広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成21年 〜2009年〜
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E-23:岩屋山神通寺支院跡【悟眞寺】
長崎の北部、岩屋山には行基菩薩が開いたという神通寺という寺院があったといわれています。当時は周辺36か所に支院が置かれ、後に廃滅したとあります。14世紀には将軍足利尊氏が修理をし料地を与えたとあり、16世紀には有馬氏によって焼き討ちに遭い、その後は領民によって復興するも、慶長17年(1612)キリシタンによって一切が破却されてしまいます。
現在の悟眞寺がある場所は、その神通寺の支院があった場所と伝えられています。




○我が国初の検梅
オランダ医師ポンペは安政4年(1857)江戸幕府の要請で長崎入りし、長崎奉行所西役所内に設けられた医学伝習所で第二次海軍伝習の医官として講義を行い、万延元年(1860)には養生所開設を要請。翌文久元年(1861)には小島養生所が開設されます。この時期、ポンペは公娼制度の廃止と検梅制度を提案しますが幕府が拒否。万延元年(1860)に来日したロシア海軍提督ピリレフの要請で稲佐に入る丸山遊女に対し検梅を求めるもこれも拒否されていました。そのため新しく設けられた稲佐遊郭で実施することにし実現となりました。これが我が国初の検梅でした。




E-22:稲佐遊郭(いなさゆうかく) 弁天町11,12(一部),13,14,15(一部)
曙町4,5,8(一部),10(一部),11,18(一部)
嘉永6年(1853)よりロシア極東艦隊提督プチャーチンが軍艦と共に来航し日本との通商などを求めるようになり、安政6年(1859)5月。幕府は長崎、神奈川、函館で、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、万延元年(1860)ロシアは提督ピリレフ率いる軍艦ポサジニック号を長崎に入港させます。早速、長崎奉行は悟真寺や平戸小屋を外国人休息所に指定し、俗にロシアマタロス休憩所と呼ばれます。さらに他の外国人の例があるところから乗組員に対し丸山の遊女屋から遊女を派遣することを許可し、これを稲佐行きの遊女またはロシア女郎衆といいます。その後、町が発達し遊郭街が作られるようになり大正14年(1925)には貸座敷19軒、娼妓は154人に達するもロシア色は薄れ、やがて邦人相手の町に変貌します。昭和20年(1945)原爆の影響で町は焼失し稲佐遊郭は次第に衰退し昭和30年ごろ消滅します。現在の稲佐登山道路入り口から悟真寺前バス停付近にかけてのエリアです。




長崎とロシアの関係E
明治36年(1903)日露間の国交が緊迫化し例年来航していたロシア東洋艦隊が姿を見せなくなり、翌37年(1904)2月。日露は国交を断絶し日露戦争が始まります。38年(1905)1月。旅順のロシア軍は降伏し終結。抵抗していたステッセル将軍ほか陸海軍将兵らは帰国を許されますが便船を待つため長崎に向かうことになり、稲佐と平戸小屋が滞在地に指定され3月まで5回にわたり約1800人が長崎入りします。特にステッセル将軍の来崎は乃木将軍からの命令もあって特別待遇で稲佐のお栄宅が宿舎にあてられました。明治39年(1906)国交回復。しかし明治40年(1907)ウラジオストック-敦賀間の航路開設によって長崎の対露貿易は終わりを告げます。




長崎とロシアの関係D
安政4年(1857)9月。ロシア使節プチャーチンが来航し、日露追加条約が締結され長崎、函館で通商の許可を得ます。安政5年(1858)には江戸で日露修好通商条約が結ばれ、安政6年(1859)5月。幕府は長崎、神奈川、函館で、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、長崎にも多くの貿易商が入ります。慶応4年(1868)ロシアは南山手17番地(現 南山手町12-42,43)に領事館を置かれ、ロシアと長崎の関係は明治24年(1891)ロシア皇太子ニコライ二世の来崎やロシア艦隊の越冬基地としての利用など親密さを増し、稲佐はロシア人の第二の故郷といわれるほどの賑わいを見せるのです。




長崎とロシアの関係C
嘉永6年(1853)6月3日。アメリカ使節の東インド艦隊司令官ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航し通商を求めていましたが、同年の7月18日。ロシア使節の極東艦隊司令長官プチャーチンは軍艦4隻を率いて長崎港に来航し開港を迫ります。このときも乗組員を一時上陸させ幕府の回答を仰ぎますが、将軍家慶(イエヨシ)が6月22日に死去したことや、ヨーロッパでクリミヤ戦争が勃発しロシア自国の対応などからプチャーチンらは帰国しますが、同年12月に再来。幕府は勘定奉行、目付役などを露使応接掛としてに派遣し西役所で会見を行います。翌年1月に帰艦するも3月に再来航、この時はすぐに帰還しますが、安政元年(1854)12月。ついに下田で日露和親条約が結ばれ下田、函館、長崎が開港となり、以降、長崎はロシア極東艦隊の避寒基地となります。




