広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成21年 〜2009年〜
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E-150:450年のきもの【稲佐山山頂】
450年のきもの」とはポルトガルの芸術家ペドロ・ラモスの作品をいい、平成5年(1993)日本とポルトガル国の友好450周年を記念して建立されたものです。この年、当時のポルトガルの大統領ソアレス氏が来崎し友好親善を深めました。なお、450年前とは、天文12年(1543)ポルトガル人が種子島に漂着した年で鉄砲を伝えた年でもあります。




E-149:吉井勇歌碑(よしいいさむ-かひ)【稲佐山山頂】
吉井勇(明治19:1886-昭和35:1960)は東京高輪南町生まれで鹿児島藩士吉井友実の孫で伯爵家の家柄です。与謝野鉄幹主宰の新詩社に入り「明星」に短歌を発表し頭角を現します。その後、早稲田大学政治経済科に進みますが中退し、北原白秋らと「パンの会」を結成。ここは耽美派という生活の中に美を求める考え方で、さらには「スバル」にも入り石川啄木らと編集を担当します。後年は京都祇園を好み都をどりに尽力しました。
昭和34年(1959)当時の長崎市長田川務が吉井勇本人に長崎の景観を見てもらいたく招待し歌碑の除幕式が行われました。
碑文「おほらかに稲佐の嶽ゆ 見はるかす 海もはろはろ 山もはろはろ




E-148:稲佐山(いなさやま)
稲佐山は長崎市街地に西にそびえる標高333メートルの山で稲佐嶽伊渚嶽(イナサダケ)ともいい、古くはふもとに稲佐氏の居城があったところから稲佐岳と呼ばれるようになったものです。
山腹には公園が整備され、野外コンサート場、野外音楽堂、鹿や猿の飼育場などがあり市民のレクレーションの場所となっています。また、山頂からは長崎半島、佐世保針尾島、多良山系、雲仙普賢岳、天草島や遠く五島列島まで眺めることができ、夜ともなれば1000万ドルと称される夜景は日本三大夜景の一つです。




E-147:長崎ロープウェイ
昭和33年(1958)当時の長崎市長田川務と中部悦良らによって長崎観光開発株式会社が設立され、長崎の観光発展のため水族館建設および稲佐山ロープウェイ架設事業が計画されます。前年の32年(1957)には稲佐山登山道路の開通。34年5月には稲佐山野外音楽堂の完成し、そして10月、ロープウェイの営業が始まります。総延長1053メートル、高低差は304メートル、総工費は1億2000万円(現在のお金で約2億5000万円)。淵神社駅から稲佐山山頂駅まで約5分で結びます。当時としては日本一のスピードを誇っていました。




御製の碑【淵神社境内】
御製の碑は昭和50年(1975)淵神社によって昭和天皇即位50年を記念して建てられたもので、文字は蓮沼門三によります。
御製「我が庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らきを いのる朝々

長崎川柳社川柳碑【淵神社境内】
川柳碑は昭和49年(1974)に建てられた碑で池田可宵をはじめとする38名の川柳が刻されています。




高木稲荷神社(たかぎいなりじんじゃ)【淵神社境内】
高木稲荷神社は元文4年(1739)より幕末まで代々代官を務めた高木家の屋敷内にあった稲荷神で、現在の桜町小学校(旧 勝山小)にありました。明治維新により代官が配されると屋敷も整理され、その後、淵神社境内に移されたものと考えられます。伏見稲荷より分霊されたものです。

宝珠稲荷神社(ほうしゅいなりじんじゃ)【淵神社境内】
宝珠稲荷神社は愛知県豊川市にある圓福山妙厳寺(通称:豊川稲荷)より御霊を分霊し淵神社にお祀りしたもので、宝珠山より宝珠を冠にし宝珠稲荷神社となりました。

十二支神社(じゅうにしじんじゃ)【淵神社境内】
一二支の干支にちなんだ神社で一二の干支を二つずつ六つに分け各干支を配しお祀りしたもので大変ユニークな神社です。子午社・丑未社・寅申社・卯酉社・辰戌社・巳亥社




