夥(カ)毛(モ)
碑文下段「風的斎兎弓居士は笹叟藤の 門人にし○千風の流れを濁さ 李雅○の恵みて一生を 安くし給ひぬ於戯○落 ○千風新雅風○○○ ○○残して語れる事を」




A-248:馬町地蔵堂(うままちじぞうどう)【馬町所有地】
馬町地蔵堂は別名を一ノ瀬地蔵堂ともいい、石の屋根と柱のみのお堂で、承応2年(1653)馬町の住民27人が町内安全のため本尊:延命地蔵菩薩を馬町に建立し元禄2年(1689)この地に移転したと考えられています。そして台座には創建もしくは移転100年を記念し天明9年(1789)に100回忌法要を行ったことが刻されていて、さらには享和元年(1801)には北馬町、南馬町両町の寄付により新築再建されています。ここには延命地蔵菩薩、六地蔵、観世音菩薩ほか一字一石塔、六十六部塔、三界萬霊塔などが置かれていましたが、平成元年(1989)の国道34号線拡張工事によって解体され、石像などの塔は渡り鳥塚と同じ場所に移設されお堂の再建はなされませんでした。石地蔵作者は龍華重興と本田吉左衛門。

南無観世音菩薩塔
宝永2年(1705)長瀧山霊源院(滝の観音)の信者が100日参拝を記念し建立したものです。

六地蔵像
この像は享保4年(1719)加賀国(石川県)金沢の上岳寺の圓龍を同師として建立された六十六部塔です。六地蔵とは六体の地蔵という意味ではなく、人には6種類の迷いがあって畜生、餓鬼、地獄、天上、人間、修羅の姿があるという教えです。
※このほか一字一石塔、六十六部塔、三界萬霊塔などはすべて死者などの供養塔になります




A-247:渡り鳥塚(わたりとりずか)
本河内1-19-27(旧 長崎村本河内郷字鞍谷)【馬町所有地】
渡り鳥塚は発句塚と呼ばれる句碑の一つで旧長崎街道沿いに建っていました。しかし日見新道や国道34号線の道路拡張などで移転を繰り返し現在地に落ち着いています。
渡り鳥塚は文化10年(1813)6月。馬町に住む平田祥禾(ショウカ)ら松尾芭蕉の門人たちが建立したもので、芭蕉没後119年後(120回忌?)、蕉門十哲の向井去来没後109年後(110回忌?)ことです。
碑文(正面)「めにかゝる雲や 志はしのわたり鳥 翁
(目にかかる雲やしばしの渡り鳥/芭蕉)
(左面)「故さとも今はかり寝や渡りとり 落柿舎
(ふるさとも今は仮寝や渡り鳥/去来)
(右面)「文化十とせの夏みな月蕉門の徒弟 こゝろを合わせ建けるよしを祥禾しるす」




隈治人句碑(くまはると-くひ)【松嶋稲荷神社境内】
熊治人(大正4:1915-平成2:1990)は長崎市出身で、昭和32年(1957)当時の日銀長崎支店長で俳人の金子兜太(コウタ)と出会い、その後は俳人として同人誌への参加など活動の幅を広げ、昭和46年(1971)自ら主宰する「土曜」を創刊します。現代俳句協会賞、日本薬剤師会賞、長崎新聞文化賞などの受賞歴を持ちます。
この碑は平成4年(1992)金子兜太氏らの手によって建立されています。
碑文「若竹の斜面かけのぼる風の俺だ




松嶋天満宮(まつしまてんまんぐう)【松嶋稲荷神社境内】
松嶋天満宮は菅原道真公を祭神とする学業増進などのご神徳があります。明治大正期に勧請されています。

於百大明神(おひゃくだいみょうじん)
於百大明神は子授け、安産、子育ての神として親しまれています。

三界萬霊供養塔(さんかいばんれいくようとう)
明治14年(1881)日見峠新道建設のため松嶋神社の境内の一部が開削されることになりますが、その際、多くの人骨が出土します。これら多くは無縁仏で、早速、工事請負らによって丁重に慰霊し仏像の建立となったものです。




不呆尊神(ふほうそんしん)【松嶋稲荷神社境内】
松嶋神社には不呆尊神という神像が置かれています。ご神徳として長寿とぼけ封じそして福をもたらす神として親しまれています。

池田可宵句碑(いけだ-かしょう-くひ)【松嶋稲荷神社境内】
池田可宵(明治33:1900〜平成8:1996)は山口県防府出身の川柳作家で、第2次大戦後長崎へ移住。長崎では川柳の発展に尽力し長崎県川柳協会などを設立します。また、朱竹画家としても有名な人物でした。
この句碑は末社になる不呆尊神にちなむもので平成5年(1993)松島宮奉賛会によって建立されました。
碑文「松嶋や呆けをしず免(メ)る 福の神