長崎とロシアの関係B
文化2年(1805)滞在中のロシア使節レザノフに対し幕府は目付役の遠山金四郎景晋を長崎に派遣し長崎奉行所で会見を行います。会見は長崎奉行肥田豊後守も交え3回にわたり進められ、国法を告げて通商を拒絶し帰国を促します。今後の漂流民の扱いはオランダ本国またはジャワに送還するよう伝え、来港は拒否する姿勢を示します。レザノフの出港に際し幕府は滞在中の経費や食料品などを日本側が持ち、さらに真綿や米などを贈ります。なお、このときのオランダ商館長ヘンドリック・ドーフは奉行所役人を招待し慰労会を催したと記録にあります。なお、遠山はこのあと松前へ派遣され西蝦夷地の視察を行い、以降、ロシアの動きに目を光らせます。




長崎とロシアの関係A
文化元年(1804)ロシア全権使節レザノフが我が国と通商目的で軍艦ナデジュダ(乗組員81名)で長崎港に来航し、漂流民4人を送還。あわせて信牌付与の感謝の意を示します。そして改めて通商を求めます。長崎奉行所は直ちに幕府に遣いを出し、近隣諸国に警備を要請、一時的に梅ヶ崎の御米蔵内にロシア人の滞在を認めると、大村藩は御米蔵の崖の上の畑地に陣を張り警護に当たります。




長崎とロシアの関係@
安永7年(1778)ロシアは蝦夷地に来航し通称を求め、寛政4年(1792)ロシア使節ラクスマンらが伊勢の漂流民の大黒屋幸太夫を護送して根室に来航し通商を求めます。寛政5年(1793)目付役の石川忠房らはロシア使節ラクスマンに対し漂流民の護送に感謝し、特別に長崎入港の許可書である信牌を与えます。当時、日本周辺特に蝦夷地周辺にロシア船がたびたび来航するようになったため寛政9年(1797)幕府は長崎回航令を出し、外国船はすべて長崎に向かうようお触れが出されます。しかしこれは時間稼ぎであって結局は許可を与えませんでした。




E-20:大鳥町(おおおりまち)
現在の大鳥町は昭和40年(1965)に旧 平戸小屋町の一部を分割して大鳥町と命名されたもので、由来は現在の三菱電機の裏手の崖が大鳥崎といい、町域の形が鳥が羽を広げた形に似ていたところから大鳥町となりました。旧大鳥町と全く重ならず不思議な命名が行われた町といえます。




E-20:旧 大鳥町(きゅう-おおとりまち)
明治37年(1904)に完了した長崎港湾改良工事によって稲佐の海岸地帯が埋立てられこれにより稲佐地区に4つの新しい町が拓かれました。その一つが大鳥町で現在の三菱電機〜研究所のある海岸部で、町名の由来は現在の三菱電機の裏手の崖が大鳥崎といい、そこから大鳥町となりました。昭和40年(1965)町界町名変更により丸尾町に変わります。
※現 大鳥町とはちがいます。




E-19:外浪町(ほかなみまち)
明治37年(1904)に完了した長崎港湾改良工事によって稲佐の海岸地帯が埋立てられこれにより稲佐地区に4つの新しい町が拓かれました。その一つが外浪町で現在の丸尾町6番地の一部で、大正時代の地図には長崎要塞司令部が置かれていました。町名の由来は新しく開かれた町のうちいちばん外側の浪(波)が当たる部分ということで外浪町、もしくはその昔、付近に外波洞(トナミドウ)という入り江があったところから外浪町になりました。昭和40年(1965)町界町名変更により丸尾町に変わります。




E-18:丸尾町(まるおまち)
明治37年(1904)に完了した長崎港湾改良工事によって稲佐の海岸地帯が埋立てられこれにより稲佐地区に4つの新しい町が拓かれました。その一つが丸尾町で現在の丸尾町の1番地5番地付近で1丁目から3丁目が作られます。昔からこの付近は圓丘(マルオ)といい丸尾町となりました。昭和40年(1965)町界町名変更により丸尾町に変わります。




