広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成22年 〜2010年〜
<歴史散歩移動ツール>
前の月へ移動最新の月へ移動次の月へ移動
前の年へ移動 次の年へ移動



祐徳住吉稲荷神社【住吉神社境内】
祐徳住吉稲荷神社は佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社より勧請したもので、稲荷神社は商売繁盛の神です。

○住吉神社の狛犬と鳥居【住吉神社境内】
住吉神社の狛犬は昭和10年(1935)に奉納され、鳥居は昭和18年(1943)に建立されましたが、昭和20年(1945)の原爆の直撃を受けます。しかし、社殿などは倒壊しますが狛犬と鳥居はその被害を免れその姿を今に伝えています。




D-536:住吉神社(すみよしじんじゃ)
住吉町13-6(旧 西浦上村東北郷/住吉町)
寛永11年(1634)西浦上村字東北の村民によって勧請され、当初は元修験者の所管で住吉大明神と称していました。明治維新による廃仏毀釈で住吉神社と改称され、東北郷(住吉地区)の氏神として親しまれます。明治8年(1875当時、参道の両側には松の木が整然と何本も並び、人家もまばらな山里で鶴も飛来していたといいます。また、本殿裏手の林の中では、以前、九州一円から愛鳥家が集まりメジロの鳴き合わせ会が開催されていました。昭和20年(1945)原爆によって社殿は倒壊し、ご神体も行方不明となります。そのため昭和26年(1951)大坂にある住吉大社より御霊を分霊し勧請します。現在の社殿は平成6年(1994)に再建されたものです。祭神は表筒之男命、中筒之男命、底筒之男命の三柱。




杉本家のレンガ塀
家野町1-7(旧 西浦上村家野郷/家野町)
長崎大学と若葉町電停の中間付近に被爆したレンガ塀が残っています。これは「杉本家のレンガ塀」といわれるもので、解説板には次のように記されています。
碑文より抜粋「高さ1.2m、厚さ約2.5pのレンガ塀。塀の内側に住んでいた杉本巌さんは、原爆が落ちたとき、爆心地から約3.6q離れている梅香崎町の長崎郵便局に勤務中だった。夕方自宅にたどり着くと木造2階の家屋は焼け落ちていた。爆心地から北に約1.5q、120坪あまりを囲んでいたレンガ塀は、被爆後の人探しや被災家屋の確認などの目印にもなったといわれている。




D-535:住吉台町(すみよしだいまち)
住吉台町は江戸時代、浦上北村東北郷に属し大正12年(1923)に長崎市に編入され、昭和24年(1949)住吉町になります。平成に入り赤迫1丁目、泉町、住吉町の一部が住吉台町になりました。新しく開発され開かれた町で住吉地区の上手にあるところから住吉台町と命名されました。




D-534:泉(町)(いずみまち)
泉(町)は江戸時代、浦上北村東北郷に属し、大正12年(1923)に長崎市に編入され、昭和24年(1949)住吉町になります。昭和39年(1964)町界町名変更が行われ住吉町の一部が泉町になります。平成に入り浦上水源地以南が1〜3丁目に分けられています。なお、泉(町)の由来は町域に浦上水源地があるところから泉(町)と命名されました。




D-533:花丘町(はなおかまち)
花丘町は江戸時代、浦上北村東北郷に属し、大正12年(1923)に長崎市に編入され、昭和24年(1949)住吉町になります。昭和39年(1964)町界町名変更が行われ住吉町の一部が花丘町になります。なお、花丘町の由来は当時の町域には人家が少なくほとんどが田畑で、草花が咲き乱れていたところから花丘町と命名されました。




D-532:中園町(なかぞのまち)
中園町は江戸時代、浦上北村東北郷に属し、大正12年(1923)に長崎市に編入され、昭和24年(1949)住吉町になります。昭和39年(1964)町界町名変更が行われ住吉町の一部が中園町になります。なお、中園町の由来は地区の字名が中園といい、地区に建つ市営住宅などが中園住宅と呼ばれていたところから中園町と命名されました。




