広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成22年 〜2010年〜
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諏訪神社の伝説D
宝永6年(1709)のある日、出島オランダ商館長アヌゲル下痢を患いなかなか完治しなかったため、出島吏員に頼んで諏訪神社で祈祷することになります。祈祷したとたん下痢はたちまち回復し、アヌゲルは早速、心願成就のお礼参りをし、在留のオランダ人らは目を見張って驚いたといいます。




諏訪神社の伝説C
寛文12年(1672)長崎に疫病が流行し多数の犠牲者が出ますが、遠く筑後柳川の男の夢に立派な老人が現れ次のようなお告げをします。「我が子らが疫病によって倒れ防げぬゆえ、お前の家のそばにある古木を切り、それを長崎に運び水に浸して市民らに飲ませよ。そうすれば疫病からまぬがれる。」男が目を覚ますと枕もとに銀貨が置かれていて、男は早速、お告げの通り木を切り長崎に運び、お告げのことを諏訪神社の神官に申し出ます。神官はすぐにお告げにならい患者に飲ませたところ病が治ったといい、以降も神社に大切に保管しことあるごとに飲ませたそうです。
※長崎市史には寛文12年とありますが、実際は寛文2年に天然痘が流行しました。




諏訪神社の伝説B
寛永15年(1638)の2月27日夜、神前の灯明の火が輝きだし夜半過ぎても全く消えず、さらに翌朝、宮司青木永忠が社参したとき、数尺の(数十センチメートル)の白蛇が社殿階段に居座りしばらくして姿を消します。永忠は父の賢清にそのことを伝えると、今日明日中に島原の乱が終結するであろうといい、それは灯明の火や白蛇の出現が幕府軍の加護を表し、まもなく諏訪明神が軍神となって勝利を勝ち取るだろうといいます。そして賢清は神威に対し杯を挙げはじめると、しばらくして吉報が入ったということです。




諏訪神社の伝説A
寛永14年(1637)の島原の乱は幕府軍とキリシタンとの戦いといわれていますが、戦の終結後、幕府軍が長崎に凱旋して来たとき、諏訪神社第2代宮司:青木永忠は「我も陰兵となって城中に入り戦うこと数日。ついに勝利を得たりといえど身はなはだ疲れたり」といい、たもとの中から数個の弾丸がこぼれ落ち永忠は倒れ込みます。しかし、息を吹き返した後に尋ねると永忠は島原の乱を知らないといい、けれど兵士らの聞くところによると、戦時下では神がかり的こと多数あったというもので、諏訪明神永忠の姿となって戦場に繰り出し勝利に導いたものといわれています。




諏訪神社の伝説@
その昔、薩摩国の諏訪明神が祀ってある森には樹齢千年の古木がうっそうと茂り、藩主は伐採を禁じ大切にしていました。寛永年間(1624〜)、とある商家に雇われていた長崎出身の男がその森と知りながら毎日入り薪を切って帰っていました。しかし男はその都度、社殿の前で深々と頭を下げ、長崎の諏訪神社の氏子として生まれながら遠い地での貧しい生活を嘆き、賽銭代わりに得意とするトンボ返りの芸を見せて拝んでいたといいます。やがて男は監視の者に見つかり処刑されることになるのですが、その夜、藩主の夢枕に一人の白髪の老人が現れ「我は諏訪明神である。我が子が罪ありて斬られんとする。我が子であるがゆえ許せ」と告げたといいます。藩主は早速、状況を調べ罪を許し、そして男を呼び寄せ得意とするトンボ返りの芸を演じさせたといいます。藩主はその芸に感激し、男が心清らかな者と知り、金銀や衣服を差し上げ長崎に帰らせたといいます。




○明治維新後の諏訪神社
諏訪神社は幕府時代より御朱印地に指定され格別な扱いを受けていましたが、明治政府になっても九州鎮府総督の澤宣嘉によって神社崇敬を熱心に奨励します。しかし、くんち祭礼においては華美を禁止し、そのため奉納踊りなど丸山町、寄合町の両町を除きすべて廃され、代わりに武者行列が行われるに至ります。このことに市民は気が抜けた状態になったといいます(明治8年より復活)。さらに明治7年(1874)代々世襲にて行われた大宮司職でしたが第11代青木永元の死去により断絶します。