松島神社祠記念碑【松嶋稲荷神社境内】
この記念碑は大正9年(1920)松嶋神社奥の院(現存せず)の建設に当たり、建物の基礎石や柱石などの寄進者並びに寄付者を刻んだもので、当時のお金で総額1千円の費用を投じ建設されました。

稲荷山賛歌の碑(いなりいやまさんか-のひ)【松嶋稲荷神社境内】
この碑は平成4年(1992)に建立された稲荷山賛歌の歌碑で、歌は松嶋稲荷宮司:安高松楠によって作られ、書は松嶋楠城によるものです。歌は長歌(チョウカ=五七五で韻を踏み最後七で終わる形態)で、松嶋神社の祭神や足立半顔の句、季節の情景などが詠われています。




A-246:足立半顔句碑(あだちはんがん-くひ)【松嶋稲荷神社境内】
足立半顔(安政6:1859-大正10:1921)は東M町生まれで、本名を正枝、諱を知泰、通称を程十郎、半顔居士といいます。幼くして漢学、儒学を学び、19才で歌道を始め、上京し新聞記者として働きます。和歌から川柳、狂歌など幅広い分野に長け、晩年は国文学者として長崎入りし後進の指導に尽力します。また、大正10年(1921)宮中歌会始において歌を披露したことは有名です。
句碑ですが、裏面に故人名と「奉納百年祭」とあるところから地元有志の没後100年を記念し建立されたもので、大正初期建立と考えられます。
碑文「松風の里に琴柱(コトジ)の赤鳥居




松嶋稲荷神社末社【松嶋稲荷神社境内】
稲荷神社は冠に地名や勧請した人の名前、ゆかりのある名称など様々な名前がつくものが多く全国でその数4、5万社ともいわれています。祭神は基本的に宇迦之御魂大神(ウカノミタマノオオカミ)ですが、豊受大神(トヨウケノオオカミ)、保食大神(ウケモチノオオカミ)などいくつかの神と同一となっています。
松嶋神社にもたくさんの稲荷神の末社があって、三好大明神、氷川大明神、玉姫大明神をはじめ、六玉、六宝、六春、弥彦、松尾、於百、住吉、岩松、松若、玉姫、松姫、岩雪、若竹、雄基、野島、岩義、荒岩、稲妻、庄吉、彦姫稲荷などがお祀りされています。




松嶋稲荷神社の由来
言い伝えによると光雲寺は大宝元年(701)僧:行基によって開山した雲仙の満明寺の末院で、本河内に建っていましたが長崎開港後にキリシタンによって破却されたといいます。そして正保3年(1646)曹洞宗の僧:松雲宗融と晧臺寺の一庭が長崎奉行に願い出、出来大工町に再建します。一方、松嶋稲荷神社(大明神)も前年の正保2年(1645)に光雲寺の境内に勧請されたとあるところから、この稲荷神社も1000年以上の歴史があるともいわれています。また、この稲荷神社は元禄年間(1688-1704)大村の捕鯨家:松嶋與五郎が熱心に信仰をし、そういった経緯から松嶋稲荷と称したともいわれています。そして安政元年(1854)神のお告げによってもとあった本河内に移ったそうです。




A-245:松嶋稲荷神社(まつしまいなりじんじゃ)
本河内1-10-1(旧 長崎村本河内郷字大曲)
松嶋稲荷神社の創建は正保3年(1646)で往時より霊験あらたかな場所といわれ現在の参道付近に老樹があって稲荷神の祠が設けられていました。天保2年(1831)建立の鳥居や嘉永3年(1850)奉納の水盤など歴史は古く、安政元年(1854)に出来大工町の光雲寺境内にあった松嶋稲荷神社がこの地に移された後、松嶋稲荷神社と称するようになったといいます。本来は現在の国道34号線付近にあったのですが、道路拡張で数度の移転が行われ今に至っています。




A-243:馬頭観音堂(ばとうかんのんどう)
本河内1-13-5(旧 長崎村本河内郷)
馬頭観音堂の創建ははっきりしませんが、長崎街道近くということもあり馬車馬など交通安全の守り神として馬頭観音がお祀りされています。長崎四国八十八ヵ所霊場第七十番霊場

A-244:樋口大師堂(ひぐちだいしどう)
本河内1-13-10(旧 長崎村本河内郷)
樋口大師堂の創建ははっきりしませんが、樋口氏が勧請しお祀りしているお堂です。長崎四国八十八ヵ所霊場第五十番霊場

以上2か所は昭和28年(1953)延命寺(寺町)第22世住職:堤祐演が再興した長崎四国八十八ヶ所霊場の一つになっています。長崎四国八十八ヶ所霊場とは、四国八十八ヶ所霊場に行くことが困難な人のために開かれたもので、長崎四国八十八ヶ所霊場を巡ると四国と同じご利益があるといわれています。




