広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成22年 〜2010年〜
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岩屋山(いわやさん)
岩屋山は長崎の中心部の北西に位置し、南は小江原、北は滑石地区に接す標高475メートルの山で市中心部のほか五島灘や長崎半島が眺望できる山です。江戸時代から長崎の市民に大変親しまれた山で大村領内でしたが春ともなると行楽客に賑わっていたといいます。また、正月に行われていた七高山巡りも本来は加えられていて長崎を代表する山の一つともいえます。




長崎北高等学校
昭和23年(1948)長崎県立長崎東高等学校と長崎西高等学校は公立の学校として開校しましたが、高校生の急増対策として昭和35年(1960)より新学校の建設が始まります。そして昭和39年(1964)全日制公立高校としては県内で41番目となる長崎北高等学校が小江原町に誕生します。第一期工事として総事業費は2億9000万円。




小江原(こえばる)
小江原は西側にある小江の入り江の上手に拡がる地域ということで小江原とつけられています。江戸時代は彼杵郡小江原村といい、明治22年(1889)に福田村に入り小江原郷、昭和30年(1955)長崎市に編入し、同33年(1958)長崎市小江原町になります。昭和30年代後半から開発が進み、昭和39年(1964)長崎県立北高等学校の開校を皮切りに、同41年の長崎県警察学校や市営小江原団地の完成など発展めまぐるしく、近年では小江原ニュータウンも開かれました。平成15年(2003)ごろ住居表示となり1丁目から5丁目に分けられます。




油木町(あぶらぎまち)
江戸時代は西浦上村西郷に属し、昭和13年(1938)長崎市西郷となり、昭和24年(1949)郷名が廃され長崎市油木町と西町になります。昭和40年(1965)町界町名変更によって油木町の一部が江里町に、翌41年(1966)旧油木町と大橋町、西町のそれぞれ一部が合併し現在の町域となります。町名の由来は地区の中央に位置する谷を油木谷といい、その昔、油の原材料となる油の木、つまりロウソクの原料となるハゼの木がたくさん植えられていたところからこう呼ばれたといいます。




E-208:長崎県消防学校跡
城栄町41-82(旧 西浦上村西郷)【長崎県合同庁舎】
昭和37年(1962)長崎県は消防職員や消防団員などの養成機関として旧城山町に消防学校を開校します。ここでは学術技能の修得などを目的とした教育訓練が行われます。昭和58年(1983)校舎の狭小化で消防学校は大村市に新築移転し今に至っています。旧校舎は現在、県の合同庁舎として利用されています。




E-207:長崎県警察学校跡【長崎交通公園】
第二次大戦以前の警察学校(長崎県巡査教習所/養成所)は現在の県庁前交差点東側にあって強制建物疎開によって姿を消します。昭和24年(1949)新制度になり旧城山町に長崎県警察学校が完成し警察官の養成所となり、昭和27年(1952)には特別機動隊の設置に伴い同所に入ります。昭和41年(1966)校舎の老朽化や狭小化で警察学校は小江原町に新築移転し、昭和44年(1969)機動隊が田中町に新築移転します。




E-206:長崎交通公園
油木町6-40(旧 西浦上村西郷)
昭和40年代、自動車の普及と道路の整備によって交通死亡事故が増大し交通道徳、交通教育がクローズアップされ、昭和46年(1971)長崎県は警察学校跡地に遊ばせながら学ばせる長崎交通公園を開園します。九州初となる施設は本物の歩道橋や信号機、標識などを設けゴーカートや自転車などを使って指導します。総事業費7,692万円で長崎県交通安全協会によって運営されます。




パソコンメンテナンスのため、25日(月)まで更新をお休みいたします。




E-205:長崎市科学館
油木町7-2(旧 西浦上村西郷)
昭和30年(1955)長崎市は第二次大戦まで英国領事館として使用されていた建物を購入し、昭和32年(1957)から教育研究所として児童科学館を開設します。その後、施設の老朽化と狭小化によって閉鎖し、平成9年(1997)油木町に新しく長崎市科学館が建てられ、理科教育の補完と長崎近郊の自然についての展示など広く市民に開かれた施設が置かれました。