D-531:住吉(すみよし)
住吉町は江戸時代、浦上北村東北郷に属し大正12年(1923)に長崎市に編入され長崎市東北郷となり、昭和24年(1949)住吉町になります。昭和39年(1964)町界町名変更が行われ住吉町、若葉町、家野町、千歳町、中園町、花丘町、泉町にそれぞれ分けられ、さらに翌年、残りが岩屋町、若竹町、柳谷町、音無町に分割されます。なお、住吉町の由来は町の中心に氏神である住吉神社があるところから命名されました。




D-530:西浦上村役場跡(にしうらかみむらやくば-あと)
住吉町2(旧 西浦上村家野郷/家野町)【住吉中央公園】
西浦上村はそれまであった浦上家野村、浦上木場村、滑石村、浦上北村、浦上西村の5村が合併して明治5年(1872)に誕生しました。明治24年(1891)からはこの地に役場が置かれ西浦上の行政を司っていました。西浦上村滑石郷、岩屋郷、東北郷、西北郷、西郷、家野郷、三国川内郷、川平郷、木場郷からなり、昭和13年(1938)長崎市に編入されます。役場はその後、支所として使用され昭和9年(1934)木造2階建瓦葺の擬洋風建築の建物に建て替えられるも昭和20年(1945)原爆により半壊。昭和44年(1969)鉄筋コンクリート建の西浦上合同庁舎となります。平成3年(1991)解体され公園になりました。




峰山神社(みねやまじんじゃ)
千歳町20(旧 西浦上村家野郷/家野町)
千歳町と家野町に小高い丘があって峰山と称し山頂付近には峰山神社があります。地域信仰の神と考えられます。

阿蘇大明神跡
家野町11付近(旧 西浦上村家野郷/家野町)
江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると、家野郷城ノ越(現 家野町)には同郷の鎮守社:阿蘇大明神が祀られていたとあります。現存はしていませんが家野町の中心にある郷有墓地を阿蘇墓地というところから、阿蘇大明神は墓所周辺にあったものと推測できます。なお、阿蘇墓地には古くから地区の住民の墓所にあてられ、明治期の古い墓所やカトリック関係の墓所もあります。




D-529:城ノ越/城の古址(しろのこし)
家野町(旧 西浦上村家野郷/家野町)
家野町は江戸時代、浦上山里村家野郷に属し大正12年(1923)に長崎市に編入した際、家野町が誕生します。これは14世紀の南北朝時代、小豪族家野氏に由来するとも考えられ、その家野氏が支配する地域を家野(イエノorヨノ)村と呼んでいました。その家野氏の屋敷が現 家野町付近にあったと伝えられ古い地名に城ノ越(城の古址)という名前が残っています。ちょうど長崎大学と住吉の中間付近の高台をいいます。




D-528:長崎市立西浦上中学校
文教町4-10(旧 西浦上村家野郷/家野町)
明治39年(1906)西浦上村村会によって旧岩屋尋常小学校の老朽化と高等科設置のため西浦上村東北郷字宮本の地が購入され、翌40年(1907)新校舎が竣工します。大正元年(1912)西浦上実業補習学校が併設され、昭和20年(1945)原爆の影響で倒壊。昭和22年(1947)新学制により長崎市立西浦上中学校として長崎北青年学校と旧長崎師範学校の校舎を仮校舎として開校。昭和26年(1951)校舎が新設され移転します。昭和28〜29年(1953-54)長崎大学代用付属中学校が一時置かれ、その後、順次施設が整備され今に至ります。




D-527:三菱長崎造船所船型試験場
文教町3-48(旧 西浦上村家野郷/家野町)
明治12年(1879)に完成した立神第一ドックですが船の大型化に伴い明治27年(1894)船台の拡張やドックの延長、あわせて周辺施設の拡充が進められ、各施設のほか発電所や研究施設の建設、そして試験水槽などが整備なされます。大正に入り船型試験場などの整備も進められ昭和13年(1938)飽ノ浦の試験場が手狭になったため平戸小屋に移転。昭和18年(1943)にはさらに大型の施設が昭和町に誕生します。しかし昭和20年(1945)原爆の影響で南側側壁、屋根が倒壊、しかし、水槽などは被害を免れ、その後、改修され三菱重工業葛Z術本部長崎研究所船型試験場として今も研究が進められています。




