広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成21年 〜2009年〜
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立岩神社再建記念碑【立岩神社】
記念碑を要約すると、立岩神社は創建以来、浦上淵村寺野郷に鎮座されていたが長年の歳月によって社殿が老朽化したため、崇敬者70戸余りが浄財を集め明治37年(1904)から明治44年(1911)に200円を積み立て、さらに600円余りを募集し寺野郷と平戸小屋郷の久松兼八、永田平三郎、永田元市の3名が建築委員となり明治45年(1912)4月に落成した。誠にこの風光明美な場所にふさわしい社殿ができたことを喜び石に刻んだとある。

立岩神社建設記【立岩神社】
昭和7年(1932)立岩神社境内整備が行われた記念碑です。

皇紀二千六百年記念碑【立岩神社】
皇紀とは日本書紀に記された日本独自の紀元のことで、第1代神武天皇が即位した年(西暦紀元前660年)を元年とします。皇紀二千六百年は昭和15年(1940)に当り、当時の日本は日中戦争から太平洋戦争へと戦況が激化する頃で、全国で皇紀二千六百年記念行事が行われました。これは国威高揚の政治的意味合いが大変強い行事だったのです。




E-194:立岩神社(たていわじんじゃ)
立岩町6(旧 浦上淵村寺野郷字小野/城山町)
立岩神社上手にある立岩は言伝えによれば3〜4世紀、神功皇后が朝鮮出兵(三韓征伐)のため長崎の港に立ち寄られた際、この地に立ち寄られ、補佐役の武内宿禰(タケノウチノスクネ)に立岩へ登らせ国を眺めさせた霊験あらたかな場所で、その後、いつのころか社殿が設けられ武内宿禰を祭神とした立巖権現がお祀りされます。しかし長崎開港後、キリシタンによって破却され神官らは追放、地元信仰者などは息をひそめ姿を消します。江戸時代になりキリスト教の禁教令が出るとただちに再興され寺野郷の鎮守神となり、さらに明治維新後、廃仏毀釈で権現が神社となります。明治45年(1912)社殿が再建されるも昭和20年(1945)の原爆で焼失。その後、コンクリート建の社殿が作られ今に至ります。




三大誓願成就碑(さんだいせいがんじょうじゅひ)【福田寺境内】
福田寺開山である福田玄樹は大正12年(1923)18才のとき三つの誓いをし、その実現のために行動を起こします。昭和30年(1955)ひかり幼稚園開園。昭和32年(1957)福田寺開山。昭和44年(1969)山田内科開業。三つの誓いが成就したことにより昭和53年(1978)この碑が建立されました。
三つの誓いは次の通り「一、人々の心の苦悩解脱のためにお寺をつくりたい。二、人々の身体の無病息災のために病院をつくりたい。三、人々のよりよき教育のために学園をつくりたい




E-193:浄土宗本願寺派光玄山福田寺(こうげんざん-ふくでんじ)
岩見町210-2(旧 浦上淵村寺野郷/城山町)
昭和27年(1952)開山である福田玄樹が旧竹の久保町の地を購入し、翌年、有家町より住宅1棟を移転し、昭和32年(1957)城山地区の浄土宗寺院として福田寺が認可されます。一方、昭和30年(1955)からは「ひかり幼稚園」を開園させ地域の教育活動にも尽力します。昭和53年(1978)には鉄筋コンクリート3階建の福田寺本堂が落成し施設の充実が図られました。




被爆少年少女追悼之碑【九州電力長崎支店構内】
城山小学校は昭和20年(1945)の原爆により約1400名の児童が一瞬にして爆死しました。この碑は慰霊と平和を祈念する目的で昭和53年(1978)に建立されました。この碑は発起人である中島昭雄氏を始め城山小学校育友会、城山地区子供を守る会が携わり、近畿日本鉄道株式会社(近鉄)の寄贈によって建立されました。碑文は大曲敏男氏