E-17:旭町(あさひまち)
明治37年(1904)に完了した長崎港湾改良工事によって稲佐の海岸地帯が埋立てられこれにより稲佐地区に4つの新しい町が拓かれました。その一つが旭町で現在の稲佐橋から旭町桟橋付近までの海岸沿いに1丁目から4丁目が作られます。地区が稲佐地区で最も東側ということもあり一番早く朝日(旭)を迎えることができることから旭町と命名されました。昭和40年(1965)町界町名変更により1丁目は稲佐町、光町、2丁目は弁天町、旭町、3丁目は旭町、4丁目は旭町、江の浦町に変わります。




E-16:浦上淵村(うらかみふちむら)
浦上淵村は竹ノ窪郷、稲佐郷、平戸小屋郷、水ノ浦郷、飽ノ浦郷、瀬ノ脇郷、岩瀬道郷、立神郷、西泊郷からなり、明治31年(1898)長崎市に先に編入された旭町など沿岸部の町名がつけられ、他町は遅れて大正2年(1913)郷が廃止され稲佐町1〜3丁目、竹の久保町、平戸小屋町、水ノ浦町、飽ノ浦町1〜4丁目、瀬ノ脇町、岩瀬道町、東立神町、西立神町、西泊町になります。




E-15:稲佐(いなさ)
稲佐イナは古代では砂地あるいは砂州を指し、は小さいという意味で、イナサで小さな砂浜となり現在の旭町の商店街付近に砂浜があったものと考えられています。9世紀、このあたりに小豪族の稲佐(伊奈佐)氏がいて居城を構えていたといい、のちに(14世紀には)滅亡したものといわれています。そうして悟真寺の古井戸は稲佐氏使用の井戸といわれ付近がその館跡と伝えられています。その後、小豪族の浦上氏に支配され浦上村に属し、のちに浦上南村から浦上淵村となり、やがて浦上淵村稲佐郷、大正2年(1913)稲佐町1〜3丁目、昭和40年(1965)町界町名変更によって現在の稲佐町、光町、曙町、弁天町、旭町、江の浦町などに分割されます。




E-14:稗田銅座跡(ひえだどうざ-あと)
光町/弁天町(旧 旭町)
江戸時代初め、日本の輸出品は銀が中心で、銅も輸出されるも生産不振のため中止されていました。しかし銀の流出が増えたため再び銅の生産を進め、正保3年(1646)銅の輸出禁止が解かれます。当時、中国では銅の産出がなく、そのため日本からの銅は大変貴重なもので、特に東南アジアでの商品買い付けには銅銭が用いられていました。それまで銅は大坂で製錬、鋳銅され長崎廻銅として送られていましたが、輸送費や相場などの関係で長崎での鋳銅と考えられ、享保10年(1725)に東M町に鋳銅所(銅吹所)が完成。享保16年(1731)稗田浜に稗田銅座が誕生します。ここで棹銅が鋳られますが経費の関係で元文3年(1738)築地銅座とあわせ廃止され、銅は大坂で再び鋳銅されることになります。稗田銅座はわずか7年の操業でした。




E-13:稗田(ひえだ)
光町/弁天町(旧 旭町)
江戸時代、稲佐は出島オランダ屋敷や唐人屋敷に住む外国人が食していた食料の豚や野牛が立山とともに飼われていた場所で、現在の稲佐小学校の上手からから稲佐郷有墓地にかけてが家畜牧場といわれています。そのため稲佐公園から鵬ガ崎(稲佐橋付近)に家畜の飼料となる稗が栽培されていてそこから稗田という名称が誕生したものと考えられています。




E-12:長崎港内交通船(ながさきこうないこうつうせん)
江戸時代、稲佐地区は長崎の対岸ですが同じ天領ということもあり志賀の波止場を中心に小船による往来が頻繁に行われたものと考えられます。明治に入り水の浦から「三文渡し」という渡し船が始まり明治中期には「一銭渡し」という交通船が始まります。当時の交通船はお客さまが定員に達するまで待つか定員分の船賃を払うという仕組みでした。その後も様々な経路の渡し船が生れ競合することもあり、明治42年(1909)長崎交通株式会社が生れ大波止-水の浦間と元船町-旭町間の航路を運行。大正13年(1924)長崎交通航路が市営となり、翌14年(1925)長崎電気軌道が参入します(〜18年まで)。昭和27年(1952)以降、稲佐地区の道路整備が進むとバスの運行が始まり交通船の利用客が激減。昭和44年(1969)港内交通船は廃止されます。