天女廟碑(てんにょびょうひ)【淵神社境内】
天女廟碑は境内にある桑姫社にお祀りされている桑姫様の由来記で、文政12年(1829)に志賀家の子孫:志賀和一郎親善ら4名によって建立されています。当初、桑姫様の屋敷と墓所は竹之久保郷尾崎(現 西高)に建てられていましたが、明治時代、その場所は重砲大隊用地となることになり明治33年(1900)志賀家子孫:志賀親朋によって淵神社内に移設。墓所、天女廟碑、文化元年(1804)建立の石鳥居が運ばれます。
○桑姫祠
桑姫社そばにある祠は明治33年(1900)に設けられたもので、桑姫様の経緯などを当時の長崎市議会議長である西道仙によって刻されています。




E-146:桑姫様(くわひめさま)【淵神社境内】
淵神社境内にある桑姫社は大友宗麟の子である大友義統(ヨシムネ)の娘:阿西御前(オニシゴゼン)の墓所といわれています。16世紀末、豊後(大分)の大名であった大友氏が滅亡すると御前が孤児となったため先に長崎入りしていた家臣の志賀大内蔵親成(シガ-オオクラ-チカナリ)が長崎に迎え入れ稲佐淵村に住むようになります。御前は長崎では桑を植え養蚕を始め、糸を紡いで地区の女の子に教えていたそうで、いつしか桑姫様を呼ばれるようになります。しかしその後の寛永4年(1627)に病死され丁重に葬られますが、墓所には標として桑が植えられたそうです。なお、言い伝えによると里民が墓所に不敬を働くと祟りがあるといわれています。戒名「貞照院殿桑譽性善妙智大姉」




E-145:淵神社の常夜灯(灯篭)【淵神社境内】
この常夜灯(灯篭)は元禄6年(1693)長崎奉行河口摂津守が奉納したもので、当初は階下海中、約1町(=約110メートル)のところにそびえたち、周辺の風景とともに崎陽一の名勝とまでいわれていました。明治37年(1904)の長崎港湾改良工事から次第に周辺が埋立てられ、さらに三菱造船所の製材工場建設に伴い、神社前面が貯木場となったため、大正12年(1923)境内地に移されました。灯篭には次のように刻されています。
元禄六癸酉年九月激浪の襲ふ所となりて・・(不明)・・蓮華座八面に海龍を刻す




E-144:渕神社(ふちじんじゃ)
淵町8-1(浦上淵村竹之久保郷/竹ノ久保町)
明治維新を受け萬福寺は廃され本尊の辧財天像、脇侍十五童子および仏具すべてが長崎裁判所に送られ(のちに延命寺に送る)、社地を清め市杵島姫命を祭神として淵神社が始まります。もともと萬福寺自体が真言宗の両部神道形式だっため本尊と仏具を入れ替えるだけで神社形式と変わり、さらに梵鐘は売却となりました。昭和20年(1945)原爆の影響で倒壊し、昭和35年(1960)強固な建物にとの願いで鉄筋コンクリート造の建物になり今に至ります。なお、秋の例大祭は稲佐くんちと呼ばれ奉納相撲も盛んに行われています。
祭神:田心姫命(タギリヒメノミコト):市杵島姫命(イチキヒメノミコト)、瑞津姫命(タギツヒメノミコト)これを宗像三女神といい、相殿に菅原大神と保食大神をお祀りしています。




高一覧の鳥居【淵神社】
慶安年間(1648-52)高一覧の妻がある日、霊夢を感じたため萬福寺に石の鳥居を建立します。鳥居にはのちの興福寺第6代住持となる雷音搏(中国山西省洪洞県出身:元和6:1620年渡来)によって銘が施されます。現存せず。
高一覧は日本名を渤海/深見久兵衛といい中国福建省漳州(チャクシュウ)出身で、来崎後は福済寺の大壇越となり活躍した人物です。高一覧は慶安3年(1650)に大手橋、明暦3年(1657)一覧橋を架橋しています。D-167:2007/07/19参照