E-204:長崎県立総合体育館
昭和36年(1961)駒場町(現 松山町)に長崎国際体育館が完成します。これは長崎市ではなく三菱重工業(株)長崎造船所が建設して長崎国際文化センター建設委員会に寄贈する形で建てられたもので、これにより屋内競技の充実が図られます。平成に入り老朽化や施設の手狭などの理由で取り壊され、平成6年(1994)新たに長崎県立総合体育館(通称:アリーナかぶとがに)が油木町に建てられました。アリーナかぶとがにとはその施設の形からそう名付けられました。総事業費約62億円、施設はメインアリーナとサブアリーナ、スポーツ科学管理棟の三つからなり、長崎県の総合スポーツ施設として様々なスポーツの大会やイベントが行われています。




E-203:長崎市立商業高等学校跡
油木町7-1(旧 西浦上村西郷)
明治17年(1884)商業学校通則の交付で神戸、横浜、大坂などに商業学校が開校。当時の長崎県令の石田英吉は嘆き、急いで松田源五郎などの有力者に強力を求め、創立委員会を設立し、翌年市民からの寄附や貿易五厘金などを利用し明治18年(1885)大村町に長崎区立長崎商業学校が開校します。翌年には夜間学校である長崎商業徒弟学校も誕生し充実が図られます(20年袋町に移転/26年廃止)
明治19年(1886)県立長崎外国語学校と合併し県立長崎商業学校と改称。立山に移転します。
明治22年(1889)県会によって県立学校を廃止し、市に移管。長崎商業学校となります。
明治32年(1899)長崎村馬場郷伊良林に移転。明治34年(1901)市立長崎商業学校と改称。
大正14年(1925)長崎市立商業学校と改称。
昭和8年(1933)敷地拡大のため油木谷(現 油木町)に移転します。
昭和20年(1945)原爆の被害を受け一時、上長崎小学校を仮校舎として使用。
昭和23年(1948)学制改革により新制高校となり長崎市立長崎商業高等高校に改称。
昭和62年(1987)現在の泉町/長与町高田郷に移転、現在に至ります。B-9:2004/06/09




E-202:聖マリア学院
昭和27年(1952)城山教会が所属しているアウグスチノ修道会から3人の司祭が長崎入りし開校準備が行われ、昭和30年(1955)聖マリア幼稚園の開園を皮切りに昭和31年(1956)聖マリア学院小学校、昭和35年(1960)聖マリア学院中学校と開校し、城山教会を中心に各施設が設けられます。学院は城山地区の山手に位置し緑の多い環境でスポーツや国際交流など盛んに行われているミッションスクールです。




E-201:カトリック城山教会
若草町6-5(旧 浦上淵村寺野郷/城山町)
カトリック城山教会は第二次大戦後の城山地区の発展に伴い、昭和30年(1955)信徒の増加によって浦上教会(浦上天主堂)から独立分離した教会です。平成12年(2000)には現在の新聖堂となり平成14年(2001)には長崎都市景観奨励賞を受賞しています。内部は幾何学模様で施され大変神秘的で、また、空調など最新の設備を整えています。
聖堂内の祭壇にはイエス・キリストのレリーフがあり、全体が49片のブロンズからなり、宣教師が日本へもたらした船や港などをイメージしたものになっていて、周りにはステンドグラスで表現された城山教会の守護者の「慰めの聖母」やアメリカ・ヴィラノヴァの聖トマス管区アウグスチノ修道会から贈られた3枚のステンドグラスが目を見張ります。




E-200:脇小屋地蔵堂【八幡神社境内/寺野郷財産区】
地蔵堂には元禄7年(1694)建立の地蔵菩薩、享保6年(1721)建立の観世音菩薩を始め数体の石仏と、天保3年(1832)建立の四国八十八箇所経納供養塔があり、江戸時代、立巖権現(現 立岩神社)としてお祀りされていたもののうち廃仏毀釈によって移された仏体と考えられます。
なお、脇小屋とはこの付近の字名で志賀城の脇にあった部落を差し、このほか字下屋敷などもあります。

原爆殉難者之碑
昭和20年(1945)この碑は城山地区の原爆による犠牲者の慰霊塔で昭和22年(1947)に建立されています。




里道改修記念碑【八幡神社境内】
里道記念碑は城山地区の道路改修を記念して明治42年(1909)建立されたもので、碑文には「里道修復工費寄付人名/金百圓聖瑪理亜学院長外五九名」とあります。文字にある“聖瑪理亜学院長”とは聖マリア学院の院長を意味し里道改修に多額の寄付をしたことが分かりますが、当時はまだ、マリア学院は開校しておらず(昭和27年開校)、碑にある学院はそれ以前にあった非公式の学院もしくは設置準備段階のものではないかと考えることができます。




