広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成21年 〜2009年〜
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C-365:南部下水処理場(なんぶげすいしょりじょう)
戸町5-985(戸町村下郷)
長崎市の下水道事業は昭和27年(1952)に事業が始められ、昭和36年(1961)茂里町に下水道終末処理場が設置され簡易処理が始まります(中部下水処理場)。昭和39年(1964)中部処理場の本格的処理(高級処理)が始められ、さらに市街地の拡大に伴い北部、西部に新たに処理場を設け、昭和59年(1984)南部下水処理場が完成します。現在、南部下水処理場一日の水処理能力は29,250立方メートルで中心市街地南部と戸町小ヶ倉地区などの処理に当たっています。




C-364:長崎検疫所(ながさきけんえきしょ)
戸町4-32-5(戸町村下郷)
明治10年(1877)9月上旬。中国廈門(アモイ)より端を発するコレラが長崎に上陸し10月には全国的な流行になります。9月下旬、コレラ患者は馬籠町の聖徳寺に仮避病院に収容されることになりますが住民の反対で移転を余儀なくされ、稲佐郷の計画も住民の反対によって頓挫し、結局、市街地から離れた女神に女神避病院が建設されます。この年、長崎市街では死者272人となりました。
明治13年(1880)女神検疫所が設置され来航船の検疫を始め、明治32年(1899)内務省直轄:長崎海港女神検疫所となり強化されます。平成9年(1997)福岡検疫所長崎検疫所支所となりました。




筑前公竹皮笠(たけかわかさ)
正応4年(1647)突然のポルトガル船来航で長崎港は緊張が走りますが、その際、福岡藩主松平筑前守と長崎奉行馬場三郎左衛門がポルトガル船に乗り込み交渉することになります。交渉では筑前守はわざと身分の低い様相と竹皮笠をかぶり馬場奉行のあとを進むなど、その不思議な様子にポルトガル船長らは勝手に勘違いして日本でも数少ない高貴の人物と思い込み事なきを得たといいます。一方、交渉の行き帰りは舟津浦の七兵衛という者がお連れしたのですが、七兵衛は筑前守という高貴な方の乗船にひどく感激し、さらに筑前守は御苦労であったと頭にかぶっていた竹皮笠七兵衛に賜れます。七兵衛は早速、家に持ち帰り、たまたま近所に瘧(オコリ)をわずらわせている者がいたので笠であおいでみるとたちまち瘧が治り、それがいつしか広まり笠を借りる者が絶えなくなります。最後は竹皮笠は破れ損じ親しいものに分け与えるのですが、後年、七兵衛の三代目はこの話を筑前守に申し上げたということです。




C-363:白崎台場跡(しらさきだいば-あと)
戸町5丁目/小ヶ倉1丁目(戸町村下郷/小ヶ倉村)【女神大橋橋脚南側】
寛永16年(1639)ポルトガル船の日本渡航を禁止し鎖国が完成。しかし正応4年(1647)ポルトガル船が通商再開を請うため来航し長崎港は緊張が走ります。翌年の慶安元年(1648)西泊戸町番所を増強し、承応2年(1653)幕府は平戸藩松浦肥前守に命じ長崎港内7か所に台場を設けます。このうちの白崎台場には石火矢3挺、大筒3挺が置かれました。これらの台場は後年設けられたものと区別して旧台場または在来御台場、古台場と呼ばれていて、常勤はなく非番守備で行っていました。規模は20間×(4間+4.3間)/2。(83坪:約270平方メートル)




C-362:魚見岳台場跡(うおみだけだいば-あと)
戸町5丁目(戸町村下郷)【女神大橋橋脚南側】
承応2年(1653)の神崎台場ほか6か所の台場が完成して1世紀半、文化5年(1808)平穏な時代に突如としてイギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入し警備の怠慢が露呈する形となります。そのため同年、女崎、神崎、スズレ、蔭ノ尾の4か所の新台場と魚見岳に新たな台場が設置されます。そして魚見岳台場は3段構成で一ノ増台場は27間×10間(270坪:約890平方メートル)で石火矢8挺、二ノ増台場は38間×13間(494坪:約1630平方メートル)で石火矢9挺、三ノ増台場は10間×5間(50坪:約165平方メートル)で石火矢5挺で、慶応2年(1866)廃止されました。これら台場はほぼ完全な形で現存し鎖国政策を考える上で重要な遺跡として国指定史跡に指定されています。




