広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成22年 〜2010年〜
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D-559:西北町(にしきたまち)
江戸時代、浦上の北部は大村藩に属する西浦上村があり、明治5年(1872)西彼杵郡西浦上村となり、滑石郷、岩屋郷、東北郷、西北郷、西郷、家野郷、三国川内郷、川平郷、木場郷の9郷からなっていました。そのうち西北郷は村の北西部に位置し、昭和13年(1938)長崎市西北郷となり、昭和24年(1949)郷名が廃され西北町になります。昭和39年(1964)一部が赤迫町と中園町、若竹町となり、翌40年、残り部分が西北町、錦町、音無町、若竹町、柳谷町、岩屋町に分割され今に至ります。




D-558:JR西浦上駅(JRにしうらかみえき)
音無町16地先(旧西浦上村西郷/西町)
JR西浦上駅は西浦上地区の発展に伴い長崎本線長与周りに昭和62年(1987)に作られました。駅は無人駅で、長崎駅まで約7分、電車やバスの半分の所要時間で行くことができます。




D-557:長崎南山第二学園(ながさきなんざん-だいにがくえん)
音無町9-34(旧西浦上村西郷/西町)
長崎南山第二学園はキリスト教の一派であるカトリックの神言修道会によって設立されたもので、昭和32年(1957)神父のH・J・ウイゼンが本部より派遣され、昭和34年(1959)長崎南山小学校、翌年には長崎南山幼稚園が開園します。学園内には同じ神言修道会のカトリック西町教会が置かれています。なお、長崎南山第二学園は平野町にある長崎南山学園の姉妹校です。




○照圓寺の門柱
照圓寺の門柱は大正12年(1923)信徒の山口末八・ミツ夫妻によって寄進されたもので、昭和20年(1945)の原爆投下の際、爆心地から約1.4キロメートルの距離の照圓寺はすべて倒壊焼失しますが、この門柱だけはそのままの姿で残ります。




○長崎工業高校原爆殉難者合葬塔【照円寺境内】
この塔は昭和20年(1945)8月9日に原爆の犠牲となった長崎工業高校の職員及び生徒227名への合葬塔で、当初は昭和27年(1952)に校舎のあった場所(現南山高校)に建立されていて、校庭の東北隅に赤レンガ造りの建物に木製リンゴ箱3個分の遺骨が納められていました。昭和60年(1985)被爆40周年を期に旧校舎を眺める照円寺に移設されました。




○原爆殉難者供養塔【照円寺境内】
この碑は昭和20年(1945)8月9日に原爆の犠牲となった浦上地区戦災者約9万人への慰霊の碑で、昭和45年(1970)に親鸞聖人700遠忌を記念して建立されました。
なお、照円寺は昭和20年(1945)4月から日本海軍樋口隊が駐屯地として使用した場所で、原爆で4名の犠牲者を出し、この碑の建立を期に埋葬し直し塔の建立となりました。




D-556:浄土真宗無音山照円寺(むおんざん-しょうえんじ)
清水町5-75(旧西浦上村西郷/西町)
肥前国波佐見村西円寺の僧:武宮清安は浄土真宗の教化のため正保3年(1646)に浦上村に入り布教活動を始めます。正保年間(〜1648)に道場を建て寺院を創建し、第2代住持:讃益(西安の子)によって本山より本尊と寺号の許しを得、照円寺を号するようになります。ここは浦上地区にキリスト教徒が多数潜伏していたことや、日蓮宗との確執などで信徒が激減した歴史を持ちます。弘化4年(1847)に本堂が再建されていますが昭和20年(1945)の原爆の影響で焼失。のちに再建されます。




D-555:西町の湧水
西町19(旧西浦上村西郷/西町)
長崎市制施行120周年記念事業「わがまちの自慢120選ガイドブック」によると、西町には岩屋山より湧き出る湧水があって、8月9日の平和記念式典での献水として利用されているそうです。今回、その120選では全部で221か所の場所や事業、人などが選ばれ、西町の湧水は208番目に登録されています。




D-554:七高学生追悼碑(しちこうがくせいついとうひ)
白鳥町8(旧西浦上村西郷/西町)【白鳥公園内】
旧制第七高等学校造士館は鹿児島市にあって、第二次大戦の昭和20年(1945)4月に同高理科甲類2年生の一部の生徒が長崎の三菱兵器工場に動員され作業にあたっていました。当時、この白鳥公園の地には兵器工場の西郷寮があって生活をしていましたが、8月9日の原爆によって生徒のうち14名が犠牲となりました。この追悼碑は同高の同窓生らが犠牲となった生徒や先生を追悼するために昭和50年(1975)に建立しました。
碑文「君な忘れそ楠蔭の南の国のおきふしを(七高寮歌「情別」より)」




