広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成21年 〜2009年〜
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A-316:吼牛山伝説(もうしやまでんせつ)
日見峠の南側に吼牛山という山がありますが、その昔、一人の少年が毎日主人の牛を野山に放牧させていました。ある日、一頭の牛を誤って逃がしてしまい、あわてて追いかけますが見失ってしまいます。そのことを主人に話したところ少年を叱り飛ばし再び牛を捜すよう命じ、少年は何日も山の中を捜しますが見つけ出せず、ついに道に迷い凍死しそして妖怪と化すのです。妖怪は哭子(ナキコ)と呼ばれ、霧深い雨の日には泣き声が山に響き、その姿は頭は童子で体が黒く手に短い縄を持っていたといいます。




A-315:一切宗大日山善覚寺(いっさいしゅう-だいにちざん-ぜんかくじ)
本河内3-45-32(旧 上長崎村本河内郷字モウシ山) 
一切宗は真言宗から独立した一派で、善覚寺は昭和8年(1933)僧:善覚によって創建された寺院です。境内には不動明王をはじめとする石仏群があり、荒行のための一切不動の滝があります。

長崎西国三十三観音霊場
長崎西国三十三観音霊場とは、関西を中心とした西国三十三観音霊場に由来したもので、長崎市内にある観音堂33ヶ所をお巡りするものです。善覚寺には第14番霊場があります。また、日見峠寄りには第15番霊場があります。




A-314:峠の茶屋跡(とうげのちゃや-あと)
西の箱根と称される日見峠ですが、峠の東側に1軒(梨の木茶屋)、頂上に1軒(肥前茶屋/筑前茶屋)、峠の西側に2軒(新茶屋/下り新茶屋)の茶屋があって旅人の休憩に備えていました。なお、峠には当時を物語る茶屋跡と考えられている石垣や湧き水が残っています。




A-313:日見関所跡(ひみせきしょ-あと)
本河内3/芒塚町(旧 上長崎村本河内郷字峠)
長崎入りする者のほとんどは日見峠を利用していましたが、江戸時代末期、外国船来航や内政の混乱などの影響から浪人者が外国人襲うとのうわさが流れ、また、勤王志士を監視するため文久3年(1863)峠に関所が設けられました。その際、奉行所手附や地役人が担当をしていましたが他の関所ほど厳しさはなかったといいます。明治元年(1868)廃止。なお、峠には当時を物語る関所跡役人屋敷跡と考えられている石垣が残っています。




A-312:日見峠/日見嶺(ひみとうげ/ひみみね)
日見峠は俗称で本来は日見嶺といい永禄11年(1568)に初めて道が拓かれ、長崎警護のため長崎入りする鍋島黒田両藩は毎年2回この峠を通過し頂上で休息を取っていたといいます。標高は約250メートルで上り1里下り1里(1里=3927.27m)、上り七曲り下り七廻りと称される難所で、東の箱根に対し西の箱根と称されるほどでした。天正6年(1578)深堀純賢が長崎甚左衛門純景を攻めようと深堀から海路網場入りした際、たくさんのかがり火によって大群衆がいるかのように思わせたといい、その火を見たことから火見と呼び、のちに日見となり日見の嶺と呼ばれるようになります。また、八朔(旧暦8月1日)は徳川家康が江戸城に入場した日で、長崎では日見峠から「日拝み」と称しご来光を拝む習慣が昭和初期までありました。そのほか昔は橘湾に不知火が現れていて多くの文人墨客が鑑賞のため峠に集い、当時は火見峠と呼んでいました。このほか長崎奉行の送迎では長崎の地役人は立山役所からこの峠まで送迎することが常となっていました。




A-311:地震石神神社
本河内3(旧 上長崎村本河内郷字峠) 
江戸時代初期、寛永末期(1640頃)に創建したと伝えられていて祭神は地震神(ナイフリノカミ)大明神石神(イソノカミ)大明神でこの峠地区の氏神さまです。相殿には稲荷大明神もお祀りされ、石祠は明治28年(1895)、お社は昭和61年(1986)に改築されています。なお、石祠には石鏡があって「御夢想地震神/石神大明神」と刻されています。例大祭は6月15日、11月15日

○御大典記念碑
昭和3年(1928)昭和天皇の御大典を記念して峠地区の青年会が建立しています。




A-310:高野平観世音奥の院
本河内3/芒塚町(旧 上長崎村本河内郷字狸廻)
西トンネル口から青山不動方向へ山道を進み青山不動の二股を右に進むと、中尾峠と日見峠に分かれる二股があります。そこを日見峠方向へ右に進んだところに桜林があり、その林の小高い所に一つのお堂がありますが、そこを高野平観音奥の院といいます。お堂の中には石像がお祀りされて高野平地区の住民によって管理されています。