C-362:女神台場(新台場)跡
戸町4丁目(戸町村下郷)【女神大橋橋脚北側】
承応2年(1653)の神崎台場ほか6か所の台場が完成して1世紀半、文化5年(1808)平穏な時代に突如としてイギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入し警備の怠慢が露呈する形となります。そのため同年、女崎ほか神崎、スズレ、蔭ノ尾の4か所に新たに台場を設置し警備を強化(新台場という)します。新台場の砲備は石火矢6挺、規模は120間×10間(1200坪:約4000平方メートル)。慶応2年(1866)廃止。




C-361:女神台場(旧台場)跡(めがみだいば-あと)
戸町4丁目(戸町村下郷)【女神大橋橋脚北側】
寛永16年(1639)ポルトガル船の日本渡航を禁止し鎖国が完成。しかし正応4年(1647)ポルトガル船が通商再開を請うため来航し長崎港は緊張が走ります。翌年の慶安元年(1648)西泊戸町番所を増強し、承応2年(1653)幕府は平戸藩松浦肥前守に命じ長崎港内7か所に台場を設けます。このうちの女神台場には石火矢2挺、大筒3挺が置かれました。これらの台場は後年設けられたものと区別して旧台場または在来御台場、古台場と呼ばれていいました。規模は20間×(4.5間+4間)/2(95坪:約300平方メートル)




C-360:女神(めがみ)/満珠嶼(島)(まんじゅじま)
戸町4丁目/5丁目(戸町村下郷)
長崎港口の東側、対岸の男神に対し女神と称します。女神大橋の東側橋脚の真下の位置で、江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると、付近に小さな島があって満珠嶼とも呼ばれていました。この満珠島に対し男神側を千珠島ともいいます。




E-103:女神大橋(めがみおおはし)
木鉢町1丁目/西泊町〜戸町4丁目/5丁目
女神大橋は長崎港をまたぎ長崎の西部地区と東部地区を結ぶ主要地方道長崎南環状線、臨港道路女神大橋線の一部をなす区間をいい、橋全体の長さは1,289メートル、橋本体の長さは880メートル、主塔間長(中央径間長)480メートルで斜張橋では全国第6位の長さです。総工費約850億円(付帯工事含む)で平成17年(2005)12月11日開通しました。自動車および歩行者も通行でき、橋のそばから神崎神社へも行くことができます。




E-102:神崎台場(新台場/増台場)跡
承応2年(1653)の神崎台場ほか6か所の台場が完成して1世紀半、文化5年(1808)平穏な時代に突如としてイギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入し警備の怠慢が露呈する形となります。そのため同年、神崎ほか女神、スズレ、蔭ノ尾の4か所に新たに台場を設置し警備を強化(新台場という)。さらに文化7年(1810)神崎、高鉾、長刀岩の3か所が増強(増台場という)されます。




E-101:神崎台場跡(こうざきだいば-あと)
西泊町(旧小榊村木鉢郷字神崎/浦上淵村西泊郷)
寛永16年(1639)ポルトガル船の日本渡航を禁止し鎖国が完成。しかし正応4年(1647)ポルトガル船が通商再開を請うため来航し長崎港は緊張が走ります。翌年の慶安元年(1648)西泊戸町番所を増強し、承応2年(1653)幕府は平戸藩松浦肥前守に命じ長崎港内7か所に台場を設けます。このうちの神崎には石火矢5挺、大筒3挺が並べられました。なお、このとき神崎神社にあった男神神社が台場建設のため移設されます。




鎮懐石【神崎神社】
神功皇后が朝鮮出兵(三韓征伐)された際、肥前国彼杵郡平敷で二つの霊石を得られ、鎧の上帯にはさんだところ戦の勝利と皇子(後の第15代応神天皇)を授かります。この石を鎮懐石といい、ここでいう彼杵郡の平敷は平野宿のことではないかといい伝えられています。江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会には、浦上の本原石神で産出する赤色の燧石(ヒウチイシ)が鎮懐石ではないかと考えられていました。明治33年(1900)八幡社(八幡町)神主で神崎社も兼務していた伊藤新は木鉢に住む氏子:近藤義則宅を訪問した折、床の間に置かれた奇石に驚きます。近藤によれば旧神主の内田氏より譲り受けたものと聞き、すぐに説得して神社の御神体として奉安します。