○慶応元年の諏訪神事の珍事
慶応元年(1865)長崎奉行は諏訪神社の神事において舞妓および芸者を裸体にして神前(踊り場)や町内において披露する行為を禁止します。これはそれまでも行われていた行為で歌舞伎に類似した踊りや風紀を乱す所作などを厳しく取り締まるもので、町役人は厳罰に処すべしというものでした。




○安政の大火災
安政4年(1857)9月20日午前10時頃、神官らが神事で使用した注連縄(シメナワ)や古札などを拝殿そばにて焼却していたところ北東の強風にあおられ火が社殿の屋根に燃え移り、瞬く間に周りの社殿にも燃え移ります。そして居合わせた神官ら78人が焼け出され、ついには正殿、拝殿、昇廊、宝庫などが焼き尽くされました。失火時、第10代神主の青木永古はただちに正殿に昇り神璽を西山妙見社(現 西山神社)に移し事なきを得ます。
翌10月より長崎奉行らは再建に乗り出し多額の寄付や貸与がなされ造営準備に取り掛かり、12月19日仮殿が完成します。安政5年(1858)老中松平伊賀守の命で正殿および拝殿を長崎会所より公金を持って再建することとし、残りは氏子よりの寄付にて再建するようお達しが出ます。なお、最終的な造営は明治3年(1870)大門の落成ですべて完了します。




○諏訪神社祭事供奉員の順番の再編
寛文12年(1672)市内の人口増加とかまど銀の配分の都合上、市内全町を77ヶ町に再編し、毎年11ヶ町づつ7年に1回の順番で奉仕するよう定めます。この組み合わせは延宝元年(1673)長崎奉行所においてくじによって定められ、踊り順番も7日に最初の奉納踊りを務めた町は9日には最後となる順番が定められ、くんちの基礎が作られました。このとき決められたものが現在も基礎となっています。




○諏訪神社祭事供奉員の順番
寛永11年(1634)諏訪神社の祭事に際し神輿渡御には供奉員として各町が参列しました。先頭は露払いと称して丸山町が担当し、以降は御供町としてあらかじめくじで決められた順番で参列します。
(7日)一番:船津町、二番:本博多町、三番:樺島町、四番:平戸町、五番:新紙屋町、六番:麹屋町、七番:馬町、八番:東鍛冶屋町、九番:濱ノ町、十番:銀屋町、十一番:諏訪町
(9日)一番:榎津町、二番:古川町、三番:本紙屋町、四番:新大工町、五番:磨屋町、六番:毛皮屋町、七番:大村町、八番:本五島町町、九番:今町、十番:金屋町
以降、当時の全町(63ヶ町)を7日に11町、9日に10町で毎年21町ずつ3年に1回の順番で奉仕していましたが、明暦元年()から、当時の全町(63ヶ町)を6組に分け毎年11ヶ町づつ6年おきとし、これにより11町の年と10町の年ができる順番とします。なお、丸山町と寄合町は交互に隔年づつ奉仕します。




○外国人のくんち見物
正応3年(1654)この年の例祭から出島に滞在しているオランダ人のために大波止の御旅所に特設の桟敷を設け奉納踊りの見物を始めます。以降、例年ではないものの見物が許され、のちに唐人らにも同様な桟敷を設け見物をさせます。実際、この見物は外国人のためのものでしたが、オランダ人や唐人を見る絶好のチャンスということもあって、かえって日本人の観客が多くなり不思議な様相を呈していたといいます。




○玉園山(現在地)への移転
正保4年(1647)第12代長崎奉行馬場三郎左衛門と第15代山崎権八郎の両名は第2代宮司の青木永忠らを奉行所に招き玉園山の1画を社地として下賜します。これは長崎が海外との唯一の窓口であるところから外国人、特にキリシタンに対する誇示と、当初の圓山の地が狭小なため祭事に不便をきたすところから選ばれました。なお、その区画は以前、神宮寺の境内地で玉圓坊というお堂があって毘沙門天堂があった場所でした。工事は慶安元年(1648)に完成し遷宮が行われました。これより圓山は元諏訪と呼ばれ、あわせて玉園山神宮寺の名称(号)を賜ります。