A-309:三ツ山四つ峠(みつやま-よつとうげ)
三ツ山四つ峠とは長崎市街地の東北にそびえる帆場岳を中心とする三つの山(実際は四つの山)と、そこに東側からつながる四つ峠のことをいい、四つ峠とは日見峠、中尾峠、木場峠、現川峠(西山峠)をいいます。日見峠は本河内(高野平)から芒塚日見方面、中尾峠は本河内(奥山)から中尾矢上方面、木場峠は西山木場から中尾矢上方面、現川峠は西山三川から現川方面へとそれぞれを結ぶ交通の要所で、日見峠を除き主に農家が農作物を運ぶために利用していた道でした。




日支事変記念碑【青山不動奥之院】
日支事変は日中戦争ともいい太平洋戦争(第二次世界大戦)の発端となった事件で昭和12年(1937)盧溝橋事件により日本と中国の間で始まった戦争をいいます。
昭和15年(1940)日支事変に対し高野平地区の青年団員が多く出征したことで武運長久を祈念し、また、紀元2600年と青年団創立25周年を記念してこの記念碑が建てられました。なお、記念碑裏面にはたくさんの出征軍人、青年団員、賛助員の名前が刻されています。




A-308:青山不動明王奥之院(おおやまふどうみょうおう-おくのいん)
本河内3(旧 上長崎村本河内郷字狸廻)
妙相寺前面にある山(分紫山)には以前まで妙相寺上宮があって青山(オオヤマ)不動明王がお祀りされていました。創建は不明ですが、大乘妙典塔には文化9年(1812)の年号を見ることができます。明治34年(1901)妙相寺本堂の背後にお堂を設け遷宮しますが、遷宮後、信者に分紫山に帰りたい旨のお告げがあり、高野平地区(西トンネル付近)の住民によって再び不動明王がお祀りしお堂が設けられています。
江戸時代、烽火山に烽火台が開かれ一般の人が登れなくなったとき、七面山巡りはこの青山不動だったといいます。また、嘉永4年(1851)建立の常夜灯には蘭船海上安全の銘が刻してあります。A-298:2009-2/25参照




智徳碑(ちとくひ)【高野平観音堂】
智徳碑は大正4年(1915)地区の峠高野平青年会の創立記念に建立されたもので、智徳とは一般には知識と道徳を指しますが、ここでは仏さまの力と訳していいのではないでしょうか。

御大典記念灯篭【高野平観音堂】
昭和3年(1928)昭和天皇の御大典を記念して高野平、峠の両地区の青年会が建立しています。




飾りそおめん/ソーメン飾り
飾りそおめん」はこの地方に伝わる風習で飯香浦や太田尾に伝わるものは特に有名で長崎市の無形民俗文化財に指定されています。地元民が生もののソーメンを丹念に組み込むお飾りで地区によってその手法は様々です。一般にソーメン桃饅頭、お団子などを盛り上げる形式で、飯香浦や太田尾地区は6月頃のお地蔵さまの縁日に、高野平地区は10月の観音さまの縁日に行われています。




A-307:高野平観音堂(こうやびら-かんのんどう)
本河内3-37(旧 上長崎村本河内郷字高野平)
正保2年(1645)大音寺開山の傳譽関徹が本尊である十一面千手観音をお祀りしたことにはじまり、享保10年(1725)には地元の女人講が観音菩薩をお祀りしています。一方、明暦2年(1656)には高野平観世音講が設立され運営が行われるようになり、毎年10月23日前後の祭礼の際には「ソーメン飾り」と「饅頭飾り」というこの土地独自の風習のお祭りがあります。また、以前まで地蔵祭の際、お堂脇のタブノキの葉を千枚集め供える「タブの木様」という風習がありましたが昭和初期に衰退しています。




A-306:隧道建設記念碑(ずいどうけんせつきねんひ)
トンネル西口には大正15年(1926)完成当時の長崎県知事:富永鴻による石板の隧道建設記念碑がありました。残念なことに昭和33年(1958)長崎県知事に就任したばかりの佐藤勝也名で記念碑再建が行われ取り換えられていて、トンネル上部にある名板も佐藤勝也に変更されています。再建碑には日見トンネル開通までの経緯が刻され先人の功をたたえています。