○平和祈念像【長崎拘置支所】
慰霊碑には昭和30年(1955)に完成した平和祈念像の原形が贈られ、原爆にゆかりのある長崎拘置支所に平和記念と追悼の三つの碑が完成します。これは法務省矯正局に贈られていた北村西望作の平和祈念像の原形を渡部善彦局長の好意によって長崎刑務所に贈られたもので昭和34年(1959)に建立されました。




○慰霊塔【長崎拘置支所】
慰霊塔には浦上刑務支所の職員家族の原爆犠牲者134柱と造船護国隊犠牲者22柱の御霊がお祀りされ、上部に府中刑務所で制作された鳩の像と銘板、歌碑は多良岳の自然石に当時の刑務協会長の牧野英一の追悼の歌が刻されています。昭和28年(1953)建立。
歌碑「人たちの いたまりかりし あとにして ことしも あかき はなの夏草」




○長崎刑務所原爆殉難者慰霊碑【長崎拘置支所】
昭和20年(1945)当時、現在の平和公園には長崎刑務所浦上刑務支所が置かれ、原爆によって職員18名、その家族35名、収容者81名全員が爆死します。このほか収容者のうち市内工場へ出業したもの21名と職員1名も犠牲となりました。この慰霊碑は長崎刑務所職員ほか九州管内矯正保護職員財団法人刑務協会、地元有志により昭和27年(1952)建立されました。




D-553:長崎刑務所長崎拘置支所(-ながさきこうちししょ)
白鳥町8-2(旧西浦上村西郷/西町)
桜町(現 水道局)にあった桜町監獄は、明治15年(1882)片淵に移転し名称を長崎監獄と改称します。明治41年(1908)諫早市に新設の監獄が作られたためここを長崎監獄片淵分署と変更、さらに長崎刑務所片淵分署に改称されます。しかし片淵付近の市街化が進み、昭和3年(1928)浦上の岡町(現 平和公園)に移転するのですが、昭和20年(1945)の原爆投下の際、直撃を受け閉鎖。日本人のほか中国人、韓国人を含む受刑者や職員など134人が犠牲となりました。その後、諫早の長崎刑務所を使用していましたが、昭和24年(1949)浦上町西郷字塚原にあった三菱精機寮跡に庁舎を建て再開します。




○平和観音菩薩【明錬寺境内】
碑文「此の観音様は原爆犠牲者の佛告による世界万民の恒久平和を願はれる姿である」昭和52年(1977)建立。国広秀峯作

○原爆殉難供養塔【明錬寺境内】
原爆の犠牲となった明錬寺関係者3名と多くの原爆犠牲者のために昭和52年(1977)の三十三回忌に建立されました。

○頌徳碑【明錬寺境内】
頌徳碑は明錬寺の創建からの経緯や開山:瀬井友孝、二代:村田孝澄をたたえたもので昭和60年(1985)に建立されました。




D-552:日蓮宗観音山明錬寺(-かんのんざん-みょうれんじ)
江里町17-28(旧西浦上村西郷/西町)
昭和元年(1926)に瀬井友孝によって妙法教会が設立され西浦上地区の日蓮宗の道場として始まります。昭和16年(1941)立正教会と改称。昭和20年(1945)原爆によって焼失し、すぐに再建がすすめられ昭和22年(1947)久遠教会とし再出発します。昭和50年(1975)観音山明錬寺になり、昭和56年(1981)本堂、位牌堂などが作られ境内が整備されます。




D-551:錦(町)(にしきまち)
江戸時代は西浦上村西郷に属し、昭和13年(1938)長崎市西郷となり、昭和24年(1949)郷名が廃され長崎市西町になります。昭和40年(1965)町界町名変更によって西町と西北町の一部が錦町になりました。町名の由来は町域の大半が西町であり、「西」に「き」をつけると「」となり縁起がいいところから錦(町)となりました。平成に入り平地部から山手に向かって1〜3丁目に分けられています。