E-192:寺野郷有墓地(てらのごうゆうぼち)
城山町17(旧 浦上淵村寺野郷/城山町)
江戸時代初め浦上淵村庄屋志賀家は来崎当時、船を係留しやすい竹ノ久保に入り屋敷を構え、その屋敷が現在の西高校の高台もしくは活水の高台といわれています。そしてその屋敷の北側に墓域が置かれ、現在でも寺野郷有墓地として管理されています。

三界萬霊塔【寺野郷有墓地内】
享保6年(1721)閏7月28日。連日の雨の後に襲った地震と大雨は烽火山に土石流を起こし、市内は大洪水に見舞われ、死者46人、石橋の流失8橋など甚大な被害となり、近郊郷方も被害を受けます。
浦上淵村は浄土宗悟真寺の檀徒ということで「南無阿弥陀仏」と刻され、享保6年(1721)9月15日建立は享保の大水害の犠牲者を弔うものと考えることができます。




E-191:何高材墓所跡(が-こうざい-ぼしょ-あと)
城山町18,19?(旧 浦上淵村寺野郷)
何高材(慶長3:1598-寛文11:1671)は中国福建省pエ県出身の貿易商で寛永5年(1628)頃、長崎に渡来。祟福寺の有力:寄進者(大壇越)となり正保3年(1646)大雄宝殿の建設を一手で行い(B-112:2004-11/7参照)、多くの何高材の活躍に隠元禅師も賞賛した程でした。このほか寛文6年(1666)榎津町廊橋(現 賑橋)を石橋に架け替えたり、清水寺本堂(現 鍛冶屋町)の建立も何高材が行います。墓所は当初、長崎市竹の久保にありましたが昭和48年(1973)に土地開発のため祟福寺後山に移されました。墓碑には大変素晴らしい梅花の透かし彫りがあります。B-145:2004-12/9参照




E-190:三菱電機城山寮・実習所跡
(みつびしでんき-しろやまりょう/じっしゅうしょ-あと)
城山町21-3付近(旧 浦上淵村寺野郷)
城山町は大正4年(1915)の浦上-築町間の電車開通以降宅地化がなされ、市営住宅地として大きく発展、主に三菱関係者が居住し社宅や寮などが多く作られました。城山小学校の南側には敷地面積2336坪(約7700平方メートル)、木造2階建の寮舎が南北に4棟づつ、事務者や食堂、寮監長宅、実習場が各1棟づつ置かれ、実習所では週3回、養成工と速成工が交代で、やすりやハンマーなどの実技訓練を受けていました。昭和20年(1945)原爆落下時、たまたま茂木に疎開する前に待機していた女子の学徒報国隊の一団と実習生及び職員ら472名が一瞬にして爆死します。現在、跡地は宅地化されていますが一角に「原爆殉職之碑」が昭和36年(1961)に建立されています。




十五の桜【城山小学校】
この碑は昭和15年度に卒業した第17回卒業生が古希(70才)の記念にと平成9年(1997)に建立し、あわせて桜の植樹がなされました。
碑文「御霊よ やすらかに 平和よ とこしえに」。

荒川平和桜【城山小学校】
昭和20年(1945)の原爆に奇跡的に助かった教頭:荒川秀雄先生は、その後の復興と教育に尽力され、その後、再び城山小学校へ校長として転勤され平和教育を確立されました。この桜は平成5年(1993)荒川先生の遺族によって寄贈、植樹されました。

三つの願い【城山小学校】
この碑は平成7年(1995)被爆50年を記念して建立されたもので、デザインは在校生との発案で、三つの輪には「大きな希望」「広い心」「深い愛」という意味が込められて、下の葉は平和を支える全人類の手と緑の自然を残す意味があります。

