広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成21年 〜2009年〜
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E-50:大谷町(おおたにまち)
江戸時代は浦上淵村水ノ浦郷に属し、大正2年(1913)水ノ浦町となり、昭和40年(1965)町界町名変更によって現在の町域の大谷町になります。町名の由来は、その昔、地区が稲佐山からの深い谷合ということで大谷と想像でき、町域の大半が稲佐郷字大谷だったところから大谷町となりました。




E-49:水の浦(みずのうら)
江戸時代、水の浦は浦上淵村に属し集落を水ノ浦郷と称していました。おそらく稲佐山からの湧水が多い浦ということで水の浦といい、現在でも井戸や湧水の多い地区です。明治31年(1898)から長崎市に編入、大正2年(1913)から水ノ浦町となり昭和40年(1965)町界町名変更によって現在の水の浦町、丸尾町、大谷町、飽の浦町にそれぞれ分割されます。




E-48:大鳥崎(おおとりがさき)
現在の三菱電機の裏手の崖を大鳥崎といい大鳥町の由来となった場所ですが、崖の上には明治期以後、海軍水兵の宿舎があり俗に水兵山とも呼ばれていました。明治37年(1904)に完了した長崎港湾改良工事によって稲佐の海岸地帯が埋立てられ現在の三菱電機〜研究所間の海岸部が誕生し大鳥町となりますが、当時、大鳥町には3,4軒の料亭が立ち並んでいたといいます。




E-47:三菱電機株式会社(みつびしでんき-かぶしきがいしゃ)
丸尾町6(旧 大鳥町/外浪町)
官営の長崎造船所は正式に明治20年(1887)三菱払い下げられ、のちに三菱長崎造船所、三菱重工業株式会社長崎造船所へと変遷しますが、造船所の中の電気工事部門で船舶電気機器や鉱山用機械などが日露戦争が勃発する明治時代後期から目まぐるしく発達拡大し、大正8年(1919)平戸小屋町(現 丸尾町)に新たに電機工場が設けられます。これは日本初の船舶電機工場で、大正10年(1921)神戸に三菱電機株式会社として創立された後、大正12年(1923)平戸小屋町の工場は三菱電機株式会社長崎工場となります。第二次大戦時には約2800人もの工員を抱えるまでの工場となりますが、空襲や原爆の影響で焼失します。第二次大戦後、復興され船舶関係機器のほか様々な電化製品も手がけ、現在の太陽光発電は世界トップレベルの技術を誇ります。




E-46:長崎要塞司令部跡(ながさきようさいしれいぶ-あと)
丸尾町6(旧 外浪町)【三菱電機の一部】
要塞とは重要都市や拠点などの防御のために作られた軍事施設のことをいい、要塞区域内は測量、模写、撮影が全面禁止となり要塞司令部がその管理官庁となります。明治32年(1899)長崎は要塞地帯法によって長崎要塞地帯区域に指定。佐世保より佐世保要塞砲兵連帯の一個大隊が長崎入りし竹の久保(現 長崎西高)に駐屯します。翌33年(1900)竹の久保に司令部を置きますが、明治36年(1903)それまで大黒町(現 西坂町の一部)にあった長崎兵器支廠(シショウ)築城部長崎支部と合併しそこに長崎要塞司令部を移転します。しかし明治39年(1906)再び移転し平戸小屋町に変わります。昭和17年(1942)ごろ、南山手町3-28に移転。跡地には三菱電機の工場となります。




E-45:江の浦町(えのうらまち)
江戸時代は浦上淵村稲佐郷に属し、大正2年(1913)稲佐町、旭町などとなり、昭和40年(1965)町界町名変更によって現在の町域の江の浦町になります。町名の由来は、その昔、深い入り江のある浦だったところから江の浦と想像でき、町域の大半が稲佐郷字江ノ浦だったところから江の浦町となりました。




E-44:平戸小屋(ひらどごや)
江戸時代、頴川四郎左衛門は稲佐に別邸として水月居を所有していましたが平戸藩に献上することになり平戸藩は陣屋として使用します。また、海岸沿いには藩の船蔵小屋を置いていたことから、のちに平戸小屋と呼ばれ、あとにできた集落は平戸小屋村となります。その後、浦上淵村平戸小屋郷となり、明治31年(1898)から長崎市に編入、大正2年(1913)から平戸小屋町となり昭和40年(1965)現在の町域となります。