E-143:真言宗寶珠山能満院萬n寳ユ
(-ぼうじゅざん-のうまんいん-まんぷくじ-あと)
淵町8-1(浦上淵村稲佐郷/竹ノ久保町)【淵神社】
天保4年(1647)寺町にある延命寺開基の龍宣は昔からゆかりのある弁財天を勧請し一寺を設け萬福寺が創建。地区では稲佐弁天社と呼ばれます。元禄6年(1693)には長崎奉行河口摂津守が拝殿廊下を再建し、社前前方の海中に大石灯篭一基を建設し弁天社のシンボルとなります。さらに正徳元年(1711)には梵鐘も鋳造します。明治維新を受け萬福寺は廃され淵神社となり、本尊ほかはすべて長崎裁判所に送られ(のちに延命寺に送る)幕を閉じます。




E-142:寶珠(宝珠)山(ほうじゅざん)
伝説によると長崎には神宮寺という寺院が今の諏訪神社付近に立っていたと記されていますが、始まりは聖徳太子が活躍していた推古天皇5年(597)朝鮮半島の百済より渡って来た琳聖太子が建てた道場で、のちの弘仁年間(810-824)に嵯峨天皇の許しを得て寺院とし、その後、代々長崎氏がお祀りをしていたといいます。
その神宮寺の支院が現在の淵神社のところにあって弁財天を祀り、その上の山頂に虚空蔵菩薩と玄武神をお祀りし、玄武神の化身が妙見菩薩ということもあり妙見嶺または虚空蔵峰と称していました。そしてのちに2体の神を祀った山ということで寶山と呼び、のちに宝珠の玉のように峰が茂っているところから寶珠(宝珠)山と呼ばれるようになります。




E-141:辧財神社(べんざいじんじゃ)
曙町28-11(浦上淵村稲佐郷)
正保4年(1647)稲佐村に宝珠山萬福寺が弁財天を本尊として創建。明治維新を受け廃寺となり淵神社となります。そして本尊の弁財天と脇侍2体は延命寺に移されますが、明治22年(1889)稲佐村の村民らが弁財天の再興を願い、翌23年、旧稲佐村万六氏社を改修し弁財天および脇侍2体を迎え入れ、あわせて稲佐氏をお祀りし辧財神社の創建となります。昭和20年(1945)原爆の影響で社殿及び鳥居が崩壊。のちに再建されます。




E-140:長崎市立稲佐小学校(-いなさしょうがっこう)
稲佐町11-1(浦上淵村稲佐郷)
明治15年(1882)に稲佐尋常小学校が開校。明治41年(1908)には淵高等小学校と合併して稲佐尋常高等小学校となります。第二次大戦時の昭和16年(1941)には稲佐国民学校に改称。昭和20年(1945)原爆の影響で木造校舎は倒壊します。その後、復旧され昭和22年(1947)新学制により長崎市立稲佐小学校となります。昭和34年(1959)鉄筋コンクリート造の校舎となり、平成4年(1992)オープンスペース型の現在の校舎となります。




E-139:曙町(あけぼのまち)
昭和40年(1965)それまでの稲佐町1、2、3丁目の一部が合併し曙町が生まれます。曙町の由来は地区が稲佐地区でも高台に位置し東から昇る朝日を一早く眺めることができることから曙町と命名されました。




E-138:光町(ひかりまち)
昭和40年(1965)それまでの稲佐町2、3丁目と旭町1丁目の一部が合併し光町が生まれます。光町の由来は隣接している曙町や旭町など朝日に関係のある言葉、光に関係がある言葉から光町と命名されました。




E-137:弁天町(べんてんまち)
昭和40年(1965)それまでの稲佐町1、2丁目と旭町2丁目の一部が合併し弁天町が生まれます。弁天町の由来は長崎港に面した海岸沿いの地域で漁業関係者が多く、地区の自治会名が弁天と称していたことから弁天町となりました。また、弁天とは弁財天の略で淵神社の祭神が市杵島姫命(弁財天)であることも関係があると考えられます。




E-15:稲佐(いなさ)
稲佐のイナは古代では砂地あるいは砂州を指し、サは小さいという意味で、イナサで小さな砂浜となり現在の旭町の商店街付近に砂浜があったものと考えられています。9世紀、このあたりに小豪族の稲佐(伊奈佐)氏がいて居城を構えていたといい、のちに(14世紀には)滅亡したものといわれています。そうして悟真寺の古井戸は稲佐氏使用の井戸といわれ付近がその館跡と伝えられています。その後、小豪族の浦上氏に支配され浦上村に属し、のちに浦上南村から浦上淵村となり、やがて浦上淵村稲佐郷、大正2年(1913)稲佐町1〜3丁目、昭和40年(1965)町界町名変更によって現在の稲佐町、光町、曙町、弁天町、旭町、江の浦町などに分割されます。




