広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成21年 〜2009年〜
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A-285:蛤石(はまぐりいし)【飯盛神社境内】
蛤そっくりの形をした蛤石は豊前坊に伝わる伝説の石で、以前まではその所在は分かっていませんでした。昭和28年(1953)当時の飯盛神社奉賛会の副会長の五島作太郎氏らが飯盛山山中から発見し境内に持ち込まれました。蛤石を撫で、祈願すれば万病が治るといわれています。

参道改修記念碑【飯盛神社境内】
この記念碑は大正10年(1921)榎津町の古川常太郎が発起人となり信者116人らの寄進で本河内から社殿までに石畳、石段を設ける工事が行われその記念になるものです。




A-284:両国関初土俵力験之石
(りょうごくぜき-はつどひょう-ちからだめしのいし)【飯盛神社境内】
この石は昭和3年(1928)本河内町出身の力士:両国関が力験しのために持ちあげた石で、高さ0.96メートル、幅1.2メートル、重さは100超キロメートルの石です。
両国関(明治40:1907-昭和34:1959)は本名を太田勇夫といい、高等小学校卒業後、船会社で仲仕として働き、その後、出羽の海部屋に入門し昭和3年(2928)国技館で「瓊ノ浦(タマノウラ)」の四股名で初土俵を踏みます。そして昭和11年(1936)11代目両国梶之助を襲名し、小結、関脇まで昇進しました。得意技は豪快な櫓(ヤグラ)投げで、引退後は待乳山(マツチヤマ)を襲名しました。




A-283:丁場大師堂(ちょうばだいしどう)【飯盛神社境内】
丁場大師堂は飯盛神社の下方にある大きな岩の空洞の中に位置し、その昔ここが石場(採石場:石丁場)で仏体はその作業犠牲者のためのものといわれています。創建は大正7年(1918)で石祠のお堂を昭和初期までは尼僧:小森スエがお堂横に庵を構え管理されていました。昭和5年(1930)には石工:佐藤定雄による不動明王、観世音菩薩、釈迦如来などの磨崖仏が刻され当時の信仰の厚さを物語っています。当時の寒行稲荷施行では小豆御飯が振る舞われたり、本河内の青年部が先達となり地元の神社(英彦山神社・奥山秋葉神社・松嶋稲荷神社)を参詣するお巡りがありました。なお、丁場大師堂は長崎四国八十八ヵ所霊場の12番札所に指定され豊前坊下不動堂と称されていて、岩場には昔の参道跡として鎖金具を見ることができます。




A-282:稲荷大明神【飯盛神社境内】
飯盛神社(豊前坊)には2つの稲荷社があって、一つは飯盛神社社殿横にある朝日森稲荷大明神と参道中腹にある岩倉稲荷大明神です。
朝日森稲荷大明神は江戸時代の本覚寺豊前坊時代からお祀りされている稲荷神社で、石祠には文政4年(1821)の年号が刻され石灯籠には元文5年(1740)奉納のものがあります。
岩倉稲荷大明神の創建は不明ですが、大正4年(1915)に再建した記念碑があるところから古来より本河内村(郷)の人々に信仰されている神社と考えられます。祠横には湧水も見られます。




A-281:不動明王堂(ふどうみょうおう-どう)【飯盛神社境内】
飯盛神社(豊前坊)には2つの不動明王堂があって、一つは飯盛神社社殿横にある荒田不動明王堂と社殿下にある浪切不動明王堂です。おそらく祭神の不動明王は江戸時代の本覚寺のもので、明治維新の廃仏毀釈によって仏像群は破却もしくは取り除かれ社殿とは離れた場所に安置されたものと考えられます。なお、登山道中腹には行場(ギョウバ)つまり滝に打たれる行(修行)の場が設けられ、不動明王信仰に関係のあるところでもあります。なお、荒田不動明王堂は長崎四国八十八ヵ所霊場の45番札所に指定され豊前坊上不動堂と称されています。