道永エイ(お栄)
道永エイ(万延元:1860-昭和2:1927)は熊本県(大矢野島)登立村出身で、若くして両親を失い12才で茂木の遠縁である肥前屋の主人のもとを訪ねます。肥前屋では女中として奉公し、明治13年(1880)稲佐の料亭ボルガの諸岡マツのところに行き、すぐにロシア将校クラブに奉公します。お栄はここで通訳兼支配人であったクラトフからロシア語を学び、翌14年、ロシアウラジオストック行きの艦長付きボーイの名目で出国。ロシアではウスリー川からアムール川に進みバイカル湖方面まで足を運び、約10年間、精力的に事業を展開し巨額の富を得ます。明治26年(1893)帰国後、諸岡マツに勧めによって稲佐岬に本格的ホテル「ホテルヴェスナ」を開業。長崎がロシアウラジオストックの極東艦隊の越冬基地ということもありホテルは連日ロシア人で盛況を期します。しかし明治37年(1904)の日露戦争によって情勢は一変。ロシア人の姿はなくなりステッセル将軍らの滞在の後は衰退。そうした中、翌38年(1905)顧問を務めていた茂木ホテルを買収し、39年(1906)ビーチホテルを開業させ、さらなる展開をもくろんでいましたが以前から患っていた肺患で療養生活を送ることになり引退します。墓所は平戸小屋町墓地




E-44:お栄(道永エイ)宅跡
大鳥町15-9(旧 平戸小屋町)【片渕宅】
お栄は明治26年(1893)本格的ホテル:ホテルヴェスナを稲佐岬にオープンさせ盛況を期しますが肺結核となり、明治32年(1899)ホテル経営を諸岡マツに引き渡します。翌33年(1900)平戸小屋町に住居を移し住居兼小規模のホテルを設け高位及び高官専用のホテルとして営業を始め、お栄の社交性からかこちらのホテルも盛況を期します。しかし明治36年(1903)日露間の国交が緊迫化、お栄の周りには軍事スパイが取り囲むようになり、市民はお栄をラシャメンとか非国民など罵声を浴びるようになり毎日のように投石や行われるのです。そして戦争終結後の明治38年(1905)旅順のロシア司令官ステッセル将軍と夫人および子どもらがこのホテルに入ることになり、帰国後はホテルは衰退し終焉を迎えるのです。その後、お栄は本宅の向かい(大鳥町14-27:御手洗宅)に隠居所を設け最期を過ごします。




E-43:烏岩神社(からすいわじんじゃ)
大鳥町15(旧 平戸小屋町)
祭神は保食大神(ウケモチノオオカミ=稲荷伸)で、享保3年(1718)当時の浦上淵村平戸小屋郷の鎮守神としてお祀りされ、あわせて白髭大明神、若島大明神も備わっています。平戸小屋の鎮守ということで毎年秋の行われる大祭は平戸小屋宮日(クンチ)と称されています。社殿の上には巨大な岩があって古来より鴉岩(カラスイワ)と呼びその昔、多くの市民が登頂していたといいます。さらに江戸時代の儒学者:北島雪山が来崎の際、長崎奉行に岩を賜りたいと願い出たという話もあります。




E-42:圓丘/丸尾(まるお)
その昔、笠崎の南、大鳥町3,6番地付近に丸いこんもりとした小山があって木々が生い茂り圓丘と呼ばれ、のちに丸尾山といっていました。江戸時代の長崎名勝図会には景勝地とされ、当時はここに唐人:陳氏の別荘があって泉桌(イシノツクエ)という岩に唐人たちは集い詩を作っていたといいます。また、この圓丘の先は浅瀬となっていて、まな板瀬といい、明治の初めごろまでは桟橋が設けられ、お栄宅の先にあたりお栄の桟橋ともいわれていました。残念ながら明治30年(1897)から始まった長崎港湾改良工事によって丸尾山は崩されその土砂で埋め立てが行われました。




E-41:笠崎(かさがさき)
笠崎は別名を圍崎(カコミガサキ)といい稲佐崎の西で現在の旭町26番地付近(現 共立病院)にあったといいます。江戸時代の長崎名勝図会には、水面に木の影が写れば泳いでいる魚がまさに木を上っているかのように見えていたそうです。その笠崎の下を後浜といい、笠崎の東側(稲佐崎の下)を前浜といい、ちょうど旭町商店街の恵美須神社付近のところです。