E-11:稲佐橋(いなさばし)
幸町-光町/稲佐町(旧 梁瀬町-旭町)
長崎市中心部と対岸の稲佐地区は上流の簗橋まで迂回するか瀬渡し船を利用するしかありませんでした。明治の港湾改良工事などから稲佐地区の発展目まぐるしく明治39年(1906)木造の稲佐橋が架橋され、大正15年(1926)には鉄骨2連式アーチ橋に架け替えられ長さ70メートル、幅員12メートルの橋となります。その後、原爆の影響や交通量増加などから昭和38年(1963)現在の橋である幅員22メートルの鉄筋コンクリート橋となります。これにより50トン重量車の通行が可能となりました。工費1億950万円(現在のお金で2億2000万円)。




E-10:鵬ガ崎焼窯跡(ぼうがさきやき-かまあと)
光町2,7(旧 稲佐町)【現メモリード〜キングタクシー付近】
稲佐公園から稲佐橋にかけての坂道は少し小高くなっており、その昔そこが岬だったことの名残で鵬ガ崎と呼んでいました。鵬ガ崎のそばには長崎の風流人:蒲地子明(学之助=前名を中村秀吉)が別荘を持っていて文政6年(1823)焼き物を始め、自らの詩歌などをつけ茶人らに重宝がられたといいます。一説には土は入港唐船の積み荷、梅壺のかけらなどを粉にして調合したものを使用し、黒味を帯びた紅柄色の硬質、厚手の焼き物、製品は中国文化の影響を強く受けていました。嘉永5年(1852)閉窯。跡地は長崎警備のため入った佐賀藩の所有となり、明治中期の港湾工事で消失します。蒲地子明の墓所は寺町深祟寺




E-9:横山桜の碑(よこやまざくらのひ)
旭町3-22付近(旧 旭町)【旭大橋下】
明治30年(1897)からの長崎港湾改良工事と合わせ、明治36年(1903)から3ヶ年事業として稲佐沿岸改良工事が行われれ稲佐橋付近から水の浦付近までの1万4500坪(約48000u)が埋立てられます(事業費38万7340円)。この工事は明治31年(1898)浦上淵村が長崎市に編入したこともあり市街地整備の一環でもありました。なお、落成式には市民によるペーロン競争が行われています。当時の長崎市長(第2代)横山寅一郎で、この港湾改良工事のほか水道増設や市域拡張などの実績を上げていたため当時としては破格の6万円(現在のお金で約6800万円)の退職慰労金が与えられました。明治44年(1911:辛亥)には地元住民が横山市長の功績をたたえ海岸沿いに桜を植樹しあわせて功労碑を建立します。残念ながら桜は塩害などの影響で現存していません。




E-8:稲佐銭座跡(いなさぜんざ-あと)
旭町12,13,14(旧 旭町)
寛文元年(1661)輸出用の和銭を鋳る銭座が長崎村馬場郷(現 伊勢町)に置かれ、元豊通宝(1文銭)と呼ばれる銭が鋳られます。貞享2年(1685)輸出量低下で廃止。寛保元年(1741)今度は日用の遺方銭として築地銅座(銅座鉄銭)で鉄銭が鋳銭されます(銅座銭)。さらに同形のものが寛保3年(1743)馬込郷の聖徳寺前の海岸で鋳銭されるようになり、ここを馬込銭座と呼びます。しかし延享2年(1745)銅座銭座、馬込銭座は廃止され、明和4年(1767)から稲佐塩硝蔵跡、福田邸裏手に稲佐銭座が設置され、安永2年(1773)までの廃止まで銅銭23.1万貫鋳造されました。この理由としてオランダ船への需要、唐人屋敷内での使用、かまど銀が銅銭となったことなどに対応するためで、長崎奉行管理の下、長崎会所が事業を行います。なお、銅銭は寛永通宝で裏には「長」の文字が入れられていました。




E-7:志賀の波止場跡(しがのはとば-あと)
旭町12,13,14(旧 旭町)
稲佐の船着場であった船津浦は庄屋である志賀家の屋敷前にあたるところから俗に志賀の波止場と呼ばれ、文政11年(1828)8月に襲った台風はシーボルトを乗せて出港する予定であったコルネリウス・ハウトマン号を座礁させこの波止場に積み荷が散乱しました。そして国外持ち出し禁止の品が発見され世にいうシーボルト事件の発端となるのです。幕末から明治期、志賀家はその後、海運業を始め、この波止場を拠点としました。