A-280:三十番神堂(さんじゅうばんしん-どう)【飯盛神社境内】
三十番神とは日蓮宗を中心として信仰されている神で30柱(ハシラ)の神の集合体を意味し、一カ月30日間交代で法華経を守護する神といわれています。三十番神の内訳は次の通りです。
1熱田大明神2諏訪大明神3広田大明神4気比大明神5気多大明神6鹿島大明神7北野大明神8江分大明神9貴船大明神10天照皇大神11八幡大菩薩12加茂大明神13松尾大明神14大原大明神15春日大明神16平野大明神17大比叡大明神18小比叡大明神19聖真子権現20客人大明神21八王子権現22稲荷大明神23住吉大明神24祇園大明神25赤山大明神26健部大明神27三上大明神28兵主大明神29苗鹿大明神30吉備大明神




A-279:英彦山神社/飯盛神社(ひこさん/いいもりじんじゃ)
本河内2(旧 長崎村本河内郷字豊前坊)
明治維新を受け本覚寺第17代豪教は長崎裁判所総督の澤宣嘉の許可を得て、英彦山飯盛山にあった本覚寺の末寺をそれぞれ英彦山神社飯盛神社と改称し、仏式の構造を神式に改装し僧侶は神主に変わります。明治7年(1874)壇信徒を持たなかったため維持困難となり英彦山山頂の御霊を飯盛神社(豊前坊)に合祀し、以降、本河内の有志によって管理が行われるようになります。なお、英彦山山頂には石祠のみ存在して荒廃しています。




A-278:天台宗如意山本覚寺跡(にょいざん-ほんかくじ-あと)
元和元年(1615)天台宗の僧:大賢坊厳盛は現在の福岡県英彦山から英彦山大権現を勧請し、八百屋町に如意山正覚院神地寺を建て創建となります。寛延元年(1748)炉粕町8,9付近に移り本覚寺と改めます。5代:日照坊覚潭は飯盛山に豊前坊(ブゼンボウ)を勧請し享保4年(1719)にお堂を建立し、寛延元年(1748)地元の若杉氏より眉山飯盛山一帯の寄進を受け財産とします。明治維新を受け、本覚寺は廃寺となり英彦山と飯盛山に置かれたお堂は英彦山神社と飯盛神社となります。




A-277:飯盛山(いいもりやま)
読んで字の如く御飯を持った形の山で長崎の市街地から見て彦山の左横に並んで控える山です。標高は約350メートルの山で山頂付近に豊前坊(飯盛神社)をお祀りしているところから別名を豊前坊といいます。山頂は高く険しい岩が林立し霊験あらたかな山といわれています。北は本河内、南は田手原に接しています。今では飯盛山より豊前坊を呼ぶ方が一般的になっています。




A-276:彦山/英彦山(ひこさん)
彦山英彦山とも書き標高402メートルの山で長崎市街地の東に位置し、寛延元年(1748)頂上に福岡県英彦山から英彦山大権現をお祀りされると彦山/英彦山と呼ばれるようになりました。また、当時、山頂の様子が鍋をかぶったように木々が茂っていたところから鍋山や、中国の峨眉山に似ているところから眉嶽といったり、山の周りに雲がたなびいている様子が眉を引いたように見えたため眉山と呼ばれ、それが訛って舞嶽(マイダケ)とも呼ばれていました。また、彦山は月の出を知る山であるところから月見に欠かせない山で、長崎奉行所勘定方であった大田南畝(蜀山人)は次の歌を作っています。
わりたちもみんな出てみろ今夜こそ彦さんやまの月はよかばい 四方赤良(ヨモノアカラ=蜀山人)」




A-275:上宮参道記念碑
昭和15年(1940)皇紀二千六百年を記念して英彦山神社の参道整備工事が行われました。皇紀とは日本書紀に記された日本独自の紀元のことで、第1代神武天皇が即位した年(西暦紀元前660年)を元年とします。皇紀二千六百年は昭和15年(1940)に当り、当時の日本は日中戦争から太平洋戦争へと戦況が激化する頃で、全国で皇紀二千六百年記念行事が行われました。これは国威高揚の政治的意味合いが大変強い行事だったのです。工事は一の鳥居から二の鳥居までの参道を拡幅整備したもので浄財の総額は905円、住民の奉仕活動で完成しました。碑文字は諏訪神社宮司:菅貞幸によります。