○中山大師堂(なかやまだいしどう)
大鳥町2-1
中山大師堂の創建ははっきりしませんが、付近の中山氏が明治時代ごろに勧請しお祀りしているお堂です。長崎四国八十八ヵ所霊場第二十六番霊場。

○鳥居大師堂(とりいだいしどう)
大鳥町7-16
鳥居大師堂は寛政年間(1800ごろ)の創建といわれています。長崎四国八十八ヵ所霊場第八十六番霊場。




E-40:捕鯨業者:山野辺邸宅跡
旭町9(旧 旭町)
山野辺氏は明治31年(1898)に稲佐の松森栄三郎が設立した捕鯨会社を明治33年(1900)に買収した山野辺組の社長で、明治37年(1904)には長崎捕鯨合資会社を他2名と設立し、のちに東洋捕鯨株式会社とし、昭和11年(1936)日本水産株式会社に合併します。その山野辺氏の邸宅が稲佐の高台にあって、明治24年(1891)ロシア皇太子ニコライ二世の来崎時には休憩所として使用され、その際、お栄はここで謁見しています。明治26年(1893)お栄がロシアから帰国後、一時滞在した家でもあり、明治38年(1905)には日露戦争での捕虜を収容しています。




E-39:ホテルヴェスナ跡
旭町9(旧 旭町)
明治26年(1893)お栄はボルガ経営者:諸岡マツに勧めによって稲佐岬の約300坪を借り受け本格的ホテルをオープンさせ大変な盛況を期します。ホテルはバストイレ付客室20室、ロビーに宴会場、玉突場、舞踏室、調理室、事務所、風呂場に自らの住居があって電気も点り、ホテル裏手には専用の桟橋が設けられていました。眼下には長崎港が開け、ロシアウラジオストックの極東艦隊が長崎滞在中は連日、パーティーが催されていました。しかし明治32年(1899)お栄は肺結核となりホテル経営を諸岡マツにに渡し身を引きます。なお、ヴェスナとはロシア語で春の意味です。




E-38:ロシア将校クラブ跡
旭町14(旧 旭町)【福田小動物医院】
ロシア将校クラブ志賀の波止場の福田家の別邸を改修し、幕末から明治期、来崎したロシア将校のクラブ・サロン兼休息所でした。建物は15,6坪の木造洋館で、のちに女傑といわれたお栄(道永エイ)が奉公した場所でもあります。お栄はここで通訳兼支配人であったクラトフからロシア語を学び、のちにロシアウラジオストックに旅立つのです。




E-37:料亭ボルガ跡
旭町14(旧 旭町)【福田小動物医院】
料亭ボルガは志賀の波止場の福田家の別邸を改修し諸岡マツが始めた料亭で幕末ごろに始まり、ほとんど来崎したロシア人相手の店でした。ボルガは宿泊もできる料亭旅館で玄関にはロシア語で書かれた看板が立っていました。また、明治24年(1891)にはロシアのニコライ皇太子の滞在し、大変な賑わいも見せていて明治36年(1903)に木造3階建てに改築されています。建物は第二次大戦後も残っていましたが昭和47年(1972)ごろ旭大橋の建設のため姿を消します。なお、ボルガとはロシア西部にある川のことでロシアでは「母なる川」といわれています。




E-36:観魚岸(いおみがさき)/稲佐崎(いなさざき)
江戸時代、旭町の一帯、悟眞寺から旭町桟橋にかけては長い岬で悟眞寺の下あたりは深い入り江になっていました。その岬を観魚岸といい俗に稲佐崎といっていました。そしてその岬の下を小汀(オバマ)といい良質の魚が獲れていたといいます。さらに岬の後ろ側を華崎(ハナガサキ)といい春になると岸に花が咲き、花が海に落ちその花を魚が食べうようすを眺めるのが当時の贅沢な遊びだったと江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会に記されています。




E-35:真言宗宝珠山萬福寺(-ほうじゅざん-まんぷくじ)
旭町23-27
大正13年(1924)延命寺住持:茂里舜龍が昭和天皇ご成婚を記念し稲佐地区の布教所として教会所を建立。第二次大戦中はロシア人捕虜が収容されていた時代もあり、終戦後は延命寺住持:堤祐演によって延命寺の別院となります。平成20年(2008)延命寺別院の佐々野隆海、隆寛の両氏は現在の淵神社のところにあった真言宗寺院:萬福寺の再興として新たに寺号を得て宝珠山萬福寺を創建し平成21年(2009)本堂を完成させます。