黄金蛇紐漠倭奴国王印【神崎神社】
江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によれば、神崎神社には宝物として神功皇后が朝鮮出兵より持ち帰られたという倭奴国王印があったがいつの頃か紛失したとあり、しかも天明4年(1784)福岡志賀島で見つかった金印と全く同じで、神崎神社には印影と寸法が書きとめられたもののみが存在するとあります。当時、金印が複数あったのかどうかも分からず、昭和4年(1929)発行の長崎市史地誌部にも神崎神社のものが何らかの経路で福岡に渡ったのかもしれないとあります。今後の研究を待ちたいと思います。




神崎船魂大明神の伝説A
正徳4年(1714)台湾船「巳十番船(船主:謝叶運)」は長崎港外に停泊して出港準備をしていました。突然、暴風が発生し碇綱は切れ荒波にもまれながら神崎神社のある岬に打ちつけられそうになり、そのため船主と乗組員全員が神崎神社に向かい難除けの祈願を行います。しかし次第に岩礁に寄せつけられあわやというとき、突然、神社の方から雄風(ユウフウ)が起き船はたちまち港内へと吹き入れられるのです。乗組員全員は九死に一生を得、のちに船員たちは神崎神社に金鼓を鳴らし感謝の意と銀11貫目を奉納します。これ以降、唐人らは神崎沖を通過する際、船を止めて幣を捧げ金鼓を鳴らし拝礼し、また、出港の際は神崎社後方の松の枝ともらいうけ船のマスト上部に指し「追風の松」と唱え一同が拝礼して出港するのが常となります。




神崎船魂大明神の伝説@
宝永5年(1708)2月。大坂堺より来航していた辨才新艘という船が長崎の港を出港することになり、船には長崎在住の老若男女数人がお伊勢詣でのため便乗することになりました。船は順調に出航していましたがしだいに強風が吹き始め大荒れの状態になり、数度となく転覆しそうになります。このため乗組員は必死に神崎明神に願を掛け、幣を捧げて一心に念じたところ不思議にも暴風が止み、最寄りの港に難を逃れることができ乗組員は安堵したといいます。




E-100:船魂四所大神(ふなだま-よところおおかみ)【神崎神社入口部】
慶安元年(1648)第15代長崎奉行:山崎権六郎は神崎神社内に西宮恵美須神社を勧請するよう銘を出しますが、これは同年、戸町西泊両番所の増強した年でもあり、恵美須神が航海安全の神であることと番所の安全を祈願したもので、のちに恵美須神は神崎船魂四所大神と呼ばれます。大正2年(1913)以降、男神神社に併合、合祀しされています。




E-99:男神神社(おがみじんじゃ)【神崎神社〜頂上部】
男神神社はもともと専女白狐社(トウメ-シロギツネ-シャ)と称し、のちに保食大神をお祀りする稲荷神社となります。この専女白狐社の祭神は神功皇后が朝鮮出兵(三韓征伐)の帰路、長崎の港に立ち寄られた際、朝鮮から従えて来た白狐神と伝えられ、以降、狐が稲荷神の遣いということもあり大切にお祀りされます。承応2年(1653)に台場建設に際し社殿が移設、さらに明治維新後、男神神社に改称され、いつしか金貸稲荷と称されるようになります。大正2年(1913)神崎神社に合祀されています。なお、俗信によれば上がっている賽銭をいくばくか持ち帰り、それを資金の一部として事業を成せば成功するといわれ、成功した後は必ずお礼をし、再び、持ち帰ればよいといういわれがあります。現在は大変荒廃しています。




ポルトガル船入津事変の神異
寛永16年(1639)ポルトガル船の日本渡航を禁止し鎖国が完成。しかし正応4年(1647)6月。ポルトガルは通商再開を請うため軍艦2隻で長崎港に来航し緊張が走ります。近隣諸藩は5万の兵を集結され、また、市民の多くは郊外に避難します。諸藩は協議を重ね長崎港を遮断することにし男神-女神間に船橋を架けることにします。しかし波風高く困難を極め、そこで内田次郎助宗貞が女神より男神に祈祷を試みたところ2匹の白狐船橋の前に現れ、男神から女神へと走り去る様子を見ます。するとたちまち波風が治まり船橋が完了したといいます。こののち内田次郎助は神崎神社の祠を建立し祭典を執り行います。なお、ポルトガル船は8月に交易を断念し帰帆します。