A-242:日見峠/明治新道(ひみとうげ/めいじ-しんどう)
本河内〜芒塚〜宿〜日見〜田中町
江戸時代、日見峠は難所といわれ明治以降、開削は長崎近代化への早急な課題でもあり、明治14年(1881)長崎県令:内海忠勝は貿易商の松田源五郎らに要請し日見峠新道会社を設立します。工事は難航しますが翌15年(1882)に完成。1等国道(1級国道)に指定され工費約4万7340円のうち2万9000円が国庫助成金によって賄われ、残りは有料道路制を取り利用者負担とします。返還は15年とされ(のちに県が買収し無料化)日本最初の有料道路ともいわれています。この道路は一瀬橋起点-切通終点の道路で明治新道とも呼ばれ、通行料(道銭)は、通行人1名につき5厘。人力車一挺2銭。荷車3銭。牛車1銭5厘。乗馬3銭。駕籠2銭。馬車5銭で、掲示札には日本文、漢文、欧文で書かれ、付近住民には無料パス券が配布されました。また、道銭取立所(料金所)は本河内と日見に置かれ、現在のバス停名の番所はその取立所があったところでした。この道路は日見トンネルが開通する大正15年(1926)まで長崎の大動脈として使用されます。




A-241:豊澤廣助富之助の碑(とよざわ-ひろすけ/とみのすけ-のひ)
本河内1-13-34(旧 長崎村本河内郷)
この碑は嘉永7年(1854)浄瑠璃の義太夫節を手掛ける名家:豊澤家が大坂から長崎へ興行に来た際、その興行記念にと三代目豊澤廣助の弟子豊澤富之助が建てた碑で、碑文は自分の芸の未熟さを道端の枯れ尾花に見せかけた名人の謙遜の句が刻されています。建立の年には三代目豊澤廣助(文化2:1805-弘化3:1846)はすでに他界しており、その遺志を継いだ富之助が興行を進め、富之助はそのまま長崎に在住します。富之助は晩年、万屋町に住し愛谷龍甫と名乗っていました。
碑文「唐徒ね都類道に 能こ季てか禮乃者那
(たづねつる みちにのこりて かれのはな)
」石工は新橋町の上田亀次郎。




長崎甚句(ながさきじんく)
@送りましょうぞ送られましょうぞ せめて一ノ瀬イヨーあたりまで
A送りましょうか送られましょうか せめて藤棚のイヨー茶屋までも
B笠を手に持ち皆さんさらば いかいのお世話にイヨ−なりました
C荒木番所と箱根がなくば 連れて行きたいイヨーお江戸まで
D笠を忘れた蛍の茶屋に 空が曇ればイヨ−思い出す
E月に照らされ雪には降られ せめて言葉のイヨ−花なりと




A-240:蛍茶屋跡(ほたるぢゃや-あと)
本河内1-13-34(旧 長崎村本河内郷)
文化文政時代(1804〜30)に甲斐田市左衛門によって茶屋(=料亭旅館的な存在)が始められ、蛍の名所であったので蛍茶屋と呼ぶようになりました。当時、長崎の人はお見送りといえばこの蛍茶屋までで、この蛍茶屋惜別の宴を催し別れを惜しんだといい、長崎甚句の歌詞に登場します。また、画人:円山応挙(享保17:1732-寛政7:1795)が滞在した際、枕もとに出た幽霊の絵を描き、のちにそれは京都に残した愛人だったという逸話が残っています(※しかし応挙の来崎時期と蛍茶屋の創建時期が交差していません)。なお蛍茶屋は昭和の初めに廃業。甲斐田家墓所は七面山妙高寺




A-239:一の瀬口(いちのせぐち)
中川2/本河内1(旧 長崎村中川郷/本河内郷)
一の瀬口は一瀬橋を中心とした地域で橋の前後約32メートルの範囲は長崎市の史跡に指定されています。江戸時代は長崎街道の玄関口として栄え、現在は当時をしのばせる石碑や石仏が多数存在しています。一ノ瀬という地名は現在は使用されていませんが、瀬とは波打ち際の意味があり、一ノ瀬で最初に渡ることができる浅瀬という意味となり、その昔、ここまで潮が入っていたものと考えられています。市指定史跡。




A-238:一瀬橋(いちのせばし)
中川2/本河内1(長崎村中川郷/本河内郷)
一瀬橋は承応2年(1653)中国漳州(チャクシュウ)出身で唐大通事の陳道隆(チン-ドウリュウ=日本名:頴川藤左衛門)による寄付で架橋されました。これは前年に興福寺の檀徒で江蘇省蘇洲出身者が高麗橋を架橋し、一瀬橋架橋の翌年、祟福寺の大壇越:林守壂の中川橋(現 古橋)の架橋と関係が深く、お互いの意思表示にもなっていたものと考えられます。
もともと親柱は擬宝珠型でしたが、明治15年(1882)日見新道開通のとき角柱に変わり「ICHINOSEBASI」とローマ字が付記され和英併記の橋名となります。一瀬橋の存在は鎖国が解かれるまでの間、長崎にもたらされた異国文化を日本中へ広めた人々を文字通り橋渡しした橋で、江戸の日本橋、京の四条大橋と並ぶ重要な橋でした。




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