D-526:純心女子学園(じゅんしんじょしがくえん)
文教町13-15(旧 西浦上村家野郷/家野町)
昭和9年(1934)長崎純心聖母会が設立され(初代会長:江角ヤス)、翌10年(1935)純心女学院が西中町(現 中町付近)に設立され、翌11年(1936)長崎純心高等女学校と改称します。その後、昭和12年(1937)現在地の文教町(旧 家野町)に新築移転し幼稚園も置かれます。しかし、昭和20年(1945)原爆の影響で生徒と職員214名が犠牲となり、一時は旧大村海軍航空廠宿舎で授業が再開され、新学制となり昭和22年(1947)中学校、23年(1948)女子高等学校が誕生し、文教町校舎も再開されます。のち、昭和25年(1950)純心女子短期大学が置かれ、平成6年(1994)長崎純心大学が誕生します。女子のミッションスクールの学校として長崎を代表する教育機関です。




シーボルト記念植物園【長崎大学】
シーボルト(1796:寛政8-1866:慶応2)は、ババリア王国(現ドイツ南部)出身の医師で、後にオランダ海軍軍医となり日本へ派遣されます。当時、オランダは日本貿易が不振だったためシーボルトへは貿易不振の解消と日本文化の調査が命じられます。文政6年(1823)来崎、出島オランダ商館の官医となり外科部屋に入りますが、オランダ通詞との交流が盛んになり出島以外での教育や診療が許され文政7年(1824)鳴瀧塾をを開設、多くの門人を輩出します。また、日本における植物の研究に熱心で1万を超える標本を収集し、多くの植物をオランダ:ライデン大学に届けました。
この植物園にはそのライデン大学植物園で育てられていた「シーボルト植物」を株分けして里帰りしたもので、平成12年(2000)長崎大学-ライデン大学国際学術交流記念として設置されました。




若人像【長崎大学】
山本稚彦(やまもとわかひこ:明治34:1901-平成5:1993)は東京出身で東京美術学校(現 東京芸大)を卒業後、彫刻の道に進み、大正13年(1924)帝展初入選し、昭和33年(1958)には日展で文部大臣賞を受賞します。長崎大学にはその日展受賞作品の「若人像」が置かれています。
※デジタル版 日本人名大辞典+Plusを参照しました。

菊谷元資教授退官記念碑【長崎大学】
菊谷元資教授が昭和59年(1984)に退官されたのを記念して建立されました。菊谷氏は長崎大学薬学部の教授で昭和36年(1961)より昭和59年(1984)まで在職しました。

長崎大学薬学部創立100周年記念碑【長崎大学】
長崎大学薬学部は長崎大学の前身である第五高等中学校医学部に明治23年(1890)に薬学科が置かれたのが始まりで、平成2年(1990)発足100周年を記念してこの記念碑が建立されました。




長崎師範原爆慰霊碑【長崎大学】
この碑は昭和20年(1945)8月9日に原爆の犠牲となった旧制長崎師範学校の生徒及び関係者への慰霊のための碑です。昭和60年(1985)長崎師範学校同窓生によって建立されました。

原爆慰霊碑【長崎大学】
碑文「世紀の嵐に 焦がれた土地にも 草は萌え出で 兄らが慈願の 平和もよみがえった あの日 遠く遥か逝った友 五十有余の御霊の ここにかえりて 永劫に やすらがんことを 祈念する」
この碑は昭和34年(1959)原爆犠牲者の井手口清ほか63名によって建立されました。