永井坂・平和坂【城山小学校】
城山小学校に至る二つの坂にはそれぞれ永井坂・平和坂という名称があり、前者は永井隆氏の「この子を残して」の印税によって寄贈された桜が植えられた坂道で、後者はその永井坂にちなみ昭和50年(1980頃)代に命名されたものでここにも同じ桜が植樹されています。なお、平和坂には被爆したクスノキがあります。このほか校庭にはもう1本被爆クスノキと、被爆したカラスザンショウ(烏山椒)が残っています。




記念碑【城山小学校】
昭和8年(1933)城山小学校運動場拡張にあたり当時の保護会は昭和天皇の御大典基金の一部で約300坪(約990平方メートル)の敷地を購入し整備しました。この碑はその記念のもので昭和9年(1934)に建立されています。

原爆殉難者之碑【城山小学校】
城山小学校は昭和20年(1945)の原爆により約1400名の児童と教職員31名、そして校内に移転していた長崎兵器製作所給与課の職員および挺身隊員学徒報国隊員の105名が一瞬にして爆死しました。この碑は慰霊と平和を祈念する目的で昭和50年(1975)に建立されました。
背面碑文「御霊よ安らぎて 永久にましませ」

嘉代子桜【城山小学校】
挺身隊員学徒報国隊として務めていた林嘉代子さんは昭和20年(1945)原爆により死亡。昭和24年(1949)母である林津恵氏が嘉代子さんが好きだった桜を学校に寄贈、植樹しました。昭和41年(1966)その林津恵氏の思いを伝えるため記念碑が建立。さらには昭和60年(1985)、平成20年(2008)に有志によって桜が植樹され春には見事な花を咲かせています。

平和の鐘【城山小学校】
この鐘は林津恵氏の遺産の一部によって建立されたものです。




E-189:長崎市立城山小学校
城山町23-1(旧 浦上淵村寺野郷)
大正12年(1923)城山地区の人口増加に伴い城山尋常高等小学校が開校します。校名は第二次大戦時の昭和16年(1941)には城山国民学校に改称。昭和22年(1947)新学制により長崎市立城山小学校となり今に至ります。開校当時、校舎は九州初の鉄筋コンクリート造3階建ということで話題を呼び、工費は当時のお金で9万3718円(現在のお金で約5400万円)でした。そして昭和20年(1945)原爆の直撃を受け大半が崩壊するも、その後、修復し使用され、昭和59年(1984)今の新校舎が建てられました。新校舎は鉄筋コンクリート造4階建で総工費6億4200万円。旧校舎北側部分が被爆遺構として保存されています。




城山・本原土地区画整理事業
昭和32年(1957)長崎市は長崎国際文化都市建設計画事業の一環として城山・本原地区の区画整理事業を開始します。これは昭和21年(1946)より始まった政府の戦災復興計画に基づく戦災復興土地区画整理区域に隣接する地域(城山・本原地区)を条例によって定め事業を行うもので、総事業費1億1700万円、17.5ヘクタール(17.5万平方メートル=ビッグNスタジアム7個分)で昭和44年(1969)に終了します。この事業によって現在の城山地区のバス通りなどの道路が整備され現在の区画となっています。




E-188:立岩町(たていわまち)
江戸時代は浦上淵村寺野郷に属し、明治22年(1889)淵村浦上淵、明治31年から(1898)浦上山里村寺野郷、大正9年(1913)長崎市寺野郷となり、大正12年(1923)郷名が廃され長崎市城山町1丁目、2丁目になります。昭和41年(1966)町界町名変更によって城山町2丁目の一部が立岩町となります。町名の由来は町域にある権現岩がそびえ立っているようすから立岩町となりました。




E-187:富士見町(ふじみまち)
江戸時代は浦上淵村寺野郷に属し、明治22年(1889)淵村浦上淵、明治31年から(1898)浦上山里村寺野郷、大正9年(1913)長崎市寺野郷となり、大正12年(1923)郷名が廃され長崎市城山町1丁目、2丁目になります。昭和41年(1966)町界町名変更によって城山町1丁目と2丁目の一部が富士見町となります。町名の由来は町域から見える金比羅山が富士山のように見えるところから富士見町となりました。
※全国的に見て富士山の見えない場所、富士山と文化的にかかわりのないに場所に「富士」の名称がつく大変珍しい場所といわれています。