A-274:観世音大士堂(かんぜおんだいしどう)
本河内2-6(旧 長崎村本河内郷字綱切)
彦山登山口(英彦山神社参道口)にある一の鳥居横にあるお堂を観世音大士堂といいます。お堂の中には自然石に「十一面観世音大士」と刻された本尊があって文政4年(1821)本河内村の小森伊之助によって建立されています。また、堂内には享保15年(1730)に建立された供養塔の一字一石塔もあり、両方とも長崎街道や英彦山神社参道口に置くことで多くの人々に祈念してもらおうという願いがあるものと考えられます。




A-273:英彦山神社参道(ひこさんじんじゃ-さんどう)
国道34号線の番所バス停付近から彦山(英彦山)および豊前坊に向かう登山道があって、頂上に英彦山神社があるところから登山道入り口には一の鳥居、日見新道(旧道)には二の鳥居がそれぞれ建っています。一の鳥居は安永9年(1780)に建立されたもので当初は長崎街道沿いに建っていて、その位置は水源地に水没しています。二の鳥居は天明6年(1786)炉粕町の本覚寺(A-126:2003/10/01)内に建立されたもので、明治維新を受け廃寺となり後五島町の松本卯市と末広町(現 出島町の一部)の御厨萬之助らが購入し松嶋神社に奉納するのですが、鳥居額面に「英彦山神社」とあることから英彦山神社参道に奉納となりました。




五島大師堂(ごとうだいしどう)
本河内2-5-30【五島氏宅】
大正6年(1917)五島作太郎によって創設され、代々五島氏によってお祀りされています。長崎四国八十八ヵ所霊場第二十七番霊場

小森観音堂(こもりかんのんどう)
本河内2-18-8【小森宅】
小森観音堂の創建ははっきりしませんが、小森氏が勧請しお祀りしているお堂です。長崎四国八十八ヵ所霊場第六十七番霊場

山の神堂(やまのかみどう)
本河内2-16-41
山の神堂の創建ははっきりしません。長崎四国八十八ヵ所霊場第五十一番霊場

以上3か所は昭和28年(1953)延命寺(寺町)第22世住職:堤祐演が再興した長崎四国八十八ヶ所霊場の一つになっています。長崎四国八十八ヶ所霊場とは、四国八十八ヶ所霊場に行くことが困難な人のために開かれたもので、長崎四国八十八ヶ所霊場を巡ると四国と同じご利益があるといわれています。




A-272:キリシタン地蔵【聖母の騎士学園】
コルベ神父は昭和5年(1930)に来日し布教活動をはじめ、翌6年(1931)本河内町に土地を購入し聖母の騎士修道院を開設するのですが、その土地には地蔵菩薩がお祀りされていたため本河内の住民によって丁重に彦山登り口に移されます。昭和11年(1936)敷地内に小神学校が開設されたとき、偶然にも地蔵菩薩があったところから十字架が発見され、おそらくキリシタンが持っていたものといわれています。なお、その十字架は縦11.5センチメートル、横5.8センチメートルの大きさで、キリスト像はすり減って丸みを帯びていましたが現在では聖母の騎士修道院の宝物として大切に保管されています。




A-271:ルルド【聖母の騎士学園】
ルルドとはフランス南部の小さな町の名前で、そこにある泉をルルドの泉といい、現在では大聖堂が建てられカトリックの巡礼地の一つとなっています。1858(安政5)年ルルド近くの町:マッサビエールの洞窟で、そこに住む少女ベルナデッタが無原罪の聖母と出会います。そしてある場所を掘るようにお告げを受け掘ってみると泉が生れ、その泉を飲むと多くの人々の病が回復するという奇跡が起こったそうです。その後、カトリックの教会近くにはこのルルドの泉を模した泉が作られ、信者の祈りの場、黙想の場として親しまれています。なお、聖母の騎士修道院のルルドでは、ルルドのマリアではなく無原罪のマリアが置かれています。




