広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成21年 〜2009年〜
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「自学-通信制-」の碑【西高校】
西高校で行われた通信制教育は昭和23年(1948)3月に県立長崎中学校で開始され、同年4月に県立長崎高等学校通信教育部となり、同年11月に県立長崎西高等学校通信教育部になります。そして平成12年(2000)県立鳴滝高等学校へと移管統合しました。この「自学の碑」は平成12年(2000)西高校によって移設整備されました。
旧碑文「昭和32年秋、西高通信制から一人の卒業生が誕生した。爾来二七年、その数は一五九五名を数える。このたび待望の専門校舎が完成するに当たり、自らの意思で求めて学ぼうとする通信制の伝統と、その一層の発展を祈念してここに自学の碑を建立する。
昭和六〇年四月一日 長崎県立長崎西高等学校通信制同窓会

自学-通信制-」の書は時の校長:高口一成氏によるものです。




「自律」の碑【西高校】
この碑は平成11年(1999)1月。西高校の創立50周年を記念して建立されたもので、第51回生(平成11年3月卒業)と第52回生(平成12年3月卒業)、 第53回生(平成13年3月卒業)によって建立されました。正面の西高の校是である「自律」は、書家:津金孝邦によるものです。
津金孝邦(昭和4:1929- )長野県生まれ、平成8年(1996)日展文部大臣賞受賞

「自律之鐘」【西高校】
平成10年(1998)長崎県立長崎西高等学校同窓会によって創立50周年記念の鐘が建立されました。




「自律」の像【西高校】
昭和53年(1978)長崎県立長崎西高等学校同窓会によって創立30周年記念の像が建立されました。台座には昭和23年(1948)の教育改革に際し、県立長崎中学校、県立長崎高等女学校、市立高等女学校、県立瓊浦中学校とを統廃合し東高と西高の2校に編成されたこと、そして、西高の校是である「自律」が刻まれています。像は富永直樹作。




柏の森の碑【西高校】
この碑は昭和53年(1978)西高校創立30周年記念協賛会によって建立されたもので、「柏の森」とは西高校の校章に使われている柏の木を植樹し「柏の森」を造るという創立30周年記念事業でもありました。
碑文「柏の葉は、枯れても冬に耐え、春に新しい葉を出すのを待っている。風雪と戦う枯れ葉の姿は、不屈な強さの象徴であり、生命の持続の見事な典型である。わたしたちは、柏の葉を校章とする長崎西高の永遠の隆盛を祈り、創立三十周年を機会に、柏の森の建設を決定した。この森が、眉秀でたる若人たちのひとみに、勇気を与え、やすらぎを与えることを望み、さらには、この地から巣立つ若鳥たちの、魂のふるさとになることを期待するものである(以下略)」




○長崎県立瓊浦中学校記念碑【西高校】
平成4年(1992)旧長崎県立瓊浦中学校同窓会によって創立70周年の記念碑が建立されました。
碑文「この地に始まり この地に終わる 平成四年夏」

不撓不屈の碑(ふとうふくつ-のひ)【西高校】
昭和46年(1971)旧長崎県立瓊浦中学校同窓会によって創立50周年の記念碑が建立されました。「不撓不屈」とは、どんな困難に直面してもひるまず立ち向かうという意味で、旧瓊浦中学校の校是であって、各教室ごとに扁額が掲げられ生徒に指導した言葉でした。




学校坂・遅刻坂・強兵坂・くたばり坂
西高への上り坂を学校坂・遅刻坂・強兵坂・くたばり坂などといいます。学校の登り口ということで学校坂といい、遅れて登校する生徒の行く手をはばむかのような急坂は遅刻坂とも呼ばれます。明治後期、重砲大隊本部が置かれたころは強兵坂と呼ばれ、兵隊が重砲を引っ張り上げて訓練する姿から、くたばり坂とも呼ばれました。なお、坂の斜面にあるクスノキは瓊浦中学校が開校した大正12年(1923)に植樹されたもので学校境界を意味し、昭和20年(1945)原爆で一瞬にして枝葉が焼失しましたが、次第に回復し今に至っています。




E-171:長崎県立西高等学校(-にしこうとうがっこう)
長崎県立西高等学校「通称:西高(にしこう)」の前身は、大正12年(1923)県立瓊浦中学校として開校したのが始まりとなります。しかし長崎県立瓊浦中学校は昭和23年(1948)の教育改革により新制高校に変わり、明治17年(1884)開校の長崎県立長崎中学校、明治35年(1902)開校の長崎県立長崎高等女学校、大正11年(1922)開校の長崎市立高等女学校とを統廃合し、東高と西高の2校に編成し直します。そして当初は鳴滝町に西高校は開校し、その後、竹の久保町に移転します。