○陰ノ尾台場跡(かげのおだいば-あと)
旧香焼島と高鉾島の間に以前まで陰ノ尾島があって、明治37年(1904)の松尾鉄工所(のちの川南造船所)の建設以降、島は開発され原形をとどめていません。
寛永16年(1639)ポルトガル船の日本渡航を禁止し鎖国が完成。しかし正応4年(1647)ポルトガル船が通商再開を請うため来航し長崎港は緊張が走ります。翌年の慶安元年(1648)西泊戸町番所を増強し、承応2年(1653)幕府は平戸藩松浦肥前守に命じ長崎港内7か所に台場を設けます。このうち4か所は長崎港外に設けられ、陰ノ尾島の西側に陰ノ尾台場が設けられ侵入の船を警戒していました。




○長刀岩台場跡(なぎなたいわだいば-あと)
旧香焼島と高鉾島の間に以前まで陰ノ尾島があって、その島の最北端が長刀に似ているところから長刀岩または長刀鼻といいます。現在の三菱重工業香焼工場北側です。
寛永16年(1639)ポルトガル船の日本渡航を禁止し鎖国が完成。しかし正応4年(1647)ポルトガル船が通商再開を請うため来航し長崎港は緊張が走ります。翌年の慶安元年(1648)西泊戸町番所を増強し、承応2年(1653)幕府は平戸藩松浦肥前守に命じ長崎港内7か所に台場を設けます。このうち4か所は長崎港外に設けられ、陰ノ尾島の北、長刀岩に設けられ侵入の船を警戒していました




E-136:神ノ島台場跡(かみのしま-だいば-あと)
神ノ島町3(深堀村神ノ島名/小榊村字神ノ島)
江戸時代後期、長崎港外にしばしばオランダ以外の船舶が来航するようになり、弘化3年(1846)長崎の警備にあたっている筑前黒田藩、佐賀鍋島藩は幕府に対し港口にあたる伊王島と神ノ島に砲台建設が急務であることを建議しますが多額の費用がかかることから拒否。しかし次第に日本への外国船の来航が頻繁になり、嘉永6年(1853)佐賀藩は自領である伊王島と神ノ島に幕府より5万両を借りて洋式砲台を建設し警備に備えます。神ノ島台場は神ノ島と四郎ヶ島を結び建設されたもので一般に四郎ヶ島台場といいます。




E-135:四郎ヶ島(しろうがしま)・中ノ島(なかのしま)・松島(まつしま)
神ノ島町3(深堀村神ノ島名/小榊村)
神ノ島の西側に並ぶ三つの島を三嶼(ミツシマ)と呼び、神ノ島に近いほうから四郎ヶ島、中ノ島、松島といいます。
松島はオランダ船入港時、役人や通詞らがここで来航を待っていたところから待つ島でそれが転化して松島といい、四郎ヶ島は台場建設によって島全体が石垣で囲まれお城の城壁に似ているところから城が島、それが転化して四郎ヶ島となったともいわれています。中ノ島は松島四郎ヶ島の間の島ということで中ノ島といいます。




E-134:高鉾台場跡(たかぼこだいば-あと)【高鉾島】
寛永16年(1639)ポルトガル船の日本渡航を禁止し鎖国が完成。しかし正応4年(1647)ポルトガル船が通商再開を請うため来航し長崎港は緊張が走ります。翌年の慶安元年(1648)西泊戸町番所を増強し、承応2年(1653)幕府は平戸藩松浦肥前守に命じ長崎港内7か所に台場を設けます。このうちの高鉾島には石火矢2挺、大筒3挺が並べられました。規模は20間×(5間+4間)/2(90坪:約300平方メートル)。さらにフェートン号事件を受け、文化7年(1810)神崎、高鉾、長刀岩の3か所が増強(増台場という)されています。