正一位豊姫稲荷大明神【八幡神社境内】
豊姫稲荷大明神は商売繁盛の神で昭和33年(1958)に建立されています。

御造営紀念碑【八幡神社境内】
御造営紀念碑には創建のいわれや昭和9年(1934)の本殿再建の記録が刻され、当時の城山町青年団らによって建立されています。書は里中瓊舟によります。




E-199:八幡神社(はちまんじんじゃ)
若草町2(旧 浦上淵村寺野郷/城山町)
八幡神社の創建は定かではありませんが、境内にある御造営紀念碑には16世紀にこの地の豪族が上方より勧請したとあり、おそらく志賀家が戦の神である八幡神を勧請したものと考えられます。その後、寺野郷の氏神としてお祀りされ、記録には昭和9年(1934)に社殿が再建されたとあります。昭和20年(1945)の原爆で焼失。その後、コンクリート建の社殿が作られ今に至ります。




くらいど丸慰霊碑【護国神社】
小倉を本拠地とした第12師団は昭和11年(1936)以降、旧満州国の治安維持のため派遣されていましたが、第二次大戦が激化していた昭和19年(1944)12月に台湾へ戦力増強命令を受けます。門司入りした師団は他の舞台とともに数席の輸送船で台湾に向け出発。そして輸送船くらいど丸(5,497トン)には師団司令部と各部隊が1,497名が乗船し翌20年(1945)1月21日に門司港を出発します。1月29日早朝、台湾海峡航行時、連合国軍の潜水艦から魚雷2発の直撃を受け沈没。直撃弾による犠牲者と、極寒の海中にて没した犠牲者、その数1,107名にも及びました。この碑は犠牲者の慰霊と恒久平和を祈念して昭和58年(1983)生存者および有志によって建立されました。




拓魂の碑【護国神社】
昭和初期(1930頃)大日本帝国は中国東北部に満州国を建設するため多くの日本人を開拓者として送り込まれ、長崎県からは2150余名もの人々が参加しました。しかし昭和20年(1945)の終戦を受けその多くの人々の生死が分からず、その後の現地での生活は無惨なものであったと伝えられています。この碑はその開拓者の慰霊のために昭和53年(1978)長崎県拓友連合会によって建立されました。書は時の長崎県知事:久保勘一によります。

母の像【護国神社】
この碑は昭和50年(1975)長崎県連合遺族会青年部によって建立されました。
碑文「強く厳しく 優しかった母 おかげで私がある お母さん ありがとう 私たちのかなしみが くりかえされることのないように」




消防殉職者之碑【護国神社】
消防殉職者之碑は本来、第二次大戦以前に建立されたものでしたが、戦争による要請で碑とそれに付属する金属すべてが供出されてしまい、以降、祭典等が中止となります。そこで長崎県消防団長大会において団員による浄財で再建することを決議し、当時の三菱造船樺キ崎造船所に依頼し昭和28年(1953)除幕式と招魂祭が執り行われました。

長崎市傷痍軍人之碑【護国神社】
碑文「この碑は戦争に従軍して傷痍の身となり物故した戦友の御霊を慰めると共に、あの様な悲惨な戦争のない世界が永遠に平和であるよう祈念して記念して会員一同によってこれを建立する」
昭和51年(1976)長崎市傷痍軍人会によって建立されました。




○「献納の辞」佐藤勝也歌碑【護国神社】
昭和40年(1965)終戦20周年を記念して長崎県連合遺族会婦人部は護国神社境内に時計塔と当時の長崎知事:佐藤勝也の歌碑を建立して、戦没者の慰霊と国の平和と繁栄を祈念しました。
碑文「神にます父のおもかげぞのままに 悲しみこらえて子らはのびゆく」

長崎水交会之碑【護国神社】
水交会とは旧大日本帝国海軍の将兵と海軍生徒によって第二次大戦後に結成された集まりで平成17年(2005)に散会しました。この碑は日本海海戦で勝利した明治38年(1905)よりちょうど100年目にあたる平成17年(2005)に建立され、海軍の栄高なる精神をたたえたものです。




御親拝記念碑【護国神社】
昭和44年(1969)長崎国体開催の折、昭和天皇と皇后が来崎。護国神社参拝をなされました。この記念碑は御親拝記念碑建立委員会によって同年に建立され、書は小曽根均治郎によります。