E-170:長崎県立瓊浦中学校跡(-けいほちゅうがっこう-あと)【西高校】
大正12年(1923)県立瓊浦中学校が開校。当初は大隊本部兵舎を仮校舎とし、翌年、校舎を新築して移転します。昭和3年(1928)になって開校式が行われました。校舎は木造2階建の本館と別館、平屋建の新築校舎がありましたが昭和20年(1945)原爆によって倒壊焼失し、学校での犠牲者は生徒387人、教職員ほか18人、合計405人と推定されています。昭和23年(1948)教育改革により長崎県立長崎高等女学校、長崎県立瓊浦中学校、長崎市立高等女学校の3校と統廃合され、長崎県立東高等学校と西高等学校の2校に編成されます。




E-169:長崎重砲兵大隊本部跡
(-じゅうほうへいだいたい-ほんぶ-あと)【西高校】
明治32年(1899)長崎は要塞地帯法によって長崎要塞地帯区域に指定。佐世保より佐世保要塞砲兵連帯の一個大隊が長崎入りし竹の久保(現 西高)に駐屯します。そしてただちに兵舎が設けられ重砲大隊本部が置かれます。なお、長崎要塞司令部は当初、淵中学校の地にありお互い向かい合っていました。要塞司令部は明治39年(1906)に平戸小屋に移転。重砲兵大隊は大正10年(1921)軍縮削減のため解隊。その際、八坂町は大砲の車輪の払い下げを受け川船の車輪に用いています(現存)。




E-168:桑姫様屋敷跡・墓所跡
竹の久保町12(旧 浦上淵村竹ノ久保郷/竹ノ久保町)【西高校】
西高校がある高台は江戸時代、竹ノ久保郷字尾崎と称し、その昔、大友宗麟の子である大友義統(ヨシムネ)の娘:阿西御前(オニシゴゼン)の屋敷とその後の墓所があった場所でした。そして明治時代になりその場所が陸軍の重砲大隊用地となることになり、明治33年(1900)志賀家子孫:志賀親朋によって淵神社内に移設されました。※E-146:2009/10/24参照




川崎幹先生頌徳碑【淵中学校】
淵中学校の前身である昭和15年(1940)開校の長崎市立淵高等小学校には、稲佐地区における高等科だけの設けられた単独の高等小学校で、その初代校長が川崎幹先生で伝統を重んじ生徒に信頼があった先生でした。開校当初、校庭は荒れていて先生をはじめとする生徒によって人力によって整備され、のちに立派な運動場が完成します。この頌徳碑は川崎校長と称えるため建立されました。




淵国民学校の遺構【淵中学校】
淵中学校は昭和20年(1945)当時は淵国民学校と称していて、前年から学徒動員を強いられ、校舎は三菱電機の木工場や三菱造船所のボルトナット工場に変わり大多数の生徒が動員されていました。そして原爆投下時、校舎は爆心地より約1.2キロメートルという距離によって倒壊焼失し、ほとんどの職員及び生徒がその犠牲となりました。現在、校庭には「職員児童戦災死者之碑」や「淵国民学校遺壁」、「淵中旧体育館遺構」があり被害の様子を知ることができます。

平和の輝生【淵中学校】
モニュメント「平和の輝生」は原爆の傷跡と世界平和を願う世界の人々の思いを表現したもので平成4年(1992)淵中学校卒業生によって建立されました。




E-167:長崎市立淵中学校(-ふちちゅうがっこう)
明治34年(1901)稲佐地区の就学児童数の増加に伴い新しく淵高等小学校が開校。明治41年(1908)には淵高等小学校と合併して稲佐尋常高等小学校となります。第二次大戦時の昭和15年(1940)再びこの地に長崎市立淵高等小学校が開校、翌年、淵国民学校に改称されます。学校はすぐに三菱電機、三菱造船所の学校工場となり、さらに生徒の多くは兵器工場へ動員されるのです。昭和20年(1945)原爆の影響で木造校舎は倒壊炎上し多くの犠牲者を出し、その後、復旧され昭和22年(1947)新学制により長崎市立淵中学校となります。平成2年(1990)鉄筋コンクリート造の校舎となり今に至ります。




E-166:長崎要塞司令部跡(ながさきようさいしれいぶ-あと)
梁川町21-5(旧 浦上淵村竹ノ久保郷/竹ノ久保町)【淵中学校】
要塞とは重要都市や拠点などの防御のために作られた軍事施設のことをいい、要塞区域内は測量、模写、撮影が全面禁止となり要塞司令部がその管理官庁となります。明治32年(1899)長崎は要塞地帯法によって長崎要塞地帯区域に指定。佐世保より佐世保要塞砲兵連帯の一個大隊が長崎入りし竹の久保(現 西高)に駐屯します。翌33年(1900)現在の淵中学校の地にに長崎要塞司令部を置きますが、明治36年(1903)それまで大黒町(現 西坂町の一部)にあった長崎兵器支廠(シショウ)築城部長崎支部と合併しそこに長崎要塞司令部を移転します。しかし明治39年(1906)再び移転し平戸小屋町に変わります。昭和17年(1942)ごろ、南山手町3-28に移転。参照E-46:2009/05/27