E-186:花園町(はなぞのまち)
江戸時代は浦上淵村寺野郷に属し、明治22年(1889)淵村浦上淵、明治31年から(1898)浦上山里村寺野郷、大正9年(1913)長崎市寺野郷となり、大正12年(1923)郷名が廃され長崎市城山町1丁目、2丁目になります。昭和41年(1966)町界町名変更によって城山町1丁目と2丁目の一部が花園町となります。町名の由来は町が花園のように美しく発展することを願い花園町となりました。




E-185:城山台(しろやまだい)
城山台は昭和62年(1987)それまで金堀町だった地域の一部を城山台とし1丁目と2丁目が作られました。町名の由来は城山町の高台に開かれた町ということで城山台となりました。なお、町域の低部(浦上川側)が1丁目、高部(山手側)を2丁目となっています。




E-184:金堀町(かなほりまち)
江戸時代は浦上淵村寺野郷に属し、明治22年(1889)淵村浦上淵、明治31年から(1898)浦上山里村寺野郷、大正9年(1913)長崎市寺野郷となり、大正12年(1923)郷名が廃され長崎市城山町1丁目、2丁目になります。昭和41年(1966)町界町名変更によって城山町2丁目の一部が金堀町となります。町名の由来は町域の字名に金堀の名称があったところから金堀町となりましたが、一説には浦上淵村の庄屋:第4代志賀藤左衛門親重が六枚板(現 三ツ山町)で金鉱山の採掘をしていて金掘りを稼業にしていた。または、寺野郷内に鉱山があったとの理由で金堀の地名が残ったといわれています。




E-183:若草町(わかくさまち)
江戸時代は浦上淵村寺野郷に属し、明治22年(1889)淵村浦上淵、明治31年から(1898)浦上山里村寺野郷、大正9年(1913)長崎市寺野郷となり、大正12年(1923)郷名が廃され長崎市城山町1丁目、2丁目になります。昭和41年(1966)町界町名変更によって城山町1丁目の一部が若草町となります。町名の由来は町が若草のように繁り町が発展することを願い若草町となりました。




E-182:青山町(あおやままち)
江戸時代は浦上淵村寺野郷に属し、明治22年(1889)淵村浦上淵、明治31年から(1898)浦上山里村寺野郷、大正9年(1913)長崎市寺野郷となり、大正12年(1923)郷名が廃され長崎市城山町1丁目、2丁目になります。昭和41年(1966)町界町名変更によって城山町1丁目の一部が青山町となります。町名の由来は町域の西北部に山がありその青々と茂った様子から青山町となりました。




E-181:城栄町(じょうえいまち)
江戸時代は浦上淵村寺野郷に属し、明治22年(1889)淵村浦上淵、明治31年から(1898)浦上山里村寺野郷、大正9年(1913)長崎市寺野郷となり、大正12年(1923)郷名が廃され長崎市城山町1丁目、2丁目になります。昭和41年(1966)町界町名変更によって城山町1丁目、旧油木町、旧大橋町の各一部が城栄町となります。町名の由来は城山が栄えるようにという意味と地区の自治会がすでに城栄とつけられていたことから城栄町となりました。




E-180:城山町(しろやままち)
江戸時代は浦上淵村寺野郷に属し、明治22年(1889)淵村浦上淵、明治31年から(1898)浦上山里村寺野郷、大正9年(1913)長崎市寺野郷となり、大正12年(1923)郷名が廃され長崎市城山町1丁目、2丁目になります。昭和41年(1966)町界町名変更によって城山1丁目の一部がそのまま城山町となりました。