○諏訪神社の旧一の鳥居(現二の鳥居)
寛永14年(1637)8月。当時の長崎の町全体つまり総町によって一の鳥居が建立されました。鳥居はこの年の1月19日に石工によって事始め神事がなされ、風頭山から総勢2000人を要し8月に完成します。高さ約2丈(約6.6メートル)、幅1丈五尺(約5メートル)の巨大な鳥居はいわゆる幣振り坂から下ろされたといわれています。




○諏訪神社薬師寺家の伝説
言伝えでは寛永11年(1634)9月9日の最初の神事終了後、祭事では當人という責任役を務めている薬師寺久左衛門が神社の供物を携え帰宅し供物を三方の上に置いたところ、長さ約5寸(約19センチメートル)の黒蛇が三方の上に現れます。ただちに家の者に捨てさせたところ再び黒蛇が現れ三方の上に留まっていたといいます。この事態を聞いた宮司の青木賢清は早速屋敷に赴き、蛇の前で目を閉じ祝詞を上げます。唱え終わりて目を開ければ手のひらに蛇が移ってきたのですぐに清らかな箱に移してあげたそうです。しかしその蛇は三日間にわたり三方の上に現れたので諏訪神の神霊といわれ、これがうわさとなり奉行や代官ほか多くの市民が拝みに来たといいます。その後、久左衛門は邸内に小祠を建立し諏訪神社を勧請しますが、この地は以前に長崎織部亮が諏訪神を勧請した場所だったといわれています。




○最初の祭礼の様子A
翌8日。卯の刻つまり午前6時に神前にて神楽など神事が執り行われ、その後の満潮時に海水が汲まれ湯立て神事が行われます(現在も実施中)。さらに未の刻つまり午後2時に神事を実施します。
9日は寅の刻つまり午前4時に神前にて神楽など神事が執り行われ、その後、各町がそれぞれ諸芸(奉納踊り)を披露。午後2時に7日と同じように渡御が行われ神社へと帰られます。そして直ちに神社下の広場にて流鏑馬の行事があって終了となります。なお、当初、神輿通行時にはキリシタンからの投石や妨害があったといいますが、この行事内容が基準となり以降もほとんど変化なく今に至っています。




○最初の祭礼の様子@
9月1日(旧暦)諏訪神社の本社とお旅所に注連縄(シメナワ)が張られ事始式(事始神事)が執り行われ、以降12日までの祭事中は死刑執行が停止、5日、6日には神輿や神域の清祓いが執り行われ、外国人に至っては外出が禁止されます。7日は丑の刻つまり午前2時に神前にて神楽と祝祝詞が奉じられ神輿に神符を移します。出発前に丸山町の虎屋の遊女高尾と音羽が小舞(コメイ)を奉じ、さらに他町が思い思いの芸を奉納します。午の刻つまり正午になり周辺農家の男衆によって神輿が担ぎ出され、周辺の庄屋に乙名らが神輿を護衛し、丸山町を先頭にほか11町(御供町)が順に参列し、その後、修験者がほら貝を吹き宮司や神官が続き、市内(内町外町)の乙名や宿老、奉行、代官が列を成します。やがて大波止に到着、神前に奉行代理と代官によって蓬莱酒が捧げられ神楽と祝詞を上げ渡御が完了します。




○くんち祭礼のはじめ
寛永11年(1634)7月。第9代長崎奉行榊原飛騨守職直と第10代神尾備前守元勝は協議して長崎市民を半ば強引に兵力を持って改宗させ神社に奉仕するようお触れを出し、そして青木賢清は9月7日より神事を挙行し大波止に仮宮を設け神輿神具の調達がすんだ諏訪、住吉の2体を渡御させます。このとき市民から町代という祭事責任者、神職役(社用人)という代表役員、後に年番町となる當人町などを選び、くんちの原型が作られます。なお、大波止は周囲に注連縄(シメナワ)が張られ、そこを御旅所と称します。