E-165:梁川町観音堂(やながわまちかんのんどう)
梁川町15-4(旧 浦上淵村竹ノ久保郷/竹ノ久保町)
梁川町観音堂の創建は不明ですが、地域の観音さま、お地蔵さまとして信仰を集め、第二次大戦以前は別の場所にあったといいます。昭和20年(1945)原爆によってお堂が倒壊したため、一時、淵中学校の上手に移され、その後、自治会関係者などによって現在地に置かれました。
長崎四国八十八ヶ所霊場第七十四番霊場




原爆殉難者の碑【梁川公園】
碑文「昭和二十年八月九日、午前十一時二分一瞬の閃光はわが竹二町内(中心地より1q)をも灰燼にし、当時軍需工場周辺のため一部疎開地となっていたこの地に、被爆者は水を求め、崖の壕に逃げ迷い、ついに息絶えて行く者数知れず、その姿は凄惨を極めた。当時四五〇世帯の家族の大半が負傷し、爆死者、後遺症による死者もあまた数え、殊に春木地区において、全滅に近かったという。犠牲者の御霊よ、安らかに眠りたまえ。」昭和48年(1973)竹二自治会・竹二原爆復元の会 建立




E-164:長崎市立病院成人病センター
淵町20-5(旧 浦上淵村竹ノ久保郷/竹ノ久保町)
幕末から明治にかけてたびたびコレラが流行し多くの犠牲者が出ますが、明治18年(1885)長崎県は竹ノ久保に長崎伝染病院を開設し感染者の受け入れを始めます。大正9年(1920)には結核療養所を設置し、長崎の伝染病治療の中枢を担います。昭和54年(1979)長崎市立病院成人病センターとなり、近代設備を整えた長崎西部地区の医療センターが誕生します。




E-163:長崎市もみじ谷葬祭場
淵町26-6(旧 浦上淵村竹ノ久保郷/竹ノ久保町)
明治21年(1888)衛生上の理由から長崎市および周辺地域では土葬を禁止し火葬をもって葬ることとします。以降は私設火葬場として伊良林郷四ヶ辻(現 彦見町付近)と鍋冠山背後付近の2か所が利用されますが施設に不備が多く、また、人口増加もあり大正10年(1921)竹ノ久保町紅葉谷に市営火葬場が誕生します。なお、以前まで旧町名を竹の久保町と称していたところから、当時、俗語で命が短い人のことを「竹の久保行き」といっていました。

紅葉谷・紅葉谷川・椿谷
淵町と梁川町の境にあたる谷
合を紅葉谷といい、中央に流れる川を紅葉谷川といいます。また、紅葉谷川の最下流の橋を椿谷橋といいます。




E-162:梅谷(うめがだに)
江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると、竹の久保に梅谷という梅林があったと書かれています。そしてここは福田氏の別荘であったとあり春先には見事な梅を咲かせていたといいます。所在不明。なお、福田氏とは12世紀以降、現在の福田地区に下向し、代々領主として支配していた家で、江戸時代には大村氏に仕え代々家老職を務めていました。




E-161:浪霧洞(なぎりどう)
稲佐町-淵町(浦上淵村竹之久保郷/竹ノ久保町)
江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると、淵神社の南、ちょうどロープウェイ駅の南に位置する谷合を浪霧洞と呼んでいました。当時のようすは奥が深く広く幽幻で神仙境であったと表現されています。また、(アシ=葦)や淡竹葉(タンチクヨウ=熊笹のこと)が多く繁っていた場所でもありました。




E-160:道祖井(どうそがわ)
稲佐町(浦上淵村竹之久保郷/竹ノ久保町)
江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると、ちょうど淵神社と稲佐公園の中間付近に道祖井という井戸があったと書かれています。井とは井川のことで井戸を表し、その井戸のそばに道祖神がお祀りされていて、そこから道祖井と名付けられます。当時は水量が多く、道行く人がを汲んで飲んでいたそうです。




E-159:岩見町(いわみまち)
江戸時代は浦上淵村竹ノ久保郷に属し、明治22年(1889)淵村浦上淵、明治31年から(1898)長崎市浦上淵、大正2年(1913)長崎市竹の久保町となり、昭和40年(1965)町界町名変更によって一部が岩見町となります。町名の由来は町域の南東側にそびえる権現岩が見えるところから岩見町となりました。