A-270:教皇ヨハネ・パウロ二世ご訪問記念碑【聖母の騎士学園】
昭和56年(1981)ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世はフィリピンのマニラにおいて長崎の西坂で殉教した26人の列福式を執り行い、その後、日本に初来日します。東京、広島を経て長崎入りし、2月26日、大雪の中、松山陸上競技場の特設祭壇にてミサを執り行い、約47,000人の信者が集まりました。また、聖母の騎士修道院にも足を運ばれコルベ神父を称えられました。この記念碑はローマ教皇ヨハネ・パウロ二世の来崎を記念して建立されました。




A-269:聖コルベ記念館【聖母の騎士学園】
昭和46年(1971)10月17日、ローマ法王庁はコルベ神父を「福者」、さらには昭和57年(1982)10月10日、教皇ヨハネ・パウロ2世によって「聖者」の位が授けられ長年の功績が称えられます。聖母の騎士修道院内にはコルベ神父の遺品や滞在時の部屋を再現したコーナー、アウシュビッツでの様子などコルベ神父の足跡が分かる聖コルベ記念館が昭和61年(1986)建てられ、敷地内には列聖記念碑をはじめ、コルベ神父の胸像、及び銅像が建っています。




マキシミリアノ・マリア・コルベ
ポーランド人でキリスト教神父のマキシミリアノ・マリア・コルベ(1894-1941)は、昭和5年(1930)布教活動のため修道士を伴い長崎入りし、初めは南山手町の十番館に滞在し布教のための月刊誌「聖母の騎士(ニエボカラスフ)」発刊します。翌6年(1931)本河内町に土地を購入し現在の聖母の騎士修道院を開設。その後も出版と布教活動に尽力し、昭和11年(1936)ポーランドのニエポカラヌフ修道院長に選ばれ帰国します。第二次世界大戦が勃発すると、神父はアウシュビッツ収容所に連行され、その時、死刑を言い渡された一人の若い父親の身代りとなって餓死の刑を引き受け殉死するのです。享年47。ローマ法王庁は昭和46年(1971)コルベ神父を「福者」、昭和57年(1982)には「聖者」の位を授けコルベ神父の功績を称えています。




A-268:聖母の騎士修道院(せいぼのきし-しゅうどういん)
本河内2-2-1(旧 長崎村本河内郷字大曲)
昭和6年(1931)ポーランド人キリスト教神父マキシミリアノ・マリア・コルベによって聖母の騎士修道院が創設されます。当初は木造平屋建のバラック造りで修道士たちの寝室は屋根裏部屋でした。また、昭和5年(1930)の来日時より始めた布教活動も功を奏し信者も増え、昭和7年(1932)には木造3階建ての本格的な修道院やルルドの泉も完成し充実した施設となります。当時、本河内の人々は聖母の騎士修道院を親しみをこめて「ポーランド」と呼んでいたそうです。昭和11年(1936)には聖母の騎士小神学校が設立され、昭和22年(1947)に聖母の騎士中学校、昭和24年(1949)に聖母の騎士高等学校が開校され、信仰心を大切にした人間教育に力を注いでいます。




A-267:子安大師堂(こやすだいしどう)
本河内2-1-26(旧 長崎村本河内郷字大曲)【藤原氏宅】
愛媛県小松町にある四国八十八ヶ所霊場第61番札所の香園寺に安置されている弘法大師像は昔から子安弘法大師と呼ばれています。その昔、この地で修行していた弘法大師が難産で苦しむ女性と出会い、哀れに思った弘法大師は中国唐より持ち帰った金の大日如来像を寺の本尊の大日如来の胎内に納め祈願すると安産で元気な男の子が生まれたといいます。
本河内の子安大師堂は藤原氏によってお祀りされたもので、長崎四国八十八ヵ所霊場第六十一番霊場に指定されています。