D-550:音無町(おとなしまち)
江戸時代は西浦上村西郷と西北郷に属し、昭和13年(1938)長崎市西郷と西北郷となり、昭和24年(1949)郷名が廃され長崎市西町、西北町、住吉町になります。昭和40年(1965)町界町名変更によって西町、西北町、住吉町の一部が清水町になりました。町名の由来は地域の字名に音無という地区があり、また、地区にあった市営住宅に「音無」を使用されていたところから清水町となりました。




D-549:清水町(しみずまち)
江戸時代は西浦上村西郷に属し、昭和13年(1938)長崎市西郷となり、昭和24年(1949)郷名が廃され長崎市西町と大橋町になります。昭和40年(1965)町界町名変更によって西町と大橋町の一部が清水町になりました。町名の由来は地域の字名に清水という地区があり、また、地区にあった市営住宅に「清水」を使用されていたところから清水町となりました。




D-548:白鳥町(しらとりまち)
江戸時代は西浦上村西郷に属し、昭和13年(1938)長崎市西郷となり、昭和24年(1949)郷名が廃され長崎市西町になります。昭和40年(1965)町界町名変更によって西町の一部が白鳥町になりました。町名の由来は地域の字名に白木という地区があり白木町とする予定でしたが、長崎市内に他に白木町が使用されていたため、白木に鳥がとまる様子などから「木」を「鳥」に変え白鳥町と変更されたようです。三芳町と同様、当初の字名から離れた意味の不思議な町名です。




D-547:緑が丘町(みどりがおかまち)
江戸時代は西浦上村西郷に属し、昭和13年(1938)長崎市西郷となり、昭和24年(1949)郷名が廃され長崎市西町になります。昭和40年(1965)町界町名変更によって西町の一部が緑が丘町になりました。町名の由来は地区に長崎市立緑が丘中学校があったところから命名されたもので、緑が丘中学校は山に囲まれた緑の多い丘の上に建てられたところから付けられたと考えられます。




D-546:三芳町(みよしまち)
江戸時代は西浦上村西郷に属し、昭和13年(1938)長崎市西郷となり、昭和24年(1949)郷名が廃され長崎市西町と大橋町になります。昭和40年(1965)町界町名変更によって西町と大橋町の一部が三芳町になりました。町名の由来は地域の字名に西善寺(サイゼンジ)という地区があり、西善寺(サイゼンジ)を三善(サンゼン)ともじり、さらに三善(サンゼン)を三好(ミヨシ)と読ませ、最後は三芳(ミヨシ)とし、全く原形が伴わない不思議な町名です。




D-545:江里町(えりまち)
江戸時代は西浦上村西郷に属し、昭和13年(1938)長崎市西郷となり、昭和24年(1949)郷名が廃され長崎市西町、油木町、大橋町になります。昭和40年(1965)町界町名変更によって西町、油木町、大橋町の一部が江里町になりました。町名の由来は地域の字名からで、おそらく浦上川沿いの集落という意味からと思われます。




D-544:油木町(あぶらぎまち)
江戸時代は西浦上村西郷に属し、昭和13年(1938)長崎市西郷となり、昭和24年(1949)郷名が廃され長崎市油木町と西町になります。昭和40年(1965)町界町名変更によって油木町の一部が江里町に、翌41年(1966)旧油木町と大橋町、西町のそれぞれ一部が合併し現在の町域となります。町名の由来は地区の中央に位置する谷を油木谷といい、その昔、油の原材料となる油の木、つまりロウソクの原料となるハゼの木がたくさん植えられていたところからこう呼ばれたといいます。




D-543:西町(にしまち)
江戸時代、浦上の北部は大村藩に属する西浦上村があり、明治5年(1872)西彼杵郡西浦上村となり、滑石郷、岩屋郷、東北郷、西北郷、西郷、家野郷、三国川内郷、川平郷、木場郷の9郷からなっていました。そのうち西郷は村の西部に位置し、昭和13年(1938)長崎市西郷となり、昭和24年(1949)郷名が廃され長崎市油木町と西町になります。昭和39年(1964)一部が大橋町と若葉町となり、翌40年、残り部分が三芳町、江里町、緑が丘町、白鳥町、音無町、錦町、さらに41年に油木町に分割され今に至ります。




D-542:西郷天満宮(にしごうてんまんぐう)
江里町3(旧 西浦上村西郷)
西郷天満宮は旧西浦上村西郷(にしごう)の鎮守神で創建は不明。祭神は菅原道真公です。西浦上村には5つの神社があって五村社といい、西郷天満宮はそのひとつに数えられています。明治2年(1869)に正式に村社となり神社格を得ます。昭和20年(1945)原爆によって焼失し、その後、復興されました。