E-158:宝栄町(ほうえいまち)
江戸時代は浦上淵村竹ノ久保郷に属し、明治22年(1889)淵村浦上淵、明治31年から(1898)長崎市浦上淵、大正2年(1913)長崎市竹の久保町となり、昭和40年(1965)町界町名変更によって一部が宝栄町となります。町名の由来は付近から宝珠山(淵神社後山)が見えることと、末永く栄えるよう祈念したものです。




E-157:春木町(はるきまち)
江戸時代は浦上淵村竹ノ久保郷に属し、明治22年(1889)淵村浦上淵、明治31年から(1898)長崎市浦上淵、大正2年(1913)長崎市竹の久保町となり、昭和40年(1965)町界町名変更によって一部が春木町となります。町名の由来は付近の谷を春木谷と呼んでいたところから春木町となりました。




E-156:梁川(やながわ)
江戸時代、浦上川の下流部にあたるこの地域は流れも緩やかで白魚漁が盛んに行われていました。付近は周囲を竹で渡し堰を作り魚の集まる場所が作られ網を沈めて仕掛けが作ってありました。そうして網を引き揚げひしゃくですくい上げるように獲るのです。この仕掛けを(ヤナ)といい、がある川を、いつしか梁川と呼ばれるようになります。この白魚漁は早春のころ最盛期を迎え、連日行楽客で賑わい、白魚の味は天下一と称されるほどでした。
昭和41年(1966)旧 竹の久保町の一部が町界町名変更によって梁川町が誕生します。




E-155:淵町(ふちまち)
江戸時代は浦上淵村竹ノ久保郷に属し、明治22年(1889)淵村浦上淵、明治31年から(1898)長崎市浦上淵、大正2年(1913)長崎市竹の久保町となり、昭和40年(1965)町界町名変更によって一部が淵町となります。町名の由来は浦上淵村の一部であり、町域に淵神社があるところから淵町と命名されました。




E-154:竹ノ久保(たけのくぼ)
竹ノ久保のタケは古代では崖を意味し、クボは窪地という意味で、タケノクボで崖の下の窪地という意味になり現在の淵神社付近や成人病センター付近、梁川公園付近など山が海岸近くまでせり出し、かつ入江が入り込み窪んでいたものと考えられます。そしてのちにそのいずれかの場所に集落が生まれ江戸時代初めには竹久保(タケノクボ)が誕生するのです。元禄-天保年間(1688-1844)浦上淵村の一部となり竹ノ久保郷(竹ノ窪郷)となり、明治22年(1889)淵村浦上淵、明治31年から(1898)長崎市浦上淵、大正2年(1913)長崎市竹の久保町となります。昭和40年(1965)一部が稲佐町、翌41年に残りが淵町、梁川町、春木町、宝栄町、岩見町、城山町と現 竹の久保町となり今に至ります。




E-153:稲佐山電波塔(いなさやま-でんぱとう)
稲佐山のシンボルとして忘れてはならないものにテレビなどの電波塔があります。長崎駅側から見て一番右の塔は昭和33年(1958)12月開局したNHK長崎放送局で、右から2番目は翌年1月に開局した長崎放送(NBC)で共に同じ建物からなりラジオの電波塔(NHKFMも含む)でもあります。向かって左の塔は昭和44年(1969)に開局したテレビ長崎(KTN)で、昭和57年(1982)からはFM長崎も共同で使用します。左から2番目は平成2年(1990)に開局した長崎文化放送(NCC)で、平成3年(1991)からは長崎国際テレビ(NIB)も共同で使用します。
なお、平成23年(2011)からはデジタルテレビ化となり電波塔は整理され2塔になる見通し。




E-152:稲佐山公園(いなさやまこうえん)
第二次大戦後、長崎市議会は稲佐山開発公園化事業を打ち出し、昭和32年(1957)計画していた稲佐山登山道路(悟真寺横〜山頂:約4.5キロメートル/幅員6メートル)が完成し、公園化事業が始まります。昭和34年(1959)円形ステージの音楽堂や山頂展望台、あわせてロープウェイが開通し、さらに同年、都市公園法に基づき都市公園に指定され本格整備が進みます。昭和35年(1960)鹿には鹿の放牧場が完成。さらには、つつじの植樹が進み昭和55年(1980)稲佐山つつじまつりが開催され市民の憩いの場として定着します。




E-151:稲佐山神社(いなさやまじんじゃ)【稲佐山山頂】
創建は不明ですが、古くから祠があって山の神として稲佐山神社になったもの考えられます。また、「稲佐山神社」と刻された石碑があって、これは当時の市長田川務によって昭和24年(1949)に建立されています。石碑はおそらく戦後復興で頂上付近が整理された際に建立したのではないでしょうか。




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