E-34:江の浦大師堂
江の浦町10
江の浦大師堂の創建ははっきりしませんが、断崖の上に建つお堂は地元の坂口五太郎氏が寒修行を行い浄財を集め創建されたものです。
さらにここは昭和28年(1953)延命寺(寺町)第22世住職:堤祐演が再興した長崎四国八十八ヶ所霊場の中の四十三番霊場に当り弘法大師をお祀りされています。この長崎四国八十八ヶ所霊場とは、四国八十八ヶ所霊場に行くことが困難な人のために開かれたもので、長崎四国八十八ヶ所霊場を巡ると四国と同じご利益があるといわれています。




○浄土真宗教専寺 長崎市弁天町12−4

○日蓮宗長光寺 曙町32-2 
昭和28年(1953)創建 

○日蓮宗一妙院 稲佐町19-1
明治45年(1912)日蓮宗の稲佐教会所として創建。その後、壇信徒の増加もあり京都市下京区柿本町の一妙院の寺号を譲り受け大正11年(1922)現在の一妙院が誕生します。

○浄土宗稽古洞 稲佐町2-8




E-33:曹洞宗大龍山泰三寺(-たいりゅうざん-たいさんじ)
曙町30-3
明治期以降、晧台寺の壇信徒のうち稲佐地区の住む者にとって参詣は不便を期し、そのため説教所の建設が求められていました。大正9年(1920)晧台寺住持の霖玉仙は許可を取り説教所の創設となります。当初は悟眞寺の下段に位置し、昭和6年(1931)現在の稲佐公園の地に移り、その後、現在地へと変わります。
山門は田上の泰三寺より移設されたものです。長崎四国八十八ヵ所霊場第22番霊場




出島オランダ商館長ヘンドリック・ダークープ(デュルコープ)墓所
明和8年(1771)と安永2年(1773)の両年、出島オランダ商館副館長として派遣され、安永6年(1777)には商館長として勤務していたヘンドリック・ダークープでしたが、安永8年(1778)の来崎の際、航海中に急病となり死亡します。ヘンドリック・ダークープはバタビア(現 インドネシアのジャカルタ)にある「オランダ東インド会社」本社より長崎の出島オランダ商館に派遣されたもので、到着後直ちに悟眞寺のオランダ人墓地に運ばれ盛大な葬儀が執り行われます。その際、僧侶により読経もなされたといい、墓碑にはオランダ語で刻され、さらには様々な装飾と不思議にも十字架の文様も入り今に残っています。これが日本最古のヨーロッパ人墓碑です。




欧(陽)華宇墓所(おう-かうーぼしょ)【悟眞寺墓域】
欧(陽)華宇(-承応元:1652)は中国福建省漳州出身で、同じ出身地の張吉泉とともに悟眞寺の壇越となり菩提所とすることを約束します。また、慶長年間、まだ長崎に仏寺がなかったこともあり、時の長崎代官:末次平蔵を経て幕府に請願し悟眞寺に唐人墓地を開き御朱印を賜りました(一説には華宇の子孫:稲佐萬六ともいわれている)。なお、歴史書には欧陽華宇と書かれることが多く実際、墓碑には欧華宇とあります。




○唐通事:初代:頴川藤左衛門(道隆)墓所【悟眞寺墓域】
頴川藤左衛門(天和3:1617-延宝4:1676)は中国漳州(チャクシュウ)出身で本名を陳道隆といい若くして長崎入りし、性を頴川とし藤左衛門の日本名を名のります。寛永17年(1640)最初の小通事に選ばれ、翌年には大通事となり生涯35年間にわたり唐通事職をを務めます。承応2年(1653)には長崎の大動脈である日見街道の玄関口の一ノ瀬に石橋を架橋(一の瀬橋)し、さらには福済寺の大壇越となり境内の整備が進められ、隠元禅師、木庵禅師らの日本招致に尽力した我が国文化発展の陰の立役者でもあります。




浦上淵村庄屋志賀家墓所【悟眞寺墓域】
志賀家は豊後国大友氏の家臣で大友氏が途絶えた後、長崎入りしますが、同じ豊後国府内の城主だった竹中采女正重興が寛永6年(1629)に第6代長崎奉行に任命されこともあり、竹中は志賀に浦上村淵掛の庄屋に任命し、幕末まで庄屋職となります。幕末から明治期、志賀家は海運業を始め、淵村、稲佐地区の実業家として発展しました。墓所には始祖:親成、初代:親勝と代々の墓碑があり市指定文化財に指定されています。