○神崎神社の神功皇后の伝説
奈良時代に書かれた日本書紀、万葉集によれば、3〜4世紀、神功皇后が朝鮮出兵(三韓征伐)をなされますが、一説には夢のお告げによって長崎の港(当時、深江浦という)に立ち寄られ、肥前国彼杵郡平敷(現 平野?)で二つの霊石を得られ、鎧の上帯にはさんだところ戦の勝利と皇子(後の第15代応神天皇)を授かったとあります。また、このとき長崎を船出する際、港口の景色に絶賛され岬に陽神(男神)と航海の神である住吉神を祀り、さらには倭奴国王印を御神体として与えたとあります。ちなみに金印は福岡志賀島で発見されたものと同一です。現在所在不明。




E-98:神崎神社(こうざきじんじゃ)
西泊町(旧小榊村木鉢郷字神崎/浦上淵村西泊郷)
神崎神社は長崎港口にある神社で現在は女神大橋の西側橋脚の真下に位置します。神崎神社の歴史は古く遠く奈良時代にさかのぼります。言い伝えによれば3〜4世紀、神功皇后が朝鮮出兵(三韓征伐)のため長崎の港に立ち寄られた際、付近の景色に絶賛され岬に陽神(男神)と航海の神である住吉神を祀ったといわれ、さらに天正9年(1581)摂津国(神戸付近)の内田八左衛門重貞が一時稲佐に滞在していたとき神功皇后を勧請します。しかし、以上は言伝えであって正式に社殿が設けられたのは正保4年(1647)ポルトガル船入津事変のときで、警備に参加した内田次郎助宗貞が神威に感謝し小祠を建立したことに始まります。以降、港内安全の神として称えられますが、明治維新後は寄付金等がなくなり衰退し、現在は西泊地区の住民によって管理されています。




E-97:神崎(こうざき)/男神(おがみ)
西泊町(浦上淵村西泊郷)
江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると、天門峰の先端を神崎といい、ふもとの大岩を男神といいます。これは対岸の女神に対し男神とうもので俗に生石(イキイシ)とも称します。神崎の下には入り江があり姥ケ懐(ウバガフトコロ)といい、その横の洞を辛螺洞(ニシドウ)といいます。当時はよく魚が釣れたそうです。現在では神崎の海岸は埋立てられ当時の様子を知ることができません。




E-96:天門峰(てんもんほう)
西泊町(浦上淵村西泊郷)
長崎港の入り口。稲佐山より連なる山は絶壁にて海に落ち込みそこを神崎(コウザキ)といいます。その神崎と西泊の中間にある山を天門峰といい、ちょうど対岸の小ヶ倉山(大久保山)と合わせここが天につながる門にたとえ天門峰と呼ばれます。また、山の形が白衣を着た観音菩薩に見立て観音山とも称し、当時、ここの前を通過する船は必ず香を焚き銅鑼や太鼓を鳴らし拝礼していました。それは船神が観音菩薩の化身といわれていたからです。




E-95:スズレ台場跡
西泊町(浦上淵村西泊郷)
承応2年(1653)の太田尾台場ほか6か所の台場が完成して1世紀半、文化5年(1808)平穏な時代に突如としてイギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入し警備の怠慢が露呈する形となります。そのため同年、スズレほか女神、神崎、蔭ノ尾の4か所に新たに台場を設置し警備を強化(「新台場という)。このうちスズレ台場には石火矢5挺が置かれました。規模は20間×11間(220坪:約730平方メートル)




E-94:太田尾台場跡(おおたお-だいば-あと)
西泊町(浦上淵村西泊郷)
寛永16年(1639)ポルトガル船の日本渡航を禁止し鎖国が完成。しかし正応4年(1647)ポルトガル船が通商再開を請うため来航し長崎港は緊張が走ります。翌年の慶安元年(1648)西泊戸町番所を増強し、承応2年(1653)幕府は平戸藩松浦肥前守に命じ長崎港内7か所に台場を設けます。このうちの太田尾には石火矢3挺、大筒3挺が並べられました。規模は表21間・東4間・西5間(約95坪:約300平方メートル)




E-93:太田尾(おおたお)
西泊町(浦上淵村西泊郷)
西泊から海岸沿いに南に進むと太田尾というバス停があります。昔はこの付近が海に突き出た断崖でスズレと称し、沙崩(スナクズレ)がスズレとなったものと考えられます。また、太田尾のバス停から数十メートル進むと神崎鼻口のバス停があり、地形的に昔は付近に深い洞があって烏丘洞(オオドウ)と称していました。西泊の南側の地域は尾っぽのように突き出た地形でのちにここは太田尾と呼ばれます。