D-541:長崎本線(ながさきほんせん)
明治25年(1892)九州鉄道会社は長崎-佐世保間の鉄道敷設を始めますが不況の影響で頓挫。明治28年(1895)再度、着工し、明治30年(1897)長崎(現 浦上)-長与間、翌31年(1898)早岐-大村-長与間を開通させます(当初は大村長与間は船舶)。明治38年(1905)浦上-長崎間が開通し、明治42年(1909)長崎本線の名称となります。昭和47年(1972)喜々津-浦上間の浦上新線の開通まで、浦上-道の尾-長与-本川内-大草-喜々津の路線は東京大阪への重要な路線であり、今でも道の尾駅などは当時使用していたプラットホームが残り当時の面影をしのばせます。




六地蔵(ろくじぞう)
六地蔵とは町や村の入口に立てる地蔵尊をいい、六とは六道、すなわち、地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人道、天道のことをいい、それぞれを六体の地蔵菩薩が守るという意味です。また、地蔵菩薩はお釈迦さまが亡くなった後(入滅後)の56億7000万年後に弥勒菩薩が現れるまでの間、六道を救済する菩薩で、「大を生み諸宝をする」意味を持つ菩薩です。また、地獄の入口で死んだ子供を救ったことから子供を守る仏さまといい、さらには延命のご利益もあり人々にたいへん身近な仏さまです。




D-540:赤迫六地蔵(あかさこ-ろくじぞう)
赤迫2-5-5(旧 西浦上村)【アーバンパレス赤迫エスプリオ横】
赤迫にある六地蔵は天正2年(1574)に滑石平宗寺や岩屋山神通寺がキリシタンによって破却された際に石仏群も破壊されたという記録があって、六地蔵はそれ以前に建立されたものと伝えられています。その後、寛永21年(1644)地元民によって再興されました。石仏は寛永21年(1644)の地蔵尊、寛文6年(1666)の阿弥陀/釈迦/観音の三仏、延宝8年(1680)の法界塔などがあります。




D-539:長崎電軌軌道赤迫電停(ながさきでんききどう-あかさこでんてい)
中園町21地先(旧 西浦上村東北郷/住吉町)
大正4年(1915)長崎電気軌道株式会社によって路面電車の病院下-築町間が結ばれ、その後、徐々に拡大されます。長崎の北部地区は開業時、築町から病院下(坂本町付近)まで開通し、大正9年(1920)下の川(浜口町付近)、昭和2年(1927)大橋まで進みます。第二次大戦後、北部地区の開発に伴い、昭和25年(1950)住吉まで、そして昭和35年(1960)現在の赤迫まで開通するのです。




D-538:長崎外国語学校跡(ながさきがいこくごだいがく-あと)
泉2-3(旧 西浦上村東北郷/住吉町)【アクアヴェール泉町】
昭和22年(1947)長崎外国語学校が長崎県知事の認可を受け馬町の仮校舎で開設。翌23年(1948)本大工町に校舎を設け移転します。翌24年(1949)には長崎外国語短期大学の認可が下り、以降、米英語科ほか様々な専門課程の認可を受け、長崎を代表する外国語専門学校として成長します。昭和34年(1959)住吉町(現 泉2丁目)に移転。平成8年(1996)現在の横尾3丁目(一部時津町)に移転し施設の充実が図られ、平成13年(2001)には長崎外国語大学を開学させます。その後も国際交流センターの設置などと国際化に合わせた人材育成に貢献しています。




D-537:三菱兵器住吉トンネル工場跡
住吉町8(旧 西浦上村東北郷/住吉町)
第二次大戦時、三菱兵器長崎製作所は戦況悪化に伴い工場を疎開させるために住吉町の北側山腹にトンネルを掘り大橋工場の一部を移転させる計画でした。トンネルは計6本掘られ、掘削を進めながら順次、機械を疎開させる方法を取っていましたが完成を見ずに終戦となり、その後、放置されます。この工場の掘削には約800〜1000人の朝鮮人を従事させ、工場生産には三菱の工員と学生など約1800人が魚雷制作にあたっていました。昭和20年(1945)原爆投下後、大橋工場や付近住民など多くの避難場所になります。平成22年(2010)トンネルは道路拡張などにより4つが入口封鎖となり、2つが見学できるようになりました。




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