高鉾島の殉教
高鉾島は禁教令に際しポルトガル人宣教師らを山頂から海中に投じた場所と伝えられ、別名をバーベンベルグといい、意味は天使教徒山で西洋史にもたびたび登場する山といわれています。
元和3年(1617)ガスハル上田彦次郎は、ナバレト神父を自分の家にかくまった罪で、アンドレア吉田はアウグスチン会のエルナンド神父とナバレト神父の宿主ということで高鉾島で首を切られ海に捨てられました。




E-133:高鉾島(たかぼこじま)
神ノ島町2(深堀村神ノ島名/小榊村)
神ノ島の南東約300メートルのところにある島を高鉾島または高鉾嶼といいます。島の周囲は約900メートル、標高の高いところは72.8メートルの小さな島で、神功皇后出航の際、島の形が瓊矛(トボコ=美しい玉で飾った矛)に似ているところから、転化して高鉾になったといわれています。昔は高向島(タカムクジマ)や竹篙嶼(タケザオジマ)といい、さらに檳榔嶼(ヒンロウジマ)や皇帝卵(コウテイラン)、カテドラなどは南蛮人(ポルトガル人)らがそう名付けたといわれています。また、慶長14年(1609)のマードレ・デ・デウス号事件の際、有馬晴信が陣とした島でもあります。




E-132:マリア像
神ノ島町2(深堀村神ノ島名/小榊村字神ノ島)【蝦蟇島】
昭和24年(1949)神ノ島教会信徒らは聖フランシスコ・ザビエル渡来400周年を記念して港口の岬の上にマリア像を建立しましたが、長年の風雨によって傷んだため、昭和59年(1984)に有志によって再建され、再び長崎港口のシンボルとして生まれ変わりました。現在のものは2代目で、マリア像は世界平和と航海安全を祈念しています。製作者:ファロニー師(サレジオ会/イタリア人)、マリア像の高さ4.6メートル。




E-131:蝦蟇島(どんくう-じま)
神ノ島町2(深堀村神ノ島名/小榊村字神ノ島)
神の島の南、現在、マリア像がある島を蝦蟇島といいます。蝦蟇は本来は「ガマ」と読み、長崎弁でカエルのことをドンク(もしくはドンクウ)というところから当て字になっています。島の形がドンク、カエルに似ているところからこう呼ばれています。島には豊漁の神である恵比寿神の石像が祀られ、合わせてマリア像がそびえています。現在、この島をドンク島と呼ぶ人は皆無に等しい。




E-130:福音宣教先駆者信仰の碑【神の島教会】
碑文「神ノ島の西忠吉・政吉の兄弟は信徒発見後、出津、黒崎をはじめ、天草の大江、崎津方面にプチジャン神父を舟で案内し、かくれキリシタンの信仰復帰に尽力した。
神ノ島教会敷地内には西忠吉・政吉両氏の墓所があり、平成12年(2000)には「高鉾島殉教者顕彰碑」と「福音宣教先駆者信仰の碑」が教会信徒らによって建立されています。




E-129:高鉾島殉教者顕彰碑【神の島教会】
元和3年(1617)ガスハル上田彦次郎は、ナバレト神父を自分の家にかくまった罪で、アンドレア吉田はアウグスチン会のエルナンド神父とナバレト神父の宿主ということで高鉾島で首を切られ海に捨てられました。これは慶長17年(1612)のキリシタン禁教令以降、強化された弾圧の一つであったと考えられ、この年はあわせて大村純頼が将軍秀忠より長崎のキリシタンの潜伏を厳しく詰問した年でもあります。なお、二人は慶応3年(1867)に福者の位に列福していますが当時日本は弾圧厳しい折、海外で列福されたと考えられます。




E-128:神の島教会(かみのしまきょうかい)
神ノ島町2-148(深堀村神ノ島名/小榊村字神ノ島)
神ノ島は江戸時代、佐賀鍋島藩深堀氏の所領で鍋島藩が比較的キリシタンへの取り締まりが寛大だったため同じ鍋島藩である外海地区や矢上、諫早、佐賀などから多くのキリシタンが移住した地域でした。そのため教会建立も大変古く、明治9年(1876)フランス人宣教師によって仮教会が建てられ、明治30年(1897)現在の建物である神の島教会が誕生しました。大浦天主堂に次ぐ我が国で2番目に古い教会です。




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