○再建当時の時勢
寛永2年(1625)の再建当時、すでに日本は禁教令が発せられていましたが長崎においてはまだキリシタン勢力が強く社寺への妨害や脅迫が活発で、参詣者や生活必需品などの交通までも妨害し社寺に近づくのが困難な様子でした。そんな中、青木賢清の武芸は達者で弁舌も利き、また長男の寶乗院でさえ猛勇とうたわれキリシタンにとっては手ごわい存在だったといわれています。そして寛永6年(1629)第6代長崎奉行竹中采女正の赴任は強烈なもので、絵踏みの開始によってキリシタンの多くが改宗し強制的に墓参や寺院の参詣を行うようになります。しかしこれは仏寺中心で、神社への参詣はまだ皆無に等しかったといいます。




○社殿造営と神事
青木賢清は社地の提供を受け早速社殿の造営に取り掛かりますが、キリシタンによる妨害によって材木の搬入を妨害したり、大工の手配を邪魔したりと全く工事が進みませんでした。そうした中、賢清は神道信者の援助や大村から大工を招致するなどしてようやく社が完成し三社勧請をなします。寛永3年(1626)には賢清は佐賀より妻子を呼び、長男寶乗院龍尊(18才)は後継者として従事させ、次男伊兵永忠(13才)は神官として湯立神事を行います。なお、このときの湯立神事で神楽が演奏されますが、当時の古老によれば神楽を耳にしたのは61年ぶりだったということでした。




○寛永2年(1625)諏訪神社再興
寛永元年(1624)青木賢清は第4代長崎奉行長谷川権六郎を訪ね、長年の神社再興の願いと社殿適地の提供を請い、のちに将軍徳川秀忠の許しを得、寛永2年(1625)長崎代官末次平蔵管轄である西山郷圓山の地を社地として提供を受けます。この圓山は現在の松森天満宮の場所で、社殿があっていたところは天満宮社殿前の重修記念碑付近と推定され、社務所、神池、大門および富貴楼敷地も含めた約1000坪(約3300平方メートル)と考えられています。




○諏訪神社再興準備
旧諏訪神社の神官:公文九郎左衛門から神職譲り状を得た青木賢清は早速、京都の神祇長官の吉田兼英に再興の許可を得、のちに許可状の伝達を受けます。そして賢清は神道協力者の山留孫左衛門(田川仁右衛門?)より私有地(諏訪町説あり)の一部を提供してもらい仮社殿を設け三社勧請を準備します。賢清は長崎代官である末次平蔵に社殿適地の提供を請い、代官は第3代長崎奉行長谷川左兵衛藤広の下向を待って再興の協力の約束するのです。




○青木賢清の来崎
のちに諏訪神社再興を実現する修験者:金重院賢清は肥前唐津(佐賀県)出身で、家柄は豪族草野家、松浦家の一党で、代々にわたり鏡神社(現 唐津)の神官を務めていましたが、草野家没落後は佐賀に移り住み、そのころ賢清が修験者となったといいます。元和9年(1623)神道の復活を願いキリスト教全盛の長崎入りしますが、神道信者が少なくようやく西山郷の山留孫左衛門(田川仁右衛門?)が受け入れ再興を誓います。そして神道協力者の諏方町の宗巴と新紙屋町の森城を交え、諏訪三社の由来や御神霊について話し合います。つづいて、キリシタンに迫害を受け大村に逃れていた旧諏訪神社の神官:公文九郎左衛門に再興の承諾を得、準備を始めるのです。




キリシタンによる破却
慶長14年(1614)長崎在住のキリシタンは諏訪神社、森崎神社、住吉神社の三社を破壊し、岬の先端にある森崎社のご神体に至っては西坂の地に運び出し火の中にくべるという始末で、森崎社神主が神函を馬込村(現 銭座)に隠していたにもかかわらず強奪されてしまいます。そのような中、長崎氏の家臣で里長の田川仁右衛門は長崎甚右衛門が長崎を退去した後、西山郷に移り、三社をひそかに祀り奉仕していました。そうして迫害に耐え再興の日を待ち望んでいたといいます。