A-266:中川家墓所(なかがわけ-ぼしょ)
本河内2-1(旧 長崎村本河内郷字一ノ瀬)
中川家初代:中川安五郎(明治12:1879-昭和38:1963)は雲仙市国見町出身で、若くして長崎入りし和菓子などの修業を始めます。明治31年(1898)福砂屋に入り、明治33年(1900)独立を果たし文明堂を丸山町に開業します(のちに馬町→船大工町→大波止に移転)。文明堂は特に広告宣伝に力を入れ、全国の国鉄沿線沿いに立て看板を出したり、さらには宣伝隊などを作り「カステラの文明堂」の名を全国に知らしめます。その後、全国展開にも成功し文明堂は今やカステラの代名詞にもなりました。




A-265:谷口青之助句碑(たにぐちせいのすけ-くひ)
谷口青之助(明治18:1885-昭和33:1958)は長崎市榎津町(現 万屋町付近)出身で、早稲田大学卒業後、松嶋炭鉱に入社。仕事のかたわら作句活動を続け西柳樽寺川柳会を創設し、長崎新聞や東洋日の出新聞の選者となります。その後、石炭販売経営、信用金庫支配人などに就き昭和7年(1932)長崎商工会議所に入ります。以降も各新聞の選者や同人誌の創刊し、昭和30年(1955)長崎川柳作家連盟の初代会長に就任します。この句碑は昭和33年(1958)長崎川柳作家連盟により旧番所橋バス停付近に建立され平成3年(1991)日見バイパス工事によって現在地に移設されました。碑文「凡人にならう野を越え山を越え 青之助




A-264:岱雲の稲妻の句碑
稲妻の句碑発句塚と呼ばれる句碑の一つで旧長崎街道沿いに建っていました。しかし日見新道や国道34号線の道路拡張などで移転を繰り返し現在は宝筐印塔内に移設されています。
二宮岱雲は江戸時代末期の天保〜嘉永年間(1830-1853)に活躍した長崎の俳人で長崎街道のほか茂木街道にも句碑が残っています。碑は田神連が嘉永2年(1849)に建立。その後、明治14年(1881)日見新道工事、大正13年(1924)日見トンネルを含む国道改修工事、平成3年(1991)日見バイパス工事によって現在地に落ち着きました。
碑文「稲妻や お佐まるもとの あ禮はこそ 岱雲




宝筐印塔移設の経緯
宝筐印塔は当初、現在地の日見寄り約50メートルの旧長崎街道沿いにあって、明治18年(1885)の日見新道建設でそこからさらに約200メートル日見寄り(英彦山参道口)に移転します。このとき当時の三菱長崎造船所によって作業が行われていて宝筐印塔横に移設記念の碑に「三菱人足中」と刻されています。さらに大正13年(1924)日見トンネルを含む国道改修工事で再度、横にずらされ、そして平成3年(1991)日見バイパス工事によって現在地に落ち着きました。




豪潮(ごうちょう)
楞厳院大阿闍豪潮(リョウゴンイン-ダイアジャリ-ゴウチョウ)は寛延2年(1749)肥後国(現 熊本県)玉名郡山下村出身で、安養寺の塔頭の専光寺に生れ、7才で出家し、16才の時、比叡山に入ります。数十年の修学で法院大和尚という高い位に叙せられます。その後、豪潮は全国に生涯にわたって宝筐印塔の建立を続け、生涯に2000基余りの塔を建立します。長崎市内には清水寺(現 鍛冶屋町)、禅林寺(現 寺町)、中島天満宮(現存せず)、春徳寺(現 夫婦川町)、晧台寺(現 寺町)などに建立した記録があります。なお、宝筐印塔とは宝筐印陀羅尼経という経典を説くもので、その経典を埋め込み石、木、金、銀、銅、鉛で塔を作り上げると極楽に往生し百の病と万の煩悩が消滅するといわれています。