E-6:稲佐塩硝蔵跡(いなさえんしょうぐら-あと)
旭町14(旧 旭町)【福田小動物医院】
寛文5年(1665)夏にオランダ船が入津した際、誤って石火矢(大砲のこと)が暴発する事態があったため、以降、奉行所が管理することになります。始めは稲佐のほか西泊番所内に置かれ、長崎奉行は砲弾と火薬を管理し出港までの間、保管することなります。その火薬庫が割石のそばに作られ、ここを稲佐塩硝蔵といい明和2年(1765)まで使用されます。廃止後は対岸の御船蔵内に納められ、跡地は庄屋の下で働く散使:福田家の屋敷となります。参照D-390:2008-5/7




E-5:浦上淵村庄屋志賀家屋敷跡
(うらかみむら-しょうや-しがけやしき-あと)
旭町13(旧 旭町)
志賀家は豊後国大友氏の家臣で大友氏が途絶えた後、長崎入りしますが、同じ豊後国府内の城主だった竹中采女正重興が寛永6年(1629)に第6代長崎奉行に任命されこともあり、竹中は志賀浦上村淵掛の庄屋に任命し、幕末まで続きます。墓所は悟真寺。
浦上村の淵掛は寺野郷、竹ノ窪郷、船津郷、稲佐郷、平戸小屋郷、水ノ浦郷、瀬ノ脇郷、飽ノ浦郷、岩瀬道郷、立神郷、西泊郷、木鉢郷、小瀬戸郷からなり、明治31年(1898)長崎市に編入され、その後、郷が廃止され各町名が付けられます。




E-4:稲佐割石(いなさ-われいし)
旭町14(旧 旭町)
江戸時代中期に書かれた長崎名勝図会によると、鵬が崎(現 稲佐橋付近)の南100歩ほどのところに大きな岩が二つあって横には船着場があったといい、当時はそこを船津または船津浦と呼んでしました。寛文5年(1665)夏にオランダ船が入津した際、誤って石火矢(大砲のこと)が暴発し、弾丸が海岸の崖に当たります。そして海岸に砕け落ちた大岩が割石と呼ばれるようになったそうです。また、割石の近くに鯨洞という洞窟もありました。現在は埋立てられ当時の面影を知ることはできませんが旭大橋の付け根付近にありました。




E-3:中ノ島(なかのしま)
尾上町(旧 高砂町)
明治37年(1904)に完了した長崎港港湾改良工事ですが、このうち現在の長崎駅ホーム付近から宝町の長崎県営バス敷地(旧ガスタンク)付近にかけての海側のエリアは当初、細長い短冊状の埋立地になっていて中ノ島と称していました。中ノ島では昭和9年(1934)に長崎博覧会をはじめサーカスなど様々な興行の場所になっていましたが、その後、周りの運河が埋め立てられ陸続きとなります。現在、幸町の運河には中之島橋という名称があり、また、クールファイブのヒット曲「中ノ島ブルース」の3番の歌詞にある中ノ島は時代的にこの島のことではないでしょうか。D-363:2008-3/27参照




E-2:長崎港港湾改良工事について
明治30年(1897)以降7ヵ年の継続事業として長崎港湾改良工事が開始され、明治37年(1904)に完了します。工事は第1期と第2期に分かれ、第1期工事では港内の砂防工事や中島川の変流工事(これにより出島の前面が削られる)、第2期工事では現在の銭座町電停付近から長崎駅-大波止-市民病院付近と稲佐の海岸地帯が埋立てられこれにより24の新しい町が開かれます。以下にその24町を紹介します。
幸町-福富町-玉浪町-梁瀬町-宝町-寿町-船蔵町-井樋ノ口町-八千代町-尾ノ上町-高砂町-瀬崎町-台場町-元船町-玉江町-千馬町-羽衣町-要町-末広町-入江町-旭町-丸尾町-外浪町-大鳥町 
※ほとんどの町が昭和40年頃に町界町名変更で整理されます。D-362:2008-3/26参照




E-1:旭大橋(あさひおおはし)
尾上町-旭町間
旭大橋は計画当時1日平均約95,000台(現在は約76,000台)と九州一の交通量だった長崎駅前の混雑緩和を目的として架けられ、昭和47年(1972)着工、総工費51億8800万円で昭和57年(1982)完成しました。計画では完成は昭和53年(1978)でしたが用地交渉が難航したりオイルショックなどの影響で延期され、さらには道路予定地にあった松の木の移植の関係で数か月ストップしたこともありました。総延長839メートル、高架部689メートル、橋長523メートル、幅17メートル、始点終点の欄干は龍踊りをイメージしたものになっています。




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