E-179:旧 城山町(きゅう-しろやままち)
大正12年(1923)それまでの郷名:寺野郷が廃され長崎市城山町となり大きく1丁目、2丁目に分けられます。町名の由来は現在の城栄町の護国神社のところに志賀家の砦があって、そこを志賀城と呼んでいたところから城山町となります。なお、当時の城山町は大正4年(1915)の浦上-築町間の電車開通による影響で宅地化がなされ、市営住宅地として大きく発展します。その際、東西と南北に格子状の道が作られ中央の本町通りを中心に一条、二条と、三条・・・と名称がつけられ、現在の橋名「西一條橋」はそういったゆえんです。




E-178:寺野(てらの)
江戸時代の行政区域として浦上山里村がありました。浦上山里村は馬籠郷、里郷、中野郷、本原郷、寺野郷からなり、寺野郷が最北に位置します。明治22年(1889)淵村浦上淵寺野郷、明治31年(1898)浦上山里村寺野郷と変わり、大正9年(1920)から長崎市に編入され長崎市寺野郷となり、そして大正12年(1923)郷名が廃され長崎市城山町1丁目、2丁目になります。
寺野の由来は定かではありませんが、地域の北側に岩屋山があり、古来、岩屋山には神通寺があったとされ、その寺院の裾野に広がる地域というところから寺野と考えることができます。




E-177:神宮寺支院宗源寺跡
宝栄町(旧 浦上淵村寺野郷/城山町)
伝説によると長崎には神宮寺という寺院が今の諏訪神社付近に立っていたと記されていますが、始まりは聖徳太子が活躍していた推古天皇5年(597)朝鮮半島の百済より渡って来た琳聖太子が建てた道場で、のちの弘仁年間(810-824)に嵯峨天皇の許しを得て寺院とし、その後、代々長崎氏がお祀りをしていたといいます。
その神宮寺の支院:宗源寺が稲佐淵村庄屋志賀氏の居宅跡にあって、慶長17年(1612)キリシタンによって一切が破却され姿を消します。なお、そのときの鐘が浦上川に沈められたことからその淵を鐘潭(ツリガネフチ)と呼び、その後、村人たちによって引き揚げが試みられますが、突如として空が暗くなり怪異なことが起こったのですぐに中止したそうです。この寺は一説によると岩屋山神通寺支院ともいわれています。




E-176:「藎忠報国」の碑(じんちゅうほうこく-のひ)
宝栄町15(旧 浦上淵村竹ノ久保郷/竹の久保町)【鎮西公園】
鎮西公園は隣接する活水学院内に昭和20年(1945)まであった鎮西学院を記念して命名されたもので、鎮西学院は残念ながら昭和20年(1945)の原爆で被災します。石碑は日中戦争時の昭和13年(1938)に建立され文字は陸軍中将の志岐豊によるものです。「藎忠報国」とは尽忠報国とも書き、国家のために忠義を尽くす意です。この碑自身も被爆した被爆遺構です。




鎮西学院校訓の碑【活水学園】
鎮西学院はこの地に昭和5年(1930)に移転し(校舎完成は前年)、昭和20年(1945)の被爆までの間、学校が置かれ多くの卒業生を世に送り出しました。この碑は当時の鎮西学院の校訓「忠孝、節義、自治、敬虔」が刻され、さらに校庭周囲の生け垣と石段および通用門を寄贈した金ケ江清太郎の名が刻されています。昭和14年(1939)建立。
※忠孝とは真心をもって使えること。節義とは人としての道を進むこと。自治とは自らのことは自らで行うこと。敬虔とは神仏を敬うこと。




○「活ける水」の碑(いけるみず-のひ)【活水学園】
碑文「さらば 汝に 活ける水を 與えし もの於 ヨハネ伝四章十節」
「活水」の由来となる聖書のヨハネ伝四章十節からとったもので、これはイエス・キリストが与えた水は“永遠に渇くことのない希望に満ちた水”という意味があります。
この碑は活水学院創立100周年を記念して昭和54年(1979)活水中学高等学校PTAによって建立されました。文字は秦美種氏によるものです。