重修悟眞寺碑(じゅうしゅう-ごしんじひ)【悟眞寺境内】
重修悟眞寺碑は大清同治3年:日本歴元治元年(1864)、悟眞寺にゆかりのある中国人ら60余名の寄進により本堂、山門等が修復されたのを記念して建立されたもので、碑には寄進者の氏名が書かれ、当時の屋号などを知ることができます。なお、碑は風化や原爆などの影響を受け破損していますが当時を物語る遺構といえます。




金島枯骨合葬之処(こがねじま-ここつ-がっそうのところ)
/比翼塚(ひよくづか)【悟眞寺境内】
言い伝えによると、博多出身の豪商:伊藤小左衛門は五島町に屋敷を構えたいへんな贅を尽くした生活を送っていましたが、よく思わない者から密貿易の罪に問われ他の28人と共に磔刑により死罪となります。そして小左衛門を慕っていた丸山の遊女:定家も後を追って身を投げます。その後、たまたま稲佐瀬ノ脇にあった金島(コガネジマ)で穴を掘っていたところ善之助という男が人骨を拾い、その夜の夢枕で怪しげな男女がもう一つあると告げられたため、あわてて掘ってみるとやはり骨を見つけます。善之助は早速、悟眞寺の境内に丁重に葬ったといい、現在、悟眞寺の境内には「金島枯骨合葬之処」という碑と、そのことを刻した「金島枯骨誌」が建っています。




稲佐国際(外国人)墓地
悟眞寺後山で西洋人の名前が最初に見えるのは慶安2年(1649)のオランダ特派使節ペーター・ブロチホフで、来日途中の航海で死亡しました。彼は上陸後に稲佐に葬られているとありますが残念ながら現存していません。承応3年(1654)からは在留のオランダ人の埋葬が正式に許され、埋葬者も増えていきますが、現存する最古のものは安永7年(1778)でオランダ商館長(カピタン)のヘンドリック・ダークープのもので日本最古のヨーロッパ人墓所となります。以降、明治初年まで利用され、幕末、今度は稲佐地区がロシア人街となったこともありロシア人墓地も開かれ、日露戦争で犠牲となった兵士の合葬墓や小チャペルなども設けられています。なお、平成3年(1991)には当時のソ連ゴルバチョフ大統領が訪問しました。




悟眞寺唐人墓地
慶長年間(1596-1615)長崎はキリシタンの町だったため貿易で訪れた唐人らは死者を弔う寺院を持たず、そのため唐商:欧陽華宇張吉泉の二人は唯一の仏寺であった悟眞寺の住持の聖譽を訪ね壇越となることを誓い菩提寺とします。そして唐人埋葬地がなかったため時の代官:末次平蔵に願い出て幕府の許しを請い、悟眞寺の後山100間四方(180m×180m)を唐人墓地に指定し御朱印を受けます。以降、毎年定例寄進と香花料を納めることとなり、万治元年(1658)唐人壇越らは祭事用の祭壇を設け、今もその石製の香炉台などが残っています。なお、墓所には欧(陽)華宇の墓所が現存しており、あわせて現在の長崎在住の華僑を中心とした墓所も立ち並んでいます。




E-24:浄土宗終南山光明院悟眞寺
(-しゅうなんざん-こうみょういん-ごしんじ)
曙町6-14(旧 稲佐町2丁目)
慶長元年(1596)ごろ、筑後(現福岡県南部)の善導寺の聖譽玄故という僧がキリシタン全盛期の長崎に入り仏教復興のため現在地に庵を構えます。しかしキリシタンによる妨害がひどく夜襲もあって洞窟に隠れるときもあったといいます。慶長3年(1598)浦上淵村庄屋:一徳と時の長崎奉行寺澤志摩守の許しを得、悟眞寺が創建され、これが長崎郊外での最初の再興寺院となります。慶長年間、まだ長崎に仏寺がなかったこともあり多くの唐人が菩提寺として壇越になり発展しますが、元和元年(1615)以降の唐寺の創立や、元禄2年(1689)唐人屋敷の完成によって参詣者が激減。享保11年(1726)からは長崎奉行に願い出て唐船に対し定例の寄進を復活させ復興となり、以降も唐船主、唐人らの寄進を広く受け、また、オランダ人ロシア人らの墓所の提供も進め国際的な仏寺として発展します。そして稲佐地区の中心として発展した悟眞寺ですが昭和20年(1945)原爆の影響で大破し、現在の本堂はその後再建されます。




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