天皇陛下御在位20年記念樹【護国神社】
平成20年(2008)今上天皇御在位20年を記念して長崎県花であるツバキが植樹されました。




○祭神:橘周太命(たちばなしゅうたのみこと)
長崎県護国神社には相殿として軍神としてあがめられた橘周太陸軍歩兵中佐がお祀りされています。
橘中佐は本名を橘周太といい慶応元年(1865)長崎県千々石町生まれ、幼少の頃から漢文や日本外史を学び11才のとき長崎の勝山小学校に入学します。13歳で長崎中学校に入学し、その後、軍人を志願して15才で上京、陸軍士官学校に入学します。卒業後は陸軍の道を進み、少尉、小隊長、東宮侍従武官、38才で少佐となり、明治37年(1904)日露戦争で軍の管理部長として中国遼東半島に向います。そこで連隊大隊長となり活躍するのですが、旅順港の攻防で部下のために自らの命を捨て戦い明治37年(1904)8月31日戦死(40才)します。橘少佐は8月31日付けで陸軍歩兵中佐を命ぜられ、以降、橘中佐は軍神としてあがめられ昭和15年(1940)雲仙市千々石町に橘神社を設け神としてお祀りされるのです。このほか大正天皇の教育係も務められています。参照D-199:2007-9/2




E-198:長崎県護国神社(ながさきけん-ごこくじんじゃ)
昭和14年(1939)当時の内務省は全国にある招魂社を護国神社に改称するよう通達を出し、長崎県では昭和17年(1942)に、それまであった梅香崎招魂社と明治8年(1875)に稲荷嶽(現 仁田小付近)に造られた佐古招魂社とを併せて長崎県護国神社を創建します。このとき大楠神社の鳥居は「護国神社」と掛け変えられました。当時、第二次大戦の戦意高揚のためにも本格的な社殿建設が望まれ、昭和19年(1944)浦上の志賀山に本格的社殿が建設され移転。しかし昭和20年(1945)原爆によって倒壊、焼失します。昭和26年(1951)旧大徳寺の地に仮殿が設けられ神事が行われますが、昭和38年(1963)現在地に社殿が再建され現在に至ります。C-143:2005/12/29




E-197:志賀城(しがじょう-あと)/志賀山(しがやま)
城栄町41-67(旧 浦上淵村寺野郷/城山町)【護国神社】
16世紀中ごろ、志賀家始祖:志賀大蔵助親成は豊後国大友氏の家臣として仕えていましたが大友氏が途絶えたため長崎入りし浦上の地に屋敷を構えます。これは同じ豊後国府内の城主だった竹中采女正重興が寛永6年(1629)に第6代長崎奉行に任命されこともあり、竹中はのちに志賀氏に浦上村淵掛の庄屋につかせます。しかし一説には大友宗麟の後妻ジュリアに従って長崎に亡命したともあり、来崎当時、船を係留しやすい竹ノ久保に入り屋敷を構えます。その屋敷が現在の西高校の高台もしくは活水の高台といわれていて、有事の際、現在の護国神社のある高台(志賀山)に砦(志賀城)を築き防衛にあたっていました。参照E-172:2009/12/01




E-196:屏峰(びょうぶみね)/屏嶽(びょうぶがだけ)
江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると、立岩(権現岩)と稲佐山のちょうど中間に位置し長崎駅側からみると屏風のように長く連なった山を屏峰/屏嶽といいます。別名を将軍気といい、その昔、中国人(清国人)の気を見る人物がこの山には将軍の気があるといった発したことからこう呼ばれていました。また、付近に山頂が平らで馬の鞍のように見えるところがあって、そこを騎馬嶽(うまみがだけ)といい、その下には猿覗岩(さるのぞきいわ)/隘戸(狭戸=せばと)という崖があるとあります。




E-195:立巖(立岩)/権現岩
立岩は立岩町の地名の由来ともなった岩で稲佐山を形づける山並みの一番北側に位置し、立岩神社の起源ともなった岩です。その昔、神功皇后に仕えていた武内宿禰がこの岩の上で国を眺めたところから霊験あらたかな場所とされ、岩の下方には小さな祠(立岩神社奥の院)があり武内宿禰(タケノウチノスクネ)を祭神とした立巖権現がお祀りされます。別名を権現岩といいます。




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