A-263:本河内宝篋印塔(ほんごうち-ほうきょういんとう)
本河内2-1(旧 長崎村本河内郷字一ノ瀬)
宝筐印塔は文化8年(1811)本籠町(現 籠町)の中村盛右衛門仲凞(ナカヒロ)、嘉右衛門茂済(シゲナリ)親子が造塔施主となり、肥後(熊本県)の僧:豪潮が建てた供養塔で長崎で最大級の塔といわれています。中村家は唐人屋敷に出入りする薬種商でのちに長崎会所上納金為替御用達となり「金の中村」の異名を持つ豪商でした。また、中村家は唐人屋敷と取引をしている関係上、願文には唐船航海安全と記されていて、それには文化5年(1808)のフェートン号事件の影響で唐船が減少したことや同7年(1810)の大洪水などが影響しているものと考えられています。なお、この宝筐印塔は日見新道や国道工事などで再三の移転を強いられこの場所で4か所目(4回目)です。市指定文化財。




A-262:大橋宗銀墓所(おおたそうぎん-ぼしょ)
本河内2-1(旧 長崎村本河内郷字一ノ瀬)【本河内郷有墓地内】
大橋宗銀(?〜天保10:1839)は東武(武蔵国:東京都-埼玉県)出身で、旅先の長崎で死亡しこの長崎街道沿いに葬られました。
大橋家の初代:大橋宗桂は将棋の始祖といわれ、江戸時代は幕府の保護のもと確立していきます。その中に十代:大橋宗桂(安永4:1775-文政元:1818)を襲名した人物は前名を大橋宗銀といいますが、墓石の没年と時代が合わないため、その後の子孫の誰かの墓所ではないでしょうか。
墓碑「六段上手 大橋宗銀居士/天保十年乙亥年十一月廿三日 東武産而客死長崎




一の瀬無縁塔供養塔群
一の瀬無縁塔周辺には4基の塔が建っていて大正11年(1922)国道改修工事よって現在地に移ったものと考えられています。
@大乘妙典六十六部日本廻国塔:寛政9年(1797)建立
※台座の上の唐獅子が特徴・寛政第2大水害の翌年
A南無妙法蓮華経塔:延享2年(1745)建立
※墓石
B大乗妙典一字一石塔:寛保元年(1741)建立
C南無妙法蓮華経高願処:宝永8年(1711)建立




一の瀬無縁塔石仏像
一の瀬無縁塔は当初、松嶋稲荷神社の南側にありましたが大正11年(1922)国道改修工事よって現在地に移り、開通によって旧街道の通行者が減り塔周辺は荒廃します。平成元年(1989)茂木町にある蓮聖院住持:一ノ瀬蓮聖師が発起人となり取り外された仏像の復元がなされ、石像として設置されます。一ノ瀬氏の先祖は本河内村字一ノ瀬出身だったこともあり、その縁から復元運動がすすめられ檀家や市民など多くお浄財が寄せられました。




A-261:一の瀬無縁塔/お亀の塔(いちのせむえんとう/おかめのとう)
本河内2-1(旧 長崎村本河内郷字一ノ瀬)【本河内郷有墓地内】
寛文2年(1662)1月。長崎で痘瘡(天然痘)が大流行し子供を中心に2,318人もの死者を出しますが、同年7月。長崎の総町は死者の供養のため一の瀬無縁塔を建立します。石塔正面に釈迦如来像と「南無釈迦牟尼佛」の文字、左側に阿弥陀如来像と「南無阿弥陀仏」の文字、右側に観世音菩薩像と「南無観音菩薩」の文字、裏面に地蔵菩薩像と「南無地蔵菩薩」の文字が施され、各仏像は青銅製で、作は赤星宗徹といわれていますが、その孫の亀女の作ともいわれ、ここからお亀の塔とも呼ばれています。正面文字は祟福寺開法:即非如一、左面文字は祟福寺第4代住持:千呆性安(比丘曇璲)、右面文字は祟福寺第5代住持:化林性英、背面文字は祟福寺末庵開基:碧崖によるものです。なお、50年後の寛文2年(1662)長崎でやはり痘瘡が大流行(死者3000人)。このとき建てられたのが茂木街道の茂木無縁塔です。このように2つの塔は街道の入口に立てられていますが、これは市街地への疫病の進入を防ぐ意味があります。昭和29年(1954)はめ込まれていた青銅仏のうち地蔵菩薩像が盗難に遭い行方不明となったため、残り3体は取りはずして長崎歴史博物館に保管されています。市有形文化財。




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