第25号国道改修工事B
国道の改修、トンネルの開通によって日見新道(明治新道)の利用に比べ距離にして約2.7キロメートル、徒歩3時間が2時間弱、金額にして年間約14万円(今のお金にして9000万円)の経済効果が得られ快適で安全な道路が誕生しました。その一方で、地元の本河内地区では住宅や商店、分校、墓地の移転や分断、宝筐印塔や観音堂など文化財が散逸し、以降、交通公害などで悩まされることになります。さらに、第二次大戦末期、トンネルの片側が仕切られ三菱重工業長崎兵器工場が置かれたこともありました。現在は日見バイパスの開通で国道から県道長崎芒塚インター線(116号)へと降格になりましたが現役の道路として利用されてています。




第25号国道改修工事A
今工事の最大の工事となるトンネル(隧道)掘削工事は技術力と信用性が考慮され指名競争入札制がとられ大分土木株式会社が落札します。長崎県の直轄工事として大正13年(1924)3月23日に工事が始められ、特段大きな事故などはなく大正15年(1926)3月31日竣工します。当時の寸法で言うところの延長352間(640.0メートル)、幅員24尺4寸(7.39メートル)、中央の高さ19尺2寸(5.82メートル)で、トンネルの上部(アーチ部)はコンクリートブロック(0.29m×0.15m×0.22m)で固められ、下部はコンクリートを打設。材料のセメントは日本セメント、砂は矢上村東房ノ浜(旧東望ノ浜海水浴場)産を使用します。昼夜作業で一日平均約1.06メートル掘削し、東口より321日、西口より301日で貫通を迎え高低などの誤差はほとんどなく、日本最初の人道トンネルが完成を迎えます。最終工事費は482,601円(今のお金にして約3億円)。




A-305:第25号国道改修工事@
本河内〜芒塚町(旧 上長崎村本河内郷〜日見村)
明治15年(1882)の日見新道(明治新道)の開通で馬車や人力車などの車の通行が可能となり長崎区は矢上諫早方面との物流が盛んになります。しかし自動車などの交通の発達でカーブなどの峠道は危険が多く利用者からトンネルや道路改修が叫ばれるようになります。明治39年(1906)日見峠を利用する上長崎、日見、矢上、古賀、喜々津、戸石、田結、江の浦の各村は連名で長崎県会に建議しますが工事費16万円は民間負担では大きく決議は断念されてしまいます。大正8年(1919)道路法が公布され国府県道は改修工事に対して国庫補助金から補助されることになり日見峠の改修工事計画が改めて進められることになり、大正11年(1922)長崎市中川郷(現 中川町蛍茶屋電停付近)から始められ大正13年(1924)本河内郷字高野平(現 トンネル西口付近)まで完成します。




A-304:青山不動明王奥之院石門跡
本河内3(旧 上長崎村本河内郷字高野平)
妙相寺前面にある山(分紫山)には以前まで妙相寺上宮があって青山(オオヤマ)不動明王お祀りされていました。参道は妙相寺方向から頂上に向けて石段の階段がありますが(荒廃中)、信仰者の多い高野平地区(西トンネル口周辺)からも参道があって国道34号線のトンネル西口バス停そばには以前まで入口を示す石門がありました。明治34年(1901)お堂は妙相寺本堂の背後に移転しますが高野平地区の住民によって再び不動明王がお祀りされることになりお堂が設けられています。なお、石門には次のように刻されていましたが、現在は所在不明。
左柱「青山不動明王奥之院
右柱「かみとなり ほとけとなるも みつのなか かえんのなかに たつわこのため




○耕堂正到の碑
碑文「水碧鳥逾白 山春蔵欣然」

○東籬の句碑
長崎市民の水源である本河内上流のこの地のことを詠んだ句で、「妻琴の瀧」と「玉垂の瀧」の2首があり刻されています。
「妻琴の瀧」
松かぜといずれの緒よりかよふらむ 名もなつかしき妻琴の瀧
「玉垂の瀧」
白いとの100にゆふ月夜 ほのき初めし玉垂の瀧




大黒神(だいこくしん)/菓祖神(かそしん)
大正8年(1919)文明堂が今町(現 金屋町坂本屋付近)に今町店(昭和3年の大波止店開業まで本店となる)を開業する際、敷地内にあった井戸から偶然にも2体の大黒神を発見し、以降、文明堂中川家によって大切にお祀りされることになります。昭和7年(1932)には出雲大社に大黒神を持参し正式に魂入れを行い、中川公園に社殿を設け遷宮され今に至っています。
 一方、菓祖神は昭和32年(1957)に開催された第14回全国菓子大博覧会を記念し、兵庫県豊岡市にあるお菓子の神(菓祖神)で有名な中島神社から御霊を受け菓子組合会員の要請によりこの地にお祀りされています。