D-525:長崎大学(ながさきだいがく)
文教町1-14(旧 西浦上村家野郷/家野町)
長崎大学は昭和24年(1949)国立学校設置法により、それまであった長崎医科大学、長崎医科大学付属薬学専門部、長崎経済専門学校長崎師範学校、長崎青年師範学校、長崎高等学校を統廃合し、学芸学部、経済学部、医学部、薬学部、水産学部の5つの学部からなる大学となります。あわせて図書館や風土病研究所、幼稚園から中学校までの教育施設、病院や看護養成施設などを設置し新制長崎大学となります。なお、施設はそれまであった各学校の建物を利用し、文教キャンパスは昭和28年(1953)より置かれ、以降、工学部や教育学部などが加えられます。現在、法律改正により平成16年(2004)より国立大学法人長崎大学となりました。




D-524:三菱長崎兵器製作所大橋工場跡
文教町1-14(旧 西浦上村家野郷/家野町)【長崎大学】
三菱合資会社は、日本初となる民間魚雷製作所を茂里町に新設し大正6年(1917)三菱長崎兵器製作所を誕生させます。そして翌7年(1918)第1号魚雷発射実験を長與村堂崎(現 長与町)の発射場で行い、以降、茂里町の工場では量産に入ります。昭和14年(1939)第2次大戦時にはさらなる拡張が進められ、幸町や大橋町に新工場を建て最盛期には18,000人もの工員が働きます。昭和20年(1945)8月9日。原爆によって全工場は破壊状態となり工場機能は失われ、職員、工員ほか動員学徒など約2300名の死者を出します。昭和21年(1946)工場は平和産業に衣替えし長崎精機製作所となり戦後復興へ走り出すのです。




原子爆弾殉難者之碑【大橋公園】
この碑は昭和20年(1945)8月9日に原爆の犠牲となった大橋町町民への慰霊のための碑です。

ライオンズクラブの碑【大橋公園】
碑文「明るく住みよい街づくり/青少年に希望を老人に愛を/みんなで築こう平和な社会」
この碑は長崎平和ライオンズクラブが認証伝達を受けたことを記念して昭和62年(1987)に建立されました。




D-523:近代彫刻「風の中で」【大橋公園】
作者の西野康造氏(昭和26:1951−)は兵庫県出身で、昭和52年(1977)京都市立芸術大学彫刻専攻科を終了後、世界各地の遺跡を視察し、昭和56年(1981)京都美術展で作品を発表します。その後、関西を中心として活躍し、平成元年(1989)には第13回現代日本彫刻展にて東京国立近代美術館賞を受賞し、その後も各地の受賞歴を持ちます。この作品は平成5年(1993)長崎市の彫刻のあるまちづくり事業により大橋公園に設置されたもので、題は「風の中で」といいます。




D-522:浦上街道(うらかみかいどう)
江戸時代、長崎から市外へ出るには6ヶ所のコースがあって、@東泊口(戸町-深堀-野母へ)A茂木口(小島街道)B馬籠口(浦上街道)C西山口(西山-川平-本川内-伊木力-大村へ)D日見嶺口(長崎街道)E頴林口(伊良林-飯香浦-小浜へ)のうち、時津に至るコースを馬籠口(浦上街道)または時津街道と呼んでいました。この街道は西坂を基点に浦上から時津と進むコースで、海路、東彼杵に渡り長崎街道へ合流していました。もともとこちらのコースの方が古く、慶長元年に二十六聖人が長崎に連れてこられた際も浦上街道が利用しています。明治20年(1887)ごろ浦上川の埋立が進むと海岸沿いの道が造られ、昭和40年代、滑石など北部地区の開発により長崎-時津間の道路整備が進めらます。
西坂〜坂本〜平野〜本大橋と続き岩屋橋を進みます。その後、住吉から道の尾へ続きます。




D-521:昭和町(しょうわまち)
昭和町は江戸時代、浦上山里村家野郷に属し大正12年(1923)に長崎市に編入した際、家野町が誕生します。昭和24年(1949)町界町名変更で昭和町となり、さらに昭和39年(1964)町界町名変更によって昭和町のほか、若葉町、文教町、家野町、千歳町、花丘町、大手町に分割されます。町名の由来は、昭和に拓かれた町ということで昭和町になったと考えられます。