住吉神社の創建
諏訪神社の祭神の一つ、住吉神社の創建も諏訪神社同様はっきりしておらず、その昔から尾崎(現 正覚寺付近)にお祀りされたものと伝えられています。当初は小島大王と称し、言い伝えによれば3〜4世紀、神功皇后の朝鮮出兵(三韓征伐)の際、長崎の港で住吉明神に戦勝を祈願したといい、そのときの兵船をつないだところが本石灰町付近で、その祭壇は尾崎に設けられたといわれています。いずれにしても開港直後にキリシタンによって破却されてしまい一切の資料が残っていません。




森崎神社の勧請
諏訪神社の祭神の一つ、森崎神社の創建も諏訪神社同様はっきりしておらず、その昔から森崎(現 長崎県庁付近)にお祀りされたものと伝えられています。当初は杵崎大明神(キネサキ-ダイミョウジン)と称し、これは森崎が天孫降臨伝説の残る金比羅山(瓊杵山)に続く岬として瓊瓊杵尊の霊地ということで杵崎と呼ばれていました。また、一説には熊野権現を勧請したもの、もしくは恵美須神の祠があったともいわれ、開港以前の長崎の町が漁村であったところから恵美須神説の方が有力といわれています。いずれにしても開港直後にキリシタンによって破却されてしまい一切の資料が残っていません。




諏訪神社の勧請
勧請(カンジョウ)とは御神霊などを本社または本山より分け新たな場所でお祀りすることをいい、実際のところ長崎の諏訪神社の創建つまり勧請ははっきりしていません。長崎図志の説によると、弘治年間(1555-1558)長崎甚左衛門の弟である織部亮為秀(オリベノスケ-タメヒデ)が京都(現 下京区下諏訪町)より勧請し風頭山の麓にあたる字山下(現 長照寺付近)に社を建てたと伝えられていますが、このほか薩摩国から勧請した説、信州の諏訪大社より勧請した説、大村の池田から勧請した説、さらに島原や唐津などからの説まであります。いずれも開港直後にキリシタンによって破却されてしまい一切の資料が残っていません。そのため諏訪神社は寛永2年(1625)に再建または再興という表現をとっています。




諏訪神社の社名
諏訪神社は明治維新以前まで「諏方」と表され、諏方大明神社、正一位諏方三所大明神社、諏方三所大明神、三所大明神国社、九祭廟などと記され、一般的には諏方社、諏方の社(ヤシロ)、諏方明神、諏方大明神などと呼ばれていて、幕末の文久3年(1863)には朝廷からの勅書に敵国降伏社とまで称され、当時の不安定な情勢を物語っています。また、長崎在住の中国人からは九祀廟や九祭廟と呼ばれ、現在のように諏訪神社と称されたのは明治維新後のことです。




2004年に諏訪神社を紹介しましたが今回から詳細にご紹介していきます。
下記は2004年の分

A-127:諏訪神社(すわじんじゃ)
上西山町18-15(旧長崎村西山郷玉園山)
諏訪神社には三体の神(諏訪神社、森崎神社、住吉神社)が奉られていて、そのうち諏訪神社は弘治年間(1556頃)長崎甚左衛門の弟の織部亮為英が京都より諏訪の神を受け東山(現在の寺町長照寺付近)にお祀りしたことに始まり、森崎神社はいつの頃か森崎(現在の県庁付近)に、そして住吉神社は小島郷尾崎(現在の正覚寺付近)に奉られていたことに始まります。しかし、キリシタンによる迫害によってその記録は定かではなく、特に慶長14年(1609)頃起った迫害では御神体まで廃棄されたといわれています。そこで修験者の賢清は神道の再興のため長崎入りし、寛永2年(1625)長崎奉行長谷川権六郎の援助のもと諏訪神社を西山郷圓山(現在の松森神社)に再建します。慶安元年(1648)現在の玉園山に移転、この頃は玉園山神宮寺とも称していました。江戸時代も中期になるとオランダ人や唐人なども参詣するようになり大いに賑います。度重なる台風や火災に何度も倒壊や焼失しますが、総町(長崎の全町)からの寄進によって再建を繰り返します。現在では長崎の氏神様として親しまれ、10月に行なわれる大祭(くんち)は日本三大祭と称されるほど有名になりました。




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