第25号国道改修功労者顕彰碑
国道34号線は旧道路法では国道25号線で大正15年(1926)開通の日見トンネルは国道として完成を見ます。その際、中川安五郎はその開発に尽力し当時の農商務省と長崎県、長崎市より感謝状や褒賞が与えられ、それらを記念しこの顕彰碑が建てられました。昭和10年(1935)建立。

高松宮両殿下記念御植樹の碑
昭和32年(1957)第14回全国菓子大博覧会が名誉総裁の高松宮殿下をお迎えして松山町の特設会場で開催され、菓子出品数13000点と入場者数60万人を記録します。殿下はその足で中川公園に足をのばされ記念樹を植樹します。碑文は80歳を迎えた中川安五郎によるものです。




○「長崎カステラの由来」の碑
碑文によると、昭和28年(1953)当時のスペイン国代理大使オデヤナ・ラ・ビエハム公爵ペトロセオアネ氏は、スペインに由来するカステラ中川安五郎が日本に広め日本とスペインの親善に寄与した功績は大きいと高く評価。カステラは本来、養蜂と穀物豊かなスペインから発達し修道院の尼さん(シスター)のお茶菓子が起源といい、のちにフランシスコ・ザビエルとともに日本の平戸に渡来し長崎に入ったとのこと。実際、安五郎の調査によると、スペイン人らはカステラの製法を平戸の木元善作に伝え、代々、木元家がその製法を守り、それが長崎の本博多町の菓子商:朝鶴堂が製造販売をし、明治に入り本籠町の渡辺貞吉が改良してフランスパリで開催された世界大博覧会に出品し大金牌を授け有名になります。しかし長崎ではカステラの本家・元祖という競争が始まり、これに憂いた安五郎は世界に目を向け販路拡大に努め大正3年(1914)東京で開催する大博覧会にカステラを出張販売するのです。その後、渡辺貞吉の子息:渡辺甚三郎を文明堂の工場長に迎え大都市進出の足掛かりとし、安五郎は自ら人間広告塔として東京を歩き回り、ついには宮内省東宮職への納入を果たします。カステラは日本はおろか世界へと長崎カステラの名が広がり、安五郎はそれらの活躍により昭和32年(1957)内閣より黄綬褒章を受けます。




中川安五郎像(なかがわやすごろう-ぞう)
文明堂総本店の創立者である中川家初代:中川安五郎(明治12:1879-昭和38:1963)は雲仙市国見町出身で、若くして長崎入りし和菓子などの修業を始めます。明治31年(1898)福砂屋に入り、明治33年(1900)独立を果たし文明堂を丸山町に開業します(のちに馬町→船大工町→大波止に移転)。文明堂は特に広告宣伝に力を入れ、全国の国鉄沿線沿いに立て看板を出したり、さらには宣伝隊などを作り「カステラの文明堂」の名を全国に知らしめます。その後、全国展開にも成功し文明堂は今やカステラの代名詞にもなりました。銅像は昭和6年(1931)長崎菓業組合と長崎菓業青年団によって建立。昭和32年(1957)再建。A-266:2009-1/10




大手橋親柱(おおて-ばし-おやばしら)
馬町-新大工町間/西山川(堂門川)
慶安3年(1650)馬町と新大工町間に大手橋が架橋され、現存する石橋の中では眼鏡橋(寛永11年:1634)に次ぐ2番目に古い石橋となるのですが、昭和9年(1934)の国道(電車通り)開通にあわせ大手橋は道路拡張のため欄干ほか橋上部を鉄筋コンクリ−ト橋に改造され下部アーチ部のみ現存している形となります。その際、擬宝珠親柱1本を(欄干の親柱)を眼鏡橋に補充し、1本は橋の際に当時あった文明堂本店(現 親和銀行)に譲渡され、その後、中川公園に移設されることになりました。A−161:2003/11/17参照