海魂の碑(かいこんのひ)【NTTWEマリン
海魂の碑とは第二次大戦中に海底ケーブルの敷設作業船に乗り、魚雷や機雷により沈没したり遭難して命を失った方々や、作業中に事故等に遭われ犠牲となった方々を慰霊するために昭和62年(1987)に建立されたものです。また、碑には第二次大戦中、海底線工事事務所所長だった柏原榮一が、昭和19年(1944)作業船:南洋丸で犠牲となった20名に贈った詩が刻されています。
碑文「時は遷れども君が磯ちかく 寄する濤音にわれは聴くなり 1946-8/22」




E-92:NTTワールドエンジニアリングマリン
西泊町22-1(浦上淵村西泊郷)
NTTワールドエンジニアリングマリン(本社横浜市)はNTTの子会社で主に通信海底ケーブルの敷設、修理、保守を行う会社で、西泊港を基地とした専用の特殊船を保有しています。
敷地内には海底船史料館があり明治から現在までの海底ケーブルの歴史史料が展示されています。また、史料館は明治29年(1896)に建てられた平屋煉瓦造の建物で、当時、管理していた陸軍省臨時台湾電信建設部によって海底船貯船槽「電源舎」として建てられました。
参照C-204:2006/04/03




E-91:佐藤家住宅主屋ほか(さとうけじゅうたく-おもや-ほか)
西泊町8-22(浦上淵村西泊郷)
佐藤家住宅は幕末から明治中期にかけて造られた家屋で、主屋、木造別棟、木造附属屋、石造倉庫A、石造倉庫Bの5棟からなります。
国指定登録有形文化財
主屋
明治32年(1899)頃に建てられた寄棟造り2階建の住宅で、東側に煉瓦の防火壁と2回窓部にアーチ型開口部があるのが特徴です。
木造別棟
明治初期建造の1階が石造倉庫、2階が木造の数寄屋風建物です。
木造附属屋
木造附属屋は主屋と南側にある石造倉庫Bをつなぐ役割の建物で、煉瓦の防火壁を有しています。
石造倉庫A
石造倉庫Aは明治初期に建てられた外国人居留地で多く見られた石造倉庫で、砂岩の石と俗に「こんにゃく煉瓦」と呼ばれる薄い初期のころの煉瓦を使用した建物です。
石造倉庫B
石造倉庫Bは明治中期に建てられた外国人居留地で多く見られた石造倉庫で、現存する建物としては大変貴重な構造物です。




青年会館建設記念碑
西泊町8-24(浦上淵村西泊郷)【西泊公民館内】
西泊は明治31年(1898)に長崎市に編入し、大正2年(1913)西泊郷より西泊町となり今に至りますが、大正13年(1924)には地区の集会場として青年会館が完成。青年会館はのちに現在のように公民館として利用されるようになりました。




西泊天満宮の言い伝え
江戸時代初期、長崎の谷村(現在の西泊?)に住む保正甚左衛門という人物(長崎甚左衛門とは別人か?)は自身の子:三平が痘瘡を患ったため天満宮に祈願したところたちまち快方に向かいます。甚左衛門は他界しますが、むすこがその遺志を継ぎ享保3年(1718)太宰府に赴き参道にて梅の御守り受け、それを祭神とし自邸にお祀りします。しかし祠のそばに移り住んだ大村の禅僧:随音が失火させ、祠とともに御神体が燃え上がるも無事に残り、のちに番所に派遣された藩士らが祠の再建を行い、元文年間、京都の仏師を長崎に呼び新たな天神像を刻ませ、懐に焼け残ったお守りを納め入れお祀りします。さらに寛保2年(1742)石丸采女を祭祀とし祈祷所なども設け整備し、以降、番所の崇敬神としてあがめられるようになります。




E-90:西泊天満宮(にしどまりてんまんぐう)
西泊町9(浦上淵村西泊郷字折紙)
延宝7年(1679)この地に置かれた西泊番所に派遣された筑前福岡藩士などが同地の太宰府天満宮の遥拝所として勧請されたのが始まりといわれ、江戸時代は石灯篭など多くを福岡藩士が奉納しており、拝殿内にある鯉額は安政6年(1859)のものです。明治維新後、番所廃止後は西泊地区の鎮守神として親しまれています。




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