D-520:千歳町(ちとせまち)
昭和39年(1964)町界町名変更によってそれまで住吉町、家野町、昭和町の各一部が合併して千歳町となり今に至ります。町名の由来は、地域に字名など適当なものがなかったため、町の発展を願い縁起の良い「千歳」の名称を採用しました。




D-519:若葉町(わかばまち)
昭和39年(1964)町界町名変更によってそれまで大橋町、西町、住吉町、西北町、家野町の各一部が合併して若葉町となり今に至ります。町名の由来は、町域に以前からあった自治会が「若葉」の名称を使っており親しまれていたことからこの名称が採用されました。




D-518:文教町(ぶんきょうまち)
昭和39年(1964)町界町名変更によってそれまで大橋町、昭和町、家野町の各一部が文教町となり今に至ります。町名の由来は、町域に長崎大学や西浦上中学校、長崎大学付属小学校、純心学園など教育施設が多く立ち並び、東京では東京大学など教育施設が多くある地域が文京区ということもあり、文字を代え文教町となりました。




大橋町(おおはしまち)
大橋町は江戸時代、浦上山里村家野郷に属し大正12年(1923)に長崎市に編入した際、大橋町が誕生します。地名の由来は町域にある浦上街道の橋:大橋にちなむもので、昭和39年(1964)町界町名変更で大橋町のほか、三芳町、江里町、清水町、油木町、城山町、文教町になります。




家野町(いえのまち)
家野町は江戸時代、浦上山里村家野郷に属し大正12年(1923)に長崎市に編入した際、家野町が誕生します。これは14世紀の南北朝時代、小豪族家野氏に由来するとも考えられ、その家野氏が支配する地域を家野(イエノorヨノ)村と呼んでいました。その家野氏の屋敷が現 家野町付近にあったと伝えられ古い地名に城ノ越(城の古址)という名前が残っています。昭和39年(1964)町界町名変更で家野町家野町のほか千歳町、若葉町、大橋町、文教町、昭和町になります。




西浦上村(にしうらかみむら)
江戸時代、浦上の北部(西浦上村)は大村藩に属し、明治に入り西彼杵郡西浦上村となります。西浦上村は滑石郷、岩屋郷、東北郷、西北郷、西郷、家野郷、三国川内郷、川平郷、木場郷からなり、昭和13年(1938)長崎市に編入され、その後、郷が廃止され各町名が付けられます。

○浦上山里村(うらかみやまざとむら)
浦上山里村は馬籠郷、里郷、中野郷、本原郷、寺野郷からなり、明治31年(1898)先に馬籠郷と里郷が、大正9年(1920)残りの郷が長崎市に編入され、その後、郷が廃止され各町名が付けられます。

○浦上淵村(うらかみふちむら)
浦上淵村は竹ノ窪郷、稲佐郷、平戸小屋郷、水ノ浦郷、飽ノ浦郷、岩瀬道郷、立神郷、西泊郷からなり、明治31年(1898)長崎市に編入され、その後、郷が廃止され各町名が付けられます。




浦上(うらかみ)
長崎開港当時、長崎の入江は長く奥まで入り込んでいるところから深江浦といい、その浦の上手を浦上と呼んでいました。これは14世紀の南北朝時代、小豪族浦上氏に由来するとも考えられ、その浦上氏が支配する地域を浦上村と呼んでいました。16世紀に入り勢力図がたびたび書き換えられ、慶長10年(1605)長崎村(外町ほか)の大村領浦上村の公領部分(浦上東村・南村)が交換され、のちに浦上東村は浦上山里村に、浦上南村は浦上淵村となり、この名称は明治まで続きます。




<歴史散歩移動ツール>
前の月へ移動最新の月へ移動次の月へ移動
前の年へ移動 次の年へ移動

管理者専用



- Cute Diary Ver2.06 - by Ultinet.Inc SPECIAL THANKS : Daughter 16