A-303:文明堂園/中川公園(ぶんめいどうえん/なかがわこうえん)
本河内3-34-8(旧 上長崎村本河内郷字貝目)
日見トンネルが大正13年(1924)に起工し同15年(1926)に開通しますが、その掘削工事で出た土砂はトンネルの西口に盛土され、そこを文明堂の初代:中川安五郎が昭和6年(1931)公園として整備し広く市民に開放し中川公園とします。また、中川氏は交通量が増えた蛍茶屋日見間の国道に吉野桜やつつじを植樹し通行の市民の目を楽しませるのです。現在、公園内には初代:中川安五郎の銅像や大黒神、菓祖神がお祀りされたいへん管理が行き届いた庭園となっていますが、解放はされていません。A-266:2009-1/10参照




A-302:真言宗英彦山不動院(ひこさん-ふどういん)
本河内3-28-8(旧 上長崎村本河内郷字善吾岩)
英彦山不動院は昭和35年(1960)高橋敬雄氏が発起し昭和37年(1962)御手水に庵を構え創建となります。昭和41年(1966)現在地に移転。福岡県の英彦山から勧請した英彦山権現や不動明王をお祀りし、護摩供養などを中心に様々な祈祷が行われています。また、水子供養も行われていて門前には玩具の風車がたくさん並べられています。このほか地蔵尊、稲荷神など様々な神仏がお祀りされています。長崎四国八十八ヵ所霊場第三四番霊場




A-301:御手水地蔵堂(おちょうず-じぞうどう)
本河内3-34-39(旧 上長崎村本河内郷字上御手水)
創建は不明ですが地元御手水地区の青年団によってお祀りがなされ大山祗神社同様、御手水の守り神として親しまれています。お堂脇に湧水があって昔から旅人ののどを潤していたといいます。長崎四国八十八ヵ所霊場第八番霊場。

御手水観音堂(おちょうず-かんのんどう)
本河内3(旧 上長崎村本河内郷字下御手水)
御手水バス停より少し英彦山よりに御手水観音堂があります。宝暦10年(1760)に本河内の忠左衛門が建立した如意輪観音の石像があります。




A-300:大山祗神社(おおやまづみじんじゃ)
本河内3-22-28(旧 上長崎村本河内郷字下御手水)
創建は元禄2年(1689)で御手水の住民らが長崎奉行に願い出て鎮守神としてお祀りされたもので、以前まで青年らによって奉納相撲がなされていました。大正15年(1926)国道の開通で神社境内はその敷地に取られ現在のように狭小となっています。昭和63年(1988)社殿改修が行われ今に至っています。




烽火山(ほうかさん)
烽火山はもともと斧山(おのやま)と呼ばれ、島原の乱後の寛永15年(1638)老中松平信綱が長崎巡視の際、長崎奉行に命じて烽火番所を置いた場所になります。これは異国船入港を知らせるために造らせたもので、このことより烽火山と呼ばれるようになります。伝達は野母崎の権現山→烽火山→琴ノ尾岳→多良岳→近隣諸藩へ伝えられました。

烽火山詩碑(ほうかさん-しひ)【烽火山山頂】
烽火山詩碑は文化元年(1804)長崎奉行所勘定方として着任した大田直次郎(蜀山人/南畝/覃:寛延2:1749-文政6:1823)が烽火山に登頂して作った詩で、文化2年(1805)建立されました。
「滄海春雲」詩碑「西連五島東天艸 烽火山頭極目看




A-299:秋葉大権現(あきばだいごんげん)【妙相寺境内】
秋葉大権現は妙相寺境内の最高部で烽火山の中腹に位置します。創建は正徳5年(1715)第3代住持:毒龍によって遠江国(現 静岡県)秋葉寺より秋葉大権現を勧請したことにはじまり、寛政5年(1795)に第10代住持活歩によって石祠と供養塔が設けられました。明治34年(1901)妙相寺本堂の背後に不動堂が設けられた際、不動明王のほか天満天神、秋葉大権現と合祀されますが、中腹のお堂もそのまま置かれ一部の信仰者によってお祀りされています。なお、この秋葉大権現の道標が本河内高部水源地下の妙相寺橋横に立っています。




〇妙相寺西国三十三ヵ所観音霊場【妙相寺境内】
西国三十三観音霊場とは関西を中心とした33ヵ寺の観音菩薩を巡礼する観音信仰のことで、妙相寺後山にはそれを模した観音霊場があります。ここは江戸時代中期から存在していたようで、現在では荒廃していますが一部の信仰者によってお祀りされています。
なお、妙相寺の西国一番の如意輪観世音が本堂脇にあり明治初年、丸山町の遊郭:角海老の当主:松浦信太郎が建立していて、三三番は不動堂横(杉田阿弥陀堂)にあります。




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