E-175:活水学院(かっすいがくいん)
日本が開国してまもなくアメリカ・プロテスタント監督教会(聖公会)は、直ちに日本に向けて宣教師を送り込み、明治6年(1873)禁教令の撤廃を受け、明治8年(1875)居留地となった出島に日本監督教会を開設します。その後、教育活動のため専門の宣教師派遣がなされ、明治12年(1879)アメリカ・メソジスト監督教会の婦人外国伝道教会はエリザベス・ラッセル(Elizabeth Russell)とジーン・M・ギールを長崎に派遣。そして東山手16番地【5号館】に活水学院を創立し、唯一の志願者であった官梅 能(カンバイ-ノウ:唐通事林道栄を祖とする)を向かえ長崎初の女子教育を始めます。翌13年(1880)南山手のオルト邸に移転、明治15年(1882)東山手13番地に新校舎を設け移転。その後、順調に生徒数を伸ばし、明治20年(1887)明治44年(1911)と小学部から大学部および専門部の教育課程を整え、大正15年(1926)新校舎を建て施設の充実を図ります。昭和26年(1951)からは中学校と高等学校を竹の久保町に移し、これが現在の宝栄町キャンパスとなります。




E-174:鎮西学院跡(ちんぜいがくいん-あと)【活水学園】
明治14年(1881)カロル・S・ロング博士は東山手にミッションスクールを設立。校名を最初に資金を提供したアメリカ人のカビー(Cobieigh)夫人にちなみ加伯利英和学校(カブリュー学校)とします。明治39年(1906)私立鎮西学院と改称。徐々に生徒数が増えたため明治44年(1911)新校舎を建設。大正8年(1919)鎮西学院に改称します。そして大正14年(1925)竹の久保町の払下げを受けていた旧長崎重砲兵大隊練兵場跡地に新校舎を建設し、昭和5年(1930)竹の久保町に移転。しかし昭和20年(1945)原爆により壊滅します。昭和21年(1946)諫早市永昌町の旧海軍病院に移転し教育を再開。その後、幼稚園、高校、短大を開学し、平成14年(2002)短大を長崎ウエスレヤン大学と発展させ現在に至ります。




E-173:長崎重砲兵大隊練兵場跡
(-じゅうほうへいだいたい-れんぺいじょう-あと)【活水学園】
明治32年(1899)長崎は要塞地帯法によって長崎要塞地帯区域に指定。佐世保より佐世保要塞砲兵連帯の一個大隊が長崎入りし竹の久保(現 西高)に駐屯します。そしてただちに兵舎が設けられ重砲大隊本部が置かれます。そして活水のある台地には練兵場が設けられ訓練が行われていました。重砲兵大隊は大正10年(1921)軍縮削減のため解隊します。




E-172:浦上淵村庄屋志賀家屋敷跡
宝栄町15-11(旧 浦上淵村竹ノ久保郷/竹の久保町)【活水学園】
16世紀中ごろ、志賀家始祖:志賀大蔵助親成は豊後国大友氏の家臣として仕えていましたが大友氏が途絶えたため長崎入りし浦上の地に屋敷を構えます。これは同じ豊後国府内の城主だった竹中采女正重興が寛永6年(1629)に第6代長崎奉行に任命されこともあり、竹中はのちに志賀氏に浦上村淵掛の庄屋につかせます。しかし一説には大友宗麟の後妻ジュリアに従って長崎に亡命したともあり、来崎当時、船を係留しやすい竹ノ久保に入り屋敷を構えます。その屋敷が現在の西高校の高台もしくは活水の高台といわれていますが、のちに使い勝手のいい港として稲佐の江の浦に移り幕末を迎えます。




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